長島八景
八 万霊夜雨
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愛生園の第一印象には常に陰の存在であるが、それぞれの住家にも落ち着いた頃、おもむろに足を運ぶ所が万霊山である。
万霊!私は初めて納骨堂一帯をそう呼ぶことを知った時、何か、ひしひしと胸にわき上がる寂寥感を覚えた。癒えぬ病を背負わされた宿命を新しく感覚した、そして納骨堂への散歩を幾度か躊躇した。しかし、一目見た納骨堂は、暗い期待だっただけに、あまりにも芸術的に美しく、明るい感じさえした。でも、玉砂利の参道を進んで、先輩の霊に額づき、藤棚の下のベンチに腰を下して松籟の韻と眼下からの潮騒を、深閑とした庭内に聞いた時は、さすがに塋域だな、といった感じが強くなる。
更に、骨堂の遺骨安置室のドアを排して、年代順にズラッと並んだ遺骨の壺を見た瞬間、誰もが愕きの声を挙げるだろうと思うほどぎっしり詰まっているのに、私は愕いた。初めての日に、職員の方たちのそれをも併せて安置棚に並んでいるのを見て、私は思わず敬虔の念に打たれたのを覚えている。戦時中から戦後にかけての最も凄惨だったあの時、急にわれわれの間に、<安置棚狭し><骨壺足らず>の声を聞いたのも昨日のことのようで、肌に粟を生ずる思いもまた生々しい。
春秋の彼岸に、盆に、納骨堂の参道にはとりどりの提灯が飾られるようになって、その門を潜りながら、私には、ありありと目の前に死の翳が迫って来るような不安が去らなかったあの頃の記憶が鮮やかに蘇るのである。
今年の盆など、むせるような香煙のなかに、供え物の西瓜が山をなし、珍しい種々の菓子や団子を、これまたとりどりの供花が囲んでいる祭壇に額づいて、あの時代に逝った親しかった誰彼を心に呼びながら、心から詫びたくなり、瞼が熱くて熱くて仕方がなかった。
かつての短歌会を育てた内田守人先生が、君らには傑作の生まれそうないい素材だと思うが、万霊山を詠んだ佳い歌がないのはどうしたことか、と言われたことがあった。それで私はひそかに、万霊山を徘徊し、コンクリートの残骸穴を幾度か覗き、長島先住の山田翁の墓をも詣でるなど、あらゆるすべを講じて詩情を搔きたてたのだが、やっぱり月並な拙い歌しか生まれなかった。
しかし、ある一夜、先輩Sを喪った哀しみに、折からそぼ降る雨の中を、傘をさして詣でたことがある。枯れ枝になった萩は、早春の雨雫をさむざむと宿し、玉砂利はしっとり濡れて音もなかった。そして、額づいた香炉の灰はじっとり湿りを含んでいた。しかし、すっかり哀愁の虜になって、詩情など湧くはずもなかった。
その日から、親しい人を喪った哀しみを存分にかなしみたい日には、万霊山に小雨けぶる黄昏時がもっとも相応うように、私には思えてならない。悲しみが骨髄に沁みこんで、泪を流す甘さなどをはるかに超えたものの哀れを、しじに味わうことが出来るのは、小雨けぶる夜の万霊山に限るように思えてならない。
この私の心を心として、私を悼んで呉れる心の友が遺ってくれることは、今の私の唯一の頼みの綱でもある。
千葉修(北川・稚葉)さんの略歴
明治44年沖縄県首里市に生まれる。昭和12年4月19日発病のため教職を辞して長島愛生園に入園。愛生学園教師、長島短歌会会長などを務める。昭和16年「多摩」会員。昭和28年「形成」同人。昭和61年6月22日没。享年75。『楓陰集』(昭和12年)『青磁』(昭和26年)『小島に生きる』(昭和27年)『あらくさ』(昭和30年)『陸の中の島』(1956年)『あかつち』(昭和31年)『青芝』(昭和32年)『風光』(昭和43年)『三つの門』(昭和45年)『海光』(昭和55年)『遁れ来て』(昭和62年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)他に歌集『珊瑚礁』『守礼門』がある。
千葉修さんは1986年(昭和61年)の6月に75才で亡くなったが、その年の1月には、同じ沖縄出身の「大村堯」さんが70才で亡くなり、3月には森岡康行さんが57才で亡くなっている。そのさびしさを、
「一人逝きまた逝き死別の感覚も鈍りはてたりこの生き残り」と詠い、「誰よりも若き康行逝かしめて誰が継ぐべしや守りゆくべしや」と悲しんだ。
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長島八景
七 屋島帰帆
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題名は「屋島」となっているが「家島」であり、「やしま」と読む。
楯岩を仰ぐ岩に坐って、真東に位置して見える島が家島である。そこらあたりには形も似通った大小の島々が点在していて、この家島をそれと知るまでに私は数年もかかった。それだけに忘れ難い島の一つである。風の凪いだ日など、光の屈折と反射の関係で、この家島が海上にポンと浮き上がって、まるで、宙に浮いたように見える時がある。
虫明から、日生から、一日の漁に出た白帆の群が、家島をめぐる海上に、如何にも内海といった感じで、無数に見える。私が楯崎に遊んだ日の日暮れには、ポンポンと威勢のいいエンジン音を響かせながら相次ぐ漁船が、家島沖から帰帆するのに必ず出遭う。濡れた漁網を帆柱に、舷に拡げながらわが家へ帰る漁夫らの顔が、一日の疲れをありありと見せて、私のすぐ近くを過ぎて行く。
家島沖に白帆を輝かせながら悠々と散在しているのを眺める時もそうだが、暗くなった海上を帰りを急ぐエンジンの威勢のいい音が相次ぐ時ほど心の洗わるる思いをすることはない。その船と船が互いに呼び交わしながら、一日の労をいたわり合う声が、岸辺の私にもはっきり聞こえる。私はこの声に急に親しみを感じほっとする。そして漁夫の生活のこの悠長な面を憧れたりするのである。
家島沖に白帆が全く見えなくなり、狭いこの楯崎の港口に、エンジンの音もしずまりかえる頃、私はやおら家路を辿るのだが、これで島住まいにも馴れきったな、という感慨を覚えて、今は遠く響く山陽線の汽車の汽笛を聞きながら、私などよりも寂しく遣る瀬無く、もっと不自由であろう家島付近の島々に、しばし目をやって、去り難いのである。それほど、帰帆の影の全くない海上の静寂は、ややもすれば現実の私を夢幻の世界へ惹き入れるのである。
この虫明集落(漁港)から、「りーさん」と呼ばれていた魚売りのおじさんが、自転車で我が家の方まで時々来られていた。
車でも20分ほどかかる距離である。そして「八反峠」という、昼でも薄暗いような勾配の大きい峠を越える。
時々、八反峠を車で通るが、八反峠を越えるしかない坂道を自転車で、よくうちの方まで来られていたなあと思う。
もう55年以上前のことである。うちへ到着される頃には、魚はほとんど残っておらず、いつも最後の1~2種類だった。
後年、虫明に知り合いができて、「りーさん」という魚売りのおじさんを知っとられるかと聞いたら、すでに亡くなられたが、よく知っていると話されていた。
その後、別の人が虫明からオートバイで来られるようになった。
牛窓漁港、虫明漁港、日生漁港とあるが、当集落に来られていたのは、虫明漁港からだけだった。
日生漁港はちょっと遠く、虫明漁港と牛窓漁港は当地から同じくらいの距離である。
邑久光明園と長島愛生園のある「長島」に橋がかかってまだ30年であり、長島と虫明集落との距離は最短の場所でたった50メートルほどである。
「隔離の島」として橋は、かけられなかった。
親の死に目に会いたいと、何人の収容者がこの海峡を渡ろうとして命を落としたことだろう。
潮の流れが早く、泳ぎ切るのは難しいらしい。
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六 手掛秋月
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手掛島は、長島の南にポツンと離れた一握りほどの島である。満潮ともなれば文字通り一衣帯水の距離にある一景勝である。しかもそれが療舎を出れば一歩という手近差なので、病友たちの殆どはたいていこの手掛島へ渡って行っている。それに、私たちの氏神、長島神社があり、干潮ともなれば、絶えず幾人かの参詣者を見る。
私が島に来た当時、長島神社の例祭には、参道を繋ぐイルミネーションが実に美しかった。戦時から戦後にかけて中絶していたこの装飾も、最近どうやら復活して、新しい入園者を殊の外喜ばせている。
参道の干潟を渡り、七十七階の石段を上りながら、左右に古びた唐獅子の一対を賞出て、やっと辿りついた宮居の斎庭にはいつも箒目が新しく、その上にちらほらと松葉の散り敷いているのも床しい。長島神社の例祭は六月七日で、脱帽の頭を暑い日射に照られながら、禰宜の祝詞と木履の音を虔しく聞いた印象も懐かしい。
この宮居の御神体が光明皇后で、悲田院の昔、癩者を御自ら浄め給うた史実が、つねに私たちに一大光明を注ぎ、世人への絶えざる啓蒙となっているのは、あまりにも有名である。それが貞明皇后の御坤徳につながり、綿々としてわれらの上に慈悲を垂れていられるのである。
この手掛島が、仲秋の名月の夜、金波銀波を背に、ひときわ美しく海に浮び、私たちにこよない観月の場を提供してくれる。長島とこの手掛島の間の空から昇る月が、真正面の官舎地帯からは格別によいらしい。
四季の変化のまにまに、それぞれ私たちを娯しませてくれる長島の景勝の中で、この手掛の秋月は、不自由舎からでも気軽に出掛けられ、重病室のベッドからも窓越しに眺められるので、特に弱い病友の恰好の遊歩の場なのである。
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