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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

週刊金曜日

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長島愛生園  辻村みつ子さん(7)




青空が青く見えたら叫ぼうよ




血まみれてまだそびえ立つ自尊心




女ゆえ指包帯がすぐ汚れ




葉桜よ愛の捜索まだ続く




愛も悲も乗せておゆきよちぎれ雲




愛称で呼んでくれます看学生




生きるとはスプーンの粥を飲みくだす




仰臥する唇にはじけるさくらんぼ




鳳仙花ふっとかすめる死に化粧




音楽会あなたは遠い席にいる




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長島愛生園  辻村みつ子さん(6)




粥すする音は命か夫病む




杖になります桜見に行きましょう




生きよ生きよ玉菜に肉を包みこむ




深い海それより深い渕をみる




ひびかねば持ち変えてみる母の鈴




ハイビスカス別れの日にも赤く咲き




彼岸花母に逢いたく母は居ず




振り向いたばかりに傷が深くなり




つらすぎる噂話に潮鳴る




左眼からこぼれるものは皆こぼれ





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長島愛生園  辻村みつ子さん(5)




深い傷埋めつくすまで雪よ降れ




不器用に男電話で愛告げる




鬼灯ホオズキをくれた少年遥かはるか





埋めるものまだあり砂を深く掘る




髪を
く悔いももつれも解けるまで




高圧線鳴る日は痛み裂くばかり




惜しむもの無くて静かな十二月




冬山も母も見えます春菜粥




片言で人形の髪すいてやり




冬だから咲き急ぐなよシクラメン




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ピーマンとトマト炒め


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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、ベーコン2枚の細切り、ピーマンの順に炒め、ピーマンがしんなりしたら半分に切ったミニトマトを入れて炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



オクラの薄切り

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定番です。カツオブシをふり醤油をかけて。



ソーメン

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薬味は青シソとミョウガの粗みじん切り。メンツユで。



ミニトマトのマリネ

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酢、レモン果汁、オリーブ油を各大さじ1、砂糖小さじ1、塩・胡椒をしてマリネ液を作る。

半分に切ったミニトマトを入れ、混ぜて出来上がり。「プチトマトのマリネ」を参考にした。
       


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ちきゅう座


「マサオ・ミヨシのこと」──周回遅れの読書報告(その66)


マサオ・ミヨシさんの鋭い指摘! 現在の日本の政治状況の原点をついていると思う。

渡部昇一さんの「クオリティ・ライフの発想」(1977年発行)はベストセラーになったので僕も若い頃に読んだ。そして今でも書かれていた内容を思い出すことがある。それくらいすばらしい内容だった。

だから、その後の渡部昇一さんのいろいろなことは、とても同一人物と思えなかった。


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長島愛生園  辻村みつ子さん(4)




ひとり旅北はやっぱり淋しすぎ




水色の夢を残して君遥か




美しい女男を語らない




折れそうな女が花に添え木する




ゆれている手鏡罪に気がつかず




束の間の哀なら泣いて済むものを




濁り川女ばかりが流される




耐えきれぬ時には帯を締め直し




ハンカチを振ってちぎれていった日よ




陣痛の呻きも知らぬ病葉よ




曇天に日傘ひろげて行く女





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長島愛生園  辻村みつ子さん(3)



あじさいの心に添うた絹の雨




薔薇買って急ぐ男が憎らしい




小島には孤島に似合う波の音




あんなに優しかった人あれは風




大がかりで捜して欲しいかくれんぼ




花あかり眩しい人に手を取られ




もう葉桜よすいすいと雲流る




眼帯に花散る音のしきりなり




秋桜やさしい声で呼ばれそう




海鳴りも風も小さな身を揺する




早く早く来て下さい褪せます島
桔梗
ききょう








嗅ぐうちに食べてしまった薔薇の花




眼が痛む鳴いているのはカラスだよ




花見えず花の滴が眼を伝う




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長島愛生園  辻村みつ子さん(2)



遥かなる人を海鳴り連れて来る




美しい薔薇に飼われている毛虫




青い葉を食べると蝶になれますか




風は愛女の扉打ちつづけ




海に囲まれ海を見ぬ日が続き




空と海おんなじ色で向かい合う




どの音も私の生きる道しるべ




青い空ふいに逢いたい男あり




波キララ 私もキララ 死もキララ




大声で泣くだけ泣けて目が見えず




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ナンキンとトマトの煮物



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無水鍋にトマトを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、トマトから水が出てきたらナンキンを入れ、再度煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。



キュウリの酢の物

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キュウリはスライサーで薄切りし、塩をふってもみ30分以上置く。

チリメンは15秒湯通しして冷水にとり、ボールに入れる。酢大さじ2、レモン果汁と醤油を各大さじ1、蜂蜜大さじ2を入れて混ぜる。

キュウリは水洗いして塩分を落し、水気をしぼりながらボールに入れ、混ぜて出来上がり。



ゴーヤの酢の物

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ゴーヤは3ミリほどに薄切りし、塩をふってもみ、30分以上置く。さっと水で洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れる。酢、レモン果汁、蜂蜜各大さじ1で味付けして混ぜ、すりゴマ(市販品)をふって混ぜると出来上がり。



ハーブティ

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左からセイジ、アップルミント、タイムで、沸騰したら火を消して入れ、3分蒸らし、ハーブを取り出して出来上がり。              


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情報収集中&放電中

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長島愛生園  辻村みつ子さん(1)




たじろいだふりで女はたじろがず




笑い声たてて別れに耐えてます




長い髪切ればわかってくれますか




向い風だから女は胸を張る




白いショールに触れないでよあなた




会いに来て下さい明りが消えるから




秋砂の脆さあなたの名が消える




真っ赤なバラが好きという嘘つきよ




掌へ男がおいたさくらんぼ




あなたはきっと橋を渡って来てくれる




辻村みつ子さんの略歴
昭和3年生まれ。昭和21年愛生園へ入所。50年1月「川柳七草会」と「川柳岡山社」に入会。視力が落ち小説から川柳に転じた伸三氏と知己を得、結婚。夫君とともに55年から川柳を始め2年目にして岡山県文学選奨に入選。59年「ますかっと」誌の同人に。「全盲に近い身で、すべての事象を音と匂いを媒介に川柳に詠み」(大森風来子)、独自の句境を拓き、平成4年『句集海鳴り』を出版。


玉木愛子さん→明治20年生れ
辻村みつ子さん→昭和3年生れ

二人は、辻村みつ子さんが入所した昭和21年から、玉木愛子さんが亡くなる昭和44年までの23年間、長島愛生園で同じ時代を過ごした。

俳句と川柳という違いはあるものの、時代背景で、これだけの違いがある。

時代が辻村みつ子を呼んだのか、辻村みつ子が時代を切り開いたのか!


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邑久光明園  藤本トシさん


『地面の底が抜けたんです』一部抜粋

母の死=家出・深敬園へ


順序があべこべですが、この記事が「地面の底が抜けたんです」の最後です。

2ページです。


 その震災(関東大震災・大正12年9月)のあくる年に、おっかさんも亡くなったです。・・・十六、七日患いましたかね・・・父親の方は三日っきりだったんですが・・・。
 兄嫁さんがつきっきりで看病してくれてたんですけど、せめて夜だけでもあたしにつかせて下さいと言うのを、姑を看るのは嫁の役目だからと言って、なかなか承知してくれないんです。それを、いつまで生きてるかわからないんだからって、たって頼みましてね、夜中だけあたしがかわったんです。
 そしたらおっかさん、あたしが死んだらすぐおまえをむかえに来てあげるからねって言うんです。すぐにって言うから、ほんとにすぐだと思って楽しみにしてましたのに、ちっとも来ませんでねえ、母親や父親が亡くなった歳より、あたしはもう十八、九年も長生きしてしまって、ほんとにまあ・・・。
 今になってみれば、もう、早く死のうとも思わないし、生きてるのが嫌だとも思いませんけれどね。
 だけども、その頃のあたしは、もう隠れ忍んで、自分の病気に屈託してしまっていて、一切なんにも頭に入らんのです。どうして家を抜け出そうか、どうやって死のうか、そのことばっかり毎日考えていて、他のことは思やしないんです。
 やたらに死んだらあとで家の者が迷惑するし、そうならないように、どこで死んだか、どこの人かわからないようにして死にたいものだ、それにはどうしたらよかろうかということばかり毎日考えていて、そのくせ、さて実行ということになったらなかなかできないものでねえ。
 当時は、この病気は血統だと言ってましたでしょ。だもんで両親が、うちの親族にはそんな病気はないって言い合っているんですよ。おまえの方にあって隠してるんだろうとか、こそこそ・・・それを聞いているのがつらいこと。
 だから、早く家を出たい、早く死にたいとそればかりなんですけど、両親が見張っていてなかなか出られないんです。ですから、おっかさんにも亡くなってもらった時は、ほんとに安心しました。親が亡くなってやれやれというのは変ですけど、ほんとにそうですよ。どんなにうれしかったかねえ・・・親不孝なことを言いますけど、ほんとに気持ちが軽々となったんです。
 それからすぐに家を出まして、それっきり帰らんのです。

 大磯で死にそこないましたろ、それで警察に泊められて、次の日に、もちっとむこうへ行って死にましょと思いまして、またいけませんでねえ。それから身延にあがるんです。



藤本トシさんの略歴
1901年2月5日、東京生まれ。1919年に発病し、民間病院に通院後、1925年、身延深敬園に入園。1929年5月、外島保養院に転所。1934年、室戸台風により外島保養院は壊滅状態となり、全生病院(現、国立療養所多摩全生園)に委託される。1938年、外島保養院が邑久光明園として再建後、帰園。園の機関紙「楓」の創刊後、短歌、詩、随筆などを投稿していた。1987年6月2日死去。随筆集『藤本トシ』(1970復権文庫)、作品集『地面の底が抜けたんです』(1974思想の科学社)。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)


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大島青松園  塔 和子さん(26)




口紅のやや濃ゆ過ぎしと思ひつつときの間浮かぶ君の眼差し




でんでん虫が角長く出し憚るなき姿態を晒す八ツ手葉の上




四畳半に机を二つ並べ居り互ひに甘き夢を持ちつつ




陽盛りを車曳き居て噴く汗に吾が肉体の清きを信ずる




吾が留守の今宵を独り寝る
にシーツま白き蒲団のべおく




美容師にカットされたる我の髪やや艶めきて床に散らばる




侵されて畸形に見ゆる鼻の先我の化粧は何の為にする




癩病みて島に来ているだけのこと縹渺として初夏の空澄む




塔和子さんの略歴
1929年、愛媛県に生まれる。1943年発病、大島青松園に入所。詩誌「黄薔薇」「戯」「湖」同人、日本現代詩人会会員。著書に詩集『はだか木』(1961 私家版)、『分身』(1969 私家版)、『エバの裔』(1973 燎原社)、『第一日の孤独』(1976 鍋牛社)、『聖なるものは木』(1978 花神社)、『いちま人形』(1980 花神社)、『いのちの宴』(1983 編集工房ノア)、『愛の詩集』(1986 海風社)、『未知なる知者よ』(1988 海風社)、『不明の花』(1989 海風社)、『時間の外から』(1990 編集工房ノア)、『日常』(1993 日本基督教出版局)、『愛の詩』(1994 編集工房ノア)、『見えてくる』(1996 編集工房ノア)、『記憶の川で』(1999 編集工房ノア)、『私の明日が』(2000 編集工房ノア)、『希望の火を』(2002 編集工房ノア)、『大地』(2002 編集工房ノア)、『今日という日を』(2003 編集工房ノア)、詩選集『いのちの詩』(1999 編集工房ノア)、詩画集『めざめた風景』(小島喜八郎画 1994 三元社)。



塔和子さんは、ハンセン病という病気そのものは、ほとんど詩に託さず、それ以外のテーマを詩にしたためた。吉永小百合さんの朗読でも知られている。



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ピーマンとトマトの煮物


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トマトを鍋に入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、トマトから水が出てきたらピーマンを入れ、煮立ったら弱火にして15分ほど煮て出来上がり。




中元でもらった生ハム
    
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残っていたのをグリルで焼いた。




ゆで卵

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RITERA

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邑久光明園  藤本トシさん


『地面の底がぬけたんです』一部抜粋

失明



(昨日の続きで5ページです)

 耳や鼻は、それは、とてもいいです。この上耳を悪くしますと、そりゃ難儀なんです。
舎の前を通っても、人の話し声がどれだけ役に立ちますやら。
 こう通って行きますでしょ。すると、あ、誰それさんの声がしているから、ここは何舎だってことがわかるのです。それは、人の話し声って役に立つもんです。
 盲導鈴でも、あなた方にはかすかにしか聞こえないかもわかりませんけど、あたしたちにはあれが頼りなんですから、距離だけじゃなしに、方向も、きちっとわかるもんですよ。盲人さんが歩きなさるのをごらんなさいまし、こう行ってこう曲ると思ったら、きっちりそこからスッと曲がられますよ。あたしは下手なんですけど。
 匂いにも助けられます。この病気は嗅覚のない人がずいぶんありますのに。
 食べものでも、あたしは匂いでね、わかります。ですから、何をいただくのか得心がいってから口に入れられるでしょ。匂いのない人は、それを口に入れて舌でたしかめるまでわからない。
 だけど読み書きはねえ、耳や鼻じゃできませんので、点字を読むったって、このとおり指がありませんので、これは苦労しました。ええ、舌で読むんです。ところが、舌ではなかなか文字になってこないのです。
 点字をうってある亜鉛板をね、こうして捧げ持って、舌で読む練習をするのですけど、あれは舌が痛くてねえ。すぐ舌の先が破れて、練習板が血でまっ赤になるんです。
 それでも、これで読めるようになると思うとうれしゅうございました。痛さも辛さも忘れて、一所懸命でやりました。
 点字本を読んでて、汚い話ですが、ほんとのことですから話しますが、舌を出しっぱなしでやってますと、よだれが出てしょうがないのです、初めの頃は。そのうち、点字のつぶつぶがよだれでふやけてしまって、そこを一所懸命で舌で押すものだから、へこんじゃうんです。ほんとに困りました。
 しかしあれも、熟練してきますとね、ちっともよだれは出ません。舌の先をチッと出しまして、スーと読めるようになるんです。ちっとも濡れません。我ながら感心するようになります。
 最初のうちは舌を長く出して、一所懸命になればなるほど長く出してね。自然とそうなるものなんですよ、おかしなもので。
 ずいぶん良く読めるようになったんですよ。ところが、この人があたしのめんどうを見てくれるようになってから、ちっとも読まなくなってしまって。ずるけましてね。
 疲れるんですもの、あれを舌で読むのは。
 だけど、あれもなかなかいい修行でした。今はもうあんな苦労されてる方はありません。みんなテープに入ってますから。耳だけ良けりゃいいんです。
 うつ方も、相当いいところまで行ったですけどね。なんてましょうか、点筆をちっとやそっと手首にくくりつけたんじゃ駄目なんです。力が足りなくて。
 点字をうつ、あの細い定規みたいなのご存知でしょう。あの小さな長方形の中に六点打つんですから、アなら一点、イなら二点、その二点でも横にうったり縦にうったり、いろいろありましょ、そういうふうにうつんですから。六点で足りない濁音とか半濁音とかってのは、また六点以外のところに点をうつんです。それを一所懸命、この手の甲のところにゴムでキューッとペンをくくりましてやってたんですけど、すぐしびれて手が利かなくなってしまうんです。
 それに手だけでは力が足らないもので、頬でうつんですよ。それが痛くて。
 いえ、机がこうあって、紙がしいてあって点字器があるでしょう。そこへこう頬をもっていって━━あたしは指がありませんので、ふつうの点筆ではうてないので、ペン軸を改造したものに点筆の先だけつけてもらって使ってたんですけど、ペン軸だから長いでしょ。その長いところに頬をこうあてまして、手を動かす時々に、頬で押すんです。アならこう、イならこうってね。それにはなかなか力が要るんですよ。それで、頬のここんところに大きな水ぶくれが出来ましてね、苦労しました。
 点筆というのは、どういうわけであんなに短いものなんですか。あれはこの病者には不向きなんです。あれが使える人というのは、この病者ではいく人もいやしません。みんな改造してるんです。
 あの小さなマスに六点うつのは、なかなかのことです。自分じゃまっすぐうってると思っていても、隣のマスに入れてみたり、二重になってしまったりで。
 頭で五十音を覚えるのはあたしが一番早かったんですけどね。どっちへどう向いたら何という字だってことは、すぐ覚えられたんですけど、実際にやりはじまったら、どんなにしてみてもみなさんに追いつかない。
 じゃ、ちょっと一服って休憩がありますでしょ。すると先生がすぐあたしの横にきて、こやって、一所懸命にほっぺたをさすって下さるんです。ほっぺたでうつのはあたしひとりだもんで。
 でも、落第でした。
 どうしてそんなにしてまで点字をやる気になったかと言いますとね、やっぱり文章が書きたかったんです。自分でうてたらば、他人さんに下書きをおねがいするにしても清書をしていただくにしても楽だと思いまして、それで習いに行ったんです。というのも、同音異義語が多ございましょ。あれが口で言って写しとっていただく時に難儀なんです。
 ところが落第でね。しかたないから、頭の中に文章を書きまして、ここはテン、ここはマル、ここはひとマス空けてとか、行を変えるとか、みんな完全に頭の中に納めまして、その上でしゃべるんです。
 よくそれだけ覚えたねえって言われましたけど、十枚くらいのものまではその頃できました。まだ六十くらいで若かったということもありましょうか。ですから、書き取ってもらいましてから、読みかえしてもらいますでしょ、すると、ああそこはその字じゃなしにこの字ですとか、テン、マルまで全部言えました。頭の中で、原稿用紙をめくりながら読んでるようなもので・・・。




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邑久光明園  藤本トシさん


『地面の底がぬけたんです』一部抜粋

失明


23年の秋とは、藤本さんの49歳の頃で、藤本さんはその後87歳で亡くなるまで40年近い盲目の日々を過ごされた。


(5ページ半です)

 前の日の夜まで本を読んでまして、次の朝おきたら、ぼおっと霧がかかって、なんだかそんなところに入ったみたいで、今日はえらく霧が深いねって言いましたら、霧なんかかかっていないよって、そう言うんでしょ。あらっと思ったんです。それでもう駄目。
 一晩のことでした。二十三年の秋でしたか。少しも痛みもしないで
 体が弱り切ってたんでしょうね。
 戦争でだいぶん無理しましたのでねえ。旦那さんが元気なお方は、旦那さんがずいぶん助けになって下さったんでしょうけど、あたしは、目の悪いつれあいを持ってましたから、その人に何とかして食べさせてあげようと思って、ひとりで一生懸命でしたから。
 少しでもむこうによけいあげたいと思いますし・・・むこうも、どれだけっきりないんだから、これだけ食べては足りなくなるということもわかるんでしょうけど、あたしはそう言われるたんびに、なんとかかんとか言ってごまかしてあげてたわけです。いまから思えば、それだけよけいに栄養が足りなくなっていたんでしょうか。
 それに、畑をやっていても、手が悪いし、やったこともなかったしで、充分できないんです。すると、見かねて他人が手伝ってくれますでしょ。そうすると、そんな時代ですから、手伝ってもらってありがとうじゃすまないんです。それで、自分のごはんを食べてもらうでしょう。何かお茶うけを買ってさしあげるなんてこともできませんでね、何も売ってないんですから、ごはんをさしあげるよりしようがないのです。ですから、自分は断食みたいなもんだったのです。
 見えなくなった時には、手の指はもうだいぶなくしてました。今ほどじゃありませんけど。というのも、戦争中、畑をするのに鍬を持ったでしょう、あれからです。曲った指で無理やり持つもんだから、そのうちに、指のまん中のところが筋切れになりまして、そこから腐り込んでいったのです。
 足の指はもう少しあとですけど、あたしは、こう、きっちり座るのが好きで、正坐ばかりしてたもんですから、反り足になってしまって骨が曲ってね。反り足というのは、足の裏の方へ甲の骨が反ったようになってしまうんです。それで、親指の背の方から腐らせまして、これも、指のつけ根から二寸五分も下から、骨ごとそり落としたんです。両方とも。
 ほんとにおかしな病気です、これは。
 うちの、この人は、ね、手首の関節がまるっきり利かなくなってましょ、はずれたみたいにぶらぶらして。足首もああなるのです。垂足といって。
 ほんとにねえ、手も足も目も、考えてみれば、まったく戦争のおかげです。
 目を失うってことは、これは失ってみて心底わかるんですけど、全部なくすってことなんです。この病気は麻痺が深いから。
 近さや遠さを計るのはもちろん、ものにさわったりものを握ったりするのも、みんな目です。お炊事や洗濯だって、目で切り、目で洗い、目でしぼってたのですし、目で書いてたわけで、もう、しばらくは、ものを言う気力もなくて・・・。
 虚脱状態でした。朝から、押入れの前に座ったきりみじろぎもしない。泣く涙もない。ぼおっとして・・・。恥ずかしいことですけど、気狂いみたいでした。
 だけど、これはあたしばかりのことじゃありませんで、みなさんおんなじですよ。ただ、他人さんとちょっとちがったとすれば、つれあいが目の悪い、不自由な人でしたもんで・・・そこのところがちょっと。
 そのくせ、自分がそうなっても、できるだけの世話をしてあげたいと思いますし・・・。
 なかなか立ちあがれませんでした。
 その時のあたしにとって、ほんとにかけがえのないお人がいましてね。その人に支えられて、やっとのこと立ちなおることができたんですけど、それが、さっき豆を持ってきて下さった人がいましたでしょ、あの人です。あの人が、ほんとにしんからあたしのめんどうをみてくれたんです。
 それというのがね、こう言うと自分の自慢話のようですけど、あの人が大変目の悪い、その上体の悪い旦那さんをもっておられた時があったんです。その、入院しておられた旦那さんに、あの人はありとあらゆる草を採ってきて、ものがない時ですから、炊いて食べさせてあげたんです。ところがお鍋もなくて、そこで、そこらに落ちていた洗面器の古いのを拾ってこられて、針金でグルッと鉢巻きにして弦にして、それを、自分で土をこねて作った竃にかけて炊いたんです。
 ところが、年中そやって炊いてるもんで、顔から背中から手足から、もうススで真黒けになるのです。それが普段のことならまだよかったんでしょうが、お正月になりましてね、同じ部屋の人たちが━━あたしがその時寮長だったんですけど━━あたしを呼んで、どんな時代であったって、とにかくお正月だというわけです。だから、せめてお風呂くらい━━あの人はちっともお風呂に行かんのです。それは行ってるひまがないから行かんのですけどね。それだもんだから、手で剥いだら剥がれるほどに、真黒に油煙が顔や手足についていて、髪の毛なんかはいぶされて、もう櫛の歯が通らないほどになっているんです。着物だってなんだって、そりゃなんともいいようがないほど汚れてるんです。それを、みんなが、あんな格好してられたら部屋の恥だから、せめてお正月の二、三日だけでも小ざっぱりしてほしいから、あれじゃああんまりひどすぎるからって、寮長だからあたしに何とか言ってくれって言うんです。その時あたしは、そうですか、あなた方はりっちゃん━━あの人りつえさんっていうんです━━りっちゃんをそんなに汚いと思いますか。りっちゃんが汚くて部屋の恥だと思いますかって、あたし言いました。
 あたしはちがいます。あの人はほんとうに偉いと思います。あなた方は真黒けで汚いというけど、あたしはあの人に後光がさしているように思います。ほんとに、あの人ほどのおこないができる人が、何人います。あれは捨身行の姿です。あたしからはそんなことは言えませんって、そう言ったんです。
 それで、あたしが目を失ってから━━あたしからはあの人に何も言わんのですけど、影になり日向になりして、言わず語らず多少はかばいました━━それであの人が、どれだけ力になってくれたかわかりません。ほんとに、今でもあの時のことを思うと涙が出ます。
 それにりつえさんは、目の悪い旦那さんを長い間みてこられた人でしょ。目が悪い人の扱いをよく心得ておられましたし・・・ほんとに、どれだけ世話になりましたやら・・・。
 今だにこうして、豆をとどけてくれたりして、あたしには恩人です。

(つづく)


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大島青松園  塔 和子さん(25)



幸福


私は汚れているから美しいものを恋う

かわいているからぬれた優しさを恋う

私が汚れているかぎり

美しいものを見ていられる

かわいているかぎり

ぬれた優しさを感じていられる

だから美しくなりたくない

ぬれた優しさになりたくない

そのそばにいるだけでいいのだ

目を細くし

よだれをたらし

それらを見ている

となり合っていて

手のとどかぬ

その距離こそ

崇高な輝きだ

美よ優しさよそれら

私の恋人たちよ

私はあつく恋うものであることによって

誰よりも幸福なのだ















ある怠惰

忘れた 忘れる 忘れよう

忘れられる 忘れられる 忘れられた


通り過ぎた風のように

肌に残る感触は

消え去りはしないのに

みんな

すまして忘れたという

それでいいのかしら

でも忘れたという言葉があるのだから

利用する方が便利だ





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夏野菜煮込み



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ミニトマト、タマネギ、ピーマンとパプリカ、グリンピースを用意する。豚肉100gは15秒湯通しする。

熱した無水鍋に大さじ1の油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、豚肉、タマネギの順に炒め、ピーマンとパプリカを入れ、全体に油がまわったら白ワインを少し入れ、半分に切ったミニトマトとグリンピースを入れ、煮立ったらコンソメ2個を入れ、極弱火で20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、胡椒で味付けして出来上がり。


 
ソーメン

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薬味は青シソとミョウガの粗みじん切り。メンツユで。



ハーブティ

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左からレモンバーべナ、セイジ、アップルミントで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らし、ハーブを取り出して出来上がり。麦茶代わりに。



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くろねこの短語

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邑久光明園  藤本トシさん




「地面の底がぬけたんです」の一部抜粋

誰か死ぬ日々=戦中



(7ページです)

戦争中の園の様子が手にとるように迫って来ます。藤本さんがその時代を生き抜かれたのも、たまたま偶然だった。たまたま生き延びられたから、すばらしい随筆が数多く残された。それは戦後、昭和23年の秋に失明してから書かれたものが多い。
『しかたないから、頭の中に文章を書きまして、ここはテン、ここはマル、ここはひとマス空けてとか、行を変えるとか、みんな完全に頭の中に納めまして、その上でしゃべるんです。
よくそれだけ覚えたねえって言われましたけど、十枚くらいのものまではその頃できました。まだ六十くらいで、若かったということもありましょうか。ですから、書き取ってもらいましてから、読みかえしてもらいますでしょ、すると、ああそこはその字じゃなしにこの字ですとか、テン、マルまで全部言えました。頭の中で、原稿用紙をめくりながら読んでるようなもので・・・』というくだりが「失明の項(近日中に更新)」に書かれています。



 ここは島だもんですから、なにもかもが不足だといったって、外から買うわけにはいかないのです。
 ですから、送金のあるお方はまだいいんですけど、送金のないものは全くみじめでした。ある人がない人に分けてあげるなんて、そんなことはできやしません。それはね、そう申しあげるとなんですけど、幸せに暮らしておられるお方だから、そういうふうに考えられるのでしてね。もうあなた、おしつまってから、あげたりもらったりなんかできません。自分のものを自分で食べなかったら、生きられないんですもの。それに、人さんが炊いたり買ったりされたものを、いただく方でもかなわないのす。お返しできるあてがあればいいですよ。だけど、いただく一方ってことはできませんでしょう。その時だけじゃあない、お互いずっと一緒に住むんですもの。だから、わけてくださらないというより、いただけないんです。
 それに、戦争中は、働ける人に優先的に特別配給があった時代でしょ。ですから、あたしたちみたいに不自由で働けないものは、どちらかというと、あんまり食べてはいけないというような、そんな空気ですから、不自由者にはますますものがまわってこなかったんです。
 園全体の食糧といっても、代用食ばっかりでしたけど。
 この、今の中道のあたり、もう足の踏み場もないくらいの畑でした。家の周囲はもちろん、作れるところはみんな畑でした。
 それでも足りないから草を食べるんです。あちこち生えてましょ、はこべやなんか。それはもう、草がこの島にまた生えるのかしらんというくらい取りつくしてしまって・・・ちょっと芽が出たら、すぐ取って食べちゃうんですもの。
 他の病棟からむしりに来なさったら、そこはうちの畑ですからって・・・草でもそんなふうでした。
 陸のものを食べつくせば、こんどは、四方が海ですから、 石蓴あおさを取ったり貝をさがしたり・・・もう一日中食べものをさがしにかかりっきり。
 どこの家でも、泥をこねた小さな竈を作りましてね、食べられるか食べられないかなんておかまいなしに、とにかく何でも炊きました。味つけは海水をじかにやって。
 塩なんて、そんな洒落たものないんですよ。ごくたまあに、二日分とか三日分のおかずだといって、サジにちょっとの配給でしたから。だけど、ここは四方が海で、そのぶんはずいぶん助かりました。
 塩は貴重品のひとつで、だんだんお金が通用しなくなりますと、物々交換になって来るんですけど、その時塩はいいんですよ。園内でも、個人で塩をつくっていた人もいたようです。
 それに、病者の中にブローカーみたいな人がいまして、外から買いに来る人に、いいものはみんな集めて売ってしまうんです。着物でもいいもの持ってる人もありましたけど、着物を惜しんで飢え死にしたらつまりませんものね。
 みんな食べものとかわって外へ出ていってしまいました。
 だんだん戦争がすすんでいきますと、園内でも翼賛会ひと色になってしまいましてね。聖戦貫徹ということで、社会から軍部や情報部の人がたくさん入ってきて、滅私奉公をあおるものですから、患者の方もいくらかおかしくなってしまって・・・こんな非常時に不自由な病者ということで何もできないのは、ただの穀つぶしだから、自決することがいま残された最後の御奉公だなんてこと言いだす人も相当でてきまして・・・大変でした。
 お医者さんも看護婦さんも外へとられていきますし、だいいち薬品がなくなっていきましてねえ、ひどいことになりました。
 早くいって待っている人だけが、ほんの少し受けられる程度で、繃帯やガーゼなんかも失くなってしまって、治療受ける人は自分で作ってくるように言われて・・・繃帯の配給のさいごのものは、たしかスフでした。それまでは天竺みたいなのも使ってました。
 あのスフはいけません。皮膚になじまないのです。巻いても、すべってすぐほどけるんです。知らないうちにほどけてしまって、医局から帰ってきた時には、どこにいったかありゃしない。だからって固くしすぎると傷をいためますし、再生がきかないようなものでしたけど、それさえも充分というわけにはいきませんで。
 終戦の前の年じゃなかったでしょうか、和製の新薬が出たことがあるのです。セファランチンという。あれが大変なものでしてね。あれを打っていく人も亡くなったんですよ。あたしどもは、世話いらんちんって、悪口言ったもんです。あたしは打ったことありませんでしたけど。
 いえ、希望じゃありませんで、診察した結果、この人に打とうってやったらしいんです。それがコロコロいってしまうんですよ。
 それまでも新薬とか特効薬とかってので効いたためしがなかったんですけど、あれは宣伝もたいへんなものでしたし、ひょっとしたらこんどはという気もあったんでしょう。乾性の人ではなしに、湿性の結節の出るような人に打ったみたいでした。

 あの頃はまた、食事が悪くて体力がないから、傷をしても治りが遅いのです。そこへもってきて薬も材料もないのですから、ほんとにあの頃はもう・・・。
 ひどいこともあったんです。わずかの薬を手に入れるために、物もちの人が看護婦さんを買収したり、逆に看護婦さんの方でも、患者の方に何かものを要求したり・・・配給の米を、どこかに貯めていて、嵐の晩に横流ししたり・・・。
 それも、桟橋のところに米がたくさん沈んでるというので、みんなが拾いにいきまして、これはどういうことなんでしょうということになって、やっとわかったことなんです。
 あそこまでいってしまうと、職員も患者も看護婦もなにも、もうありません。食うか食われるかのどんぞこまでいきましたら、もう人間の気持ってのは失くなってくるんです。
 ほんとに、とげとげしい時代でした。
 みんな栄養失調ですから、手足の傷なんかを悪くして切断なさった人は、ほとんど助かりませんでした。
 毎日誰か死ぬんです。こんどは俺の番だぞなんて、本人は冗談のつもりでしょうけど、それが笑えないような毎日でした。
 棺桶つくるにも材料はもうなくて、あそこにもここにもって、亡くなったまんまで・・・あたしなんかが今まで生きてるってのが不思議なくらいです。
 そこへもってきて赤痢がはやりましてねえ。敗戦になる直前でしたか。何でも口に入れたせいでしょうね。
 そりゃ、どのくらいお腹がすいたって、立って歩けないで這って歩きましたもの。それもしょっちゅう・・・。朝、目をさましたって意識が戻ってくるまで、だいぶん時間がかかるんです。待ってなきゃいけない。
 相当消耗してたんですねえ。
 あの時は、かかった人は一も二もなく亡くなりました。
 (昭和二十年の一年間だけで二百五人死亡)。
 もう焼き切れなくて、カマの中に入りきれなかったお方が、何体も何体も並べられてました。
 煙の絶えることがなくて・・・。
 ほんとによく生きていたものです。
 もう終わり頃は、それこそ何にもなく、海水をうすめて沸かした水ばっかり呑んでました。それでお便所にばかり通って、それも、さっき言いましたように這って。
 這って通うのも、昼間ならまだいいのです。ところが夜になると灯火管制でまっ暗で、どこに何ひとつの灯もないでしょう。手足に感じがないから、この病気には手さぐりってことがない。いくらさぐっても畳の上なのか廊下へ出たのかわからないのです、つらいことに。それでも、さぐりさぐり見当つけて這うんですけど、体力はないし我慢はないしするから、もう間にあわなくて、その辺でしちゃう人も相当いました。そこまでいったんです。死なないまでも、半死にの状態です。
 まあ、夜になれば灯がつくということだけでも、戦争が終わった時はホッとしました。



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邑久光明園  藤本トシさん


光明園に帰る


昭和13年4月    外島保養院は邑久光明園として再
27日          建され、この日、岡山県邑久郡(現・
             瀬戸内市)の長島で落成式を行った。

昭和14年8月
    優生手術ワゼクトミー強制施行を決定

昭和20年6月
    国民義勇隊編成

昭和20年10月
   患者に選挙権が認められた

昭和21年1月
    患者自治会復活

昭和23年11月
   プロミン治療開始

昭和28年8月
    らい予防法改正案成立。
             反対運動は激しかった。



(2ページ半です)

 帰ってきたとはいっても、その時の光明園てのは、まだつくってる最中でしょう。来る日も来る日も作業の毎日でした。中道だって、今こそこんなにきれいですけど、ここは山だったところを発破で崩してつくったんですよ。そんなことは、最初の原田久作園長さんが、ずいぶん苦労して、それだけの予算をとって下さったんだそうです。
 なにしろ、まだ歩けやしませんでしたもの、帰ってきた当時は。舎が建つところだけは平らになっていまして、岩のかけらやなんか、みんなこの中道に放りだしたままでしてね。
 だから、目が悪い人もいい人も、不自由者もみんな、その岩のかけらの間に座り込みまして、ひとつひとつ拾って運びまして、海にすてに行きました。でも、あまり苦にはなりませんでした。自分たちの家を建てるんですから。みなさんもそうだったと思います。とにかくよく働きました。作業賃もなにもないんですけど。患者総出でした。
 あの、いま健康舎のある藪池のグラウンドね、あそこは以前は沼と田んぼで、葦が生えてヨシキリがいっぱいいたんですよ。田んぼといっても、あたしらが来る前に、社会の人がつくっていなさった田んぼでした。
 住むところはまだなく、食べものもひどかったです。あんまりなんで、どなたか、ハンストなさったお方が出ました(十四年十一月)。いえ、おとがめなんてありませんでしたでしょ。自治会の役員さんが辞めなさったくらいじゃないですか。役員さんが辞めなさるのは、それはなんでもありません。楽になったってくらいのもんで。
 いえ、自治会は、光明園ができてあらたにつくったんじゃありませんでね、外島の時の、村田先生の時のがそのまんまなんです。ですから早かったんです。ですけど、それで村田先生が八方から叱られなさったんです。また患者自治会を許したっていって。
 住むところといえば、どしたって官舎が先に建ちましょ。その職員の住居地を板塀で区切りましてね。板塀といってもほんとの塀じゃありませんで、二分板をずっと並べて縄でからげてありました。むこう側が職員の家族の方々で、こちら側があたしたち。
 患者って変なものでねえ。健康な家族の方が何をしているだろうと、その隙間から覗くんですよ。覗いてみたってしょうがないのに、赤ちゃんにオシッコさせたり、おんぶしたり、小さな子がなんだかして遊んだりしているのを見るのが、珍しくてしょうがないんですよ。こちら側には、子どもってものがありませんのでね。それをじいっとながめているのはやっぱり女の人が多くて・・・男の人はどっちかっていうと、無関心ですね。
 そういうふうで、まだなんにもできていなくて、仮小屋ずまいのような毎日でしたけど、活気はありました。あちこちに別れ別れになっていた者同士が、四年ぶりに帰ってきたんですもの。お医者さんだって看護婦さんだって、外島の時の人たちがほとんどそのままでしょ、それで、自分たちの園をつくろうってんですから、もう、つらいのも何も忘れてやりました。
 ところが、やっと形ができはじめたところで戦争になってしまいまして・・・。


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大島青松園  塔 和子さん(24)


触手


あの夜もしあなたが一錠の避妊薬を飲んでいたら

私は産まれなかった

この明るみにいるものは

あなたの受胎ののっぴきならない結果

母よ

あなたの夜の満干は

私の生のよろこび私の生の不安

受胎の前の混沌につるされて

ゆれる不安とよろこびは

巻付く高さをさがす朝顔のふるえる触手そっくり

あの夜もし

あなたの夫が不在だったら

私は産まれなかった

父の精液の中を浮遊して流れたであろう私が

いまここにいる

肉体として形になったばかりに

あなたを母と呼び父を父と呼ぶ

いじらしい関係ははじまって

皿に盛られた赤いトマトを美味しいと思い

服を着るとき似合うか似合わないかなど

気をもみ

ペンを持って考えにふける私

このすべてのありなれた日常が私で

手足や顔をさすってまぎれもない存在の実体に

改めて会う

そしていまは

遠いふるさと土にかえったあなた達に

まきつくすべのない片方の触手を伸ばすのです












夏の夕暮れ


私は

何回言ったことだろう

お母さん私はあなたを誰よりも好きよ

お父さんあなたを誰よりも尊敬しているわと

それは何回言ってもたりなかった

でも夫よ

大人になった私が

あなたを誰よりも好きというのは大へんなことだった

それは

あなた以外のすべての男性を外に置くことだったから

あなたを選んだとき

いくらかの人の安心といくらかの人の失望がつきささった

でもひとりを選んだよろこびが

どんなにたくさんの痛みにも堪えられるものだということを

知る日があった

いま

夏の夕暮れの庭に向かって

こんなにもおだやかに

互いに

互いの中に存在している私達

もう誰よりもあなたが好きなどと

むずがゆく

不遜な言葉は

いらなくなって



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ピーマンとトマトの煮物


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鍋にトマトを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、トマトから水が出てきたらピーマンを入れ、弱火で12分ほど煮て出来上がり。



オクラの薄切り

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定番です。カツオブシをふり醤油で。



生ハム

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中元でもらった生ハムをグリルで焼いた。



ゴーヤの酢の物
    
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スライスしたゴーヤは塩をふってもみ、30分ほど置いて、水で洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れる。酢と蜂蜜を入れて混ぜ、すりゴマをふり、混ぜて出来上がり。


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在野のアナリスト

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邑久光明園  藤本トシさん



外島保養院時代(一部抜粋)




4ページ(1ページは525字)です


 そういうとなんですけど、園長さんの方針で、園の暮らしはずいぶんかわるものなんですよ。あたしは、大水で外島がなくなってしまってからは、東京の全生園にあずけられたんですけど、まあ何とちがうことかとびっくりしました。それに外島では、家から送金のない人には一円三十銭下さったんですけど、よそでは五十銭だか六十銭くらいでしたからねえ。
 よそに行ってはじめて、村田院長先生の偉さがわかりました。
 たくさんの著作がありましてね、その印税とかってものがくるんですよ。それもみんな患者のためにお使いになってでした。
 夜学もありましてね。あたしは小学校の高等科を出ただけですから、あそこで三年間教えていただいたのが、どれほどのはげみになっているかわかりません。だいたい、あたし、学校が好きなんです。雨が降ろうがどうであろうが、とにかく夜学がある日は一回も欠かさず行きました。精勤賞をもらいましたよ。
 生徒数は、はじめは六十人くらいいたんですが、だんだん減っていって・・・だけどあたしは閉校になるまでがんばって・・・科目は、ひと通りなんでもありました。哲学とか考古学も。哲学の時間は、いねむりする人が多かったようです。
 ほんとにねえ、大水とあの事件さえなければ、村田先生も・・・いえ、赤化追放事件っていわれてるのがありましょ、昭和八年の。あれで結局村田先生はやめることになるんですものねえ、ほんとに。


赤化追放事件

 今から思えば何でもないことですけどねえ。アカでもなんでもないのに・・・。最初はただ、いく人かのお方が、宗教を捨ててしまったというだけなんですよ。ひとつの礼拝堂に、キリスト教とか日蓮宗とかの六つの宗教が祀ってありましてね、患者はみんないずれかに属してたんです。それをあの人たちは、それまで入っていた宗教から自分を抜いてしまわれて、それが、宗教理事会との問題になって・・・たしかそうでしたね。

「指導者というか、そんな人がいてな、京大かどこかで社会主義の運動をしていた人で、長島に入ったんや、長島愛生園に。それがわかって追放されて外島に来たわけや。その人を外島に入れるか入れないかという問題が起こったけれども、村田院長は腹の太い人やし、入れたんや。反対もずいぶんあったらしいけど。赤化運動はしないという一札を入れてな。
 それで、しばらくはおとなしゅうしとったけれども、そのうちにいろいろなグループ活動を始めたわけや、ライ問題研究会やとか。そのまわりに、いろんな若い人があつまったんやな。中心になっていたのはその人と、あと四、五人やったと思うけど、結局、全部では十七人が追放されたわけなんや。秩序が保てんということで。
 追放てなことになる前に、そのいちばんの中心人物は亡くなるんやけど、ふつうならお葬式には患者もみんな出るんやけど、その時は、その人の支持者と導師だけで、他の人は出なんだんや。そんなこともあって、特に宗教理事会の方では、これは何とかせないかんと言うようなことになって、とうとう出てもらうことになったんやな。
 しかし、また一方では、時代ということもあったんやないかなあ。社会でも、昭和八年というと、いろんな、そういうことがおこっていた頃やからな。
 ともかくそんなわけで、出てもらうことになったんやが、それが、伝染病患者を出したということで、大阪で問題になって、結局そのいざこざで、村田院長が責任とらされて、やめなあかん結果になってしもうたんやね」

 村田先生はあんなお人でしたから、たいていのことは呑み込める人なんですけど、あの時は、患者とか宗教理事会の方がやかましかったんでね。しかたなかったんだろうと思います。
 たしかに、あの人たちとは、一時あたしたちと、気持ちの上ですこうし離れていたという感じはありましたけれでも、何か悪いことをしたわけじゃなしねえ、何も追放というようなことをしないでもと思いましたよ。
 あたしが、友だちと二人で身延から外島に来たって言いましたでしょ。その友だちも、それで出たんです。女の人はその人一人でしたけど。いまは草津の療養所で元気にしているそうですけど。だけど、あの壮健さんみたいだった人が、いまはもう盲人で、杖をついておられるそうです・・・・。
 そのことがあったあくる年が、大水です。あれでなにもかもおしまい。外島の全部がなくなったんですからねえ。あたし、書いたものにもございましょう。ほんとに恐ろしかったですよ。たくさん亡くなりましたものねえ(六百十名中百八十七名死亡)。
 遠いところへというんで、みなさん土手の上へ出て、大阪の方へ逃げなさったんだそうですけど、足がよくて遠くまで行った人ほど亡くなったんです。大丈夫だと思った土手が切れたりして・・・まわりは田んぼでしたが、そっちの方へみんな流されてしまって・・・。
 足も悪いし、もう半分諦めて、職員部屋のところにかたまっていた人とか、正門の方に逃げた人とかが、そこだけちょっと高くなってましたもんで、かえって助かったようなことで・・・子どもさんも亡くなりました。ほんとにねえ、健康な人ほど亡くなって、不自由なものほど、動けずにいたものほど助かるなんて・・・。

(注)外島保養院は明治42年4月1日、第三区連合府県立・外島保養院として設立された。12府県の連合で、敷地は大阪府西成群川北村(現・神崎川河口付近)に2万坪で、定員300名だった。初代院長は今田虎次郎。4月20日に収容を開始した。


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邑久光明園  藤本トシさん



外島保養院時代



昭和4年5月、深敬園からの友だちと2人で、大阪駅から人力車に乗って公立外島保養院へ行き、入院を頼む。昭和9年9月21日の第一室戸台風で、同保養院が壊滅する時まで、同院で暮らす。

5ページ(1ページは525字)です。


 外島保養院に行った時分は、いまほど重症じゃありませんで、手の指も曲がってはいましたけど、まだ損じてはいませんでしたし、目も両方ともよかったし・・・麻痺はだいぶんありましたけど。ですから、ここでも、あたしたちみたいな重症者が入っているところを不自由舎、それほどでもない軽症の方たちのところを健康舎って言ってますでしょ、あたしはその健康舎に入ったんです。
 当時の治療はやはり、大風子油とカルシュームの注射だけでした。大風子も最初のうちは良く効くんです。だけど、そのうちにだんだん効かなくなってしまって・・・どういうんでしょう、慣れてしまうのでしょうか。
 注射の量は、大風子は三グラムくらいでしたか。五グラム打つ人もいたようですけど、よっぽど体力がないとね、打てません。それというのも、打ったあとが散りにくいんです。グリグリになって熱をもって、よく化膿するんです。よくもめ、よくもめって言われて、一所懸命でもむんですけどね。化膿してなおらなければ、切らなきゃいけないんですから。いまだに、小さな塊がたくさん残っています。
 注射しかない時代に、その注射が散らずに化膿して、切開手術を受けなきゃいけないなんて、皮肉なことですけどねえ。

 外島へ来まして、はじめは言葉に困りましてねえ。関西の言葉がわからないんですよ。(中略)
 その言葉ですが、新患といったら、昔はおさんどんというか下女みたいなもんで、さっぱり幅がきかないんです。古くからいるお方はもう取締役みたいなもので、新患にいろいろ指図するんです。そういう人が、あたしに、あんたっ、隣り行ってな、いかきかってきてっと言うんです。はいっと答えたものの、お金はくれないし、まごまごしましたよ。買ってくるのと借りてくるのがね、わからなかったもので、そんなことになって・・・それに、いかきもわからない。大きなザルのことでしたけど。七輪のことはかんてきと言いますしね。往生しました。最初はそんなふうで、いちいちおこられてばっかり。それにあたしが、言葉のおしまいに、ちゃったちゃったって言うものだから、ちゃったの姐さんってからかわれて・・・。
 そんなところは、やはり、宗教病院と公立の大きな病院の違いでしょうね。あたしはお金の融通がついたら、出ませんでしたよ。だけど、公立の大きな病院に行って、あたしはどれだけ鍛えられたかしれやしません。それまではどこにも他人よそさんの前に出たことがなしでしたからね。
 昔は、公立病院には水道がなかったんです。外島にはあることはあったんですけど、今のように、家の中までには引き込んでありませんでね、あたしどもの部屋から二十間くらいありましたが、そこまで水を汲みに行かなくちゃいけないのです。天秤棒で麻縄のついた水桶をかついで。ところがあたしは、それまで桶ってものをかついだことがないんです。だけど、みんなは慣れてるんですか、力があるんですか、まえうしろに桶をかつぐんです。あたしは力もないしで、ひとつの桶を二人でしかかつげない。すると、ちょうどいいことに、一人だけ足の悪い人がいましてね、片方だけ松葉杖をついてられる人で、その人があたしと組んで下さったんです。
 その人と組んでるときはとてもいいんですけど、その人といつもというわけにはいきませんでしょ。体の調子が悪い時などは、他の人と組まなくちゃいけない。そうすると、組んだ人は癪にさわるんですね、あたしがのろいから。前をかつげって言われてそうすると、うしろから、チョンチョンチョンチョン、こやって押すんです。もっと早く歩けというんでしょうね。すると、桶の水がチャブチャブして、背中から腰の方へかかるんです。それをずいぶんやられました。

 外島でも作業はありました。女は洗濯です。洗濯といっても、コンクリ板みたいなところに拡げて、石鹸をこすりつけて荒いハケで洗うんです。むこう鉢巻で、膝まであるかないかの短い襦袢を着て、縄なんかで胴をしばりましてね、そりゃ勇ましい格好ですよ。
 自分が洗濯する受け持ち区域というのが、それぞれありまして、そこから何枚って勘定してきてやるんですけど、荒仕事でねえ、あたしにはつらかった。
 なんにもできずに、あっち行って叱られこっち行って叱られでした。けど、ちょっといいこともあったんですよ。それは、みなさん、わりに手紙書きが不得手でしてね、それをあたしが買ってでまして、今日は誰のを書きましょかって・・・。
 この手紙書きというのは信用が大事でしてね。というのは、特に自分の家のことは誰にも教えないんです。病者同士も。それを書かせてくれるのは、そりゃありがたいことなんです。信用のない人には、自分の本当の住所を教えやしませんからね。この病気であることが知れたら家族が迷惑するというのが、みんな頭にありますから。
 あたしがいた部屋は八人いましたけれど、殆ど文盲の人で、あたしは、それでどれだけ助かったかしれません。あたしだって、立派な字なんかとても書けないんですけど、小学校の時分から作文が好きで、どっちかというとあたしの方が楽しんでるみたいに、一所懸命文案しました。書きあげますと、これでいいですかって読みあげるんですけど、あ、自分が思うとおりより、もっといいこと書いてくれたって喜ばれまして、新患でしたが、それであまりいじめられずにすんだと思います。


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大島青松園  塔 和子さん(23)




手のひらをひらくとなんにもない

無いことは無限に所有する可能性をもつことだ

幸も

不幸もこの手がつかむ

いつも

無にしていよう

無にしている手の中へは宇宙の翼

もっとも大きな喜びが乗る

私は無から生まれた

だから無はふるさと

いつもはじまるところ

朝の光よ瞬間瞬間の生の切り口よ天に吊るした希いよ

私が

手のひらをいつまでも無にしているのは

あなた達のため

ああそして

私の手のひらは生きるよろこびでひとときふるえ

すべてを無にして

また差し出すのだ










記憶


呼びおこそうとすれば

いつでも新しく浮かび上がってくる記憶よ

鼻や目や手が覚えている

古い一枚の画を

再び描き出すのにはなんの苦労もいらない

人に記憶という

こんなすばらしいものを与え給うたものよ

私はその神聖な鏡を

日毎夜毎磨いてくもりないものにする

だからいつでも

目の前に起こっていることのように

鮮明に私の記憶は描き出される

そして

春の日溜まりに

思い出を飼いならしてうずくまっている老人のように

うっとりと

それを眺めて暮らす日の多いこの日頃を

ふっと

考える




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ミニトマトのマリネ


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ボールに酢とレモン果汁とオリーブ油を各大さじ1入れ、少し砂糖を入れ、塩・胡椒をして混ぜ、半分に切ったミニトマトを入れて混ぜ、冷蔵庫で冷やすと出来上がり。

プチトマトのマリネ」を参考にした。



ナンキンとトマトの煮物


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熱した無水鍋の下敷きにトマトを入れ、乱切りしたナンキンを入れ、蜂蜜と醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。



豆ご飯

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4合の白米を洗って炊飯器に入れ、酒50CCと水を入れて4合の目盛りに合わせ、塩をひとつまみ入れて混ぜ、200gのグリンピースを入れ、炊けたら混ぜて出来上がり。翌朝には赤飯色になる。



ゴーヤとツナの苦くないサラダ

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ゴーヤはスライスして塩もみをして15分ほど置き、1分茹でて冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。3分水にさらしたタマネギの水気をしぼりながらボールに入れ、ツナ缶の油をよく切って、ほぐしながら入れて混ぜる。マヨネーズと手作りポン酢で味付けし、混ぜて出来上がり。




ゆで卵

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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