FC2ブログ

あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

引き継ぐ人がいなかったら


「ことわざ」ほどの転職を繰り返し、この先どうしよう・・・と思い悩んでいた時に、突然ひらめいたのが農業だったが、我が家がもともと農家であり、父が細々と稲作を続け、食べ量程度の家庭菜園も続けていたから、農業が頭に浮かんだのだろう。

父の亡くなった年まで後10年だが、よくその年まで、稲作を続け、あぜ草を刈り、山の葉タバコ跡地の草刈りが出来たものだと、自分がその年に近づいてから思う。

葉タバコ跡地の斜面は10アールほどあり、かなり急こう配で、今の自分でも草刈がきつい。

それでも父が草刈だけは続けていたので、ぼくも1年に1回、草刈だけ続けて、それ以上荒れないようにしてきた。

20年後、その斜面が「ミツバチの巣箱置場」としてよみがえった。草刈をせず放置していたら巣箱は置けない。


農業を始めてから、山ぎわの田んぼ(畑)は、野菜に適さなかったので、少しずつ果樹を植えるようになった。

その果樹が十数年経過して、大きな木となり、木の根元は絶好の巣箱置場となった。


葉タバコ跡地の斜面も、そして、野菜に適さず植えた果樹も、当初予想もしなかったことに生かされた。



まだ見ぬ誰かに引きついでもらうために、現状をキープすることが今後の自分の役割である。

野菜作りが難しくなったら、田んぼ(畑)は、年に4~5回耕運すれば管理できるが、
あぜ草刈り、田んぼの周囲の細い水路の泥上げ、竹やぶの進出の阻止、田んぼまわりの「のり面」の草刈り、等、野菜作り以外にも管理をし続けないと、現状は維持できない。

引き継ぐ人がいなかったら、これら諸々が崩れていく。


これは大規模農業とか、大型機械の導入とは、次元の違う話であり、小さな個人がそれぞれに、維持管理を続けていくしかない。


歴史は繰り返して、一人一人が「自給自足型農業」をせざるをえない時代が来るかもしれない。

ちょっと考えただけでも、ここ20年ほどの間に、あっと驚くことばかり・・・

携帯電話の普及

インターネットの出現

イノシシやシカの大量出没




2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

今日のクイーン

このページのトップへ

情報収集中&放電中

このページのトップへ

長島愛生園  加賀田一さん(6)


レプラの告知

「いつの日にか帰らん」P64~P66抜粋


 私が異常に気付いたのは目の上に出た赤い斑紋と、左の足の三センチくらいの赤い斑紋でした。日赤病院に行くと、「午後に特別診察するから待ってくれ」と言われました。その午後、たくさんの医師が私を取り囲み、幹部を筆や針で触って私の反応を見ました。それが診察方法でした。ハンセン病の一つの特徴は神経の麻痺です。私は筆にも針にも刺激を感じませんでした。

 五、六人の医師に囲まれたなかで、「あなたはレプラです。分かりますか、この言葉?」と言われました。私は「レプラ」が「癩病」であることをなぜか知っていましたから、ガツンと木刀のようなもので殴られたような気がして頭の中が真っ白になりました。

 その後、覚えているのは交差点に停まっている電車にぶつかって、車掌に怒鳴られたことだけです。十九歳の私がまず思ったのは、レプラに罹ったら家族、親族に迷惑をかけることになるということでした。

 私は大阪に来てから、四天王寺の参道でハンセン病の人たちの姿を見ていました。保健衛生行政のいう「浮浪癩」がそこにはいっぱいいて、生きるために物乞いをしていました。「これはひどい人たちがおるな」と衝撃を受けました。見た目の印象というのは大きいものです。当時は不治の病でしたから、徐々に顔が変形し、悪臭が出て手指も欠落します。その上、義足でした。そしてそれらの症状が直接の死因になることはありません。

 それが立場が逆になったわけです。若いときにそういう人を見たときの感情、気持ちというのは覚えているので、差別の感情が分からないことはなかったわけです。

 私がその病気だと宣告されたのですから身体全部をこの世から消してしまいたいという不思議な感覚でした

 その午後をどこでどうしていたのかよく覚えていませんが、夜、港でしゃがんでいるところを、見回っていた警官が声をかけ交番へ連れて行ってくれました。自殺する気だったのかもしれませんが、とにかく命は助かった。もう夜中でしたから、タクシーで帰り、あくる日になって薬をもらわなかったことを思い出しました。

 レプラでも薬がないことはないと思い直し、もう一度日赤病院に行きました。受付けの人がすぐに「あっ、裏へ回ってください」と言って私を連れ出しました。連れて行かれながら「病院の裏は汚いところだなあ」と思った記憶がなぜか鮮明に残っています。

 そこで「あんたはここでは診療できません。岡山県の長島に専門の国立病院があるので、そこへ行ってください」と言われました。「療養所」ではなく、はっきり「病院」と言いました。私は「島」という言い方から「これは島流しかな」とも思いましたが、どっちにしろ一度行ってみて、それから身の振り方を考えようと決めました。そしてその前に一度、母にだけは言わなければならないと思い、鳥取に寄ったのです。このときのことは先述した通りです。


「レプラの告知」を読んでいたら、
藤本トシさんの「謎」という随筆が頭に浮かび、オーバーラップした。加賀田一さんも藤本トシさんと同じく十九歳のとき発病。


2030年 農業の旅→ranking


 
このページのトップへ

豆ご飯


IMG_9351_20190223182552b57.jpg 
IMG_9368.jpg IMG_9373_2019022318252765f.jpg

4合の白米を洗って炊飯器に入れ、水と酒50CCを入れて4合の目盛りに合わせ、塩を一つまみ入れて混ぜる。200gのグリンピースを入れ、炊けたら混ぜて出来上がり。



サツマイモとキーウイの蒸し煮

IMG_9355.jpg IMG_9361.jpg IMG_9363_20190223182523ad4.jpg

熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れ(混ぜない)、砂糖をふり、薄切りしたキーウイ2個を入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



味噌汁

IMG_9358_2019022318255595e.jpg IMG_9366.jpg IMG_9375_201902231825297e0.jpg

乱切りしたサツマイモ、千切りしたダイコンとニンジンを鍋に入れ、水とダシの素と削り節を入れ、煮立ったら弱火にして10分煮て味噌を溶き入れ、ネギをふって出来上がり。
  


2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

ハンセン病文学の後継者


ハンセン病文学はおもしろい。

当人は悲壮感をバックにして書いているかも知れないが、読んで、あまり悲壮感を感じない。


あなたがもし文学部の学生なら「ハンセン病文学」も一つのテーマとして考えてほしい。

たとえば夏目漱石や太宰治の足跡を追っても、ただ1人でしかないが、癩者はたくさんいて、ジャンルも詩、短歌、随筆、小説と広い。


ハンセン病はすでに「水虫」より簡単に治る。

新たな発生患者は国内ではごく少なく、ハンセン病文学はすでに「古典」となりつつある。

ぼう大な数の文学作品が各療養所で埋れたままになっている。誰か、整理する人がいないと、ハンセン病文学が次の世代に継承されない。

ぼくが紹介しているものなど、ハンセン病文学全体の1%にも満たないだろう。

「ハンセン病文学全集」というと、とっつきづらいが、薄い歌集とか詩集、あるいは、有名な塔和子さんあたりから読み始めてもよい。近くの公民館や図書館で取り寄せてくれるはず。


ハンセン病文学は、もうすんだ話、面白そうでない、病気の人の書いた本で一般の人に意味がない・・・。

ぼくからみれば、おもしろい、悲壮感がない、格調高い、言葉に品格がある、実社会とまるで変わらない。


とっつきづらく、とっかかりが見つからないかも知れないが、いったん入り込むと、壮大な海原が広がっている。

各療園には千人以上が閉じ込められていたので、それぞれ視点も異なり、作品の比較もできる。



ぼくは石田雅男さんの講演を長島で聞いた後、追っかけていって、ちょっと話をうかがったら、石田さんが書かれた本を送って下さった。

一つは「夕映え讃歌」で、石田さんの自殺願望の話だったが、読後感はとにかく「おもしろかった」につきたので、そのことを書いて御礼の手紙としたが、あとで考えて「石田さんにとっては、それくらい切羽詰まって苦しかったんだ」と、はっと気づいて、「おもしろいという言葉は、石田さんに対しては使うべきでなかった」と、非礼をおわびするはがきを書いた。

もう一つの「凍てた饅頭」も、鳥取と兵庫を結ぶ吹雪の戸倉峠を越えるシーンが圧巻だった。

どちらもハンセン病文学全集4「記録・随筆」には載っていない。



我が家から30分ほどの長島には、邑久光明園と長島愛生園の2つがあり、週に1~2回の「文学ガイド」を目標にしている。

何回かアプローチをしたが、時間的に難しい(団体客の帰りのバス時間等)ようだった。

75才までにチャンスはあるだろう。自分の楽しみのためのガイド、それを一行の人も感動してくれたら二重にうれしい。



2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

今日のクイーン

このページのトップへ

週刊金曜日

このページのトップへ

長島愛生園  加賀田一さん(5)


プロミン薬禍による瀕死状態


 (加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P126~P130抜粋)

 
 私も1949(昭和24)年からプロミン注射を始めました。主治医になられたのが、私と生年が同じで3ヶ月違うだけという若い犀川一夫先生でした。先生も若いし、私も若くて、よく話をし、友達みたいに親しくしていました。先生についてもまとめて第五章「いのち明り」で述べるつもりですが、残念なことについ先年、亡くなられました。

 今思えば、先生にしてもプロミンは初めて使う薬剤なのでよくわからないわけです。それで「あんたは169センチ、68キロだから、午前中に3CC、午後2CCと2回注射を打つ」ということになりました。ところが打ち出して1週間したら寒気がして、10日を過ぎると、斑紋が潰瘍になって、頭の毛が抜けて、39度前後の高熱が出ました。衰弱は烈しく、入所者としてよく見ていたハンセン病の末期と同じ症状となり、いよいよ私も死期が近づいたと思いました。

 一番苦しんだときは、夜、呼吸が困難になりました。寝ていると鼻がつまって窒息しかかるわけです。呼吸ができない苦しさから逃れるために喉に穴を開けてカニューレを差します。園内には「失明10年、喉切り3年」という言葉がありました。カニューレを差すようになると余命が3年という意味です。

 私はちょうどその状態になったわけです。呼吸困難になると、家内は冷ましたお湯をヤカンから洗面器に移し、私はそのぬるま湯の中に顔を突っこんで、苦しいけれど鼻から吸うわけです。そうするとつまっている痰がぬるま湯でだんだんゆるんできて、フッと空気をやるとスポンと抜ける。そんなにスースーとはいかないけれど、ようやく呼吸ができて、これでやっと死と隣り合わせの状態から抜け出せました。

 この苦しさというのは末期症状そのものです。失明後の明石海人に「切割くや気管に肺に吹入りて大気の冷えは香料のごとし」の歌がありますが、瀕死のなかで自分の状態を冷静に見つめて優れた歌にしていることに感嘆します。

 その頃には足も手もものすごく臭くなっています。斑紋が潰瘍になって、そこから膿がたくさん出てガーゼや包帯をするのですが、すぐに滲み出てきます。重病棟ではハエが追っても追ってもたかります。放置しておくと、ウジがわきます。包帯を取るとウジがいるので、つまんで簡易便器に捨てるのを習慣にしている人もいました。ポトン、ポトンと断続するその音は、趣味を楽しんでいるかのごとく聞こえます。私は衰弱していますから、ほとんど家内がやってくれました。

 ガーゼや包帯は洗濯して再生するわけですが、それも患者の重要な作業となっていました。洗濯は普通のお仕着せといっしょだったので、下着だけは自分たちで洗いました。すべてが付添いの仕事だったのですが、私の付添いは全部家内がやってくれました。家内には寒い時期、海に入って貝を取ってきて食べさせてもらったり、ずいぶん世話になっています。

 39.5度くらいの熱が続いたときは、呼吸困難の苦しみと全身の潰瘍、脱毛、衰弱に見舞われました。ハンセン病で一番最悪の重傷状態です。喉に大きな穴が七つも開き、膿が出ました。主治医の犀川医師は、「治らなければ結核の瘰癧、治ればハンセン病」と診断され、放射線治療を受けていました。私もたくさんの病人を見てきていますから、自分でも末期症状だとわかります。

 そのとき思い浮かんだのが北村くんという同年代の友達のことでした。作業からの帰り、病院に寄って、「おい、元気かい?」と見舞ったことがありました。すると彼が「加賀田くん、わしは今晩六時に死ぬわ」と言うんです。「バカなことを言うな。おまえ、何を言っとるか」と言って帰りました。ところがその夜、連絡があって駆けつけると、「六時に亡くなった」と言います。予言どおりに、本当に亡くなったのです。

 それからは人間というのは死ぬ時間まで分かるのかなと思うようになりました。私の命もあと一週間か十日と思って、このままたった一人の母になにも告げずに死ぬのはよくない、最期の知らせだけはしなきゃいかんと思い、約束を破って初めての手紙を出しました。

 母とは入園直前に故郷で会って、それから十三年、お互いにそのときの約束を守って音信不通で通して来ました。これまで偽名など使ったことはありません。本名で通してきたのですが、このとき初めて偽名を使って、母に手紙を書きました。1949(昭和24)年のことでした。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

キャベツの簡単蒸し


IMG_9326_20190222183126a12.jpg 
IMG_9334.jpg IMG_9336_20190222183036fbf.jpg
IMG_9350_20190222183007f0c.jpg

細目にざく切りしたキャベツを無水鍋に入れ、生姜1片をすりおろし、ニンニク醤油で味付けし、強火で5分、極弱火にして5分、火を止めて余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



ヤーコンのカレー粉炒め

IMG_9338_2019022218303735b.jpg IMG_9348.jpg

熱したフライパンに油を入れ、拍子木切りしたヤーコンを炒め、醤油とカレー粉で味付けして出来上がり。




チリメンのポン酢浸し

IMG_9328_20190222183031619.jpg IMG_9332_20190222183033b1f.jpg

火を止めて1分湯通ししたチリメンをザルにあげ、冷水にとり、ポン酢に浸して出来上がり。



目玉焼きとホウレンソウのおひたし

IMG_9340_201902221830014e0.jpg IMG_9344_2019022218300320b.jpg IMG_9346_201902221830043f1.jpg



2030年 農業の旅→ranking





このページのトップへ

銀ちゃん ラムちゃん



 タイトルを見て、何のことかわかりますか。

すぐにピンときたら、あなたも「ファン」です。

これは
「アメショっす」という猫ブログに登場する猫の名前です。

最近はあまり他のブログを見ていないが、「アメショっす」だけは時々訪問している。銀ちゃんが生きていた頃の、2匹でコラボレーションしていた時のような勢いはないけれど。


もう10年以上前のことだが、ふと開いた猫ブログで見てから「はまってしまった」。

たまたまそれを見て気に入っただけで、他の猫ブログも見てみようとは思わなかった。


ヤギを飼い始めた時に、名前を「銀ちゃん、ラムちゃん」にしたのは、これが由縁である。


銀ちゃんが突然に死んだときはショックで、1年ほど、アメショッスを訪問しなかった。

他の人もたいてい、そんな風にして、たまたま目にはいって気に入ったブログだけを見ているのだろう。

「生まれる前から不眠症」というレストラン・飲食店ブログは、以前は毎日訪問していたが、2年ほど前から更新が止まっている。

これ以外のブログを「頻繁に訪問する」ことはなかった。


晴天とら日和」を毎日、何度も開くのは自分のブログのテーマの一つだから。


2030年 農業の旅→ranking





このページのトップへ

今日のクイーン

このページのトップへ

RITERA

このページのトップへ

長島愛生園  加賀田一さん(4)


戦争末期

(加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P117~P119抜粋)


 昭和20年に入ると、食料が療養所に廻ってくることなど期待できなくなり、私たちも園の許可をもらって開墾作業をすることになりました。島の森を拓いて畑にして、種芋も本州のほうから融通してもらって植えつけました。溜池や水田も入所者の労働で造りました。いずれも重労働ですが、自給しなければ飢え死にします。動ける人(7割)は男女の別なくみなゲートルを巻いたり、もんぺ姿で畑作業ですから、まったく異常ですが、その異常が日常となったのがこの時期でした。

 開墾地へ上がる急傾斜をだれ言うともなく「自殺坂」と呼びました。重い「肥たご」や水桶を提げて上がります。途中でひっくり返せば、そこまでの努力がまさしく水の泡と消えました。また「たこ足作業」とも言いました。自分の食い扶持を自分の生命を削って獲得しようとしているからです。動けない不自由者、重病者は自分で食い扶持を確保できないので、かわいそうでした。

 こうした状況のなか、さらに療養者に対して松根油の採集労働が義務付けられました。松根油をというのは、読んで字の通り、松の根から採る油です。島に生えている大きな松の木を切り倒してその根を掘り起し、海辺にまで運んできて斧で割り、その鰹節大の塊りを海辺に据え付けた大釜で長時間焚いて精製した油です。

 これが戦闘機の燃料になるのだそうです。松の大木が密集した緑の島もハゲ山に変わり、松の大木を求めて他の島にも行きましたが、すでに制海権も制空権もなく、南方から運んでくるべき石油もない状況下での窮余の策でした。こんなものを飛行機に使って戦争に勝てるわけがないと、私でも思っていました。

 健康人にも重労働のこの作業のために、屈強な人を、当時の言葉で言う「軍事徴用」に出すよう、施設側から要請されました。その代わりに食事をうんと出すと言うのですが、それで松寿寮で患者の中から十五、六人だったと思いますが、選んで徴用労働に出てもらいました。私たち役員も応援に行きました。

 愛生園にいた私たちにとって、戦争というのはこのようなことでしたが、しかしくだらんことをやったと思います。戦争には負けてよかったと思います。

 愛生園入所者数がもっとも多かったのが1943(昭和18)年で2009人(死者163名)、前年は1800人でした。1942年から1945年まで4年間の死亡者が889人(逃走が413件)、1945年は死亡者最多で332名(1478人の23%)、翌1946年の死亡者は312名です。死者のほとんどは栄養失調です。そのため戦後2年目の1947(昭和22)年には在所者が1200人に減少しています。



2030年 農業の旅→ranking


 
このページのトップへ

長島愛生園  加賀田一さん(3)


紅彩炎



(加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P112~P113抜粋)


 終戦の前年(昭和19)にもなると、野草でも食べられるものならなんでも食べるというような劣悪な食糧事情になり、私たちも自給自足を目指して島内の荒地を開墾しサツマイモやカボチャなどを作りました。ところがこの重労働が原因で病気が再発する入所者がどんどん出てきました。私たちはこのことを「菌が騒ぎ出した」と言っていましたが、私の場合、まず第一番に目にきました。

 それは「紅彩炎」という炎症で、目に光線が入るとものすごく痛い。部屋には黒いカーテンを張って、光線を入れないようにしましたが、それでも痛くて痛くて、一週間泣き通しでした。一ヶ月ぐらいで痛みは治まりましたが、目を開けると、ほとんど見えなくなっていました。紅彩癒着を起こしており、瞳孔が針の穴ぐらいになっていて、メガネをかけてやっと少し見える程度でした。

 それが薬もないのにどうして治ったのか、私もよくわからないのです。ただ覚えているのは20CCの血液から採取した2CCの血清を注射したことです。「あんた、こんな瞳孔で見えますか」と、新しい先生が来られるたびに不思議がられましたが、瞳孔は小さい穴のままにしていたら、目のほうは治まりました。



2030年 農業の旅→ranking


 
このページのトップへ

チャーハン


IMG_9313.jpg IMG_9315.jpg IMG_9318_2019022118433545e.jpg
IMG_9321_20190221184337401.jpg

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、魚ソーセージ、ニンジンの順に炒め、ニンジンに火が通ったらホウレンソウのおひたしの粗みじん切りを入れて炒め、ニンニク醤油で味付けして火を消し、ご飯を入れ、ほぐしながら点火し、具材とご飯がなじんだら出来上がり。



ハクサイとツナ缶の煮物

IMG_9298_2019022118442477a.jpg IMG_9305.jpg IMG_9325_20190221184338933.jpg

ざく切りしたハクサイを無水鍋に入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ツナ缶の油をよく切って、ほぐしながら入れ、ニンニク醤油のニンニク1片の薄切りを入れ、生姜1片をすりおろし、強火で7分ほど煮て、一度混ぜ、極弱火にして10分煮て出来上がり。





ホウレンソウのおひたし

IMG_9309_201902211844013a8.jpg IMG_9311_20190221184403d73.jpg




ダイコンおろし

IMG_9307_20190221184400dc0.jpg
 


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

キンリョウヘンの開花まで、あと40日


IMG_9261_20190220183935d0d.jpg IMG_9271_201902201839358ab.jpg IMG_9273 - コピー

備前平野に春を呼ぶ「西大寺の裸祭り(2月の第3土曜日)」が終ると、いよいよ、キンリョウヘンも35キロ地点にさしかかる。42キロのゴール地点は4月1日(開花目標の日)である。


開花まで40日を切った今日、キンリョウヘンを田んぼに移動した。家の南向きの軒下では、朝日があたるのが9時半頃になるから。


花茎の伸長には、8時頃からの朝日と、水やり回数を増やして、花芽に春の到来の刺激を与える。


12月、1月、2月の3ヶ月間、そのままの状態を保ちながら休眠していたような花芽も、3月に入ると花芽の茎が伸び始める。


世話は家の軒下に置いていた時とあまり変わらないが、日除けのない田んぼなので、画像のように、陽の射す側から、透光率30%ほどの寒冷紗をトンネルの7割ほどにかぶせている。


寒冷紗をかぶせる時間帯は、晴れた日は9時半~4時頃である。


トンネルを作り、べた掛け資材のパオパオを二重掛けし、その上からポリをかぶせ、その上に寒冷紗をかぶせる。あまり高温にならないようにポリのすそを少し開ける。


家に帰る前に、ポリのすそを閉め、古毛布をかぶせ、菰をかぶせ、雨避けのブルーシート(右の画像)をかぶせる。


朝、田んぼに来たらブルーシートをとり、菰をとり、古毛布をとり、寒冷紗もとる。


ポイントは、
(1)午前8時頃からの太陽に当てるため、日陰のない田んぼに置く。

(2)それまでの週1回の水やりを3~4日に1回にふやす。

(3)葉焼けしやすいので寒冷紗が必須と思う(覆う位置をしばしば変える)。

(4)あまり高温にならないようにポリのすその開閉をこまめにする。

これからの40日間は、(3)と(4)の世話のため、春の農作業をしながら、たえずキンリョウヘンを気にかけて、何度もチェックしている。だから開花まで、家と田んぼの往復だけで、あまり外出しない。


4月1日の開花を1年でも早くマスターして、コツをつかむ。ぼくも4年ほどかかったが、その後はずっと成功している。
 


2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

今日のクイーン

このページのトップへ

毛ば部とる子

このページのトップへ

長島愛生園  加賀田一さん(2)

 
断種は傷害罪

(加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P12~P14抜粋)

 今の子供たちは学校の授業で男女の肉体の構造やら生殖、妊娠の仕組みなどについてきちんと教育を受けています。そんなことも聞いていたので、私は講演で「ワゼクトミー」という断種手術を受けた体験を話します。

 講演後、彼らは感想文を文集にして送ってくれますが、私のような老人の話をどんなふうに受けとめてくれたのか、感想文は私の社会活動への応答であり反応ですから、読むのは毎回楽しみです。

 岡山の私立の女子高校へは三年間続けて講演に行きましたが、そのときの感想文に私はつくづく現代の若い人のセンスに驚かされ感銘を受けました。感想文の一つに「断種というのはメスで身体を傷つけることです。だから傷害罪です」とあったのです。

 私は具体的な手術の話など一切していません。ワゼクトミーは輸精管の切除結紮による部分除去手術です。復活再生はできません。メスを使われた当事者である私には、女生徒のようなこういう発想はできませんでした。

 「国民優生法」が定められた背景には、当時、国策として「産めよ、殖やせよ」と出産が奨励されていたことがあります。健康な国民を生み増やすことが奨励されていました。にもかかわらず、私たちには断種、堕胎手術が執行されたのです。

 当時、国立らい療養所においては園長権限が治外法権のごとく認められていました。それは「懲戒検束権」として「癩予防法施行規則」に明文化されていました。入所者は基本的に患者なわけですが、その病人を秩序維持の名目で園内監獄に何日も閉じ込め、食事制限等の懲罰を加えることができる警察・司法権限を園長に与えていました。

 そのような場所だったから医師たちも断種、堕胎、さらには解剖など、思うままにできたのだと思います。しかし旧憲法下であってもそれは違法だったでしょう。堕胎については特に堕胎罪がありましたから、被害者の妊婦は犯罪者となり、処置した医師や看護婦だけでなく指示した園長は幇助罪どころか教唆強要罪の主犯となり、医師法を犯したことになります。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

長島愛生園  加賀田一さん(1)


患者の死に方

 (加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P106~P107抜粋)


 愛生園では死は軽いものでした。戦争中、私が当直した日、寝ている姿そのまま、栄養失調で弱って死んでしまった人がありました。朝、起き出さないので、布団のなかを見るとすでに息絶えていました。まだ30代の壮年期でした。患者が脈を取ったわけでもない。看護婦も医者も脈を取った訳でもない。脈を調べないうちに死んでしまった。こういう姿を私は見てきました。

 戦争末期の昭和19年や20年頃は、労働もきつく食料も不足していたのでもっともたくさんの死者が出ました。当時私は患者事務所の松寿寮の役員をしていましたから、事務所に出ていて、入所者が亡くなったという連絡を受けると、そこへ行くのが仕事のひとつでした。故人の持ち物を勝手に持っていかれては困りますから、それらをきちんと記録し、慰安金を納めるというようなことをしていました。

 多い時は、1日に4回、立ち会いに行ったことがあります。4人の死者が出たということです。「今朝、起きて『洗面だよ』と布団をめくったら死んでおった。それで看護婦に連絡して、それから医者に連絡してきた」という連絡を受けたこともありました。終戦の年には332人が死んでいます。実に入所者の23%です。これでは最後まで残ってもあと4年だなあと思ったものです。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

リメイクしてグラタン


IMG_9287.jpg IMG_9290_201902201837453a3.jpg IMG_9292_20190220183746e84.jpg

食パンを半分に切って焼き、グラタン皿に入れ、昨日の残りのホワイトシチューをかけ、とろけるチーズ1枚を半分に切って入れ、青味にホウレンソウのおひたしを置き、200度で予熱したオーブンで12分焼いて出来上がり。



ニンジンの酢醤油

IMG_9278_20190220183813618.jpg IMG_9280_20190220183814e7b.jpg IMG_9282.jpg
IMG_9295.jpg

ニンジンを拍子木切りして水から茹でて、柔らかくなったらザルに上げる。その間にボールに醤油大さじ1と半、酢大さじ1、みりん大さじ1、砂糖大さじ1を入れて混ぜ、ニンジンを入れて混ぜ、すりゴマ(市販品)をふって出来上がり。



味噌汁
  
IMG_9276_201902201838117da.jpg IMG_9285_20190220183817ed0.jpg IMG_9296_20190220183749973.jpg

乱切りしたサツマイモ、千切りしたダイコンとニンジンと練り製品1枚を鍋に入れ、水とダシの素、削り節を入れ、煮立ったら弱火にして15分煮て味噌を溶き入れ、ネギをふって出来上がり。


2030年 農業の旅→ranking




このページのトップへ

友人


 10代の頃のことが、還暦を過ぎた頃から、しばしば頭に浮かぶようになり、自分の中で一定の場所を確保して同居するようになった。


あなたも、還暦を過ぎた頃から、若いときのある一時代のことが思いだされて、頭から離れなくなったりしませんか。



あなたはもう地上にはいない

私に原因があったのかも知れない

精神的に追い込んだのかも知れない

知らず知らずのうちに


あやまることもできない


償うこともできない

どうすることもできない


ただ、ひたすら祈るだけ


ただ、ひたすら祈るだけ


あなたを取り巻いていた多くの人も

時代の変転に連れ、一人減り、二人減りして

あなたのことを思いだす人は少なくなっている

同じ年の私も土に還る頃

あなたの姿を思いだす人がいなくなって

なにもかも過ぎていこうとしている


何をどうすることもできないが

ただ、思い浮かべ

ただ、思い浮かべて


そのように生きていく



2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

今日のクイーン

このページのトップへ

誰かの妄想・はてなブログ版

このページのトップへ

長島愛生園  近藤宏一さん(23)

 

近藤宏一さんの思い出


近藤宏一さんの一周忌になります。
ずっと「青い鳥楽団」のことを思っていました。
 
私がハンセン病療養所東北新生園に入所したのは、小学6年生、12歳の夏休みの時でした。左手の指が少し不自由になり、父に連れられて診察に行ったのです。診察の結果は即入園でした。

夏が過ぎ、冬が過ぎても、左手の指は治る様子がありません。それどころか中学校を卒業する頃には、両脚にも神経麻痺が広がり、特に足の裏に傷ができようものなら、治ることは難しくなっていきました。私の体質にはプロミンは合わなかったので、肉体的に不安がいっぱいでした。

昭和36年当時、私たちが入学できる高等学校は、日本で唯一長島愛生園にしかありませんでした。私は、その県立邑久高等学校新良田教室を受験して合格したので、愛生園に転園することになりました。「伝染病患者輸送」と書かれた紙の貼られた列車に乗って岡山駅まで行ったのです。本土と長島との距離は、最も近い瀬溝から約三十メートルほどしか離れていないのですが、橋は架かっていませんでした。

高校の校舎、職員室、寄宿舎は同じ敷地内に建っていました。教師に用事があるときは、職員室に入れないので、外の壁に取り付けてある教師の符号が記してある表示を見て、ブザーを押すのです。モールス信号みたいなものでした。園内の売店にない品物を教師にお願いするのですが、出入口の所にクレゾール消毒液の入った洗面器が置いてあり、その中にお札を浸して、窓ガラスに張り付け乾かしていました。十五歳の私にはショックでした。

桜の花が満開になり、「青い鳥楽団」の発表が愛生会館でありました。大きな会館でした。一階は入園者の座布団席、二階は職員の長椅子席でした。

カラオケのない時代に、当時流行っていた「有楽町で逢いましょう」「南国土佐を後にして」等々、「青い鳥楽団」の伴奏で、入園者、職員がマイクの前で歌っていました。看護学生の生徒さんたちの合唱、クラシックの演奏もありました。入園者と職員の心と心を結び、会場を明るくしていたのです。
 
東北新生園出身の私には驚きでした。その時初めて近藤宏一さんを見たのです。近藤さん三十五歳の時でした。(私と二十歳違い)

後にこの楽団に出演するようになり、練習のお手伝いもするようになりました。

楽長の近藤さんは、点字を解読するのも、感覚が残っている唇か舌で読んで暗譜し、一人ひとり、パート別に手拍子や大きな声を出して教えていました。その練習は教える方も教わる方も真剣で、ハーモニカに命を賭けていました。熱気が伝わってきました。

愛生園にあった高校に入学ができてよかった。

在学中は近藤さんに会うのが楽しみで、頻繁に部屋に通い、あらゆることを話題にして時間を忘れて話し込んでいたものでした。

奥さんの貴江さんも盲人で、忙しい近藤さんを気遣って休むように声をかけると、「君、うるさいよ」との返事。「近藤は言うことを聞かないんだから・・・」と言って、りんごの皮を口で剥いていました。近藤さんがそれを食べていました。これが夫婦か、と思いました。

その頃に接した詩は、


盲目の譜

人間の

ものを見るという不思議

見えないという不思議

これぞ まこと

神の傑作・・・


高校生だった私はこの詩が好きで常に口ずさんでいました。

私と散歩のときは、両足が不自由なので長靴を履き、私と腕を組み片手に白杖を持ち、お喋りをしながら光ヶ丘方面に行くのです。種々の小鳥のさえずりが聞こえます。「僕にはこのさえずりが、ドレミの音階に聞こえるよ」。近藤さんは一度曲を聴けばハーモニカを吹けるので、「近藤さんの頭の中はどうなっているの?」と聞くと、「黒板と同じだよ。次の曲が入ったら前の曲は消えてしまうんだよ。ウフフフ」。「せりふでアクセントの違いを覚えるのは・・・」と問うと、「ドレミの音階で覚えるんだ。その方が覚えやすいよ」と言って、やってくれました。また、私たち二人は「讃美歌」などを二部合唱しながら散歩していたのです。

卒業の頃、同級生たちが社会復帰していくことが羨ましくて、そのことを近藤さんに話すと、「どこにいても卑屈になるな」と言われた言葉が忘れられません。

亡くなる三ヶ月前のことです。悪性リンパ腫の疑いがあるとのことで、岡山の医療センターに検査入院をすすめましたが、「私はこの部屋を出たくないんだ」「この時を大切にするんだ」「自分を表わすんだ」と言うのです。

長時間かけて説得し、いったん入院したのですが、愛生園の自分の部屋に帰ってきました。愛生園に帰っても、病棟に入ろうとしません。「僕はここで死ぬ。松雄君、僕は弱いよ。これが僕の総てだ」

2009年十月五日、息をひきとりました。死の時まで、自分を表現していました。

十二歳から八十三歳までの生涯の作品を、残していきました。一冊の本に集め、出版できることを嬉しく思います。

2010年9月
佐々木松雄

「闇を光に」の末尾に佐々木松雄さんが書かれていた追悼文です。
 


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

ホワイトシチュー


IMG_9245_201902191751065e3.jpg IMG_9248_20190219175108781.jpg IMG_9250_20190219175039a29.jpg
IMG_9260_201902191750464da.jpg 

熱した鍋に大さじ1の油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、15秒湯通しした豚肉100g、タマネギの順に炒め、残りの野菜(ジャガイモ、ニンジン、カブ)を入れ、全体に油がまわったら火を止めて大さじ3の薄力粉を入れて混ぜ、粉が消えたら1カップの水とコンソメ2個を入れて点火し、牛乳を入れて混ぜ続けながら、煮立ってきたら極弱火にして35分ほど煮て出来上がり。



チリメンのポン酢浸し
  
IMG_9255.jpg IMG_9256.jpg

1分湯通ししたチリメンをザルに上げ、冷水をかけ、お椀に入れ、ポン酢に浸して出来上がり。


2030年 農業の旅→ranking





このページのトップへ

ネット記事と新聞記事


 ネットの政治ブログ(「晴天とら日和」に出てくるブログ)を読むようになって、「今、どういうことが問題になっているか」よくわかるようになった。


新聞では、これがわからない(つかめない)。


新聞はいろんな人が読むから、一般的な評論記事になるのは致し方ないかも知れない。


政治の肝心なところが新聞ではわからなく(見えなく)なっているが、これは政権への忖度もあるだろうし、

その新聞社のトップに位置する人たちの考えが反映するだろうし、

スポンサー)という立場もあるだろうし、

それぞれの新聞社員の生活がかかっているから、政権の監視というより、ビジネスの視点が優先されることも多いだろう。

それでも新聞のよい点は自分が必要としない、自分があまり関心のない、スルーしてしまうような記事も目に入って来るということが、とてもいい。


逆に言えば、不必要なことと思われる記事が、自分の知識の補完になっていることもある。

機械でいう「遊びの部分」だろう。

ネットだったら、関心のある、興味のある記事しか読まないから、それ以外は目に触れない。


新聞は月に3000円、1日に100円で、最低限の情報維持と思っている。ネットだけでは十分でない。

ただ、真剣に対峙するのはブログの記事で、新聞は政治以外の記事を読むことが多い。


ネットには無料の記事あるがあふれているし、それを読むだけで「手が回らない」状態なので、有料記事を読むまでに至らない。

同じ新聞記事でもデジタル記事の方に本音が出やすいだろう。


新聞は第一面に何を持ってくるかで、イメージが全然違ってくる。本当に書かなければならないことを書かない(書けれない)のも、新聞だと思う。



2030年 農業の旅→ranking




このページのトップへ

今日のクイーン

このページのトップへ

黙翁日録

このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在65才、農業歴29年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最新記事

最新コメント

カテゴリ

カウンター

QRコード

QR

検索フォーム

月別アーカイブ