遺稿 あゆみ
━━病床にて
━━その野原は
美しい花園だった
人間が
まだ誰もつくったことのない
花が
いっぱい咲いていた
彼岸をさかいに
おれは
母からいただいた一枚のキモノを着て
立っている
だがそのキモノは
もう、つぎはぎの出来ないキモノだった━━
(おれはいま
ライ者特有の神経痛に悩まされている
足腰の立たない
五尺五寸・九貫たらずの身体
神経痛はまるで静脈に射した塩酸コカインのように
絶えまなく
しびれまわる)
・・・おれは・・・ある日・・・
東海道線・・・を・・・突っ走る・・・
・・・列車に・・・
乗って・・・いた・・・
・・・窓外の・・・風景・・・は・・・
十三年・・・の・・・歳月を・・・
・・・経ていた・・・
・・・とある・・・工業都市の・・・
駅・・・に・・・
・・・おれは・・・降り・・・立った・・・
二十年を・・・
・・・生きて・・・きた・・・
この・・・故郷・・・の・・・地に・・・
・・・富士は・・・
無言で・・・
・・・おれを・・・迎えて・・・くれた・・・
・・・バスや・・・電車を・・・
さけて・・・おれは・・・二十年前の・・・
・・・夢・・・の・・・中を・・・
歩いて・・・いる・・・
・・・友・・・が・・・
来る・・・
・・・旧い・・・知人達が・・・おれと・・・
擦れ・・・ちがって・・・行く・・・
・・・だが・・・
彼等・・・には・・・
・・・この・・・おれ・・・が・・・
見え・・・ない・・・
・・・名所・・・「左富士」・・・
そこで・・・
・・・おれは・・・立止る・・・
生家・・・に・・・行こうか・・・
・・・父・・・弟・・・先祖代々の・・・
眠る・・・
・・・奥津城・・・に・・・
行こう・・・か・・・
・・・おれは・・・
やがて・・・吸いかけの・・・煙草を・・・
・・・踏み・・・にじり・・・
一歩・・・一歩・・・あるいて・・・行く・・・
・・・歩いて行く・・・歩いて・・・
行く・・・
(1958・11・2 口述)
高橋晴緒さんの略歴
1913年11月2日静岡県生まれ。1940年12月23日栗生楽泉園入所。「高原」編集部に所属。同誌に随筆などを発表している。1958年12月4日死去。
「癩夫婦」、「いのち」、「誰に手紙を書こう」の詩が時代を超越している。古さが全く感じられない。
治癩薬のプロミンは高橋さんにはあまり効果がなかったのかも知れない。
「誰に手紙を書こう」に、「二十代の私には背負い切れない宿命の重量を背負って武蔵野の癩園に入った あの柊の垣の中に若い世代の血を秘めて暮すことは苦しい忍従だった」と書かれているので、多摩全生園にも在籍されていたようだが、略歴には詳しく書かれていない。
豚の焼肉
秋の夜の卓上に置かれた
一皿の豚の焼肉に
僕の頬はつやめいた
「まったく、久しぶりのご馳走だからな」
君も僕も
一皿の豚の焼肉にこめられた平和に
浸り
涙ぐむ
あの殺伐の日
君も僕も
木の実草の根を手当りしだいに喰べたっけな
診療もしてもらえず
戦争という烈風のなかで
病友はみんな青ぶくれた顔をして
しかも喰うためにのろのろと
鍬さえ握った
そして君も僕も、ただ生きるために
ただ生きるために闘ったのだ
いま一皿の豚の焼肉を前にして
君も僕も美しく微笑む
とっても貧しい平和だが
この平和を誰が破壊できよう!
君よ、僕達が若くて健康だった頃
自身の若さを満したあのビフテキには及ばぬが
でも 一片の豚の焼肉から
僕たちの新しい若さが芽生えているんだよ
僕の絵
━━白内障摘出 紅彩切除の開眼手術を受けて
じわりと明るさが沁みこんでくる
一枚一枚繃帯のとかれ
陽光に僕は近づく
最後の一枚を取りさった
押しこくるような勢いで
真昼の光が僕に差しこんだ
医師が光る 看護婦が光る
友だちが光る 僕が光る
きらきら光る 光りに僕は包まれた
僕の目の前に立ちはだかった
厚い鉄板
現在ぶち抜かれ
堰をきったようにあふれる
光りを浴びて僕は立っている
闇からまったく解放されたのだ
黒よりなかった僕に
色がある
ここに僕がある
そこに友だちがある
太陽がある
道がある
大自然がある
日陰にも無限の光線が射しこんでいる
夜でもすばらしく明るいのだ
自分の姿を見詰める
痛いほどの明るさ
一睡もしない日が幾日となく続いた
強烈な光りを受け
闇に馴らされた僕の視神経は耐えられなかった
直射日光にあたった豆モヤシのように
十幾日でへし折れてしまい
二度まっくら闇に僕は覆われ
一層厚い鉄板が目の前にたちはだかった
光りがすぐそこにある
この目で確かめた
明るさが そこにあるのだ
まだ 僕には
どんな厚い鉄板でも突き通す
感が残っている
思いきりこの感をゆり動かして
僕は
光りに向って生き抜く
僕の絵を
描き続けるのだ
生涯僕の見詰める
真黒い鉄板に
竹村昇さんの略歴
1917年2月20日長野県に生まれる。1939年11月30日栗生楽泉園に入所。俳句が多いが、1953年頃から詩作も始めた1980年7月21日死去。
2030年 農業の旅→

冬の坂
踏み出す俺の足
一枚岩のように
凍った坂に響く
肉と骨の
冬の坂
俺の前に立ちはだかる
寒空にさらけだされた坂
無数に重なりあい凍りついた足跡
斜面に添わせてかたむく俺の体に力がはいる
ぎしりと鳴る関節のひびきが坂に伝わる
生きものひとついない寒さの中で俺の呼吸がはずむ
<あくせくと吹きさらしの中を登って来ることはないぜ>
若者の声が突然俺の頭の上で響いた
だまったまま
一足一足に全神経を集め
若者の前を通り抜ける
やがてふり向いて
そこに
遠く揺れている太陽と向い合って
じっと立っている
若者と冬の坂
目玉
この朝
躰中で一番目覚めがおそい目玉を
ぼくはこの朝もこすっていた
この朝に限りこすってもこすっても
こすりつける布団が
日照りの泥沼のようだった
ひと皮むけよとばかりこすりにこすった目玉は
おこりたった炭火に置かれた肉塊のように真黒にくすぶっていた
ぼくは厚い黒い布を凝視しながら
よろめく足で立った
家系をけがす病気と言う
大きな荷を背負って
戦争参加の勤労奉仕の明け暮れ
一度はつかんだ制服をはなしていた
手当りしだいに
ぼくは押入を掻きまわしていた
手さぐりのぼくの手は
ボロ服をつかんでいた
なでるぼくの躰に
ボロ服のさけ目の底に肉体の温感がある
晴眼の時知らなかった
やわらかい肉体の温感
その下を血液がかぎりなく流れていた
家裏の渓流の音が聞えていた
色彩も形もないただ真黒い世界を
逃げ出そうと窓に向けた目玉の先に
晩夏の日を受けた
坂道がかすかに横たわっていた
目玉は
冷めたい黒しゅすに覆われて覚めてこなかった
僕が佇っている現在
遠くの山野を形造って汽車の汽笛が流れる
そこの幹のみんみん蝉の声が
三つの波紋を重ねて広がってゆく
厚い黒い布で
千枚張りに継ぎ張りをした僕の目玉
二十年来
片時も消えなく脳裡に焼きついた
失明のあの恐怖
そして
僕の目玉に熱の通う限り
見え続くであろう
真黒いあの恐怖
2030年 農業の旅→

足を断って二十年
二十年前の今日
あのおそろしい大手術に
おれの足は断ち落された
背骨の脇に大きな
麻酔薬の注射がうち込まれた
刻々と迫る悲しみ
無心に時計が時をきざむ
全身がふるえる
手術台のまわりに光る
不気味に並んでいる
メス、鋸、数々の器具
看護婦が静かに
がまんしてねと体をしっかり
おさえる
では始めますと
医師
足もいよいよ最後だ
骨を引く鋸の音
ついに三キロの目方の骨と肉が
おれの体から永久に離れた
三時間のうちに手術が終った
風船のように軽く感じた足
丸太棒のようになって横たわる人間おれ
粘りついた汗が
ベットに沁みとおるほど出た
もうすべてあきらめた
泣けるだけ泣いた
そして今思う
あの大戦争だ
おれの足も戦争がなければ
切らずにすんだ
無理をした無理をした
毎日のように山へ行き
薪を取った畑も耕した
手足から血を流して
良い薬がない、手当がない
もうふたたび戻らない足に
大声で呼ぶ
かえってこいおれの足
だれのための戦争
手の指が欲しい
嘆いても
戻るまい
恐ろしいらい菌に噛み切られた指
でも
どこかであの指が
泣き叫んでいるようだ
血だらけになって
骨に抱かれて。
そうだ
探してみようさがせるだけ
呼べば帰るだろう
親からいただいた
貴い指
ああ働いてくれた指がかわいそう
社会が待っている
大声で呼んでいる
心は走っている
ハンドルを社会に向けて
整形した、拾い集めた、指でもよい
希望を掘るのだ
指がほしいこぶしのさきに。
ゴム靴に
おれは変形した足に
ゴム靴を履かせて
ずるこずるこ歩く
悲しそうに靴は泣く
らいの傷足に繃帯して
びっこを引いて
松葉杖にすがって
乞食のように
だがおれは
このゴム靴でないと
一歩も歩けないのだ
なお弱視のおれは
舌先でゴム靴を
舐めてさぐって履く
こんな不潔な動作は
誰にも見せたくない
社会の人はなんと
思うだろう
いやこんな愚痴は
やめよう
お前に願いがある
びっくりするなよ
おれはお前と
近いうちに郷里へ
里帰りする
ゆるしが出たよ
その時はいっしょにたのむ
お前を磨いてやる
郷里の土は温かいか
冷たいかよく踏みつけてくれ
三十年の古里の土を
2030年 農業の旅→

唐辛子のある風景
私の古里は わら屋根ばかり
秋になると わら屋根に
真赤な唐辛子が干される
どの家の屋根も
秋空のもとに唐辛子が映えて
眼に痛い程だった
日本の屋根には
真赤な梅干が
かごに詰まって土用干しされている
私は発熱のたびに
あの赤い梅干を口にする
韓国のあの真赤な景色は
今どうなっているだろうか?
眼に浮んで消えない熱のある日
私の指と眼
わたしには カセットのふたを開けて
テープを入れる指がない。
ずうとずうと以前
わたしも指を持っていたのに、
四、五年前から、
指がなくなった。
外科にみんなあずけてある
眼も二十五年前
手術でとって
先生にあずけてある。
わたしが死んで
小さな箱に納まるその日
先生が
「香山さん、眼をかえすよ、
なんでもいっぱい見ることだ・・・」と言い
外科の看護婦さんは
「香山さん、指を返します
どうぞ何んでも自由にお使いなさいね・・・」
そういってくれるかな?
そういってくれるのを
わたしは
胸の中でしきりに願っている
忘れていた韓国
カセットテープに
喋りかけ 戻して聞く
忘れていたふるさと
韓国
韓国人ということを忘れていた
韓国人ということを思い出しても
すっかり忘れてしまった言葉
思い出さん国の言葉
発音だけにはまだ韓国が
そっくり残っている
みんなといっしょに
笑い喋って
私は
韓国を忘れていた
毎月二十日には
給与金 支払いの放送をする
そのつど
そのつど
すぐまた
韓国人を忘れ大きな顔をして
皆と一緒に
笑い 喋っている私
月に小遣いが八百四十円
淋しかった
けれど今では
みんなと同じ金額になりうれしい
山の病院で
心も 小さく丸まったようになり
悲しく淋しい時もあった
でも地震があっても壊れそうにない
あの立派な納骨堂に
皆と一緒に
私も納まることだろう
2030年 農業の旅→
