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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

辺見庸ブログ

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邑久光明園  藤本トシさん



『地面の底がぬけたんです』一部抜粋



大正10年4月 父危篤の電報に帰宅。父死亡後、琴平町から北品川へ引越した。家計を考えて病院(木下病院)に戻らず、外来患者になる。

大正12年9月 北品川で関東大震災に会う。

大正13年 母を亡くす。

大正14年6月 大磯の海岸で入水自殺を計るが、巡回中の刑事に補導される。翌日、小田原の海岸で小舟の陰にかくれて夜を待ち、再び入水を計るが、
茶店のおばあさんにとめられる。そのおばあさんのすすめで、身延山の深敬園を訪ねる。

(所要時間4分です)



・・・ですが、あたしは、深敬園へずっと入る気はなかったんです。あんまり疲れたから、一晩だけご厄介になろうと思いまして、そう申し上げたんですけど━━ちょうと綱脇先生はお留守で奥さんが出てみえたんですけど、声といいしぐさといい、それはやさしいお方で━━まあよく来てくれましたねえ、一晩なんて言わないでずっといらっしゃいよって、奥さんの方があたしの手を取って泣かれるんです。あたしも情なくなって、二人でワァワァ泣いてねえ・・・。
 結局、深敬園に五年ほどお世話になりました。
 そこでは、わずかではありましたが入院費が要りましたもので、両親は亡くなっておりますから、兄の方へ、これこれのお金がかかるけれどもここに居てもいいかと聞いたんです。すると、そこに居てくれって返事がきましたので、お世話になることになったんです。

(中略)

・・・まあ、あたしはそんなわけで、お金につまり切ってしまって深敬園を出ることになったんですけど、女の人と二人でと言いましたろ、
そのお方はお金じゃありませんで、愛情問題でね、出たがっておられたんです。
 そりゃ、狭いところで一緒に暮らすんですからねえ、患者さん同士で好きあうというようなことも、あるんですよ。だけど結婚なんて、その頃許されてはいませんし、もちろん夫婦舎なんてありませんしするから・・・。
 ですから男舎と女舎の区別なんか厳格です。夜なんか男の人が遊びに来たら、すぐ注意がありましたしね。そういうふうですから、一緒になりたいと思うようになれば、もうそこにはいないんです。逃げるんですよ。
 あたしの友だちというのもそれで、あたしと一緒に出たんです。出る時はあたしたち二人とも普通の着物を着てたんですよ。ところが、海岸のへりについてから相談しましてね。ほら、お遍路さんというのありますでしょ、あれをいっぺんやってみようというんですよ。呑気なもんでね。
 それで晒を買ってきまして、海辺の岩の陰で縫ったんです。あたしもその頃は、まだ、やっとですけど針が持てましたし、連れの友だちは、この人は手足がしっかりした人でしたから、二人で一生懸命縫いましてねえ。
 もう、そういうところは、悲しみとか苦労ってもんじゃないんです。半分おもしろいんですよ。
 そんなわけで、お遍路さんの格好で歩いたんです。門口に立ちますと、友だちは手がいいから団扇太鼓を叩きまして、あたしがお経をあげるんです。あたし、お経はなかなか達者なんですよ。深敬園で五年教わりましたから。そう急ぐ旅じゃなし、遊び遊びのようなもんでした。
 連れの相手の、男の方はまだしばらく深敬に残っておられて、あとから出られまして、外島(大阪・公立保養院)で夫婦になられました。
 外島では、夫婦舎というのはないんですけど、夫婦は認められてたんです。
 夕飯がすんでしばらくしたら、男の方が自分の家内のところに来られるんですよ。そして朝早く、また自分の部屋に帰られるんですけど。
 一部屋に四人か五人入ってましょ。すると仲人さん━━そういうことをするのが好きな人がまたどこにもいるんですよ。その人が、この人とあの人を結婚させようと思って成立しますでしょ、するとみんなの部屋へ、誰さんと誰さんがこんど結婚することになりましたから、よろしくお願いしますってくるんです、通知が。すると、みなさんでお茶とお菓子で会をしたりするんです。おしるこを作るところもあるらしいですよ。それで、患者事務所から、園の人事係へ届けられるのです。
 それでも、夫婦として自分たちの部屋があるわけじゃありませんのでね。独身の人も気を遣ってですし、夫婦の人も気を遣います。夜だけ来て朝早く帰るんですもの。
 夫婦舎なんかができたのは、戦後もずっとあとのことですし、一夫婦一部屋の暮らしができるようになったのは、昭和も三十年頃ですからねえ・・・。
 園の人事係に届けて、手続きは一応おしまいですけど、ただ、その頃は子どもができたら困るというので、優生手術をさせたんです。それが結婚の条件だったんですね。ですから男の人は気の毒です。
 外島では、はじめの頃はまだ手術しなかったらしいのです。それで子どもがずいぶんできて、往生したと聞きます。その子どもたちは、みんな里子に出されたんだそうです。
 そういうことから、手術が義務づけられるようになったんでしょうか。

(注)身延深敬園 明治35年の夏、ライ患者たちの参詣所が、警察によって焼き払われたが、その跡と、患者たちの困憊を見た僧・綱脇竜妙が、身延村に13名収容の仮病室を、明治39年10月19日に設立したのがはじめ。その後、訪れる病者も増え、今日に至っている。(平成4年11月閉園)


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邑久光明園  藤本トシさん



地面の底がぬけたんです

発病



明治34年 東京・芝・琴平町に生まれた。
大正8年  縁談がととのった18歳の時発病。3月、順天堂病院で診察を受け、紹介状をもらって、本郷千駄木町の木下病院に行き、入院した。

 自分の病気を初めて知らされた時ですけどねえ、もう、なんというか・・・そりゃおどろきましたよ。いえ、知らされたっていいましても、直接に教えられたんじゃありませんでね、木下病院に紹介状をもらって行きましたでしょ、するとちょうど昼食の鐘が鳴って、患者さんがゾロゾロッと出てこられたんですよ。そのお方たちを見た時にハッと気づいたんですけど・・・ほんとにねえ・・・気を失ってしまって・・・立ってる地面の底が抜けたんですよ。
 あなたはお若いから、道端に座っておもらいしてる病者をお見かけになったことはないでしょ・・・でしょうね、あのとおりですよ。結節といっておできのようなのができましょ、あれがひどくてねえ。あたしは子どもの時分にしょっちゅう見てましたし、お金をあげに行ったりしてたものだから、ああ、自分があの病気になったと思ったら、なんともいわれない、悲しい気持ちで・・・もう家には帰れないんだ、自分もああしておもらいして生きていくことになったんだ、そんな運命なんだと思った時には、ま、なんてえますかねえ・・・。


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大島青松園  塔 和子さん(22)



言葉の核


美しいものを美しいと

暗いものを暗いというだけ

このたんじゅんなことを表すために

どれだけ労して言葉を選ぶことか

どうしてどんなふうにどんなにといつもくる問い

それはあらんかぎりの言葉を集めても

説明できないのに

いつでも不用意に全くかんたんに

明るいと美しいと暗いと言うのだ

そして私はそれらの言葉のそばでうずくまり

もやもやとした周辺を彷徨しどもり

あるいは肉付けを少ししたりする

けれどもやはりどう言えば

やんごとない人の裸を見るように

まばゆい言葉の核をつかむことができるのか

手にあまる宿題を課せられた生徒のように

すくわれがたいものを見る












詩集 手紙 雑誌 ハサミ ペン 辞典

ざっと見渡しただけでも

書きこみきれないほどのものを

このせまい机の上だけにでも置いていて

わたしはいまそれらと共に灯の下に在る

けれどもこの夜更け

灯を消したら

私の存在すら他からは見えない

闇は

この多くのものを

一度にその大きな倉の中におさめる

ああ自然が作る闇の倉にくらべたら

人はどんな大きな倉を作ってもかなわない

私達は灯をつけなければ

その闇の倉に貯蔵され

互いに互いを目でたしかめ合うことも出来ないで

ころがされ

闇が扉をひらいた朝はじめてすべては

生まれたときのように新鮮に

現れるのだ





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赤シソを梅漬けにのせた。


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赤シソがやっと収穫できたので、水洗いして葉をちぎり、葉1キロに対して塩を3分の1カップほど入れて強くもみ、出た黒い汁をかたくしぼって捨てる。

しぼった赤しそをバケツに入れ、梅白酢を注ぎ、また強くもむと赤い汁になる。梅漬けの上に赤シソをかぶせ、出た赤い汁を注ぐと出来上がり。

時間がとれたらお盆前に「梅の土用干し」をする。



ニンニク醤油

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ニンニク3球の鱗片をはずし、皮をむいて水洗いして瓶に入れ、醤油を注ぐと出来上がり。半日ほど常温に置き、その後は冷蔵庫で保存する。1週間ほど経過すれば醤油にニンニクの香りがつく。

昨日のおかずがたくさん残っていたので、今日は何も作らなかった。



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澤藤統一郎の憲法日記

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邑久光明園  藤本トシさん




『地面の底が抜けたんです』
東京・多摩全生園の四年間



 大水で、そんなことになったもんですから、残った患者達は、それぞれの出身地別にわかれましてね、他の園へ委託患者としてあずけられることになったんです。
 そうなると、あたしは東京でしょう。もう二度と帰ってくることはないと思ってましたのに、多摩の全生園に行くってきまった時は、やっぱりうれしゅうございましたよ。
 だけど家の者は誰にも知らせませんで、信仰家だった叔父さんだけに知らせたんです。
 全生園でいっとう良かったのは、その八十すぎた叔父が面会に来てくれたことでした。大きな柳行李しょってね。なんだと思ったら、おまえが大水で流されて何もないって聞いたからって、古着屋で買ってきたって言うんです。派手なものやら地味なものやらいっぱいで、ほんとにおどろきました。
 それというのも、全生では着るものも悪いし食べものも悪かったんです。外島の時に較べたら・・・。いえ、あたしの方がぜいたくになっていたのかもしれません。外島が良すぎたってこともありましょうね。そうでしょうけど、大水で流されて身ひとつで来てるものですから、なんにもないんですよ。
 おんなじ公立の病院でも、あたしにはずいぶんちがってみえました。
 日々の暮らしは、さほどちがってることってのはありませんでしたけど。大阪では困った言葉でしたけれど、こんどはあたしが通訳になったりでしてね、大阪弁と東京弁の。重宝されましたよ、時には。
 まあ、あずかっていただいている身ですから、なるべくおとなしくしてました。ただ、ちょうど、園の中で文芸が盛んでして、あたしも、その頃からですかねえ、いくらか、文芸に精を出すようになりました。
 ほんとに文芸は盛んでした。いまは衰微してしまいましたけど。

「あの頃はほんとに盛んやった。俳句なんかとてもね。運座の招待状だすと、百四、五十人はすぐ寄って来ましたよ。そして懸賞額などきめて、受かった人にはあげたりね。ようやったもんです。
広い場所いうたら礼拝堂がいちばんやから、そこで運座をやるんやけど、もう夜どおし作るんです。夜明けになったら疲れてきて、そこの座ぶとんで眠ってしまってね。朝おまいりに来た盲人に、よう蹴とばされましたよ」

 朝早くにおまいりに来るのは、盲人さんが多かったですからね。というのは、盲人さんには付添いさんがおってでしょう。付添いさんが朝のしたくや掃除なんかをはじめますと、その間におまいりに行くんです。蹴とばしもしますよ、そりゃ。
 文芸で、雑誌に載せてもらったり、作業でも、比較的元気な人がやるガーゼのばしをがんばってやったりしてるんですけど、やはりなんと言いましょうか、どうしても居候意識がとれませんで・・・。早く戻りたくて、ずいぶん嘆願書を出したものです。早く帰してくれって。
 それでも、光明園ができて、帰るのが昭和13年の七月ですから、四年近くも全生園のやっかいになったんですね。長かったです。
 

 ま、そうこうしているうちに、やっと帰ることができるようになりましてね。往きもそうでしたけど、貸切列車なんですよ。それもふつうの汽車じゃなくって、貨物みたいな。ともかく特別仕立ての・・・。駅へ行くまではトラックでした。
 そのトラックがまたグルリ八方みなテントをかぶせてあって、あたしの方からも何も見えなければ、外からも見えやしないんです。そんなふうにしてありましてね。ところが、ちょうとあたしがいたところに、二寸くらいの継目といいましょうか、裂け目がありまして、そこからちょっと外が見えるんです。もう、それこそ二度と再び東京を見ることはないと思いますとね、一所懸命のぞいてねえ。穴のあくほど見てきました。
 ちょうどまた、帰りの鉄道が大雨かなんかで、たしか山陰の方を通って、東京から一週間近くかかって岡山に着いたんでしたか。
 だけど、遠まわりして、遅れてうれしかったです。もう一生、汽車なんかには乗れんのですから。子どもみたいなもんですよ。
 それと食べることが楽しかったんです。汽車の中で炊きだすこともどうすることもできませんでしょ。だから、駅弁をどんどん買って下さって。



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邑久光明園  藤本トシさん


藤本トシさんの『地面の底がぬけたんです』の中に、北條民雄さんのエピソードがある。藤本さんは大阪の外島保養院におられたが、昭和9年9月21日の第一室戸台風で外島保養院は壊滅し、出身地にある多摩全生園に委託患者として4年間預けられ、その時、北條さんに出会った。

藤本トシ 明治34年生まれ 1987年死去 享年87才

北條民雄 大正3年生まれ 1937年死去 享年23才


『地面の底が抜けたんです』の一部抜粋


 北條民雄さんて御存知でしょう。あの方と全生園で一緒の時期がありましてね、結核病棟におられましたけど、何度かお見舞いに行きました。というのは、あたしたちは委託患者ですから、時々全員が集まっていろんな話があるわけなんです、その委託患者の代表さんから。例えば、注意とか、しなければならないこととか。そうした折に、病室には必ず時々はお見舞いに行ってくれ、あたしたちはこうやってお世話になってるんだから、ということでしたから、何人かずつ病室を見舞うのです。
 北條民雄さんは、本病は軽いお方でしたよ。なんですか、声をかけても返事もしない人で・・・。ベッドのそばにまいりますと、上をむいて目をあけておられるから、いかがですかとかって伺うでしょ。すると、クルッと背中をむけて、むこうむいてしまいなさる。
 ある時、やはりお見舞いに行った時でしたが、ちょうどお医者さんが診察なさっていたことがありましててね、北條さんに小言を言ってなさってでしたよ。
 あんたは確かに文学者としては優れた人だ、文章も立派な腕をもっている、だけど人間としてはゼロだぞって。まあ、あたしにはどうこう言えませんけど、とにかく、とりつく島がない人でした。頭の中は文章のことでいっぱいで、他のことで口をきくのは、もうめんどうくさいってことだったのでしょうか。何か、いつも考えてられたんでしょうねえ。



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大島青松園  塔 和子さん(21)



釣り糸

電光のように魚が食いつく

このときこそ糸の私はぴいんと張り

ひたすら魚の意のおもむくところを追究する

広い海の中で出会ったたった一匹の魚と

釣り糸の偶発的な出会い

どんなに多くの魚がいようとも

糸の先につながる魚と

魚につながる糸とただ一点にしぼられ

いま在ることを互いに知らしめられる

魚が深く入れば糸も深く入り

逃げようとすれば

するすると老獪に糸ものび

もはや逃れることも逃すことも出来ない

関係になってしまったひとつの課題

やがて互いに疲れきり追い切って

海の面にひき上げられ

糸と魚の共存ははずされる













闇の神聖の中できわだつ声

凄絶に遂げる生を謳歌するのか

無我夢中の世界にいて

産みおとした新しい生命の傍に

かたくなるのか

無慈悲な自然

あるいは優しい自然は

そうして生命を絶やすことをせず

死に絶えるものから生きかわるものをひき出す

おまえ達は

一年という周期に立ち会わされた

自然の食欲であり排泄である

悲哀か賛歌か

虫が鳴いている

人は鳴いているとしか表現できぬが

いのちの声がきこえてくる



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パプリカの蒸し煮


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熱した無水鍋に、大さじ2の水代わりにトマトを入れ、食べやすい大きさに切ったパプリカとピーマンを入れ、煮立ったら極弱火にして5分、火を消して余熱5分で蓋を開け、手作りポン酢で味付けして出来上がり。



ナスとトマトの味噌煮

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熱した鍋にゴマ油を入れ、乱切りしたナスを炒め、水代わりにトマトを入れ、混ぜながら、トマトから水が出てきたら弱火にして10分煮て、味噌をみりんで溶いて入れ、2分煮て出来上がり。




オクラの薄切り

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定番です。



ナスの一瞬漬け

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ナスは縦に半分に切り、3ミリほどの薄切りにして塩をふり、手で強くもみ、さっと水で洗い流し、水気をしぼる。青シソの粗みじん切りを入れ、酢と醤油を同量入れ、混ぜて出来上がり。



ポリポリキュウリ

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定番です。



ハーブティ


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左からセイジ、アップルミント、タイムで、沸騰したら火を消して入れ、3分蒸らし、ハーブを取り出して出来上がり。麦茶代わりに。



中元でもらった生ハム

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ゆで卵
      
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私のエッジから観ている風景

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邑久光明園  藤本トシさん




自殺未遂と言はるる己が影濃ゆし傷心に射す署の燈の明かさ




生にも死にも希み絶えたる身の置き処刑事が示せる小さき古椅子




冷たさが冷たしと思へる親しさよ雪にまみれて足らへる心




子を生さぬさだめの中に起き臥して憐れがらるるみごもりしこと




子を生さぬさだめの故にみごもれば思ひは侮辱にひとしきものを




人と生れ雀とうまれ睦み合へりそのみなもとの命をおもふ




晴ればれと窓ゆ小鳥の鳴く聞けば見たし仰ぎたし深き朝空




(盲夫足をくじきて)
厠へと深夜さぐりて夫を負ふこの力あり涙にじみくる




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邑久光明園  橋本正樹さん


日附け

一坪の

花園の芝生を

蹴上げるように

山茶花の花びらが

こぼれ散っていたのは

昨日の夕暮であった


入水━━

そんな事件が

私達の園内をさわがしたのも

遠いことではない

一日違いの

昨日の出来ごとであった


それから

まだ何かがある

しん夜は


餅搗もちつく きね音で





賑わった











私は明るい樹のもとで


私は明るい樹の下で

お寺の屋根を

教会堂の十字架を

漁師町の屋根屋根を

見ながら

風に頬を
なげうたせ

ふるさとを想った


ゆうべは

潮騒の音に布団の重さを感じた


風は

私の頬を擲ってオリーヴの実が揺れる


わたしは

癩者がうたうとおい

古里の歌を

じっときいて

たっている



橋本正樹さんの略歴
1912年10月28日石川県に生まれる。1929年5月5日、外島保養院に入院。詩と俳句に没頭した。俳句は橋本秋暁子と号し、戦後の俳句会の中心的存在だった。詩作は1941年頃から始めている。1955年春に片足を切断。1986年1月27日死去。没後、夫人藤本トシの文学碑の近くに「秋暁子亭」と名づけた東屋を遺金で建立。


藤本トシさんは1987年6月2日に亡くなられているので、1年半ほど橋本正樹さんの方が早く亡くなられた。なお、藤本トシさんは1901年2月5日生まれなので、橋本正樹さんが11才年下である。なお、藤本さんは1929年5月に外島保養院に転院されている(身延深敬園から)ので、外島保養院への入所は橋本正樹さんと同年同月である。1934年の室戸台風で外島保養院は壊滅したが、二人とも生き延びて、1938年、外島保養院が邑久光明園として再建された後、また出会うことになった。


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大島青松園  塔 和子さん(20)


食事

白いものがゆぶゆぶしている袋の先には

管がついていた

「それなにするもの」と私が聞くと

「食事」と看護婦は無表情に答えた

そして

病室をのぞくと

その管を

鼻に突込んでいた

口から食べることのできない人

それはぶかっこうだ

病人が動くと

胃袋のようなその袋も

かすかに動いた

それはなぜかユーモラスだ

白いものがすこしずつへってゆく

命のひきのばされる光のように


冬の残照が

かすかにほてって

この

厳粛で神聖な食事は

静かに

はこばれている











この味のない私の生に

ただひとつ

味付けするものがある

それは欲望だ

欲で体がふくらむとき

私は生き生きする

深い井戸から汲み上げる欲なら

どんな欲でもいい

 食欲 物欲 性欲 

 知識欲 創作欲 名誉欲

欲よ

私はお前をこんなに好きだ

お前がないところには

実がない味がない私がいない

お前でいっぱいになった脳髄で

存在の深奥から

光る言葉をかくとくしたら

これほどの満足はないだろう

私の欲よ

私をいろどれ

どんな暗いところにいても

ただひとつ

もえる炎はお前

欲で活気のみなぎる頭

欲で華麗な心を身の内にもって

その先に

コップ一杯ほどの

希望を見つめて歩いていられるなら

私は

どこまで歩いて行ってもいい





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ナンキンとトマトの煮物



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熱した無水鍋に醤油、蜂蜜、酒、みりんを入れ、下敷きに半分に切ったミニトマトを入れ、乱切りしたナンキンを入れ、再度煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



カラスガレイのバター醤油


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IMG_4394_201807231940408ca.jpg IMG_4396.jpg   

熱したフライパンにバターを入れ、15秒湯通しして片栗粉をつけたカラスガレイを置き、裏表5~6分ずつ焼いて皿にとり、醤油をまわしかけて出来上がり。
  


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週刊金曜日

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邑久光明園  橋本正樹さん


抜け殻


私のてのひらに

こんなに軽く乗って

お前のいのちはどこへ行ったのであろう

そっと
寄生木やどりぎ
に尋ねてみても

知らないと云った

真白いお前の
亡骸なきがら

こんなに軽く

私の
てのひらに乗って

お前のいのちはどこへ行ったのであろう

かなしい ものの
運命さだめ

今日吹く野づらの風に

私が そっと山に尋ねてみても

お前のいのちはなかったのか












春の標識


いそ山の

いばらの刺から


岩の裂目の牡蠣がらの

貝から


くずおれたあし

こぼれた
とびの羽根など

そんな中から


しめやかな 春がやって来るのに

違いない


今日いちにち

砂山に隠れて

私は静かに前方を見る


ふしだらけの

明るい景色の中には

そそり立つような黒い
からす

脚が垂れさがり

聴き澄ます耳もとには

なんとも云えない

幽閉された 大きな力が

こみあげて来るようだ


それが人々の呼びあう

春と云うものであるかも

知れない


そう云えば

私の頬先にふれた

風のなかには

たら
の新しい芽刺が

あかるい光を保っている

春の季節はもう十分に

私のあしもとに拡がっているのだ


砂山に崩れてもくずれても溜る

白い貝殻族よ


明日はきっと柔かい春風が吹いて来て


わたしたちのたましいの一つ塚を

濡らすのに違いない




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邑久光明園  橋本正樹さん




春は

抱擁される季節だ

美しい月があるからだ

夜々の庭木が濡れているからだ

一枚のタオルも濡れるからだ

浅い宵星

話しがある 

ロマンスがある

夜空がある

金星がある

浴槽がある

いのちがある 

いのちを燃やす

窓がある


春はやっぱりいい

抱擁される

季節だからだ

(1953)









二月尽


また来た道を

私は返えすのかも知れない

あたたかい日射が縁側に一ぱい

あたっていると

すわっている畳の上が

急に埃ぽくなって来た

そして 菜の花や菫が私の鼻の先を

通り過ぎでもしたかのように

やさしい追憶を投げかけて呉れる

癩園に朽果てた身垢のことは

そんな時

おくびにも出さないで

ほど遠い春来るの道程の愉しさが

またまた来た

此の道の 目印の中に

立っているような喜びを

私はひとり

草の根のように吸いあげる

(1953)



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大島青松園  塔 和子さん(19)


金魚

与えられた金魚鉢の中で

与えられた餌をもらって

生きるための知恵も労働も

運命を切りひらくために必要なものは

すべて放棄した

牙も毒も持たずにいられるこのさびしさ


器の中のなまぬるい水につかってから

あまりにながいので


幸せがなになのか

自由がなになのか

健康がなになのか

もう麻痺してしまってわからない


ふと

口ばしを鉢にぶつけて

生きていたと

鮮烈に五体をはしるものを知る

金魚はときおり

開けられた窓の向こうの空を見ながら

かすかな声が自分を呼ぶのを

きいたような気がして

ひくひくと

身をふるわせる












あなたは盛りの美にまよい

あれか

これかと

もたされた選ぶ自由の重たさと

選ぶことの恐ろしさにたじろぎながら

一本を選ぶ

私を選んでくれたあなたよ

あなたは私にどんな美を見つけて選んだのか

その美が

いつまで保たれると思って見たか

選ぶあなたは最も美しい私を選び

私は美の中に

終りのみにくさを抱き合わせて売りつける

私を抱きかかえているあなたよ

あなたの腕の中で

一瞬

一瞬

おとろえている私を

どのようにして

とどめることができるのか

かがやく花は

しのび寄ってくる暗い眠りを

おしころして

かすかにふるえている




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リメイクしてカレー



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昨日の夏野菜煮込み(ラタトゥユ)の残りは、水を少したし、ルーを1個入れてカレーにした。



厚揚げ

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賞味期限が過ぎていたので、焼いた。



オクラの薄切り


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定番です。




パプリカとトマト炒め

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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、魚ソーセージ、ピーマンの順に炒め、ピーマンがしんなりしたら半分に切ったミニトマトを入れ、3分ほど炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



ポリポリキュウリ
   
IMG_4376_201807221952272c6.jpg IMG_4380_20180722195230809.jpg 

定番です。


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星の金貨 new

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邑久光明園  橋本正樹さん(藤本トシさんの後夫)



荒廃の花園
━━故 瀬田洋兄追悼



それはかなしい一つの記憶でもあるが

あなたの
精根いのち が西に傾むく日車草ひまわり

まみえた時のように

この
荒廃あれはてた花園のなかに

たった一つ見られる

美しい風船かずらが

わたしのあしもとに揺れていた

かそかな日の想いのなかに

かそかに淡い光を湛えながら

あの日のあなたの面影にどっか結びついている
記憶おもいに垂れて

秋風に乱してはならないこの荒れた花園の朝を

ただひとつかそかにも風船かずらが揺れている

(1950年)












秋の翳


秋津のぶつかる音が

私のみけんで外れる


あれほどあつく灼けついていたいらかの

かなしみが


その後の消息を断つように

私のうしろに消え去ってしまうと

今日は

松風がきゅうに輝き出し

みちと云うみち辺には

ところかまわずバッタが

宙返えりする


私の虫歯のいたみを

どうにか桔梗の花かげに

美しく 捨てては しまったものの


それでも

私の外は

広い 海である以外には


私は

何も云うべき言葉を

持たない

(1952年)


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邑久光明園  藤本トシ・山田法水・橋本正樹


『地面の底がぬけたんです』一部抜粋

結婚

 あたしがいた部屋は、十五畳に八人なんですけど、夜になると増えるんです。結婚しておられる方がいましょ、ですから。まえに言いましたような結婚生活ですからね。だけど、にぎやかって言えばにぎやかでしたよ。男の人同士で話をしたり、お茶のんだりして・・・。
 その頃、そうですねえ、独身者は、あたしの部屋では二、三人でしたか。あたしはもちろん、まだひとり身でした。
 あたしが結婚したのは、外島に来て一年余り経ってからでしたか、もうはっきり憶えてませんけど、昭和六、七年だったと思います。
 手足はだいぶいい人でしたけど、眼はもう駄目で、日蓮宗の導師をしていた人でした。あたしも、身延にいたせいで日蓮宗ですから。その人が二度三度お勤めに行くありさまを見ていてね・・・手足がいいといっても盲人ですから、不自由でしょ。それに当時は、男には男の付添いさんということになってましたから、やっかいでしょうと思いまして・・・。
 いやあ、恋愛ってほどのものじゃあありますまいねえ。もちろん、ぜんぜん嫌なら結婚しないでしょうけれど、とにかく、十八も齢はちがってたんですから・・・ただ、不自由だろうと思いましてね・・・。
 その人とは、二十九年間つれそいました。
山田法水といいましたけれど。
 外島では、結婚してる人の方がずっと多ござんしたよ。独身者は四分の一くらいでしたかねえ・・・それがねえ、みんな淋しいといおうか何といおうか、女の人が入ってきますとね、まあ、いろんな、仲人になろうとする人が来ましてね、この人はどうだあの人はどうだって、やたらにすすめに来るんです。ま、あたしは自分で選びましたけど。
 ところが、あたしと十八もちがうんですから、あれは金がめあてだ、金さえ取ってしまえばそれっきりだって、そんな陰口を叩かれましてね。あたしの耳には二、三年も経ってから入ってきたんですけど。
 だけど、二十九年間めんどうみましたよ。導師をしていた人だけに、亡くなる時はきれいでした。ちゃんと、こうやって、手を合わせて、おばあさん、ありがとうございましたって合掌しました。
 二十九年間といいますけど、その途中で、あたしが目を失いましたろ、目の悪い人の不自由を見てお世話するつもりになったんでしょ、そのあたしが目を失ってしまって・・・。
 そこからが、あたしの、本当の修行がはじまったんですね。それまでは、どんなことでもつらいとは思いませんでしたけれど・・・あれからが、あたしの、頂上の修行でした。
 ともかく、その人を送ることができまして・・・。
 この病気は、どこもかしこもみんなしびれてしまいますけど、舌だけは麻痺しない。あたしも目を失くしてからは、ほんとにそれで助かりました。特におじいさんが病んでからは、なんでも噛んで食べさせてあげるのですが、硬さも熱さも、みんな舌があってこそね、わかるのですから・・・。だけど、入歯を洗ってあげることができなくなったのはつらかったです。ですが、これも舌に助けられたんです。
 入歯を洗うのは、他人さまには頼みにくい。いえ、お願いして、やって下さらないことはないのですが、他人の入歯を洗うというのは、気持のいいもんじゃありませんです。あたしはこのとおり、今も入歯をしたことはありませんけど、おじいさんのを長年洗っていて、これはなかなか、他人さんにお願いできるようなことじゃないってわかってますから。あれはいけませんですよ。
 というのは、食べカスがついたりしてて、ヌラヌラしますでしょ。それをあたしは、目がいい時は、ブラシの硬いので何回も何回も洗いましたけど、目が見えなくなると、ブラシがあってもこすられんのです。すぐ落とすんです。手が麻痺してますから、持ってるものやらなにやらわからなくなるんです。目が見えなくなってわかるのは、それまで目でこすってたんですよ。目で持ってたんですよ。手でこすったり持ったりしてたんじゃないんですねえ。
 それで、しょうがないから、あたしは、自分の歯でみんなカスを取って、そして舌でさぐってみて、これでどこにも汚れはない、みんな取れてると確かめてから、おじいさんに入れてあげました。これは、あたしが目を失ってから九年間、やりとおしました。
 その九年間が・・・。
 だけど、臨終の時、ひと言、おじいさんがあたしを拝みましたのでね、もう・・・苦労は忘れました。この人(
橋本正樹氏)は、当時、隣の部屋にいたんです。この人はその時分から、あたしのしてきたことを、一部始終しっています。おじいさんが死んで一年経ってから、こんどは逆に、あたしのめんどうをみてやろうと思ってくれたんでしょうか、一緒になることになりまして・・・。
 なんだか、話がずいぶんこっちの方まできてしまいましたねえ。・・・外島の作業の話でしたね。


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大島青松園  塔 和子さん(18)




人が死んだら

なぜと問うのに

生きていることを

なぜ生きているのかと問わないのだろう

人が泣いたら

なぜと問うのに

笑ったら

なぜ笑ったことを問わないのだろう

生よりも不幸な死はあるか

死よりも不幸な生はあるか

泣くよりもつらい

笑いはないか

そんな笑いよりも楽な涙はないか

人が問うのは

平均的なことがらを越え得ない

人が見過ごすのは

見なれた風景にあてはまるとき

裏返しになった一枚の画は

いつまでも

裏返しになったまま

誰も気付かずに通り過ぎる

そして

人はいつも

傍らに

気付かずに通り過ぎた

何枚かの画をもっていて

埋葬をすませた後などに

ふっと

気付いて

取り出して見たりする










生鮮食料品


剽軽な蛙から蛇

獰猛な鰐

執念のとかげまで

首を切られ

贓物を抜かれ

くるりと皮をはがれた姿のまま

なおその肉をくねらせながら

生鮮食料品として竿につり下げられている

熱帯の街の露店


時が停止したように

皮をはがれつづける爬虫類の

原始の世界への異様な昂奮の中で

あの沼の思い出のつまった目も

密林の焼けつく陽も

彼等の中の遠い王国

それは

首のない爬虫類にはもうない

吊り下げられた

何本かの

白い肉の間から

買物籠を下げた

女のブラウスが

あざやかな原色を

ちらつかせているだけだ





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夏野菜煮込み(ラタトゥユ)



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熱した無水鍋に大さじ1の油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、ベーコン1連の細切り、タマネギの順に炒め、残りの野菜(ナス、ニンジン、パプリカ、ズッキーニ)を入れて炒め、全体に油がまわったら、白ワインを入れ、半分に切ったミニトマトを置き、グリンピースを置き、コンソメ2個を置き、極弱火で25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、胡椒をふり、混ぜて出来上がり。



ゆで卵

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オクラの薄切り
 
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定番です。




ハーブティ
     
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今日は手元にセイジとタイムの2種類しかなかったが、色はきれいについた。


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RITERA

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邑久光明園  山田法水さん(藤本トシさんの先夫)



夜話


俺が懐しさと喜びに慄えながら

七年振りで古里の土を踏んだ時

待っていて心から受け入れてくれたものは

真暗な闇と古巣の納屋だけだったよ


俺が二日間元の主人顔をしていた時

昼間訪ずれて来てくれたものは

節穴から忍びこんだ白っちゃけた光線と

蟋蟀こおろぎの老ぼれだけだったよ


俺が後悔のほぞを噛みながら

しょんぼり帰園ってくる時

沁々と来し方行く末を囁きながら

駅まで送って来てくれたのは

闇夜が産んだ

あの時雨しぐれだけだったよ










やすらい


麗らかな日が

憩うている私の足を

撫でてくれる

暖めてくれる

峨々たり峯を攀じ

底しれぬ谷を辿り

風雨の暴力に耐え

果しない吹雪の広野を

越えてきた

足を

七十余年の労れ

萎えはてて

盲杖にすがっていても

ひょろひょろと

よりどない歩み

その歩みから

人々に切れ凧を

連想させて

秘かにそう呼ばれている

足・・・・・

私はこの足で

あすも歩まねばならない

すべてを越えて行かねばならない

足跡には

鮮血が滲むだろう

だがその奥に法悦よ

燿やいてくれ

・・・・・・・・・・

麗らかな日が

草に憩う

私の足を

撫でていてくれる

あすを励ましてくれている



山田法水さんの略歴
外島保養院に入院。日蓮宗の熱心な信者で、昭和二十年代前半まで邑久光明園の日蓮宗立正会の役員を務める。詩のほかに短歌も発表。早くから視力を失ったが、文芸活動に専念した。風水害後、多摩全生園に委託。生没年、入所年は不詳。


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大島青松園  赤沢正美さん(15)




ありの儘の声にて無雑作に語りあふこの不思議さは君より来たる




冬木木の眠りをさまし夜をひと夜降りたる雨に庭土匂ふ




満潮のいづれの波か春めきし母音をもてる波まじりをり




建ち並ぶ団地の下にたんぽぽの野と少年の日は眠りをり




照ればすぐ雨乞いの火を燃やしたる村失せて団地に人ら犇く




赫赫と夜の山上に雨乞いの火を焚きし百姓父らは絶えぬ




せかされてゐると思ふな夕風にすすきの音はいまだ艶もつ




赤沢正美さんの略歴
昭和8年香川県生まれ。昭和14年大島青松園に入園。昭和16年「龍」に入会、一時中断の後、昭和25年「創作」により長谷川銀作に師事。昭和46年10月失明。昭和47年8月「長流」創立に参加。昭和53年1月52年度「長流」年度賞受賞。妻は詩人の塔和子。『稜線』(昭和27年)『澪』(昭和29年)『陸の中の島』(1956年)『三つの門』(昭和45年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『投影』(昭和49年)『草に立つ風』(昭和62年)。



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大島青松園  塔 和子さん(17)


水仙


ゆらりと咲いた水仙

切るとじくから花へ

真直ぐにゆきわたっていた水が

切られたところで勢いあまって

したたる

水は花になったり

野菜になったり

果実になったり

さまざまな姿をもって

現れる

しかしこの奥深い水の変身

こまやかな芸の

神秘に思いをめぐらせて

見るものがあろうか

切った水仙を

花瓶の水に移すと

水仙は

その成り立ちの水を

音を立てるように吸い上げ

清楚な香りを波ように

ゆっくりと広がらせて

活けた私をたじろがせる










柿のたね



この楕円形の小さな一粒の柿の種の内側は

芽吹くときを見つめて這いのぼっている

終わった果実から渡されたバトンを

芽吹く二枚の葉に渡すまで

自らの姿を内深く秘めて

命の根元からきこえる

いぶきのような力強い声をききながら

未来へ向かう意志を強くして

土を恋う

つづく一筋の命の証人

芽吹く命のための

一粒のこの種は

さいげんもなくつづけている

リレーの途中を

熱い命に息づきながら

  土に芽生えることができるか

  焼却炉に消えるか

  人の手に運命をにぎられて

  いま食べ散らされた

  テーブルの上で光っている



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肉ジャガ


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豚肉100gは15秒湯通しする。

熱した無水鍋にバターを入れ、下敷きにタマネギのスライスを置き、乱切りしたジャガイモとニンジンを置き、豚肉を置き、ニンニク醤油のニンニク2片の粗みじん切りを置き、グリンピースを置き、半分に切ったミニトマトを置き、蜂蜜を入れ、ニンニク醤油で味付けし(ここまで混ぜない)、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。



ピーマンとトマト炒め
     
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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、魚ソーセージ、ピーマンとパプリカの順に炒め、ピーマンとパプリカが少ししんなりしたら半分に切ったミニトマトを入れ、3分ほど炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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