プロミンの発見
「いつの日にか帰らん」P124~P126抜粋
プロミンの発見は、ハンセン病患者にとって、まさしく「世界観」「人生観」の百八十度の転換をもたらす出来事でした。不治といわれていたのが、そうではなくなったのです。治って社会に復帰する希望をもつことができるようになりました。一生を閉ざされたなかで同病相憐れみつつ、国の世話になって生きてゆくことを運命、宿命とする必要がなくなりました。一般の病気の患者と同じ位置に着けた喜びです。
ハンセン病菌は結核菌とたいへんよく似ているとはずっと聞いていました。結核治療に使うプロミンをハンセン病者に使用したら著しい効験があったのです。1941年(昭和16年)、アメリカのハンセン病療養所カービルでのことです。カービル療養所は初めルイジアナ州立で、そうとう激しい所だったことから、日本が見習ったといいます。その後国に移管されて、太平洋戦争が始まった年にプロミン治療を発見しました。
カービルでは強制収容を、「国」を守るためではなく真に「公衆衛生」さらには「公共の福祉」のために行ったようです。病者一人一人の治療をすることが「公衆衛生」であり、「公共の福祉」だという方針でした。病者を見えないどこかへ排除(駆除)することで「守る」ような「公衆」や「公共」ではなく、病者を含む公衆であり公共であって、駆除の対象は病気でした。アメリカでも差別意識は強かったとのことですが、それでも「独立宣言」がこういったところで活きているように感じます。
日本では国民から見えない「外」に排除したところで「楽園」づくりに励ませつつ、「公共」のための医学の研究材料に供する「非国民」として「飼い殺し」にしていました。
敗戦の翌年にはプロミンに関する情報が日本にも入ってきました。光田園長は若手の犀川一夫先生にプロミンに関する英文の論文を翻訳するよう指示しています。またさらに次の年、東大薬学部の石館守三先生が日本で初めてプロミンの合成に成功しています。私たち患者にとって命の恩人といっていい石館先生に、後年、大阪でお会いできた話は第5章「いのち明かり」で記したいと思います。
プロミンの治療は愛生園と東京の多摩全生園とで未婚の女性、十人ずつに静脈注射することから始まりました。今なら問題になる人体実験的な試みです。これでピタッと菌がなくなって、非常によく効いたということです。1946年(昭和21年)、新憲法が発布された年です。
この情報が全国に広がって、新薬発見に騙され続けてきた入所者はいっせいにプロミン獲得運動に立ち上がり、プロミンの希望者全員への投与という要求によって、5千万円の予算がつき希望者全員への注射が可能になりました。そしてこの運動を通じて全国癩療養所患者協議会を結成する運びとなりました。
初期は注射で、毎日打たねばならず、療養所への入所が必要条件でした。その後の経口内服薬になってからも療養所以外では使用させないシステムを堅持したため、これが強制隔離の存続につながってしまいました。
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ぼくも45年ほど前に見た記憶があるが、確か主人公はラストシーンでハチの巣のように銃撃された?
しかし、見る視点が全然違うなあ。書かれていることに気づかなかった。
更新はたまにだが、欠かさず読ませてもらっています。
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