猫の目
「この病者は、生きているうちに二度死ぬっていうんです。一度はライになった時、二度目は失明した時です」と、藤本トシさんが書かれているが、宮島俊夫さんも左眼を失い、失明一歩手前の右眼にすがりながら、数々の作品を残された。
所要時間6分ほどです。
ライ園の夫婦には、夫の断種手術のため子供ができないので、昔から子代りに、小鳥や猫を飼うことが盛んなようである。仔犬なども飼いたい希望が多いようだが、国家に扶養されている患者の生活に大食の犬族は無理で結局猫あたりが、手ごろな、長い療養生活の単調に添えられる、家族的景物となるわけである。戦争中にだんだん減り、終戦頃には彼らの殆どが、愛玩物から食品に昇格(?)して、主人たちの胃袋に消えてしまったが、三、四年前からまたぼつぼつ見かけるようになり、季節ごとに殖えて今では、たいていの夫婦寮で飼っている。夫婦寮ばかりでなく独身婦人寮のまわりにも、とびまわる色さまざまの猫が見うけられ、サカリ時ともなると、ニャオニャオギャアギャア、夜も眠られず閉口する。━━という私の所でも、家内が二年前貰ってきているのである。
私は子供の時分から、あまり動物が好きでなかった。殊に猫というやつは、何となく気味が悪く、それまでついぞ触れたこともなく、ましてや飼ってみようと思ったことはなかったから、掌にまるきり納まってしまうほどの眼もまだハッキリあけきらぬ汚らしい仔猫を、家内がほくほく顔で貰ってきて寮の廊下に置いたとき、私は思わず眉をひそめて叱りつけたものだ。そんな私に構わず家内は、彼女の作業場である中央炊事場から、佃煮の空箱など二つも三つも持ち帰って、海岸から砂を運んだり古座布団の綿を敷いたりして、廊下の一隅に仔猫の住居をしつらえた。それから、ララのミルクを溶いたりお粥をたいたりスープを作ったり、与えすぎて下痢すると、今度は胃散だのわかもとだの、人に聞いたと云って砥石を削った粉だのを、むりやり仔猫の口へねじこんだり、一生懸命で、そんな小動物の世話が生活の一つの張りになったらしく、私は彼女の内なる母性の本能を見たような気がして、仔猫のそそうをうっかり汚いと云うこともできなかった。そして、何時までもこれくらいで大きくならなかったらいいのにねえと、仔猫をじゃらつかせながら家内は云い云いしたが、こいつの成長はおそろしく速く、二年経ったこの頃では、時折、可愛げのないエゴイスティックな相貌を示して、彼女の打擲を買うことがあるようになった。
茶色がかった灰と白の、雄。なかなかの美男子で、その悧巧そうな整った顔立ちは近隣の猫たちの及ばない所である。飼主の贔屓目かも知れぬ。名は、家内がチイ公とつけた。生れ落ちた時から尻尾は短かく切れていて、やっと二寸ほどになっているが、チイ公ッと呼ぶと、その短い尻尾を、左右にひょこひょこ振るのが、滑稽である。私は猫の、あの長太い尻尾を好かぬ。チイ公の友だちが時々この部屋に遊びにくるが、太い長い尾を宙にゆらめかし振りまわし、くるくる呪文でも唱えるふうにゆり上げゆり下ろす恰好が、何か魔性の陰険な傲慢な感じがして厭なのだ。しかし、猫自身としては、尻尾は長いのが自然に違いなく、チイ公はその点不具者なのかも知れない。見ていると、確かに、チイ公の跳躍の際の姿勢に、どこかバランスを欠いた、間の抜けたような危っかしさが、よその猫に比べるとあるようである。だが私には、うちの猫のそんな感じが、おもしろい。ひょこひょこうごめかす短かい尻尾の形が、なんとも可愛いのだ。
梶井基次郎は彼の一、二の作品のなかで猫を書いている。「愛撫」のなかでは、猫の耳に、改札係が使うあの切符切りで、パチンと穴をあけてみたいと云っているが、私も、ふッとそんな誘惑を覚えることがある。結核で死んだ彼は、その孤独な病床で猫と親しんだものとみえるが、一年三百六十五日の半ばを臥床に送らねばならぬ身になって、今では家内より私の方が、より深く、チイを引き寄せ愛撫するようになってきた。
寝床に抱いてアゴの下をこすってゴロゴロ鳴る音をたのしんだり、ヒゲを引っぱってみたり、爪をかくした丸い蹠を唇に押し当てて見たり、竹の子の皮みたいな薄い耳を噛んでみたりする。前肢を私の胸に乗せたまま眼をつぶってじっとしている。おとなしいやつ。めったに鳴かない猫だ。歯に力を加えてゆくと、小さく鳴く。ゆるめる。鳴きやむ。また力を入れる。首を振り眼をあけて鳴く。甘えた悲鳴である。くり返し、私はそんな感覚を愉しむのだが、そのうち彼は、うるさい私から離れて床を出ると、前肢をふんばり、後肢をふんばり、背中を反らせて大アクビをし、障子の一番下の隅の枠から出て行く。そこの一枠の紙を切り取って彼の出入口にしてあるのだが、もう身体が一ぱいで、満腹したときなど腹がつかえて苦しげだ。一本桟を切って枠をひろげてやらねばと思っているが、吹きこむ風が冷たいので、もう少し、春まで待ってもらうつもりである。
ところで、このチイ公が私にとって何より大きな存在に見えるのは、その眼の美しさに於てである。それは時々の光の加減によって、茶とも灰とも碧とも見えるが、朝、日のあたる縁に寝そべっている時など、瞳孔が糸のように細まった彼の眼の、紅彩のなんという美しさ!
朝日を眩しげに吸い、撥ね返して輝やくその眼は、底の方にみどりを溶かした金色の紋理が、こまかく、妖しくゆらめいて、それは人工のどのように磨き上げた珠玉も、遠く及ばぬ美しさである。
こんな下等の動物に、こんなすばらしい眼が与えられているなんて。━━愚かなことだが、私はしばしばこの不可解な感動をくり返す。造物主の御心にふッと疑問を感じながら、今朝も私は、チイ公の眼に自分の眼を近々と寄せてみた。
私の左眼は、たび重なるライ性の紅彩炎や角膜炎のため、すでに四年ほど前、明を失った。右の眼は、左眼に何度もつきあいながら、失明一歩手前で踏み止まっているが、つねに毛細血管が赤く走って濁っている。明日は全く知れないのである。
ライ患者には盲人が多い。私の古い友人の多くが明りを失っている。手足の末梢神経から次第に全身の知覚を侵されたあげく眼を取られるのだから、彼らは点字を探ぐることも不可能なのである。私たちにとって、せめて最後まで保ちたいのは、活字を拾うに可能な、最低限度の視力である。四肢切断されてダルマのようになり果てようと、眼一つ、終りまで残されるなら、生きてゆく力がそこに支えられてあるだろう・・・。
私はときに、盲目の病友たちの生存が、私を脅かす得体の知れない怪物のように思えることがある。そして彼らは何のために生きながらえているのだろうかと、不思議に思う日がる。それは不遜な考えに違いない。そうなればそうなったで、現在の私が、罹病以前の健康だった私に考えられなかったように、加わる運命の苔に呻吟慟哭しつつも、人々は、奈落の闇へ降りる階段の一段一段を数えながら、いつとはなく現身の限界状況に順応し、その場その場に求められる何ほどかの感官の喜びを得たり、心的視野に魂をひらいたりするのであろう。しかし、やはり今の私には、全く失明しきった自分の姿は、想像できない。まぢかに迫った現実でありながら、いやそれだけに、強い抵抗を感ぜずにはいられない。片眼の衰えた視力に、私は必死にしがみついているのである。そして今朝、陽光を浴び、ながながと寝そべっている猫の眼の美しさに見入っていた私は、ふッと、滑稽な、熾烈な欲望に貫かれた。
こいつの眼を、おれの眼と取り代えることはできないものか!
一瞬、それは大真面目な悲願となって私の心に燃え上った。私の眼に、おそらく殺気がきらめき走ったのであろう、超然と構え、うるさげな眼で見返していたチイ公は、俄かに脅えた眼になり、すッと立ち上ると、短かい尻尾で私の鼻先を払って逃げて行った。
2030年 農業の旅→

金看板
ライ園には深い友情もあったが、それとは逆に患者同士の深い反目や対立もあった。それは一般社会と同様であるが、閉ざされた空間であるだけに、より顕著に現れたであろう。
宮島俊夫さんは「金看板」を書かれて1年もたたない1955年(昭和30年)2月に亡くなられている。宮島さんの著作はこの他に「癩夫婦」、「檻のなかに」、「猫の目」がハンセン病文学全集に掲載されているが、この「金看板」を残してくれてありがとうと言いたい。
1953年(昭和28年)のライ予防法反対運動における「内部対立」は、加賀田一さんの「いつの日にか帰らん」にも書かれているが、それは、患者が一致団結して当局と闘った「長島事件(昭和11年)」と異なり、患者同士の内部対立であった。
このような対立は長島愛生園だけでなく、他の療園でも同じだったろう。
「自らが患者でありながら、この檻をいっそうせまくし、患者の自由や人権をいっそう抑圧しようとするような人々が、ずいぶんたくさんいるらしいのです・・・(文中より)」
ぼくは去年の秋、二た月ばかり患者自治会の評議員をやっていました。
予防法改正運動が、園長胸像破壊やT君の自殺未遂事件などの副産物までもたらして、一段落ついたあとの改選で、非行動的な人間の部に属するぼくみたいな者がどういう風の吹きまわしでかひょっこり出されたのでしたが、就任早々から園長辞職勧告問題がおこってまことにどうもえらい目にあいました。ことはついに自治会閉鎖という事態にまで発展して、ぼくの評議員も二た月でおしまいになったわけですが、おかげで、ぼくはずいぶんたくさんの生きた勉強をさせてもらいました。
人間について、人間の集団心理について、ライ園の封建制について・・・。
ライ園は、人間の一つの狭い檻です。ぼくたち患者は、たくさんの拘束を受けています。第一に病気そのものによる肉体的拘束、次に、社会的行動の制約、そしてその上にもう一つ、物を考える精神の自由まで束縛されて、かろうじて生きてきたのです。
予防法改正のぼくたちの運動は、これらの拘束の一つ一つを自分たちの力で打ち破って、癩園を明るいほんとの療養所にするための戦いであったとぼくは思っていますが、悲しいことに、ぼくの園では━━ぼくの園だけの現象ではないでしょうが━━あべこべに、自らが患者でありながら、この檻をいっそうせまくし、患者の自由や人権をいっそう抑圧しようとするような人々が、ずいぶんたくさんいるらしいのです。予防法運動時分からそのあらわれがありましたが、園長問題に至って、じつに露骨に猛烈に出現してきたのでした。
「園長辞職勧告対策委員会」のやり方には多少まずい所がありました。もっと精密な計算と周到な用意がなければならなかったと思われます。その虚点に乗じたのが、「園長を守る同志会」だったのです。
光田園長に対して辞職を勧告すべきか否か、━━最初の議題はちがいますが━━が、評議員会で一週間ぶっつづけて討論されました。
ぼくは、いくつかの理由から辞職勧告をするのは現在のわれわれとして自然の行為であるという考えからそのような意見を述べました。M君やK君、その他数人とともにここをせんどと論戦したのですが、結局は数で大敗をきしました。それはそれでよいのです。充分に意見を述べて、━━これまで誰もこんなにハッキリ公然と光田園長を攻撃した者はなかったのです━━負けたことは、むしろ名誉の敗北だと、ぼくなどは思っていました。
そして、この問題はこれで済んだのだと甘く考えていたのでしたが、同志会の人々は、どうしてなかなかそれだけでは済まされなかったのです。
「対策委員」全構成メンバーの氏名を公表させ、園内外に対して謝罪させる、と強硬に執行部へ申入れ、さあそれからが大変なことになりました。
「対策委員」の方では、がんとして名を出さない。われわれは何らわるいことをしたのではない。どこの法規にもわれわれを犯罪者とするような一行の条文もありはしない。そんな脅迫に屈服できるものか、というわけです。それで「同志会」はますますたけり立ち、園内平和と民主主義を守るためには、赤い連中を追放しなければならない、と全国的な著名運動をはじめたのでした。
文化勲章をもらった園長を絶対者として、彼にふれることをタブーと心得たところの民主主義なのです。園長を守るためには過激な患者を追放して、園内を奴隷的平和にひき戻そうという平和運動なのです。いやはや、これにはまったく閉口頓首でしたが、彼らの署名旋風は園内を吹きまくって、ともかく八百人ほどが署名した、ということになっています。
「光田園長を守る同志会・・・」
この大時代な、どこかこっけいなひびきをもつ名称の集団が、あれほどまでに力を持ったのはやはり「光田園長」という大きな金看板のせいであったのです。この金看板が、多数の患者を眩惑したのでした。老園長の頭のうしろからは、たしかに一種の神秘的な光がさしてくるようにかんじられるのです。気の弱い患者たちは、たいがいそれで参ってしまいます。赤のしわざだ、共産党の陰謀だ、との宣伝も大変効果がありました。
それに、同志会の幹部や陰で采配をふるっていた人々は、つい近年まで自治会の重要な椅子に座っていた人ばかりで、彼らは長い年月をかけて園中に眼に見えぬ支配網をはりめぐらしていたのです。むつかしい一時帰省の口添えをしてやったり、作業の世話をしてやったり、女のとりもちをしてやったり━━それらはたいそう親切な結構なことなのですが━━して、いつの間にか多くの追随者をまわりにつくりあげ、いわば義理人情の封建的主従関係がそこに出来上がっていたのです。
その頂点に立っているのがT君であり、T君を最も信愛しているのが園長である、といったら、あまりに簡単な言いすぎになるでしょうか。
十一月七日の夜の評議員会で、ぼくは同志会の署名運動を非難したところ、酒気をおび足ごしらえ厳重に、大挙おしよせてきていた同志会の連中に、もすこしでひどい目にあうところでした。その夜T君が彼らのまん中にでんと構えて指揮していたことを、ぼくはちょっと忘れるわけにはいきません。
「十一月七日のクーデター」と、ぼくは冗談半分によんでその夜を記念しています。自治会がつぶれたのはその三日後のことでした。
とりとめもなく書いてきましたが、もとめられた枚数をすでにこえてしまいました。が、もう一つ報告しておきましょう。━━三月十五日からやっと始まった自治会再開のための総選挙が、四月四日に完了して、いよいよこの十五日ごろから事務所がひらかれることになりました。常務委員と評議員合わせて約四十名のうち、いわゆる革新派が評議会に十名、他はすべて同志会系の人々で占められました。昨年秋の役員は一人も入っていません。
この選挙は双方猛烈に運動しました。そしてこういう結果になったのですが、ぼくは、けっして失望も悲観もしていません。というのは、紛争以来、人々の政治的関心がすばらしくたかまってきているのです。旧来の「政治なんかおえらい方に任せておけばいい」といった考えがなくなってきたことは、なんといっても一歩の、大きな前進です。
「対策委員」も「同志会」も、それぞれいまは自分たちの行為について反省しているはずです。そして、「すべてのもの相はたらきて益となる」ことを、その未来を、ぼくは信じることができます。ライ園のかなしい封建制は、日本という国の封建制の集約的表現なのでありましょうし、日本の社会が進歩しない限り日本のライ園もよくはならないでしょうが、しかし一応、あれだけ荒れまわったこの園の封建的感情は、ちょうど涙をこぼして号泣すれば心の悲しみが洗われるように、一種の浄化作用によって洗い出されたのではないかと、ぼくは思ってみるのです。
いずれにせよ、ふたたび「金看板」をかつぎだして、患者の、人間としての自然の叫びを強圧するようなことは起らないでしょう。
患者は患者同士仲良くしなければなりません。よく話し合えば、もともとわれわれの間に、根本的に対立しなければならぬような利害関係はないはずなのですから。
昨年来の紛争を一場の喜劇として笑いながら双方が回想できる日を、ぼくは期待しています。
宮島俊夫(本名・峯野吉彌)さんの略歴
1917年3月16日、愛知県生まれ。県立中学校中退。1939年5月23日長島愛生園に入所。園内の「文章会」「創作会」のメンバー。「新潮」に1949年「癩夫婦」、1950年「レプラコンプレックス」を発表。『癩夫婦』(1955 保健同人社)。1955年2月15日死去。
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