加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P107~P110抜粋
家内も齢をとり、86歳になりました。声だけは元気ですが、体のほうは少し弱って来ています。愛生園で会って結婚し、それからはずっといっしょに住んできました。子供はできませんでしたが、68年もいっしょに生活できたのは幸せなことです。
結婚した当時、世の中は国家総動員法が布かれ戦時体制でした。徴兵も軍需動員も私たちにはなかったのですが、いつ病気が再発するかわからず、園のなかで過ごすことを決意しました。それが家内との結婚につながったのです。
いまだに解明されない謎ですが、ハンセン病患者は男性が多く女性のおよそ2倍です。不治とされていたため、いったん入所したらここでお互いに助け合い励まし合って一生を過ごさせるというのが療養所の方針でした。園内で安らかな生活を送って貰うためという理由で、外での既婚者にも所内結婚を認めていました。ただし未入籍結婚の場合は男の通い婚であることは先述しましたが、その場合も断種を受けなければ認められませんでした。女性の閉経した人まで行われていました。
妊娠は女性に負担がかかります。女性患者が妊娠して6ヶ月過ぎたり、その前でも中絶をすると、必ず病気が悪くなる。そういう話を聞いていましたし、現実にそういう姿を多く見ていましたので、私は婚前交渉はしないという決意を堅く守りました。そして私も悩み抜いた結果、断種手術を受けました。そのときは本当に情けなく、もう人間失格というか、男子ではなくなったような死んだような気持ちになったものでした。
入籍すると六畳二部屋の「十坪住宅」へ入ることになりました。玄関、トイレ、洗面所、台所は共同です。その六畳に二組ですから、十坪住宅一軒に四組の夫婦です。ここでは順番を待っていて、四畳半一組の「個室」に行く希望をもつことができました。当時、千円出すと一棟分の権利が貰えました。五百円出すと四畳半二部屋のうちの一室の権利が買えました。
私と同時期に結婚した四組のうち、私たち以外の三組は金をもっている人で、初めから四畳半の私室でした。私もお金があれば四畳半に入りたかったのですが、ありませんでしたので六畳での二組が新婚生活の始まりでした。こればかりは残念でしたが、家内にも「我慢してくれ」と頼み、とうとう六畳で三年間過ごしました。
六畳に二組の生活というのは、布団を敷くとそれだけでいっぱいです。今の人たちには想像もつかないでしょう。後に真ん中に衝立ができましたが、その頃はありませんでした。ですから今日は私たち夫婦が友達のところに行って夜は空けておくと、明くる日の夜はもう片方がいなくなるという形で、互いに気遣って生活をしていました。
しかし内縁関係の人たちはもっとひどい状態でした。十二畳半に女性が六人、そこへ通い婚で泊まりにだけ行くのですから。それから考えると、結婚して順番がくれば、とにかく個室がもてたわけです。ただしその順番とは、夫婦者の一人が亡くなって独り者になると回ってくるわけですから、考えればひどいものでした。