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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

エンサイのサラダ



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サラダ用エンサイ、タマネギのスライス、イタリアンパセリの粗みじん切りに手作りドレッシング(酢とミリンを各大さじ1、醤油大さじ2、ゴマ油小さじ1、ニンニク1片のすりおろしを混ぜる)をかけて。




オクラの薄切り

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オクラは1分茹でて冷水にとり、薄切りし、カツオブシをふり、醤油をかけて。




焼きナスビ

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定番です。



ピーマンの佃煮


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鍋に細切りしたピーマンを入れ、酒と醤油と蜂蜜を入れ、水を少し入れ、煮立ったら弱火にして4分ほど煮て、水気が少なくなったらカツオブシを入れ、水分を飛ばすように強火で1分煮て出来上がり。




ナスの即席漬け 

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ナス1本は縦半分に切り、5ミリほどに切り、塩をふってもみ、15分ほど置く。

水気をしぼりながらボールに入れ、醤油大さじ1、酢小さじ1をふって混ぜ、青シソの粗みじん切りを入れ、混ぜて出来上がり。

   



豆ご飯
   
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4合の白米を洗い、塩を少し入れて混ぜ、200gほどの豆を入れ(混ぜない)、炊き上がったら混ぜる。4時間ほど経過したら桜色になり、明朝には赤飯色になる。

品種は「サカタのタネ」の「豊成」というエンドウで、取り遅れを豆(グリンピース)として利用している。

(7時半頃に更新したつもりが、消えていたから再度公開しました)

     


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多摩全生園  小林熊吉さん(2)




痲痺の手にのせてくれたる鳩の豆撒くより先にこぼれて終ふ




葉のつきし林檎を唇にふれたしと兄の所望に持ちて帰りぬ




色づきし麦の匂ひに包まれてしばし故郷の思ひに浸る




いち早くわれを見つけて妹はここだここだとはや涙声




盲ひわが手をとり兄を頼むよといくばくもなく逝きし妹




手に受けし稲穂おのづとよみがへる五十年前拾ひし落穂




妹より先に逝かぬが口惜しいと言葉少なに兄は呟く




友人の野辺の送りを頼むよと兄に言はれて白杖を取る




故里をともに出て来て五十年この療園に兄も生きたり



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多摩全生園  小林熊吉さん(1)



子ら三人病みて一度に家出づる見送る母の蒼ざめし顔




「やけ起こし馬鹿な真似などするでない」母の言葉今も忘れず




墓石に縋りて泣きし妹よわれも声なく立ちて居たりし




この稲穂実るを待たず出でゆくはただに口惜し去り難き




この田圃見納めなればわが植ゑし稲穂四五本抜きて帰りぬ




ふたたびは墓参叶はぬやも知れず髪少しづつ切りて埋めたり




杖をつき見舞いに行けばベッドより音聞きつけて兄の呼ぶ声




ベッドの傍へもっと寄れよと兄さんは手探りにわれの肩を叩きぬ




山吹の花に触れむと寄り行けば蜂が居るとて引きとめられぬ




おぢいちゃんは目が見えぬかと小学生兎と遊ぶわれに問ひかく




馬に乗り野原縦横に走りたり五十年経し古里おもふ




死にし人捨てし谷よと教へられ杖を抱へて黙祷捧ぐ




一枝の萩折りもらひ病棟の兄に嗅がすと急ぎ来しなり



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長島愛生園  宮島俊夫さん



猫の目


「この病者は、生きているうちに二度死ぬっていうんです。一度はライになった時、二度目は失明した時です」と、藤本トシさんが書かれているが、宮島俊夫さんも左眼を失い、失明一歩手前の右眼にすがりながら、数々の作品を残された。

所要時間6分ほどです。


 ライ園の夫婦には、夫の断種手術のため子供ができないので、昔から子代りに、小鳥や猫を飼うことが盛んなようである。仔犬なども飼いたい希望が多いようだが、国家に扶養されている患者の生活に大食の犬族は無理で結局猫あたりが、手ごろな、長い療養生活の単調に添えられる、家族的景物となるわけである。戦争中にだんだん減り、終戦頃には彼らの殆どが、愛玩物から食品に昇格(?)して、主人たちの胃袋に消えてしまったが、三、四年前からまたぼつぼつ見かけるようになり、季節ごとに殖えて今では、たいていの夫婦寮で飼っている。夫婦寮ばかりでなく独身婦人寮のまわりにも、とびまわる色さまざまの猫が見うけられ、サカリ時ともなると、ニャオニャオギャアギャア、夜も眠られず閉口する。━━という私の所でも、家内が二年前貰ってきているのである。
 
 私は子供の時分から、あまり動物が好きでなかった。殊に猫というやつは、何となく気味が悪く、それまでついぞ触れたこともなく、ましてや飼ってみようと思ったことはなかったから、掌にまるきり納まってしまうほどの眼もまだハッキリあけきらぬ汚らしい仔猫を、家内がほくほく顔で貰ってきて寮の廊下に置いたとき、私は思わず眉をひそめて叱りつけたものだ。そんな私に構わず家内は、彼女の作業場である中央炊事場から、佃煮の空箱など二つも三つも持ち帰って、海岸から砂を運んだり古座布団の綿を敷いたりして、廊下の一隅に仔猫の住居をしつらえた。それから、ララのミルクを溶いたりお粥をたいたりスープを作ったり、与えすぎて下痢すると、今度は胃散だのわかもとだの、人に聞いたと云って砥石を削った粉だのを、むりやり仔猫の口へねじこんだり、一生懸命で、そんな小動物の世話が生活の一つの張りになったらしく、私は彼女の内なる母性の本能を見たような気がして、仔猫のそそうをうっかり汚いと云うこともできなかった。そして、何時までもこれくらいで大きくならなかったらいいのにねえと、仔猫をじゃらつかせながら家内は云い云いしたが、こいつの成長はおそろしく速く、二年経ったこの頃では、時折、可愛げのないエゴイスティックな相貌を示して、彼女の打擲を買うことがあるようになった。
 
 茶色がかった灰と白の、雄。なかなかの美男子で、その悧巧そうな整った顔立ちは近隣の猫たちの及ばない所である。飼主の贔屓目かも知れぬ。名は、家内がチイ公とつけた。生れ落ちた時から尻尾は短かく切れていて、やっと二寸ほどになっているが、チイ公ッと呼ぶと、その短い尻尾を、左右にひょこひょこ振るのが、滑稽である。私は猫の、あの長太い尻尾を好かぬ。チイ公の友だちが時々この部屋に遊びにくるが、太い長い尾を宙にゆらめかし振りまわし、くるくる呪文でも唱えるふうにゆり上げゆり下ろす恰好が、何か魔性の陰険な傲慢な感じがして厭なのだ。しかし、猫自身としては、尻尾は長いのが自然に違いなく、チイ公はその点不具者なのかも知れない。見ていると、確かに、チイ公の跳躍の際の姿勢に、どこかバランスを欠いた、間の抜けたような危っかしさが、よその猫に比べるとあるようである。だが私には、うちの猫のそんな感じが、おもしろい。ひょこひょこうごめかす短かい尻尾の形が、なんとも可愛いのだ。
 
 梶井基次郎は彼の一、二の作品のなかで猫を書いている。「愛撫」のなかでは、猫の耳に、改札係が使うあの切符切りで、パチンと穴をあけてみたいと云っているが、私も、ふッとそんな誘惑を覚えることがある。結核で死んだ彼は、その孤独な病床で猫と親しんだものとみえるが、一年三百六十五日の半ばを臥床に送らねばならぬ身になって、今では家内より私の方が、より深く、チイを引き寄せ愛撫するようになってきた。
 
 寝床に抱いてアゴの下をこすってゴロゴロ鳴る音をたのしんだり、ヒゲを引っぱってみたり、爪をかくした丸い蹠を唇に押し当てて見たり、竹の子の皮みたいな薄い耳を噛んでみたりする。前肢を私の胸に乗せたまま眼をつぶってじっとしている。おとなしいやつ。めったに鳴かない猫だ。歯に力を加えてゆくと、小さく鳴く。ゆるめる。鳴きやむ。また力を入れる。首を振り眼をあけて鳴く。甘えた悲鳴である。くり返し、私はそんな感覚を愉しむのだが、そのうち彼は、うるさい私から離れて床を出ると、前肢をふんばり、後肢をふんばり、背中を反らせて大アクビをし、障子の一番下の隅の枠から出て行く。そこの一枠の紙を切り取って彼の出入口にしてあるのだが、もう身体が一ぱいで、満腹したときなど腹がつかえて苦しげだ。一本桟を切って枠をひろげてやらねばと思っているが、吹きこむ風が冷たいので、もう少し、春まで待ってもらうつもりである。
 
 ところで、このチイ公が私にとって何より大きな存在に見えるのは、その眼の美しさに於てである。それは時々の光の加減によって、茶とも灰とも碧とも見えるが、朝、日のあたる縁に寝そべっている時など、瞳孔が糸のように細まった彼の眼の、紅彩のなんという美しさ!
 
 朝日を眩しげに吸い、撥ね返して輝やくその眼は、底の方にみどりを溶かした金色の紋理が、こまかく、妖しくゆらめいて、それは人工のどのように磨き上げた珠玉も、遠く及ばぬ美しさである。
 
 こんな下等の動物に、こんなすばらしい眼が与えられているなんて。━━愚かなことだが、私はしばしばこの不可解な感動をくり返す。造物主の御心にふッと疑問を感じながら、今朝も私は、チイ公の眼に自分の眼を近々と寄せてみた。
 
 私の左眼は、たび重なるライ性の紅彩炎や角膜炎のため、すでに四年ほど前、明を失った。右の眼は、左眼に何度もつきあいながら、失明一歩手前で踏み止まっているが、つねに毛細血管が赤く走って濁っている。明日は全く知れないのである。
 
 ライ患者には盲人が多い。私の古い友人の多くが明りを失っている。手足の末梢神経から次第に全身の知覚を侵されたあげく眼を取られるのだから、彼らは点字を探ぐることも不可能なのである。私たちにとって、せめて最後まで保ちたいのは、活字を拾うに可能な、最低限度の視力である。四肢切断されてダルマのようになり果てようと、眼一つ、終りまで残されるなら、生きてゆく力がそこに支えられてあるだろう・・・。
 
 私はときに、盲目の病友たちの生存が、私を脅かす得体の知れない怪物のように思えることがある。そして彼らは何のために生きながらえているのだろうかと、不思議に思う日がる。それは不遜な考えに違いない。そうなればそうなったで、現在の私が、罹病以前の健康だった私に考えられなかったように、加わる運命の苔に呻吟慟哭しつつも、人々は、奈落の闇へ降りる階段の一段一段を数えながら、いつとはなく現身の限界状況に順応し、その場その場に求められる何ほどかの感官の喜びを得たり、心的視野に魂をひらいたりするのであろう。しかし、やはり今の私には、全く失明しきった自分の姿は、想像できない。まぢかに迫った現実でありながら、いやそれだけに、強い抵抗を感ぜずにはいられない。片眼の衰えた視力に、私は必死にしがみついているのである。そして今朝、陽光を浴び、ながながと寝そべっている猫の眼の美しさに見入っていた私は、ふッと、滑稽な、熾烈な欲望に貫かれた。
 
 こいつの眼を、おれの眼と取り代えることはできないものか!
 一瞬、それは大真面目な悲願となって私の心に燃え上った。私の眼に、おそらく殺気がきらめき走ったのであろう、超然と構え、うるさげな眼で見返していたチイ公は、俄かに脅えた眼になり、すッと立ち上ると、短かい尻尾で私の鼻先を払って逃げて行った。


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多摩全生園  飯川春乃さん(2)



双手にて杖運びゆく足元の探りとどかずまたもつまづく




病棟へ慌しく夫は運ばれゆき畳に義足の転がりてゐつ




物の形見えなくなれば唐突に人の掛けたる声に驚く




また一人療友の逝きたりクラクション静かに鳴らし霊柩車発つ




若死の母をしみじみ語る兄われただ泣きし七歳の春




盲人と知るや知らずや杖をひくわが足元に寄り泣く仔猫




氏も生まれも関はりのなき療園の患者となれば甘えはならず




わが萎えしその中の唯一本がカセット扱ふ大切な指




知覚の指一本欲しきエレベータ探りさぐるも我に分らず




咲いて散り今年も咲いた椿の花夫はいまだ病棟に居る



飯川春乃さんの略歴
大正15年生まれ。昭和17年多摩全生園入園。昭和47年失明。55年8月から「多磨」誌に投稿。『青葉の森』(昭和60年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『十字架草』(平成8年)


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多摩全生園  飯川春乃さん(1)



鳥の声ひとつ無き道静かにて昼とも夜ともつかぬわが視野




刻ながく迷ひし思ひ暮れ落ちし道引き返すわが杖の音




白妙の泰山木の花惜しむ夕べとなりて梅雨しとど降る




衰へを見せず咲きつぐシクラメン巡回に来る看護婦褒むる




盲ひとなりささいなことのひとつにもわがなしたれば心足る日よ




療園に付き添ひて来し父も亡く出でし故郷に再び帰らず




夫見舞ふ病棟廊下閑かにて杖ひく我の鈴の音響く




眼を借りる夫の居らねば介護婦にひとつ頼みてひとつを忘る



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長島愛生園  宮島俊夫さん


金看板


ライ園には深い友情もあったが、それとは逆に患者同士の深い反目や対立もあった。それは一般社会と同様であるが、閉ざされた空間であるだけに、より顕著に現れたであろう。

宮島俊夫さんは「金看板」を書かれて1年もたたない1955年(昭和30年)2月に亡くなられている。宮島さんの著作はこの他に「癩夫婦」、「檻のなかに」、「猫の目」がハンセン病文学全集に掲載されているが、この「金看板」を残してくれてありがとうと言いたい。

1953年(昭和28年)のライ予防法反対運動における「内部対立」は、加賀田一さんの「いつの日にか帰らん」にも書かれているが、それは、患者が一致団結して当局と闘った「長島事件(昭和11年)」と異なり、患者同士の内部対立であった。

このような対立は長島愛生園だけでなく、他の療園でも同じだったろう。

「自らが患者でありながら、この檻をいっそうせまくし、患者の自由や人権をいっそう抑圧しようとするような人々が、ずいぶんたくさんいるらしいのです・・・(文中より)」





 ぼくは去年の秋、二た月ばかり患者自治会の評議員をやっていました。
 予防法改正運動が、園長胸像破壊やT君の自殺未遂事件などの副産物までもたらして、一段落ついたあとの改選で、非行動的な人間の部に属するぼくみたいな者がどういう風の吹きまわしでかひょっこり出されたのでしたが、就任早々から園長辞職勧告問題がおこってまことにどうもえらい目にあいました。ことはついに自治会閉鎖という事態にまで発展して、ぼくの評議員も二た月でおしまいになったわけですが、おかげで、ぼくはずいぶんたくさんの生きた勉強をさせてもらいました。
 人間について、人間の集団心理について、ライ園の封建制について・・・。
 ライ園は、人間の一つの狭い檻です。ぼくたち患者は、たくさんの拘束を受けています。第一に病気そのものによる肉体的拘束、次に、社会的行動の制約、そしてその上にもう一つ、物を考える精神の自由まで束縛されて、かろうじて生きてきたのです。
 予防法改正のぼくたちの運動は、これらの拘束の一つ一つを自分たちの力で打ち破って、癩園を明るいほんとの療養所にするための戦いであったとぼくは思っていますが、悲しいことに、ぼくの園では━━ぼくの園だけの現象ではないでしょうが━━あべこべに、自らが患者でありながら、この檻をいっそうせまくし、患者の自由や人権をいっそう抑圧しようとするような人々が、ずいぶんたくさんいるらしいのです。予防法運動時分からそのあらわれがありましたが、園長問題に至って、じつに露骨に猛烈に出現してきたのでした。
「園長辞職勧告対策委員会」のやり方には多少まずい所がありました。もっと精密な計算と周到な用意がなければならなかったと思われます。その虚点に乗じたのが、「園長を守る同志会」だったのです。
 光田園長に対して辞職を勧告すべきか否か、━━最初の議題はちがいますが━━が、評議員会で一週間ぶっつづけて討論されました。
 ぼくは、いくつかの理由から辞職勧告をするのは現在のわれわれとして自然の行為であるという考えからそのような意見を述べました。M君やK君、その他数人とともにここをせんどと論戦したのですが、結局は数で大敗をきしました。それはそれでよいのです。充分に意見を述べて、━━これまで誰もこんなにハッキリ公然と光田園長を攻撃した者はなかったのです━━負けたことは、むしろ名誉の敗北だと、ぼくなどは思っていました。
 そして、この問題はこれで済んだのだと甘く考えていたのでしたが、同志会の人々は、どうしてなかなかそれだけでは済まされなかったのです。
「対策委員」全構成メンバーの氏名を公表させ、園内外に対して謝罪させる、と強硬に執行部へ申入れ、さあそれからが大変なことになりました。
「対策委員」の方では、がんとして名を出さない。われわれは何らわるいことをしたのではない。どこの法規にもわれわれを犯罪者とするような一行の条文もありはしない。そんな脅迫に屈服できるものか、というわけです。それで「同志会」はますますたけり立ち、園内平和と民主主義を守るためには、赤い連中を追放しなければならない、と全国的な著名運動をはじめたのでした。
 文化勲章をもらった園長を絶対者として、彼にふれることをタブーと心得たところの民主主義なのです。園長を守るためには過激な患者を追放して、園内を奴隷的平和にひき戻そうという平和運動なのです。いやはや、これにはまったく閉口頓首でしたが、彼らの署名旋風は園内を吹きまくって、ともかく八百人ほどが署名した、ということになっています。
「光田園長を守る同志会・・・」
 この大時代な、どこかこっけいなひびきをもつ名称の集団が、あれほどまでに力を持ったのはやはり「光田園長」という大きな金看板のせいであったのです。この金看板が、多数の患者を眩惑したのでした。老園長の頭のうしろからは、たしかに一種の神秘的な光がさしてくるようにかんじられるのです。気の弱い患者たちは、たいがいそれで参ってしまいます。赤のしわざだ、共産党の陰謀だ、との宣伝も大変効果がありました。
 それに、同志会の幹部や陰で采配をふるっていた人々は、つい近年まで自治会の重要な椅子に座っていた人ばかりで、彼らは長い年月をかけて園中に眼に見えぬ支配網をはりめぐらしていたのです。むつかしい一時帰省の口添えをしてやったり、作業の世話をしてやったり、女のとりもちをしてやったり━━それらはたいそう親切な結構なことなのですが━━して、いつの間にか多くの追随者をまわりにつくりあげ、いわば義理人情の封建的主従関係がそこに出来上がっていたのです。
 その頂点に立っているのがT君であり、T君を最も信愛しているのが園長である、といったら、あまりに簡単な言いすぎになるでしょうか。
 十一月七日の夜の評議員会で、ぼくは同志会の署名運動を非難したところ、酒気をおび足ごしらえ厳重に、大挙おしよせてきていた同志会の連中に、もすこしでひどい目にあうところでした。その夜T君が彼らのまん中にでんと構えて指揮していたことを、ぼくはちょっと忘れるわけにはいきません。
 「十一月七日のクーデター」と、ぼくは冗談半分によんでその夜を記念しています。自治会がつぶれたのはその三日後のことでした。
 とりとめもなく書いてきましたが、もとめられた枚数をすでにこえてしまいました。が、もう一つ報告しておきましょう。━━三月十五日からやっと始まった自治会再開のための総選挙が、四月四日に完了して、いよいよこの十五日ごろから事務所がひらかれることになりました。常務委員と評議員合わせて約四十名のうち、いわゆる革新派が評議会に十名、他はすべて同志会系の人々で占められました。昨年秋の役員は一人も入っていません。
 この選挙は双方猛烈に運動しました。そしてこういう結果になったのですが、ぼくは、けっして失望も悲観もしていません。というのは、紛争以来、人々の政治的関心がすばらしくたかまってきているのです。旧来の「政治なんかおえらい方に任せておけばいい」といった考えがなくなってきたことは、なんといっても一歩の、大きな前進です。
「対策委員」も「同志会」も、それぞれいまは自分たちの行為について反省しているはずです。そして、「すべてのもの相はたらきて益となる」ことを、その未来を、ぼくは信じることができます。ライ園のかなしい封建制は、日本という国の封建制の集約的表現なのでありましょうし、日本の社会が進歩しない限り日本のライ園もよくはならないでしょうが、しかし一応、あれだけ荒れまわったこの園の封建的感情は、ちょうど涙をこぼして号泣すれば心の悲しみが洗われるように、一種の浄化作用によって洗い出されたのではないかと、ぼくは思ってみるのです。
 いずれにせよ、ふたたび「金看板」をかつぎだして、患者の、人間としての自然の叫びを強圧するようなことは起らないでしょう。
 患者は患者同士仲良くしなければなりません。よく話し合えば、もともとわれわれの間に、根本的に対立しなければならぬような利害関係はないはずなのですから。
 昨年来の紛争を一場の喜劇として笑いながら双方が回想できる日を、ぼくは期待しています。


宮島俊夫(本名・峯野吉彌)さんの略歴
1917年3月16日、愛知県生まれ。県立中学校中退。1939年5月23日長島愛生園に入所。園内の「文章会」「創作会」のメンバー。「新潮」に1949年「癩夫婦」、1950年「レプラコンプレックス」を発表。『癩夫婦』(1955 保健同人社)。1955年2月15日死去。


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冷凍うどん


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冷凍うどんは4分茹でて冷水にとり、皿に入れる。ダイコンおろし、オクラの薄切り、青シソの粗みじん切りをふり、メンツユで。




オクラの薄切り

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1分茹でて冷水にとり、薄切りし、カツオブシと醤油で。



ニンニクチャーハン
     
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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク3片の薄切り、ベーコン1枚の細切り、タマネギのスライス、ピーマンとズッキーニの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして火を止める。ご飯を入れてほぐしながら、具材となじんだら出来上がり。




甘いハーブティ

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左からタイム、アップルミント、セイジ、ステビアで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らして全て取り出し、ステビアだけ戻し、さらに30分以上浸して出来上がり。非常に甘い。


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多摩全生園  上田錦水さん



手探りに歯磨の蓋まはしつつ取れたることも喜びのひとつ




薬包紙に君の住所が書きあると知覚なき手に握らせくるる




うららかな日射しを浴びて杖習ふ今日も新たな道を覚えぬ




吾に来し賀状の抽籤番号を薬の袋に記してもらひぬ




手を引かれ面会所より帰り来て植毛眉毛に溜りし汗拭く




こんな綺麗な花を飾りて食事する盲ひのわれを仕合せといふ



上田錦水さんの略歴
明治44年生まれ。昭和28年多摩全生園入園。「一路」所属。『輪唱』(昭和34年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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多摩全生園  秋葉穂積さん



廃嫡の手続き済みてぽつねんと孤独の未来考へてゐる




相続を放棄する書類に印捺して涙落ちたり父母の前に




をさな児の手を引きて立つ目の前の汝は早や吾の妻にてあらぬ




参観者の列横切りて或るときは抗ふごとく内科室にゆく




バラ匂ふ部屋に目ざめし生きの身の欲情がかなし朝の小床に




不自由な手をしてそれぞれ作業持つこれをも人は惰民と蔑む



秋葉穂積さんの略歴
多摩全生園。『陸の中の島』(1956年)『輪唱』(昭和34年)


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長島愛生園  加賀田一さん


加賀田一さんは短歌も俳句も川柳も詩も随筆も小説も残されてはいないが、ただ一冊「いつの日にか帰らん」を残された。

愛生園の「自治会会長」を何期もされているということは、それだけ人望があったということ。800人ほどの在園者の中から「選挙」で選ばれるから。

自治会会長でなければ見えない(わからない)視点が随所に垣間見える。

1936(昭和11)年に愛生園に入所されたが、その半年後に「長島事件」に遭遇した経験も大きかったと思う。

この本一冊で長島愛生園の歴史がわかると言っても過言ではない。ページ数も230枚で、字も大きく、内容がわかりやすく、読みやすかった。


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野菜のピザ風



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熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、ズッキーニ、ナス、ピーマン、ニンジンを入れて少し炒め、ベーコン2枚ととろけるチーズ1枚を小さく切って置き、ニンニク1片の薄切りを置き、バジルを手でちぎって入れ、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分でポン酢をかけて出来上がり。皿にとってからポン酢をかけてもよい。




海鮮(びんちょうマグロ)の味噌汁

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鍋にダイコン、ニンジン、タマネギ、ズッキーニの千切りを入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして15秒湯通しした海鮮を入れ10分煮て、味噌を溶き入れ2~3分煮て出来上がり。



キュウリの酢の物

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キュウリ3本はスライサーで薄切りし、塩をふってもみ30分以上置く。

水でさっと洗い、水気をしぼりながらボールに入れる。カニ風味カマボコ2本を水で解凍し、ほぐしながら入れ、ミョウガの甘酢漬け1個を粗みじん切りして入れ、醤油大さじ1、酢大さじ2、レモン果汁大さじ1、蜂蜜大さじ1を入れて混ぜて出来上がり。



焼きナスビ

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熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、極弱火で蓋をして裏表4分ほどずつ焼いて皿にとり、醤油をまわしかけて出来上がり。




ポリポリキュウリ

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今日はうっかり生姜のすりおろしを入れたが、レシピ通りにニンニクのすりおろしの方がおいしい。



ダイコンおろし

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多摩全生園  三村辰夫さん(2)



癒えざれば要なき吾の自転車を婦人用に更へたしと妻は




制服の少女等ならびて病室を外より見て居りみな無表情




妻恋ふも生きゐる証し療庭のサルビヤの朱見まもるひと時




ためらへる吾の醜き指握る妻のその指節くれてきし




武蔵野のここ療園と甲斐の国の妻恋ふ時は距離感のなし




なり振りなく農守りゐる妻なるに夢に逢えば頬なめらかに




胸三寸に納めて和を保つ雑居寮就寝前にすべてを忘れむ




それ程にわが耳遠きか口よせてもの言ふ孫らに時に腹立つ




父と母吾の病ひを知りたるか余り出歩くなとうるさく言ひし




本名を捨てて園名の三十年四村明利の過去は忘れむ



三村辰夫さんの略歴
明治42年生まれ。昭和28年多摩全生園入園。「多摩」「国民文学」所属。『輪唱』(昭和34年)『青葉の森』(昭和60年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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多摩全生園  三村辰夫さん(1)



癩病と父母のあかせしその日より蔵にこもりて十年過ごしき




同室の老いらの軽き寝息聞く最後の一首下の句浮ばず




宅急便のダンボール箱は嫁よりぞボタンのいらぬ丸首のシャツ




諍ひて頬を打ちたる日もありき七十路越したる郷里の妻は




煩悩の一つ一つを刈る如く理髪室の鋏音かろやかに




生れ在所近き作家の「楢山節考」二度読み返すわが昂りて




反核の集ひに我も入りたし自由のきかぬ手足がかなし




左手の痲痺しるければポケットの硬貨つかめず諦めたりし




しんしんと一夜を冷えし畑に入り踏む霜柱音冴えてたつ




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私の墓

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P162~P163抜粋



 ここで私の墓について述べておきたいと思います。

 私の家の宗旨は真言宗です。その本山の高野山南院にインドの若い僧が修行にこられたことがありました。そのお礼にと、ネルー首相から釈迦の仏舎利が贈られました。南院は仏舎利塔(パゴタ)を建立するために全国に勧進を求めました。当時のことですから、私が今のように故郷へ迎えられることなどまったく考えられず、私と妻の遺骨を仏舎利塔の納骨堂へ祀ってもらうことにしました。毎日、朝夕の勤行がありますから、これで母の心配も解消できると思いました。私たち夫婦の骨壺は全国の人のといっしょに並んでいます。

 町民大会に迎えられた後、家族の理解を得て加賀田家の墓地に自分の墓標を建てることができました。その故郷の墓標には、「恭雲院徳風性昭居士 紫雲院浄月性則大姉」と併記され、「高野山別格本山浪切不動尊別当 南院内海大僧正書」と刻まれています。故郷の菩提寺の入江宥道住職から「立派な戒名ですが、どうしたご縁ですか」と聞かれ、南院さまのご好意であることを説明しました。また、郷里の女性から電話があって、「立派な墓標ができましたね。この世では同じところでは暮らせなかったけれど、次の世ではいっしょに暮らしましょうね」と言われて、郷里の温かさに感動しました。

 これで私のお墓は愛生園の納骨堂を含め三ヶ所になりました。


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ナスの味噌煮



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鍋にゴマ油を熱し、乱切りしたナスを炒め、ひたひたに水を入れ、ダシの素を入れ(最近、煮干し、干しシイタケ、昆布の出し汁を作っていない。手抜きです)、煮立ったら弱火にして10分煮て、味噌をみりんで溶いて入れ、さらに3分ほど煮て出来上がり。



ピーマン炒め


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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン2枚の細切り、ピーマンの細切りの順に炒め、ニンニク醤油とオイスターソースで味付けして出来上がり。



甘いハーブティ
  
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左からタイム、アップルミント、セイジ、ステビアで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らして全て取り出し、ステビアだけ戻し、さらに30分以上浸して出来上がり。



初物スイカ

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イチゴ、トウモロコシ、マクワウリは作っていないが、スイカだけは作り続けたい。


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多摩全生園  牧野静也さん



病室の高窓より差す冬の陽に巣箱と鳩の影が静けし




癩園に過ぎし十年の夢に出づる吾子は何時もオカッパのまま




今ぬぎし足袋のこはぜが灯の下に心を覗くごとく光れり




己が殻にひそみて物言ふことを知る不自由者寮の吾も安泰




自己かばふ言葉を吐きしのみなりき窓の裸木に叫ぶ夜の風




眠薬に友ねむりゐる昼日中おたまじゃくしは瓶に動けり




何も彼も面倒くさくなりてゐる病み古りし身を愛しめと言ふ




なまなまと今日の過失の思はるる傷つける手を胸の上に置く




感覚のなき手に母の死の便り握りしめ居て頼りなきもの




今日よりは母なき吾の体内をめぐれる癩のプロミン注射




銀杏の殻を火鉢に投げこみて炎見つむるわれは一眼




犬の子をひしと抱ける癩少女眼を上げることなく行けり



牧野静也さんの略歴
明治40年生まれ。昭和16年多摩全生園入園。「一路」所属。『木がくれの実』(昭和28年)『陸の中の島』(1956年)『輪唱』(昭和34年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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多摩全生園  細田辰彦さん



妻の撒く節分の豆二つ三つ吾枕辺にまろび来りぬ




戻り来し杖にて庭の敷石をたたけば部屋に妻こたふ声




点字舌読するによからむとレントゲンフィルムに文字打ち来てくれぬ




長靴を穿かせもらひて三月の雪おもはゆきおもひに踏めり




点字表さぐり厭きたる唇を花瓶の菊に触りてわが居つ




舌先にて読みし千曲川旅情の歌友は口うつしに教へてくれる




見えぬわが眼のなかに浮びくるうつ木の花の白き明るさ




道端にころがりて居る石ころも親しと思ふ杖にあてつつ




昼寝より覚めし吾手の届く所妻も畳に眠りて居りぬ




杖先にふれてそこより道曲るこの草株も道しるべなり




新しき夫婦寮に移り来て杖をいづこに置かむとおもふ




引越しの物音の中に座り居て盲ひのわれのいたく疲れぬ



細田辰彦さんの略歴
大正5年生まれ。昭和13年多摩全生園入園。所属なし。『木がくれの実』(昭和28年)『陸の中の島』(1956年)『輪唱』(昭和34年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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線香をあげる人

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P156~P162抜粋


 1959(昭和34)年、二度目の失明の危機にあったこの年、私は十年ぶりに母に会いました。この出会いは母からの連絡だったのですが、岡山駅で別れるときには、「あー、よかった。池田の殿様の築かれた美しい後楽園で一日過ごさせてもろてよかった」と母親は喜んで帰りました。そんな一日を過ごす事ができて、私にとっても生涯の記念になる出来事でした。

 この日、後楽園で母は私への自分の気持ちを語りました。「人間の一生は苦労の連続だけど、お前の友達はほとんど戦死されていないよ。遺族の方たちは団体で東京の靖国神社に参詣されるが、お話ができるわけでもない。私ら親子は人目を避けてでもこうして会って話ができるのが何より楽しいなあ。お前が子供のときから好きだったオヤキをたくさん作ってきたから、しっかり食べなよ」と、私の前に広げました。オヤキとは飴入りのヨモギ餅をミョウガの葉に包んで鉄板で焼いたもので、私のために実家に寄って作ってきてくれたのです。

 オヤキを食べながら私が「母さんも齢とるから、今度は私が鳥取へ行って会いましょう」と言うと、母は「いや、お前が鳥取に来ても、わしは辛い」と言います。その理由を尋ねると、「お前が家の近くまで来ているのに、泊まってゆけ、一晩いっしょに過ごそうと言えないことがとても辛い。わしが来れる間は岡山へ来るから、こうして誰にも話せんことをお前と話し合うのが一番うれしい」と言い、さらに言葉を継ぎました。

 十年前に長島に行ったとき、お前は元気になるから帰ってくれと言うから帰ったけど、亡くなったという連絡が今日くるか、明日くるか、明後日来るかと、三ヶ月ぐらいは昼も夜も気になって、亡くなったと知らせがあったらどうしようかと悩んだよ。元気になれて良かったよ。これも綾子さんのお陰だよ。感謝せんといけんよ。いい人に出会えて、結婚していてよかったなあ。でも、子供がないのは寂しいなあ。お前が生きていてよかったけれど、わしは齢とってきて、このまま二人が誰にも言わずにいたら、お前が死んでも線香の一本も立てる人がいない。こんなむごいことではわしは死んでも死にきれん。

 今日まであんたと二人で苦しんできたけど、わしも六十五歳、もうここまで来てこれから齢をとるとどうなるかわからん。しかしな、お前が死んだとき線香の一本も立てる者がいないということでは、そんなことは我が子に対してできん。だから何か機会があったら、お前が生きてることをお前の妹に話をするわ」と言いました。

 その妹は私が大阪に出たのと同じ頃に大阪へ出ました。大阪の高島屋で和裁の学校に行き、嫁入り衣装まで縫えるようになりました。その和裁の学校に通っている時に、同じ大阪にいるはずの私が母にも告げずに行方がわからなくなったと知って、その私を一生懸命探したといいます。

 母と再会して三年くらい経った頃のことでしょうか。ある日の夜九時過ぎ、私は交換台から園内の公衆電話に呼びだされました。まだ個人電話はなくて、外からかかってくると「だれだれさん、電話です」と放送があって、近くの公衆電話へ行くというシステムでした。

 公衆電話の受話器を取ると、「兄さん、あんたはなぜ一人で苦しむの」と突然、言われました。妹からの電話でした。「なんで一人で苦しまなあかんの。お母さんに聞いた。電話だけじゃいかん。どこへどう行ったら会えるのか。明日行く。どう行ったらいいか」と、行き方を尋ねるので、翌日、赤穂線の日生駅で待ち合わせることにしました。当時は民間船が長島と日生を連絡していました。

 翌日、ホームで「にーさーん」と言って抱きついてきました。「なんで兄さん、一人で苦しまなあかんの」という、この言葉が忘れられません。やっぱり家族です。母親の愛情もそうだし、妹との血のつながりというのもそうだなと思います。

 一晩ゆっくり話をしました。妹は何かつらいことがあったらしく、母に相談したとき、母が「おまえも苦しかろうけど」と、妹の苦しみを和らげようと思ってか、「実はおまえには行先不明だと言っていたけれど」と、私の病気の話をして、「おまえの兄さんはこのように苦しんで一人でがんばって生きておる。おまえもひとつ、それくらいの苦しみに耐えて生きてくれ」と言ったというのです。

 妹は「ようわかった」と、「そんなことがあったのか」と納得すると、母は「しかし、これは誰にも言われんことだ。父さんにも言ってない。あんたの兄さんが病気だということがわかると、立派な家庭を築いて幸せに生活しているあんたが不幸になる。そのことを心配して今まで言わなかったんだ」と話したところ、理解ができたようです。

 妹は、私と会ってからもしばらくは、主人にも誰にも言わなかったそうです。そうやって過ごしてきて、妹も本当に一生懸命働いて、三人の子供を東京の大学にやりました。私もたびたび東京へ行っていた頃でしたが、その子供たちに会うことはありませんでした。それがらい予防法廃止になってからはしばしば会うようになりました。

 私はよく覚えていなかったのですが、妹に会ったとき「父の墓参りだけはしたいなあ」と、いつも思っていたことを口に出したようです。その翌年、故郷からの便りなどあったためしのない私に手紙が届きました。母の実家を継いだ叔父からでした。私の思いを妹が母に言い、それが私が育った家の当主である叔父に伝わったようでした。そこには「いっぺん父のお墓参りに帰ってきたらいいじゃないか」と書いてありました。息子一家は勤めの関係で嫁の里で暮らしていて、家には自分たち老夫婦しかいないから」ともありました。

 すでに四十六歳になっていた私は、こうして二十七年振りに故郷へ帰ることになりました。故郷の駅に降り立って、ホームを歩いたときはクッションの上で足を運んでいるような気分だったことをよく覚えています。そして念願の父親の墓参りもできました。その墓地の一角にあるひときわ立派な墓標は、近づいてみるとみないっしょに遊んだり通学した幼なじみの「戦死」者のものでした。私はハンセン病のために療養所に入所していたおかげで戦死せず長生きしてきたわけです。何か友達に相済まない気がしました。

 この墓参りのとき小事件が起きました。村のなかをどうしても通ります。その途中で隣のおじさんがどこからか気がついて、「あ、ハジメさんじゃないか!?」と声をかけてきました。私はおじさんだとすぐにわかりましたが、「いやいや違います」と言いながら知らん顔して、逃げるようにオーバーの襟をたてて通り抜けました。私は親族が「帰ってこい」と言ってくれたから帰ることができたのですが、そのように言うためには家族の人にも大変な勇気がいったと思います。

 従兄弟夫婦の不在を狙うようにしてしか墓参りができないこと、そして知人には自分を偽らなければならないこと、私のように恵まれた者でさえこんな状態でした。しかしとにかく故郷へ帰ることができ、このような形でも迎えられたこと、これが翌年の「里帰り事業」につながってゆきます。


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初物 オクラ



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初物のオクラは薄切りして、カツオブシをふり醤油で。



ジャガイモの緑酢和え

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熱した無水鍋に角切りしたジャガイモを入れ、大さじ2の水を入れ、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、塩・胡椒をして混ぜる。


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ボールにキュウリ2本をすりおろし、大さじ4の酢、大さじ2の醤油、大さじ1の蜂蜜を入れて混ぜ、ジャガイモを入れて混ぜると出来上がり。「緑酢」を参考にした。



 ポリポリキュウリ


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キュウリは乱切りして塩をふってもみ、2時間ほど置く。

水気をしぼりながら容器に入れ、大さじ2の醤油、小さじ1のゴマ油、ニンニク1片をすりおろし、胡椒をふって混ぜると出来上がり。





ダイコンおろし

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厚揚げとズッキーニ炒め
   
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ニンニク1片の薄切り、ズッキーニ1本の拍子木切り、厚揚げの順に炒め、ニンニク醤油とオイスターソースで味付けして出来上がり。


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多摩全生園  原田 稔さん



枝はなれくるめきて行く病葉を病ひの床に見すましにけり




何となく焦燥の湧く日暮なり新刊の書を枕辺にしつ




書を読むかたへに置きし瓶の薔薇風吹くときにあはれにほへり




かざしたる吾手の小さく脱肉の掌朱に日は透るなり




真青なる空の深処を連なりて行く鳥のあり黒くまぎれず




馬鈴薯の不作のことを語りつつ貧しき今朝の飯終りたり



原田 稔さんの略歴
明治43年生まれ。昭和5年多摩全生園入園。昭和9年「武蔵野短歌」創刊メンバー。所属なし。昭和19年没。『木がくれの実』(昭和28年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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多摩全生園  直木勁さん



ものごしの老いそめたまふ母父にそひつつゆけば癒えたかりけり




暁がたを僻睡まどろみ居たれ執念しふねくもまぶたの傷にくる蝿のあり




死後のことはさもあらばあれ生きつぎてゆく苦悩くるしみを思ひつつゐる




血痰をガーゼにとりて燈の下に見さだめたればまた寝ねむとす




明るくを暗くをなりて雨降れりあかるきときはやや和みをり




吾が背の温みによりてひそみたる蝿もあはれと思はれにけり




古本を売りたる銭がそのままに葬儀の代と残りたるかも




病みの日のつづけばあはれ傍に忘れられたるごとく寝起す




病みの身の嘆かひ沁みて詠み出ずるに世にはばからるそれのみにしては




絶詠
衰へて寝台の上に起きあがり何に極まる思ひといはむ


直木 勁(飯田隠岐雄)さんの略歴
大正7年生まれ。昭和4年多摩全生園入園。「勁草」所属。昭和19年3月10日没。『木がくれの実』(昭和28年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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回復

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P135~P138抜粋


 前にも書いたように、愛生園の開園記念日は毎月二十日にありました。この日は全員が集合して光田園長の訓話を聞いた後、園歌を歌い、戦前戦中は宮城揺拝を行いました。そして月に一回、この日だけ麦の入らない白いご飯が出ました。それ以外、白いご飯というものを食べたことはありませんでした。麦と半々ですが、その半分も政府の払い下げになった五年も経ったような古米を混ぜているから、蒸気で蒸すとプーンと臭った「臭い飯」でした。

 米の代わりとして、イモやらスイトンといった代用食が戦後も続きました。そんな食料難のおりに母が来てくれたわけです。私は初めて真っ白な米に出会いました。全部白米のお粥です。母が持ってきてくれた米で初めて白いご飯を炊きました。いまだに忘れられないのは、米というのはこんなに力があるものかと感じたことです。お粥を炊いて食べただけで、気分がサッと変わりました。

 母が来て以来、お粥とご飯を毎日食べて、日に日に力がつくなあと実感しました。食べ物によってこれだけ体調が違ってくるという感覚はいうまだに忘れられません。実は、母が家内にと置いていった焼きサバも、私が三本とも食べてしまって、家内には悪いことをしたと後悔しています。

 最初のプロミン注射の副作用でかなりダメージを受けましたが、その後、どうにか回復することができました。犀川先生の診断で「アゴの下に開いた穴が治らなかったら結核、治ればハンセン病。しかし他の人が治ってゆくので、これを続けて行きます」と言われましたが、結果的に治ったので、やはりハンセン病でした。

 体調も次第に良くなりましたが、午後は衰弱のため二百メートルある注射室まで行けなくなり、午前中だけプロミンを打つようにすると、全身の潰瘍が目に見えて治って来ました。潰瘍が乾いてきて、カサブタ状のものがはがれると中からきれいな皮膚が現れます。汚れのないその皮膚を見たときは赤ん坊の生まれたての柔らかな肌のように感じました。結局、二回の注射が多すぎたということです。私には一回で3CCの注射が適量だったわけです。過剰投与による薬禍でした。

 プロミン注射によって三ヶ月くらいで陰性になった人もいますが、人によって違います。私は菌陰性になるまで四年かかりました。医師に聞くと、どんなによく効く薬でも100%の人に効果があるということはあり得ないそうです。それだけ人体とは複雑で一人一人が違うものなのでしょう。

 らい予防法改悪反対闘争が繰り広げられた1953(昭和28)年、厚生省で座り込みを敢行するので東京へ行ってくれという話がありましたが、私は病み上がりだったため、行くことができませんでした。

 プロミンの副作用で大変な目に遭い、その後どうにか回復しましたが、この間、病気のことを「母に言わなければよかったなあ。黙って隠れとったほうがよかったな」と何回も思ったものです。母は農家の嫁です。突然、大切なお米を実家に立ち寄って持ち出し、一晩家を空けてまで私のところへやって来たわけですから、そこにはずいぶん難儀なことがあったと思います。帰ってからもいろいろと詰問されたに違いありません。ずっと黙り続けることもできないでしょう。余計な心配や苦労を増やしてしまったことをつくづく反省しました。その思いが次の十年間の別れになりました。


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焼きナスビ



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ナスビは縦に3等分か4等分する。

熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、蓋をして極弱火で裏表4分ほどずつ焼いて皿ににとり、醤油をまわしかけて出来上がり。



海鮮の味噌汁

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鍋にタマネギ、ズッキーニ、ダイコン、ニンジン、ナスビを入れ、水とダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして、15秒湯通しした海鮮(びんちょうマグロ)を入れ、10分煮て、味噌を溶き入れ、煮立たせないように3分ほど煮て出来上がり。



ナスの辛子漬け

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ナス2本は縦半分に切り、横に1センチ幅ほどに切り、塩をふってもみ、1時間ほど置く。水気をしぼり、大さじ1の酢をふる。

お椀に小さじ1の練りからし(チューブ)を入れ、各大さじ1のみりん、酒、醤油、味噌を入れて溶き、ボールに入れ、ナスと混ぜて出来上がり。昼作ると夜には食べれる。


前回同様「即席※ナスの辛子漬け」と「なすのからし漬け」を参考にした。



ダイコンおろし


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ラッキョの醤油漬け   
  
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ラッキョの甘酢漬けは1週間ほど前、海苔の瓶に2つ作ったが、まだ少し畑にラッキョウが残っていたのを掘り上げ、醤油漬けにした。

ラッキョウはよく洗って熱湯をかけ、冷めたら瓶に入れ、醤油をひたひたより少な目に入れ、各大さじ1の酒、みりん、酢を入れ、混ぜて出来上がり。3日ほどしたら食べれる。「らっきょうの醤油漬け」を参考にした。



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多摩全生園  長谷川と志さん



(癩発病して入院せし当時を思ひ起して)
乳欲りて膝に寄る子を幾度か振り放ちたり生みの親吾れは




療院に吾が病み古りて子のもとにゆかむ思ひも今はうすらぐ




膝の穴開きたるモンペ薄き眼に白糸持ちてつくろひて見ぬ




(別離詠)

幼子の寝顔を見つつ療園に明日行く支度のわが手にぶりぬ




幼子を父母に委ねる姉われの行方をせつに質す弟




何時いつと癒ゆる日に希望かけて来しわれに離縁の便り届きぬ




追ひ来るを追ひ返し追ひ返し別れたる子が四十年ぶりに会ひに来ぬ




昏るるまで遊び呆けし少女の日浮かび来るなり月見草の花




朝朝にもの言ひながら茶を供ふ湯気にて夫の遺影がかすむ




帰れども待つ人のなき部屋くらく夫の遺影に一人もの言ふ




煙草喫ひテレビの前に座りゐし夫の浮びて夜半を覚めをり




夫の位牌抱きて移りし独身療今宵安けく眠らむとする




汝が病ひ癒えずば再び帰るなとあやまる如く父は言ひけり




病む故のわれの不幸を思ひつつ父母の墓前に嗚咽しやまぬ



長谷川と志(白鳥とし子)さんの略歴
明治42年静岡県生まれ。昭和10年4月全生病院入院。はじめ白鳥とし子で作歌したが中断。昭和58年7月、37年連れ添った夫が急逝したのを機に「勁草」に入社。作歌を再開。『木がくれの実』(昭和28年)『青葉の森』(昭和60年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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多摩全生園  太田三重夫さん



盲ひ妻明け暮れ護ればおのづから吾の心のゆるむ事なし




大儲けしてみたくなり幾枚か妻に秘して買ふ宝くじ




畑打つ吾が鍬先をまぬがれし青き
蜥蜴とかげの命想へり




春日射す窓のベッドに移りしが幾日経ずして死にゆきし妻




亡き妻を一年あまり養ひし匙に食器を捨て難く持つ




やうやくに繃帯とれて顔洗ふ真水双手に今朝は
すくひぬ




知る限りの友の写真を額にして今日より個室に病みゆかむとす



太田三重夫(三重雄)さんの略歴
大正2年生まれ。昭和10年多摩全生園入園。「一路」所属。昭和49年没。『木がくれの実』(昭和28年)『陸の中の島』(1956年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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十三年ぶりの母との面会

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P130~P134抜粋


 私からの手紙を読んだ母は生きているうちに私に会おうと決めました。米の持ち運びは食管法で禁じられていましたが、米さえ持っていたら何でもできます。愛生園や私が「どうなってるかわからへん。女だから裸にされることはないだろう」と、母は帯の袋に米を入れて腹に巻き、妊娠しているような格好で家を出たといいます。そして両手にも米を入れた荷物を提げていたそうです。

 終戦直後はお金は紙くずみたいなもので、それこそ物がものをいう時代でした。なかでもお米はお金以上に価値があり、何とでも交換できました。当時、食糧管理法という戦時中にできた厳しい法律がありましたが、農家が生産した米は自給分を除いて、政府が決めた価格で買い上げ、それを全国民に一定量を配給するというものです。配給量は家族数によりますから、そのために米穀通帳が配付されて、これを持たないと米の配給を受けられませんでした。

 物資の統制は戦争の進展とともに衣食のすべてに及び、量も少なく、しかも不定期になってゆきました。そして物資の不足とともに食管法を通さない「ヤミ=闇取引」が盛んになってゆきました。農家は働き盛りの男手を軍隊に取られて生産が落ちていたので、安い価格で政府に買い取られることを極力避けました。敗戦後、国民はヤミなしでは生きていかれませんでした。ヤミではなんでも手に入りましたが、そのヤミを警官は取り締まったわけです。

 因美線にのった母は、まず鳥取県の県境で引っかかりました。「手に提げているのは米じゃないか」と問い詰められました。そこで「そんなことは言わんでください。息子が今、岡山の病院で危篤状態で、これは私が食べるものだから放してください」と頼み込んでようやく第一関門を突破しました。

 ところが岡山駅についても長島というのがどこにあるのか、母には全然わかりません。駅員に「らい病の療養所はどこにあるんですか」と聞いたら、「警察に行って聞きなさい」と言われました。腹に米を抱えて、米の入った荷物を両手に提げた姿でしたが、やむなく警察に行ったのです。すると案の定、問い詰められました。ここでも「私の息子が危篤状態で、私が食べる米だから助けて下さい」と土下座をしてやっと通してもらったといいます。

 「西大寺まで電車がある。それに乗って、そこからバスで行きなさい」と、警察ではそう教えてくれたそうで、こうしてようやく母は長島に来ることができました。

 手紙を出して四日目でした。「面会人です」と呼び出されて、私は家内の肩にすがってやっと面会所にたどり着くと、そこには母がいました。
「お母さん、よく来たなあ」
 ぐるぐる巻きの包帯の間から私は振り絞るような声でそう言いました。しかし私の顔は、包帯の間からわずかに目がのぞいているという状態なので、母には私ということが全然わかりません。私は再び、「どうしたの、お母さん、よう来たねえ」と言いました。すると怪訝そうに私を見つめていた顔色が急に変わりました。
「許してくれ。間違った。こんな所に一人でやってしまって・・・・」と、面会者と入所者を隔てる、幅広のカウンターに泣きふしてしまいました。

 あとから聞くと、母は「どうしたの、お母さん」という声でやっと息子だとわかったと言いました。私は結婚の通知もしていなかったので、付き添う家内を「家内の綾子です」と紹介しました。それから三人で部屋に向かいました。

  部屋の玄関には馬鈴薯が十五、六個ころがっていました。母は「これはお前が作ったのか?そんな身体でかわいそうに。家にいたらなあ、こんな苦労はさせんのだが」と言ってくれました。また馬鈴薯をむいた皮が干してあるのを見て、「これはなに?」と聞くので「わしが作った馬鈴薯。これがなけりゃわしの命はないよ。食べるものがないのだから」と答えると、「かわいそうに。わしが持って来てやったのに」と言って、家内に「米は食べられる分だけ持ってきた。これでお粥を炊いて、ハジメに食べさせてくれ」と渡しました。

 母はまた、山陰地方の焼きサバを三本持ってきていました。当時、青いサバは病人にはよくない、白身の魚の方がいいと言われていたからか、母は家内に「綾子さん、サバはあんたが食べてな。ハジメには食べさせんでくれ」と言って渡しました。そして、母は「もうわしは帰らん。どんなことがあろうともう帰らん」と言うのでした。

 後年になって聞いたのですが、母は私の姿を見て、「命はあと四、五日だなと思った。そんな姿になっとるのを見捨てて帰れるかと思った」と言いました。

 それで、「いや、そんなこと言わずに帰ってくれ」、「わしは帰らん」と私と押し問答です。母は家族に黙って長島に来ています。他の人に一切言わずに出てきていました。だから「病気が出てから今まで十三年間、二人で苦しんできたんだから、帰ってくれ」と、私は頼みました。母は「他の人にどう言われようと、もう帰らん」と言う。「いい薬ができて、病気は治るようになったのだから、必ず治るから」と説得して、その晩一晩泊まると、やっと「それでは綾子さんがおられるので、お願いして帰ろうか」と、明くる日に帰りました。

 母は後ろ髪を引かれる思いで帰ったと思います。その頃は終戦直後の混乱期でしたから、入園時に注射をされたり診察をされたりはなかったようですが、交通事情、食糧事情の厳しい中で、よく面会に来てくれたものだと思います。

 幸い私は死なずに済みましたが、その後十年間、母と会うことはありませんでした。


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キュウリの酢の物



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キュウリ3本はスライサーで薄切りし、塩をふってもみ、30分以上置いて、さっと水洗いし、水気をしぼる。カニ風味カマボコ2本を水で解凍してほぐしながら入れ、ミョウガの甘酢漬け1個を粗みじん切りしていれ、醤油大さじ1、酢大さじ2、レモン果汁大さじ1、蜂蜜大さじ1を入れ、混ぜて出来上がり。



ピーマンの佃煮

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細切りしたピーマンを鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんと、水を少し入れ、煮立ったら弱火にして4分ほど煮て、水気が少なくなったらカツオブシを入れ、混ぜて出来上がり。




豆ごはん

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4合の白米を洗い、小さじ1の塩を入れて混ぜ、200gほどの豆を入れ(混ぜない)、炊き上がったら混ぜる。最初はまだ白いが、4時間ほど経過すると、ほんのり桜色になる。明朝には赤飯色になる。




野菜の蒸し煮

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熱したフライパン(無水鍋の外蓋)にバターを入れ、ズッキーニ、ニンジン、ダイコンの輪切りを置き、ベーコン1枚ととろけるチーズ1枚を小さく切って置き、蓋をして(無水鍋の中蓋)、1~2分して煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、大さじ2のポン酢をまわしかけ、混ぜて出来上がり。




手作りポン酢

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醤油70CC+酢50CC+みりん30CC+レモン果汁50CC=200CCの手づくりポン酢の出来上がり。

7・5・3ポン酢を参考にしている。
    
       


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多摩全生園  碧海以都子さん



疵の臭ひにむらがりて来る蝿の群追ひつつ悲しきわが生きの身は




諧謔のなき生活を淋しみつ夫の好みにわが寄りてゆく




わが指の病み重りつついささかは腫みの退けば指環をはむる




病ひ重れば荒き言葉の一つさへ耐へがたきまでに胸にのこれり




病ひ悪くなりたくはなし髪結ひて廻る作業にわが働けり




クリスマス又回り来る夜夜を遠くあづけある子の服縫ひ急ぐ




焼茄子の甘きに泪湧きし朝容赦なき容赦なき人間世界




病む夫の指示にて野ばら移植しつつ汗を流せり彼岸に入る日




結婚の多き五月なり癩園のパーマ部に忙しくわれの働く




手の上のぶどうの房より這ひ出でて小蜘蛛が朝の童話をつくる




標準より少し小さしと聞くのみの吾子の服を縫ひ上げにけり


碧海以都子さんの略歴
多摩全生園。1928年4月30日愛知県に生まれる。1938年小学校4年の時多摩全生園に入所。一時帰省で故郷の学校に通う。
木谷花夫の妻。『木がくれの実』(昭和28年)『輪唱』(昭和34年)『陸の中の島』(1956年)


あなたが木谷花夫さんの妻だったのですね!


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多摩全生園  鈴木数吉さん




なりし歌頭に持ちて書きくるる友待つ盲の一と日は永し




犬猫の夜見ゆる眼を涙してうらやむ友を慰めがたき




行き馴れし路につまづき歩きつつ未だも杖を持つ気になれず




指萎の盲の我はいろいろに杖の握りをこしらへて見ぬ




盲住む療と知りてかある時は畳の上に雀来あそぶ




病む身には春と秋とが短くて苦しき夏と冬とが長し




吾が探す小銭の在処をそこそこともどかしがりて友が教ふる




苦しさを訴へむとすらし口の辺に耳おしつくれど聞きとり難き



鈴木数吉さんの略歴
明治30年生まれ。昭和17年没。昭和3年多摩全生園入園。所属なし。『東雲のまぶた』(昭和5年)『木がくれの実』(昭和28年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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