「ローマ会議」の国際決議と日本
「いつの日にか帰らん」P16~P20抜粋
2001年の「らい予防法」違憲判決では、「らい予防法」の誤りは1960(昭和35)年には明確になっていたと認定しましたが、強制隔離が間違いであることは1956(昭和31)年のローマ会議がはっきりと宣言していました。ローマ会議というのは、正式には「らい患者の救済ならびに社会復帰に関する国際会議」と言います。51ヵ国から250名の専門家代表がローマに集まり、18日間の討議の後、「ハンセン病は伝染性の低い疾病であり、かつ治療し得るものであることを考慮」して、強制隔離ほかすべての差別法を廃止すること、入院治療は特殊に必要とされる場合とし、通院加療を原則とすること━━などを決議しています。
私がここで強調したいのは、この会議に日本の代表として国立療養所長の林芳信(多摩全生園)、野島泰治(大島青松園)と藤楓協会理事の浜野規矩雄(後に理事長)の三先生が参加していることです。藤楓協会というのは前身を癩予防協会といい、ハンセン病患者の救済を目的として設立された組織で理事には厚生省の元官僚が就任しています(「藤楓」の名は救癩事業に恩賜を下された皇族に由来します)。
この三先生はハンセン病研究治療の日本における権威というだけでなく、医療行政にも大きな力を持っている専門家です。その先生方が外で国際会議に加わり、国内においても三人三様ですが強制隔離に批判的でありながら、しかもなお「らい予防法」が存続し続けたのは、どうしてなのでしょうか。
専門医師の集まりである「らい学会」、療養所の園長会は、組織としてローマ決議の内容を国民に知らせ啓発しようとはしませんでした。たいへん良心的な三先生の批判と実践も個人的行為でしかなかったのです。個人の裁量において「らい予防法」ならびに隔離政策を「空洞化」「形骸化」する方向で「弾力運用」していったということです。入所者の私がローマ会議を知ったのはローマ会議の三年後でした。
1958(昭和33)年の国際らい学会議は日本が隔離政策を改めるよう促すために東京で開催されました。1960年にはWHO(世界保健機関)が日本に隔離政策を改めるよう勧告しています。国際的な批判に対して政府は「軽快退所基準」を作成しますが、それは「軽快」者として退所を認めるにあたっての統一基準であって、ハンセン病に対する強制隔離原則を改めたわけではありません。
これでは「軽快退所」者も偏見、差別、排除から自由になることはできず、社会復帰もいわゆる「もぐり」となってしまいます。日本社会のなかでハンセン病回復者が結核回復者と同じように扱われるようにならない限り、その基礎である「らい予防法」の空洞化、有名無実化ということはあり得ません。
「らい予防法が」が廃止されたのはそれから四十年後です。この間、私は患者自治会の役員をしていましたから、何度も厚生省(現・厚生労働省)に行きました。そこで隔離は間違っているんじゃないかということを言いますが、厚生省の人たちは黙っていて応えません。ドクター資格を持っている厚生官僚も多く、入所者の100%近くが治っていることも知っていたはずです。現状に合わせて、きちんと正式に法律を変えるよう訴えたのですが、これには応えてくれませんでした。
ところが療養所内の生活問題、例えば「すきま風のために、ハンセン病は治っていても風邪を引いて肺炎になる」という話をすると、厚生省の役人は乗り出してくる。「目の見えない人が困ってる」というと、「そうですか」とすぐメモして善後策の検討に入ります。「福祉の増進」という名分がありますから、大蔵省(現・財務省)から予算を取りやすいのでしょう。つまり隔離を続けるための予算というわけです。
ハンセン病の施策の間違いは、こういうお役人の姿勢にも表れていました。彼らはみな優秀ですから最新情報は把握しています。ハンセン病菌が弱いこと、感染しても発症が極めて稀であること、そして発症しても薬で治癒することをよく知っています。「らい予防法」が医学的にも、国際的にも、社会的にも間違っていることをよく知っています。しかしそのことは言いません。これまでの政策について批判することはありません。既定の法律に触れないことを前提に、予算で対応することに努めます。
それはなぜなのかといえば、自分の地位名誉の保全のためです。先輩のやってきたことを間違っていたからと、それを翻そうとしたら頭を叩かれます。人事には先輩が関わっていますからエリートコースを外される。役人の担当部署はどんどん代わり、同じ部署にいるのは二年間です。その自分の在任中に患者さんの頭を撫でて、飴を舐めさせて大過なく過ごしていたい。無事であれば、とにかく出世してゆきます。天下りもできます。そういうことが日本の過ちをそのまま続けさせてきた元にあるということです。
実際にぼくもそう思う。行政の「民営化」のような大胆な改革を試みない限り、この国は蝕まれ続けるだろう。お隣の中国を批判する状況ではない。日本の内情はひどい。
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違憲判決と三権の分立
「いつの日にか帰らん」P23~P27抜粋
わかっていながら、やろうとしなかった━━これが一番悪いことです。強制収容を政策として続けることによって、一人一人が自らつくってゆく人生を諦めさせた。それはそのまま家族との再会や故郷に迎えられることを断念させることでした。その断念と引換えのように所内における福祉や生活、医療について改善が図られてきました。
これは人権の尊重という視点から見れば差別の増幅にほかなりません。「らい予防法」による強制収容は間違っていたときちんと謝罪すること、それは一人一人の社会復帰についてきちんと責任を持つということです。
全国に国立のハンセン病療養所が十三ヶ所ありますが(最初に設立された公立療養所五カ所も、戦時中に国立に移管されました)、「らい予防法」が廃止された1996(平成8)年、その入所者の平均年齢はすでに七十三歳に達していました。しかし社会復帰のための支度金はわずかに百五十万円でした(その後、二百五十万円に変更)。
また、入所者は国民健康保険の「適用除外」でした。所内や特定「委託病院」の治療は無料ですが、外部の大学病院やら一般病院での「保険外診療は差し支えない」、つまり有料なら診てもらえるというものでした。私たちは本人証明としてもっとも一般的に使われる「健康保険証」すら持てませんでした。結局「らい予防法」が廃止されてもなお、入所者がこのまま歳を取って「自然消滅」してゆくのを待つという基本姿勢に変化はなかったのです。
「らい予防法」が廃止されて二年たった1998(平成10)年七月、鹿児島の星塚敬愛園の入所者ら十三名が「らい予防法違憲国家賠償」を求めて熊本地裁に提訴しました。国民として正当な権利である社会復帰を阻んだ強制隔離政策は憲法に反するから謝罪して責任をとるべきだという訴えです。国は強制隔離してきた歴史的事実を忘却のうちに流し去ることを狙っている、そういう国家の体質は改めるべきだというのが、この訴えの主旨でした。
熊本地裁への訴えが始まると、続いて東京の多摩全生園、そして瀬戸内海の三園からも同じような動きが始まった。三つの原告団があるのですが、その人数が何人なのかを明らかにすることは、これがまた非常にデリケートな問題で、ハンセン病問題を象徴するものでした。「原告になっとることが家にわかったら困るから、わしが原告に入ってることは言うてくれるな」というわけです。ずっと身を隠して生きている。「今さら表立ったところへ出ていくと家族が困る。だからこの裁判に自分は出たいけれど出られない」、「名前は出してくれるな」という原告がいるので、確実な人数はつかめなかったのです。
弁護団もこの「最大の人権蹂躙問題」に対して無知であったことを深く反省すると声明して、二百五十人の弁護士が集まりました。原告名の秘密を守って、弁護士が代理人を務めました。最後にはおおよその人数(2200人)は公表しましたが、個人名までは公表しませんでした。
熊本地裁の判決は3年後の2001(平成13)年5月に出ました。それは1960(昭和35)年以降についての隔離政策は人権侵害であり憲法違反だというもので、原告側の主張を大筋で認めるものでした。
判決は同時に、国会に対しても1953(昭和28)年には治癒することが確定されており、1965年には「らい予防法」を廃止すべきだったと、その怠慢を「立法不作為」として断罪しました。行政と立法を、司法がはっきりと断罪した画期的な判決です。下級審の裁判長が国政の誤りを正した判決に、私たちは万感の思いを込めて万雷の拍手を送りました。
それからが小泉さんの出番です。当時の秘書官の回想記を見ますと、政府と自民党の中でいろいろとあったようですが、小泉純一郎総理は上級審への控訴断念を決定し、地裁判決は確定しました。当時、医師出身の坂口さんが厚生労働大臣でしたが、小泉さんには勇気があったと思います。翌月6月の内閣支持率は90%を越して、人気のあった小泉内閣を通じても最高記録を示しています。
あの「控訴断念」のとき、私は日本でようやく三権分立が生きた、民主主義がようやくここに定着したという感想を持ちました。それは長い間の厚生省との交渉、また架橋運動を通じていつも煮え湯を飲まされるような思いばかりしてきた体験が感じさせたことです。同時に差別され続けてきた私たちの生存が、ここにきてようやく三権分立の立証に役立つことになったという感慨もありました。
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政府の「軽快退所基準」
「いつの日にか帰らん」P148~P150抜粋
1956(昭和31)年のローマ会議では「隔離政策の誤り」が宣言され、「回復後の社会復帰に必要な援助を与え、人権侵害となるすべての法律を速やかに廃止すること」が決議されました。しかし日本だけは依然として改めようとしなかったため、2年後の「第7回国際らい学会議」は、ハンセン病者を隔離する必要はないということを日本の人々に広く知らせるために東京で開かれることになりました。
日本政府も隔離政策が世界の趨勢に逆行し、国際的な批判を浴びていることは充分承知しています。その対応策として、厚生省は各療養所に「軽快退所基準」を通知しました。各種関連法の弾力運用による予防法の「空洞化」策の一つです。
しかし強烈な伝染病だから隔離が必要との基本原則は変えようとしません。DDSを始めとするスルホン剤の使用による在宅通院治療は認めず、治る内服薬が出来ているのに、療養所以外、一般の病院で全く使えないシステムを固守しました。
強制収容は止めましたが、治療しようと思ったら入って来なければならない。入ってくれば、飛んで火に入る夏の虫ということで、厳しい「らい予防法」の適用を受けなければなりませんでした。最近では早期発見、早期治療によって後遺症も残らなくなったほどですが、当時でも京都大学病院ではカルテの病名欄に症状名を書いて投薬治療していたそうです。
この頃、ちょうど全患協の本部事務局を各地療養所が3年交替で引き受けることになり、予防法改正のための要求書の草案を瀬戸内三園(愛生園、光明園、大島青松園)で作ることになりました。その作業チームの委員長を愛生園の担当者である私が務めることになりました。
その成案(「らい予防法改正要請書」)を予防法制度から10年たった1963(昭和38)年に当時の厚生大臣に提出しました。骨子はローマ会議の宣言に従うこと、各国がすでに行って成功していた家庭からの通院治療ができるようにすること、その場合、普通の医者が診てもわからないから指定医制度を定めることなどです。幼稚なものでしたが、その意味するところは隔離政策の根本的見直しでした。
私自身としては、社会復帰者の場合は補償を受けて正式に実行し、後遺症による重度障害者はその程度に応じた療養生活の安定が図られることが必要だが、そのためには予防法の改正では限界があるだろうと考えていました。つまりは廃止することです。全患協内部には予防法はとにかく入所者の生活安定の前提になっているので、死文化、形骸化させることは必要だが、隔離による損失の補償もないところでの廃止要求では所外へ放り出されることになると危惧する意見もありました。
そして1966(昭和41)年、私も会長として出席した栗生楽泉園における支部長(自治会長)会議において、全患協は厚生省交渉の第一スローガンとして、「強制隔離収容に対する損失の補償」を掲げ、要求することになりました。
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