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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

私のエッジから観ている風景

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長島愛生園  千葉 修さん


長島八景

八 万霊夜雨


(2ページ半です)


 愛生園の第一印象には常に陰の存在であるが、それぞれの住家にも落ち着いた頃、おもむろに足を運ぶ所が万霊山である。
 万霊!私は初めて納骨堂一帯をそう呼ぶことを知った時、何か、ひしひしと胸にわき上がる寂寥感を覚えた。癒えぬ病を背負わされた宿命を新しく感覚した、そして納骨堂への散歩を幾度か躊躇した。しかし、一目見た納骨堂は、暗い期待だっただけに、あまりにも芸術的に美しく、明るい感じさえした。でも、玉砂利の参道を進んで、先輩の霊に額づき、藤棚の下のベンチに腰を下して松籟の韻と眼下からの潮騒を、深閑とした庭内に聞いた時は、さすがに塋域だな、といった感じが強くなる。
 更に、骨堂の遺骨安置室のドアを
して、年代順にズラッと並んだ遺骨の壺を見た瞬間、誰もが愕きの声を挙げるだろうと思うほどぎっしり詰まっているのに、私は愕いた。初めての日に、職員の方たちのそれをも併せて安置棚に並んでいるのを見て、私は思わず敬虔の念に打たれたのを覚えている。戦時中から戦後にかけての最も凄惨だったあの時、急にわれわれの間に、<安置棚狭し><骨壺足らず>の声を聞いたのも昨日のことのようで、肌に粟を生ずる思いもまた生々しい。
 春秋の彼岸に、盆に、納骨堂の参道にはとりどりの提灯が飾られるようになって、その門を潜りながら、私には、ありありと目の前に死の翳が迫って来るような不安が去らなかったあの頃の記憶が鮮やかに蘇るのである。
 今年の盆など、むせるような香煙のなかに、供え物の西瓜が山をなし、珍しい種々の菓子や団子を、これまたとりどりの供花が囲んでいる祭壇に額づいて、あの時代に逝った親しかった誰彼を心に呼びながら、心から詫びたくなり、瞼が熱くて熱くて仕方がなかった。
 かつての短歌会を育てた内田守人先生が、君らには傑作の生まれそうないい素材だと思うが、万霊山を詠んだ佳い歌がないのはどうしたことか、と言われたことがあった。それで私はひそかに、万霊山を徘徊し、コンクリートの残骸穴を幾度か覗き、長島先住の山田翁の墓をも詣でるなど、あらゆるすべを講じて詩情を搔きたてたのだが、やっぱり月並な拙い歌しか生まれなかった。
 しかし、ある一夜、先輩Sを喪った哀しみに、折からそぼ降る雨の中を、傘をさして詣でたことがある。枯れ枝になった萩は、早春の雨雫をさむざむと宿し、玉砂利はしっとり濡れて音もなかった。そして、額づいた香炉の灰はじっとり湿りを含んでいた。しかし、すっかり哀愁の虜になって、詩情など湧くはずもなかった。
 その日から、親しい人を喪った哀しみを存分にかなしみたい日には、万霊山に小雨けぶる黄昏時がもっとも相応うように、私には思えてならない。悲しみが骨髄に沁みこんで、泪を流す甘さなどをはるかに超えたものの哀れを、しじに味わうことが出来るのは、小雨けぶる夜の万霊山に限るように思えてならない。
 この私の心を心として、私を悼んで呉れる心の友が遺ってくれることは、今の私の唯一の頼みの綱でもある。



千葉修(北川・稚葉)さんの略歴
明治44年沖縄県首里市に生まれる。昭和12年4月19日発病のため教職を辞して長島愛生園に入園。愛生学園教師、長島短歌会会長などを務める。昭和16年「多摩」会員。昭和28年「形成」同人。昭和61年6月22日没。享年75。『楓陰集』(昭和12年)『青磁』(昭和26年)『小島に生きる』(昭和27年)『あらくさ』(昭和30年)『陸の中の島』(1956年)『あかつち』(昭和31年)『青芝』(昭和32年)『風光』(昭和43年)『三つの門』(昭和45年)『海光』(昭和55年)『遁れ来て』(昭和62年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)他に歌集『珊瑚礁』『守礼門』がある。


千葉修さんは1986年(昭和61年)の6月に75才で亡くなったが、その年の1月には、同じ沖縄出身の「大村堯」さんが70才で亡くなり、3月には森岡康行さんが57才で亡くなっている。そのさびしさを、
「一人逝きまた逝き死別の感覚も鈍りはてたりこの生き残り」と詠い、「誰よりも若き康行逝かしめて誰が継ぐべしや守りゆくべしや」と悲しんだ。



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サツマイモとキーウイの蒸し煮



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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れ、薄切りしたキーウイを置き、砂糖をふり、各大さじ1のレモン果汁と水を入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



シュンギクの卵とじ

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鍋に醤油、砂糖、酒、みりんと水とダシの素を入れ、煮立ったらざく切りしたシュンギクを入れ、2分ほど煮てシュンギクがしんなりしたら、溶き卵2個を入れ、弱火で4分煮て出来上がり。



ダイコンおろし

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ホウレンソウのおひたし

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コンニャクの乾煎り

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水洗いして手でちぎったコンニャクを、熱したフライパンに入れ、強火~弱火で4分ほど炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



カブの甘酢漬け

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現在進行形

カブ500gは皮をむいてスライスし、塩を少し多めにふって何回かもみ、1時間以上置いてカブがしんなりしたら、さっと水で洗い流し、水気をしぼりながら瓶に入れる。冷めた甘酢(出し汁180CC+酢120CC+砂糖50g)を注ぎ、生姜1片をすりおろして出来上がり。


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死ぬことは 誰かの心の中で生き続けること

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「樹木希林さん 友と交わしたことば」が、朝日新聞の35面に大きく載っていた。


「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」


「散る桜 残る桜も 散る桜」



「独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る」



「病が不幸だけなんて。もったいない。がんは特に残り時間が読めるからありがたいわよ」



「いひおほせて何かある」

「言い尽くせない中にこそ価値がある」



「共演者と合わなくて。あー疲れた」

「役立つ人だけがいいのではない。困らせる人は己を磨く上で必要だ」


「そういえば提婆達多は、私にとっての裕也ね」



感動したので、以下、記事全部を書き写しました。


 「死ぬときぐらい好きにさせてよ」「生きるのも日常、死んでいくのも日常」━。独特の死生観で多くの共感を呼び、9月に75歳で亡くなった俳優樹木希林さんには、本名の「内田啓子」で私信を交わしてきた37年来の友人がいた。ふたりのやり取りからは、晩年の希林さんがたどり着いた境地の一端が浮かび上がる。

「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」

 江戸時代後期の僧、良寛の辞世の句だ。希林さんと長年の友人で、何必館・京都現代美術館長の梶川芳友さん(77)はしばしばこの句について語り合ったという。
 希林さんはこう語った。「裏から始まるところがすごい。年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。こうありたい」

 ふたりは別の良寛の句「散る桜 残る桜も 散る桜」も好んだ。だれにも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。「そう考えると、心強いわね。でも、死ぬことは誰かの心の中で生き続けることなんじゃないかしら」

 ふたりは、1981年に希林さんが「何必館」を訪れたのを機に出会った。定説を「何ぞ 必ずしも」と疑う自由な精神を持ちたいとの願いから名付け、希林さんはこの精神に共鳴し、梶川さんと人生を語るようになったという。
 「死への恐れ、定説から自由でいることの難しさも感じる。だからここに通い続ける。ほっとするの」


仏画に向き合い「孤独」を語った

 何必館には、近代日本画家村上華岳(1888~1939)の「太子樹下禅那」がある。51歳で早世した華岳がぜんそくの発作の中で描いた遺作で、若き日の釈迦が座禅修行する姿が描かれている。絵には「官能性」「遊び心」と同時に「死への不安や葛藤」の相反する要素が同居している。希林さんは京都に来るたびにこの仏画に向き合い、「孤独」について語り合った。
「独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る」
 梶川さんが仏教の教えを語ると、希林さんは「絆も信じ過ぎるとお互い苦しくなる。孤の意識が人を育てる」


病患い気づいた「生と死」は一体

 ふたりは60歳を迎える頃に大病を患った。希林さんは61歳で乳がんになり、梶川さんも60歳のときに心筋梗塞で1ヵ月間入院した。病を経て、ふたりは別々のものだと思ってきた「生」と「死」が一体のものだと気づいた。希林さんはこう言った。
 「病が不幸だけなんて。もったいない。がんは特に残り時間が読めるからありがたいわよ」
 梶川さんは病状について聞かなかった。希林さんも話さなかった。芭蕉の「いひおほせて何かある」。「言い尽くせない中にこそ価値がある」。ふたりの会話にも貫かれた。
 希林さんはがんを機に、「所有しない生き方」を選び、名刺一枚受け取らなかった。それなのに、2年ほど前、梶川さんは希林さんから「太子樹下禅那」の小さいサイズの複製画を求められた。
 9月16日。訃報を受け、梶川さんは東京の自宅に駆けつけた。希林さんの枕元には、あの仏画がかけられていた。
 梶川さんは「どんなに覚悟を固めていても死はどこか恐ろしい。その時に、希林さんはすべてを心得た慈愛に見守られながら旅立ちたかったのかもしれない」と語った。


己を困らせる人 私にとっての・・・

 夫の内田裕也さんに触れた言葉もあった
 「共演者と合わなくて。あー疲れた」
 晩年は丸くなったという希林さんだが、物事や人に対して厳しい人でもあり、電話でこうこぼすこともあった。そんな時、梶川さんは釈迦の弟子の一人、提婆達多の話をした。釈迦にたてつき、困らせる、みんなが彼を遠ざけた。だが釈迦は「役立つ人だけがいいのではない。困らせる人は己を磨く上で必要だ」と説いた。すると、希林さんは「くっくっ」と笑いながら言ったという。
 「そういえば提婆達多は、私にとっての裕也ね」


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悪徳ペンタゴン打倒のために集まろう

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長島愛生園  千葉 修さん


長島八景

七 屋島帰帆


(1ページ半です)
題名は「屋島」となっているが「家島」であり、「やしま」と読む。

 楯岩を仰ぐ岩に坐って、真東に位置して見える島が家島である。そこらあたりには形も似通った大小の島々が点在していて、この家島をそれと知るまでに私は数年もかかった。それだけに忘れ難い島の一つである。風の凪いだ日など、光の屈折と反射の関係で、この家島が海上にポンと浮き上がって、まるで、宙に浮いたように見える時がある。
 虫明から、日生から、一日の漁に出た白帆の群が、家島をめぐる海上に、如何にも内海といった感じで、無数に見える。私が楯崎に遊んだ日の日暮れには、ポンポンと威勢のいいエンジン音を響かせながら相次ぐ漁船が、家島沖から帰帆するのに必ず出遭う。濡れた漁網を帆柱に、舷に拡げながらわが家へ帰る漁夫らの顔が、一日の疲れをありありと見せて、私のすぐ近くを過ぎて行く。
 家島沖に白帆を輝かせながら悠々と散在しているのを眺める時もそうだが、暗くなった海上を帰りを急ぐエンジンの威勢のいい音が相次ぐ時ほど心の洗わるる思いをすることはない。その船と船が互いに呼び交わしながら、一日の労をいたわり合う声が、岸辺の私にもはっきり聞こえる。私はこの声に急に親しみを感じほっとする。そして漁夫の生活のこの悠長な面を憧れたりするのである。
 家島沖に白帆が全く見えなくなり、狭いこの楯崎の港口に、エンジンの音もしずまりかえる頃、私はやおら家路を辿るのだが、これで島住まいにも馴れきったな、という感慨を覚えて、今は遠く響く山陽線の汽車の汽笛を聞きながら、私などよりも寂しく遣る瀬無く、もっと不自由であろう家島付近の島々に、しばし目をやって、去り難いのである。それほど、帰帆の影の全くない海上の静寂は、ややもすれば現実の私を夢幻の世界へ惹き入れるのである。



この虫明集落(漁港)から、「りーさん」と呼ばれていた魚売りのおじさんが、自転車で我が家の方まで時々来られていた。

車でも20分ほどかかる距離である。そして「八反峠」という、昼でも薄暗いような勾配の大きい峠を越える。

時々、八反峠を車で通るが、八反峠を越えるしかない坂道を自転車で、よくうちの方まで来られていたなあと思う。

もう55年以上前のことである。うちへ到着される頃には、魚はほとんど残っておらず、いつも最後の1~2種類だった。

後年、虫明に知り合いができて、「りーさん」という魚売りのおじさんを知っとられるかと聞いたら、すでに亡くなられたが、よく知っていると話されていた。

その後、別の人が虫明からオートバイで来られるようになった。

牛窓漁港、虫明漁港、日生漁港とあるが、当集落に来られていたのは、虫明漁港からだけだった。

日生漁港はちょっと遠く、虫明漁港と牛窓漁港は当地から同じくらいの距離である。

邑久光明園と長島愛生園のある「長島」に橋がかかってまだ30年であり、長島と虫明集落との距離は最短の場所でたった50メートルほどである。

「隔離の島」として橋は、かけられなかった。

親の死に目に会いたいと、何人の収容者がこの海峡を渡ろうとして命を落としたことだろう。

潮の流れが早く、泳ぎ切るのは難しいらしい。


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ダイコンおろし

 
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目玉焼き

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おかずの残り物が多かったので作らなかった。

少しずつだが7品並べれば、豪華に見える。

(1)カブの甘酢漬け
(2)ホウレンソウのおひたし
(3)ヤーコンのカレー粉炒め
(4)ダイコンの味噌煮
(5)サトイモの煮物
(6)今日のダイコンおろし
(7)今日の目玉焼き


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剛毅朴訥仁に近し

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すごい言葉に出会った



生きるとは
位置を見つけることだ
あるいは
位置を踏み出すことだ
そして
位置をつくりだすことだ

位置は一生分だ
長い呻吟の果てに
たどりついた位置だ
その位置を
さらにずらすことは
生涯を賭すことだ
それでもなおその賭けに
釣り合う
未来はあるか
それに踏み切る
余力はあるか
まだ



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長島愛生園  千葉 修さん

長島八景

六 手掛秋月



(2ページです)

 手掛島は、長島の南にポツンと離れた一握りほどの島である。満潮ともなれば文字通り一衣帯水の距離にある一景勝である。しかもそれが療舎を出れば一歩という手近差なので、病友たちの殆どはたいていこの手掛島へ渡って行っている。それに、私たちの氏神、長島神社があり、干潮ともなれば、絶えず幾人かの参詣者を見る。
 私が島に来た当時、長島神社の例祭には、参道を繋ぐイルミネーションが実に美しかった。戦時から戦後にかけて中絶していたこの装飾も、最近どうやら復活して、新しい入園者を殊の外喜ばせている。
 参道の干潟を渡り、七十七階の石段を上りながら、左右に古びた唐獅子の一対を賞出て、やっと辿りついた宮居の斎庭にはいつも箒目が新しく、その上にちらほらと松葉の散り敷いているのも床しい。長島神社の例祭は六月七日で、脱帽の頭を暑い日射に照られながら、禰宜の祝詞と木履の音を虔しく聞いた印象も懐かしい。
 この宮居の御神体が光明皇后で、悲田院の昔、癩者を御自ら浄め給うた史実が、つねに私たちに一大光明を注ぎ、世人への絶えざる啓蒙となっているのは、あまりにも有名である。それが貞明皇后の御坤徳につながり、綿々としてわれらの上に慈悲を垂れていられるのである。
 この手掛島が、仲秋の名月の夜、金波銀波を背に、ひときわ美しく海に浮び、私たちにこよない観月の場を提供してくれる。長島とこの手掛島の間の空から昇る月が、真正面の官舎地帯からは格別によいらしい。
 四季の変化のまにまに、それぞれ私たちを娯しませてくれる長島の景勝の中で、この手掛の秋月は、不自由舎からでも気軽に出掛けられ、重病室のベッドからも窓越しに眺められるので、特に弱い病友の恰好の遊歩の場なのである。


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サトイモの煮物


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乱切りしたサトイモと、シイタケを鍋に入れ、ひたひたに水を入れ、ダシの素を入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして20分煮て出来上がり。



ホウレンソウのおひたし

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ヤーコンのカレー粉炒め

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熱したフライパンに油を入れ、短冊切りしたヤーコンを炒め、醤油とカレー粉で味付けして出来上がり。



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夕飯作り 小話


少なくも1時間は料理にかかる。


1時間以内でおさまることは少ないように思う。


野菜を切ったり、刻んだりする時間は結構かかるし、煮える時間も20分はかかる。


のんびり作っているわけではなく、2品ほどを並行して作っている。


どこの手際が悪くて、こんなに時間がかかるのか考えてみても、現実にかかってしまうのだから仕方がない。


1時間15分を越えだすと「身体がしんどくなる」ので止め、続きは夕方にすることもある。


料理は「立ち仕事」だし、途中、生き抜きしないで続けると、意外とえらい。体力がいると感じる。


煮物は冷めていく時に、味がしみておいしくなるし、昼の11時半~1時頃の時間帯が最も気分が乗る(集中できる)ので、たいていこの時間帯にしている。


同じような料理が続いても、まずいと思わない。自分が食べたいものを作るのだから。


「野菜はともだち」という本は今でも時々参考にするし、クックパッドもたとえば「ヤーコンの料理法」とか「ゴーヤの料理法」など、野菜単品の検索をかけて調べることはあるが、ある程度、クックパッドのレシピのコピーもたまったので、今はそのコピーを見る。


農業と同じく、料理も「上達していかないタイプ」だと、つくづく思う。要するにセンスが悪い。


でも、日々食べるものだから、そんなことをとやかく言っておれない。


とにかく、作らなければ食べるものはない。


野菜は常時15種類ほどあるのだから、時間がかかっても作れば、スーパーで総菜を買ったり、コンビニで買うより安くつく。


作ることが面倒と思ったり、メニューに困ったりはしない。同じことの繰り返し料理になっても、その一品だけでなく、たいてい2~4品は作るので、同じものばっかりという気にはならない。


料理に定年はなく、死ぬ直前まで作る。


昼に作ったものを、夕飯、よく朝、よく昼と3回食べている。食パンは間食では食べるが、朝、昼、晩の食事は全てご飯。


今の時期の朝は、豆腐(これは購入)、ダイコンおろし、カブの甘酢漬け、あればホウレンソウのおひたし、味噌汁(2日分を作る)、前日に作った残り物。


昼は前日に作った残り物。


野菜は軒下に置いてあるものを見ながら、あるいは今ある野菜を頭に浮かべながら作り始めることも有るが、たいていは前日の晩か、その日の昼(作る直前)までに、何を作るかメモしておく。


レシピにはあまり困らない。マンネリを全然、怖れたりしないから。

自分で作った野菜はおいしいし、毎日食べても飽きたりしない。


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阿修羅

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長島愛生園  千葉 修さん


長島八景

五 楯埼晴嵐




(2ページです)

 長島の東端は、奇岩怪岩が突兀としていて、緑の島の異風景の一部を成している。楯崎はそこに在って、私たちは属に”楯”と呼んでいる。文字通り楯の形をした大岩が一枚、岬を一歩ぬきんでて屏風のように突立って居るからである。長島をめぐる入江が殆ど凪いで、湖水のような時でも、外海に向かうこの楯崎には、海といった感じの波の絶える間がない。

 この楯岩も、島に来ていち早く聞かされる景勝の一つで、足に自信のない者までが、相愛の磯づたいに、稲荷の白浜を越えて、この楯岩の奇観をたいていは目撃しているのである。四月三日の草餅、春分秋分の牡丹餅、花見の弁当を貰った日などには、一日の行楽にうってつけのコースなので、私はたいていこの楯崎に来る。広い外海の風をじかに浴びながら、この楯岩を真正面に仰ぐと、コセコセした日常の煩瑣から、いちどきに解放されてしまう。沖を航く船の音までが男性的な響きをもっていて快い。楯岩を前に、平滑な岩に腰を下ろし、遥かに霞む淡路島、鹿久居島、すぐ目の前の青い家島、頭島などに目をやって、瀬戸内海の景観を一望におさめ得た時には、弁当の味もひとしおである。よく見ると、楯岩のひびから小松が数本生えている。小さな松ながら、節暮れ立っていて、十数年も、いや数十年も経ったのだということが首肯できる。今年の春、その松の中の大きいのが一本枯れかけて来たのを発見した。土の気の全然ないこの岩に、しがみつかんばかりに生えたこの松の命すら、松喰虫は無慚にも奪おうとしているのだ。
 私が果樹園通いをしていた頃のある日、無用の手漕ぎ舟を北海岸から南海岸に回航する必要があって、Mと二人してこの楯崎を迂回したことがある。風はしずかで、入江はいつになく凪いだ昏れ方だったので、明るいうちには炊事裏桟橋まで行ける自信をもって日出桟橋を出た。が、稲荷岬の沖にさしかかった頃から風のあることを感じた。楯岩の見えるあたりからは、そうとう風が強く、櫓を押せども押せども前進はおろか、櫓網も危ないと思うばかりになった。だからと言って今更引き返す訳にも行かず、一進一退を続けながら、強引に、やっとの思いでこの岬を越えたのであった。あれ以来、この楯岬に来るたびに当時の苦い経験を思い出しては、楯崎晴嵐むべなるかなと思わざるを得ないのである。



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ダイコンの味噌煮


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乱切りしたダイコンとシイタケを鍋に入れ、ひたひたに水を入れ、ダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、15秒湯通しした豚肉100gを入れ、少しだけ醤油、砂糖、みりんを入れ15分煮て、味噌をみりんと酒で溶いて入れ、ユズの皮をすりおろして出来上がり。



塩サバ

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ダイコンおろし

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バランスボール


バランスボールを使って、背中を伸ばしている。

他の使い方はよく知らず、ぼくは背中をバランスボールにのせて、頭を畳につけるようにしている。こうすると「逆立ち」しているような感じで気持ちがいい。

時間があれば昼の時間帯にもしているが、たいていは風呂から上がって寝る前に、背中をバランスボールにのせ、頭を畳につけるポーズを5分ほど(10分かも知れない)とりながら、その日にあったことや、気になっている事を頭に思い浮かべながら、ぼうっとした時間を過ごす(瞑想状態に近い)。

血が頭のほうに下がっていくような感じで、気持ちがいい。

その後、細々と、多分3年ほど続けている背筋運動を10分ほどしてから寝床に入る。

どんな背筋運動かと言うと、
(1)うつぶせに寝て、両手で両脚の足首を持ち、胸をそらす。
(2)うつぶせに寝て、両足は畳につけたまま、胸をそらす。両手も連動する。
(3)うつぶせに寝て、膝から下の両足を上げ(つまり足裏がみえる状態)、両肘を立て、肘から先の手までは畳につけて胸をそらす。
(4)仰向けに寝て、片足ずつ足を垂直に(伸びるところまででよい)に伸ばす。
(5)仰向けに寝て、臍(腹)を持ち上げる。

ちょっとわかりづらいかも知れませんが、こんな背筋運動を何回か繰り返している。

必要に迫られて始めた。

もっと早くから始めておけばよかった。

健康寿命をできるだけ長く保てるように、たった10分ほどだが、今は習慣になっている。

農業で酷使した身体の、遅まきながら、リハビリ体操!

走ったりすることは気が乗らず

散歩もあまり好きでなく

健康教室やプールへ等へ通う気持ちにもなれず

畳に寝そべってする背筋運動なら費用もかからず、あまり時間もかからず、いつでもできる

バランスボールは十数年前に頂いたもので、10年ほど使うことはなかったが、今は毎日、重宝している。直径を計ってみたら45センチほどだった。


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くろねこの短語

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長島愛生園  千葉 修さん


長島八景

四 玉葛夕照



(1ページ半です)

 
 長島から真西、岡山の方に備前富士といわれる玉葛山が聳えている。没日の空を背景に、ちょうど逆光に浮彫されたかのようなときの玉葛が殊の外美しい。夕べの茜も失せて、橙色もいよいよ淡くなりかける頃の空の余光は、玉葛の後光かと思うばかりである。
 夏の堪え難い炎暑に喘ぎ喘ぎやっと凌ぎ得た一日の昏れ方、露台に上って夕涼を愉しむ頃の玉葛の、徐々に黝ずんで行く雄姿に向いながら、私は救いの一刻を満喫する。夜鷹が鳴き続けるのもその頃で、すっかり暮色に包まれた東天からこの玉葛の夕照に向って、さも空の残照に憧れてでもいるように鳴きわたる。夏に弱い私は、こうして年々玉葛の夕照の刻を待ち焦がれては露台に涼み涼み、やっと夏を凌いではすでに幾年かを送った。
 秋ともなれば、短日の白い余光も消えようとして、玉葛の頭上を吹き越えて来るのではないかと思う方向から襟元に沁む夕風が爽やかに渡って来る。私が露台に座りこむ時間もだんだんに短くなって、玉葛も夏ほどには私を魅了してくれなくなる。しかし、山の輪郭も稜線も実に鮮明に、澄み切った大気の中に浮き上がって来る。その頃には、ねぐらへ急ぐ百舌もずが、これまた玉葛の夕照に向って啼声とともに飛翔して行くのをよく見かける。太陽がちょうど玉葛の真上あたりに没する頃には、翳りの早い島の入江には、玉葛の投影ではないかと思うばかりの部厚い翳が、急にのしかかって来る。と思う間に、わが島はすっかり暮れて、僅かに黄ばんだ余光が、玉葛の真上の空を染めている。
 私たち愛用の連絡船”玉葛”の名も、けっして故なしとしないと、この時ほど感を深くすることはない。



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味噌汁


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ダイコン、ニンジン、サツマイモ、シイタケを鍋に入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして15分煮て、味噌を溶き入れ、シュンギクをふって出来上がり。



ホウレンソウのおひたし

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1分茹でて冷水にとり、ざく切りして水気をしぼり、カツオブシと醤油で。



目玉焼き

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ポン酢作り

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醤油70CC+酢50CC+みりん30CC+レモン果汁50CC=200CCの手づくりポン酢の出来上がり。



ダイコンおろしとニンジンおろし

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手作りポン酢で。



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RITERA

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パワー炸裂 連日の100%産卵



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メンドリ18羽、オンドリ1羽であるが、一昨日17個、昨日18個、今日18個で、まさに100%産卵になった。


8月中旬頃から産まなくなり、3ヶ月ほど産卵停止状態だったので、「病気だろうか」と心配したが、原因は「餌」だった。


購入飼料だけの時は、餌をケチって、朝、餌を与えると3~4分の間に食べ終わり、あとは青菜で腹をふくらませていた。


11月に入って稲作農家がコゴメをくださり、農業仲間が時々「豆腐カス」を持って来てくれて、餌の量が3倍以上になり、1時間が過ぎても「食べ残し」があるような状態にしておいたら、満を持していたかのような「メンドリパワー炸裂」だった。


100%産卵など過去に経験したことがない。


こんなに産むと処分に困る。


ヒヨコで導入してから4年間飼うので、母体がいつまでも若々しく保てるように、3~4日に1個、つまり1日に4~5個産んでくれたら十分なのに。


病気ではなかったことがわかったので、今後は徐々に餌を減らして産卵を抑える。


ニワトリを飼う目的は「野菜残渣」や「虫食い野菜」の処理のためである。ハクサイやキャベツの外葉、ダイコンやカブやニンジンの葉など、ニワトリを飼っていなかったら田んぼに放置するようになるが、ぼくの場合はニンジンの葉1本も無駄にすることなく、鳥小屋に持ち込む。だから収穫後の畑がいつもきれいである。


秋冬野菜では、ハクサイ、キャベツ、ダイコン、カブ、ニンジンが、

春夏野菜では、エンサイ、ツルムラサキ、エダマメ(今年は鹿にやられて全滅)が主な青菜になっている。

どれくらい食べるかというと、19羽で、大型ハクサイ2個なら1日で跡形もなくたいらげる。つまり、青菜5キロほど。実際にはこれ以上を毎日与えている。


10月末~3月末頃までの5か月間は草が伸びないので、青菜の主体は野菜残渣か野菜そのものになる。ハクサイ、キャベツ、ダイコン、カブ、加えてミズナは、「ワンパックに必要な出荷個数」に加えて、ニワトリに与える青菜としてプラス計上して植える。


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長島愛生園  千葉 修さん


長島八景

三 立花落鴨




(3ページです)

 野分だつ風が長島を吹きそめるようになると、そろそろ鴨の群が渡って来る。私の観測日誌には、たいてい十月も二十日を過ぎる頃に、決まって鴨の渡来を記録してある。私が島へ来た年、初めて見る鴨の群れに愕いて、案外無関心なまでに平気でいる友を呼んだことがあったが、その美しい感動は、十五年も経った今に尚忘れることができない。だから、十月ともなれば、朝々、落着いては居られず、入江の白い海面を見詰め、空を渡る一群の羽音の騒音を期待しながら、耳を澄ましているのである。こうして、やっと飛来して来た鴨の群が、恰も散開したような陣形で、白い海面に一条の黒線となって拡がっている態は、誠に爽快そのものである。そして、遠巻きの陣形からじりじりと餌を追いつつ、一条の黒線が縮まり、また延びる動きを見るのも、なかなか興趣が尽きない。
 私は、昭和十六年の頃からこの鴨の群落を歌に描写すべく、よく光ヶ丘に出かけて行った。そして、二十首から三十首もの連作を試みたが、毎年々々、成功しなかった。小川正子先生に落鴨の歌の佳いのがあるよ、と宮川先生が話されていたのも、ちょうどその頃であったろうか。それで、いやが上にも私の鴨への愛着はつのるばかりだったが、未だに心底に躍動するままの生々しい表出ができないでいる。あまりにも美しい感動に、筆力が負けつづけているのだ。
 その頃、私は果樹園通いの作業を数年続けていた。手漕ぎの舟で食糧を運んだり、その他の通信一切をやっていたが、秋ともなれば、日々、余りにも目近く鴨の群を見て、独り海上で恍惚とした。鴨の習性やら動態を細かに観察する機会を存分に得た。わざわざ舟を迂回させて鴨の群に近づいたりした。そのたびに、臆病な一羽がいち早くパッと白い水面を蹴って舞い上がると、次々に糸を引いたように舞い上がって行った。そしてその群は、決まって私の頭上を鋭く羽搏きながら横ぎって行った。羽を一杯拡げて頭上を横ぎる群は、さながら開ききった白い十字花の群落だった。逆光の中を徐々に遠のいて行くこの十字花の一群が、いっせいに方向を変える時には、何か屏風絵でもめくるように急に白く輝いた。私は、この美しい群落の移動に目を瞠りながら、急ぎの櫓さえ忘れて、忘我の境に遊んだ。しかし、満足のゆく歌は、ついに生まれずじまいなのである。
 立花のこの入海に鴨猟解禁の日が来て、海上の其処此処に、鳩小舎のような見張小屋が建ち、朝は未明から猟銃の音が島に谺すると、この悠長で絵画的な鴨の群の移動も、何かあわただしく、すっかり詩情を喪失してしまう。そして、一羽又一羽、手負いの鴨が冬潮の荒れつづく海上に点々と浮遊しているのが、何とも、あわれでならない。このあわれを年々見せつけられている故か、年とともに鴨の群が減って来たのではないかという気がする。素晴らしい落鴨の展開も昔ほどは見られなくなったように思う。と感じるのは、やはり、いよいよつのりくる鴨への愛情の現れなのであろうか。
 白い入江の海に、音もなく矢継早に、パッパッと落ち行きながら、一条の黒線となって行く鴨、あの匂うばかりの十字花群の飛翔、ああ、その実態に勝る歌は私には作れないのだろうか。
 舟を漕ぎ寄せて落鴨をじかに見る機会が今はないが、立花の海の群鴨よ、秋風とともに飛来して、朝の島空を勢いよく羽搏き、ともすれば衰えがちな私の詩情を、絶えず燃やしてくれ、と祈るや切である。



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真タラのバター醤油


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真タラは半分を使い、15秒湯通しした。

熱したフライパンにバターをひき、片栗粉をつけた真タラを置き、弱火で裏表6分ずつ焼いて皿にとり、醤油をまわしかけて出来上がり。

いつもカラスガレイでするが、真タラでもしてみたら、真タラの方がおいしかった。



煮豆腐

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タジン鍋の下敷きにハクサイを置き、四つ切りした豆腐を置き、生姜一片をすりおろし、シイタケを置き、削り節をふり、ニンニク醤油で味付けし、最初からずっと極弱火で25分、火を消して余熱5分で出来上がり。
    


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初霜



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今朝は初霜だった。勤労感謝の日の頃に、毎年のごとく初霜があるが、来週からはまた気温が上がりそうなので、2回目の霜は12月に入ってからになるだろう。

初霜の頃から、朝日がとてもきれいになる。

農業は朝日が拝める職業である。


身体が動く限りは、農業を続ける。野菜は誰もくれないし、スーパーの野菜は食べる気になれないし、ブログの中心ネタである日々の料理には、野菜を作り続ける必要がある。

作付面積は減っていても、農業にとられる時間は多い。少なくとも朝2時間半~3時間、夕方1時間半~2時間で、合計4~5時間。

他にしたいこともあるので、農業の時間をもっと削りたい。


父は亡くなる3年前に、ぼく(長男)という後継者が突然現れた。農業を否定的にとらえていた父だが、仕方がないと思ったのか、何も言わなかった。

今ぼくは、たった一人の、後継者を見つけたいと思っているが、待っているだけではなかなか見つからない。

しかし、誰でもいいというわけではない。

レールもひけていない。

技術力は最大の弱点だったので、農業本体に関する伝えれる技術は少ないが、農業全般に関して伝えたいことは結構蓄積してきたつもり。

後継者が住む家も現時点では確保できていない。

「後継者募集」をブログに載せてからすでに3年ほど過ぎた。年に1~2人は問い合わせがあり、実際に訪ねて来られる人もいる。

自分の方の準備が整ってからというのは難しいので、歩はすすめる。

自分の気持ちの上で、後継者を見つけたいという「積極性が乏しい」ことが、大きな原因かも知れない。


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長島愛生園  千葉 修さん


長島八景


二 小豆暮雪

(2ページです)

 長島を吹き渡る風が西に変り、気温がぐんぐん降下し始める頃から、真向いの小豆島がだんだん近く、鮮かに見えて来る。観測所の露台から、向うの小豆島の山の襞もはっきり見え、あか土の地肌がそれと見分けられるようになると、もうすっかり冬で、海の色から冬は来るのかと思うばかりにあおぐろく沈みきった入海をへだてて、長島の延長ででもあるかのように思われて来る。小豆島まで五里と言われ、或いはもっと近いともいわれているが、その島の襞々に、頂上に、真白い雪が幾日もつづけて見られる頃には、五里はおろか、まったく距離感がないまでになる。
 長島で雪の降るのは珍らしく、観測日誌に雪を記録する日はあっても、その大半は飛雪で、殆ど積雪にも降水にもならない。まれに、降りしきる雪に目が覚めて気づく時はあっても、その頃にはすでに解けはじめている状態である。しかし、小豆島の頂上と襞々の雪は、こんな時でも一週間も十日も消えない。長島から小豆島を見ていると、西北面の故でもあろうが、さすがに長島は暖いな、という気がする。小豆島は、長島の何処からでも眺められ、四季の移りも実にはっきりしていて、いつの場合でも、私たちのいい文芸素材になって呉れている。
 紅葉の名所寒霞渓はあの辺だ、四国遍路の時はあの雪の峠を越えたものだ、などと語り会う誰彼の懐旧談も、もう聞き古した。小豆島はこのように、絶えず私どもの無聊を慰めて呉れるが、その頂上一帯に雪の消えない日の、没際の夕日にほんの一瞬燦ときらめく時ほど、魅力ある光景はない。ちょうどその頃、私は十八時の観測の時なので、日照紙を取換え、空の雲行をしばらく観察しながら、 むかうともなく対う小豆島の雪の照り返しを、これで十年近くも賞でて来ているのである。風のすっかり落ちた露台の冷えに耐えながら、見る見る漁船の灯がちらつきはじめるまで、見とれているのである。
 その頃、小豆島の雪は薄くれないから、また、もとの白さにかえって、黝い入江の海をいやが上にも暗くするのである。


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サツマイモとキーウイの蒸し煮


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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れ、砂糖をふり、キーウイ2個をスライスして置き、大さじ1のレモン果汁を入れ、大さじ1の水を入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



煮卵

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ニンジンの薄切り、タマネギ、シイタケを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんを入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして10分ほど煮て、ざく切りしたネギを入れ、4分ほどでネギがしんなりしたら、卵4個を割って入れ、4分煮て出来上がり。
   
   
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シャワーのように癩文学を浴びる


「シャワーのように英語を浴びる」という広告が新聞によく出ていたが、1日のうち1時間、「異質な時間」を持つことは、脳が休まる。


40年以上、短歌や俳句には縁がなく、新聞に載っていても見ることはなかった。


サラリーマンになってからは、「読書をする」という精神的余裕も、時間もとれなかった。もちろん、農業を始めてからも、サラリーマンの時と同じで、そんな余裕はなかった。


忙しすぎたり、激しい労働の1日が終ると、何もする気が起こらなかった。


それが、還暦を過ぎ、ハンセン病文学に出会ってから変わった。


読んでいて、癒された。


とっつきづらいと思っていたが、読み進むうちに、短歌も心に響き始めた。


ブログのネタにもとてもいいと、気づいた。進めるうちにいつの間にか夢中になった。


今は以前に書いたもの(ブログ入力したもの)を再度、繰返してブログに載せているが、入力にエネルギーを注ぐ必要がないぶん、もっと心に響いてくる。


「ハンセン病文学」というと、特異な分野の文学と思われるかも知れません。


ハンセン病の発症は国内ではほとんどなくなり、過去の出来事と思われるかも知れません。


でもこの文学は「死が間近に感じられるようになった還暦後の自分」には、切実に心に届く。


なぜならハンセン病文学は命と対峙した文学(日常的に、友や仲間の死が生じた)だから、60代半ばの自分には大いに応える。


1日のうちの1時間を、こんな異質の時間に費やせている「今の自分」がいい。


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リベラル21

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長島愛生園  千葉 修さん



長島八景



 長島へ初めて来る人の殆どが、その水明と、山紫にまず驚嘆する。園長光田健輔先生が長島をめぐるこれら風光の中から、特に選ばれた景勝がこの長島八景である。先生はつとに短歌会員にこれを詠じてはと奨められたのだが、環境の美に全く眩惑されきった私どもは、一様に逡巡して数年を経た。私は今、散文によるこの表現を思いたち、入園当時の白紙的心境に今一度たちかえって綴ってみようと思う。

一 光丘晩鐘

(3ページです)

 愛生園に収容されて、混乱した心境もやっと落着いた頃、誰もが真先に歩を運ぶのは光ヶ丘であり、その頂上の鐘楼堂であろう。私が収容された日、遣瀬なく、没日の海に対っていた時、微かではあったが、はっきりと、丘を伝い、海を渡ってゆくこの晩鐘の音を聞いて、島に来たことを新しく感じ、いよいよこれで私の第二の人生が始まるんだという、名状し難い感慨を催したことを憶えている。
 後になって、この鐘が時報としての大きな役目を果し、ラジオが今日ほど普及していなかった当時のこととて、対岸虫明では、この鐘に時計を合しているということを知った。而もこの鐘を厳寒に、酷暑に、風雨の日に、機械さながらの正確さで撞いて呉れる人がBさんという一入園者だということを聞くに及んで、私は一層この鐘の音に愛着をもつようになった。いや、それよりもこの鐘の床しい由来が更に私の心を捉えて離さないのである。
 はじめて光ヶ丘へ登った私は、皇太后陛下の「つれづれの御歌」の刻まれた鐘を仰ぎながら、寄贈された西本願寺のこと、職員患者一体となっての連日に亘る石運搬奉仕作業に次いで、鐘運搬奉仕のあったこと、そして鐘の撞き初めの日にはBKから全国放送された等々の美しい思い出を、先輩の病友から聞かされて感動を新にしたものである。
 気象観測所に移ってからの私には、この朝夕六時に鳴る鐘がこよない対象となった。時計とラジオと、この鐘がきっかり揃って鳴る朝夕の観測の気持よさは、やはり私だけしか味わえない醍醐味だった。真冬の朝六時はまだまだ夜中といった感じで、観測もなかなか楽ではないのだが、十年一日然と、黙々と鐘を撞き鳴らすBさんの真摯な姿に接すると、忽ち清浄な我にたちかえって、気軽に床を跳ね起きるのである。
 朝の鐘もいいが、夕映えに光ヶ丘の芝生が黄に染まる頃、寂かな余韻を曳いて鳴る鐘の音は、何とはなしに心に沁みこんでくる。そして、今日の一日を省る心のゆとりが自ら萌して来るのに気づくのである。今日も終わったな、と思うと同時に、あのミレーの詩心にも通うような何か禱りたい率直さにたちかえるのは私一人ではないであろう。Bさんは不自由になって行く軀に鞭打って、コツコツと実にコツコツと、朝夕二回ずつ丘を上って鐘を撞いているうち、片脚を失い、松葉杖に縋るようになったが、それでも時を違えるようなことは全くない。その真剣そのものの姿に励まされて、いつか私は観測の時を機械的に守れるようになった。しかし、Bさんは、ついに両脚をうしなうまでに病気が昂進し、二十年一日のようだった尊い努力に美しい実を結ばせた。
 Bさんにかわって、軽症のYさんが撞き鳴らす鐘の音は、依然分秒を違えることはないが、韻々と響くその鐘に目覚めては、反射的にBさんが痛ましくなって来て仕方がない。それが晩鐘の場合には、わけて私の胸を衝きあげるばかり寂しい。
 こうして、恵の鐘の美しい音色は、貞明皇后の御在世のままの暖い御声の絶える間がないように、貴い奉仕者が後を継いで、響き続けるであろう。そして、愛生園の全島はおろか、対岸の村々に、ときに私どもの悲痛な訴えとなり、また、うるわしい唄声ともなって、絶える間はないであろう。
 観測所を去ろうとしている私は、今、裏窓越しに真向いに見える恵の鐘、青く照りかえす甍の鐘楼、緑一色の芝生を眺めながら、時計を睨みつつYさんの黒い影がやがて幢木の綱を握ろうとしている姿をも併せた、夕べの光ヶ丘に見惚れている。すっかり秋めいて来た夕暮の黄色い光は、たゆとうように光ヶ丘を蔽っている。


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ヤーコンを使った2品


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熱したタジン鍋にバターを入れ、1センチほどに輪切りしたヤーコンを置き、シイタケを置き、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、ポン酢をまわしかけ、裏返してそのまま放置して出来上がり。



ヤーコンの醤油・カレー粉炒め

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熱したフライパンに油を入れ、残ったヤーコンをスライスして炒め、醤油とカレー粉で味付けして出来上がり。



豆ご飯

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4合の白米を洗って炊飯器に入れ、水と50CCの酒を入れて4合の目盛りに合わせ、塩を一つまみ入れて混ぜる。200gのグリンピースを置き、炊飯器のスイッチを入れ、炊けたら混ぜて出来上がり。明朝にはきれいな赤飯色になる(品種はサカタのタネの豊成というエンドウの取り遅れ)。



カブの甘酢漬け

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先に甘酢を作って置く。鍋に1カップ余りの水を入れ、煮立ったら火を消して削り節を入れ、15分ほど置いて茶こしで濾し、酢を120CCと砂糖50gを入れて溶かし、冷めたら生姜1片をすりおろす(計300CCの甘酢)。

カブ500g(内、赤カブを1個入れる)をスライスし、塩を多めにふって何回かもみ、1時間ほど置いてカブから水が出てしんなりしたら、さっと水で洗い流し、水気をしぼりながら瓶に入れる。冷めた甘酢を注いで出来上がり。明朝には食べれる。一昼夜経過すればすべてのカブが薄紅色に染まる。

 


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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