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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

リンゴの木とニュートン


いよいよ明日から3月だ。

1月はいぬる、2月はにげる、3月はさる というが、冬の農閑期は他の月に比べて、またたく間に過ぎて行く。

もっと農閑期が続いてほしい。

ただ、自分の農業形態(ワンパック宅配)では、3月、4月の2ヶ月は野菜の端境期なので出荷をしていない(ワンパックでは少なくとも12種類は入れる必要があるから)。だから時間的には、春の出荷が始まる5月連休明けまで、そう忙しくない。



農業はほどほどにしている場合は「癒し」だが、人それぞれの「一線」を越えると、とたんにストレスの多い職業となる。

つまり癒しとストレスは紙一重である。


ニュートンがリンゴの木の下でぼう~っとしていた時に、落ちて来たリンゴを見て「万有引力の法則」を発見したように、ぼう~っとした時間があって、頭の中がいつもと違った状態になったときに、「新しい何か」を思いつく。

新しい何かが進めれたのは「農閑期だけである」。農閑期以外は農業に追われた。

そして、時間的、精神的余裕は還暦以後になってやっと少しできた。つまり、今、テーマにしているブログの始まりは還暦以後が大半である。

(1)ハンセン病文学は61才目前から

(2)政治への関心は2017年10月の衆議院選挙の1ヵ月ほど前から

(3)クイーンは映画が騒がれてから

(4)400字の作文を目標に掲げたのは1ヵ月ほど前から

(5)夕飯作りを毎日始めたのは59才の頃から


その新しい「何か」は最初のスタートダッシュで、ある程度の「形にする」ことができなかったら、なかなか軌道にのせれない。だから思いついてから2~3週間は「がむしゃら」に進めた。


これといった趣味はないので、関心や興味を持つように、何か目についたら、

(1)とにかく、無理をしてでも関心を持つ、その方向にもっていく。

(2)うまく、のっかるようにする

(3)とにかく1~2ヶ月は続けてみようと気負う

(4)1~2ヶ月でうまくいきそうになかったら、あきらめる

ぼくはそのようにしている。



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今日のクイーン

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くろねこの短語

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長島愛生園  加賀田一さん(13)


園内「作業」


 「いつの日にか帰らん」P75~P76抜粋
 
 愛生園のなかでは、長期療養者である多くの入所者が元気な様子で作業に従事していました。少しは働いて、わずかでも金を稼いで生活をしていくということは、物心両面で効用もあったと思います。仕事には大工、理髪、製菓、製茶、窯業、養豚、養牛(牛乳屋)、園芸、農場、裁縫、洗濯、保母、購買(売店)等がありました。また舎屋建築のための掘削や道路造りのための土木工事もあり、技能のすぐれた朝鮮の方が取り仕切っていました。病人が力仕事をするのもおかしなものでしたが。

 作業は内容によって甲乙丙の三種類に分かれていました。それぞれ一日五時間働いて十銭、八銭、六銭でした。土工仕事は丙でした。もっとも安いタバコのゴールデンバットが七銭の時代です。しかしこれらの作業については一応、本人が希望した職種を選べますから強制労働というわけではありませんでした。私は夜学で商業簿記を学んでいたので、まだ初歩でしたが、そういう専門家も少ないこともあり、まもなく購買部の売店の経理をやるようになりました。また新憲法施行にともなって、園内通用票を現金に振り替えることもしました。

 愛生園はかたちこそ療養所でしたが、目的は不治の病を前提にした、病者による病者だけの「楽園」作りにあったようです。そのためには避けられない強制労働がいくつもありました。


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長島愛生園  加賀田一さん(12)


療養所の設立

 
「いつの日にか帰らん」P81~P82抜粋

 日本でハンセン病対策に最初に乗り出したのは、キリスト教の布教に来た外国人宣教師たちでした。病者が治療や救いや施しを求めて集まってきた草津、御殿場、熊本にはそれぞれ温泉、寺社があり、集落がありました。西欧先進国ではハンセン病はほとんど根絶していましたから、彼らハンセン病者を見た宣教師たちが、そこに療養所を設けました。西欧並の一流国家となることを史上目的とし、日清・日露戦争に勝った日本は対面上、「浮浪癩」の一掃を図ったのが「癩予防二関スル件」(明治四十年法律第十一号)です。公立療養所建設は、人々の目から彼らを隠すことを主目的として彼らを収容しました。

 そんな時代に登場したのが光田健輔医師でした。彼は日本からハンセン病をなくすため、第一回国際らい会議(1897年)の「らいは遺伝病ではなく、らい菌による感染によって引き起こされる慢性感染症である。したがって隔離することが安全である」という決議に従って救済と隔離収容が必要と熱心に運動し、やがてはハンセン病医療行政の中心的推進者となりました。



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ナバナのおひたし


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ナバナの太い茎は薄切りし、他はざく切りする。

沸騰したら先に薄切りした茎を入れ、30秒後にその他の部分を入れ、2分ほど煮て冷水にとり、水気をしぼって出来上がり。


チャーハン

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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、ベーコン3枚の細切り、ニンジンの角切りの順に炒め、ニンジンに火が通ったらナバノのおひたしを細かく切って入れ、ニンニク醤油で味付けし、強火で1分炒めて火を消し、ご飯を入れ、ほぐしながら点火し、ご飯と具材がなじんだら出来上がり。



味噌汁

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ダイコンとニンジンの千切りを鍋に入れ、練り製品1枚の細切りを入れ、水とダシの素を入れ、煮立ってきたらキャベツのざく切りを入れ、弱火にして10分ほど煮て味噌を溶き入れ、ネギをふって出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし

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目玉焼きとナバナのおひたし

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熱したフライパンに油を入れ、卵2個を落し、ナバナのおひたしを置き、弱火で3分、余熱2分で蓋を開け、醤油と胡椒で味付けして出来上がり。


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土着性


人ごみの中で人は孤独を感じやすく、自然の中では(いつも1人でも)自然の懐にいだかれて孤独の意識が生じない。


都会では風景が記憶にさほど残らず、田舎では見慣れた風景がいつもそこにある。


都会では道を歩いていても知った人に会わず、田舎では過疎で高齢化して人が少なくなっていても、見慣れた人に会う。


都会では「ふるさと」をどのようにイメージしているのだろうか。今住んでいる所がふるさとなのか、それとも人生のひとときの間の仮の住まいか。ふるさとなど考える余裕もないのが現実かも知れない。


農業は土地にすがりつくような生き方なので、もし福島のように住めなくなったら、自分の立ち位置を見失ってしまう。


土着性というのは人間の本能と思うので、土から離された人間は自己を喪失する危機に直面する。


福島はむごい現実である。土に帰依して生きてきた農民が土から離されたら、生きるすべがない。


農家でなくても、福島というふるさとを原発によって喪失したら、どうやって生きて行けというのか。


もし自分だったら





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くろねこの短語

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長島愛生園  加賀田一さん(11)


プロミンの発見
 

「いつの日にか帰らん」P124~P126抜粋

 プロミンの発見は、ハンセン病患者にとって、まさしく「世界観」「人生観」の百八十度の転換をもたらす出来事でした。不治といわれていたのが、そうではなくなったのです。治って社会に復帰する希望をもつことができるようになりました。一生を閉ざされたなかで同病相憐れみつつ、国の世話になって生きてゆくことを運命、宿命とする必要がなくなりました。一般の病気の患者と同じ位置に着けた喜びです。

 ハンセン病菌は結核菌とたいへんよく似ているとはずっと聞いていました。結核治療に使うプロミンをハンセン病者に使用したら著しい効験があったのです。1941年(昭和16年)、アメリカのハンセン病療養所カービルでのことです。カービル療養所は初めルイジアナ州立で、そうとう激しい所だったことから、日本が見習ったといいます。その後国に移管されて、太平洋戦争が始まった年にプロミン治療を発見しました。

 カービルでは強制収容を、「国」を守るためではなく真に「公衆衛生」さらには「公共の福祉」のために行ったようです。病者一人一人の治療をすることが「公衆衛生」であり、「公共の福祉」だという方針でした。病者を見えないどこかへ排除(駆除)することで「守る」ような「公衆」や「公共」ではなく、病者を含む公衆であり公共であって、駆除の対象は病気でした。アメリカでも差別意識は強かったとのことですが、それでも「独立宣言」がこういったところで活きているように感じます。

 日本では国民から見えない「外」に排除したところで「楽園」づくりに励ませつつ、「公共」のための医学の研究材料に供する「非国民」として「飼い殺し」にしていました。

 敗戦の翌年にはプロミンに関する情報が日本にも入ってきました。光田園長は若手の犀川一夫先生にプロミンに関する英文の論文を翻訳するよう指示しています。またさらに次の年、東大薬学部の石館守三先生が日本で初めてプロミンの合成に成功しています。私たち患者にとって命の恩人といっていい石館先生に、後年、大阪でお会いできた話は第5章「いのち明かり」で記したいと思います。

 プロミンの治療は愛生園と東京の多摩全生園とで未婚の女性、十人ずつに静脈注射することから始まりました。今なら問題になる人体実験的な試みです。これでピタッと菌がなくなって、非常によく効いたということです。1946年(昭和21年)、新憲法が発布された年です。

 この情報が全国に広がって、新薬発見に騙され続けてきた入所者はいっせいにプロミン獲得運動に立ち上がり、プロミンの希望者全員への投与という要求によって、5千万円の予算がつき希望者全員への注射が可能になりました。そしてこの運動を通じて全国癩療養所患者協議会を結成する運びとなりました。

 初期は注射で、毎日打たねばならず、療養所への入所が必要条件でした。その後の経口内服薬になってからも療養所以外では使用させないシステムを堅持したため、これが強制隔離の存続につながってしまいました。


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キャベツ炒め


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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、魚ソーセージ、キャベツの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。


目玉焼き

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君子危うきに近寄らず

 
ぼくはこの格言が好きだ。

だからよく、頭に思い浮かべる。

逆に、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という格言は嫌いだ。



これはぼくの人生観である。

別にぼくが聖人君子というわけでは全くない。

常に知らず知らずのうちに、そういう行動になってしまうということ。

この行動は、いい面、悪い面の半々だろう。



ぼくは「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という態度が苦手なので、それを選択しない。

組織の中では典型的に出世コースから脱落するタイプである。

徒党を組まず、孤高にとどまりやすい。農業向き。


新聞記者が首相と「会食」などとは、自分ならありえない。そんなことをしていたら、客観的な記事は書けない。

「君子危うきに近寄らず」は、会食で頭に浮かぶ格言だ。

何か情報を得るために「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とでも言うのか。

欧米ではありえないのではないか。



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今日のクイーン

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私のエッジから観ている風景


ゴッドファーザーが好きな理由
 

ぼくも45年ほど前に見た記憶があるが、確か主人公はラストシーンでハチの巣のように銃撃された?

しかし、見る視点が全然違うなあ。書かれていることに気づかなかった。

更新はたまにだが、欠かさず読ませてもらっています。


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長島愛生園  加賀田一さん(10)


相互扶助


「いつの日にか帰らん」P84~P86抜粋


 愛生園のいいところは、同病者同士ということでコミュニケーションが簡単に取れたことです。そしてなんの気兼ねもなしに外を歩けたことです。職員居住地域との間には境界線が設けられており、それは厳重に守られていましたが、それさえ受け容れればずいぶん癒しになったと思います。最初に見たときの衝撃も案外に早く慣れて、抵抗感も次第になくなっていきました。

 ハンセン病は初めは元気であってもいずれ何年か後には必ず悪くなるときがあるといわれていたので、悪くなったときには必ず患者さんに世話になり、迷惑をかけることになるのだから、元気なうちに世話をしておこうという気持ちが自然にありました。

 私は入って三ヶ月ほどしてひどい発熱に見舞われました。そのとき診察を受けた先生がマスク、帽子、白衣で性別がわからなかったのですが、聴診器を胸に当て、私の肩から両腕を押さえて、「あー、あー、あーと続けて声を出してください」という独特の診察法でした。私は肋膜炎と思ったのですが、先生の診断は「気管支炎」でした。立ち居振る舞い、物言いが「男まさり」のこの医師が小川正子先生でした。

 小川先生は、敬愛する光田先生の指示で、患者の診察と収容を目的に四国の山間まで旅して回っていました。その記録とつれづれの歌をまとめた作品が『小島の春』です。『小島の春』は昭和13年、14年と2年続けてベストセラーになり、翌15年には映画化されて、大好評を博しました。ハンセン病の悲哀、とくに家族の絆を世間に訴えて、長島愛生園を有名にした作品です。架橋運動で来園された何人もの厚生大臣も、「私も学生時代に『小島の春』を読んで一度訪ねてみたいと思っていましたが、こんな形ではなく早く橋を渡って来たいと念願しています」と挨拶されました。

 また、すでに失明しておられましたが、明石海人の歌集『白描』の刊行もこの頃で、歌集としては破格の25万部が売れたとのことです。文芸活動は入所者の精神的怠惰を防ぎ、園内の精神作興に役立つとして施設側もたいへん奨励していました。



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ダイコンの味噌煮


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乱切りしたダイコンを鍋に入れ、小さじ1の醤油を入れ、砂糖、酒、みりんを入れ、ひたひたに水を入れ、ダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、15秒湯通しした豚肉100gを入れ、10分煮て味噌を溶き入れ、ユズの皮をすりおろして出来上がり。


味噌汁
 
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千切りしたニンジンとダイコンを鍋に入れ、水とダシの素と削り節を入れ、煮立ってきたらざく切りしたキャベツを入れ、再度煮立ったら弱火にして10分煮て味噌を溶き入れ、ネギをふって出来上がり。




ホウレンソウと卵炒め

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熱したフライパンに油を入れ、ホウレンソウのおひたしを炒め、溶き卵1個に砂糖と少し多めの醤油を入れて混ぜ、フライパンに入れ、卵に火が通ったら出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし

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片付かない部屋

 
400字のつぶやきの作文を考え

寝ても醒めても立ち居につけても

そこまでではないが、ずっと頭の隅に置いておかないと

400字が出てこない


そんなことばかり考えていたら

部屋が散らかって、片付かない状態に


置いたらそこに置きっぱなしになり、たった10秒で済むのに、何日も動かずにとどまる


届いた郵便物にも眼を通さないまま、忘れてしまい


寝る前の20分ほどの背筋運動もできていない


その時期にしておかなければならない農作業も後手後手になり


これはやっぱり、依存症か

依存症ではなく昇華にしないと



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今日のクイーン

Another One Bites The Dust - We Are The Champions - Wembley 1986
 

「ボヘミアンラプソディー」でラミ・マレックが今日「アカデミー賞主演男優賞」を受賞した。これを祝してこの曲を。

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RITERA

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長島愛生園  加賀田一さん(9)


堕胎、断種手術

「いつの日にか帰らん」P86~P87抜粋


 1915(大正4)年、光田園長によって初めて堕胎手術がなされました。愛生園ができる15年も前、先生が多摩全生病院(全生園)の医官時代です。

 ある女性患者が生んだ子供をお百姓に里子に出す約束をしたら、その里親から養育費を請求されました。そんな予算は病院(療養所)にはありません。内部で育てるような設備も体制もありませんから、その子は草津の聖バルナバホームに送られ、そこで育てられました。

 幼児期感染がもっとも多いことを調査結果が明らかにしていました。そこで次の子供の妊娠が判明したとき、この子が生まれても幸せな人生を送れないかもしれないからと、堕ろすことを勧めました。彼女が承諾してくれたので堕ろしたということです。一方では結婚を奨励しつつ、同様の説得をして、断種を始めて全生病院で行ったのがその年でした。

 それ以降、いつのまにか断種、中絶、堕胎が結婚の条件となって強制されるようになりました。



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長島愛生園  加賀田一さん(8)


堕胎室

「いつの日にか帰らん」P87抜粋


 愛生園では普通の病棟の間に外気室という、二坪ぐらいの小さなプレハブのような部屋があり、そこは肺結核の排菌の激しい病人を暫定的に一人だけ入れておく部屋でしたが、ほとんどそこで堕胎をしていました。その部屋で発せられた妊婦と思われる女性の呻き声を聞いた人もいます。私が見たのは、婦長がガーゼに包んだものを急ぎ足で運んでいる姿です。それが堕胎児で、そのままガラス瓶のホルマリン漬にされて、試験室に並べられていました。「一時帰省」を願い出て、事務的処理と「鼻汁検査」の終った人は、この試験室で光田園長の最終検査を受けましたから、多くの人がホルマリン漬けの胎児の臓器標本を見ていたはずです。


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リメイクしてカレー



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昨日の肉ジャガの残りは、1カップの水を入れ、ルーを1個入れ、カレーにした。



シシャモ

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ホウレンソウ炒め

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熱したフライパンに油を入れ、ホウレンソウのおひたしを炒め、溶き卵1個を入れ、砂糖と醤油で味付けして出来上がり。


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見つけた先生は高校生だった


パソコンが使いこなせることと、ブログ記事にしたい趣味や関心を持っていることは、両立しない。


ぼくはパソコンが使いこなせないので、質問事項がたまったらメールで依頼して「個人指導」を受けている。


新聞で見つけた先生は、その時「高校生」だった。ブログをスタートした頃である。あれから13年近くなる。


操作に行き詰まり、たびたび困ってしまうことがあるが、先生がいつもバックアップしてくれるので、ブログの更新ができている。


ブログにしたい趣味や関心があっても、肝心のパソコンが使いこなせなかったら、途中でくじけるかも知れない。


目を皿のようにして探し続け、友人や知人に声かけして誰かパソコンを教えてくれるような人がいないか、声かけしておく。


あなたの希望にあうか、引き続き教えてもらいたいかは、2~3回、教えてもらわないと体感できない。


この13年間、ぼくはずっと教えてもらえることを希望してきたが、先生はまだ若かったし、卒業、進学、就職、退職、独立と人生の節目が多かった。


それでも、今も途切れることなく教えてもらっている。


ちょっとつまづくと、一歩も前に進めなくなるのがパソコンであり、「自分にとっていい先生」に出会えるかどうかが、ブログを続けれるかどうかにつながる。



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今日のクイーン

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週刊金曜日オンライン

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長島愛生園  加賀田一さん(7)


患者看護


「いつの日にか帰らん」P77~P79抜粋


 その強制労働といわれるのが「患者看護」です。不自由者と重症者の看護、介護が軽症患者の作業になっていました。初めから入所者が要員として見込まれていました。これを「本業」でやる人は最高の賃金「甲」で、一日十銭でした。ところがその人が病気をしたりして欠員が出たときは、軽症患者が召集されました。一週間の臨時作業です。順番が決まっていて、医者の病気証明をもらわない限り拒否できませんから強制労働です。ただし園の考え方では「同病相憐」の助け合い精神の実現ということですが、特に結核病棟はみな嫌がり、調整するのが困難でした。

 さらに「特別看護」制度というものもありました。重病棟では常時、軽症者の付添いが一人ベッドに休んでいますが、危篤状態の人が出たとき、その補助要員を務める仕事でした。夜の八時から翌朝の六時まで、二人ずつ三交代で危篤状態の方に付き添う制度で義務化されていました。夜の十二時に交代しますが、そのときに夜食が出ました。晩飯が四時でしたから皆だれでも夜中にお腹がすきました。

 初めて私が付添いに行ってびっくりしたのは、隣のベッドの人から話しかけられたときです。喉のところから突き出たゴムのパイプで話しかけてきました。聞きとりにくいのですが、慣れたら少しわかりました。「あんた、病気どうしたんだ?」と、見慣れぬ新人だった私に聞いていました。

 その方は、鼻や気管支の粘膜が菌に冒され厚く膨らみ、そのせいで孔が塞がって呼吸ができないため喉に穴を開けているのです。その穴にカニューレという金属のパイプを差し入れ、そのパイプが痰で詰まると抜き出して掃除をしなければなりません。喉に開いた穴で呼吸をしているのを初めて見たときはびっくりしましたが、召集されると、そのカニューレを掃除しなければなりませんでした。

 いつ死ぬかもわからない状態の人に付き添うこともあり、いよいよと見れば当直の医師、看護婦を電話で呼ぶことになっていました。治療室の病棟には手術で切断した足が無造作に置いてありました。ハンセン病は神経が麻痺するので、火傷しても、釘を踏み抜いても痛くありません。痛くないから自分では気付かないのです。

 また、治療しても神経がないと治りにくいものです。化膿して膿が出るようになり、敗血症にもなりやすい病気でした。ですから足の切断も頻繁でした。私は通りすがりに呼び止められて、手術室に入りノコギリで切断する足を支え持たされたことがあります。切断した瞬間、危うく落としそうになりました。人間の足とはこれほど重いものなのかと驚嘆しました。

 夜の交代は十二時と午前三時ですから、真っ暗ななかをそこまで行きます。するとその外の空地に人魂が見えるという噂がたちました。その足の処分作業も託されていて、あれは埋めた足が雨で露出してリンが燃えているんだという人もいましたが、「いや、そうじゃない。人魂だ」と主張する者もいました。本来ならもっと丁重に扱わねばならない作業がすべて無造作で事務的に処理されていました。



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肉ジャガ


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熱した無水鍋にバターを入れ、タマネギ、ジャガイモ、ニンジン、グリンピースを置き、ニンニク醤油のニンニク1片の薄切りを置き、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、煮立ったら極弱火にして・・・10分ほど煮て、うっかり豚肉を入れ忘れたのに気付き、その時点で15秒湯通しした豚肉100gを入れ・・・だからいつもより5分長く30分煮て火を消し、余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。


ダイコン漬け

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ダイコン2キロ(約2本)の皮をむき、3等分して2つ割り、又は四つ割りにして樽に入れる。砂糖400g、塩100g、酢半カップ、ユズ1個の皮と果汁を入れ、重石をする。一昼夜して水が上がっているか確認し、その時点でよく混ぜ、6日経過したら出来上がり。



ヤーコン炒め

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熱したフライパンに油を入れ、ヤーコンを炒め、火を消して砂糖と酢で味付けし、強火で30秒ほど炒めて出来上がり。


ダイコンおろしとニンジンおろし

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ホウレンソウのおひたし


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引き継ぐ人がいなかったら


「ことわざ」ほどの転職を繰り返し、この先どうしよう・・・と思い悩んでいた時に、突然ひらめいたのが農業だったが、我が家がもともと農家であり、父が細々と稲作を続け、食べ量程度の家庭菜園も続けていたから、農業が頭に浮かんだのだろう。

父の亡くなった年まで後10年だが、よくその年まで、稲作を続け、あぜ草を刈り、山の葉タバコ跡地の草刈りが出来たものだと、自分がその年に近づいてから思う。

葉タバコ跡地の斜面は10アールほどあり、かなり急こう配で、今の自分でも草刈がきつい。

それでも父が草刈だけは続けていたので、ぼくも1年に1回、草刈だけ続けて、それ以上荒れないようにしてきた。

20年後、その斜面が「ミツバチの巣箱置場」としてよみがえった。草刈をせず放置していたら巣箱は置けない。


農業を始めてから、山ぎわの田んぼ(畑)は、野菜に適さなかったので、少しずつ果樹を植えるようになった。

その果樹が十数年経過して、大きな木となり、木の根元は絶好の巣箱置場となった。


葉タバコ跡地の斜面も、そして、野菜に適さず植えた果樹も、当初予想もしなかったことに生かされた。



まだ見ぬ誰かに引きついでもらうために、現状をキープすることが今後の自分の役割である。

野菜作りが難しくなったら、田んぼ(畑)は、年に4~5回耕運すれば管理できるが、
あぜ草刈り、田んぼの周囲の細い水路の泥上げ、竹やぶの進出の阻止、田んぼまわりの「のり面」の草刈り、等、野菜作り以外にも管理をし続けないと、現状は維持できない。

引き継ぐ人がいなかったら、これら諸々が崩れていく。


これは大規模農業とか、大型機械の導入とは、次元の違う話であり、小さな個人がそれぞれに、維持管理を続けていくしかない。


歴史は繰り返して、一人一人が「自給自足型農業」をせざるをえない時代が来るかもしれない。

ちょっと考えただけでも、ここ20年ほどの間に、あっと驚くことばかり・・・

携帯電話の普及

インターネットの出現

イノシシやシカの大量出没




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今日のクイーン

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情報収集中&放電中

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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