あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

栗生楽泉園  松崎水星さん(5)




萩の花盛りと聞けば山原の野外祈祷会に吾はゆきたし




横たはり盲眼つむれば真昼野に星屑の如きこほろぎの声




足と手に靴を穿かせて這ひいでぬ真日照る土の匂ひこほしく




常臥の吾が畳床今年また換へねば堆肥の如く匂ひぬ




悪夢覚めて林檎食はむと机の上吾がさぐりたればナイフに触れつ




病む身ながら吾が五十三の誕生日に濁酒沸かして友と飲みたり




暖かき縁に這ひ寄れば犬の啼く真似して友が吾にたはむる




大工われ健けき日に造りたる故郷の母屋思へば恋し




一日十三円の患者作業賃貯へて雨合羽買はむといふ友あはれ




血を吐きて友の死にたるこのベッドに吾また胸を病みて臥すなり





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栗生楽泉園  松崎水星さん(4)




づけづけと看護婦に小言言はるるとき平たくなりて吾は臥しをり




ネブタ祭の録音ききて故郷に吾が踊る夢再び見たり




臥す吾に起ちて歩めと山中神父はパウロの書翰読み終へて云ふ




いざり吾れ洗面器にパンツ洗ひをりかかる仕業は見られたくなし




清野勇君
しまひおきし皺のなき札を献金に包みて友はミサに出でゆく




病む吾に聞かせむと友は鶯をさげて来にけり元旦の朝




躄吾れ地車に乗りて曳かれゆく風荒ければ頬かぶりして




真日照らふ山の上にをればおのづから盲ひの吾の心開くる




枕辺に小包解きてもらひたれば広辞苑のインク著しく匂ふ




亡き父の声にも似たり録音に収めし吾と吾が声きけば




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栗生楽泉園  松崎水星さん(3)




高原の冬ながければ夏の間に支給さるる炭は貯へ置くべし




紅のばら匂ふ鉢ひきよせて吾は聞きをり点字歌集朗読




金沢貫一君を悼む

みづからの骨壺包むと白布を君は行李にしまひてありき




ひぐらしの声かと思ふこの夕べ熱たかまるか耳鳴やまず




目あき二人盲ひ五人がひっそりと吾が枕辺に歌つくりをり




台風の進路あやぶみ鉢の菊部屋に置き並べ床せまく寝る




リラ植ゑて垣根に仕立てむ計画も病み臥す吾のただ思ふのみ




次次にみかまりし友の形見着て吾は寂しく生き残り居り




居住権を護らむために常会に背負はれて来ぬ吹雪の中を




久びさに廻診に来し園長がまだ両足はあるかと聞きぬ





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ピーマンと豚肉炒め



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豚肉100gは15秒湯通しする。

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、豚肉、ピーマンの細切りの順に炒め、ニンニク醤油とオイスターソースで味付けして出来上がり。




ナンキンの煮物

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乱切りしたナンキンを無水鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、大さじ2の水を入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。



オクラの薄切り


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定番です。カツオブシをふり、醤油で。



ポリポリキュウリ

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定番です。現在進行形。
  


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栗生楽泉園  松崎水星さん(2)



ゐざりわれ山羊の如くに腹這ひて紙くはへゆく夜のかわや




この朝友が切り呉れし芍薬を手に取れば膝に雫落ちたり




出窓より桃の花匂ふいちじるし今朝は臥床の位置かへたれば




癩予防法改正闘争
厚生省に友等坐りこみし朝より食断ちて我は三日を経たり




雨の中園長は薬もて巡回すああ患者ストすでに十日間




子等のため日日働きてあはれ君は今また残る片脚を断たる




萎えし手にまさかりの柄をくくりつけて友は薪割る汗流しつつ




本館の焼跡片付けて帰り来し友は癩文献の焼けしを惜む




膿盤に血の垂るる音聞きながら吾が足の骨削られてをり




看護婦の声あらき日はきず臭き足をば吾はそっと前に出す




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栗生楽泉園  松崎水星さん(1)


回想


病室からレントゲン室までの距離は

五十米にも足りなかったけれど

土の上を歩くと云うことは

ベッドに寝たっきりの私には

こよなく嬉しいことだった


足萎えの私は看護婦に支えられて庭に出た

昼近い初冬の柔かい陽差しを浴びて

すずらんの花のように甘く漂う

看護婦の体臭に 私は

忘れていた君の面影を思い出した


二十数年前の白根神社の祭の夜

赤い名古屋帯に縞の単衣の君は

悪い片足を労わるように

私と腕を組んで佇っていたのだった


波が寄せて返すように

みこしは近づき 遠去って行った

私達も旅館に帰ったのだったが━━


半年の灸点治療は二人の距離を遠くした

病気の快くなった君は故郷へ

病気の悪くなった私は国立療養所へ

互に互の面影を抱いて

別れなければならない
えにしだった












祈り




風花の舞う師走も末の寒い朝

君が担ぎこまれたこのベッドに

今日は僕が

肺を侵されて臥している


洗濯板のような胸を撫でながら

昼餉を待ち侘びていると

なんでもかでもよく食った

君の蒼白い顔が瞼に浮んでくる


君はかすれた声で鳥肉が喰いたいと云った

僕は懸命に探した

だが 終戦後の緊迫した食糧事情の中で

鳥肉が手に入った時には

君は既に食慾を失っていた


宗教を否定しつづけて死んで行った

君の魂は

今頃何処にどうしているだろうかと

そんなことを考えているうちに

ふと 自分の祈りの足りないことに気がついて

たまらなく寂しくなって来た













雪が降っていた

天女の涙の結晶なのだろうか

雪は音もなく降っていた

安静時間中の病室は静かだった


私は雪が好きだった

雪が降ると故郷の匂いが感じられた

音もなく降る雪の音を

私は聞いていた


鈴の音が聞こえて来た

と思ったら

シベリヤで抑留中死んだと云われていた

弟の
そりが帰って来た


死んだ筈の弟が帰って来たことに

私は少しの疑問も抱かなかった

自在鉤に吊した鍋を囲んで

二人はどぶろくを汲み交わした


弟の顔は消えた

自在鉤も鍋も消えていた

窓を打つ風もなく

雪は静かに降っていた




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栗生楽泉園  山崎克己さん



母の姿



僕が癩を病んでいた 或る夜

母は床のかたわらに優しく

その瞳は涙と

不眠の疲労とで夕焼け空のように

美しかった

そして

水ごりをとり

村の神社にお百度を踏む母の

頬はやつれ

白ろうのような顔に光りを視た


その夜

母は 僕を抱いて

泣き崩れ

細ヒモを僕の首に巻きつけた









悲哀


二人の僕が夜の街へ出た

一人の僕が

アスファルトの大通りをあるき

一人の僕は灯かげの

ゆらめきに

ひそひそと歩いて行く

僕達は癩病者なのです


本屋がある

ダンスホールがある

芸者屋がある

一人の僕は

ネオンが・・・

街の灯が・・・

突刺さるから痛いといって

裏通りを歩きたがる


もう一人の僕は

街の灯に反抗して

鋭い眼ざしで

酒屋の暖簾をくぐった


街から

療養所への

帰りみち


酔い越しの

苦しみに嘔吐する僕と

その僕と

涙眼で嘲笑する僕が

一緒になって

拾い求めたものは

夜露にぬれて

冷えきった固い石塊でした



山崎克己(金子勇)さんの略歴
1929年埼玉県に生まれる。1946年9月19日栗生楽泉園に入所。1953年死去。


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ポテトサラダ



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無水鍋に薄切りしたジャガイモを入れ、大さじ3の水を入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、塩・胡椒をしてつぶし、ボールにとる。

タマネギ半個のスライスを入れ、塩もみして15分ほど置き、水で洗い流したキュウリの水気をしぼりながら入れて混ぜる。

マヨネーズ、大さじ1の酢とレモン果汁、砂糖少々を入れ、混ぜて出来上がり。




キュウリの酢の物

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ポテトサラダに使った残りのキュウリは、水気をしぼりながらボールに入れる。カニ風味カマボコ2個を水で解凍してほぐしながら入れ、ミョウガ1個は粗みじん切りして入れ、混ぜる。

大さじ1の醤油、大さじ2の酢、大さじ1のレモン果汁、蜂蜜を入れ、混ぜて出来上がり。




ピーマンとパプリカの煮物
     
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半分に切ったピーマンとパプリカを鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、水を少し入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、汁気が少なくなったらカツオブシをふり、混ぜながら1分ほど煮て出来上がり。

 


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栗生楽泉園  高橋晴緒さん(3)




遺稿  あゆみ
━━病床にて



━━その野原は

美しい花園だった

人間が

まだ誰もつくったことのない

花が

いっぱい咲いていた


彼岸をさかいに

おれは

母からいただいた一枚のキモノを着て

立っている

だがそのキモノは

もう、つぎはぎの出来ないキモノだった━━

(おれはいま
ライ者特有の神経痛に悩まされている
足腰の立たない
五尺五寸・九貫たらずの身体
神経痛はまるで静脈に射した塩酸コカインのように
絶えまなく
しびれまわる)


・・・おれは・・・ある日・・・

東海道線・・・を・・・突っ走る・・・

・・・列車に・・・

乗って・・・いた・・・

・・・窓外の・・・風景・・・は・・・

十三年・・・の・・・歳月を・・・

・・・経ていた・・・


・・・とある・・・工業都市の・・・

駅・・・に・・・

・・・おれは・・・降り・・・立った・・・

二十年を・・・

・・・生きて・・・きた・・・

この・・・故郷・・・の・・・地に・・・

・・・富士は・・・

無言で・・・

・・・おれを・・・迎えて・・・くれた・・・


・・・バスや・・・電車を・・・

さけて・・・おれは・・・二十年前の・・・

・・・夢・・・の・・・中を・・・

歩いて・・・いる・・・

・・・友・・・が・・・

来る・・・
 
・・・旧い・・・知人達が・・・おれと・・・

擦れ・・・ちがって・・・行く・・・

・・・だが・・・

彼等・・・には・・・

・・・この・・・おれ・・・が・・・

見え・・・ない・・・


・・・名所・・・「左富士」・・・

そこで・・・

・・・おれは・・・立止る・・・

生家・・・に・・・行こうか・・・

・・・父・・・弟・・・先祖代々の・・・

眠る・・・

・・・奥津城・・・に・・・

行こう・・・か・・・


・・・おれは・・・

やがて・・・吸いかけの・・・煙草を・・・

・・・踏み・・・にじり・・・

一歩・・・一歩・・・あるいて・・・行く・・・

・・・歩いて行く・・・歩いて・・・

行く・・・

(1958・11・2 口述)




高橋晴緒さんの略歴
1913年11月2日静岡県生まれ。1940年12月23日栗生楽泉園入所。「高原」編集部に所属。同誌に随筆などを発表している。1958年12月4日死去。
 

「癩夫婦」、「いのち」、「誰に手紙を書こう」の詩が時代を超越している。古さが全く感じられない。
治癩薬のプロミンは高橋さんにはあまり効果がなかったのかも知れない。
「誰に手紙を書こう」に、「二十代の私には背負い切れない宿命の重量を背負って武蔵野の癩園に入った あの柊の垣の中に若い世代の血を秘めて暮すことは苦しい忍従だった」と書かれているので、多摩全生園にも在籍されていたようだが、略歴には詳しく書かれていない。



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栗生楽泉園  高橋晴緒さん(2)



癩夫婦


六部屋つづきの四畳半の一部屋

六十ワットの電灯の下で

男は机に向って本を読んでいる

女は癩園の限られた収入のなかから買いもとめた新柄のセルを縫っている


時折り男のめくる紙の音と

女のよりをもどす糸をはじく音が

部屋の中に音するだけだが

二人の抒情があたたかく部屋の中に満ちていた

外には小さな風が出たのか角の盲導鈴がチンチンと鈍くなって夜の静けさを深めてゆく


男は知っていた

女には子供のあることを

そして生理のように

そっとブレストの痛みの哀しさを抱くことをも


女は知っていた

男の絶ちがたい杳いひとへの愛着を

癩者という自負の排泄をどこに苦しみもとめていることをも


宿命のなかに自らもとめ倖せを希っている二人には

小さな波風があってもそうしたことを口にしなかった

今夜も

男と女の 二人の抒情は

六十ワットの電灯の下に

あたたかく満ちていた










自画像へのサイン


<僕のかつての相貌 かつての名よ>


僕の身辺にあるあなたたちは

誰れ一人僕を知らない

そして

僕もあなたたちの過去を知らない

でもおたがいの人生を信じあって

僕達は今日を生きている

だから僕は僕の醜貌をせめない


とおき友たちよ

君たちと歩いた理想の道に

僕の歩行は続かなかった

そして君たちの知らない道を

僕はひとり歩いて来た


いま 君たちの知らない地で

僕が思考虚無にあえぎ疲れているとき

はるかなる君たちは何を考え

何をしているだろう


<僕のかつての相貌 かつての名よ>


いまは愛惜悔恨という言葉さえ

言葉のカリカチュアーにすぎない


君たちは

僕を‼ 知らない

あなたたちも

僕を‼ 知らない


だから僕は僕の自画像へ戸籍にない

もう一つの偽名なまえを著名するのです

それがいまの僕にふさわしい名前だから




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栗生楽泉園  高橋晴緒さん(1)


いのち


今日も正確に

太陽は山脈の向側に落ちて行った


その風景の向側には

僕のふるさとがある

母が

妹がいる

僕の

とおい友がいる

愛する恋人がいる

山がある

河がある

幼い夢がある


━━僕の心が

今日をいわれもなく病んでいるのは

山脈やまなみの向側の

風景が恋しいからではない

僕の病巣が永いからではない


自然があまりにも美しく

昨日のうえに

今日が

今日のうえに

明日が

あるように

僕の昨日のいのちのうえに今日のいのちがあるからだ










誰に手紙を書こう


あの日

あなたの悲報を裏付けるかのように


葡萄の花に

冷雨がけぶっていた


・・・海辺の病院で 千鶴子さんが亡くなった・・・


母は死を悼むように書いたのであろうが

便箋の一行に人の死があっけなく書かれたことが

癒えることのない疾病の私には耐えられない苦痛だった


あの切れ長の大きい眸に黒く豊にあった睫毛を音するようにまばたいたあなたの眸は

もう久遠にひらかない

笑うときなど声を呑むように笑ったあの声も

もう聴くことが出来ない

ヘンタイ仮名をよく使う文字の手紙も

もう来ないのだ


現在いまの私には ただひとりの

文通の出来た人だったのに

ああ 海辺のサナトリュウムの片隅で

独り侘しく斃れていったあなた


あれは支那事変の苛烈の頃だった

二十代の私には背負い切れない宿命の重量を背負って武蔵野の癩園に入った

あのひいらぎの垣の中に若い世代の血を秘めて暮すことは苦しい忍従だった


あの雑木林の果てから響き来る武蔵野線の車音を呪い

倖せという人生の位置に生きられる人達に
 
私は限りない羨望と憎悪と悔恨を覚えた


その頃あなたは小学校の教職をひき

結婚 戦争 夫の戦死 戦争未亡人

こどものないあなたは夫の一周忌後実家へかえった

「自己を拘束するような侘しい時代の流言、私には耐えられなかったの、子供のないということより、(戦争未亡人)ということが。いったい戦争というものが人類に何を残すのでしょう。
わがままないけない私を批判してちょうだい」


落葉の小径を歩いて四年

結婚後絶えていた最初の便りだったが

もうあなたはこの世にはいない


あの日

あなたの報せをうけた日

私は果てしない空に

切れ凧みたいになっているような哀しさを感じ

これから私は誰に手紙を書こうかと思った


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ニンニクの冷凍



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ニンニクは10月10日頃が植える時期なので、まもなく、鱗片の中心部から芽が出てくる。だから9月中に、鱗片をはずして冷凍にし、一部は鱗片の皮をむき、醤油漬けにした。

冷凍はポリ袋2つに入れ、ジップロックに入れて冷凍する。醤油漬けも2瓶作る。そうして新ニンニクができる5月末頃までもたす。



ヘチマチャンプル
 

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もらったヘチマは皮をむいて縦割りし、7ミリほどに切り、ナスも同じ切り方にする。熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン2枚の細切り、ヘチマとナスの順に炒め、火を消して、味噌をみりんで溶いて入れ、30秒炒めて出来上がり。

ナスとヘチマの食感は煮ている。



野菜の蒸し煮

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無水鍋にもらったインゲン、オクラ、ピーマン、パプリカを適当な大きさに切って入れ、ニンニク醤油のニンニク2片を薄切りして入れ、ニンニク醤油で味付けし、カツオブシをふり、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で蓋を開け、大さじ1のオイスターソースを入れ、混ぜて出来上がり。





ポリポリキュウリ
   
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定番です。
 


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栗生楽泉園  竹村 昇さん(2)



豚の焼肉



秋の夜の卓上に置かれた

一皿の豚の焼肉に

僕の頬はつやめいた

「まったく、久しぶりのご馳走だからな」

君も僕も

一皿の豚の焼肉にこめられた平和に

浸り

涙ぐむ


あの殺伐の日

君も僕も

木の実草の根を手当りしだいに喰べたっけな

診療もしてもらえず

戦争という烈風のなかで

病友はみんな青ぶくれた顔をして

しかも喰うためにのろのろと

鍬さえ握った

そして君も僕も、ただ生きるために

ただ生きるために闘ったのだ


いま一皿の豚の焼肉を前にして

君も僕も美しく微笑む

とっても貧しい平和だが

この平和を誰が破壊できよう!


君よ、僕達が若くて健康だった頃

自身の若さを満したあのビフテキには及ばぬが

でも 一片の豚の焼肉から

僕たちの新しい若さが芽生えているんだよ










僕の絵
━━白内障摘出 紅彩切除の開眼手術を受けて


じわりと明るさが沁みこんでくる

一枚一枚繃帯のとかれ

陽光に僕は近づく

最後の一枚を取りさった

押しこくるような勢いで

真昼の光が僕に差しこんだ

医師が光る 看護婦が光る

友だちが光る 僕が光る

きらきら光る 光りに僕は包まれた


僕の目の前に立ちはだかった

厚い鉄板

現在いまぶち抜かれ

堰をきったようにあふれる

光りを浴びて僕は立っている

闇からまったく解放されたのだ

黒よりなかった僕に

色がある

ここに僕がある

そこに友だちがある

太陽がある

道がある

大自然がある

日陰にも無限の光線が射しこんでいる

夜でもすばらしく明るいのだ


自分の姿を見詰める

痛いほどの明るさ

一睡もしない日が幾日となく続いた

強烈な光りを受け

闇に馴らされた僕の視神経は耐えられなかった

直射日光にあたった豆モヤシのように

十幾日でへし折れてしまい

二度まっくら闇に僕は覆われ

一層厚い鉄板が目の前にたちはだかった


光りがすぐそこにある

この目で確かめた

明るさが そこにあるのだ

まだ 僕には

どんな厚い鉄板でも突き通す

感が残っている

思いきりこの感をゆり動かして

僕は

光りに向って生き抜く

僕の絵を

描き続けるのだ

生涯僕の見詰める

真黒い鉄板に




竹村昇さんの略歴
1917年2月20日長野県に生まれる。1939年11月30日栗生楽泉園に入所。俳句が多いが、1953年頃から詩作も始めた1980年7月21日死去。



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栗生楽泉園  竹村 昇さん(1)



冬の坂

踏み出す俺の足

一枚岩のように

凍った坂に響く

肉と骨の

冬の坂

俺の前に立ちはだかる


寒空にさらけだされた坂

無数に重なりあい凍りついた足跡

斜面に添わせてかたむく俺の体に力がはいる

ぎしりと鳴る関節のひびきが坂に伝わる

生きものひとついない寒さの中で俺の呼吸がはずむ


<あくせくと吹きさらしの中を登って来ることはないぜ>

若者の声が突然俺の頭の上で響いた

だまったまま

一足一足に全神経を集め

若者の前を通り抜ける


やがてふり向いて

そこに

遠く揺れている太陽と向い合って

じっと立っている

若者と冬の坂









目玉



この朝

躰中で一番目覚めがおそい目玉を

ぼくはこの朝もこすっていた

この朝に限りこすってもこすっても

こすりつける布団が

日照りの泥沼のようだった

ひと皮むけよとばかりこすりにこすった目玉は

おこりたった炭火に置かれた肉塊のように真黒にくすぶっていた

ぼくは厚い黒い布を凝視しながら

よろめく足で立った


家系をけがす病気と言う

大きな荷を背負って

戦争参加の勤労奉仕の明け暮れ

一度はつかんだ制服をはなしていた

手当りしだいに

ぼくは押入を掻きまわしていた

手さぐりのぼくの手は

ボロ服をつかんでいた

なでるぼくの躰に

ボロ服のさけ目の底に肉体の温感がある

晴眼の時知らなかった

やわらかい肉体の温感

その下を血液がかぎりなく流れていた

家裏の渓流の音が聞えていた


色彩も形もないただ真黒い世界を

逃げ出そうと窓に向けた目玉の先に

晩夏の日を受けた

坂道がかすかに横たわっていた


目玉は

冷めたい黒しゅすに覆われて覚めてこなかった


僕が佇っている現在

遠くの山野を形造って汽車の汽笛が流れる

そこの幹のみんみん蝉の声が

三つの波紋を重ねて広がってゆく


厚い黒い布で

千枚張りに継ぎ張りをした僕の目玉


二十年来

片時も消えなく脳裡に焼きついた

失明のあの恐怖

そして

僕の目玉に熱の通う限り

見え続くであろう

真黒いあの恐怖



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栗生楽泉園  中島栄一さん(3)



義足繃帯着けねばならず人より先に三十分早く起きねばならず




職患合同演劇会に看護婦は癩者と抱き合う劇を演ず




私服姿の看護婦さんに逢いしとき他人の如き表情を見す




手萎え我口もて釦かけており一つかけては息づきながら




月に一度診察台に義足を脱ぎ丸太のごとき足を突き出す





わが義足八本目をば修理せんこの先何本履くことにならん




ひと日終え重たき義足はずすとき幼児のごとく足振る我は




会いに来し弟をそこまでそこまでと義足を鳴らしつつ二キロ歩めり




中島栄一(中島英一)さんの略歴
1902年1月21日群馬県に生まれる。30代半ばで発病し、1941年9月2日栗生楽泉園に入所。1944年左足切断。「潮汐」会員。1978年12月1日死去。著書に歌集『杖の跡義肢の跡』(1976 短歌新聞社)。


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鯛のアラ汁



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鍋にタマネギ、ナス、ピーマン、パプリカ、オクラ、インゲンを入れ、水をひたひたに入れ、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、15秒湯通しした鯛アラを入れ、10分煮て、味噌を溶き入れ、生姜1片をすりおろし、2分ほど煮て出来上がり。

味噌汁というより、具たくさんの汁物にした。



ゴーヤの酢の物
  
IMG_7654.jpg IMG_7663_20170927184433863.jpg  

定番です。



焼きナスビ

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定番です。


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栗生楽泉園  中島栄一さん(2)



北窓を目貼りすましし安けさに起さるるまで眠り続けぬ




山山のせまれる間を流れゆく川といふもの淋しと思ふ




なにがなしに心寂しきときに見る椿の花のもろく散るさま





松葉杖つくことすでに二十年右肩高く体曲れり




木の枝にラジオを吊し鳴らしおき位置を確かめて山菜を採る




庭隅に割れて捨ててある植木鉢の中より秋の虫の声する




娘よりの声の便りを聞くときに老妻は聾いし耳を寄せゆく





面会に来し妹二人わが歌集を読みいるうちに泣き出だしたり



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栗生楽泉園  中島栄一さん(1)

 

足を断って二十年


二十年前の今日

あのおそろしい大手術に

おれの足は断ち落された

背骨の脇に大きな

麻酔薬の注射がうち込まれた

刻々と迫る悲しみ

無心に時計が時をきざむ

全身がふるえる

手術台のまわりに光る

不気味に並んでいる

メス、鋸、数々の器具


看護婦が静かに

がまんしてねと体をしっかり

おさえる

では始めますと

医師

足もいよいよ最後だ

骨を引く鋸の音

ついに三キロの目方の骨と肉が

おれの体から永久に離れた

三時間のうちに手術が終った

風船のように軽く感じた足

丸太棒のようになって横たわる人間おれ


粘りついた汗が

ベットに沁みとおるほど出た

もうすべてあきらめた

泣けるだけ泣いた

そして今思う

あの大戦争だ

おれの足も戦争がなければ

切らずにすんだ

無理をした無理をした

毎日のように山へ行き

薪を取った畑も耕した

手足から血を流して

良い薬がない、手当がない

もうふたたび戻らない足に

大声で呼ぶ

かえってこいおれの足

だれのための戦争










手の指が欲しい


嘆いても

戻るまい

恐ろしいらい菌に噛み切られた指

でも

どこかであの指が

泣き叫んでいるようだ

血だらけになって

骨に抱かれて。

そうだ

探してみようさがせるだけ

呼べば帰るだろう

親からいただいた

貴い指

ああ働いてくれた指がかわいそう

社会が待っている

大声で呼んでいる

心は走っている

ハンドルを社会に向けて

整形した、拾い集めた、指でもよい

希望を掘るのだ

指がほしいこぶしのさきに。
 









ゴム靴に


おれは変形した足に

ゴム靴を履かせて

ずるこずるこ歩く

悲しそうに靴は泣く


らいの傷足に繃帯して

びっこを引いて

松葉杖にすがって

乞食のように


だがおれは

このゴム靴でないと

一歩も歩けないのだ

なお弱視のおれは

舌先でゴム靴を

舐めてさぐって履く


こんな不潔な動作は

誰にも見せたくない

社会の人はなんと

思うだろう

いやこんな愚痴は

やめよう


お前に願いがある

びっくりするなよ

おれはお前と

近いうちに郷里へ

里帰りする

ゆるしが出たよ


その時はいっしょにたのむ

お前を磨いてやる

郷里の土は温かいか

冷たいかよく踏みつけてくれ

三十年の古里の土を



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栗生楽泉園  香山末子さん(6)



私が二十三歳だったとき



浅間山を眺めるのによい縁側

真白い雪の山

馬の背に似ている

枯枝がいっぱい

大きな岩山がごろごろ

私は青く澄んだ空が

白くぼやけていくまで眺めた


ため息とながいキセルをふかす母

その頬に大きな涙がおちた

発病のわかった私は

赤ん坊を背負って

母のもとを去った

私は二十三歳だった









うれしい便り


戦争で死んだことになっている私に

どこからも便りがくるはずがない

そう思うと 胸がふさぎそう

そんなある日

園長先生からの便りが届いた

「群馬県藤楓協会会長の清水知事さんから表彰される・・・」

私のつたない詩が

ライ啓蒙のお役に立った

ということであった

本当だろうか!

うれしくて 恥ずかしくて

最高によい便りを受けとった









高野桑子先生
━当時内科医として勤務していた


県知事から感謝状をもらった日から

医局へ行っても

散歩に出ても

みんながおめでとうとお祝いの言葉をかけてくれる

でも私には

ありがとうの言葉がすんなり出てこない

おめでとうの言葉を受ける時

私の背中が重くなり

淋しくなる

学校は一日も行かない

自分の名前も知らない

この気持ちは何故か重く苦しい

高野先生から何か書くようにすすめられた時

その言葉をうるさく感じた

けれど今になって

先生の言葉がうれしく

書き続けて来てよかったと思う

心や身体がいくらか軽くなったように

感じている

なんにもわからんものが

書こうと思うと骨が折れた

何回も投げすてていった原稿

やはりまた思いなおして書き続けている











長い廊下を伝わって

部屋に帰ると一番先に

唇を出し 生けた花びらをなめてみる

見えないけれど

今日は私の坐る方に向けて生けてある

うれしさがこみあげてくる

外から帰って部屋に入ると

自分が飲んでいる 薬の匂いで一杯

だから花が好き

花の香が私を慰めてくれる



香山末子(金末子)さんの略歴
1922年1月27日、韓国慶尚南道晋陽群晋城面温水里に生まれる。1941年、夫のあとを追って渡日、1942年に第一子、1944年に第二子を出産。同年発病し、1945年12月8日、第二子を背負って栗生楽泉園に入所した。1996年5月4日死去。合同作品集『トラジの詩』(1987、晧星社)、合同詩集『骨片文字』(1980、晧星社)、第一詩集『草津アリラン』(1983、梨花書房)、第二詩集『鶯の啼く地獄谷』(1991、晧星社)、第三詩集『青いめがね』(1995、晧星社)『エプロンのうた』(榎本初子編、2002、晧星社)。



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芋飯


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サツマイモがイノシシによって全滅したので、農業仲間から売ってもらった。赤土の土質で、おいしいサツマイモである。

その芋を使って芋飯にした。3合の白米を洗い、酒50CCと水を入れ、3合の水加減にし、塩をひとつまみ入れ混ぜる。

乱切りしたサツマイモを入れ(置き)、炊きあがったら混ぜて出来上がり。




インゲンの蒸し煮

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サツマイモを買いに行って、もらったインゲン。

無水鍋に半分に切ったインゲンを入れ、大さじ2の水を入れ、ニンニク醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。

出荷の時に「はねた」インゲンと聞いたが、上質のインゲンだった。



塩サバ

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イタリアンパセリ、サラダエンサイ、タマネギのサラダ

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イタリアンパセリは粗みじん切り、サラダエンサイはざく切り、タマネギはスライスして皿にとり、手作りドレッシング(大さじ1の酢とみりん、大さじ2の醤油、小さじ1のゴマ油にニンニク1片をすりおろして混ぜる)で。
 


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栗生楽泉園  香山末子さん(5)



空に座って


澄んでいる空 真っ青な空

二十何年も見ないんで

おあずけ おあずけ

これからも何年も何年も死ぬまで

おあずけしたまま

見るのはもう夢だけ

真っ青で

澄んでいる空色が

あの空の上でピーンと張っている

手でさわったらどんな感じだろうな

毎日毎日外科通いしている

繃帯を今日も巻いてもらって帰る

うっとおしいこと

あのピーンと張った空の中で

じゃぶじゃぶと

洗えたら

なんぼか気持がいいだろうな

いっそ あの空に上って空の上で坐って

空を撫でていたら━━

そんなことばかり考えて









母の面影


お母さんも日本にきていた

お母さんは朝から晩までため息をついて

私の病気を嘆いていた

私が家に戻って半年後

お母さんは心が変ったように

国へ帰ると頑張りだし

言葉もわからん、末子が病気になっては━━

情けない 情けないと繰り返して

私が入園すると帰って行った

重い心を私一人が背負っているようだった


それから三年たったある日

お母さんが亡くなった、と

おじさんからの便りであった

私は一晩中闇の中を歩き廻わりながら

お母さんの面影に向って

掌を合わすばかりだった









汐風


十五銭のうどん一杯

うまい、匂もいい

あんなうどんは

もう戻らんだろうな・・・


夜中の十二時

豊橋の駅

最終列車は止まった

みんな店を閉めて

静まっていたが

店屋のおじさんに

特別にたのんで作って貰ったうどん

十五銭か二十銭の

あのうどんを食べた時は

病気もない

何んの苦労もなかった

大きな希望に燃えて

先に日本へ来ている主人の

そこに胸の思いは走っていた


唱和十六年三月十日

豊橋の駅に着いた時には

真暗い駅で

夜明けまで待っていた

汐風が冷たく

一番電車を待つ時間が永かった


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栗生楽泉園  香山末子さん(4)




唐辛子のある風景


私の古里は わら屋根ばかり

秋になると わら屋根に

真赤な唐辛子が干される

どの家の屋根も

秋空のもとに唐辛子が映えて

眼に痛い程だった

日本の屋根には

真赤な梅干が

かごに詰まって土用干しされている

私は発熱のたびに

あの赤い梅干を口にする

韓国のあの真赤な景色は

今どうなっているだろうか?

眼に浮んで消えない熱のある日










私の指と眼


わたしには カセットのふたを開けて

テープを入れる指がない。

ずうとずうと以前

わたしも指を持っていたのに、

四、五年前から、

指がなくなった。

外科にみんなあずけてある

眼も二十五年前

手術でとって

先生にあずけてある。

わたしが死んで

小さな箱に納まるその日

先生が

「香山さん、眼をかえすよ、

なんでもいっぱい見ることだ・・・」と言い

外科の看護婦さんは

「香山さん、指を返します

どうぞ何んでも自由にお使いなさいね・・・」

そういってくれるかな?

そういってくれるのを

わたしは

胸の中でしきりに願っている










忘れていた韓国


カセットテープに

喋りかけ 戻して聞く

忘れていたふるさと

韓国

韓国人ということを忘れていた

韓国人ということを思い出しても

すっかり忘れてしまった言葉

思い出さん国の言葉

発音だけにはまだ韓国が

そっくり残っている

みんなといっしょに

笑い喋って

私は

韓国を忘れていた

毎月二十日には

給与金 支払いの放送をする

そのつど

そのつど

すぐまた

韓国人を忘れ大きな顔をして

皆と一緒に

笑い 喋っている私


月に小遣いが八百四十円

淋しかった

けれど今では

みんなと同じ金額になりうれしい

山の病院で

心も 小さく丸まったようになり

悲しく淋しい時もあった

でも地震があっても壊れそうにない

あの立派な納骨堂に

皆と一緒に

私も納まることだろう



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栗生楽泉園  香山末子さん(3)



私の誕生日


一月二十七日

電話が入って

ハイどうぞ

言ったとたんに

━━誕生日おめでとうございます

今日は香山さんの誕生日よ


東京の友だちの声

━━当の私が忘れていたのに

━━私は忘れないわよ━━ほほほ

忘れられない声が

電話の向こうで明るくした









私の心


四十九歳の時

訳もわからず書き始めて

二十年が過ぎた


夢見るほど気になっても

いい詩は書けない

今年こそ

来年こそはと思って月日が流れる


ほっと気持ちの休まる

詩を書いてみたいと願っている










妄導線今と昔


缶からに石ころ入れて

カンカンと杖で叩けば

カランカランと缶が鳴る

はるか向こうの

右へ曲ってるか

左へ曲っているか

缶からが教えてくれる

今は昔

妄導線はハイカラになって

音楽が流れ青空に響いて鳴る

つい音楽に聴きほれていると

道に迷って困る

ハイカラは

うっかりできない









お風呂


目が見えなくなってから

治療とお風呂に

やっと一人立ちできた頃

風呂に行くと

みんなが━━この頃はえらいな! とほめてくれる

絣のモンペは膝がうすくなって

下着が見えはじめた

上っぱりの襟は破れてきて

私が歩く調子に揺れている

━━頭は角刈りで威勢がいい と言われ

━━ちょっと座れや と言われて

私が座るとモンペの膝あてを縫ってくれる人

━━白くてもいいやな と襟も直してくれる

━━女っぷりが上がったぞ

━━ああいい女になった

と目の見えない私を相手に楽しんだ人々

みんな遠い昔のこと

今は私と同じ齢をとって

職員介助を受けている



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タジン鍋

 
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タジン鍋の下敷きにタマネギのスライスを入れ、ナス、ピーマン、パプリカ、オクラを適当に切って入れ、ベーコン3枚を半分に切って入れ、ニンニク醤油のニンニク2個を薄切りして入れ、ニンニク醤油で味付けし、胡椒をふり、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。



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栗生楽泉園  香山末子さん(2)


朝湯


朝の四時から五時が

私の入浴の時刻

やっと支度をととのえて

窓を開けて外を眺める

外はそよそよと風が吹いて

はるか遠くまで流れて行く

草の色や葉の恰好までが

みんな見えそうな感じ


ビニール袋を足に被せ

足首のところでゴム紐で止める

そんな苦労も

あの風にのってとんでいってしまったようだ










梅の花


なぜても感じのうすくなった私には

花など縁遠いものと思っていたら

耳鼻科の婦長さんが

新聞紙に包んだ大きな梅の枝を渡してくれた

私は匂いをかいで思わず唸ってしまった

「香山さん いい香りを嗅いだ時ぐらい 軽い声を出しなさい」

婦長さんの声ははずんでいる

しばらくして私は

去年梅の花と会わずじまいだったことを思い出す









朝焼け


男の付添さんが大きな声で

━━朝焼けだ━━

と教えてくれた

ぶっきらぼうないい方だけど

私の暗い気持がとんでいく


朝焼けの真赤な空の色

だが強い太陽が昇ると

消えてしまう

いつまでもつかまえて欲しい

今日の朝焼け


今日一日

昔見た朝焼けの色を思ってみる



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栗生楽泉園  香山末子さん(1)



カラーテレビ


初めて東京から来てくれたお客さん

暫く話をしていたが

「香山さん、失礼な事聞いていいですか」

失礼な事聞いていいかと言われた時

私は男のことばしか言えず

俺が俺がと使っていることか

それとも、頭を刈り上げていることか

てっきりその話だろう

そう思い込んでしまった

「見えないのにどうしてカラーテレビが入っているの」

私の思っていた話と違って

チョッピリきまりが悪かった

「白黒の小さなテレビでもいいんでしょ」

盲人の耳は

耳と目の両方を兼ねている

カラーテレビは白黒テレビより

遥かに音がいい

離れたり、くっついたりの若い男女

熱がいっぱい燃え上がるドラマ

始まる時、終る時の音楽は

きれいで柔らかく、いい音

出て来るドラマの若い衆に

年も忘れ、盲人ということも忘れ

頭の中、胸の中で

昔を振り返って

最高にいいぞ

来たお客さんは

「へんな事聞いて馬鹿みたい、おれ本当馬鹿みたい」

そんなふうに云って帰っていった










暗い原稿


沢山な詩原稿を持って行って

一つくらいは合格するだろうと思っていたのに

━はい書き直し、と云われて帰る足どりは重い


やっとの思いで帰ったところへ

栗林先生が面会に来てくれた

私は先生に原稿を見て貰った

先生は何も言わずに他の話ばかり

やきもきしている私へ

帰りぎわ

━香山さん貴女は笑い声と大きな声が似合います━

━暗い詩は似合いません━

そう云って出て行ってしまった









面会


四十年ぶりに姪と再会した

「おばさーん」の一声で

何を喋っていいのかわからない

撫ぜてみると

背が高くてがっちりとした身体

姉さんに似て大きいね・・・

と言っても言葉が通じない

彼女が何か云っても私にわからない


私の指のない手を握って

泪をすすっていたが帰って行った

三つの時別れた彼女の姿が浮かんで

韓国の話や姉さんのこと

山ほど話があったのに

胸がいっぱいで言葉が出ない

言葉がわからない

私は一晩中眠らず闇に残された



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栗生楽泉園  古川時夫さん(13)



わが友は傷の癒ゆるを待ち得ずに残雪の北海道へ帰りて行きぬ




雪混る風に真向い探りつつ盲導鈴ひびく坂を登りぬ




桜桃の熟しておらんふるさとの会津に似たる風の匂い来




配分する品に番号の札をつく盲人一九三名に届きたる服




幾年も充員運動続けおるにわれらのたのむ医師は去りゆく




八百の入園者がいるわが園に七つの宗教と六つの教堂




盲いわれ七つの花の鉢守りて高原の冬ようやく越しぬ




蕗の薹は咽喉に効くよとともどもに咽喉痛みし友は摘みきてくれぬ




園内の残菜処理場に餌を求め山の獣ら寄りて来るらし




食い違う話分かりて高笑いする耳の廃たる
浅井あいさん




朗読の奉仕者にまじる小学生小学読本声上げて読む





古川時夫さんの略歴
1918年会津若松市生まれ。1930年徴候が現れ1937年草津で点灸治療。1941年4月1日栗生楽泉園入園。1945年作歌を始める。1946年失明。1948年気管切開、カニューレを使用。1953年「潮汐」入会。56年結核を病む。1960年日本共産党入党。1964年カニューレをはずす。1969年新日本歌人協会、1970年「群馬歌人」に入会。詩集『ながれ』。平成2年6月13日没。『陸の中の島』(1956年)『盲導鈴』(昭和32年)『山霧』(昭和41年)『身不知柿』(1976年)『冬の花』(昭和53年)「凍雪』(昭和63年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『高原短歌会合同歌集』(平成4年)


古川時夫さんにとって文学とは「生きていくうえでとうしても必要な心の羽搏きだった」と書かれているが、そのハンセン病文学に日々、癒されている。

平成2年(1990年)に亡くなるまで、44年間の盲目、16年間の気管切開(カニューレ)を、よくぞ生き抜かれた。




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ナンキンの煮物


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乱切りしたナンキンを無水鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、大さじ2の水を入れ、煮立ったら混ぜ、極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。




ゴーヤとツナ缶のサラダ

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ゴーヤは小口切りして塩をふってもみ、15分ほど置き、水で洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れる。タマネギのスライスを入れて混ぜ、油をよく切ったツナ缶を入れて混ぜ、マヨネーズとポン酢で味付けして出来上がり。




ニンニク醤油
    
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ニンニクの鱗片をはずして、皮をむき、水洗いして瓶に入れ、醤油を注ぐと出来上がり。1日常温に置き、その後、冷蔵庫で保存し、1週間ほど経過したら使える。

醤油が少なくなったら補充して、2~3ヶ月で使い切る。



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栗生楽泉園  古川時夫さん(12)



谷越えて友が摘みこし鈴蘭をかめにさしたり溢るるばかり




らい園に病みつぐわれは給食のアイスクリーム食いぬ二十年ぶり




大いなる拡張管の挿入に二人の医師はまどえるごとし




せばまりし気管容易に拡がらず今年に入りて十五たびの手術




かぐわしく春は匂えり掌に乗せてもらいしたらの芽料理




カニューレをはずす手術を明日にひかえ看護増員の闘争に加わる




塞ぐよと声をかけくれて先生はわれの気管を縫いはじめたり




わが咽喉に十七年間使用せしカニューレのかず百を越すらん




盲人将棋われもようやく覚えきてこの頃駒の重ね打ちせず




部屋隅に友の亡骸安置して通夜はじまるをわれら待ちおり




祭壇の十字架に名を記すとき友の本名はじめて知りぬ




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栗生楽泉園  古川時夫さん(11)



カニューレをはめいる咽喉の腫れおれば枕低くして今宵は臥しぬ




秋毎に
身不知みしらず
を送り来ぬ父なき後は兄が代りて




種子もたぬ身不知柿を食いながららい病むわれの生命思ほゆ




夜よるに乾きて痛む盲眼を閉さぬ瞼の手術受けたり




支給さるる月二百枚のちり紙は気管
切開きりおるわれには足らず




カニューレをはめいるわれは喋らんと友等の声の静まり待ちぬ




唇のよく合わさらぬ口の中に冬のつむじ風の砂が吹きこむ




ゴールデンウイークはいまいまし気管治療を今日もなされず




順調に治療すすみてカニューレが十五年ぶりに取れるかも知れぬ




二十八度の手術うけたるわが咽喉も癒ゆることなく年暮れんとす



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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