長島八景
序
長島へ初めて来る人の殆どが、その水明と、山紫にまず驚嘆する。園長光田健輔先生が長島をめぐるこれら風光の中から、特に選ばれた景勝がこの長島八景である。先生は
一 光丘晩鐘
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愛生園に収容されて、混乱した心境もやっと落着いた頃、誰もが真先に歩を運ぶのは光ヶ丘であり、その頂上の鐘楼堂であろう。私が収容された日、遣瀬なく、没日の海に対っていた時、微かではあったが、はっきりと、丘を伝い、海を渡ってゆくこの晩鐘の音を聞いて、島に来たことを新しく感じ、いよいよこれで私の第二の人生が始まるんだという、名状し難い感慨を催したことを憶えている。
後になって、この鐘が時報としての大きな役目を果し、ラジオが今日ほど普及していなかった当時のこととて、対岸虫明では、この鐘に時計を合しているということを知った。而もこの鐘を厳寒に、酷暑に、風雨の日に、機械さながらの正確さで撞いて呉れる人がBさんという一入園者だということを聞くに及んで、私は一層この鐘の音に愛着をもつようになった。いや、それよりもこの鐘の床しい由来が更に私の心を捉えて離さないのである。
はじめて光ヶ丘へ登った私は、皇太后陛下の「つれづれの御歌」の刻まれた鐘を仰ぎながら、寄贈された西本願寺のこと、職員患者一体となっての連日に亘る石運搬奉仕作業に次いで、鐘運搬奉仕のあったこと、そして鐘の撞き初めの日にはBKから全国放送された等々の美しい思い出を、先輩の病友から聞かされて感動を新にしたものである。
気象観測所に移ってからの私には、この朝夕六時に鳴る鐘がこよない対象となった。時計とラジオと、この鐘がきっかり揃って鳴る朝夕の観測の気持よさは、やはり私だけしか味わえない醍醐味だった。真冬の朝六時はまだまだ夜中といった感じで、観測もなかなか楽ではないのだが、十年一日然と、黙々と鐘を撞き鳴らすBさんの真摯な姿に接すると、忽ち清浄な我にたちかえって、気軽に床を跳ね起きるのである。
朝の鐘もいいが、夕映えに光ヶ丘の芝生が黄に染まる頃、寂かな余韻を曳いて鳴る鐘の音は、何とはなしに心に沁みこんでくる。そして、今日の一日を省る心のゆとりが自ら萌して来るのに気づくのである。今日も終わったな、と思うと同時に、あのミレーの詩心にも通うような何か禱りたい率直さにたちかえるのは私一人ではないであろう。Bさんは不自由になって行く軀に鞭打って、コツコツと実にコツコツと、朝夕二回ずつ丘を上って鐘を撞いているうち、片脚を失い、松葉杖に縋るようになったが、それでも時を違えるようなことは全くない。その真剣そのものの姿に励まされて、いつか私は観測の時を機械的に守れるようになった。しかし、Bさんは、ついに両脚をうしなうまでに病気が昂進し、二十年一日のようだった尊い努力に美しい実を結ばせた。
Bさんにかわって、軽症のYさんが撞き鳴らす鐘の音は、依然分秒を違えることはないが、韻々と響くその鐘に目覚めては、反射的にBさんが痛ましくなって来て仕方がない。それが晩鐘の場合には、わけて私の胸を衝きあげるばかり寂しい。
こうして、恵の鐘の美しい音色は、貞明皇后の御在世のままの暖い御声の絶える間がないように、貴い奉仕者が後を継いで、響き続けるであろう。そして、愛生園の全島はおろか、対岸の村々に、ときに私どもの悲痛な訴えとなり、また、うるわしい唄声ともなって、絶える間はないであろう。
観測所を去ろうとしている私は、今、裏窓越しに真向いに見える恵の鐘、青く照りかえす甍の鐘楼、緑一色の芝生を眺めながら、時計を睨みつつYさんの黒い影がやがて幢木の綱を握ろうとしている姿をも併せた、夕べの光ヶ丘に見惚れている。すっかり秋めいて来た夕暮の黄色い光は、たゆとうように光ヶ丘を蔽っている。