『地面の底が抜けたんです』一部抜粋
母の死=家出・深敬園へ
順序があべこべですが、この記事が「地面の底が抜けたんです」の最後です。
2ページです。
その震災(関東大震災・大正12年9月)のあくる年に、おっかさんも亡くなったです。・・・十六、七日患いましたかね・・・父親の方は三日っきりだったんですが・・・。
兄嫁さんがつきっきりで看病してくれてたんですけど、せめて夜だけでもあたしにつかせて下さいと言うのを、姑を看るのは嫁の役目だからと言って、なかなか承知してくれないんです。それを、いつまで生きてるかわからないんだからって、たって頼みましてね、夜中だけあたしがかわったんです。
そしたらおっかさん、あたしが死んだらすぐおまえをむかえに来てあげるからねって言うんです。すぐにって言うから、ほんとにすぐだと思って楽しみにしてましたのに、ちっとも来ませんでねえ、母親や父親が亡くなった歳より、あたしはもう十八、九年も長生きしてしまって、ほんとにまあ・・・。
今になってみれば、もう、早く死のうとも思わないし、生きてるのが嫌だとも思いませんけれどね。
だけども、その頃のあたしは、もう隠れ忍んで、自分の病気に屈託してしまっていて、一切なんにも頭に入らんのです。どうして家を抜け出そうか、どうやって死のうか、そのことばっかり毎日考えていて、他のことは思やしないんです。
やたらに死んだらあとで家の者が迷惑するし、そうならないように、どこで死んだか、どこの人かわからないようにして死にたいものだ、それにはどうしたらよかろうかということばかり毎日考えていて、そのくせ、さて実行ということになったらなかなかできないものでねえ。
当時は、この病気は血統だと言ってましたでしょ。だもんで両親が、うちの親族にはそんな病気はないって言い合っているんですよ。おまえの方にあって隠してるんだろうとか、こそこそ・・・それを聞いているのがつらいこと。
だから、早く家を出たい、早く死にたいとそればかりなんですけど、両親が見張っていてなかなか出られないんです。ですから、おっかさんにも亡くなってもらった時は、ほんとに安心しました。親が亡くなってやれやれというのは変ですけど、ほんとにそうですよ。どんなにうれしかったかねえ・・・親不孝なことを言いますけど、ほんとに気持ちが軽々となったんです。
それからすぐに家を出まして、それっきり帰らんのです。
大磯で死にそこないましたろ、それで警察に泊められて、次の日に、もちっとむこうへ行って死にましょと思いまして、またいけませんでねえ。それから身延にあがるんです。
藤本トシさんの略歴
1901年2月5日、東京生まれ。1919年に発病し、民間病院に通院後、1925年、身延深敬園に入園。1929年5月、外島保養院に転所。1934年、室戸台風により外島保養院は壊滅状態となり、全生病院(現、国立療養所多摩全生園)に委託される。1938年、外島保養院が邑久光明園として再建後、帰園。園の機関紙「楓」の創刊後、短歌、詩、随筆などを投稿していた。1987年6月2日死去。随筆集『藤本トシ』(1970復権文庫)、作品集『地面の底が抜けたんです』(1974思想の科学社)。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)
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「地面の底がぬけたんです」の一部抜粋
誰か死ぬ日々=戦中
(7ページです)
戦争中の園の様子が手にとるように迫って来ます。藤本さんがその時代を生き抜かれたのも、たまたま偶然だった。たまたま生き延びられたから、すばらしい随筆が数多く残された。それは戦後、昭和23年の秋に失明してから書かれたものが多い。
『しかたないから、頭の中に文章を書きまして、ここはテン、ここはマル、ここはひとマス空けてとか、行を変えるとか、みんな完全に頭の中に納めまして、その上でしゃべるんです。
よくそれだけ覚えたねえって言われましたけど、十枚くらいのものまではその頃できました。まだ六十くらいで、若かったということもありましょうか。ですから、書き取ってもらいましてから、読みかえしてもらいますでしょ、すると、ああそこはその字じゃなしにこの字ですとか、テン、マルまで全部言えました。頭の中で、原稿用紙をめくりながら読んでるようなもので・・・』というくだりが「失明の項(近日中に更新)」に書かれています。
ここは島だもんですから、なにもかもが不足だといったって、外から買うわけにはいかないのです。
ですから、送金のあるお方はまだいいんですけど、送金のないものは全くみじめでした。ある人がない人に分けてあげるなんて、そんなことはできやしません。それはね、そう申しあげるとなんですけど、幸せに暮らしておられるお方だから、そういうふうに考えられるのでしてね。もうあなた、おしつまってから、あげたりもらったりなんかできません。自分のものを自分で食べなかったら、生きられないんですもの。それに、人さんが炊いたり買ったりされたものを、いただく方でもかなわないのす。お返しできるあてがあればいいですよ。だけど、いただく一方ってことはできませんでしょう。その時だけじゃあない、お互いずっと一緒に住むんですもの。だから、わけてくださらないというより、いただけないんです。
それに、戦争中は、働ける人に優先的に特別配給があった時代でしょ。ですから、あたしたちみたいに不自由で働けないものは、どちらかというと、あんまり食べてはいけないというような、そんな空気ですから、不自由者にはますますものがまわってこなかったんです。
園全体の食糧といっても、代用食ばっかりでしたけど。
この、今の中道のあたり、もう足の踏み場もないくらいの畑でした。家の周囲はもちろん、作れるところはみんな畑でした。
それでも足りないから草を食べるんです。あちこち生えてましょ、はこべやなんか。それはもう、草がこの島にまた生えるのかしらんというくらい取りつくしてしまって・・・ちょっと芽が出たら、すぐ取って食べちゃうんですもの。
他の病棟からむしりに来なさったら、そこはうちの畑ですからって・・・草でもそんなふうでした。
陸のものを食べつくせば、こんどは、四方が海ですから、 石蓴を取ったり貝をさがしたり・・・もう一日中食べものをさがしにかかりっきり。
どこの家でも、泥をこねた小さな竈を作りましてね、食べられるか食べられないかなんておかまいなしに、とにかく何でも炊きました。味つけは海水をじかにやって。
塩なんて、そんな洒落たものないんですよ。ごくたまあに、二日分とか三日分のおかずだといって、サジにちょっとの配給でしたから。だけど、ここは四方が海で、そのぶんはずいぶん助かりました。
塩は貴重品のひとつで、だんだんお金が通用しなくなりますと、物々交換になって来るんですけど、その時塩はいいんですよ。園内でも、個人で塩をつくっていた人もいたようです。
それに、病者の中にブローカーみたいな人がいまして、外から買いに来る人に、いいものはみんな集めて売ってしまうんです。着物でもいいもの持ってる人もありましたけど、着物を惜しんで飢え死にしたらつまりませんものね。
みんな食べものとかわって外へ出ていってしまいました。
だんだん戦争がすすんでいきますと、園内でも翼賛会ひと色になってしまいましてね。聖戦貫徹ということで、社会から軍部や情報部の人がたくさん入ってきて、滅私奉公をあおるものですから、患者の方もいくらかおかしくなってしまって・・・こんな非常時に不自由な病者ということで何もできないのは、ただの穀つぶしだから、自決することがいま残された最後の御奉公だなんてこと言いだす人も相当でてきまして・・・大変でした。
お医者さんも看護婦さんも外へとられていきますし、だいいち薬品がなくなっていきましてねえ、ひどいことになりました。
早くいって待っている人だけが、ほんの少し受けられる程度で、繃帯やガーゼなんかも失くなってしまって、治療受ける人は自分で作ってくるように言われて・・・繃帯の配給のさいごのものは、たしかスフでした。それまでは天竺みたいなのも使ってました。
あのスフはいけません。皮膚になじまないのです。巻いても、すべってすぐほどけるんです。知らないうちにほどけてしまって、医局から帰ってきた時には、どこにいったかありゃしない。だからって固くしすぎると傷をいためますし、再生がきかないようなものでしたけど、それさえも充分というわけにはいきませんで。
終戦の前の年じゃなかったでしょうか、和製の新薬が出たことがあるのです。セファランチンという。あれが大変なものでしてね。あれを打っていく人も亡くなったんですよ。あたしどもは、世話いらんちんって、悪口言ったもんです。あたしは打ったことありませんでしたけど。
いえ、希望じゃありませんで、診察した結果、この人に打とうってやったらしいんです。それがコロコロいってしまうんですよ。
それまでも新薬とか特効薬とかってので効いたためしがなかったんですけど、あれは宣伝もたいへんなものでしたし、ひょっとしたらこんどはという気もあったんでしょう。乾性の人ではなしに、湿性の結節の出るような人に打ったみたいでした。
あの頃はまた、食事が悪くて体力がないから、傷をしても治りが遅いのです。そこへもってきて薬も材料もないのですから、ほんとにあの頃はもう・・・。
ひどいこともあったんです。わずかの薬を手に入れるために、物もちの人が看護婦さんを買収したり、逆に看護婦さんの方でも、患者の方に何かものを要求したり・・・配給の米を、どこかに貯めていて、嵐の晩に横流ししたり・・・。
それも、桟橋のところに米がたくさん沈んでるというので、みんなが拾いにいきまして、これはどういうことなんでしょうということになって、やっとわかったことなんです。
あそこまでいってしまうと、職員も患者も看護婦もなにも、もうありません。食うか食われるかのどんぞこまでいきましたら、もう人間の気持ってのは失くなってくるんです。
ほんとに、とげとげしい時代でした。
みんな栄養失調ですから、手足の傷なんかを悪くして切断なさった人は、ほとんど助かりませんでした。
毎日誰か死ぬんです。こんどは俺の番だぞなんて、本人は冗談のつもりでしょうけど、それが笑えないような毎日でした。
棺桶つくるにも材料はもうなくて、あそこにもここにもって、亡くなったまんまで・・・あたしなんかが今まで生きてるってのが不思議なくらいです。
そこへもってきて赤痢がはやりましてねえ。敗戦になる直前でしたか。何でも口に入れたせいでしょうね。
そりゃ、どのくらいお腹がすいたって、立って歩けないで這って歩きましたもの。それもしょっちゅう・・・。朝、目をさましたって意識が戻ってくるまで、だいぶん時間がかかるんです。待ってなきゃいけない。
相当消耗してたんですねえ。
あの時は、かかった人は一も二もなく亡くなりました。
(昭和二十年の一年間だけで二百五人死亡)。
もう焼き切れなくて、カマの中に入りきれなかったお方が、何体も何体も並べられてました。
煙の絶えることがなくて・・・。
ほんとによく生きていたものです。
もう終わり頃は、それこそ何にもなく、海水をうすめて沸かした水ばっかり呑んでました。それでお便所にばかり通って、それも、さっき言いましたように這って。
這って通うのも、昼間ならまだいいのです。ところが夜になると灯火管制でまっ暗で、どこに何ひとつの灯もないでしょう。手足に感じがないから、この病気には手さぐりってことがない。いくらさぐっても畳の上なのか廊下へ出たのかわからないのです、つらいことに。それでも、さぐりさぐり見当つけて這うんですけど、体力はないし我慢はないしするから、もう間にあわなくて、その辺でしちゃう人も相当いました。そこまでいったんです。死なないまでも、半死にの状態です。
まあ、夜になれば灯がつくということだけでも、戦争が終わった時はホッとしました。
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外島保養院時代(一部抜粋)
4ページ(1ページは525字)です
そういうとなんですけど、園長さんの方針で、園の暮らしはずいぶんかわるものなんですよ。あたしは、大水で外島がなくなってしまってからは、東京の全生園にあずけられたんですけど、まあ何とちがうことかとびっくりしました。それに外島では、家から送金のない人には一円三十銭下さったんですけど、よそでは五十銭だか六十銭くらいでしたからねえ。
よそに行ってはじめて、村田院長先生の偉さがわかりました。
たくさんの著作がありましてね、その印税とかってものがくるんですよ。それもみんな患者のためにお使いになってでした。
夜学もありましてね。あたしは小学校の高等科を出ただけですから、あそこで三年間教えていただいたのが、どれほどのはげみになっているかわかりません。だいたい、あたし、学校が好きなんです。雨が降ろうがどうであろうが、とにかく夜学がある日は一回も欠かさず行きました。精勤賞をもらいましたよ。
生徒数は、はじめは六十人くらいいたんですが、だんだん減っていって・・・だけどあたしは閉校になるまでがんばって・・・科目は、ひと通りなんでもありました。哲学とか考古学も。哲学の時間は、いねむりする人が多かったようです。
ほんとにねえ、大水とあの事件さえなければ、村田先生も・・・いえ、赤化追放事件っていわれてるのがありましょ、昭和八年の。あれで結局村田先生はやめることになるんですものねえ、ほんとに。
赤化追放事件
今から思えば何でもないことですけどねえ。アカでもなんでもないのに・・・。最初はただ、いく人かのお方が、宗教を捨ててしまったというだけなんですよ。ひとつの礼拝堂に、キリスト教とか日蓮宗とかの六つの宗教が祀ってありましてね、患者はみんないずれかに属してたんです。それをあの人たちは、それまで入っていた宗教から自分を抜いてしまわれて、それが、宗教理事会との問題になって・・・たしかそうでしたね。
「指導者というか、そんな人がいてな、京大かどこかで社会主義の運動をしていた人で、長島に入ったんや、長島愛生園に。それがわかって追放されて外島に来たわけや。その人を外島に入れるか入れないかという問題が起こったけれども、村田院長は腹の太い人やし、入れたんや。反対もずいぶんあったらしいけど。赤化運動はしないという一札を入れてな。
それで、しばらくはおとなしゅうしとったけれども、そのうちにいろいろなグループ活動を始めたわけや、ライ問題研究会やとか。そのまわりに、いろんな若い人があつまったんやな。中心になっていたのはその人と、あと四、五人やったと思うけど、結局、全部では十七人が追放されたわけなんや。秩序が保てんということで。
追放てなことになる前に、そのいちばんの中心人物は亡くなるんやけど、ふつうならお葬式には患者もみんな出るんやけど、その時は、その人の支持者と導師だけで、他の人は出なんだんや。そんなこともあって、特に宗教理事会の方では、これは何とかせないかんと言うようなことになって、とうとう出てもらうことになったんやな。
しかし、また一方では、時代ということもあったんやないかなあ。社会でも、昭和八年というと、いろんな、そういうことがおこっていた頃やからな。
ともかくそんなわけで、出てもらうことになったんやが、それが、伝染病患者を出したということで、大阪で問題になって、結局そのいざこざで、村田院長が責任とらされて、やめなあかん結果になってしもうたんやね」
村田先生はあんなお人でしたから、たいていのことは呑み込める人なんですけど、あの時は、患者とか宗教理事会の方がやかましかったんでね。しかたなかったんだろうと思います。
たしかに、あの人たちとは、一時あたしたちと、気持ちの上ですこうし離れていたという感じはありましたけれでも、何か悪いことをしたわけじゃなしねえ、何も追放というようなことをしないでもと思いましたよ。
あたしが、友だちと二人で身延から外島に来たって言いましたでしょ。その友だちも、それで出たんです。女の人はその人一人でしたけど。いまは草津の療養所で元気にしているそうですけど。だけど、あの壮健さんみたいだった人が、いまはもう盲人で、杖をついておられるそうです・・・・。
そのことがあったあくる年が、大水です。あれでなにもかもおしまい。外島の全部がなくなったんですからねえ。あたし、書いたものにもございましょう。ほんとに恐ろしかったですよ。たくさん亡くなりましたものねえ(六百十名中百八十七名死亡)。
遠いところへというんで、みなさん土手の上へ出て、大阪の方へ逃げなさったんだそうですけど、足がよくて遠くまで行った人ほど亡くなったんです。大丈夫だと思った土手が切れたりして・・・まわりは田んぼでしたが、そっちの方へみんな流されてしまって・・・。
足も悪いし、もう半分諦めて、職員部屋のところにかたまっていた人とか、正門の方に逃げた人とかが、そこだけちょっと高くなってましたもんで、かえって助かったようなことで・・・子どもさんも亡くなりました。ほんとにねえ、健康な人ほど亡くなって、不自由なものほど、動けずにいたものほど助かるなんて・・・。
(注)外島保養院は明治42年4月1日、第三区連合府県立・外島保養院として設立された。12府県の連合で、敷地は大阪府西成群川北村(現・神崎川河口付近)に2万坪で、定員300名だった。初代院長は今田虎次郎。4月20日に収容を開始した。
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