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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

言葉のちょっとした言い換え


枯れ葉剤と言わず除草剤と言えば、何か聞こえがいい。

ベトナム戦争では枯れ葉剤(除草剤)が大量にばらまかれた。

その枯れ葉剤(除草剤)のラウンドアップの主成分であるグリホサートの「発がん性」が、米国では大きな問題となり、世界各国では規制が始まったのに、日本では逆に、作物に含まれる含有量の規制が緩和されたらしい。


発ガン残留農薬入り食品をそれでも食べますか?
(9分のユーチューブの動画が参考になります)


世界の潮流とは逆であり、日本はこういうことを平気でする。



ミツバチの失跡や大量死の原因として指摘される「ネオニコチノイド系農薬」に関しても、欧米では規制が始まっているのに、この国(日本)では野放しである。



家畜福祉に関しても、「アニマルウェルフェア」と言うらしいが、こんな英語を使うのは、家畜福祉をごまかして、それを取り入れたくないあかしである。



農薬に関しても、いまだに青色申告書では「農薬・衛生費」という言葉が使われている。

つまり、農薬は衛生という概念である。

言葉ひとつでイメージががらりと変わったり、意味が薄められたりする。



とにかく、ラウンドアップの主成分のグリホサートという発ガン性物質は、世界では規制に動いているのに、日本が逆の方向(緩和)に進んでいるという現実は、この国(日本)らしい。


この国が世界から取り残されるはずだ。



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今日のクイーン

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澤藤統一郎の憲法日記

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長島愛生園  加賀田一さん(46)


「ローマ会議」の国際決議と日本


「いつの日にか帰らん」P16~P20抜粋


 2001年の「らい予防法」違憲判決では、「らい予防法」の誤りは1960(昭和35)年には明確になっていたと認定しましたが、強制隔離が間違いであることは1956(昭和31)年のローマ会議がはっきりと宣言していました。ローマ会議というのは、正式には「らい患者の救済ならびに社会復帰に関する国際会議」と言います。51ヵ国から250名の専門家代表がローマに集まり、18日間の討議の後、「ハンセン病は伝染性の低い疾病であり、かつ治療し得るものであることを考慮」して、強制隔離ほかすべての差別法を廃止すること、入院治療は特殊に必要とされる場合とし、通院加療を原則とすること━━などを決議しています。

 私がここで強調したいのは、この会議に日本の代表として国立療養所長の林芳信(多摩全生園)、野島泰治(大島青松園)と藤楓協会理事の浜野規矩雄(後に理事長)の三先生が参加していることです。藤楓協会というのは前身を癩予防協会といい、ハンセン病患者の救済を目的として設立された組織で理事には厚生省の元官僚が就任しています(「藤楓」の名は救癩事業に恩賜を下された皇族に由来します)。

 この三先生はハンセン病研究治療の日本における権威というだけでなく、医療行政にも大きな力を持っている専門家です。その先生方が外で国際会議に加わり、国内においても三人三様ですが強制隔離に批判的でありながら、しかもなお「らい予防法」が存続し続けたのは、どうしてなのでしょうか。

 専門医師の集まりである「らい学会」、療養所の園長会は、組織としてローマ決議の内容を国民に知らせ啓発しようとはしませんでした。たいへん良心的な三先生の批判と実践も個人的行為でしかなかったのです。個人の裁量において「らい予防法」ならびに隔離政策を「空洞化」「形骸化」する方向で「弾力運用」していったということです。入所者の私がローマ会議を知ったのはローマ会議の三年後でした。

 1958(昭和33)年の国際らい学会議は日本が隔離政策を改めるよう促すために東京で開催されました。1960年にはWHO(世界保健機関)が日本に隔離政策を改めるよう勧告しています。国際的な批判に対して政府は「軽快退所基準」を作成しますが、それは「軽快」者として退所を認めるにあたっての統一基準であって、ハンセン病に対する強制隔離原則を改めたわけではありません。

 これでは「軽快退所」者も偏見、差別、排除から自由になることはできず、社会復帰もいわゆる「もぐり」となってしまいます。日本社会のなかでハンセン病回復者が結核回復者と同じように扱われるようにならない限り、その基礎である「らい予防法」の空洞化、有名無実化ということはあり得ません。

 「らい予防法が」が廃止されたのはそれから四十年後です。この間、私は患者自治会の役員をしていましたから、何度も厚生省(現・厚生労働省)に行きました。そこで隔離は間違っているんじゃないかということを言いますが、厚生省の人たちは黙っていて応えません。ドクター資格を持っている厚生官僚も多く、入所者の100%近くが治っていることも知っていたはずです。現状に合わせて、きちんと正式に法律を変えるよう訴えたのですが、これには応えてくれませんでした。

 ところが療養所内の生活問題、例えば「すきま風のために、ハンセン病は治っていても風邪を引いて肺炎になる」という話をすると、厚生省の役人は乗り出してくる。「目の見えない人が困ってる」というと、「そうですか」とすぐメモして善後策の検討に入ります。「福祉の増進」という名分がありますから、大蔵省(現・財務省)から予算を取りやすいのでしょう。つまり隔離を続けるための予算というわけです。

 ハンセン病の施策の間違いは、こういうお役人の姿勢にも表れていました。彼らはみな優秀ですから最新情報は把握しています。ハンセン病菌が弱いこと、感染しても発症が極めて稀であること、そして発症しても薬で治癒することをよく知っています。「らい予防法」が医学的にも、国際的にも、社会的にも間違っていることをよく知っています。しかしそのことは言いません。これまでの政策について批判することはありません。既定の法律に触れないことを前提に、予算で対応することに努めます。

 それはなぜなのかといえば、自分の地位名誉の保全のためです。先輩のやってきたことを間違っていたからと、それを翻そうとしたら頭を叩かれます。人事には先輩が関わっていますからエリートコースを外される。役人の担当部署はどんどん代わり、同じ部署にいるのは二年間です。その自分の在任中に患者さんの頭を撫でて、飴を舐めさせて大過なく過ごしていたい。無事であれば、とにかく出世してゆきます。天下りもできます。そういうことが日本の過ちをそのまま続けさせてきた元にあるということです。


実際にぼくもそう思う。行政の「民営化」のような大胆な改革を試みない限り、この国は蝕まれ続けるだろう。お隣の中国を批判する状況ではない。日本の内情はひどい。

 


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ニンジンとキクイモの蒸し煮



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乱切りしたニンジンとキクイモを無水鍋に入れ、シイタケを入れ、ベーコン1連を半分に切って入れ、山菜の山うどをふり、生姜1片をすりおろし、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



小魚の酢醤油


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小魚は1分湯通しして冷水にとり、お椀に入れ、ポン酢を注いで出来上がり。



目玉焼き

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熱したフライパンに油を入れ、卵2個を落し、ナバナのおひたしをふり、弱火で3分、余熱1分で蓋を開け、醤油で味付けして出来上がり。

 


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買って応援したいが・・・


本当は本を買って応援した方がいいんだけれど


ネットでは同じような記事もたくさんあるし


他にもすることがあって、たくさん読むことができないし


本を買っても、買っただけでまだ読んでいない本もかなりあるし


だから週刊金曜日もネット記事を見るだけ


目次を見るだけでも、今、社会で何が問題になっているかわかる。これは新聞ではわからない。新聞は多数の読者を相手にしているが、週刊金曜日は特定の読者を対象に、その人たちに声が届くような本である。


編集後記も気に入っている記事である。


ただ、ネットでこれだけ無料の記事があふれていると、それを読むだけで手いっぱいで、わざわざお金を出して買うという行為までいかないように思う。


それと同じ理由で、ネットの有料記事も、お金を払ってまで読もうと思わない。


だから、他の書籍や月刊誌を含めて週刊金曜日も、かなりきびしい立ち位置にあると想像できる。シンパはいっぱいいても、買ってまで読んでくれる読者は少ないだろうし、長く買い続けてくれる読者も少ないだろう。


ぼくにできることは、週刊金曜日をブログで紹介するくらいしかできない。




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情報収集中&放電中

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長島愛生園  加賀田一さん(45)


違憲判決と三権の分立


「いつの日にか帰らん」P23~P27抜粋

 わかっていながら、やろうとしなかった━━これが一番悪いことです。強制収容を政策として続けることによって、一人一人が自らつくってゆく人生を諦めさせた。それはそのまま家族との再会や故郷に迎えられることを断念させることでした。その断念と引換えのように所内における福祉や生活、医療について改善が図られてきました。

 これは人権の尊重という視点から見れば差別の増幅にほかなりません。「らい予防法」による強制収容は間違っていたときちんと謝罪すること、それは一人一人の社会復帰についてきちんと責任を持つということです。

 全国に国立のハンセン病療養所が十三ヶ所ありますが(最初に設立された公立療養所五カ所も、戦時中に国立に移管されました)、「らい予防法」が廃止された1996(平成8)年、その入所者の平均年齢はすでに七十三歳に達していました。しかし社会復帰のための支度金はわずかに百五十万円でした(その後、二百五十万円に変更)。

 また、入所者は国民健康保険の「適用除外」でした。所内や特定「委託病院」の治療は無料ですが、外部の大学病院やら一般病院での「保険外診療は差し支えない」、つまり有料なら診てもらえるというものでした。私たちは本人証明としてもっとも一般的に使われる「健康保険証」すら持てませんでした。結局「らい予防法」が廃止されてもなお、入所者がこのまま歳を取って「自然消滅」してゆくのを待つという基本姿勢に変化はなかったのです。

 「らい予防法」が廃止されて二年たった1998(平成10)年七月、鹿児島の星塚敬愛園の入所者ら十三名が「らい予防法違憲国家賠償」を求めて熊本地裁に提訴しました。国民として正当な権利である社会復帰を阻んだ強制隔離政策は憲法に反するから謝罪して責任をとるべきだという訴えです。国は強制隔離してきた歴史的事実を忘却のうちに流し去ることを狙っている、そういう国家の体質は改めるべきだというのが、この訴えの主旨でした。

 熊本地裁への訴えが始まると、続いて東京の多摩全生園、そして瀬戸内海の三園からも同じような動きが始まった。三つの原告団があるのですが、その人数が何人なのかを明らかにすることは、これがまた非常にデリケートな問題で、ハンセン病問題を象徴するものでした。「原告になっとることが家にわかったら困るから、わしが原告に入ってることは言うてくれるな」というわけです。ずっと身を隠して生きている。「今さら表立ったところへ出ていくと家族が困る。だからこの裁判に自分は出たいけれど出られない」、「名前は出してくれるな」という原告がいるので、確実な人数はつかめなかったのです。

 弁護団もこの「最大の人権蹂躙問題」に対して無知であったことを深く反省すると声明して、二百五十人の弁護士が集まりました。原告名の秘密を守って、弁護士が代理人を務めました。最後にはおおよその人数(2200人)は公表しましたが、個人名までは公表しませんでした。

 熊本地裁の判決は3年後の2001(平成13)年5月に出ました。それは1960(昭和35)年以降についての隔離政策は人権侵害であり憲法違反だというもので、原告側の主張を大筋で認めるものでした。

 判決は同時に、国会に対しても1953(昭和28)年には治癒することが確定されており、1965年には「らい予防法」を廃止すべきだったと、その怠慢を「立法不作為」として断罪しました。行政と立法を、司法がはっきりと断罪した画期的な判決です。下級審の裁判長が国政の誤りを正した判決に、私たちは万感の思いを込めて万雷の拍手を送りました。

 それからが小泉さんの出番です。当時の秘書官の回想記を見ますと、政府と自民党の中でいろいろとあったようですが、小泉純一郎総理は上級審への控訴断念を決定し、地裁判決は確定しました。当時、医師出身の坂口さんが厚生労働大臣でしたが、小泉さんには勇気があったと思います。翌月6月の内閣支持率は90%を越して、人気のあった小泉内閣を通じても最高記録を示しています。

 あの「控訴断念」のとき、私は日本でようやく三権分立が生きた、民主主義がようやくここに定着したという感想を持ちました。それは長い間の厚生省との交渉、また架橋運動を通じていつも煮え湯を飲まされるような思いばかりしてきた体験が感じさせたことです。同時に差別され続けてきた私たちの生存が、ここにきてようやく三権分立の立証に役立つことになったという感慨もありました。


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ダイズの煮豆


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ダイズ150gは一晩、水に浸す。

戻し水を少し捨てて、圧力鍋に大豆ごと入れ、ニンジン、ヤーコン、シイタケの角切りを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、ダシの素を入れ、強火で、おもりが勢いよく回り出したら極弱火にして25分、火を消して圧が抜けるまでそのまま放置して出来上がり。





ナバナのおひたし

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味噌汁

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ニンジンとダイコンの千切りを鍋に入れ、シイタケを入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして10分煮て、味噌を溶き入れ、タマネギの葉をふって出来上がり。




ニンジンおろしとダイコンおろし

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後継者問題


農業だけにとどまらず、後継者問題は、社会のいろんな場面で問題になっている。

少子化の問題もあるし、それで食べていけるかという経済の問題もあるし、その仕事の好き嫌いや適性の問題もある。

だから、親から子へという引き継ぎも難しくなっており、後継の範囲を広げる必要があるだろう。


家庭菜園ほどの知識でも、農業に全く縁のない「農業後継者」にとっては大きな引き継ぎとなる。


農業は記録に残せないようなことも多い。口頭で伝えたら3分ですむことも、文書として残すなら大変な作業となり、残す方も、それを読む方も時間がかかりすぎる。

そして農業は、頭より身体で覚えていくと記憶に残りやすい。


みんながサラリーマンをするようになった昭和40年代以前は、親から子へ、子からその子へと、身体で覚えさせて2~3年で引き継ぎはできただろう。




   
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2月17日に、年に1回の「くん炭作り」をした。ポット育苗の土に混ぜたり、ダイコンやニンジンを蒔いた後に、雨に叩かれるのを防ぐ目的で使う。

60年ほど前までは稲の育苗に「くん炭」が使われていたので、晩秋の風物詩だった。

(1)風の少ない日に

(2)2月下旬頃までの低温の時期(季節)に

(3)午前10時頃から始めて、午後3時頃には終わる5時間の予定で

(4)消火は右の画像のように、空気を遮断して消す方法がいい。水を何回もぶっかける方法より楽である。

(5)この方法は、消火する時に煙突をとってクン炭を少しひろげ、水を一荷(つまりタゴ2杯)、まんべんにかけて、ある程度消火し、すぐに元の山形にもどし、今度はジョロで、クン炭の表面だけを大急ぎで消化し、間髪を入れずポリをすばやくかぶせて、周囲を土で抑え、空気を遮断する。翌朝、あるいは翌々朝、あるいは3~4日後に煙があがっていなかったら完全に消化できたことになる。念のため、あと2~3日様子を見てから、もみ袋等に入れて物置や納屋に保管する。

(6)つまり、ポリをかぶせたままで1週間、外に置いておく。残り火がとても危険で、物置や納屋、そして隣接する母屋がくん炭で大火事というのは、枚挙にいとまがない。それくらい多かった。だから、いくら消えたと思っても1週間は、雨にあたらないようにして戸外に放置する。


単にクン炭作りでも、これだけのことを頭にインプットするには3回(3年)ほどかかる。

農業は1年に1回しか経験できないことが多い。たとえば秋のダイコンやニンジン、タマネギの種まきなど、2回目のやり直しではすでに「時期が遅い」場合がある。


これらのことをゼロから蓄積していこうと思ったら年数がかかってしまうが、先人がそばにいたら、先人の蓄積を土台にして、その先からスタートできるので、非常に効率がよい。



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週刊金曜日

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長島愛生園  加賀田一さん(44)


知事の謝罪
 


「いつの日にか帰らん」P36~P39抜粋


 2001(平成13)年の5月11日、「らい予防法」の違憲判決が下され、23日には国が控訴断念の発表をしました。1日おいた25日には、鳥取県の片山善博知事が長島愛生園を謝罪に訪れました。

 その前日の24日、県人会長だった私のところへ「明日、片山知事が謝罪に行きます」と連絡があったので同県人会に連絡するとみなさんたいへんな興奮で、「今さら、知事は何をしにくるんだ」「俺らをひどい目に遭わしゃーがって」とみんな、非常に怒っていました。当日になってもさらに、「昨夜は田舎のことなんか思い出させられて眠れなかった。お陰で同居の寮友も眠れなかった」と怒りはまだ治まっていないようでした。

 しかし知事が来られて、目の見えない人やら指がない人の手を握り「長い間、ご苦労をかけてすいませんでした」と謝ると、あれほど怒っていた人たちが涙をボロボロ流して泣き出しました。その涙は望郷の強い思い、家族と故郷への断ち切れぬ思いを断ち切って生きてこざるを得なかったことを表していました。受け入れてもらいたいという情が深いところで脈々と生きていたのです。

 片山知事は本気で、「これは謝っても、謝りきれん問題だ。国はなんてことをしたか。後を引き継いだ私の責任です」と頭を下げるわけですから、怒っていた人たちも返す言葉もなく、ただ涙を落とすばかりでした。このときの知事の謝罪は私の生涯の中で、決して忘れることのできない言葉となりました。

 片山知事は、「あなたたちが苦労された話を、小学校の高学年や中学生に話していただきたい。この年頃に聞いた話は生涯、死ぬ瞬間まで忘れない。十代前半のこの人たちにどんどん話をして、なにが正しいことかを教えてやってほしい」と言われました。

 それから私も学校へ行くことが多くなり、ハンセン病患者が受けてきた差別と偏見の歴史や人権問題について講演を続けました。

 実は鳥取県というのは、「無らい県運動」というのをもっとも積極的にやった県でした。県単位で「癩予防協会」を結成して募金を集め、愛生園内に鳥取寮(48人定員5棟と児童用1棟)を建設寄付しているのです。当時、愛生園はすでに定員を200人以上超過していたこともあり、新たに鳥取県から強制送致するための措置でした。寮は、立田清辰知事と桂誠警察部長の業績を称えて「立田寮」、「桂誠寮」、それに鳥取県の地名に因んだ「大山寮」、「三朝寮」、「白兎寮」と名づけられました。

 患者と判断されたら、県民の保健衛生のためだといって、制服警官がやってきて強制収容し、特別護送列車を編成して長島愛生園に送り出しました。当時は地域の保健衛生を管掌していたのは警察でした。彼らはその家やら周囲を消毒しまくって、地域に恐怖心を与えて、その家族というだけで健康な子供までが学校から登校拒否されるという状況をつくり出しました。鳥取県の予防協会は戦後も存続し活動していました。



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キャベツの蒸し煮


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ざく切りしたキャベツを無水鍋に入れ、シイタケと魚ソーセージを入れ、厚揚げと練り製品1枚を焼いて入れ、ざく切りしたシシウド(山うど)をふり、ニンニク醤油のニンニク2片の薄切りを入れ、ニンニク醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



新タマネギの葉の酢味噌和え

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新タマネギの葉はざく切りし、沸騰したら入れて2分ほど茹でて冷水にとり、水気をしぼる。

ボールに酢とレモン果汁を各大さじ1、味噌大さじ2、砂糖大さじ2を入れて混ぜ、新タマネギの葉を入れ、山ウドの粗みじん切りをふり、混ぜて出来上がり。



シシャモ


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小さい農業 小さい生き方



何か事が起きた時、それがいいことなのか、よくないことか、年数が過ぎてみないとわからない。




どこへ入ってもサラリーマンが続かなかったから、農業にめぐりあえた。

農業も、適性はあると思ったが、能力があるとはとても思えなかった。

だから、専門作物をもって、ある程度規模を大きく・・などは全くイメージできなかった。

それでも、少量なら何でも作れるだろうと思った。




結果的に、

少量だからリスクが小さい

少量だから、その作物が失敗しても、大きな影響はない

少量だから、虫害や病害が少ない

少量だから、苦手な農作業があっても、少しならできる

少量だから、ひとつの作業時間が長くなく、身体の負担が少ない

少量だから、専門作物のようなハウスも必要がなく、特定の作物に対して大きな投資をする必要がない

少量多種類だから、料理をするにも都合がよかった

少量だから、多量に作る場合と違って、農薬もほとんど必要がなかった

少量多種類だから、季節に合わせて仕事を分散できた

少量だから、いろんなことに対応がしやすい。大雨や少雨や台風にも

少量多種類だから、それぞれを好む各種の昆虫や小鳥が来ているだろう

自然界も単一ではなく、雑木林のようにいろんな植生の樹木や下草が共存している

少量多種類は、身体の負担が少なく、目移りがして楽しい

少量多種類生産は、自然と「旬」に従順になる。




少量多種類なら、特定の能力を必要とせず、誰でもできる

利益は少ないが、リスクも少ない

結局、家庭菜園の作り方と同じで、それより少し規模が大きい程度



少量多種類生産は、「ワンパック宅配」、「地域やスーパーの直売所出荷」、「JAの直売所出荷」が主な出荷方法であるが、ワンパック宅配以外は15~20%ほどの販売手数料をとられる。



人の農業と比較しても、自分には難しいと思ったことは、何十年経過してもやっぱりできないので、比較しても仕方がない。



少量多種類生産は、能力の差に惑わされず、誰にでもできて、専門作物より体の負担が少なく、天候によるリスクは最小限ですみ、特定の機械や施設もいらず、自然と旬に沿った作り方になるので、病害虫の大きな被害はなく、冬から春にかけて2ヶ月ほどの農閑期が出来て、農業以外のことに頭が向けれる。



最低限の生活がまわっていくなら・・・


最低限の生活がまわっていくなら、都会から疎開してくる


現代社会は「最低限の生活」が、例えば電気代や、上下水道代のように、あまりに「高すぎる」

 


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日刊ゲンダイ

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長島愛生園  加賀田一さん(43)


鳥取県から始まった「里帰り」運動 


「いつの日にか帰らん」P29~P30抜粋


 高度経済成長期の1962(昭和37)年、厚生省療養所課の課長補佐として交渉のあった加倉井駿一さんが鳥取県厚生部長に出向就任しました。病原菌をもっていることを陽性といい、もたないのを陰性といいますが、この当時、在園者のほとんどがハンセン病菌陰性の回復者でした。私たちは患者運動として、島やら塀の中に閉じ込められたまま家族と故郷を失った入所者に帰郷旅行をさせてくださいと働きかけていました。

 私は鳥取県の生まれでしたから、出向した加倉井さんに菌の陰性者だけでも、県が家族に代わって迎えてくださいとお願いすると、彼はすぐに英断を下して、「里帰り事業」として実現させました。(その「英断」については加倉井さんの項で詳述します)。

 「里帰り」といっても、その人によっては故郷近辺を二泊三日で廻るというもので、帰郷を家族に告げて迎えられることはとてもできません。園内通用名で、県の宿舎に泊まって、故郷の今の姿をひそかに見てまわってきただけですが、入園以来、長く長島から出たことがなかった元患者にとってはたいへんな喜びであり感激でした。

 これはセンセーショナルなニュースとして直ちに全国の療養所に伝わり、その後「里帰り事業」として他県にも波及してゆきました。その嚆矢が鳥取県でした(私自身は後述の経緯によって、前年に墓参りをしていましたので、不安な病友たちに同行を請われましたが参加できませんでした)。

 そんな私の生涯で「らい予防法」の廃止は一つの転機になりました。



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豚肉と新タマネギ炒め


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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、15秒湯通しした豚肉100g、新タマネギの順に炒め、生姜醤油で味付けして出来上がり。


ヤーコンのバターポン酢

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熱したタジン鍋にバターを入れ、輪切りしたヤーコンを置き、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、ポン酢をまわしかけ、1分煮つめて出来上がり。



味噌汁

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ダイコンとニンジンの千切り、新タマネギのスライスを鍋に入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして焼いた厚揚げと練り製品1枚を小さく切って入れ、弱火で10分煮て、味噌を溶き入れ、ワケギをふって出来上がり。



ニンジンおろしとダイコンおろし

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興味や関心は、最初は無理矢理にもつ


 30代、40代、50代ならまだしも、60代の半ばになると、今している農業以外のことが、将来において展望が開けるだろう・・・とはあまり思っていない。

それでも、夕食後に農業以外のことをするのは、

農業以外の全く違ったものに触れると、頭の活性化になりそうだから。

その時間がたった15~20分だけであっても、その時間だけは異質なことに費やす時間であり、10年後に何かが蓄積されて、今までと違う新しい出来事が待受けているかもしれない。



年齢に関係なく、前を向く(異質な時間を持つ)ことは、雑念に惑わされずに、自分自身を保持することにつながるだろう。

何か他のことに注意を向けていたら、ストレスや怒りの源を、その時間だけでも忘れる。



「60の手習い」という格言があるが、70、80になっても、遅いとは全然思わない。前向きになれば、雑念にとらわれる暇もない。



興味とか関心は、無理やりに飛び乗ったり、のっかたりして、自分をのせることであり、全く興味や関心がなくても、知らん間に興味や関心ができてくることもある。

だから、かなり無理をしてでも、ぼくはそうする。

そして、これは合わないと思ったら、即 止める。まわりの人に遠慮しないで。



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情報収集中&放電中

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長島愛生園  加賀田一さん(42)


政府の「軽快退所基準」


「いつの日にか帰らん」P148~P150抜粋


 1956(昭和31)年のローマ会議では「隔離政策の誤り」が宣言され、「回復後の社会復帰に必要な援助を与え、人権侵害となるすべての法律を速やかに廃止すること」が決議されました。しかし日本だけは依然として改めようとしなかったため、2年後の「第7回国際らい学会議」は、ハンセン病者を隔離する必要はないということを日本の人々に広く知らせるために東京で開かれることになりました。

 日本政府も隔離政策が世界の趨勢に逆行し、国際的な批判を浴びていることは充分承知しています。その対応策として、厚生省は各療養所に「軽快退所基準」を通知しました。各種関連法の弾力運用による予防法の「空洞化」策の一つです。

 しかし強烈な伝染病だから隔離が必要との基本原則は変えようとしません。DDSを始めとするスルホン剤の使用による在宅通院治療は認めず、治る内服薬が出来ているのに、療養所以外、一般の病院で全く使えないシステムを固守しました。

 強制収容は止めましたが、治療しようと思ったら入って来なければならない。入ってくれば、飛んで火に入る夏の虫ということで、厳しい「らい予防法」の適用を受けなければなりませんでした。最近では早期発見、早期治療によって後遺症も残らなくなったほどですが、当時でも京都大学病院ではカルテの病名欄に症状名を書いて投薬治療していたそうです。

 この頃、ちょうど全患協の本部事務局を各地療養所が3年交替で引き受けることになり、予防法改正のための要求書の草案を瀬戸内三園(愛生園、光明園、大島青松園)で作ることになりました。その作業チームの委員長を愛生園の担当者である私が務めることになりました。

 その成案(「らい予防法改正要請書」)を予防法制度から10年たった1963(昭和38)年に当時の厚生大臣に提出しました。骨子はローマ会議の宣言に従うこと、各国がすでに行って成功していた家庭からの通院治療ができるようにすること、その場合、普通の医者が診てもわからないから指定医制度を定めることなどです。幼稚なものでしたが、その意味するところは隔離政策の根本的見直しでした。

 私自身としては、社会復帰者の場合は補償を受けて正式に実行し、後遺症による重度障害者はその程度に応じた療養生活の安定が図られることが必要だが、そのためには予防法の改正では限界があるだろうと考えていました。つまりは廃止することです。全患協内部には予防法はとにかく入所者の生活安定の前提になっているので、死文化、形骸化させることは必要だが、隔離による損失の補償もないところでの廃止要求では所外へ放り出されることになると危惧する意見もありました。

 そして1966(昭和41)年、私も会長として出席した栗生楽泉園における支部長(自治会長)会議において、全患協は厚生省交渉の第一スローガンとして、「強制隔離収容に対する損失の補償」を掲げ、要求することになりました。

 


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豆ご飯


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4合の白米を洗って炊飯器に入れ、酒50CCと水を入れて4合の目盛りに合わせ、塩を一つまみ入れて混ぜる。

200gのグリンピースを洗って入れ、炊けたら混ぜて出来上がり。現在進行形。



新タマネギ、厚揚げ、魚ソーセージ炒め


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熱したフライパンに油をいれ、ニンニク1片の粗みじん切り、魚ソーセージ、ざく切りした新タマネギの順に炒め、タマネギがしんなりしたら、焼いて切った厚揚げを入れ、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



ナバナのおひたし

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ニンジンおろし、ダイコンおろし

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都市住民、それぞれの農業



 「人と比較しない」ことを、絶えず自分に言い聞かせながら農業をしてきた。比較すると、自分が落ち込むから。

ひとつ例を上げると「鳥小屋」を自分で建てる人が多い。

鳥小屋くらい、ちょっと人のを見て、教えてもらったら立てれると農業仲間が言う。

実際、鳥小屋を建ててもらったのは、知る範囲では、なんと「ぼく1人」である。



30年余り前、農業を始めるにあたって、数十羽のニワトリを飼う人が多かった。

そのころ、自然卵養鶏のバイブルと言われた中島正さんの著書「自然卵養鶏」を読んで、ぼくもこんな飼い方で、こんな鶏舎を立てたいと思い、本に出ていた通りの鶏舎を大工さんに頼んだ。・・・丸太柱にトタンの片屋根、四面オール解放の金網鶏舎を。



ところが、農業を始めたから出合うことになった、6人の都市住民(岡山で農業をするために都会から移り住んで来た人)は、6人とも ”自分で” 鶏舎を立てた。

もともとの田舎住民ではなく、都市住民なのに鶏舎が自分で建てれる・・・

これを現実に見せつけられると、「能力の差」を強く意識させられた。その頃からずっと「他人と自分を比較しない」と常に言い聞かせるようになった。

自分のいい面、得意な面だけを見ていこうと。

大げさに言えば、そのぎりぎりのところで進退(勝負)をかけてきた。



当時創刊された「百姓天国」という本の第一集で、都市住民のNさんが、農業をするために岡山へ入植するという記事を読んで、さっそく、入植された場所を訪ねた。

山道に入ってから、行けども行けども民家らしきものが見えず、片方は崖で、片方は眼下20~30メートルほどの見おろすのも怖いような広大な池で、崖沿いにやっと車が通れるくらいの道がついていた。

だから何度も、もう引き返そうと思ったが、この道で間違いないはずだからと3~4キロ行った先に、もうすっかり棄てられたはずの「茅葺屋根の民家」が見えてきた時には感動した。夏草にむせかえるような盛夏の日だった。



こんな場所を選択して入植してくる人もいるんだ。住めるとイメージできたから入植してきたのだろう。

そのNさんに紹介されて、都会から岡山に入植してきた他の人たちを知ることになったが、「都市住民なのに大工仕事が得意」という面を、各地を訪問するたびに見せつけられた。

ぼくの最も苦手とすることだったから、「比較はしない」と肝に銘じた。



その当時に出会った6人の都市住民も、それぞれの地で、30年の歳月が過ぎて60代に入った。

Nさんは鶏、野菜、稲作の大規模農家に変身した。

もうひとりは、十数年後、出身地の大阪へ帰られた。

もうひとりは、農業ではなく、その後すぐに学習塾で生計を立てられるようになった。

もうひとりは、木工を主体にされていたが、今は福祉の支援業務をされている。

もうひとりは、ニワトリが主体だったが、今は果樹を主体にされている。

もうひとりは、腰をいためて、県内の他の場所に移られた。



4人の人とは今も時々会っている。

この内、農業後継者がいるのは、学習塾で生計を立てられた人の息子さんが、勤めていた会社を辞め、果樹専門農家となった一人だけである。



都市住民の それぞれの農業 それぞれの田舎暮らし



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今日のクイーン

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内田樹の研究室

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長島愛生園  加賀田一さん(41)


町民大会の開催


 「いつの日にか帰らん」P30~P33抜粋


 鳥取県は私を人権問題の啓発委員にしました。長島まで県の公用車で迎えに来て、県庁で開かれる委員会にも出るようになりました。そしてそこで企画されたシンポジウムやフォーラムに出ました。私はそういう場に出て次のように話しました。

 「ここに集まっておられる方々は人権問題に関心をもっておられて、知識もおありです。強制隔離についても間違っていると考える人が来られているわけです。ですから、ここに来ておられる多くの人たちには話さなくてもいいのだという思いがあります。知識のない人、関心をもったことのない人、それが一般の人たちであって、そういう一般の方たちに、聞いて、わかってもらいたいとつねづね思います」

 私の出身地の用瀬町の人権センターでは、有志の方が私の親族と協議を重ねていました。私の本家を継いでいた従兄弟の娘の加賀田さゆりさんは、大阪へ出たまま行方不明だと聞かされていた私について、高校生のころ祖父がひそかに家人に話しているのを耳にはさんで、事実を知っていたとのことです。

 彼女は「隔離は人の自由を奪う人権侵害であり、病気が治っているのに家族のいる故郷に帰れないというバカなことはない」と思っていたので、予防法廃止を機に是非とも故郷に迎えたいと親族の理解を求めて、一軒一軒を訪ねて賛同を取り付けたうえ、人権啓発の町民大会を提案しました。この提案に池本町長が、「それはそうだ」と賛意を示し、開催が決定したのです。

 2000(平成12)年の3月4日、「近くて遠かった故郷」という演題の町民大会に呼ばれるという形で「晴れて」私は郷里に帰りました。ハンセン病が治った患者がいるといっても、町の人が信じないと困りますから、当時、鳥取赤十字病院内科部長だった徳永進先生にもごいっしょしていただきサポートしてもらいました。

 小さな町ですから、400人収容の町民会館はいっぱいで、ロビーにモニターを置いてそこで聞いておられる人もいたほど盛会でした。正面には「お帰りなさい!加賀田一さん」と大書された横断幕が張ってありました。私たち夫婦は地元の若い人たちによる合唱ミュージカル『時の響きて』に迎えられて入場しました。『時の響きて』はハンセン病を扱った福安和子さんの詩をもとに構成された作品です。

 すると、大きな声で「加賀田一くん!どこへ行っとったんや!」と言って、一人の老人がちょっと不自由な体の婦人(奥さん)に支えられながら出てきました。それが小学校の同級生でした。それまで私はずっと引っ込んでいたわけですから、67年ぶりです。そういうところが郷里ならではのいいところでした。横井庄一さんやら小野田寛郎さんみたいな感じです。同級生は男女共学で56人いましたが、男で郷里に生存していたのはこの友人一人だけで、大半は戦死と聞き複雑な思いに胸が熱くなりました。

 そのあとの徳永先生との対談で、先生は「ハンセン病は今では水虫より早く治る」と話され、会場に大きな笑いを呼んでいました。その徳永先生はまたものすごくたくさんのバラを用意して下さっていました。そして最後に「加賀田一さんの焼香代わりに一本ずつ供えて握手をして別れましょう」という挨拶で大笑いになり、出席者がずーっと並んで、握手をしながらバラを1本ずつもらって、結婚披露宴で新婚夫婦を送り出すときのように会を閉じました。その夜の懇親会では有志の方々とビールを酌み交わすこともできました。

 田舎の山間の町でしたが、人情は厚くてうれしいなとしみじみ思いました。この町民大会で初めて私は自分が故郷に受け入れられたと感じました。人間復帰がなり、私と家内が「再生」したのだと深く実感しました。

 この町民大会の模様をNHKがドキュメンタリー「自分に帰る日」と題して放送しました。しかし、実はこの会場には、私の出身集落からは15、6人しか行っていなかったのです。関心のある民生委員とかお寺の住職とか学校の先生などが多く、部落の普通の人たちは来ていませんでした。私の近隣の人が来ていない。そこで町会議員を務める部落長の山根裕さんが、「これでは啓発にならん。これではいかんので、一回部落の全員集会を公民館で開こう」と言ってくださり実現の運びとなりました。



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鯛アラの蒸し煮


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鯛アラは15秒湯通しする。無水鍋に乱切りしたニンジンとダイコンを入れ、15秒湯しした鯛アラを置き、シイタケを置き、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、生姜1片をすりおろし、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。



新タマネギと卵の煮物

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鍋に醤油、砂糖、酒、みりん、水とダシの素を入れ、シイタケを入れ、煮立ったらざく切りした新タマネギと葉を入れ、タマネギが少ししんなりしたら卵2個を入れ、焼いた厚揚げを入れ、弱火で5分煮て出来上がり。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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