足音
━━若いナースの成長を喜びながら
卓上の花瓶の花のように
あなたは
すっくと私の前に立っていた
南の陽を受けた病室
旋回する時間の中で彫り深き映像がある
清潔な白衣は私の眼に痛い朝
帽章のローマ字は若い心の張り
ああ あの日
関心と好奇と未知への瞳をすまし
あなたは白い繃帯を私の手に巻き
下垂した足に松葉杖を持たしてくれた
あれから一年霜雪の過程をふみ越え
新らしい姿勢で私の前に立つ
体温計を脇にはさませ
ストップウオッチの秒針を巧みにとらえ
脈を計りながら次のベッドに移って行く
快活な足音は確信にみちあふれ
コツコツと
静かな病室に遠のきながら伝わる
桟橋
霜雪の過程を閉じている桟橋
風がはたはたと海をめくる音に
季節のない潮騒は
島にやむものの胸をたたき
橋脚はきりきりゆさぶられた
きしみ音に釘づけされる
千数百の自由は
潮さびた影となり
やむものの海へむかう音を
たばねせきとめていた
時にさからうこともなく
内海の海面に姿をうつした
新しい沈黙は
らいの島の縮図となって
弁証の輪をきょうもひろげている
2030年 農業の旅→

斜陽のゆれる部屋で
何事もなかったように
壁にゆれている光を凝視ていると
二十三年振りに面会に来た
姉と妹の顔が浮かぶ
それは
呟くように
古里の変貌を語る姉
その向うに
帰ってゆけない
風景の広がりを見る
工場の進出
煙突の煙は
吹き上げる胎動のなんだろう
田園にも土の匂いがないという
二十三年の空間に刻まれた歴程か
容赦なく反転しながら
耐性をもった病菌の
染みこんだ惰性の悲しみのあけくれ
窓の外に鉛色の風景があり
滔滔としてつきることを知らない
隔絶の流れに
雲のかげりを
深い淵に沈めようとしながら
重症棟の一室で
斜陽を背にして
貧しい営みの中で
祈りを忘れた人間のように
今日から明日への位置を
確認する
海景
たれこめた雲
風速が加わると海は ばんばんと鳴りはじめた
白い馬が駆けて来る
激しい衝動が岩盤に追突すると
ぱっと 波の花々が散った
海
海
私は海のように強い男になろうと思った
杳い傷心の日
今日 はたはためくるもの
惜しみない太陽の饒舌を浴び
砂金をまきちらした広い海
流れるともなく
悠々と流れる潮流
青く
深く
この海底ふかく海藻のうたが聞えてくる
誰れかのささやきのように
海
海
海のような静かな男になりたいと思う
2030年 農業の旅→

季節風に耐えて
だれも通らない
草原に
鈍い光が枯草にそそぎ
過ぎし日の追憶をゆさぶる
季節風が空に鳴っている中で
木枯しは
枯草の上を波のようなうねりをたて
からみあい傷つけあう日々が
せつなげ
白い飢えた土地に
まかれたぼくらの種子
遠い痛みを内包し
その硬い生命には
とじた習性が稔る
北風に吹かれて落る憎悪の花
吹雪の下で成長を続ける毒
かつて記された
どのような傷跡も
けっして消されることはできない
振り向いてはいけない
心の痛みをぬりこめて
過ぎて行く時間の中で
耕やすための舌と手はいてつき
耕やす場所も見あたらない
枯葉が風に鳴っている
その根は氷の季節を耐えているのだ
そうして私は
いつも身内に骨の軋る音をきく
しかしその泥沼の風景にも
鈍い光と影がうごきだす
きまぐれな風が逆浪を立てる
鎮魂歌
友よ 地下に眠る友よ
おまえの再燃の傷口は今も痛むか
あの時はかさかさに乾いていたが
血はもはや流れすぎて
おまえがたえてきた
夜を知るものはいない
あー 苦しいよう! と
骨にひびく声が
だが
もうききかえすことはできない
無言でおまえの影が通りすぎていった
祈りのように眠りについた
煤煙けた薄ぎたないこの部屋で
あの苦しげな顔が
うすれては浮きあがってくる印画
闇をいっそう重くした中で
自分の白骨とかたりあうおまえ
冬の夜のひえるこの骨部屋の中で
みずからの骨をあたため
自分の白骨の会話を闇の中で
きいているのであろう
おまえがここにのこしたのは
悲痛な叫びの遺産
それは
灰色に洗われた部厚いカルテ
もう救いの叫び声をあげたりできない暗闇
闘い疲れたろう
深く眠りたまえ
樹島雅治(文甲作、小島治行)さんの略歴
1930年山口県生まれ。1945年5月長島愛生園入所。2002年11月死去。
2030年 農業の旅→

夜
軒端を打つ
氷雨の音
吐息が
仄白く消えて
更けゆく夜。
じり、じり、じり・・・
痩軀に喰ひ入る
病魔の鋭刀
堪えがたき神経痛 は
じーと
郷愁を噛んでいる。
残葉
はげしい木枯に
散りも得ず
樹梢に散り残った木の葉
軀をうち軀をさく
現実の苦痛に
病葉よ お前の夢は
なほも覚めやうとはしない
何といふ、さびしさだろう
ひょうひょうと吹く樹梢に
ふるへつつ瞬く星光を
見つづけている。
河口杳一さんの略歴
『俱会一処』によると昭和初期に全生病院に在籍していたようである。その後長島愛生園に転園したと思われるが、河口杳一はペンネームと見られ、詳細は不明である。
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