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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

結婚=断種、入籍━個室

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P107~P110抜粋


 家内も齢をとり、86歳になりました。声だけは元気ですが、体のほうは少し弱って来ています。愛生園で会って結婚し、それからはずっといっしょに住んできました。子供はできませんでしたが、68年もいっしょに生活できたのは幸せなことです。

 結婚した当時、世の中は国家総動員法が布かれ戦時体制でした。徴兵も軍需動員も私たちにはなかったのですが、いつ病気が再発するかわからず、園のなかで過ごすことを決意しました。それが家内との結婚につながったのです。

 いまだに解明されない謎ですが、ハンセン病患者は男性が多く女性のおよそ2倍です。不治とされていたため、いったん入所したらここでお互いに助け合い励まし合って一生を過ごさせるというのが療養所の方針でした。園内で安らかな生活を送って貰うためという理由で、外での既婚者にも所内結婚を認めていました。ただし未入籍結婚の場合は男の通い婚であることは先述しましたが、その場合も断種を受けなければ認められませんでした。女性の閉経した人まで行われていました。

 妊娠は女性に負担がかかります。女性患者が妊娠して6ヶ月過ぎたり、その前でも中絶をすると、必ず病気が悪くなる。そういう話を聞いていましたし、現実にそういう姿を多く見ていましたので、私は婚前交渉はしないという決意を堅く守りました。そして私も悩み抜いた結果、断種手術を受けました。そのときは本当に情けなく、もう人間失格というか、男子ではなくなったような死んだような気持ちになったものでした。

 入籍すると六畳二部屋の「十坪住宅」へ入ることになりました。玄関、トイレ、洗面所、台所は共同です。その六畳に二組ですから、十坪住宅一軒に四組の夫婦です。ここでは順番を待っていて、四畳半一組の「個室」に行く希望をもつことができました。当時、千円出すと一棟分の権利が貰えました。五百円出すと四畳半二部屋のうちの一室の権利が買えました。

 私と同時期に結婚した四組のうち、私たち以外の三組は金をもっている人で、初めから四畳半の私室でした。私もお金があれば四畳半に入りたかったのですが、ありませんでしたので六畳での二組が新婚生活の始まりでした。こればかりは残念でしたが、家内にも「我慢してくれ」と頼み、とうとう六畳で三年間過ごしました。

 六畳に二組の生活というのは、布団を敷くとそれだけでいっぱいです。今の人たちには想像もつかないでしょう。後に真ん中に衝立ができましたが、その頃はありませんでした。ですから今日は私たち夫婦が友達のところに行って夜は空けておくと、明くる日の夜はもう片方がいなくなるという形で、互いに気遣って生活をしていました。

 しかし内縁関係の人たちはもっとひどい状態でした。十二畳半に女性が六人、そこへ通い婚で泊まりにだけ行くのですから。それから考えると、結婚して順番がくれば、とにかく個室がもてたわけです。ただしその順番とは、夫婦者の一人が亡くなって独り者になると回ってくるわけですから、考えればひどいものでした。


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医師・看護婦

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P101~P104抜粋


 私が愛生園に入所したとき、定員890名のところ、すでに1250名になってしました。看護職員は規定では400名に対して12名、つまり36人必要ですが、看護婦は20人でした。入所者はさらに増えて1450名になって、看護婦も24人になりましたが、そのうちの2名は召集されて従軍してしまいました。医師は7人いましたが、看護婦の数は圧倒的に不足し、まともな看護ができる状態ではありませんでした。

 ハンセン病は不治の病と言われていましたから、医師や看護婦、職員の中には、信仰心が篤く使命感に燃えた立派な人格者がいました。入園当初の私には、ひどく衰弱し悪臭を放つ患者を抱きかかえて治療する若い看護婦がナイチンゲールのように見えました。

 しかし、僻んだ見方かもしれませんが、結局その医師たちも、「この不治の病を研究してやろう」という若さからくる意欲と功名心で取り組んでいるように見えました。医師の欠員が出ないほどでしたが、戦後、ハンセン病が化学療法で治るようになると、専門医、研究者が目に見えて少なくなったのは、その表れといえるでしょう。

 当時の治療法といえば「大風子油」という、南方で採れる植物性油脂の皮下注射だけでした。これは何百年も前から南アジアでハンセン病治療薬として使用されてきたものですが、他に何もないので、気休めとわかっていながら使われたような「薬」でした。

 時々新聞などに「ライの特効薬新発見」という広告が「〇〇博士」の名前などを付けて出ましたが、その新薬が一年後にも話題になることは決してありませんでした。非常に高価でしたが、買う人がいるから、しばしば掲載されたのでしょう。金持ちの家では屋敷の奥座敷に患者を閉じこめていた時代です。「藁にもすがりたい」患者の願いにつけこんだ詐欺のようなものでした。

 1933(昭和8)年、癩学会において、太田正雄(木下杢太郎として有名)は、光田先生を始めとする主流に対して「癩病は治らぬという確信があるようだ。隔離だけが絶対ではない。薬に対する懐疑論はよくない」と発言しました。太田先生はハンセン病菌の動物接種実験をずっと続け、1940(昭和15)年には、「癩根絶の最上策は化学的治療にある。自分の家で家族の看護を受けて病を養うことが出来ないのは、強力な権威がそれを不可能だと判断するからである」と、断言しています(「映画「小島の春」)。しかし太田先生は医療行政に積極的にタッチすることはなく、戦争末期、動物培養の成功を見ることもなく、プロミンの治療効果についても知らぬまま亡くなりました。

 隔離政策を公然と批判し在宅治療を主張した唯一の医師に、京都大学特別教室の小笠原登先生がいましたが、主流派から「伝染病であることを否定するのか。国策に反する!」と猛烈な反発、攻撃を受けました。アメリカでスルホン剤から精製されたプロミン治療が始まったのは1941(昭和16)年のことでした。


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タジン鍋




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鯛アラは15秒湯通しする。

タジン鍋の下敷きにタマネギのスライスを入れ、ダイコンとズッキーニの輪切りを入れ、鯛アラを置き、生姜1片をすりおろし、ニンニク醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。



新ニンニクでニンニク醤油作り

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新ニンニク6片ほどは鱗片をはずし、皮をむいて、水洗いし、瓶に入れる。醤油を注いで出来上がり。2~3日常温に置き、その後は冷蔵庫で保存する。



厚揚げとズッキーニ炒め

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先にズッキーニを油で炒め、その後、厚揚げを入れ、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



ダイコンおろし
 
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「未感染児童」T君

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P223~P229抜粋


 病気になった親が収容されるときにいっしょに連れてきた子供さんがいました。それぞれ故郷では養育のできない事情があったわけです。この子たちのことを「未感染児童」と言うのですが、これもすでに偏見の意味を含んだ言葉です。「未だ感染していない」けれどもいずれは感染、発症するというニュアンスを籠めた命名であり、使い方が間違っています。

 この子たちは病気ではないわけですから、非患者地域の「保育所」で集団生活を送ることになり親子別々の生活です。この保育所には通算すると百人以上いました。月に一度の開園記念日にお互いに遠くから眺める機会を与えられていました。

 病気の学童は園内に設けられた愛生学園に通い患者の教師が教えました。医師・職員住宅の児童は船に乗って対岸の村の学校に通っていました。この「未感染児童」の保育所の子供たちには島内に黎明学園という立派な名称の特別教室があてがわれて、教師と保育師が正式の教科書を使って寺子屋式で教えていました。親が病気だったために教育差別を受けていたわけです。新憲法施行の翌年、1948年(昭和23年)からは地元の裳掛小学校の分校扱いになったことは先述した通りです。

 戦後、保育所育ちの子供たちが社会に出る準備や社会訓練をする場として、大阪に白鳥寮という施設が設けられました。近所周辺には戦災孤児のための寮といっていたようです。今の新幹線の新大阪駅の近く、大阪水道局の貯水池があった近くです。長島育ちと明記されて親の病気がわかれば排除され就職できないということで、いったん住所も白鳥寮に移してここから就職したり社会に出たりしました。

 そういう施設としてはもう一つ島根県平田市(現・出雲市)の古平田寺がありましt。そこに錦織という青年住職がおられて、自分のところで一時子供を引き取りました。「未感染児童」は一度、住所や本籍もそこに移して、それから出ていったわけです。

 この白鳥寮が、対象者がいなくなり閉鎖になったのが1965年(昭和40年)のことです。ちょうど私が自治会長をやっているときでした。そのときに白鳥寮を大阪府に1610万円だったと思いますが、売却しました。その代金を資金にして入所者の社会復帰と社会福祉のための設備を整えました。すでに活版印刷、ラジオの組立て、車の運転、簿記、タイプ、園芸、パーマ、洋裁、編物などはやっていましたが、岡山はイグサの産地でしたから、地場産業の畳工場を新たに造りました。この工場で毎日8時間働くことで社会復帰訓練をする福祉厚生施設でした。 

 あまり語られていないのがこの「未感染児童」のことです。病気でもないのに患者同様の偏見、差別、排除を受けて育ち、一生をそのために苦しんだ人が多くいます。

 親から相談されて、私なりに世話をした子供にT君がいます。T君は黎明学園を出てからも、その頃は保育所に4~50人ぐらいいましたから、保育所の食料自給のために島内で働いていました。仕事は百姓仕事と豚舎での豚飼育でした。保育所の補助要員ですから、本来なら職員、少なくともそれに準ずる待遇を与えるべきです。それが成人する20歳まで無報酬のまま働かされていました。愛生園のための奴隷労働でした。

 その頃、T君の親から相談されて、 待遇の酷さに私も驚きました。保育所は私たちの居住区とは「別世界」ですから、生活全般その他なにもわかりません。保育所の教師が寮長でもあり、保育児童全員の親代わりです。園の窓口を通してその教師に面会を求めました。そして「社会復帰をさせてやっていただきたい」と要請しました。しかし彼女は「引受人がないと出すことはできません」とそっけない返事を返すだけでした。
「今後もここで働かせるなら、きちんと雇員として採用し、独立の道を与えてやって下さい」と強く申し入れると、「引受人ができれば社会復帰させます。探してください」と言うばかりで、雇員とすることについては触れようとしません。病人でもないのに「社会復帰」もおかしなものですが、それだけここは世間から「隔絶」されていたわけで、だからこのような少年が存在し、このような事実があり得たわけです。

 面会にもよく来られて、病気についてもよく理解している方に、親が病者であるために就職に困っているという事情をよく話した上で、「社会復帰」について依頼したところ、2か月ほどたって、大工さんの仕事をもってきてくださいました。棟梁の家に住み込んで大工職人の修行をするという良い話でした。

 この話がまとまったことを保育所に伝えると、意外なことに喜ぶどころか不満そうでした。それは手当もなしに真面目によく働く人間を失うことが残念という態度でした。

 親も当人も、仲介した私も、喜んでT君を送り出しました。もともと世間ずれしていない真面目な性格ですから、一生懸命に働いていたようです。

 それから5年たって、また親御さんから相談を受けました。T君本人から「給料を一度もいただいたことがない」と言ってきたというのです。住込みの徒弟制度で、子守りから掃除、家事一切をやらされているので、T君が小遣い銭の話をしたら、親方の大工に「お前の親はらい病で、行くところがないお前を助けてやっているのだから、有難く思え」と言われたというのでした。

 人の弱みに付け込んで利用しようという、ひどい大工でした。こんなところにいたのでは将来もなにもないことは明らかですから、新たな仕事先を伝を頼って探しました。

 幸いなことに6か月の見習い教習に合格すれば本格採用になるという好条件のベアリング会社が見つかりました。無事に見習い期間を通って本採用が決まりました。そこで戸籍抄本が求められ、提出しました。そこにはT君の父親について「光田健輔届出により死亡届出受付」と記されていました。当時、愛生園での死亡者はみな、そのように記録されました。

 会社の担当者から「あなたはどうして光田健輔と関わりがあるのか」と尋ねられて、T君は頭の中が真っ白になり、何も答えることができないでそのまま退室したそうです。人事係もよく光田健輔の名前を知っていたものです。 

 T君の消息がそれ以来わからなくなりました。親御さんは気が狂ったように、同じ保育所を出て外で生活している方を中心に手配して探しました。唯一の手がかりは京都でばったり出会ったという友人の話です。喫茶店に入ってコーヒーを飲んで別れたが、事情も知らないので詳しく聞くこともなかったから、どこで何をしているかわからないとのことでした。

 親御さんは生きるだけは生きていてほしいと言って、ただ生きていることを祈っておられました。病気になった人も気の毒ですが、保育所にいた百何人の子供さんが元患者と同じ思いを味わい、未だに隠れています。その人たちは今は家族もいて、穏やかに暮らしていることでしょう。

 今さらハンセン病のことをしゃべって、寝た子を起こすようなことはしてくれるなと、私も言われます。それは昔の影に脅えているのだと感じますけれでも、その人たちの気持ちを無視するわけにはいきません。女性の場合は保育所育ちを隠して結婚して、その後子供に恵まれ、孫もできて、比較的平和に過ごしておられる方もいると聞きますが、心のなかでは苦しい時期があったに違いありません。

 脅えなければならない影が社会に残っている限り、ハンセン病問題は解決したとは言えません。 



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ズッキーニの煮物



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鍋にタマネギのスライスを入れ、水とダシの素を入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にしてズッキーニと豆を入れ、10分ほど煮て出来上がり。



ズッキーニのおやつ

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ズッキーニ1本は12枚に切り、ベーコン2枚を12等分してのせ、とろけるチーズ1枚を12等分してのせ、オーブントースターで7分焼いて出来上がり。



ダイコンおろし

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コンニャク炒め

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乾煎りしてニンニク醤油で味付けして出来上がり。



タマネギそのまま
 
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スライスしたタマネギをボールに入れ、ポン酢を入れて混ぜ、カツオブシをふって混ぜると出来上がり。今回はマヨネーズも入れた。


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母のことばが私を支えた

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P53~P57抜粋


 ハンセン病と診断された後、国立の療養所へ入る前に、一度どうしても母親に会って話をしようとしたことを思い出します。田舎へ帰ったのは二年半ぶりくらいでした。夜は二人だけにしてほしいと頼みこみ、母も再婚した嫁ぎ先から来てくれました。会うと、母親は「帰ったか!元気でやっとるか」とただただ喜んでくれました。だから余計に打ち明けにくかったのをよく覚えています。

 夜も更けてやっと、私は大阪の日赤病院でらい病の宣告を受けたことを告げました。それを聞いた母は、「そんなこと、ご先祖様にも聞いたことがない」と頑強に否定します。遺伝だと思っていたわけです。
「そんなこと聞いたことがない。何かの間違いだ。おまえは夜間部で勉強をしたり働いたりしてるからそういうことになったんだ。疲れてるんだから帰ってこい。帰ってきて休んだら良くなる」と言いつのります。
「そんなことを言っても、大きな病院でたくさんの先生方が集まって診断したから間違いないんだ」と私は答えました。それっきりお互いものを言わずに、一晩中ため息ばかりついて一睡もできませんでした。外が明るくなってきて、結局母も諦めたのか、涙を流しながら言いました。
「必ず治って、笑っていっしょに話せるときがあるから、それまでわしはおまえのことを一切しゃべらない。おまえの病気が治るまでは口が裂けても言わん。手紙は書かんでもいい。住所がわかって困るから。手紙がこないことは元気でやっていることだと思うようにするから。これだけは頼むよ」と。そして「病気というものに、治らんものはない。治らんのは病気に負けとるんだよ。おまえは島に行って一生懸命治療したらよくなる」と力づけるように言ってくれました。私が自殺するのではないかというような気配を感じたのでしょう。「どんなことがあっても生き抜いてくれ。頼む。頼む」と、繰り返す母の声は今でも耳の底に残っています。

 このときの言葉が、今日まで、私が生きてきた一番の支えになっています。

 母は明治二十九年生れです。明治の人の気骨なのでしょうか、別れ際に「人間は生れてきた以上、人の役に立つようなことをしなさい。そのために人は生れてきてるんだから、おまえも絶対に生き抜いてくれ。社会に役立つような人になってくれ。元気になってくれ」と言いました。

 私が母を尊敬するのは、再婚後(再婚の事情やその状態については後述します)、「人間は真心があれば、言わなくても通じる」と言い続けていたということです。再婚後に生んだ、私にとっての異父妹の二人からそれを聞きました。妹二人と会うとしょっちゅう、「お母さんはこう言った」という話をしますが、「真心があれば必ず通じる、だから腹が立つことがあっても半分までにして、口から出したらあかん。必ず真心は通じるから」と言っていたといいます。

 母は再婚先で、私も聞くと涙が出るほどかわいそうだなと思うような苦労をしていました。その母が私に会うといつも同じことを言っていました。幼い私が父母もなく一人でたいへん苦労をしているだろうと、母にはとても不憫に思えたのでしょう。そういう母の言う「真心があれば必ず通じる」は孤児のような私への励ましだったのだと思います。その言葉には、幼心にも胸を衝かれるものがありました。

 療養所の中での七十三年間、私が諦めなかったのは、母の「おまえも絶対に生き抜いてくれ。社会に役立つような人になってくれ」という言葉があったからです。隔離されていた私は母と言葉は交わさなくても「真心」のうちでつながっていました。私は母の存在を通して「故郷」とつながっていました。

 私はハンセン病と診断されて愛生園に入るまでは風邪をひいたこともないほと健康で、小学校八年間、皆勤賞でした。そんな私でしたが、この九十二年間に死と背中合わせの体験を四度しています。最初は入所して三ヶ月が過ぎたとき、三十九度の高熱が続きベッドで三週間過ごしました。あとで結核性の肋膜炎(胸膜炎)とわかりました。

 二度目は戦後、ハンセン病が再発したとき、プロミン注射の副作用と重なって末期症状となり死と背中合わせの状態でした。後述しますが、この瀕死状態のとき、私は、母の自分自身を犠牲にしたような物心両面にわたる援助によって回復でき、それから十年後には、自身が亡くなった後の息子の行く末を心配している母の愛情を知りました。

 三度目が七十七歳のときです。胃ガンの手術を受け三分の二を摘出しました。八十九歳のとき、店頭して頭を打ち硬膜内出血を起こしたのが四度目です。ドリルで頭蓋骨に孔を開けて血を二百CCまで吸引したところまでは覚えていますが、脳に空洞ができたため平常にもどるのに約六ヶ月を要しました。完全に認知症になると覚悟しました。この四度の瀕死体験とは別に二度、失明状態になりましたが、奇跡的に弱視ながら視力を保つことができました。

 病んだときベッドにいて浮かんでくるのは常に「家のためとはいえ再婚して、四歳のおまえを一人にして済まなかった。許してくれ。どんなことがあっても生き抜いて、人のため社会のために役立つ人になってくれ」という母の言葉でした。幼いときから一緒に暮したことのない母ですが、この世にいなくなってもその母とは心の絆で結ばれています。

 家族と故郷から切断された人の孤独と苦しみには想像を絶するものがあるだろうと、私には常に母との心の絆があったからこそ思うのです。


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海鮮の味噌汁



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海鮮は15秒湯通しする。鍋にタマネギと水を入れ、ダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして海鮮とスナップエンドウと豆を入れ、5分ほど煮て、味噌を溶き入れ、2分ほど煮て出来上がり。



ハーブティ

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左からセイジ、アップルミント、タイムで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らし、ハーブを取り出して出来上がり。



レタスの酢味噌和え

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レタスは洗って手でちぎる。ボールに酢、味噌、蜂蜜、砂糖を入れ、レタスの水気をしぼりながら入れ、手ですこしもんで出来上がり。



ズッキーニと厚揚げ炒め
   
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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ズッキーニ、厚揚げの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



ダイコンおろし
   
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レプラの告知

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P64~P66抜粋


 私が異常に気付いたのは目の上に出た赤い斑紋と、左の足の三センチくらいの赤い斑紋でした。日赤病院に行くと、「午後に特別診察するから待ってくれ」と言われました。その午後、たくさんの医師が私を取り囲み、幹部を筆や針で触って私の反応を見ました。それが診察方法でした。ハンセン病の一つの特徴は神経の麻痺です。私は筆にも針にも刺激を感じませんでした。

 五、六人の医師に囲まれたなかで、「あなたはレプラです。分かりますか、この言葉?」と言われました。私は「レプラ」が「癩病」であることをなぜか知っていましたから、ガツンと木刀のようなもので殴られたような気がして頭の中が真っ白になりました。

 その後、覚えているのは交差点に停まっている電車にぶつかって、車掌に怒鳴られたことだけです。十九歳の私がまず思ったのは、レプラに罹ったら家族、親族に迷惑をかけることになるということでした。

 私は大阪に来てから、四天王寺の参道でハンセン病の人たちの姿を見ていました。保健衛生行政のいう「浮浪癩」がそこにはいっぱいいて、生きるために物乞いをしていました。「これはひどい人たちがおるな」と衝撃を受けました。見た目の印象というのは大きいものです。当時は不治の病でしたから、徐々に顔が変形し、悪臭が出て手指も欠落します。その上、義足でした。そしてそれらの症状が直接の死因になることはありません。

 それが立場が逆になったわけです。若いときにそういう人を見たときの感情、気持ちというのは覚えているので、差別の感情が分からないことはなかったわけです。

 私がその病気だと宣告されたのですから身体全部をこの世から消してしまいたいという不思議な感覚でした

 その午後をどこでどうしていたのかよく覚えていませんが、夜、港でしゃがんでいることころを、見回っていた警官が声をかけ交番へ連れて行ってくれました。自殺する気だったのかもしれませんが、とにかく命は助かった。もう夜中でしたから、タクシーで帰り、あくる日になって薬をもらわなかったことを思い出しました。

 レプラでも薬がないことはないと思い直し、もう一度日赤病院に行きました。受付けの人がすぐに「あっ、裏へ回ってください」と言って私を連れ出しました。連れて行かれながら「病院の裏は汚いところだなあ」と思った記憶がなぜか鮮明に残っています。

 そこで「あんたはここでは診療できません。岡山県の長島に専門の国立病院があるので、そこへ行ってください」と言われました。「療養所」ではなく、はっきり「病院」と言いました。私は「島」という言い方から「これは島流しかな」とも思いましたが、どっちにしろ一度行ってみて、それから身の振り方を考えようと決めました。そしてその前に一度、母にだけは言わなければならないと思い、鳥取に寄ったのです。このときのことは先述した通りです。


「レプラの告知」を読んでいたら、藤本トシさんの「謎」という随筆が頭に浮かび、オーバーラップした。加賀田一さんも藤本トシさんと同じく十九歳のとき発病。


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豚肉とタマネギ炒め


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豚肉100gは解凍して15秒湯通しする。ニンニク1片は薄切りする。

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク、豚肉、タマネギの順に炒め、生姜醤油で味付けして出来上がり。



ダイコンおろし
  
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冷凍うどんの画像がないが、冷凍うどんは4分茹でて冷水にとり、皿に入れる。ダイコンおろしと茹でたエンドウをのせ、メンツユで。


ズッキーニのおひたし

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ボールに蜂蜜と醤油を入れ、生姜1片をすりおろす。じっくり炒めたズッキーニを入れ、混ぜて出来上がり。


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大阪で勤労学生に

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P62~P63抜粋



 1932(昭和7)年、私は小学校の高等科を卒業しました。当時の義務教育は尋常小学校六年で、そのあと高等小学校二年を終えて働くのが普通でした。余裕のある子は尋常小学校を出てから五年生の中学校、女子は高等女学校へ行きました。

 卒業時に担任の先生は私に師範学校に行くよう、盛んに勧めました。師範学校というのは尋常小学校、高等小学校の師範すなわち教師養成用の学校です。五年制なのですが、授業料の補助があって貧しくても行ける学校でした。

 ところがこの昭和7年、師範学校の新入生受入れが中止になってしまいます。担任の先生が「一年間、補習してやるから」というので、家の農作業を手伝いなら勉強して待っていたのですが、次の年も募集がないということがわかって、大阪に出て商社へ入りました。1933(昭和8)年のことで、私は16歳になったばかりでした。

 私が子供のときのことを考えてみると、昭和6年が満州事変、軍国主義が盛んになり、いわゆる十五年戦争に突入していった時代です。富国強兵のため、小学校高等科にも軍事教育が導入され、師範学校の入学も中止になりました。

 大阪へ出ても学校へ行きたいという希望は持続していました。だから働きながらもまず学費を稼がなければということで、一年間働いて今度は夜間部に通いました。仕事は通学のために三十分早く切り上げ、そのかわり朝早く出勤しました。労働条件も厳しかったので、少々過労だったかもしれません。


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スペイン風邪と再婚

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P60~P62抜粋


 私の父親はスペイン風邪で1918(大正7)年に亡くなりました。私は0歳でしたから父の記憶はありません。スペイン風邪はこの年の春から世界中で流行し、翌年には収束したようですが、その間に日本で約40万人、世界中では約2500万人が死亡したといわれています。

 父は農家の三男でしたが、亡くなったのは家を造ったばかりのときでした。23才だった母は新しい家もできたばかりで、幼い私と住む気でいました。しかし内装もまだで、里が近かったため、「所帯道具が揃うまで帰ってきておれ」ということで実家に留まっていました。当時は民法上、戸主権というものがあって長男絶対でしたから、三男の未亡人の分家についてはいろいろと難しかったのだと思います。財産分与もなく、母と私はそのまま里にいることになりました。

 母の実家の跡取りが末の男の子でした。まだ嫁をもらう前に私の母と、叔母にあたる人が「出戻り」となり二人が帰ってきました。だから家になかなか嫁が来ない。ちょいちょい話はあっても、小姑になる姉が二人もいるから崩れるわけです。叔母は母の妹ですが、子供がなかったから間もなく再婚しました。ところが母は私がいますから、簡単にはいきませんし、自分でも独立の意志をもっていました。

 「この子は男の子だから、私はこの家で暮らす」と、母はずいぶん頑張ったようですが、「財産もないし生活の見通しが立たんから再婚してくれ。そうしないと家を継ぐ弟に嫁が来ない。このままでは家がつぶれる。この子は家で育てるから、再婚して出ていってもらいたい」と両親から迫られました。それで母も家のためにどうしても再婚しなければならなかった。当時は今とは違って家のためです。それが母親と離れ離れになった経緯です。

 母の再婚は私が三歳のときでした。再婚先に先妻の子が三人いました。一番上が私より一歳上の男子ですから、まだ幼く、しかも実の子と同じ年頃ですから、母親の心中にはいろいろな思いが湧いたと思います。

 私は父親の籍ですが、育ったのは母親の実家で、祖父と祖母と叔父と暮らしました。母の再婚先は少し遠いということもあり、私は一度も行ったことがありませんでした。私たち母子の関係は別れたままになりました。母はそこで自分の子供、私にとっての異父兄弟を三人生みました。妹二人に弟一人でした。


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豆ごはん


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3合の白米を洗って炊飯器に入れ、3合の水加減にして、塩をひとつまみ入れて混ぜ、約200gのエンドウ豆を入れ、スイッチを入れる。

炊き上がってすぐの昼は左の画像のように白かったのに、夕飯では右の画像のように赤飯のような色になっていた。サカタの「つるありエンドウ豊成」という品種だが、去年の秋、グリンピースの発芽に失敗したので、エンドウを太らせてグリンピースがわりに使っている。



エンドウと厚揚げ炒め

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熱したフライパンに油を入れ、エンドウを先に炒め、続けて厚揚げを入れて炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。




タマネギ、ズッキーニ、豆の煮もの

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鍋にタマネギのスライスとズッキーニの輪切りを入れ、水とダシの素を入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして3分ほど煮て、豆とスナップエンドウを入れ3分ほど煮て、溶き卵1個を入れ、3分ほど煮て出来上がり。

ズッキーニは煮てもおいしい。
  




ヒヨコの遊び場拡張

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5月12日にはこのスペースでも広く感じたのに、2週間後の26日(昨日)には、囲いを飛び越えるようになったので、鶏舎の3分の1まで囲いを広げた。

後2週間すればこれも狭く感じるようになると思うので、囲いは取り払う。

まだ一羽の死もなく23羽(メス20、オス1におまけが各1で合計23羽)が全部元気である。



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光田健輔初代園長のこと

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P186~P194抜粋


 違憲国家賠償裁判後、よく「光田健輔とはどんな人ですか」と尋ねられるようになりました。私は園長と入所者という立場で、21年間ともに長島で居住していましたが、不思議と一度も診察を受けたことがなく、個人的に親しく話をしたことがありません。また、多くの方のように強制収容されたわけではなく、自ら願い出て入所した関係からか、光田園長に対し何の感情ももっていませんので、比較的客観的に見ることができるのではないかと思っています。

 光田園長は1876年(明治9年)に山口県防府市に生まれ、長州武士の薫陶を受けて育ち、生涯を自らの信念のもとに貫き通された人です。一言でいえば、「明治の気骨、老いの一徹」の人だと、私は思っています。その信念によって、日本のハンセン病事業を救済から強制隔離政策として推進させ、多くの患者とその家族を悲しませ、被害を与えた人となりました。

 公立療養所の設立によって、不治の病による貧困と病魔から多くのハンセン病浮浪者の命が救われたことも事実です。ハンセン病患者の中には、自分たちが高齢の今日まで生き延びることができたと、その功績に感謝している人も少なくありません。しかしまた晩年の国会における三園長証言は、すでに特効薬プロミンが顕著な薬効を示していたにもかかわらず、終生隔離という未曽有の人権侵害を基本にした「らい予防法」の成立につながったとして、裁判でも厳しく断罪されています。ですから「功罪相半ば」ということができるでしょう。
 
 1874(明治7)年、ノルウェーの細菌学者ハンセン博士が病巣かららい菌を発見され、世界の学者が競って研究に没頭しました。しかし、菌がたいへん弱く、ハンセン博士自身も培養ができないことは自分の力不足と反省の弁を著書に記していますが、現在まで純粋培養ができずにいるのも事実です。

 隔離政策はらい菌発見以前の1856年から60年にかけてノルウェーで大流行したとき、患者の禁足令と重症者の病院隔離によって鎮静化した実績から発想されました。1897(明治30)年「第一回国際らい会議」がベルリンで開催されて、ハンセン病は古くからいわれてきたような遺伝病ではなく、らい菌の感染から発病する慢性の伝染病であることが確認されました。そして治らい薬のできるまで患者は隔離することが安全であるという決議がなされています(山本俊一著『日本らい史』より)。

 このベルリンの国際学会に日本から東大皮膚科教授の土肥慶蔵博士、国立伝染病研究所長の北里柴三郎博士(北里大学創始者)のお二人が出席されています。当時、日本では外国の宣教師が路上に行き倒れになっている患者を、私財で病院を建てて救済に乗り出していました。静岡の神山復生病院、東京目黒の慰廃園、草津の聖バルナバ教会、熊本回春病院、同じく熊本の徒労院などです。外国の報道も、日本人は義理人情に厚い国民性と聞いていたが、困窮して行き倒れになっているハンセン病患者を放置していると伝えました。

 このような時期に医師となった光田健輔園長は、勤めていた東京市養育院(渋沢栄一院長)でハンセン病患者と出会い、「この世の中でこれほど悲惨な病気はない。自分は医師として、ハンセン病の治療と救済に一生をささげたい」と決意されたと聞きます。病理学を学ばれた光田園長は研究熱心で、その後、光田レプロミン反応という世界中で使用された検査法をあみ出しています。

 光田園長は持ち前の強引さでベルリンの決議を日本において強行してゆきます。10年後の1907(明治40)年、法律「癩予防ニ関スル件」を成立させ、2年後に府県連合立の療養所を全国5ヶ所に設立、「浮浪癩」の収容に乗り出しました。そしてその第一区として設立された東京全生病院の医長に就任します(後、院長)。

 1900年当時、医療衛生を管轄した内務省の発表では、登録患者数が30359人となっています。全国5療養所の総定員が1450床ですから焼石に水です。さらに実数は5万人とも10万人とも言われており、故郷を追われた患者は神社仏閣にたむろし、四国遍路などで行き倒れていました。

 そこで光田園長は渋沢栄一氏を始め政財界、学識経験者に呼びかけて、国立療養所設立による1万床計画を建議、推進しました。そして1930年(昭和5年)、初の国立療養所として長島愛生園の開設にこぎつけました。療養所としては破格の勅任官として初代園長に就任、以後、国の隔離政策の強力な推進役として尋常ならざる力量を発揮し続けました。

 園長の強引さを象徴させる私的なエピソードがあります。懐妊中の光田夫人に光田レプロミン反応注射をされました。らい菌を含む減菌した液0.1ミリリットルを注射すると、私たちハンセン病者は翌日には注射跡も消えますが、健常者にはニキビ大の赤瘢が残りメスでないと取れません。

 その時お腹にいたご長男が物心ついてからこの事実を知って、「自分は不要な子だった」と家出され、還暦まで絶縁状態だったということです。明治の人(長州士族に際立つ特徴かもしれませんが)の男性横暴、女性の従順さをうかがい知ることが出来ますが、光田園長の一徹な強引さが際立ったエピソードだと思います。

 1951年(昭和26年)は光田園長の生涯を集約するような出来事があった年でした。前年の朝日保健文化賞に続いて、この年、文化勲章を受章、1961年(昭和36年)にはダミアン・ダットン賞を受賞し、その功績が称えられました。この1951年に結成された全患協(現・全療協)は光田園長の文化勲章受章を祝って、全国の入所者から一人5円のカンパを募り記念品を贈呈しました。
 
 記念品は長島の自治会に一任されて、寝具一式を贈ったのですが、光田園長は「入所者がボロの布団なのに、私がこんな立派な寝具を着てはバチが当たる」と、床の間に飾り、来客があると、「患者さんが祝って贈って下さった」と、自慢されていたと言います。八十八歳で死去される三年前に脳軟化症になられると、ご家族の方が「患者さんのご好意を無にしてはならない」と説得し、ようやく着せられるようになりました。これも若いときの決意と精神を生涯貫かれたエピソードの一つでしょう。

 違憲判決の基を作ることになった三園長の国会証言が、同じ1951年(昭和26年)の11月のことでした。この証言が2年後の「らい予防法」の「改正」につながったと判決は指摘、激しく断罪しました。すでに国際的には在宅通院治療が一般化、隔離医療は特殊な場合に限られるようになっていました。それを1956年(昭和31年)のローマ会議は改めて正式に確認、世界は社会復帰の推進政策へと大きく転換していました。

 光田園長が退官したのはこのローマ会議決議の翌年、すでに81才という高齢でした。愛生園入所者の拠出金によって、今度は銅製の胸像が治療棟の入り口に再建されて、現在も立っています。その退官後、7年にして光田健輔は亡くなりました。

 光田園長の生涯を見て私は、人間は退き際が大切だと教えられます。人は齢を重ねると時代の変化に順応できなくなります。特に終戦を境に日本は国家として百八十度の転換をしました。私は終戦の玉音放送を聞いて、意味はよくわかりませんでしたが、間違った戦争に負けたのだと受け止めました。

 私たち入所者役員は患者でありながら、患者をわずか握り飯2個の支給によって、松根油作り、職員不足のための石炭の揚陸作業、用材の伐採、防空壕掘り等の重労働に徴用しました。間違った戦争に職員に代わって加担した、この肉体酷使によって病状を悪化させ、死者を増やした責任をとり、私たちは辞任を決めました。その経緯については、それを10月末までのばした経緯とともに前に記した通りです。

 このとき光田園長が私たち役員以上に、患者へ強制労働を強いたことの責任を感じておられたら、さらには勅任官として国家の戦争責任を感じておられたら、ちょうど古希の年齢にも当たっておられたのですから、別の評価があったのではないかと痛感します。2代目の高島園長は70才の定年制により退職、3代目の友田園長からは65才の定年制となりました。人の退き際の大切さを痛感します。

 光田園長は退官の翌年、長島を訪ねて来られ、「自治会の執行委員にお会いして謝罪したい」と申し入れて来られました。そこで8名が面会室で会い、私もその末席にいましたが、光田園長は「私は在任中、2つの罪を犯した。一つは遺体解剖で、遺族の合意もなく行った。2つ目は断種、妊娠中絶、堕胎を行ったことで、これは1940年の国民優生法の成立以前は違法だった。この2つの罪を謝罪しなければ、長島を去ることはできない」と言われて謝罪されました。

 私は入所して間もなく、同室の寮友が死亡して解剖されたとき、事務の方に誰の了解を得て行われているのかを質問したところ、「国費で施療した人には、その必要はない」との答えが返ってきました。そのときも半信半疑だったので、やはりそうであったのかと思いました。中絶堕胎については新憲法の公布後に優生保護法が成立、この中に伝染病として唯一、ハンセン病が含まれました。全患協は取消しを要求しましたが、拒否されたままでした。

 この光田園長の謝罪発言を聞いたのは僅かな人たちだけです。その後、伝聞として聞いた人はある程度いると思いますが、この謝罪の弁が多くの人たちが聞くことのできる公開の場でなされていたら、強制収容によって家族の断絶や崩壊といった被害に遭われた方や中絶、堕胎をされた方の気持ちも、その万分の一でも癒されたのではないかと思われます。


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ズッキーニ炒め


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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン2枚の細切り、ズッキーニの順に炒め、オイスターソースと醤油で味付けして出来上がり。



豆腐の煮物

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無水鍋に豆腐を置き、タマネギのスライス、スナップエンドウ、練り製品1枚を入れ、生姜1片をすりおろし、醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で出来上がり。



ダイコンおろし

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タマネギそのまま

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タマネギをスライスしてボールに入れ、ポン酢を入れて混ぜ、かつおぶしをふって混ぜて出来上がり。


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間違ったことを間違っていると言える人

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P20~P23抜粋


 「らい予防法」が廃止された1996(平成8)年に大阪の御堂会館で、関西のFIWC(フレンズ・インターナショナル・ワークキャンプ)が「排除から共生への架け橋」というタイトルでフォーラムを開催しました。鶴見俊輔先生、徳永進先生(当時、鳥取赤十字病院内科部長)、筑紫哲也さんに元患者として森元美代治さんと私がパネリストに呼ばれました(木村聖哉さん司会)。そこで私はなぜこんなに予防法の廃止が遅れたのかという話をしました。そのときにはその後の裁判のことなど夢にも考えられない頃でしたが、その判決でも一番悪いのは厚生省の官僚だということが指摘されていました。

 誤っていることを知っていながら改めようとしませんでした。療養所の所長の会合でも誰も言いませんでした。これが日本のハンセン病の施策を全く間違えさせました。人の苦しみ、病人の苦しみやら家族の苦しみということを知っていながら、そのまま継続させることによって苦しみを増幅させたのです。ただ自分の地位と名誉の保全の為だったと、私は言いました。筑紫さんも「加賀田さんの言われる通りだ」と応援してくれました。

 若い人たちへお話するときの結びの言葉として、私がいつも言うのは、
 「世の中には間違ったことはたくさんあります。21世紀を担うみなさんは間違ったことを間違っていると言える人間になってください。これが人間として一つの生涯を終えるにあたって私が言いたいことです」
 ということです(この言葉は鳥取県のハンセン病啓発用のテープに採録されています)。

 新憲法のもとにおいても、これだけの人権蹂躙を長い間許してきたのは、官僚が恐れるだけの発言力を我々がもたなかったということでもあります。当事者である患者自身の運動が弱かった。周囲の国民に対する啓発普及が弱かった。その根っこには、今にして思うと、やはり我々自身の内に「家族、血族に迷惑をかけてはいけない」という遠慮やひけ目がありました。私たちには「民族浄化」の対象として強制収容されていた心理的抑圧の瘢痕が後遺症として残っている。

 神谷美恵子先生が「入所者の70%は異常です」と私に言われました。”社会的に異常”という意味での発言ですが、それはそういう心理的抑圧のもとに今もいるということなのです。

 それだけ「らい予防法」は国民的規模で成功したともいえます。これは私たちの世代は人権感覚において、今の子供たちとはとても比較できないほど劣っているということをも意味します。姪の娘から「おじさんは間違っている」と言われましたが、私たちの世代が植え付けられた偏見を乗り越えてゆく若い世代の言葉として頼もしく聞いています。

 私は今の子供たちを信頼しています。だから言います。「先生であろうと、お金持ちであろうと、ご両親であろうと、もし彼らが間違ったことを言っているなら、それを質せるような人間になってください。そしてよく話し合って、正しいことを自分で判断してください」と。最後はそこにもっていきます。結局そういう話し合いが隠し事のない率直な親子関係をつくっていくと思っています。それは学校教育の場でも、社会でも同じことであり、あらゆる場へつながってゆくのではないでしょうか。



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ズッキーニのおやつ



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ズッキーニ1本は12枚に輪切りし、ベーコン2枚を細切りして置き、とろけるチーズ1枚を12等分して置き、オーブントースターで7分焼いて出来上がり。

見た目もきれいで、おいしい。




ズッキーニのおひたし

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ボールにハチミツと醤油を入れ、生姜1片をすりおろし、じっくり炒めたズッキーニを入れ、混ぜて出来上がり。

翌朝、翌昼食べてもおいしい。





冷凍うどん


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スナップエンドウを2分ほど茹でる。ダイコンはすりおろす。

冷凍うどんは4分茹でて冷水にとり、皿に入れる。ダイコンおろしとスナップエンドウを置き、メンツユで。

  
   
 
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「ローマ会議」の国際決議と日本

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P16~P20抜粋


 2001年の「らい予防法」違憲判決では、「らい予防法」の誤りは1960(昭和35)年には明確になっていたと認定しましたが、強制隔離が間違いであることは1956(昭和31)年のローマ会議がはっきりと宣言していました。ローマ会議というのは、正式には「らい患者の救済ならびに社会復帰に関する国際会議」と言います。51ヵ国から250名の専門家代表がローマに集まり、18日間の討議の後、「ハンセン病は伝染性の低い疾病であり、かつ治療し得るものであることを考慮」して、強制隔離ほかすべての差別法を廃止すること、入院治療は特殊に必要とされる場合とし、通院加療を原則とすること━━などを決議しています。

 私がここで強調したいのは、この会議に日本の代表として国立療養所長の林芳信(多摩全生園)、野島泰治(大島青松園)と藤楓協会理事の浜野規矩雄(後に理事長)の三先生が参加していることです。藤楓協会というのは前身を癩予防協会といい、ハンセン病患者の救済を目的として設立された組織で理事には厚生省の元官僚が就任しています(「藤楓」の名は救癩事業に恩賜を下された皇族に由来します)。

 この三先生はハンセン病研究治療の日本における権威というだけでなく、医療行政にも大きな力を持っている専門家です。その先生方が外で国際会議に加わり、国内においても三人三様ですが強制隔離に批判的でありながら、しかもなお「らい予防法」が存続し続けたのは、どうしてなのでしょうか。

 専門医師の集まりである「らい学会」、療養所の園長会は、組織としてローマ決議の内容を国民に知らせ啓発しようとはしませんでした。たいへん良心的な三先生の批判と実践も個人的行為でしかなかったのです。個人の裁量において「らい予防法」ならびに隔離政策を「空洞化」「形骸化」する方向で「弾力運用」していったということです。入所者の私がローマ会議を知ったのはローマ会議の三年後でした。

 1958(昭和33)年の国際らい学会議は日本が隔離政策を改めるよう促すために東京で開催されました。1960年にはWHO(世界保健機関)が日本に隔離政策を改めるよう勧告しています。国際的な批判に対して政府は「軽快退所基準」を作成しますが、それは「軽快」者として退所を認めるにあたっての統一基準であって、ハンセン病に対する強制隔離原則を改めたわけではありません。

 これでは「軽快退所」者も偏見、差別、排除から自由になることはできず、社会復帰もいわゆる「もぐり」となってしまいます。日本社会のなかでハンセン病回復者が結核回復者と同じように扱われるようにならない限り、その基礎である「らい予防法」の空洞化、有名無実化ということはあり得ません。

 「らい予防法が」が廃止されたのはそれから四十年後です。この間、私は患者自治会の役員をしていましたから、何度も厚生省(現・厚生労働省)に行きました。そこで隔離は間違っているんじゃないかということを言いますが、厚生省の人たちは黙っていて応えません。ドクター資格を持っている厚生官僚も多く、入所者の100%近くが治っていることも知っていたはずです。現状に合わせて、きちんと正式に法律を変えるよう訴えたのですが、これには応えてくれませんでした。

 ところが療養所内の生活問題、例えば「すきま風のために、ハンセン病は治っていても風邪を引いて肺炎になる」という話をすると、厚生省の役人は乗り出してくる。「目の見えない人が困ってる」というと、「そうですか」とすぐメモして善後策の検討に入ります。「福祉の増進」という名分がありますから、大蔵省(現・財務省)から予算を取りやすいのでしょう。つまり隔離を続けるための予算というわけです。

 ハンセン病の施策の間違いは、こういうお役人の姿勢にも表れていました。彼らはみな優秀ですから最新情報は把握しています。ハンセン病菌が弱いこと、感染しても発症が極めて稀であること、そして発症しても薬で治癒することをよく知っています。「らい予防法」が医学的にも、国際的にも、社会的にも間違っていることをよく知っています。しかしそのことは言いません。これまでの政策について批判することはありません。既定の法律に触れないことを前提に、予算で対応することに努めます。

 それはなぜなのかといえば、自分の地位名誉の保全のためです。先輩のやってきたことを間違っていたからと、それを翻そうとしたら頭を叩かれます。人事には先輩が関わっていますからエリートコースを外される。役人の担当部署はどんどん代わり、同じ部署にいるのは二年間です。その自分の在任中に患者さんの頭を撫でて、飴を舐めさせて大過なく過ごしていたい。無事であれば、とにかく出世してゆきます。天下りもできます。そういうことが日本の過ちをそのまま続けさせてきた元にあるということです。


実際にぼくもそう思う。行政の「民営化」のような大胆な改革を試みない限り、この国は蝕まれ続けるだろう。お隣の中国を批判する状況ではない。日本の内情はひどい。


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びん長まぐろと野菜の煮物

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昨日、サンマとともにびん長まぐろも買っていた。

びん長まぐろは3つに小分けし、その1つを15秒湯通しする。

鍋にタマネギを入れ、水とダシの素を入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして3分ほど煮て、びん長マグロを入れ3分ほど煮て、エンドウを入れ5分煮て出来上がり。




ムラサキ芋のコロッケ

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サツマイモの挿し木が終ったので、苗床のイノシシ被害を考え、最後まで残して置いたムラサキ芋を薄切りし、無水鍋に入れ、大さじ4の水、大さじ1の醤油と蜂蜜を入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、つぶす。

丸めて薄力粉をつけ、熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、裏表3分ほどずつ焼いて出来上がり。ケチャップとウスターソースで。



ダイコンおろし

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昨日のダイコンおろしがおいしかったので今日も。
    
  
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石館守三先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P184~P186抜粋


 1966(昭和41)年、大阪府と藤楓協会(現・ふれあい福祉協会)主宰の「ライ(ハンセン病)を正しく理解する集い」が森ノ宮の青少年会館で開かれた際、体験談を話してくれと私に声がかかりました。私は「この通り、治っています」としゃべったのですが、そのあとで高島園長に「君に会わせたい人があるので、いっしょに来てくれ」と呼ばれて、ついて行くとそこには真っ白な髪の紳士が立っておられました。

 高島先生は私に「この方がいつも話している、日本でプロミンを精製されて、続いて毎日の静脈注射では痛くて痛くて辛かろうと、DDSを始めとする経口投与内服薬を開発された東大薬学部長の石館教授です」と紹介してくださいました。そして私のことを「この患者さんがプロミンの過剰注射による副作用で末期症状に陥った体験者です」と紹介されました。

 すると、石館先生は私の手の甲から右腕いっぱいに広がっているケロイドを撫でながら、「済まなかったね。よく我慢してくれた。よく治ってくれたね」と、ハンカチを目に押し当てられました。治ったほうがお礼を言って感動するのは当然のことですが、薬を作って治した先生が感動しておられたのです。このとき私は恐縮を超えて、神か仏に出会ったような深い感動を覚えました。私の生命を九十二歳の今日まで延ばしてくださったのは、あの涙を流された先生の深い人間愛のお陰と信じています。

 私が死なずに生きたことを心から喜んでくださった石館先生がおられたからこそ、私は予防法の廃止後、鳥取県の要請に応えて、学校、公民館、シンポジウム、フォーラムで「語り部」として講演を続けることができたのです。この活動が社会教育に貢献したという理由で、思いもよらなかった表彰を県の教育委員会から頂きました。こうして人間としての名誉回復につながることができたのも、多くの方たちの生命の明りがあったからです。最後に私の思い出に残る人たちについて、その「いのち明り」の姿を述べたいと思います。

※「いのち明り」は故・岡部伊都子さんの言葉です。愛生園開園六十周年記念文化講演会(1990年11月13日・愛生園福祉会館)に講師として来園された岡部さんの演題が「いのり明り」でした。


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犀川一夫先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P194~P198抜粋


 犀川先生は慈恵医大の医学生時代にハンセン病医療に一生を捧げることを決意し、その道を貫かれた敬虔なクリスチャンです。愛生園を辞めるという話が伝わったときには入園者1700名が署名して、厚生大臣宛に留任をお願いしましたが、こんな例は他にはありません。戦争末期に光田先生を慕って長島へ来られ、召集され軍医として「中支」を転戦、復員して今度は正式に愛生園に就任されました。

 私は1944(昭和19)年、病気が悪くなったときに犀川先生にお世話になり、そして戦後はまたプロミンの主治医としてお世話になることができました。「プロミンは初めてで、その使い方は私にもわかりません」と、たいへん率直なお人柄で同年輩ということもあり、いろいろな世間話も親しくできました。

 プロミン使用によって菌の陰性者が続出し、園内の雰囲気がどんどん明るくなってゆきました。先生は、内服薬も開発されて自宅からの通院治療が可能になったのだから、もう隔離しているのは間違いだと思っておられました。しかしそれを言うことは光田理論から離れることであり、恩師に反対を唱えることは意に染まないということで悩まれたと思います。

 その頃キリスト教の医療団体から、今なおハンセン病者が多く発生している東南アジア地域に専門医師がいないので先生を派遣したいという話が持ち込まれて、先生は1960(昭和35)年、台湾に渡られました。そこで内服薬投与による外来治療制度という先生の考えておられた医療を、厳しい条件のなかで責任をもって実践されました。東南アジア各地で診療、調査された先生はWHO(国連・世界保健機関)に推挙されて、その専門官として西太平洋地区各国の状況に合ったハンセン病医療政策、体制造りに参与されました。

 先生はこの地域で医療に尽くす動機として、太平洋戦争中に日本軍が行った罪障への償いと奉仕の気持ちがあったと自ら記しています。この地域のハンセン病発生者の減少を見て、WHO本部は先生にアフリカのナイジェリアへの派遣を打診しました。しかし先生は恵まれた待遇のWHOを辞めて、米軍占領下の沖縄に行くことを選びました。

 沖縄においては1967年においても173名の新患者が発生していました。そして専門医師がなぜか一人もいませんでした。前から診察に行くたびに、琉球政府や患者から着任を懇請されていたそうです。

 先生は沖縄愛楽園の園長に就任されると、その最初の仕事として職員住宅と患者区域を隔てるだけでなく、園全体を囲った真っ黒な高い塀を撤去させました。1972年の施政権変換、沖縄の日本復帰にあたっては本土政府のらい予防の適用に抗って、ついに「特別措置法」によって在宅外来治療を公認させました。また本土においてはあり得なかった回復者の職員採用を認めさせました。そしてハンセン病医療を一般保健医療体制のなかに組み入れ、沖縄県全域の保健所の玄関窓口に表示される診療日程表に「ハンセン病診療担当 犀川一夫医師」と告知されるまでになりました。ここまでをほとんど独力で実現されました。

 予防法が廃止になったときの言葉が忘れられません。山縣有朋の邸だった椿山荘で廃止の記念式典が行われて、私も出席しました。玄関でタクシーを降りたら、ちょうどそこに犀川先生も降りてこられた。顔を合わすのは私が沖縄に行ったとき、先生のところを訪ねて喜ばれたとき以来でした。お互いにもっとも古くからの主治医と患者ですから、先生は「おお、永いこと元気でやっとるな!」と、久しぶりに肩を抱き合いました。

 そして会場まで歩きながら先生は、「いやあ、私も長島が好きだった。若いときあそこの果樹園の梅の木の下で一杯飲んだこととか、患者さんと一緒に勤労奉仕をしたことが懐かしいよ。予防法が今日のように、もっと早く廃止されとったら、きみらと一緒に長島におったのに。何年遅れたか」と言われました。

 その言葉を聞いて、やっぱり先生は私が思っていた通りだなと思いました。私としてはもう少し強く主張してほしかったのですが、恩師の考えを深く理解するがために、その恩師を裏切るような真似はできなかった。そのために大変苦しまれた先生でした。

 亡くなる三、四年前、犀川先生から愛生園に旧交を温めに行きたいという連絡があったので、先生を歓迎して親しかった人たちが集まりました。そこでは「私は遺言をしに来た」とおっしゃいました。その遺言とは光田先生の本心についての説明とご自分が愛生園を去った理由でした。

 ━━光田先生は本心から患者さんのことを思っておられました。この病気は深いから、特効薬ができたといっても十年たってみないと簡単には治ったとは言えないという信念をもっておられました。その頃、ひどい症状の患者を診察されたときに、「プロミンがある時代にまだこのような患者が隠れていたとは、これは我々医師の怠慢だよ」と涙を流しておられました。国会証言で、先生はそういう気持ちをそのままああいう言い方で言ってしまったのでしょう。

 その後、先生はお歳のことがあって勇退されました。私は十年たって、プロミン投与のその後の結果を身ながら、自分の意に染まない形で医療をすることはできないからと長島を出ました━━

 これを遺言として私たちに伝えたかったとおっしゃったのです。

 犀川先生は、国家賠償裁判では証人台に立たれ、原告側に極めて有力な証言をなさいました。私の生涯において、たまたまこのような先生と若いときに出会って親しくなったことは非常に印象深く心に残る出来事でした。


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初物 ズッキーニ



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キュウリと同じ日に種を蒔いても、ズッキーニの方がかなり早く収穫できる。

初物のズッキーニは「おひたし」にした。

ボールに醤油と蜂蜜を入れ、生姜1片をすりおろす。炒めたズッキーニを入れ、混ぜて出来上がり。「ズッキーニのおひたし」を参考にした。



ンマ

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初物 春ダイコン

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サンマだからダイコンおろしにした。



タマネギと豆の卵とじ

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鍋にタマネギを入れ、水を少し入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして3分ほど煮て、豆(エンドウの取り遅れ)を入れ5分煮て、溶き卵1個を入れ、5分煮て出来上がり。
    
 


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プロミン薬禍による瀕死状態

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P126~P130抜粋

 
 私も1949(昭和24)年からプロミン注射を始めました。主治医になられたのが、私と生年が同じで3ヶ月違うだけという若い犀川一夫先生でした。先生も若いし、私も若くて、よく話をし、友達みたいに親しくしていました。先生についてもまとめて第五章「いのち明り」で述べるつもりですが、残念なことについ先年、亡くなられました。

 今思えば、先生にしてもプロミンは初めて使う薬剤なのでよくわからないわけです。それで「あんたは169センチ、68キロだから、午前中に3CC、午後2CCと2回注射を打つ」ということになりました。ところが打ち出して1週間したら寒気がして、10日を過ぎると、斑紋が潰瘍になって、頭の毛が抜けて、39度前後の高熱が出ました。衰弱は烈しく、入所者としてよく見ていたハンセン病の末期と同じ症状となり、いよいよ私も死期が近づいたと思いました。

 一番苦しんだときは、夜、呼吸が困難になりました。寝ていると鼻がつまって窒息しかかるわけです。呼吸ができない苦しさから逃れるために喉に穴を開けてカニューレを差します。園内には「失明10年、喉切り3年」という言葉がありました。カニューレを差すようになると余命が3年という意味です。

 私はちょうどその状態になったわけです。呼吸困難になると、家内は冷ましたお湯をヤカンから洗面器に移し、私はそのぬるま湯の中に顔を突っこんで、苦しいけれど鼻から吸うわけです。そうするとつまっている痰がぬるま湯でだんだんゆるんできて、フッと空気をやるとスポンと抜ける。そんなにスースーとはいかないけれど、ようやく呼吸ができて、これでやっと死と隣り合わせの状態から抜け出せました。

 この苦しさというのは末期症状そのものです。失明後の明石海人に「切割くや気管に肺に吹入りて大気の冷えは香料のごとし」の歌がありますが、瀕死のなかで自分の状態を冷静に見つめて優れた歌にしていることに感嘆します。

 その頃には足も手もものすごく臭くなっています。斑紋が潰瘍になって、そこから膿がたくさん出てガーゼや包帯をするのですが、すぐに滲み出てきます。重病棟ではハエが追っても追ってもたかります。放置しておくと、ウジがわきます。包帯を取るとウジがいるので、つまんで簡易便器に捨てるのを習慣にしている人もいました。ポトン、ポトンと断続するその音は、趣味を楽しんでいるかのごとく聞こえます。私は衰弱していますから、ほとんど家内がやってくれました。

 ガーゼや包帯は洗濯して再生するわけですが、それも患者の重要な作業となっていました。洗濯は普通のお仕着せといっしょだったので、下着だけは自分たちで洗いました。すべてが付添いの仕事だったのですが、私の付添いは全部家内がやってくれました。家内には寒い時期、海に入って貝を取ってきて食べさせてもらったり、ずいぶん世話になっています。

 39.5度くらいの熱が続いたときは、呼吸困難の苦しみと全身の潰瘍、脱毛、衰弱に見舞われました。ハンセン病で一番最悪の重傷状態です。喉に大きな穴が七つも開き、膿が出ました。主治医の犀川医師は、「治らなければ結核の瘰癧、治ればハンセン病」と診断され、放射線治療を受けていました。私もたくさんの病人を見てきていますから、自分でも末期症状だとわかります。

 そのとき思い浮かんだのが北村くんという同年代の友達のことでした。作業からの帰り、病院に寄って、「おい、元気かい?」と見舞ったことがありました。すると彼が「加賀田くん、わしは今晩六時に死ぬわ」と言うんです。「バカなことを言うな。おまえ、何を言っとるか」と言って帰りました。ところがその夜、連絡があって駆けつけると、「六時に亡くなった」と言います。予言どおりに、本当に亡くなったのです。

 それからは人間というのは死ぬ時間まで分かるのかなと思うようになりました。私の命もあと一週間か十日と思って、このままたった一人の母になにも告げずに死ぬのはよくない、最期の知らせだけはしなきゃいかんと思い、約束を破って初めての手紙を出しました。

 母とは入園直前に故郷で会って、それから十三年、お互いにそのときの約束を守って音信不通で通して来ました。これまで偽名など使ったことはありません。本名で通してきたのですが、このとき初めて偽名を使って、母に手紙を書きました。1949(昭和24)年のことでした。


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戦後の変化

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P122~P123抜粋



 終戦の翌年、衆議院の補欠選挙で初めて選挙権を行使しました。それまで「入所者」には公民権がありませんでした。税金のお世話になっている者が何をいうか、ということでしょう。新しい憲法で初めて「人権」という考え方を知りました。

 終戦直後は、一般国民と同じで入所者も竹の子生活でした。竹の子の皮を一枚ずつはいでいくように、なけなしの衣類と少しずつ交換することで僅かの食糧を確保しました
。海に囲まれていながら魚釣りすら、付近の漁業権を犯すということで激しく禁止されていましたから、魚類を獲って食べることもできませんでした。ですから、付近の陸地の漁師が魚を持ってきます。すると家内が「おじさん、魚わけてちょうだい」と、衣類とか、配給されても使わずにとっておいたタバコやマッチを差し出すわけです。これはすでに戦時中から始まっていました。

 漁師には衣類、木綿のものが好まれました。母が行李の中に入れておいてくれた、自分で織った絣の着物はたくさんの魚と交換できました。レインコートや案外に学生服が喜ばれました。

 あるとき大事な衣類と交換した魚を外で七輪で焼いていたら、通りかかった職員が「おまえらだけ勝手に贅沢してどうしたことだ!贅沢もの!」と七輪ごと足蹴にしました。私も腹が立って、思わず「この野郎!」と立ち上がりましたが、家内が「やめてくれ」と泣くので我慢したなどということもありました。衣類もすっかりなくなりました。

 同じ長島の光明園では、敗戦の翌年のことですが、児童舎にいる十代前半の子供たちが罠を使って、カラス、トビから野良猫、ヘビ、カエルなどを捕まえて解体し、寮母に雑炊にまぜてもらっていたと崔龍一さんが書いています。(『猫を喰った話』)。その子供たちには暗さや惨めさはなく、むしろ誰の世話にもならず自分たちで獲物を取ってくるという明るい逞しさがありました。確かに長島から野良猫がいなくなったと言われたものですが、それほど飢えとは厳しいものでした。


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カレー



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豚肉100gは15秒湯通しする。熱した鍋に油を入れ、ニンニク1片の薄切り、豚肉、タマネギ、ジャガイモの順に炒め、4カップ弱の水を入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、ルーを2個入れ、5分煮てエンドウを入れ、5分煮て出来上がり。



コンニャクの乾煎り
   
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コンニャクを手でちぎり、熱したフライパンで乾煎りし、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



タマネギそのまま
 
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スライスしたタマネギをボールに入れ、ポン酢で和え、カツオブシをふり、混ぜて出来上がり。


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光田園長の「朝鮮人暴動」観


加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P121~P122抜粋



 こんな話をして、自分たちの辞任を決めたところに、総婦長(看護婦長)が来て、光田園長の言葉を伝えました。
「朝鮮人が暴れるかもわからんから、辞任せんでくれ」と、光田園長が言っているというのです。園長のほうに松寿寮の動きが早くも伝わったのでしょう。「園内に騒動が起きても困るから」辞任しないでほしい、と言うのです。朝鮮人が暴れるという危惧をもつのは光田園長に偏見があったのだと思います。

 関東大震災のときに、朝鮮人虐殺事件がありました。暴動のデマによって何千人もの朝鮮人が殺されました。私たちもそういうことを聞いていました。朝鮮人は機会があれば噴出する怒りを常に秘めているという偏見を、光田園長はもっていたのでしょう。

 園内の朝鮮人は日本の敗戦を喜んでも、それを行動に表すということはいっさいありませんでした。これが8月15日の話です。

 その日のうちに私たち役員は全員「辞任」することに決めました。「朝鮮人が暴れるかもわからん」と言われ、「それでも辞任します」と答えたのですが、結局園長の「しばらくでいいから残ってくれ」という再三の要請を受け入れざるを得ませんでした。朝鮮人の暴動は起こらないまま、2ヶ月半後の11月に総選挙をして役員を代わりました。


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戦争末期


加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P117~P119抜粋


 昭和20年に入ると、食料が療養所に廻ってくることなど期待できなくなり、私たちも園の許可をもらって開墾作業をすることになりました。島の森を拓いて畑にして、種芋も本州のほうから融通してもらって植えつけました。溜池や水田も入所者の労働で造りました。いずれも重労働ですが、自給しなければ飢え死ににします。動ける人(7割)は男女の別なくみなゲートルを巻いたり、もんぺ姿で畑作業ですから、まったく異常ですが、その異常が日常となったのがこの時期でした。

 開墾地へ上がる急傾斜をだれ言うともなく「自殺坂」と呼びました。重い「肥たご」や水桶を提げて上がります。途中でひっくり返せば、そこまでの努力がまさしく水の泡と消えました。また「たこ足作業」とも言いました。自分の食い扶持を自分の生命を削って獲得しようとしているからです。動けない不自由者、重病者は自分で食い扶持を確保できないので、かわいそうでした。

 こうした状況のなか、さらに療養者に対して松根油の採集労働が義務付けられました。松根油をというのは、読んで字の通り、松の根から採る油です。島に生えている大きな松の木を切り倒してその根を掘り起し、海辺にまで運んできて斧で割り、その鰹節大の塊りを海辺に据え付けた大釜で長時間焚いて精製した油です。

 これが戦闘機の燃料になるのだそうです。松の大木が密集した緑の島もハゲ山に変わり、松の大木を求めて他の島にも行きましたが、すでに制海権も制空権もなく、南方から運んでくるべき石油もない状況下での窮余の策でした。こんなものを飛行機に使って戦争に勝てるわけがないと、私でも思っていました。

 健康人にも重労働のこの作業のために、屈強な人を、当時の言葉で言う「軍事徴用」に出すよう、施設側から要請されました。その代わりに食事をうんと出すと言うのですが、それで松寿寮で患者の中から十五、六人だったと思いますが、選んで徴用労働に出てもらいました。私たち役員も応援に行きました。

 愛生園にいた私たちにとって、戦争というのはこのようなことでしたが、しかしくだらんことをやったと思います。戦争には負けてよかったと思います。

 愛生園入所者数がもっとも多かったのが1943(昭和18)年で2009人(死者163名)、前年は1800人でした。1942年から1945年まで4年間の死亡者が889人(逃走が413件)、1945年は死亡者最多で332名(1478人の23%)、翌1946年の死亡者は312名です。死者のほとんどは栄養失調です。そのため戦後2年目の1947(昭和22)年には在所者が1200人に減少しています。


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ハチクの煮物



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孟宗竹が終り、今度はハチクが生えだした。ハチクはエグミが少ないが、孟宗竹と同じような下処理をした。つまり、鍋に皮をむいて入れ、米糠を大さじ2入れ、水から煮て、煮立ったら弱火にして20分ほど煮て、そのまま冷ます。

米糠を洗い流し、食べやすい大きさに切って鍋に入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、水を少し入れ、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て出来上がり。



チヌの煮物

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もらった小型チヌは解凍して15秒湯通しする。

無水鍋にタマネギのスライスを入れ、チヌを置き、生姜1片をすりおろし、ニンニク醤油で味付けし、大さじ2の酒と水を少し入れ、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。




ハーブティ  

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左からタイム、セイジ、アップルミントで、沸騰したら火を消して入れ、3分蒸らし、ハーブを取り出して出来上がり。

2日に1度は作っている。暑くなり、のどが渇くので、ペットボトルに入れて田んぼに持参する。



タマネギとエンドウのパスタ

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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン2枚の細切り、タマネギとエンドウの順に入れて炒め、ウスターソースとケチャップで味付けし、パスタが茹で上がるのを待つ。茹でたパスタを入れ1分からめて出来上がり。
   


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死までの隔離


加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P9~P12抜粋


 私は「人権」という思想を戦後になって初めて知り、素晴らしいものだと思いました。それ以降、患者運動を実践しながらその中身について学んできたのが私たちです。若い人たちは人権について教育を通じて幼いときから学んでいるのでしょうが、感覚として体得していることに驚かされます。

 「らい予防法」が廃止されてから、私も講演に呼ばれる機会がずいぶん増えました。そこでお話しする内容は「差別と人権」といった演題になりますが、ハンセン病に罹った人がどのような処遇をどういう社会状況のもとに受けてきたのか、それを規定した法律がなぜこの10年ほど前まで生きていたのか、そしてこの問題を真に終わらせるとはどういうことかと言ったことについて、私の体験や考えを述べます。

 そのなかで私は”断種”を受けた体験を話します。断種が結婚の条件だったこと、断種によって、国は私たちに子孫を作らせなかったという話をします。ハンセン病は従来信じられていたような遺伝病ではなく、伝染病だから隔離が必要だと大宣伝していたにもかかわらず、です。仮に遺伝病だとしても断種が認められるかどうかは大きな問題です。

 というのは戦時中、「国民優生法」ができて、遺伝病の種類によっては断種が認められました。その目的は、「優秀頑健な民族」を作るために足手まといになる社会的弱者をなくそうというところにありましたが、ハンセン病は遺伝病ではなく伝染病だからと除外されました。それが戦後、新憲法下において「優生保護法」となって、ハンセン病は伝染病のなかでも唯一、断種の対象になりました。同意の上でと言う事になっていましたが、結婚による個室確保には断種が条件になっていました。

 また、妊娠した入所者や妊娠して入所した女性患者は堕胎させられました。胎内感染はほとんどないと判明していたにもかかわらず、です。理由は育てるための施設や人員、つまりは予算がなく、生まれた子供の将来を考えると幸福な人生を送ることが困難と考えられたからです。発病した母や父といっしょに島へ来た「未感染児童」(という名称が付けられて、つまりは健常者なのですが、医師や職員などの児童とは別に扱われていました)が療養所運営上の問題になっていました。

 名称こそ「療養所」でしたが、現実には病者が死亡するまで閉じ込めておく施設だったわけです。ハンセン病の患者を日本全国から狩り集めて隔離し、その死滅を待って民族の優秀化を図ろうという狙いです。結婚を認めたのも、園内で一生を送らせるためでした。結婚後に発症して入所した男女の多くが内部で伴侶を見つけました。入所者が定員超過で住居が足りなかったので、多くが通い婚でした。それも12畳半に6人が住む女性部屋が「通い婚部屋」となって、夜になると6組12人になるという残酷なジョークのような、動物以下の現実を日常の姿として受け容れていました。一歩園の中へ入ると、それを当り前として受け容れざるを得なかったわけです。

 この未入籍結婚、実質的には同棲もできないような結婚でしたが、それでも許可を得るためには断種手術を受けなければならなかったのです。とにかく夫婦生活をさせて平穏安定を図るという秩序維持政策でした。


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断種は傷害罪


加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P12~P14抜粋


 今の子供たちは学校の授業で男女の肉体の構造やら生殖、妊娠の仕組みなどについてきちんと教育を受けています。そんなことも聞いていたので、私は講演で「ワゼクトミー」という断種手術を受けた体験を話します。

 講演後、彼らは感想文を文集にして送ってくれますが、私のような老人の話をどんなふうに受けとめてくれたのか、感想文は私の社会活動への応答であり反応ですから、読むのは毎回楽しみです。

 岡山の私立の女子高校へは三年間続けて講演に行きましたが、そのときの感想文に私はつくづく現代の若い人のセンスに驚かされ感銘を受けました。感想文の一つに「断種というのはメスで身体を傷つけることです。だから傷害罪です」とあったのです。

 私は具体的な手術の話など一切していません。ワゼクトミーは輸精管の切除結紮による部分除去手術です。復活再生はできません。メスを使われた当事者である私には、女生徒のようなこういう発想はできませんでした。

 「国民優生法」が定められた背景には、当時、国策として「産めよ、殖やせよ」と出産が奨励されていたことがあります。健康な国民を生み増やすことが奨励されていました。にもかかわらず、私たちには断種、堕胎手術が執行されたのです。

 当時、国立らい療養所においては園長権限が治外法権のごとく認められていました。それは「懲戒検束権」として「癩予防法施行規則」に明文化されていました。入所者は基本的に患者なわけですが、その病人を秩序維持の名目で園内監獄に何日も閉じ込め、食事制限等の懲罰を加えることができる警察・司法権限を園長に与えていました。

 そのような場所だったから医師たちも断種、堕胎、さらには解剖など、思うままにできたのだと思います。しかし旧憲法下であってもそれは違法だったでしょう。堕胎については特に堕胎罪がありましたから、被害者の妊婦は犯罪者となり、処置した医師や看護婦だけでなく指示した園長は幇助罪どころか教唆強要罪の主犯となり、医師法を犯したことになります。


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サワラ


今日は陽が沈んでから「サツマイモの挿し木」をする予定だったので、夕飯は家人に頼んだ。


サワラ

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コマツナとアゲの煮物

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レタス、タマネギ、エンドウ、ベーコンのサラダ


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トンカツ(市販の惣菜)

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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