四畳半の個室に住みて終るべし客室となしまた寝室となし
血族のきづなを断ちてライ園に三十余年なにをたのしみて来し
出張を装ひ夫をあざむきてライ園にわれを訪ひ来し妹
治療続くれど結局癒えず脱肉のしるき手掌を妻と見せ合ふ
診断を待ち居る人ら皆暗き宿命ならむ吾もその一人
曲りたる指におさへつつ植ゑてゆく小さく萠へし黄のダリヤを
赤土に菊の芽挿しをせし夜は手に染みて菊の匂ひ残れり
瀬戸ものの割るる音せり手の麻痺をしきりに嘆きゐし妻かも知れず
医師看護婦増員せよと大会のデモは進みぬ梅雨空の下
苦しみも哀しみも吾が避けどころ昼うす暗き教会に坐す
2030年 農業の旅→

意識しつつ問ひかくる妻に黙し居り諍ひは何時もこの線より起る
子なき吾が子の如く愛で来し飼犬を捨てろと強く迫り来る声
肩にすがる盲ひにもさぐらせ接吻する雨の空さす紫陽花匂ふ
弱まりゆく視力惜しみつつ聖書読む吾は吾なりに神を求めて
患者らを慰さむる言葉も吐かずして芸のみをして慰問団さっさと帰る
やはらかき光をうけつつうで卵一つ妻と分ち食むイースターの朝
ライを病む者の悲哀におぼれつつ飛石連休をいたづらに眠る
薬切れし夜は哀しけれ痛み来て問ひかくる妻にも多く語らず
いたらざる己責めつつ妻の眼をうかがふ哀し誤解され来て
ライの面をふかくつつみて人の眼を避けつつ居りぬ夜汽車の隅に
2030年 農業の旅→

血を喀きしおののきもいまはうすらぎて窓にほのぼの白みくる朝
施食者の位置のみ人夫等羨みし言ふ癩者の醜さに触るることなく
講和条約の是非を論じあひしが結局は低俗な施食者の卑屈さに居り
たまさかに古着一枚購ひてはなやぐ妻よ咎むるなかれ
夢一つ一つ潰えゆき癩園に血を喀きよろばふ命支ふる
死は所詮孤独なるべし胸に鳴るさぶしき音も孤り聞くなり
お世話する術も身につけ癩園にはや二十年余の歳月も過ぐ
生島明さんの略歴
大正12年生まれ。昭和9年松丘保養園入園。「白樺短歌会」所属。昭和37年没。享年38。『白樺』第一集(昭和32年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)。
2030年 農業の旅→

傷心を癒やす術なく夜の床に自嘲の言葉いくつかはけり
施療患者吾に飼われて生くる故仔犬は常に暗き眼を持つ
君の歌は暗いといふ評にこだはりつつ明るい歌詠めば嘘めく
愛されぬ患者の一人と評されつつ熱出でし夜はふてぶてと臥す
結局は体力に左右さるる会議にて何時しか暗き雰囲気に堕つ
理解とは一体どんなことなのかつまりは誰も私を知らない
視野狭き思想が醸せる愛憎のいつ果てるなき雑居の日日よ
癒えがたき病ひなりしよ喀きし血を凝視つつ術なく嗤ひて見たり
2030年 農業の旅→

座布団の汚点を蝿と見まちがひて打ちたる妻の視力哀しき
四肢断ちても視力は死ぬるまで欲しと思ふ願ひもむなしく眼疾つのる
就職して間もなき吾の特徴をあらはに書きし児等の落書
無菌者は退所さすとふ風評に特技持たねば怯ゆる吾ら
思ひ出に残し置きたる徴用手帳特別傷病恩給の証明とはなる
身障度少なきわれが眼の見えぬ妻にいく年看とられて来ぬ
十余年ぶりに視力の出で来し妻が太き文字のみ拾い読みする
死してなほ差別をされて焼かれたる火葬場跡に慰霊碑は建つ
心臓の発作を友とし生きゆけと主治医は机のカルテに向ふ
思ひきり放尿の出来る日を侍み尿意もよほす傷みに耐ふる
視力弱き妻がかき置きしことづての一部は紙を外れてありき
癩まざれば戦に散りけむうつしみのわれは病みつぎて生かされてきし
矢島忠さんの略歴
大正13年秋田県鳥海山麓の寒村に生まれる。高等科卒業後農業に従事。昭和17年東京の石川島造船所に徴用。18年発病徴用解除、松丘保養園に入園。26年「白樺」短歌会、30年「形成」入会。32年から36年まで二葉分校補助教師をつとめる。平成13年1月没。享年77。『陸の中の島』(1956年)『白樺』第一集(昭和32年)『白樺』第二集(昭和38年)『白樺』第三集(昭和47年)『白樺」』第四集(昭和58年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『鳥海』(平成2年)
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