本書のいう「普通の人びと」は、ナチにおける非エリートを指す。およそ500人からなる「第101警察予備大隊」には、選び抜かれ、人種主義の世界観をたたき込まれたエリート(親衛隊員)もごく僅かながら含まれていた。だが、隊員のほとんどはハンブルクからかき集められた中年の労働者たちだった。その彼らが、ポーランドの地で、約3万8千人の射殺、4万5千人超の強制移送に手を染め、ユダヤ人問題の「最終的解決」(絶滅)の一翼を担った。
210人の元隊員に対する尋問調書をもとに、そうした任務の遂行が隊員の大半にとってルーティンと化していく経緯を丹念に描いたのが本書である。
この同じ尋問調書に拠りながら、殺戮の動機づけをもっぱら反ユダヤ主義の世界観への同一化によって説明した、D・J・ゴールドハーゲンの『普通のドイツ人とホロコースト』が後に出版され、論争をひきおこした。
この論争を受けて書かれた本書所収の「25年の後で」にも見られる著者の一貫した主張は、ドイツ人は反ユダヤ主義のイデオロギーに一様に染まったわけではなく、ホロコーストを単一の原因に帰すことはできない、というものである。著者によれば、殺戮に対する「道徳的免責」を隊員に与えたのは、ナチのイデオロギー以上に、仲間集団がその内部に及ぼした同調圧力だった。
仲間に劣後することなく集団の行動に順応することが「道徳的な抜け穴」として作用するという本書の指摘は取り立てて目新しいものではない。にもかかわらず、本書がよく読まれるようになったのは、外部にとっては道徳的不正となりうる行動(たとえばデータの改ざん)が集団倫理によって正当化される事態が後を絶たず、そうした行動をとる圧力に日々さらされる経験(たとえば忖度)をけっして他人事とは思えないからだろう。
集団内部でその倫理に抗する視点をとるためには、別様の「仲間」が必要なのかもしれない。
学校のいじめ問題も、これと同じようなものだし、職場でのいじめも、これと同じだろう。
別様の「仲間」など簡単には見つからないし、そういう「人」や「グループ」には、なかなか出会えない。
戦争で外地で戦った人は、これと同じような出来事に日々、遭遇し続けたであろう。他の人がするように、相手を殺さなければ、自分の生きるすべがないという現状に。
戦争が終わり、内地に帰り、平和な時代になった時、自分が外地でおこなった非人間的行為も、上官の命令だったから・・・そうせざるをえなかった・・・しなければ自分が殺された・・・こういう論理で自分を正当化しなかったら、その後の人生を生きていけなかっただろう。
戦争中の多くの出来事は「封印」して・・・もちろん、我が子や配偶者にも決して話すことはなかった。自分一人の秘密として墓場まで持って行ったのだ。
同調したくないと思ったら、そういう学校を退学、職場なら退職すればいいが、親や、妻子や、自分の行く末を考えたら、そういう選択もできない。
このことは人生の晩年になっても、地域で直面する問題だ。
学校から、職場へと、定年後は自分の住む地域内で、結局、死ぬまで、同調圧力や忖度と無縁ではいられない。
雰囲気とか・・・空気とか・・・結局一人一人が絶えず立ち止まって考え続けるしかないが、流れという状況に背を向けるには、体力、知力、経験(場数)も踏む必要がある。