あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

北條民雄さん 続癩院記録(1)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P560~P562を抜粋しました。


 癩院にはどこの療養所でも親子、或は兄弟が揃って入院しているのが少なくない。と言うよりも半数以上は親兄弟を持っており、これによっても如何に家族間の伝染が激しいかを思わせられる。一体癩菌が結核その他の慢性病に較べてずっと伝染力が弱いということは医学でも言われていることであるし、また患者数の激増等のない点から考えても頷けるが、やはり家族間では長い間の接触や、幼年期の最も伝染し易い時期に於ける病父母との接触等によって伝染がたやすく可能なのだろう。

 『(前略)お正月の五日頃、愛生園のお父さんから、年賀状が届きました。お母さんが封をお切りになると、陽子さん清彦さんと書いた手紙も入っていました。お母さんは、其の手紙を私に渡して下さったので、すぐその手紙を読みました。
 陽子ちゃん清ちゃんおめでとう。皆んな無事で楽しいお正月をしましたか。お父さんはお前たちと別れ別れのお正月で何となく淋しい心持のお正月でした。早く此の父も病気をなおして、家へ帰り、一家揃った楽しいお正月をしようね。今頃、そちらは雪が沢山積もって居ることでしょうね。けれどこちらは大変暖かく、梅の花が咲いています。(中略)
 それからは、お父さんのお手紙が待遠しくてなりませんでした。郵便屋さんが通ると、手紙が来ないかしらといつも表へ出て見たりして居ました。
 私は其の中に病気になってしまいました。病気になる前はどうしてか、私は眠くて仕方がありませんでした。学校の授業時間にもこくりこくりと居眠りばかりして居ました。
(中略)
 其の中にお父さんも帰って来ました。其の日、私はお母さんの後について、畠へ行って居ました。妹の悦ちゃんも、弟の清ちゃんも学校へ行って居りました。そうして、「お母さん姉さんただ今」と言って帰って来ましたが、ざしきにお父さんが居るのを見て、不思議そうにじっと見つめるのです。私たちが「だれか分る」って言うと「ううん知らない」と言って頭をふっていました。するとお父さんは「忘れたろう、もう長い事会わなかったからな」と言って笑って居ました。
 其の夜は一家そろって楽しい、嬉しい夕ごはんをいただきました。それからお父さんはおいしゃ様のように私たちの体を見ました。そうすると、私の外に、お母さんと弟が病気でした。そして「姉さんも兄さんも妹も病気と言う所はないようだが、体が弱かったから一度あちらで見てもらわなければいけないだろう」とお父さんは言われました。私はこちらへ来ると言う事をとなりの光ちゃんだけに知らせました。(後略)』━━第六巻第六号『愛生児童文芸』所載。尋六、陽子作━━
 
 これは一例であるが、これに類した事実は実に多いのである。
 私の病院には今百名あまりの児童がいるが、これらの子供たちも殆どが親か兄、或は姉などと一緒に入院しており、中にはまだ十歳に足らぬ幼児の姉弟などもいる。その姉弟は姉が十歳、弟は八歳で今年学園へ入学したが、それでも病気の点からいうと私などよりもずっと先輩で、入院してからでももう五六年にはなるのである。弟の方などは珍しいくらいの早期発病で、三つくらいのうちからはや病者となって入院していたのである。
 
 まだ寒い風の吹く三月初めの頃十二歳の少年が入院した。病気は軽く、眉毛は太く、くりくりとした大きな眼は田舎の児らしく野性的な激しさで輝いていた。が、右足を冒されていて関節がだめになっており、歩くと足を曳きずって跛をひいた。この子は叔父に連れられて来たのであるが、別れる時になると医局の柱にしがみついて大声で泣き、その夜も一晩泣き通した。実の父親とは八年前に生別したまま、叔父に育てられて来たのだそうである。
 
 ところが、この少年にとっては全然想像することも不可能になっていたのであろうその父親は、やはりこの病院に入院しており、病み重って重病室に呻吟していたのである。勿論間もなく少年も父のいることを教えられたが、しかし、これがお前のお父さんだ、と重症の父親を示された時、この少年の神経はどんなにふるえたであろう。父親は高度の浸潤にどす黒く脹れ上って、腎臓病者のように全身がぶよぶよになっており、あまつさえ喉頭癩にやられた咽喉には穴があき、カニューレでかろうじて呼吸をし、声は嗄れて一声出すたびに三四度もその穴で咳する有様である。━━実は私がこの親子を初めて知ったのは、この父親の入っている病室の付添を頼まれた時のことで、それ以前からその少年が入院したことは知っていたが、父親がいようとは夢にも思っていなかったのである。少年は毎夜父親の許へ来、何かと世話するのであった。当直をやっている夜など、ちょろちょろと廊下を伝って現れ、当直寝台の上で本など読んでいる私を見ると、ぺこんと一つ頭を下げてニコッと笑い、父親の枕許へ寄る。また私がT氏に教わりながらカニューレの掃除をしてやっているところへやって来たりすると、少年は恐怖と好奇心との入り乱れた表情で父親の咽喉にあいている直径二分くらいの穴と、その穴から抜き出したカニューレの管に細長く切ったガーゼを押し込んだり抜いたりしている私の手許とを見較べるのであった。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

北條民雄さん  癩院記録(6)

ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P546~P549を抜粋しました。


 「ちゅうしゃだよう━━注射だよう。」
農園や印刷所や豚舎などで働いていると、遠くの方からそういう声が微かに聴こえて来る。「ああ、注射が始まったなあ。」と彼等は、鍬を捨て文選箱を投げて注射場へ集まって行く。大楓子油の注射である。

 注射は医局と、風呂場にくっついている外科の出張所と二ヵ所で行われる。遠くで働いている患者達に報せるためにメガホンでどなるのである。早く来た者から順にずらりと列を作って、自分の番の来るのを待っている。或る者は腕をまくり或る者は臀をまくっている。看護婦がぶすぶすと針を刺していく。五グラムの注射器であるから、針は太く、ここへ来たばかりの者はちょっとびっくりしてしまうが、患者達は平気である。自分の腕や股に、畳針よりちょっと細いくらいの針がぶすりと突きさされるのを平然と眺めている。顔をしかめ、息をつめて「ああ痛い。」と大げさな表情を作って見せると、看護婦は笑いながら、
「眼が醒めたでしょう。」
「ああ全く眼が醒めた、こら、こんなに汗をかいたぜ。」
が、その実は麻痺していてちっとも痛くなかったりする。そして帰りにはしみじみとした気持ちになって、
「一本注射をうつ度に一つずつ結節が無くなって行くといいんだがな。」
「大して効かんのが判ってるんだからなあ、気休めだ気休めだ。」
「しかし、大楓子は全然効かんのかなあ。」
「いや、確かに効目はあるそうだ。完全に治りきることは出来んが。」
「しかし雑誌に書いてあったよ、再発後は丸切り効かないって。」
「そんなことあるもんか、ようく見てみろ、大楓子をやらん奴はみな早く重って行くよ。やってる奴は重るのが確かに遅い。それから重くなっても、大楓子やってる者は膿があんまり臭くないそうだぜ。こりゃ効いている証拠だい。」

 大楓子が効くと力説することが自慰のようにはかない夢であるにしろ、やはり唯一のこの治療薬を全然無価値のものとは思いたくないのである。

 しかし中には全くあきらめている者もある。そして注射するのはただ永年の惰性であったり、また全然注射場へ現れないのもある。だが殆どが、大して効果のないものだということを知っており、まあやらんよりはましだろう、というくらいの気持ちである。

 これはこの病院にもう二十年余り暮している人から聴いた話であるが、なんでも昔は、患者達が注射というと奇妙に恐怖したり嫌悪したりして逃げ廻って注射されようとしない。そこで仕方なく医局から大楓子注射の懸賞が出されたという。つまり一ヵ年のうちの注射の数を記録して、最も多いものに賞品が与えられたのである。

 それから較べると今の患者はずっと向上しており、注射しない者は非常に少数である。一体に癩者は医学というものを信頼しない傾向がある。それは今まであまりに幾度も医学にだまされて来たせいであろう。時々新聞で誇大に取扱われる癩治療薬の発見なども、療養所内の患者はたいていが馬鹿にしていて喜ばない。「ふん治るもんか。」と彼等は呟く。しかも治療薬の出現を待っていないのではない。半ばあきらめながら、しかしひょっと意外な薬が、たとえば梅毒におけるサルバルサンのような薬が、発見されるかもしれないと夢のような希望をもっている。こういう希望が夢のようなものであることは意識しながら、やはり捨て切れないのだ。だから彼等は療養所で研究を続けている医者の言葉となると非常に信用する。それはその医者が永年の間癩ばかりを見、癩を専門に研究していることを知っていると同時に、他の医者のように誇大で断定的でないからである。

 たとえば、この前「金オルガノゾル」が発表された時も、患者は丸で相手にもしなかった。ところが一日院長が全患者を礼拝堂に集めて、この薬の内容を説明し、効目があると思われるから試験的にやってみたい、希望者は申し込んで欲しい、と述べると、忽ち信用して、申込みは文字通り医局へ殺到した。が、残念なことにこの薬は効果がなかった。
「結局、どんな薬をやったって効きやしない。」とみな苦々しく呟く。

 そういう訳で、彼等は学説よりも自分の体験を重んじ、先輩の言葉を信用する。大楓子油にしても、たとえ今もし医学が、これは全然癩に対して無効果であると発表したりしても、決して注射をするのをやめはしないであろう。たいした効目はないが、しかしやった方が良い、いくらかの効目はある、ということを経験の上で知っているからである。こういう常識的な経験に信を置く結果、意外な失敗をやることがあると共に、また癩者独特の治療法を発見することもある。

 そのひとつに「ぶち抜き」というのがある。誰がこれを考え出したのか私は知らない。しかし長い間のうちに何時とはなしに患者間で行われるようになったのだろう。

 それは両足に穴をぶち抜くのである。と言うと誰でも吃驚するに違いない。そこで説明を要するが、手っ取り早く言えば両足に一つずつ穴をあけて、そこから全身に溜まっている膿汁を排泄しようという仕掛なのである。足といっても、勿論どこへでもあけるのではない。やはり決まった場所がある。長い間の経験で自然とそこに定められるようになったのであろう。それは、内踝の上部三寸くらいのところで、比目魚筋の上に団子くらいの大きな灸をすえるのだ。間違っても脛骨の上にすえてはならないそうである。先日私の友人の一人がそれをやったから、一見しておくに限ると思って見に行ったが、何しろ団子ほどもあるもぐさ(決して誇張していない)がぶすぶすと燃え出すのだから物凄い。
「おい熱かないか。」
と言うと、
「麻痺しているからな。」
と彼は笑いながら、横から団扇で煽る。じりじりと燃えて行くと、皮膚がぶちぶちというような音を立てて焼ける。

 もぐさが全部燃えてしまうと、その焼痕は真っ黒の水膨れになってぶくぶくしている。その水疱を彼は無雑作に引き破ってしまうと、真赤にただれた肉が覗いている上に、消毒した新聞紙をべたりと貼りつけてぐるぐる繃帯を巻いて知らん顔しているのである。

 続いてもう一方の足を焼いたが、今度は少し焼け過ぎて、水疱をはがして見ると赤い水蜜桃に腐りが入ったように真中に芯が黒く出来て、更にその中に白いすじのようなものがべろべろと覗いていた。これにもまた同じく新聞紙を貼りつけるのであったが、誠に危険千万である。しかし彼は平気なものでそのまま翌日になると風呂へも入り、出て来ると新聞紙を新しいのと取りかえる。新聞には血膿がべっとりくっついている。

 こうして四五日過ぎると彼は、非常に足が軽くなった、夜もよくやすまれるようになったと言う。これは嘘ではないと思う。ぶち抜きをやるくらいの足はかなりひどく病勢の進んだ足で、勿論潰瘍や潰裂はないが(潰瘍や潰裂があればぶち抜く必要がない)完全に麻痺しており、また汗も膏も出ないで常に鈍重な感じがし、夏などは発汗がないから焼けた空気が足の中にいっぱいつまっているような感じで実際堪えられないのである。夜など床の中に入ると、足の置場に困り、どこへどう置いてみてもだるく重く、まるで百貫目の石が足の先にぶら下がっているような感じで、安眠が出来ないのである。だからぶち抜きは、なんと言うか、通風口のようなもので、効果は確かにあるそうだ。

 こうしてぶち抜くと、出来た疵が
治らぬヽヽヽヽように注意すると共に、またこれが動機で内部へ深く腐り込んで行き足を一本切断したりするようなことがないように気を付け乍ら、一ヶ月から二ヶ月くらい新聞紙を毎日取り換える。この貼紙は新聞紙よりも油紙の方が良く、傘に貼られた紙を破ってきて利用するのが普通であるが、新聞でも悪いということはない。無論消毒は十分に行われねばならない。そして一ヶ月なり二ヶ月なり経って、もう十分膿も出たし、足も軽くなったと思われると、今度はリバーノオルなり何なりをつけて疵を治してしまえばよいのである。医者はこういうことをあまり好まないので、やたらにぶち抜くことを許さないが、それは丹毒その他に対して甚だ危険だからであろう。癩者は皮膚その他の抵抗力が弱っているから丹毒などはすぐ伝染してしまうのである。


2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

夏野菜煮込み(ラタトゥユ)



IMG_6732.jpg IMG_6737_20170820183156a97.jpg IMG_6739_2017082018315836b.jpg
IMG_6741_20170820183159821.jpg
 IMG_6752_201708201831320f9.jpg IMG_6755_201708201831336ab.jpg  

熱した鍋に油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン1連の細切り、タマネギの順に炒め、残りの野菜(オクラ、ナンキン、ピーマン、パプリカ)を全て入れ、全体に油がまわったら、白ワイン、水、調理用トマトを入れ、煮立ったら弱火にしてコンソメ2個を入れ、20分ほど煮て、胡椒をふって出来上がり。



タジン鍋
  
IMG_6743_2017082018312861d.jpg IMG_6745_20170820183129695.jpg IMG_6749_2017082018313010c.jpg 

サケは15秒湯通しする。

タジン鍋の下敷きにタマネギのスライスを置き、ピーマン、パプリカ、オクラ、ミニトマトを置き、サケを置き、大さじ2のニンニク醤油で味付けし、胡椒をふり、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で出来上がり。

 


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

北條民雄さん 癩院記録(5)

ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP542~P544を抜粋しました。


 入院すると、子どもを除いて他は誰でも一週間及至二週間ぐらいを収容病室で暮らさなければならない。そこで病歴が調べられたり、余病の有無などを検査されたりした後、初めて普通の病舎に移り住むのであるが、この収容病室の日々が、入院後最も暗鬱な退屈な時であろう。舎へ移ってしまうと、いよいよこれから病院生活が始まるのだという意識に、ある落ち着きと覚悟とが自づと出來、心の置きどころも自然と定まって来るのであるが、病室にいる間は、まだ慣れない病院の異様な光景に心は落ち着きを失い、これからどのような生活が待っているのかという不安が、重苦しくのしかかって来る。それに仕事とても無く、気のまぎらしようもないまま寝台の上に横たわっていなければならないので、陰気な不安のままに退屈してしまうのである。

 舎へ移る前日になると付添夫がやって来て、舎へ移ってからのことを大体教えてくれ「売店で四五十銭何か買って行くように。」と注意される。その四五十銭がまあいわば入舎披露の費用となるのであって、たいていが菓子を買って行ってお茶を飲むのである。

 その日になると付添夫が三人くらいで手伝ってくれ、或る者は布団をかつぎ、或る者は茶碗や湯呑やその他の日用品を入れた目笊ををかかえてぞろぞろと歩いて行くのである。そうしていよいよ癩院生活が始まるのである。

 病舎は今のところ全部で四十六舎、枕木を並べたように建てられている。だいたい不自由舎と健康舎とに大別され、不自由舎には病勢が進行して盲目になったり義足になったり、十本の指が全部無くなったりすると入れられ、それまでは健康舎で生活する。ここで健康という言葉を使うと、ちょっと奇異に感ぜられるが、しかし院内は癩者ばかりの世界であるから癩そのものは病気のうちに入らない。ここへ来た初めの頃、「あんたはどこが悪いのですか。」という質問を幾度も受けたが、それはつまり外部へ表れた疾患部をさしているのであって、その時うっかり、「いや、癩でね、それで入院したんですよ。」とでも答えたら大笑いになるであろう。それは治療の方面についても言われることであって、癩そのものに対する加療といえば目下のところ大楓子油の注射だけで、あとはみな対症的で、毀れかかった自動車か何かを絶えず修繕しながら動かせているのに似ている。
 だから、不自由舎へ入らない程度の病状で、よし外科的病状や神経症状があっても、作業に出たり、女とふざけたり、野球をやったり出来るうちは、健康者で、健康舎の生活をするのである。

 不自由舎には一室一名づつの付添夫がついていて、配給所(これは院の中央にあって飯やおかずはここで配給される。食い終わった食器はここへ入れて置かれる。)へ飯を取りに行ったり、食事の世話をしたり、床をのべてやったりする。これは作業の一つで、作業賃は一日十銭から十二銭までが支給される。

 舎は各四室に区分されていて、一室十二畳半が原則的であると言えよう。他に三十二畳などというのもあるが、これはこの病院が開院当時に建てられたままのもので、今はただ一舎が残っている切りで、あとは六畳の舎が少しある。一室につきだいたい六人から八人くらいの共同生活が営まれ、この部屋が患者の寝室となり食堂となり書斎となり、また棋を遊ぶ娯楽室ともなるのである。

 男舎には、松栗檜柿などという樹木から取られた舎名がつけられ、女舎には、あやめ、ゆり、すみれという風に花の名が舎名としてつけらている。舎の前には一つずつ小さな築山が造られ、その下には池が掘られて金魚などが泳ぎ、また舎の裏手には葡萄棚などが拵えられて、患者達は少しでも自分達の住む世界を豊かにしようと骨を折る。ここを第二の故郷とし、死の場所と覚悟しているので、まだ小さな苗木のうちから植えつけて大きくしようとする。

 このあたりは土質が火山灰から出来ているせいであろう、常にぼこぼことしまりのない土地で、冬が来ると三寸四寸という氷柱が立ち、春になって激しい北西風が吹くと限界も定かならぬほど砂ぼこりが立って空間が柿色になってしまう。だから雨など降るとひどいぬかるみが出来て、足に巻いた繃帯はどろどろに汚れ、盲人は道路に立ったまま動きようもなく行きなやまなければならない。そこで院内の幹線道路には石が敷かれて歩行を助けるように出来ている。まあこれが病院のメインストリートで、病舎はこの石道に沿って建てられている。

 そしてこれらの石道は、病院の西側にある医局に向って集中し、医局の周囲には十個の重病室が立ち並んでいる。重病室からちょっと離れて収容病室があり、更に離れて丹毒、チブス、赤痢等の病人が入る隔離病室が三棟ぱらぱらと散らばっている。その向こうは広々とした農園と果樹園になっている。青々と繁った菜園の彼方に納骨堂の丸屋根が白く見え、近くには焼場の煙突が黄色い煙を吐いている。



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

北條民雄さん 癩院記録(4)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP553~P554を抜粋しました。



 じめじめと湿ったむし暑い日が続いたり、急に寒くなったりして、気温の高低が激しく変転すると、定って腕や足がしくしくと痛み始める。癩性神経痛が始まったのである。
 気温の変転は病体を木片のように翻弄する。神経痛の来ないものには急性結節(熱瘤と患者間に呼ばれてい、顔面、手、足などに赤く高まったぐりぐりが出来る。押すとびいんと痛み、化膿するのもあるがたいていは化膿しない。大きさはまちまちであるが、最も大きいもので団子くらいもある。外部からはちょっと高まっている程度にしか見えないが、触って見ると飴玉を含んでいるように固くぐりぐりと動くのが内部にある。たとえてみれば頭だけをちょいと海面に覗かせている氷山みたいなものだ)が盛り上がって来て発熱する。四十度を越える高熱も珍しくない。
 腕も顔も繃帯で包み、手袋をはめて頭から蒲団を被って寝ていなければならない。
 神経痛は定って夜が激しい。凄いのにやられると痛む腕、足を切り飛ばしてしまいたくなる。義足だったらいいなあと思うのもこんな時である。痛みの堪えられるうちはアスピリンを服用して我慢する。ぽかぽかと体が温まって来ると痛みは大分鎮まり、時には睡眠することも出来るが、烈しくなって来れば鼻血の出るほど服用してもアスピリンなど効きはしない。
 そこで診察を受け、初めて重病室に入室して加療する。これは急性結節の場合も同じである。
 
 重病室には五人の付添夫がついていて、こうして入室した者の世話をする。神経痛、熱瘤に限らず、舎にいては世話の出来ない場合、治療に困難な場合等には重病室に這入るのである。だからここには結核、肋膜炎、関節炎、胃病、心臓、腎臓等々あらゆる病気が集まっている。一室につき十六七から二十くらいの寝台が二列に並んでい、その上に怪しく口の曲ったのや、坊主頭や、鼻のない盲人などが、一人づつ横たわっている。
 
 入室することが定まると、収容病室から舎へ移った時のように、同室の人達が、蒲団、食器その他を持って、入室者を中央に挟み、或はリヤカーに乗せて送って行く。
 
 もし誰か、この地上で地獄を見たいと欲する者があるならば、夜の一時か二時頃の重病室を見られるようすすめる。鬼と生命との格闘に散る火花が視覚をかすめるかも知れない。


2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

ナンキンの煮物


IMG_6720_20170819191054809.jpg IMG_6722_2017081919105699c.jpg IMG_6724_201708191910576a6.jpg
IMG_6729_20170819191100e4e.jpg

もらって冷凍していたエビは15秒湯通しする。

無水鍋に乱切りしたナンキンを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、大さじ2の水を入れ、煮立ったらよく混ぜて、エビを置き、極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。

たくさんもらったので後2回使える。鮮度のいいエビはナンキンと煮るとおいしい。





キュウリの塩もみ

IMG_6728_201708191910580f6.jpg   
 


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

北條民雄さん 癩院記録(3)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP549~P552を抜粋しました。

 癩患者にも趣味というものはある。いや、どこよりも癩院は趣味の尊ばれる所かも知れない。一番多くの人がやるのは投書趣味であろう。彼等はこれを「文芸」と称しているが、俳句などは文字通り猫も杓子もという有様で、不自由舎などでは朝から晩まで、字を一字も知らない盲人が「睡蓮や・・・睡蓮や・・・」と考え込んでいたりする。それから新聞紙上に表れる募集物に片端から応募するのを商売のようにしているのもいる。俳句・短歌は勿論、仁丹、ライオン歯磨、レートクレーム等々の懸賞、ものは附から標語に至るまで、なんでもかでも応募する。たいてい用紙は官製はがきだから、一種に対して一銭五厘だけ投資すればすむ。そして投函した次の日からもう胸をわくわくさせている。なんとなく当るような気がしたりするのである。当らなかったって一銭五厘の損だ。もし一等にでも当ればこりゃ大したものじゃないか、と彼等は言う。
 
 そしてまた時には素敵な大ものを当てることがある。立派な座布団を三枚か五枚当てたのもいるし、東京市の人口調査の時に出た朝日だったかの懸賞に、二等を当てて金二拾円の副賞と東京市長の銀盃を貰ったのもいる。
 その男は銀盃が送られて来ると、もううれしくてたまらないので、その箱を抱いたまま各舎をぐるぐる巡って、息を切らせながら、
「昨日新聞記者が来たよ。あなたは東京市の人口をどういう方法で知りましたかって訊ねるんだ。だから俺、子供の頃から統計学が好きでした、と答えてやったさ。」
 そして彼は汗をふきふき次の舎へ駈け出すのだった。
 
 こういうのがあると他の投書家達は無念の歯がみをしながら、よし今度こそは、と投書熱を上げるのである。
 
 その他、趣味らしい趣味に、小鳥飼、花造り、盆栽、碁将棋など色々ある。花造りはかなり熱心なのが多く、毎年秋が来ると菊大会が催される。私の舎から二つばかり向うの舎にも菊造りに熱心な人がいるが、何時行って見ても三十くらいもある鉢の中でうづくまって世話している。その人のいる舎は狂人病棟の派出所みたような舎で(つまり狂病棟が満員になるとこの舎へ這入る)彼はその付添をやっている。菊にうづもれて手入れしている彼の横で、何時も狂人がにやにや笑ったり独言を呟いたりしている。
「小さな鉢に良いのが咲きましたら上げますよ。机の上に置いて下さい。」
 と彼は先日も私に言ってくれた。
 
 また、不自由舎などには、義足趣味、繃帯趣味などというのもあって、まあいわば生活派と言っていいのがある。


  繃帯は
  白い 小ぢんまりした丸顔で
  チョコンと座って居る

  丈夫なとき
  働いて居るとき
  すっかり忘れられて繃帯よ
  お前は戸棚の隅に転げて居る

  ああ しかし
  俺が傷つき痛んだとき
  繃帯よお前はぐるぐる伸びて
  疼く患部を優しく包み温める
  俺の唯一の保護者である

  繃帯の長さは誰でも計れるだろう
  だが 俺は現在いま
  計れぬ深い繃帯の愛情を
  感謝してゐる 浸ってゐる

 これは昭和九年の冬、長島愛生園で死んだ坂井新一君の遺稿詩集『残照』の中の一篇である。
 乾性即ち神経癩の患者にはたいてい一つは蹠疵というのができている。主として踵に出来るのであるが、麻痺のため痛みを感じない。それで歩行の不便を感ぜず歩き廻るので何時まで経っても治らないのである。これは一生疵と言われているほどで、だから繃帯なども毎日毎日幾年も続けて巻いたり解いたりしなければならない。こうして続けているうちには何時しか繃帯を巻くことに趣味を覚えるようになるのである。
 指が曲って、肉が落ち、他目にはいかにも巻くのに骨が折れているようであるが、本人は楽しそうですらある。だから見るに見かねて「巻いてあげましょう。」と言っても、決して他人に巻かせない。念入りに、こつこつと自分で巻く。
 
 次に義足であるが、これは院外の人達が用いるように三十円も五十円もする法外なものではなく、簡単に言ってしまえばトタンの筒っぽである。先の方が細まっていて、先端に小さな足型がくっついている。中には全然くっついていないのもある。足型は単に体裁で、小さいほど歩行に便であるそうだ。友人の一人はこれを十銭の義足と称しているが、これは足を切断すると同時に医局から交付される。
 が、義足に趣味を持ち出すと医局からくれる不恰好なのでは承知出来ないので、義足造りの所へ行って足にあわせて造って貰う。義足造りは今院内に一人しかいないが、なんでも馬糞紙で造るのだそうだ。ふくらはぎはふくらませ、向うずねはそれらしく細くし、馬糞紙を幾枚も幾枚も貼り合せて板のようにして立派な義足が出来上る。
 趣味が強くなって来るともう一本では間に合わない。四本も五本も造って、外出用、部屋用、式場用等々、みな別になっている。その男の押入れを開くとずらりと義足が並んでいる。外出用のには足袋をはかせ、靴下をはかせる。式場用はその場にふさわしく飾る。作業の時に使用するのはたいてい医局から交付された頑丈なのを用い、この義足で水桶もかつげば鍬もとる。
 彼等のいい草がふるっている。
「義足くらい便利なものはないぜ。ちょっと休みたかったら腰かけになる。横になりたかったら枕になる。神経痛もしなければ蹠疵も出来ない。普通の足をもってる奴の気が知れない。」


(注)1930年(昭和5年)に国内初の国立療養所として長島愛生園は開園した。その時、光田園長が二十年心血を注いだ多摩全生病院から光田園長に心服する患者85人(開拓患者と呼ばれている)が移って来た。その後1933年8月には同じく多摩全生病院から坂井新一さん、志樹逸馬さんらが転園した。北條民雄さんが多摩全生病院に入院したのは1934年5月であるから、坂井さんや志樹さんとの面識はない。坂井新一さんは1934年死去、志樹逸馬さんは1959年死去。



2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

イカの緑酢和え



IMG_6707_201708181818234c2.jpg 
IMG_6708_20170818181750e11.jpg IMG_6711_20170818181752814.jpg 
IMG_6717_20170818181756704.jpg

まず緑酢を作る。キュウリ1本とニンニク1片をすりおろし、大さじ2の酢、大さじ1の醤油、蜂蜜を入れて混ぜる。

もらったイカは解凍して2分ほど茹でて冷水にとり、緑酢に入れ、混ぜると出来上がり。「緑酢」と「いかの緑酢和え」を参考にした。



パプリカとミニトマトの煮物

IMG_6699_20170818181820e0e.jpg IMG_6713.jpg IMG_6716_201708181817556bb.jpg

半分に切ったミニトマト、パプリカ、ピーマンを鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして10分ほど煮て、汁気が少なくなったら出来上がり。



ゴーヤの酢の物

IMG_6703_2017081818182234f.jpg  

ゴーヤは小口切りして塩をふってもみ、15分ほど置き、水で洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れる。各大さじ1の酢とレモン果汁、蜂蜜を入れ、混ぜて出来上がり。



ソーメン

IMG_6694.jpg IMG_6697_20170818181819085.jpg  

薬味は青シソとミョウガの粗みじん切り。
   
 
2030年 農業の旅→ranking

このページのトップへ

北條民雄さん 癩院記録(2)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP544~P546を抜粋。


 
 病院とはいうが、ここは殆ど一つの部落で、事務所の人も医者も、また患者達も「我が村」と呼ぶのが普通である。子供は午後から学校へ通い(午前中は各科の治療を受けねばならない)大人達は朝早くからそれぞれの職場へ働きに出かけて行く。
 
 仕事も一村に必要なだけの職業は殆ど網羅されていて、大工、左官、土方、鉄工、洗濯屋、印刷所、教員、百姓、植木屋、掃除夫等々、その上にここのみに必要な仕事としては、女達の繃帯巻き、不自由舎の人のガーゼのばし(一度使用された繃帯やガーゼは洗濯場で洗われる。それを巻いたり広げたりする仕事を言う)その他医局各科の手伝い、不自由舎・病室の付添など、失業ということはまずないようである。
 
 作業賃はだいたい十銭が原則であるが、仕事によってはやはりまちまちである。勿論強制的に就業しなければならないということはなく、それぞれの好みに従って仕事を選んで良いのである。義務作業といわれるものも二三あるが、これは交替で行われる。例えば重病室や不自由舎の付添夫が神経痛や急性結節で寝込んだりすると、健康舎から臨時付添夫が出なければならない。この場合も作業員は十銭が支給される。
 
 小遣いは一ヶ月七円と定められているが、それは自宅から送金されたものを使う場合であって、院内で稼いだ金はいくら使っても差支えない。だから働いていさえすれば小遣いに困るといういうことはないようである。また不自由になって不自由舎の人となり、或は三年五年と重病室で寝て暮したりする場合には、毎月いくばくかの補助金が下がる。
 
 女達の仕事としては前にも言った繃帯巻きがその主なるものであるが、その他には医局各科の手伝い、女不自由舎の付添などがある。また男達の着物を縫ったり、ジャケツを編んでやったり、洗濯物を洗ってやったりする仕事もある。
 そのうち、良い金になると評判されているのは洗濯と女の盲人のあんまである。
 あんまは上下三銭、洗濯は掛布団の包布が二銭、敷布が一銭、着物・シャツその他は凡て一銭というのが不文律になっている。しかしやはり数多くやり、いわば薄利多売的傾向をもっているので案外の金になるそうである。

 
 もっとも洗濯屋は、誰でもすぐ思い通りに開業するという訳にはゆかない。やはり永年ここにいた者でないと信用がないので、得意をもつ事が出来ない。得意先が出来ると毎日御用聴きに廻るところは、院外の商売と似ている。
 
 男達は仕事から帰って来ると、すぐ長い着物を着て女舎などへ遊びに行くのが多いが、しかし働き者はそれから農園に出て大根を作り馬鈴薯を作る。中には女房と二人で暗くなるまで土を返すのもあって、ちょっと平和な風景である。
 
 こうして作られた農産物は、炊事場に買い取られる。得た賃金は女達の半襟になり、腰紐に化ける。また独身者は農産物を炊事場に出すのを忘れてこっそり女舎に貢いだり、将を射んとせば先ず馬を射よで、相手の娘の兄のところへ提供して敵本主義をやる。女の方が男よりも癩に対して抵抗力が強いということは医学でも言われていて、病院には女が非常に少ない。だいたいのところ女は男数の三分の1で、だから癩者の世界では女は王様のようなものである。
「ちぇっ、女なんか。」男たちは一様に軽蔑したような口を利くが、実は内心女の顔色を窺っているのが多いようである。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

北條民雄さん 癩院記録(1)


少し長いので各単元ごと7回ほどに分けて(順不同で)更新します。
北條さんの描写は具体的でわかりやすく、おもしろい。
高浜虚子の来院が描かれているこの単元は2分ほどです。



 病院の中央に大きな礼拝堂がある。そこで毎月死者の慰霊祭が行われる。またそこは、活動小屋になることもあれば音楽会の会場にもなる。何か事件があると院長が患者達に何か説諭する。その時もこのお堂が利用される。所謂名士が参観に来るとここで一席弁じて行く。ちょっと患者会館と呼ぶにはふさわしい所である。
 
 名士たちはよくやって来る。主として宗教家であるが、時には大学教授も来れば大臣も来る。患者達がぞろぞろと集まって来るのを見ると、名士達は誰も同じ恰好に顔をしかめる。驚きと恐れと同情とがごっちゃになった表情で、しかし平然としようとして視線を真直ぐにしている。が、やはり気になるのでちらちらと坊主頭や陥没した鼻を眺めては、また急いで視線を外らせる。
 
 そして演壇に立つと込み上って来る同情の念に、たまらなくなったような声で口を開く。中には一時間も二時間も喋って行く人もあり、またほんの四五分喋って行く人もある。患者達はみな熱心に聴く。そして話が終ると同時に忘れてしまう。しかしほんの四五分しか喋らなかった人の言葉はよく覚えてい、尊敬しているようだ。
 
 高浜虚子が来院されたことがあった。氏は、この院内から出ている俳句雑誌『芽生』の同人達を主に訪問されたのであるが、患者達は殆ど総動員で集まった。氏はゆっくりと、誰にも判っている事を誰にも判るようにほんの五六分間話して帰られた。患者達はあっけないという顔で散ったが、しかしその五六分間の印象は強く心に跡づけられた。そして今もなお時々その時の感銘が語られている。
 
 患者達は決して言葉を聴かない。人間のひびきだけを聴く。これは意識的にそうするのではない。虐げられ、辱しめられた過去に於て体得した本能的な嗅覚がそうさせるのだ。


2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

ゴーヤチャンプル



IMG_6684_20170817183044f58.jpg IMG_6683_201708171831142b8.jpg IMG_6687.jpg
IMG_6691_20170817183048420.jpg

ゴーヤは小口切りして塩をふってもみ、15分ほど置いて、水で洗い流し、水気をしぼる。豚肉100gは15秒湯通しする。

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、豚肉、ゴーヤの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。




ミニトマトのマリネ

IMG_6675.jpg IMG_6676_20170817183109502.jpg

先にマリネ液を作る。酢とレモン果汁を各大さじ1、オリーブ油小さじ1、胡椒、蜂蜜を入れて混ぜる。

ミニトマトを半分に切って入れ、冷蔵庫で冷やして出来上がり。「プチトマトのマリネ」を参考にしている。



パプリカの蒸し煮

IMG_6673_20170817183138fc8.jpg IMG_6679_20170817183111dbb.jpg IMG_6681_20170817183112b6a.jpg

パプリカとピーマンを2~4つ切りして無水鍋に入れ、大さじ2の水と大さじ1のニンニク醤油を入れ、ニンニク醤油のニンニク2片を薄切りして入れ、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で蓋を開け、大さじ1のポン酢を入れ、混ぜて出来上がり。



キュウリの塩もみ
   
IMG_6693_20170817183050a3e.jpg  
  


2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



二つの死


  秋になったせいだろう。この頃どうも死んで行った友人を思い出していけない。それも彼が生前元気にやっていた頃の思い出ならばまだ救われるところもあるのだが、浮んで来るのは彼の死様ばかりで、まるで取り憑かれてでもいるかのような具合である。夜など、床に就いて眼をつぶっていると、幻影のように、呼吸のきれかかった彼の顔が浮き上がる。眉毛のない顔がどす黒く、というよりもむしろどす蒼く変色して、おまけに骨と皮ばかりに痩せこけて、さながら骸骨、生ける屍とはこれだ、と思わせられるようなのが、眼の前でもがくようにうごめき始めるのだ。それから湯灌してやった時に触れた、まだなまぬくい屍体の手触り、呼吸の切れるちょっと前に二三度ギロリとひんむいた巨大な目玉、呻き、そんなのばかりがごちゃごちゃと思い出されて来るのだから全く堪らない。昨夜の如きは遂に一睡もしないでその幻想に悩まされて明かしてしまった。そのため今日は頭がふらふらし、雑文でも綴るより仕方がない。が、おかげで詩のような文句を考え出した。
粗い壁。
壁に鼻ぶちつけて
深夜━
あぶが羽ばたいている。

 友人に見せたら、ふうむ、詩みたいだ、と言った。題は「虻」とするよりも私はむしろ「壁」にしたい。まあこれが詩になってるかどうかはこの場合どうでもよいとして、昨夜一晩私は壁を突き抜ける方法を考えたのだ。しかし突き抜けることが不可能としても、虻は死ぬまで羽ばたくより他、なんともしようはないのである。
(未完)


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



絶望


 
 十日に一度は、定って激しい絶望感に襲われるようになった。頭は濁った水の底へでも沈んで行くようで、どうにももがかずにはいられない。たいていは一日及至二日でまた以前の気持に復することが出来るが、ひどい時には五日も六日も続くことがある。食欲は半減し、脈搏が上り、呼吸をするさえが苦しくなる。四五日も続いた後では、病人のように力が失せてしまう。しかし、私は一体何に絶望しているのであろうか。自分の才能にか、それとも病気が不治であるということにか、社会から追い出されたということにか、或はまた蝕まれ行く青春にか。いやいや、私は━━。
 ぼんやりそんないいかげんなことを考えているともう夕食になってしまった。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

パプリカの佃煮



IMG_6661_20170816181528d03.jpg IMG_6657.jpg IMG_6667.jpg
IMG_6670_20170816181504ea7.jpg

パプリカを細切りし、ピーマンも少し入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、水を少し入れ、煮立ったら15秒湯通ししたチリメンを入れ、弱火で5分ほど煮て水気が少なくなったら出来上がり。

ピーマンより、肉厚のパプリカの方がおいしい。



調理用トマトとタマネギの煮物

IMG_6649_20170816181550c7c.jpg IMG_6651_20170816181551171.jpg IMG_6666.jpg 
IMG_6669_201708161815039c8.jpg

調理用トマトとミニトマトを鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、煮立ったらタマネギを入れ、水も少し入れ、再度煮立ったら弱火にして先日の大豆の水煮(小分けして冷凍)を入れ5分ほど煮て出来上がり。




オクラの薄切り

IMG_6653.jpg IMG_6655.jpg  

1分茹でて冷水にとり、薄切りしてカツオブシをふり醤油で。



ゴーヤの酢の物
    
IMG_6663_20170816181459234.jpg

小口切りして塩をふってもみ、15分ほど置いて水で洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れる。酢とレモン果汁を各大さじ1と蜂蜜を入れ、混ぜて出来上がり。



2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



柊の垣にかこまれて


 駅を出ると、私は荷物が二つばかりあったので、どうしても車に乗らねばならなかった。父と二人で、一つずつ持てば持てないこともなかったけれども、小一里も歩かねばならないと言われると、私はもうそれを聴くだけでもひどい疲れを覚えた。

 駅前に三十四年型のシボレーが二三台並んでいるので、
「お前ここにいなさい。」
と父は私に言って、交渉に行った。私は立ったまま、遠くの雑木林や、近くの家並みや、その家の裏にくっついている鶏舎などを眺めていた。淋しいような悲しいような、それかと思うと案外平然としているような、自分でもよく判らぬ気持ちであった。

 間もなく帰って来た父は、顔を曇らせながら、
「荷物だけなら運んでもよいそうだ。」
とそれだけを言った。私は激しく自分の病気が頭をかき廻すのを覚えた。私は病気だったが、まだ軽症だったし、他人の嫌う癩病と、私の癩病とは、なんとなく別のもののように思えてならなかった時だったので、この自動車運転手の態度は、不意に頭上に墜ちてきた棒のような感じであった。が、考えてみるとそれは当然のことと思われるので、
「では荷物だけでも頼みましょう。」
と父に言った。

 自動車が走って行ってしまうと、私と父とは、汗を流しながら、白い街道を歩き出した。父は前に一度、私の入院のことについて病院を訪ねていたので、
「道は知っている。」
と言って平然と歩いているが、私は初めての道だったので、ひどく遠く思えて仕方がなかった。
「お父さん、道は大丈夫でしょう?」
と聴くと、
「うん間違いない。」
それで私も安心していたのだが、やがて父が首をひねり出した。
「しかし道は一本しかないからなあ。」
と父は言って、二人はどこまでもずんずん歩いた。
「お前、年、いくつだった?」
と父が聴いたので、「知ってるでしょう。」と言うと、
「二十一か、二十一だったなあ。ええと、まあ二年は辛抱するのだよ。二十三には家へかえられる。」
 そして一つ二つと指を折ったりしているのだった。
 1934年5月18日の昼下がりである。空は晴れわたって、太陽はさんさんと降り注いでいた。防風林の欅の林を幾つも抜け、桑畑や麦畑の中を一文字に走っている道を歩いている私等の姿を、私は今も時々思い描くが、なにか空しく切ない思いである。
 やがて父が、
「困ったよ。困った。」
と言い出したので、
「道を間違えたのでしょう。」と
訊くと、
「いや、この辺りは野雪隠というのは無いんだなあ。田舎にはあるもんだが━━。」
 父は便を催したのである。私は苦笑したが、急に父がなつかしまれて来た。父はばさばさと麦の中へ隠れた。
街道に立っていると、青い穂と穂の間に、白髪混じりの頭が覗いていた。私は急に悲しくなった。
 出て来ると、父はしきりに考え込んでいたが、
「道を迷ったらしい。」
と言った。
 腰をおろすところもないので、二人はぽつんと杭のように立ったまま、途方に暮れて、汗を拭った。人影もなかった。遠くの雑木林の上を、真白な雲が湧いていた。
 そのうち、電気工夫らしいのが自転車で駆けて来たので、それを呼びとめて訊いた。父は病院の名を出すのが、嫌らしかったが、なんとも仕方がなかった。
 私達は引き返し始めた。

 それからまた十五六分も歩いたであろうか、私達の着いたところは病院のちょうど横腹にあたるところだった。真先に柊の垣が眼に入った。私は異常な好奇心と不安とを感じながら、正門までぐるりと柊を巡る間、院内を覗き続けた。
 
 以来二年、私はこの病院に暮した。柊の垣にかこまれて、吐け口の無い、息苦しい日々ではあったが、しかし二十三になった。私はこの中で何年生き続けて行くことだろう。今日私は、この生垣に沿って造られた散歩道を、ぐるりと院内一周を試みた。そしてふと『死の家の記録』の冒頭の一節を思い出した。

 「━━これがつまり監獄の外囲いだ。この外囲いの一方のところに、がっしりした門がとりつけてある。その門はいつも閉め切ってあって夜昼ぶっとおしで番兵がまもっている。ただ仕事にでかけるときだけ、上官の命令によってひらかれるのであった。この門の外には、明るい、自由な世界があって、みんなと同じ人々が住んでいた。けれど墻壁のこちらがわでは、その世界のことを、なにか夢のようなお話みたいに考えている。ここには、まったく何にたとえようのない、特別の世界があった。これは生きながらの死の家であった。」

 だが、この世界と言えども、私達の世界と較べれば、まだ軽い。そこには上官という敵がいる。だが私の世界には敵がいない。みな同情してくれるのである。そして真の敵は、実に自分自身の体内にいるのである。自分の外部にいる敵ならば、戦うことそれ自体が一つの救いともなろう。だが、自己の体内にいる敵と、一体、どう戦ったらよいのだろう。

 柊の垣にかこまれて、だが、私は二年を生きた。私はもっと生きねばならないのだ。



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



柊の垣のうちから (序)

(注)多摩全生園はひいらぎの垣で囲まれている

 
 心の中に色々な苦しいことや悩ましいことが生じた場合、人は誰でもその苦しみや懊悩を他人に打明け、理解されたいという激しい欲望を覚えるのではないだろうか? そして内心の苦しみが激しければ激しいほど、深ければ深いほど、その欲望はひとしお熾烈なものとなり、時としてはもはや自分の気持ちは絶対に他人に伝えることは不可能だと思われ、そのために苛立ち焦燥し、遂には目に見える樹木や草花やその他一切のものに向ってどなり、泣き喚いてみたくすらなるのではあるまいか? 少なくとも私の経験ではそうであった。

 或いはまた、こうした苦悩の場合のみではなく、反対に心の中が満ち溢れ、幸福と平和とに浮き立つ時も、やはりその喜悦を人に語り共感されたい欲望を覚えるであろう。そしてその喜悦を語り得る相手を自己の周囲にもたぬ場合、それは往々かえって悲しみと変じ、孤独の意識となって自らを虐げさえもするのではあるまいか。多分あなたにもその経験はおありのことであろう、もしあなたが真実の苦しみに出合った方であるならば・・・。そして私がこのようなものを書かねばいられぬ気持ちを解いてくださるであろう。

 とは言いながら、私は自分の私生活を語るに際して、多くの努力と勇気とを必要とする。先ず第一にかような手紙を書くことの嫌悪、それから自己侮蔑の感情、即ちこのようなつまらぬ私生活を社会に投げ出してそれが何になる、お前個人のくだらぬ苦悩や喜悦が社会にとって問題たり得るのか、お前は単に一匹の二十日鼠、或いは毛の生えた虱にすぎないではないか、社会が個人にとって問題であるならば個人は社会にとって問題だと信じるのか? しかしさような信念は十八世紀の夢に過ぎないのだ━━等々と戦わねばならないのである。この場合私の武器とする唯一のものは愛情、もし愛情という言葉が照れくさいならば共感でもよい、私は私の中にある、誰かに共感されたいという欲求を信じる。

 一例をあげれば、われわれはフローベールがジョルジュ・サンドに与えた書簡を持っている。われわれにとって重要なことは、自己の生活を亡ぼし、人間とは何ものでもない、作品がすべてなのだと信じたフローベールが、かかる書簡を書かねばいられなかったというその点にある。
(未完?)



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

タジン鍋


IMG_6643_2017081518354346e.jpg IMG_6645_20170815183544b1e.jpg IMG_6647_2017081518354617e.jpg

タジン鍋の下敷きにタマネギのスライスを入れ、パプリカ、ピーマン、オクラを置き、ベーコン3枚ととろけるチーズ1枚を小さく切って置き、ニンニク醤油と胡椒で味付けし、ニンニク醤油のニンニク2片を薄切りして置き、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で出来上がり。




ゴーヤチャンプル

IMG_6636_20170815183613084.jpg IMG_6638_20170815183540b39.jpg IMG_6640_20170815183542944.jpg

ゴーヤは小口切りして塩をふってもみ、15分ほど置き、水で洗い流し、水気をしぼる。練り製品1枚は細切り、ニンニクは薄切り。

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク、練り製品、ゴーヤの順に炒め、火を消してニンニク醤油で味付けし、カツオブシをふって混ぜて出来上がり。




ソーメン
 
IMG_6629_20170815183609dbb.jpg IMG_6632_2017081518361004f.jpg IMG_6634_2017081518361276d.jpg   

薬味は青シソとミョウガの粗みじん切り。
  


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP582~P584を抜粋しました。
なお、読みづらい仮名づかいは現代仮名づかいに改めさせて頂きました。
言ふこと→言うこと
やうに→ように
思ひに→思いに





 花というものを、しみじみ、美しいなあ、と感じたのは、この病院へ入院した次の日であった。今は収容病室というのが新しく建ったので、入院者がすぐ重病室へ入れられるということはないけれども、私が来た当時はまだそれが出来ていなかったので、私は入院するなり直ちに重病室へ入れられた。
 
 私がそこでどんなものを見、どんなことを感じたか、言語に絶していてとうてい表現など出来るものではない。日光を見ぬうちは結構と言うな、ということがあるが、ここではちょうどその反対のことが言える。たとえばあなたが、あなたのあらん限りの想像力を使って醜悪なもの、不快なもの、恐るべきものを思い描かれても、一歩この中へ足を入れられるや、忽ち、如何に自分の想像力が貧しいものであるか、ということを知られるであろうと思う。私もそれを感じた。ここへ来るまで色々とここのことを想像したり描いたりしたのだったが、来て見て予想以上なのに吃驚してしまった。膿臭を浴びたことのなかった私の神経は、昏乱し、悲鳴を発し、文字通りささらのようになってしまったのである。私は、泣いていいのか、笑っていいのか、また、無気味だと感じていいのか、滑稽だと感じていいのか、さっぱり判らなかった。
 
 そこは、色彩において全くゼロであり、音響においてはコンマ以下であり、香りにおいては更にその以下であった。私の感覚はただ脅えて、石のように竦んでしまうばかりだった。持ってきた書物が消毒室から帰って来るまでの間、私は全く死人のようになっていた。私はせめて活字を、文字を、思想の通った、人間の雰囲気の感ぜられる言葉を、見たかったのだった。今でも忘れないのは、その時私の隣りのベッドにいた婦人患者が、キングだったか、表紙の切れた雑誌を貸して呉れたときのうれしさである。私は実際、噛みつくようにして今まで見向きもしなかったこの娯楽雑誌の頁をくったものである。
 
 しかしなんといっても、自分の書物が、自分の体臭や手垢のしみついた本が帰って来た時のよろこびは、それ以上だった。私は涙を流さんばかりにして、その本を一冊一冊抱きかかえて見たり撫でまわしたりした後、ベッドに取りついているけんどんの上に積んで置いた。それを眺めている間、私はなんとなくほっとした思いになっていた。
 
 私がそういう思いをしている所へ、誰だったか忘れたが、花を持って来てくれたのである。なんという花か、迂闊な私は名前を知らないが、小さな花弁を持った、真赤な花であったのを覚えている。はなびらの裏側は幾分白みがかっていて、薄桃色だった。華かではなかったが、どことなく品の良いととのった感じのする花で、私はもう夢中になって眺めたものである。
 
 それまで、私は花など眺めたことは丸切りなかったのであるが、それからというものはすっかり花が好きになってしまった。
 
 この間、ある事情で四国の故郷までまことに苦しい旅をしたが、帰って来ると私はまだ花の咲かないコスモスを鉢に活けた。舎の前に生えていたもので、私は指先に力を入れながら注意深く掘り返した。そこへ看護婦の一人が来て言うことには、
「北條さんが花をいじるなんて、ちょっとおかしいみたいね。」
 なるほど、そう言われて見ると私は野蛮人に違いない。しかし、私は言ったのである。
「平和に暮したいんだよ。何時でも死神が僕につきまとうからね。」
 彼女は可哀想なという風な表情で私を見ていた。



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

ニンニク醤油作り



IMG_6599_20170814190336838.jpg IMG_6601_2017081419033850e.jpg IMG_6602.jpg

ニンニク3球は鱗片をはずし、皮をむいて、さっと水洗いして瓶に入れ、醤油を注いで出来上がり。一昼夜常温に置いて、その後は冷蔵庫で保存する。



ポン酢作り

IMG_6595_20170814190335cc7.jpg

醤油70CC+酢50CC+みりん30CC+レモン果汁50CC=200CCの手作りポン酢の出来上がり。7・5・3ポン酢を参考にしている。



豆ご飯

IMG_6611_2017081419030536f.jpg IMG_6617_201708141902386d1.jpg IMG_6621_201708141902406fa.jpg
IMG_6628_201708141902436b3.jpg  

4合の白米を洗って、塩をひとつまみ入れて混ぜ、グリンピース200gを入れ、炊けたら混ぜる。3時間ほど経過すると桜色になり、一晩経過すると赤飯色になる。



ナンキンの煮物

IMG_6606_201708141903024c2.jpg IMG_6608_20170814190304acc.jpg IMG_6619_20170814190240b71.jpg  
IMG_6623.jpg   

もらったエビは15秒湯通しする。

無水鍋に乱切りしたナンキンを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、煮立ったら混ぜて極弱火にし、エビを置き25分、火を消して余熱5分で出来上がり。



キュウリの塩もみ

IMG_6612_20170814190307e32.jpg  

キュウリが得体の知れない害獣に食べられるので、防御をかたくした。1週間ぶりのキュウリ。



ゴーヤの酢の物 

IMG_6615.jpg

ゴーヤは小口切りして塩をふってもみ、15分ほど置き、水で洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れる。いつもの「酢と蜂蜜」ではなく、今回は「ポン酢と蜂蜜」。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん




「怒ることも笑うことも出来ない。勿論心中では怒り、或は笑っているのである。しかしその表情は白ばくれているように歪んだままよだれを垂らしているのだ」・・・文中より。

自分の思いと表情の不一致。この病気は人間の、その人らしい表情をも奪う。ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP584~P587を抜粋しました。


表情


 表情を失って行くことは真実淋しいものである。
 眼は心の窓であるというが、表情は個性の象徴であろう。どんなまずい面であっても、またどんなに人好きのしない表情をもっていても、しかし自分の表情、自己の個性的な表情をもっていることは喜ばしいことであり、誇ってよいことであると思う。
「自分らしい表情やジェスチャーを毀されて行くのは、ほんとに寂しいね。」
 と、先日も友人の一人は私に言った。彼はまだ軽症な患者で、僅かに眉毛が幾分うすくなっている程度であるが、そう言った彼の眼には無限の悲しみが宿っていた。彼はX大の哲学に席を置いているうち発病したのであるが、しかしむしろ女性的と思われるほどこまかい神経と、美しい貌を持っていて、詩を書くのが上手である。そういう彼が、病魔に蝕まれ尽した多くの病友達を眺め、やがては自分もそうなって行くべき運命にあるのを知ったとすれば、彼はその語調以上に寂寥を覚えていたであろうことは、私にも察せられた。
「しかし僕はね、どんなに崩れかかったひどい人にも、なお個性的な表情は残っていると思う。或は、病気のために貌が変化して行くのにつれて、その変化に伴って今までなかった個性的なものが浮き上がって来るようにも思う。これを発見するのは大切だし、発見したいと思う。」
 その時私はそんなことを答えたのであったが、これは私のやせ我慢に過ぎなかった。
 
 どす黒く皮膚の色が変色し、また赤黒い斑紋が盛り上がってやがて結節がぶつぶつと生えて、それが崩れ腐り、鼻梁が落ち、その昔美しかった頭髪はまばらに抜け、眼は死んだ魚のそれのように白く爛れてしまう。ごく控えめに、ちょっと書いてすらこれである。ここにどんな表情が発見出来るだろうか。どんな美しい精神に生きていたとて、外面はけものにも劣るのである。いわんや神経型にやられたならば、口は歪んで、笑うことも怒ることも、また感動することも出来ないのである。時々、マスクを除った看護婦たちが嬉々として戯れるさまを、私はじっと見惚れることがある。そこには生き生きとした「人間」の表情があるからだ。若々しい表情があるからだ。
 
 怒ることも笑うことも出来ない。勿論心中では怒り、或は笑っているのである。しかしその表情は白ばくれているように歪んだままよだれを垂らしているのだ。考えるほど、妙な、おそろいしような思いがする。
 
 四五日前のことだった。
 子供達が秋の運動会の練習をやっているのを見に行った。子供達は子供らしく、元気に無邪気に飛びまわっていた。これは私にすくなからぬ明るいものを見せてくれた。飛び廻ることも出来るほどの子供であるから、みな病気の軽い、一見しただけでは病者とは思われない児ばかりであった。
 私は幅跳の線を引いてやったり、踏切を見てやったりした。

 その時、裸にズボン一つで私の横に来た子供があった。彼は腕を組み、肩を怒らせて、
「しっかり跳べ!」
 と叫んだ。
 背の高さは四尺五六寸しかなく、うしろから見るとまだほんの子供であったが、その声はもう大人であった。それもそのはずで、この少年は、少年とは言えぬ、二十一歳であったのだ。が、前へ廻ってその貌を見ると更に驚いたことには、そこには二十一という青年らしさは全然なく、さながら七十歳に近い老人を思わせたのである。貌全体が皺だらけで、皮膚はたるみ、眼はしょぼしょぼと小さく、見るからに虐げられた老人であった。けれども、自分では二十一歳という年齢を意識しているばかりでなく、よし蝕まれ腐ったものにせよ、若い血も流れているのであろう。頭には薄くなった毛をモダン気取りでオカッパに伸ばし、度も入っていない眼鏡をちょこんとかけているのである。
「ちぇっ、だらしがねえ、三メーターじゃないか。」
 小さな体で、だが兄貴らしく呶鳴るのであった。
 彼は幼年期から既に病気であった。そのために肉体的にも精神的にも完全な発育が出来なかったのである。そして少年期からずっと療養所で育ち、大きくなり、文字通り蝕まれた青春を迎えたのである。
 
 私はかつてこの男の作文を読んだことがある。『呼子鳥』というこの病院から出ている子供の雑誌に載せられていたのであるが、それは真に老人染みた稚拙さに満たされていた。子供の作文には子供らしい、素朴な稚拙さがあり、それが大人の心を打つのであるが、ここにはにがにがしい老人の稚拙さだけしかなかったのを覚えている。
 笑うと、老人とも子供ともつかない表情が浮ぶが、その文もやはりそういう表情であったのである。
 私はこびとのような彼の笑顔を見、嗄れた呶鳴り声を聴いているうち、限りないあわれさを覚えて見るに堪えなくなり急いで帰った。その虐げられたような笑顔が何時までも頭に残っていて憂鬱であった。
 
 表情のない世界、そしてある表情はこのように奇妙なものばかりである。友人のなげきも決して無理ではない。
 けれどこういうことを言えば、重症者たちは一笑にふしてしまうであろう。
「甘ったれるな。」
 と。
 それは私も知っている。こうしたことに悲しんだり嘆いたりしていられるうちは、まだまだめでたい軽症者であること! 時々じっと鏡を眺めながら、
「軽症者、甘ったれやがって!」
 と侮蔑の念をもって私は自分に向って言う。けれどやっぱり侘しいのだ。美しい顔になりたいとは思いはせぬ。ただ自分らしい表情を、自分以外には誰も持っていない私の表情を失うのが堪らないのだ。
 何時も眺める自分の顔であってみれば、さほどに変化も感じられず、怪しい癩病面になりつつあることをなかなかすぐには感じられないが、しかしふと往年の、まだ健康だった頃を思い出したり、その当時交わっていた友達などにばったり会ったら彼はどんな気持で自分を見るであろう、などど考えると、私はその場で息をするのもやめてしまいたくなる。
 
 だがそれはまだよい。真に恐るべきは、こうした外面と共に徐々に萎えしぼんで行く心の表情である。よし十万坪という限られた世界に侏儒のような生活を営むとはいえ、せめて精神だけは大空をあまかける鵬でありたいのだ。だが、それも、あたりの鈍重な空気と、希望のない生活、緊張と刺戟を失った倦怠な日々の中に埋められてしまう。毎日見る風景は貧弱な雑木林と死にかかった病人の群である。膿汁を浴びて感覚は鉛のように艶を失い、やがて精神はたがのゆるんだ桶のようにしまりを失うのである。
 
 この病院へ来てから私はもう二年と三ヶ月になるが、この「精神のゆるみ」とどんなに戦ったことだろう。しかしどんなに戦っても結局敗北して行くように思われてならぬ。勿論、最後まで戦って見る覚悟はもっているが、しかし、戦うというこの意志それ自体、その意志を築き上げている肉体的要素からして力を失って行くのだ。これに対して一体どんな武器があるだろうか。
 宗教!
 この時私の心に無限の力を与えてくれそうに思えるのは、宗教だけである。更にキリストの精神である。しかし、それも結局そう思うだけである。宗教!と思うせっぱつまった自分の表情が見えなければ、私は夢中になって信仰生活に飛び込んで行けるであろう。信ずるためには夢中になる必要があると思う。夢にも自分の表情を見てはならぬのである。
 歪んだ表情。
 生硬な表情。
 苦しげな表情。
 浅ましい表情。
 餓えた猿が結飯に飛びつくような表情。
 これが宗教に頼ろうとする時の自分の表情である。
 苦しくなった。書いてはならぬことを書いてしまったような気がする。



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

ラタトゥユ(夏野菜煮込み)


IMG_6574.jpg IMG_6577_20170813185316dc9.jpg IMG_6579_20170813185318492.jpg
IMG_6587_20170813185250e82.jpg IMG_6589.jpg

熱した鍋に油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、ベーコン1連の細切り、タマネギのスライスの順に炒め、残りの野菜(ナンキン、オクラ、パプリカ、ピーマン)を入れて炒め、全体に油がまわったら白ワインと調理用トマトを入れ、煮込む水分が少なかったので、水も半カップほど加え、煮立ったら弱火にしてコンソメ2個を入れ、15分ほど煮て、胡椒で味付けして出来上がり。



ゴーヤとツナ缶の苦くないサラダ

IMG_6581_20170813185319629.jpg IMG_6583_201708131853212d6.jpg IMG_6585_20170813185248bbf.jpg 
IMG_6591_20170813185252901.jpg   

ゴーヤは小口切りして塩をふってもみ、15分ほど置く。タマネギは3分ほど水にさらす。

ゴーヤは水洗いして水気をしぼりながらボールに入れる。タマネギはザルにあげ水気をしぼりながらボールに入れる。ツナ缶の油をよく切って、ほぐしながらボールに入れる。マヨネーズとポン酢で味付けして出来上がり。「ゴーヤとツナの苦くないサラダ」を参考にした。

   


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん


ハンセン病に少し興味のある人なら「北條民雄さん」はご存じかも知れない。それくらいハンセン病文学者の中では著名である。

ハンセン病文学全集4(記録・随筆)のP587~P590を抜粋しました。

「だから私はもう少し癩を書きたい。社会にとって無意味であっても、人間にとっては必要であるかも知れぬ・・・」


又か、ということ

 近頃人に会うと、もうそろそろ癩を切り上げて健康な小説を書いてはどうかとすすめてくれることが多い。そのたびに私は、ああそのうちに書きますよ、と答えておくのであるが、しかし本当のところを言うと、まだなかなか癩から抜け出ることなど出来そうにもない。いや、抜け出ることが出来ないというよりも、反対に、もっともっと癩小説を書くぞ、とひそかに肩をいからせるのだ。それは私自身が癩であり、毎日癩のみを眺め、癩者のみと生活を共にしているため、では決してない。私の眼には二千年の癩者の苦痛が映っているのだ。この長い間の歴史的存在を、僅か三つや四つのヘッポコ小説でけりにしてしまって、それでいいのか、と私の頭は考えねばいられないのだ。そう考えたが最後、又か、と言われようが、ジャーナリズムからロックアウトされようが、読者が一人も無くなろうが、歯を喰いしばってもここからそう簡単に逃げ出してはならぬと新しい覚悟が湧き出して来るのだ。

 無論私も健康な小説が書きたい。こんな腐った、醜悪な、絶えず膿の悪臭が漂っている世界など描きたくはない。また、こんな世界を描いて健康な人々に示すことが、果してどれだけ有益なのか。少くとも社会は忙しいんだ、いわゆる内外多事、ヨーロッパでは文化の危機が叫ばれ、戦争は最早臨月に近い。そういう社会へこんな小説を持ち出して、それがなんだというのだ。━━こういう疑問は絶え間なく私の思考につきまとって来る。
 実際私にとって、最も苛立たしいことは、われわれの苦痛が病気から始まっているということである。それは何らの社会性をももたず、それ自体個人的であり、社会的にはわれわれが苦しむということが全然無意味だということだ。猛烈な神経痛に襲われ、或は生死の境で悶える病者の姿を描きながら、私は幾度筆を折ろうとし、紙を引き裂いたことであろう。自分の書いた二、三の記録や小説も、嫌悪を覚えることなく書いたものは一つとしてないのである。

 そしてこれはものを書く場合のみではない。自分の生の態度に直接ぶつかって来るところのものである。
 生きること自体意味ない、自分の姿を眺めながら、真実そう思わねばならない時の気持ちというものは、決してそう楽しいものではないのである。
 私は時々重病室の廊下をぐるぐる巡りながら散歩する。そして硝子越しに眼に映って来る重病人の群を眺めては、こうなってまでなお生きる人々に対して、一体私は頭を下げることが正しいのか、それとも軽蔑することが正しいのかと自問するのだ。なるほど、これらの人々は苦しんでいる。人生のどん底でうめいている。しかしそれが何だと言うのだ。これらの人々が苦しもうが苦しむまいが、少なくとも社会にとっては無関係であり、ばかばかしいことなのだ。
 私は今、これらの人々、という言葉を使用した。しかし勿論この言葉の中には私自身をも含めているのである。私もやがてはそうなって行く。小説など勿論書けなくなるだろう。幾年か後には、自分もまた呻きながら苦しみもだえることであろう。私にはちゃんとそれが判っているのだ。しかも私は、そうなった時の自分の姿を頭の中に描き、視つめながら、なんと笑っていなければならないのだ。そういう姿を自分の中に描いた時の自分のとるべき心の態度は、ただ一つその苦痛する自分の未来の姿に向って冷笑を浴せながら、じっと苦痛に身を任せているより他にないのである。
 「兄弟よ、汝は軽蔑ということを知っているか。汝を軽蔑する者に対しても公正であれという、公正さの苦痛を知っているか。」
 ニイチェはかつてこんなことを言ったそうであるが、私には公正さの苦痛というものがよく判る。

 なるほど、生きるということは愚劣だ。人生はどう考えても醜悪であさましい。この愚劣さ、醜さ、あさましさにあいそをつかして首を縊ったり海に飛び込んだりした者は決して少なくない。しかし、私はここで呟かずにはいられない。愚劣な人生にあいそをつかして自殺をした人々の死にざまのなんと愚劣なことか!と。
 全くそれは愚劣なものだ。私はもう何度も縊死体というものを見たことがあるが、実際見られたものじゃない。主要なことは人生の愚劣さを知ることではなく、自殺の愚劣さを知ることである。
 例えば、私が首を縊ったとしても、癩者はやっぱし生きているのだ。もし私が死ぬと同時に、彼等もまた死んでしまうなら、私の自殺は立派である。が実は、私が死んでも人々は知らん顔して生きているのだ。この故に私の死は愚劣になる。デカルトは「我思う故に我在り」と言ったが、実は「他人思う故に我在り」の方が本当なのだ。
 それならもうどうしても死んではならぬ。生きることがどんなに愚劣でも、自殺よりはいくらかましなのだ。じっと耐えているより致し方はない。生き抜くなどと偉そうなことを言ってはならない。ただ、じっと我慢することだ。そこには愛情という意外な御馳走があるかも知れぬ。

 だから私はもう少し癩を書きたい。社会にとって無意味であっても、人間にとっては必要であるかも知れぬ。



2030年 農業の旅→ranking

このページのトップへ

身延深敬園  岡本天馬さん



足萎えに長き廊下や寒の月




入り際の日を追ひ追ひて蝶白し




秋風や癩者の墓標皆小さく




満緑や癩者の生くる世は狭し




映画見しあとの淋しく火桶抱く




林檎置いて机はなやぐひとりの夜




林檎一つ父母の位牌にかがやく夜




峡深く病む灯に降れり冬の雨




粒あらき喜雨が樹間の土をうつ




岡本天馬さんの略歴
身延深敬園。『河鹿集』第三集(昭和33)『河鹿集』第四集(昭和38)に採録。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

ピーマンとトマトの蒸し煮



IMG_6549_20170812133013600.jpg
  IMG_6566.jpg IMG_6569_20170812132952711.jpg

無水鍋に調理用トマト、ピーマン、パプリカを入れ、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で蓋を開け、ポン酢で味付けして出来上がり。



コンニャクの乾煎り

IMG_6551_201708121330158c5.jpg IMG_6561_20170812132948296.jpg

コンニャクを洗って手でちぎり、熱したフライパンで乾煎りし、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



ゴーヤの酢の物

IMG_6543.jpg IMG_6555_201708121330183db.jpg IMG_6563_201708121329497e0.jpg

ゴーヤはスライスして塩をふってもみ、15分ほど置く。

水で洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れ、蜂蜜と大さじ2の酢で味付けして出来上がり。



オクラを使った3品

IMG_6545.jpg

オクラは1分茹でて冷水にとり、薄切りし、カツオブシをふり醤油で。



オクラと厚揚げ炒め

IMG_6547_20170812133046cd1.jpg IMG_6557.jpg 

熱したフライパンに油を入れ、厚揚げとニンニク1片の薄切りを炒め、オクラを入れ、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



オクラのバター醤油炒め

IMG_6553_2017081213301611f.jpg IMG_6559_20170812132946d97.jpg    

最後に、少し残ったオクラは、バターを入れて炒め、醤油で味付けして出来上がり。
  
 


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

身延深敬園  森 城月さん(3)




南天の花をこぼして蜂ひがな




崖高く残暑の入日灼けただれ




木犀の香を吸ひ吐きつ胸診らる




麦の芽や車窓の左右の国訛り




世の隅に親しき人の賀状受く




秋風や吾が名偽り病み古りし




ゆく年もゆく年も世の隅に病む




森 城月さんの略歴
身延深敬園『河鹿集第四集』(昭和38年)に採録。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

身延深敬園  森 城月さん(2)



火桶抱き母に病の不幸詫ぶ




安らかな寝息や夜半の炭をつぐ




故郷や車窓につきぬ麦の青




去年今年なく世を隔つ瀬音かな




世に病秘める偽名の賀状書く




対岸のネオンくれなゐ春の雨




対岸の灯を恋ひ虫の闇深し




菊芽かきして指先の香の強し




世の隅に年の豆撒き病み古りぬ




河鹿きき雨の音きき大朝寝




2030年 農業の旅→ranking




このページのトップへ

身延深敬園  森 城月さん(1)



菊活けて合せ鏡や今朝の妻




みまかりし命あはれや落椿




歴史好き道真が好き梅が好き





七年の隔てを母と火桶抱く




話す事聞く事つきず炭をつぐ




母よりの手紙を菊の縁に読む




感情の激せばなほもカンナ燃ゆ




湧水の音おのづから芹青み




秋風や世に皆病ひ秘めし墓地




夢さめて病める現身虫の声




炉開いて吾が座妻の座小鳥の座




2030年 農業の旅→ranking



このページのトップへ

タジン鍋


IMG_6528.jpg
 IMG_6531_2017081019065562a.jpg IMG_6541_2017081019065783b.jpg

タジン鍋の下敷きにタマネギを入れ(タジン鍋は一番下に葉物野菜かタマネギを置くと焦げつかない)、オクラ、パプリカ、ピーマン、調理用トマトを置き、ベーコン2枚の細切りを置き、とろけるチーズ1枚を小さく切って置き、ニンニク醤油のニンニク2個を薄切りして置き、ニンニク醤油で味付けし、胡椒をふり、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。



ソーメン

IMG_6538.jpg  

今日もソーメン。薬味は青シソとミョウガの粗みじん切り。メンツユで。
 


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

身延深敬園  鈴木芳月さん



世をつなぐ橋を流せし梅雨出水




面会の母と餅焼く小正月




母来ると待ちつ盆ゆき彼岸過ぎ




ゆき逢ひし人も咳きをり初詣




竹にのみ風吹き渡る峡の春




颱風のとどかぬ峡の寮に住む




颱風の名残の雲に月走り




梅の窓あけて注射の鈴を振る




指断ちし片方ばかり足袋ゆるく




しばらくを風花舞ひて夕日出づ




無花果にのぼれば蜂の怒りけり




療園も町も一谷霧の海



鈴木芳月さんの略歴
身延深敬園 『河鹿集』(昭和13年)『河鹿集』第三集(昭和33年)『河鹿集』第四集(昭和38年)に採録。


2030年 農業の旅→ranking

このページのトップへ

身延深敬園  安藤 広さん



夜来の雨程よく畑をしめらせつ今朝は瓜の芽土よりのぞく




池さらひ手づかむ鮒の躍動に幼き頃のよみがへり来る




送り来し写真を閉ぢて灯を消しぬ老いたる父母も寝につく頃か




この峡に病友の柩を焼く煙まつはるごとく低くたれ込む




土木作業に疲れし手もとふるへつつ妻のえりあし剃りてやるなり




真白なる玉菜を割れば確かなる命生きゐる柔かき黄の芯




四年ぶり浸る吾が家の長州風呂胎児のかたちになりてなつかし




安藤 広さんの略歴
身延深敬園。『河鹿集』第四集(昭和38年)


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

QRコード

QR

検索フォーム