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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  森山栄三さん(2)



山百合の香りただよう部屋の中に妻はテープを静かに聴きいる




十八歳で入所するまで隠れいし胸の傷深き故郷の家




友の飼う手乗り鸚哥いんこが雨の日は野鳥の如く匂うときあり




麻痺の手に点筆刺さるを知らずして舌先に読む点字書の短歌うた




小机に向かいて点字のノートより歌をえらばん夕べひととき




百貫の荷を背に負うごと隔たりし島に病みいて短歌を詠みつぐ




論じ合うことのむなしさ噛みしめて盲の夫婦に冬が始まる




栗の花かおりて来れば遠き日の山小屋おもう逃れ住みいし




癩を病み盲となりて二十五年島に打寄する波の反復




偏見は身内なるほど厚くしてプロミン以後も断絶つづく




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邑久光明園  森山栄三さん(1)



常に履く靴には二つの記つけ唇にたしかめ履きていで行く




兄弟の縁切り呉れと顔知らぬ姉よりの便り胸に抱きしむ




園内に個人電話の認可あり隔絶の島に喜びのわく




滋賀の里生家の畠を道となし新幹線は田の中走る




ここが貴方の生家の前よと教えらる一瞬われの鼓動たかなる




彼岸なれば治療帰りに花もとめ仏壇まがいの木箱に供う




「点字毎日」に初めて載りし我が短歌風邪熱にかわく舌先に読む




窓辺より小鳥さえずる初夏の朝看取らるる身の一日始まる




点字より幸せ我に来るごとく病める支えと短歌を学ぶ




盲妻とかばい合いつつ過ごし来て十八回目の除夜の鐘きく



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すき焼き



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フライパンにダイコンとニンジンの薄切りを入れ、水で戻したシイタケを戻し水ごと入れ、出し汁も少し入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、15秒湯通しした牛肉100gを入れ、ハクサイとネギのざく切りを入れ、強火で5分ほど煮て、ハクサイがしんなりしたら出来上がり。


  

ダイコンおろし
  
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邑久光明園  泉 安朗さん(4)



佐渡の秋背にして戦友がにぶく振る義手痛痛し戦の憎し




それぞれに命おわりし日芙蓉の花なべてしずけし摂理と思う




わが病い人目はばかり街角の生家の灯明り見てすぐるのみ




渡橋夢み今年も二十余人逝く一日も速く竣工ならしめ




必ずや生きて踏みたし本土への架橋まだならず今年も暮るる




萎えし手で合掌持ちに屠蘇祝う耐え抜いて来し命と思う



泉 安朗さんの略歴
大正5年生まれ。農業学校を卒業、就職、結婚、応召。昭和20年6月、29歳で邑久光明園に入園。昭和23年失明。初め「ホトトギス」で句作に励むが、昭和43年から「楓」に投稿、44年から「まひる野」に入会。51年12月受洗。昭和62年12月2日没。享年71。『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『冬草』(平成元年)


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邑久光明園  泉 安朗さん(3)



本願寺の父母の御霊にはるばると無菌となりしわが身告げなむ




うす紅の洋蘭の花切りし夢手は萎えていず盲しいてもいず




木の陰にかなしく萎えしわれの手をなめる仔犬は偏見もたず




陽にさやぎ落葉ふりしきるこの朝け祈らず詠まず落葉ふみ佇つ




山茶花の花おちる音耳につきひとり病む夜を眠れずにおり




癒ゆる日を信じて生きよと去る妹に海凪ぐ瀬戸の夕茜空




励まされ励まされゆく枯野みち挫折しそうな意思ひきづりて




理療機にすがりて機能訓練の老は無言に肩たたき去る




脱稿し出で来て歩む浜の辺に青葉の翳り明るく匂う




ふたたびは踏むことのなき萩の道父母の墳墓を振り返り下る



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邑久光明園  泉 安朗さん(2)



母と居て病のことは言うまじよ土産の鮎に話題をうつす




定時外は便器替えぬと立つ助手の蔑視に耐えて終る一生か




はらからと断たれて島に病み古りきなお断ちがたき面影一つ




母とする昼餉も久し蒼茫の烏城の空を群れ飛ぶつばめ




倖せと見えむ新春我が母は不治の子二人に茶を立てくれぬ




口述の詩をかきもらい侘しがる港に太く立つ虹の色




扶助うけて生きるは悲し罪ふかし蝉引く蟻の根性を見つ




九十四年の辛苦の炎燃えつきて仏陀のもとへ母旅発ちぬ




曲がる指もみくれ哭きし母なりき母のお指も今は世になし




ワークキャンプおわりて語る学生の思想はあやうきまでに新し



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ハクサイとツナ缶の煮物



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鍋に醤油、砂糖、酒、みりんを入れ、出し汁も少し入れ、ざく切りしたハクサイを入れ、ハクサイがしんなりしたら弱火にして、よく油を切ったツナ缶を入れて混ぜ、7分ほど煮て出来上がり。



バジルペーストでパスタ
  
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パスタ150gは8分茹でる。その間に粗みじん切りしたニンニク2片を炒め、冷凍していたバジルペースト(もらいもの)を入れて溶かす。

茹でたパスタとゆで汁を少し入れ、バジルペーストがパスタにからんだら出来上がり。





コンニャク炒め

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手でちぎったコンニャクを3~4分乾煎りし、ニンニク醤油で味付けし、七味をふって出来上がり。


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邑久光明園  泉 安朗さん(1)



青い鳥ついにとらえず明りなき吾れに耳あり希望は捨てじ




乗車拒否せしバス消えて冬の灯に癩ゆえ痛む影を凝視す




月光の縞をふみつつ降りきて夜更けの桟橋に姉の船待つ




二度と訪うこともなからむ対岸の吾が家のあかり吹雪にうるむ




千余名の暮らしささえて太く吐く炊煙は凍みて浜低く這う




わがために離婚となりし妹よ凍夜に祈る心疼きて




春茜染むる渚の白砂を踏む素足欲し健康が欲し




父逝きて家運をせおい立つ母の後姿愛し春の虹立つ




母の姿視野を去るまでまばたかず雁鳴きわたる瀬戸の小島に



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邑久光明園  永井静夫さん(5)


不覚にも指つめし傷の夜にうづくわれに絡まる憎しみのごと




証明書つぶさに見せて暁闇の海渡しもらふ逃るるごとく




さまざまに美しき人の乗り降りするバスの坐席に身は堅くゐる




こほろぎの部屋なかに鳴きうらがなし老躯屈葬のさまにて眠る




子のあらば一つ求めむにとんとことん太鼓を打てる
玩具おもちゃ猿公えてこ







わが家族H病に離散し父の墓、母の墓すら在りどを聞かず




手術せし眼にレンズ当てペン書きの友の便り読めるよめるよめるよ




室町史朗生きてありせば吾が歌のまづさを時に言ひくるるものを




つくつく法師かなしく鳴けるこの道の冥府になるまで歩む外なし




予防法解け潮にのまれし幾百の友のみたまを慰ぶす記念碑




永井静夫さんの略歴
明治39年大阪生まれ。家庭の事情で小学校3年で退学。職人として働くうち17歳ころ発病。大正11年外島保養院入院。昭和9年室戸台風で外島壊滅。栗生楽泉園に委託収容。昭和13年邑久光明園に帰る。その間2度結婚。短歌は昭和9年頃からはじめ「いぶき」「短歌」所属。平成10年3月19日逝去。享年93。『光明苑』(昭和28年)『海中石』(昭和31年)『三つの門』(昭和45年)『陸の中の島』(1956年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『冬風の島』(平成12年)



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ハクサイの中華風サラダ


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ハクサイは拍子木切りして、塩をふってもみ、5時間ほど置いた。

ボールに醤油大さじ2、酢とレモン果汁を各大さじ1入れ、ゴマ油を小さじ1入れて混ぜ、水気をしぼったハクサイを入れ、ゴマをふって混ぜると出来上がり。



ホウレンソウのおひたし

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ゆで卵

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ダイコンおろし

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ポン酢で。



タラのアラ汁
  
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先日のタラのアラの残りは15秒湯通しする。

鍋にニンジンとダイコンの千切り、キャベツの細切りを入れ、出し汁と水を入れ、煮立ったら弱火にしてタラのアラを入れ、今回は少し生姜をすりおろし、5分煮て、味噌を溶き入れ3分ほど煮て、ネギの小口切りを入れ、出来上がり。

  


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邑久光明園  永井静夫さん(4)



いのち迫る人の身近にい寝て見る雲にのこされし小さな冬月




おほかたの吾らが癩を患む前の写真を見れば美男にあらむ




をづをづとわが身を秘めて終せたり夜は沖に船の笛の聞ゆこの島




つゆの雨に小豆島しばし見て笹百合にほふ机にかへる




広広と潮ひきし磯の人も見えず冬至の過ぎし日光透りつつ




外貌の醜くく疾みてきたりけり遂に自らを殺すことなく




いくたびか死線のなかに呻吟し澄みかえるべし染垢の吾も




病研に値いなきわれかおほかたの病歴番号呼ぶ内になし




身を削るごとく一人の死を送り島は狂ひなく花の季くる




いまはしき誹りの絶へぬ島にして身を浄めつつ桜は咲けり


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邑久光明園  永井静夫さん(3)


硬貨ほどの感覚のこる蹠を愉しむごとく撫でてゐにけり




海峡を泳ぎそこねし患者の屍うちあげられし磯とも想ふ





静まりて舌に点字を読む見れば生きると言ふはかく美しき





癒えねばならぬ係累もなき残生にきりきりと肉にしみ入る注射





ともすれば寂しさ疼く白灯に「火泥」を読みて意欲かり立つ





父も母も苦しみ秘めて逝きしかば秘むべくもなし癩とわが性






老いほけて只ごと歌を作りゐる吾に生きよと賞たまはりぬ





病む妻のいのち滅ぶやまさやかにみどりの木の芽雨しづくする






手を握り力の限り苦しめる妻との堺とほざかりつつ







時効なき病にひしがれ生きつぎて恋なく老いて無口になりき






生きてゆく戒のごと島の院にときめかぬ血を採られつつ老ゆ


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クリームシチュー

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無水鍋の下敷きにタマネギのスライスを置き、乱切りしたニンジン、ジャガイモ、カブを入れ、水で戻したシイタケを戻し水ごと入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で蓋を開け、薄力粉大さじ3を入れて混ぜる。牛乳とコンソメ2個を入れた後、豚肉100gを入れ忘れたことに気づき、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けして煮てから入れた。煮立ってきたら塩・胡椒で味付けして出来上がり。

水は入れなかった。野菜は無水鍋でやわらかくしてから、牛乳は最後に入れた。

シチューの素はもういらない!これでOK」を参考にしている。




ダイズの煮豆

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圧力鍋に、水で戻した青ダイズを水切りして入れ、角切りしたニンジン、ヤーコンを入れ、シイタケは戻し水ごと入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、出し汁でひたひたにし、強火でおもりが勢いよく回りだしたら極弱火にして25分、火を消して圧が抜けるまでそのまま放置して出来上がり。



ブロッコリー
    
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茹でてマヨネーズで。



ダイコンのユズ漬け
   
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ダイコン2キロ(約2本)は皮をむいて縦割りにする。砂糖400g、塩100g、酢半カップを入れ、ユズ1個の果汁と皮を細切りして入れ、重石をする。一昼夜して水が上がっていなければ、よく混ぜ、重石を重くする。水が上がっていたらそのままでよい。6日間漬けると出来上がり。

砂糖400gの代わりに蜂蜜のしぼりかすを入れ、砂糖は100gほど入れた。


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邑久光明園  永井静夫さん(2)


ポケットに眼鏡忘れず持ちていづいかなる代書けふ頼まれむ





不遇などの言葉は耳朶をくすぐれど未来をとにかく光とみなしつ




まろやかなる月が嗚咽をするごとき風死にしあと磯あらふ波




一様に大き陽あたる社会欲し「らい病みまして」公然と言へる




収容バスの吾らゆくとき避けゐたる子らの声せり「あれはなんだ」と




紅鱗をはぎとるごとく無指の掌に包丁挟みてリンゴ剥きゐる




一葉の葉書のポストに落ちゆきし音につながる人とかそかに





水死に至るひとりの辛苦すらひと日ふた日の口伝に消えつ





えのころ草自在にゆるる晩夏のゆふわが仰向きの小さな平安





身内うすく誰にみとられ逝きましし抄本の母に亡の文字あり




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邑久光明園  永井静夫さん(1)



さりげなく笑ひゐたりき昨日まで毒呑む女と思はざりしが




病み妻の睡りに落ちし息かそか夜に入りて外に風過ぐる音




癩短歌世にしろしめて大きなる
海人もすでに気管孔うがてり




扉ひとえ境界に聞こゆ木槌のおと友敬吉は頭を
解剖さかれゐむ




お母さんと寄れど涙も出しまさぬ気丈な母と夢にあひにけり




蚊をうちしわが掌のひびき空虚なり身にしみじみと夜の気は冷ゆ




雀といへ吾と仲よしが死にしかば今日はもの言はずこのまま居りたし




山風のいたぶりにして笹百合の花がみづからの花粉によごれり




けじめなき吾の不安に響き来て刃物のごとき冬の風鳴り



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タジン鍋



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タラのアラは15秒湯通しする。


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タジン鍋の下敷きにざく切りしたキャベツを置き、ニンジンとダイコンの薄切り、シイタケのスライスを置き、タラを置き、生姜をすりおろし、ニンニク醤油で味付けし、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。



サツマイモの煮物

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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れて炒め、大さじ3の水を入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、ユズ1個の果汁を入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。



ホウレンソウのおひたし

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出し汁作り    
  
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煮干し、シイタケ、昆布は朝から水に浸しておいた。煮立ってきたら弱火にしてカツオブシを入れ、10分ほど煮て、出し殻を全て取り出し、再沸騰させアクをとって出来上がり。



タラのアラ汁

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鍋に千切りしたニンジンとダイコンを入れ、水と出し汁を入れ、煮立ったら弱火にしてキャベツとハクサイのざく切りを入れ、タジン鍋で使ったタラの残りを入れ5分ほど煮て、味噌を溶き入れ3分ほど煮て、ネギの小口切りを入れて出来上がり。


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大阪 ぶらぶら歩き



1泊2日で大阪へ行ってきた。

高速バスを利用して大阪難波の湊町OCATのバスターミナルで降り、ナンバウオークの地下道を15~20分ほど歩くと日本橋駅につく。その5番出口から地上に上ると、すぐ「黒門市場」が見える。ホテルはその黒門市場の道を隔てた対面にある。

シニア割引を活用し、バイキングの朝食付きで5900円のそのホテルを拠点に、3~4分ほど歩けば、道頓堀、心斎橋がある。

ホテルに荷物を置いて、日本橋から近鉄電車に乗り布施駅で降りると、そこは40年ほど前の自分の生活圏である。布施駅周辺をぐるぐる歩き、ポッポアベニューを通って永和駅前まで2キロほど歩くと、昔住んでいたアパートがある。もちろんアパートも周辺も風景は一変している。

近鉄永和駅のそばにJRの河内永和駅があり、そこから2駅で「放出(ハナテンと読む)」に着く。そして駅前の「みゆき通り」という商店街を抜けると、その昔、勤めていた会社の寮があったが、その周辺も変ってしまって、寮の場所を結局、探し当てることはできなかった。


いったん日本橋に戻り、地下鉄堺筋線の北千里行きに乗り、豊津駅で降り、川沿いに2キロほど歩き、名神高速のガード下を抜けると、44年ほど前に住んでいた下宿屋がある。このあたりは全く変わってしまって、まさに浦島太郎の面持ちになった。それでもあたりを歩き回って、確かこの辺だっと目星を付けたところは、近代的なマンションに変っていた。このあたりの小高い丘陵は4~5階の学生マンションが乱立していた。

住んでいた下宿屋のすぐ上に、下宿屋のおばさんの墓があると聞いていたので探したら、平成9年1月1日没、七十八才という墓石を見つけた。本当にお世話になったのに、卒業以来40年余りご無沙汰していた非礼をわびた。


この40年ほど、あまり平穏な人生でもなく、足が向かなかった。農業を始めた5年後の42才の頃に、ワンパック宅配の営業ビラを配りに1度大阪(布施駅周辺)へ行った後は、去年の今頃行ったのが2回目で、今回が3回目だった。


昨日は吹田市上山手町の下宿屋周辺を歩き、下宿屋から300メートルほどの場所にある裏門の急坂を通って学内に入り、学食を食べた。今日もう一度行って、今度は学内を歩いた。

豊津駅から電車に乗って日本橋に戻り、また布施に行って、もう一度布施周辺を歩き回った(卒業後最初に勤めた会社がこの近くにあった)。


7年ほど暮らした大阪だったが、まるで浮草のような暮らしだったし、行動範囲(生活圏)も極めて限定的で、「いったい何をしていたのか」と今更ながら思う。


地元に返ってからも転職の繰り返しになった。36才の時に農業に転身(それができる環境にあった)してからは少し落ち着いたが、日々の生活と農業に追われ続けた。


まもなく64才になる。今までにしてきた事の中から、今後の自分の方向を見つけるしかない。それは還暦が過ぎてから偶然に出会ったハンセン病文学になるだろう。

家から30分ほどの場所(島)に、2つのハンセン病療養所があると言っても、30~50代は全く無関心だった。10年前に始めたブログのネタ目的で、年に2回ほど、風景を写しに行っていただけだった。その風景写真を、「石田雅男さん」という入所者の「講演ポスター」に使わせてほしいと、明石市の人権推進課の職員から電話があった時、「これは自分に縁がある」と痛烈に感じた。

それでもその時には動けず、3年ほど胸中にとどめていた。その講演者を訪ねて、長島愛生園入所者自治会の事務所に行ったのは、61才になる直前だった。


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邑久光明園  碧かほるさん



遠空にちぎれたたよふ雲のごと独りの吾のよるべ知らえず(離籍)




寝ながらに潮騒の音を聞きすましこの島に果つる現身思ふ




縫ひ針にこころせかるれ不自由の手に持つ針のはかどらずして




薬包紙日日にたまりて食欲の衰ふ夫よいのちやせつつ




小さき手を吾れの乳房にふれさせつ子無き淋しさ募りて泣かゆ




療養の身に夫婦舎の与へられこのやすけさも遂にあやしむ




芽ぶき来し桜の幹に目をとめて久しきもののまたるる思ひす




碧かほるさんの略歴
邑久光明園。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)に出詠


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邑久光明園  北林正秋さん



胸底に息をこらへて癩の名を聞きたる医師の声忘られず




現し身のひとつひとつが変りゆくわれの病を母にも告げず




壁一重隣の室より聞えくる咳一つして物書くらしも




進学の励みに金も添へてやりて子にたよりせし朝のさやけさ




君逝きて今宵通夜の人達に窓より差込む月影さみし




窓ゆ射すしずかな月にみとられて白露のごと清く逝きにき




三年越し胸病む友はいたつきになぐさむ言葉言ひつくしたり




北林正秋(北林白秋)さんの略歴
邑久光明園。『光明苑』(昭和28年)、『海中石』(昭和31年)


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すき焼き



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フライパンにダイコンとニンジンの薄切りとシイタケを入れ、水とダシの素を少し入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして5分煮て、ハクサイとネギのざく切りを入れ、15秒湯通しした牛肉を入れ、強火で5分ほど煮て出来上がり。  


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邑久光明園  朴 学信さん

原稿用紙(400字)換算で、約11枚です。


遠い記憶

 私が生れた時、すでに黒い影があった。私の成長と一緒に、その影は大きくなって今日に及んでいる。私の生命がこの地上から消えた時、私を執拗にとり囲んでいた影は消滅するのだろうか。


 祖国の不幸は日本の植民地となってから始まっていましたが、私の不幸は支那事変が勃発した頃から出発しました。その頃から物価は日毎に値上がりし私たち百姓は哀れでした。米がとれる時は米の飯を、麦がとれる時は麦飯を何んとか食べられましたが、それが戦争のため米麦の強制的供出でそれも取りあげられ粟などの雑穀で露命をつないでいました。若者は日本の工場や炭坑の自由応募に応じて村を去りました。生きるためには、だまされると知りながらそうするより仕方がなかったのです。それも戦争がだんだん激しく大きくなりますと、自由募集ではなく強制的に若者を何処かの工場、炭坑、飛行場などに連れて行くようになりました。
 私はその頃、警防団におりました。軍事教練や防空訓練をやらされていました。そのうちに、志願兵になろうと考えまして、警察署へ手続きをとりに行きました。すると、自由な筈の志願兵願書を、巡査の立ち合いで書かすのです。そこで相手の言う事を聞かないと、監獄だと言う話でした。
 そんな事をしているうち、一九四三年十一月十八日、警察署から呼び出しを受けました。びっくりして飛んで行ってみますと、巡査部長が君も徴用に行け、と言いました。そして、もし行かないと言うなら手錠をはめても行かす、とおどかすのです。私は徴用でも仕方がないと思いましたが、一度家へ帰って家族に会って来たいと言いますと、それはならぬ、と許してくれませんでした。私はこのまま二年間、万期になるまで家へ帰る事が出来なくなりました。
 翌十九日、私のような若者が地方から狩り出され釜山に集結していました。そして明くる日の二十日に関釜連絡船に積まれ、その日の夕方六時半に下関桟橋におろされました。水上警察による入国の手続きを終えると駅前に連れ出されました。そこは異国の夜風が冷々と吹いていました。私たちが汽車に積み込まれたのは夜も更けた十一時すぎでした。それから長い汽車の旅が始まりました。夜明けに広島を過ぎ、昼に弁当が配られましたが、それは甘藷だけでした。私たち五十名の者は、何処まで行くのだろうと思い思いしているうちに大阪に着きました。もうその時は日が暮れていました。そこからまた電車で天王寺、さらにその先をまたまた汽車に積み込まれました。もうすっかり精も根も疲れた私たちは、やっと汽車から降ろされました。そこは名出という駅でした。すると、鉱山から出迎えの人が幾人か来ていました。私たちは駅を出ると野原の中を歩きました。紀ノ川大橋を渡り麻生津村を抜けると道は蜜柑畑の中に入りました。その時、月の光りに濡れていた蜜柑の色の美しさを今でも忘れていません。やがて十一時頃でしたでしょうか、私たちは目的地である鉱山に着きました。そこで出迎えてくれた職員に連れられて寮に入りました。しばらくして後、私たちの一行は鉱山の食堂に集められました。そこで労務課長が所長代理として挨拶され、それに続いて寮長が色々な人を紹介してくれました。その中には、後でわかったのですが、私たちを監視する人も幾人かがいました。寮の出入口にはその監視人が何時も坐り切りで、一人一人の挙動を鋭い目付きで監察するのであります
 私たちは旅の疲れをいやす間もなく、中二日して二十四日の日から仕事につかされました。朝、坑口で所長の訓示を受け、また責任者から現場配分と仕事の項目などを教えられました。私は振作夫でした。それは機械で穴を掘り火薬をつめて、ハッパをかける作業でした。それで私は先輩の後について入坑しました。生れてはじめての地下は、頭の方がおしつぶされそうに重苦しいので、上ばかり気を取られていますと足をつまづかせてばかりいました。やっとの思いで着いた現場で無我夢中で初仕事をしました。やがて仕事を終えた私は、仲間たちと出坑し、坑口の事務所で札を受けて寮へ帰りました。それから浴場へ行って汗を流すと、一日が終るわけです。
 三日目でしたか、同居人の二人が時間が過ぎてもなかなか寮へ帰って来ない事が在りました。心配して探しますと、医務室で医者に治療を受けていました。その頭は包帯がぐるぐる巻かれていました。聞いてみますと、寮長にたたかれて頭に穴があいたと言うのです。私たちはそんなむごい事をする寮長を皆んなで辞めさせましたが、そのかわり監視人の目はますます激しく光り出しました。
 そんな事があってからのある晩の事でした。仲間の一人が鉱山から逃亡しました。ところがその翌日、捕えられて戻されて来ました。そして、このまま仕事をさせたら後のためにならぬ、皆のみせしめにする、と言って事務所へ連れて行き、殴る、蹴るの暴行の限りをつくしました。そして仲間は、這うようにして寮へ帰って来ました。それを見た私たちは、暗い気分で心が痛みました。
 どんな事件があっても鉱山は活動していました。私は坑内に慣れるにしたがって仕事を覚えましたが、振作夫が嫌になって来ましたので現場主任に申し出て、火薬とノミを坑内の各現場へ運ぶ仕事に変えてもらいました。この作業は危険ですが、朝十時に入坑して昼の一時半には出坑出来るという時間的にも肉体的にも恵まれたものでした。
 半年が夢のように過ぎて行きました。その日私は、火薬とノミをトロッコに積み込み、押して現場へ行く途中、激しい爆発音と響きを体に受けました。消えたカンテラに明りをつけて、私は不安を憶えました。爆発音のあった現場には親友がいた筈でした。私は自分の仕事を他の坑夫に頼んで、事故現場へ走りました。もうそこは煙が渦巻いていて、何も見えませんでした。うめき声をたよりに這い進み、重症の親友を見付けて背中に負い、やっとの思いで危険から脱出する事が出来ました。しかし背中の親友はもう虫の息で、かすかに何回も私の名を呼び続けていました。早く地上に出なくてはと気は焦りましたが、そのためには混乱した坑内車を幾度も乗りかえなければなりませんでした。一時間もかかって、やっと坑口が闇の中に小さく見える所まで来ました時、親友は私の背中ですでに息絶えておりました。もう体をゆすぶっても名を呼んでも、その汚れた黒い顔は動こうとはしませんでした。その夜、せめて一緒に渡航して来た仲間たちが集まって通夜をし、葬式もしてやりたいと所長へお願いしましたところ、それは聞き入れてくれませんでした。やっと火葬場だけの時間を許してくれました。こうして親友は異国で淋しくその生涯を終わったのです。そんな事件がありましてから、私も何だか鉱山がいやになって来ました。そこで国へ帰りたいと事務所へお願いしますと、一時帰国はとてもじゃないがだめだ、と取り合ってくれませんでした。とうとう私も逃亡するより仕方がない事を知り、その機会をねらっていましたが、あの監視人の鋭い見張りがあっては、なかなか大変な冒険でした。しかし、私は秋のある日遂にあの忌まわしい鉱山から、二本の足をたよって山や谷を幾つも越えて逃亡に成功しました。
 それから私は、枚方の中宮砲兵工廠で働きながら、帰国のための金をつくっていました。やがて空襲がだんだん激しくなって交通がひどく制限されて来ました。私は旅行証明書と帰国証明書を受けるため、憲兵事務所へ幾度もお願いに行きましたが、なかなか作ってくれませんでした。空襲に追われ逃げまわっているうちに、八月十五日が来てしまいました。仕事もなくぶらぶらしているうちに、持っていた金も使い果たしましたので、国へも帰れなくなりました。そんな私は、知人に身を寄せたり、滋賀の皇子山の進駐軍工事に出掛けたりして暮らしていました。
 一九四七年の夏のことでした。浴場で自分の体に赤い円いアザがあるのを見付けました。それが日が経つにしたがって、その周囲が痛くなく汗も出なくなりました。おかしいので町医者に診てもらいましたが、そこでもアザだと言うことで注射をしたり薬を呑んだりしましたが、仕事もなくなりますと金も絶えましたので、治療は続きませんでした。それから半年もした頃でしょうか、顔に何かぶつぶつが吹き出して来ました。ある日、年寄りの一人が私の顔を見て、あんたはライ病だ(ハンセン氏病)と言われました。私はその時、まさか自分がそんな病気になろうとは、あまりの事に死のうかとも思いました程でした。そんな思案に暮れていた時、福井に地震がありました。私はそこへ出掛けて働きましたが、もう体が言う事をきいてくれませんでした。ある晩、禁酒をおかして友達と呑みましたところ、体はだるく、顔はますます赤くはれ上がり、鏡を見るのも恐ろしいほどになりました。そうしているうちに病気は体中に広がり、道を歩くことも人目につくので出来なくなりました。春のある日、鯖江保健所員が来て、私にあまり動かないようにと注意して行きました。私の病気が伝染病ですからなのです。
 三ヶ月後に県庁の衛生課員が見えました。そして、療養所がありますから行きますか、とたずねますので私は素直に、行きます、と答えました。それから、私の面倒は隣りの人がよくしてくれました。県庁の人がよく頼んでくれたからだそうです。
 六月二日の午後、山中村役場の民生係の人が見えて、明日岡山の療養所へ行きますから、朝の六時には役場に来て下さい、と言いました。こうして私は翌日、鯖江を午前八時半に汽車で出発しました。駅々の停車は、私に随分辛い思いをさせましたが、とうとう岡山の療養所「光明園」に参りました。その日は一九四九年六月三日でした。


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邑久光明園  桜井利夫さん



釣りて来ぬ魚はわずか二尾なれど妻はうれしく料理してをり




プルスとる看護婦の手の冷ややかに熱のあるらし今朝の感触




わが性を何かみじめに思ふ夜床より起きて油虫つぶす




冷え冷えと廊下鳴らして義足ゆく己が運命にたへぬ如くに




ライ家族の業苦に耐へて泣き口説く死思ふ吾に母がありたり




倖せもさびしき夜なり妹の嬰児の写真妻は見あかず




一ツ一ツ燈の消ゆる想ひして妻と寡黙の数日がつづく


桜井利夫(棚橋達生)さんの略歴
大正13年1月29日岐阜県生まれ。昭和22年7月17日邑久光明園に入園。昭和27年頃から昭和31年頃まで楓短歌会に所属。平成11年機関誌「楓」復刊とともに作歌活動を再開。中部短歌所属。平成17年5月21日没。『光明苑』(昭和28年)『海中石』(昭和31年)


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邑久光明園  有吉比登志さん



臥ながらに今日もながむる外科室の通風筒はゆるく廻れり




(末妹腸チブスを病みて危篤の報来る)
我が生命にかへても妹が若き身はもとにかへさな死なすべからず




現世に今一度は逢ひたかりき七年あはず妹は逝きたり




(昭和9年9月21日 風水害記念誌より)→昭和9年9月21日の第一室戸台風で大阪の外島保養院は壊滅
腰胸と刻刻増し来濁流に倒れじと歩む足もつれんとする




暴風雨狂ふ屋根に抱かる幼な児のそのなく声のはらわたに沁む




屋根のみを水の面に見せて倒れける家に帰れどせむ術もなし




(友各療養所へ離散す)
ローソクの灯りかこみて別れゆく運命すべなくなぐさめあへり


有吉比呂志(比登志)さんの略歴
邑久光明園。楓短歌会『藻の花』(昭和10年)『光明苑』(昭和28年)『光明苑』には故人とある。


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芋飯



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3合の白米を洗って、酒50CCを入れ、3合の水加減にして、塩少々を入れて混ぜる。乱切りしたサツマイモ2種(普通種とムラサキ芋)を入れ(置き)、炊けたら混ぜて出来上がり。



ダイズの煮豆
 
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青ダイズは一晩、水に浸す。

圧力鍋に小さく角切りしたニンジンとヤーコンを入れ、水で戻したシイタケを戻し水ごと入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、出し汁を入れてひたひたにし、風味付けにゴマ油を数滴入れ、強火で6~7分煮て、おもりが勢いよくまわりだしたら極弱火にして25分、火を消して圧が抜けるまでそのまま放置して出来上がり。

ヤーコン(レンコンのレシピがそのままヤーコンにも使える)は煮崩れしないので、煮豆に合う。



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邑久光明園  具 南順さん


原稿用紙(400字)換算で約13枚です。


一人の女

 この三月で、私は八回目の結婚記念日を迎えました。光陰矢の如しとか言いますが、ほんとうに月日の経つのは早いもので、ついこの間の事と思っていたのに、もう八年も経ったのかと今更のように驚いています。
 私たちは子供を生む事を許されていませんので、八年経ったいまでも、結婚当時とそれ程の違いはありません。何かの変化をしいて求めるのでしたら、その年のわりにえらく落着いて、この島の療養所に根を生やしてしまった事くらいです。午前中の作業と治療の時間、午後は洗濯物やつくろいをして、夜になれば知りあいの誰れ彼が訪ねて来て、その人たちと火鉢を囲んで雑談をかわす毎日が続いています。その間に夫は時たま山の畠へ行くか、そうでなければ日向に出て本を読んだりスポーツを楽しんだりして、よほどの事のないかぎりこの日課は変る事はありません。それでもハンセン氏病療養所は、結核の療養所等とは違って、夫婦寮があって、三度の食事にしても一日に一度大体夕方が多いのですが、現品で副食が支給されます。約千人近い入所者が一つの炊事場から炊き出されたものを同じ量で、ニューム製の飯器で受けるのですが、女である私にとっては現品支給は一つの大きな楽しみです。一寮八室、一室四畳半の夫婦寮は壁一つをへだてているだけで、みんな同じような生活をしているのです。小さな前庭にはそれぞれに花壇が作られていますし、食膳に乗せられているものも殆ど同じものです。それが現品支給の夕方の食膳はそれぞれに創意と工夫をこらして、勿論同じ材料で大した変化はないと言えばそれまでですが、ともかく二人の食膳ですからいろいろと型を変えて並べる事が、女の一つの楽しみです。それに私たち韓国人は調味料の使い方が全く異なるのですから、その夕食はほんとうに美味しくいただけるので、私は他人見にはコッケイな位大いに張切っています。

 私は十九歳の春に光明園へ入園いたしましたが、それは太平洋戦争が終わって、ようやく世の中が落着きをみせはじめていた頃でしたが、この島の療養所ではまだ戦争の余震が残っていて、何もかもが不足していました。大風子油がたった一つの治療薬でしたが、それも一グラムか二グラムが隔日に受けられるだけで、長い列をつくって皆んな必死でした。食べ物は真っ黒な麦飯で、調味料も不足していて、いまから考えますと全く隔世の感がいたします。私は年老いた父母に伴われて入園して来たのですが、一時自殺を思いつめて、母の留守中に塩酸を吞んで多量の血を吐き、それが充分に治りきっていなかったのでほとんど入園後の一週間位は御飯を食べる事が出来ませんでした。胃が焼けただれて何にも受付けなかったのです。それで、私は直ぐに入室したのですが、私の入った部屋<女子独身寮>の人たちは、そう長くはないだろう、葬式をもらったようなものだと噂していたという事を、ずっと後になって聞かされました。
 私もそう望んでいましたし、それに部屋の人たちもあきらめていたのに、入室後一ヶ月ばかりすると私の身体は人々がびっくりするほどの早さで回復して、私は五十日あまりで退室しました。身体が回復するに従って、私の気持ちも落着いてきたのでしょう。あれ程望んでいた死の影は消えて、今度はそれに数倍する激しさで、私は必死に生きる事を願っていました。私はあちこちと尋ね歩いて、大風子油を分けて頂くために、それこそ本当に馳けずり歩きました。医局から隔日に受ける注射だけでは不安で、じっとして居られなかったのです。その頃はみんながそうでした。それは此れ以上の病状の進行を喰い止める、それだけの願いだったのです。自分の周囲の人たちが一夜のうちに全く変貌してしまう姿を目のあたりにして、その生地獄から逃れるために、あらゆる努力を重ねたのです。大風子油を多く注射する事によって、それがその儘治癒につながるとは決して思ってはいませんでしたが、しかし、じっと狂い死にを待っている事は出来ませんでした。私は母に無理を言って送金して貰って、それで闇の大風子油を買い求め、二、三人して共同で注射を打ち合いました。熱湯で消毒して太モモへ注射するのですが、その頃のそれもヤミで入って来る大風子油は粗悪品が多く、よく化膿して高熱のため一週間、二週間と床に臥す事はめずらしい事ではありませんでした。医局に隠れて自分たちが勝手に治療するのですから、大風子油で化膿しても手術を受けに行く事が出来ませんでしたので、自分で切って切口へ消毒ガーゼをつめ込んで一週間でも二週間でも寝てなおすのです。いまから考えると、ほんとに無茶な事をしたものだと冷汗をかきますが、その当時はとにかく必死でした。そんな必死の療法の甲斐があってか、私の病状は固定いたしました。大風子油の手足は火傷のあとのように傷あとだらけですが、それからしばらくしてスルフォン剤プロミンが出来た事を併せて、入園当時と較べてそれほど悪化はしていません。大風子油ではどうにもならなかった人たちも、プロミン剤によってライは奇蹟的に、それは嘘のように外傷や結節が人々の手足や顔からひいて行きました。このプロミン剤は最初は非常に量が少なく、プロミン剤の予算獲得のために、一時全国の療養所は異常な興奮に湧き立ちました。
 プロミン剤の出現と昭和二十八年のらい予防法改正闘争はライ収容所を、ハンセン氏病療養所へと大きく変革させました。最近は早期に発見された人たちは、四、五年間の治療によって、又、元の職場へ帰って行く事がそれほど困難の事ではないようになりました。
 
 私は塩酸を呑んでいためた胃腸が回復して、女子独身寮へ帰ったのですが、ようやく落着いてみますと、私の周囲には多くの韓国人患者が見受けられました。そしてその事が私を一番驚かせました。私はこの療養所に百人近い韓国人患者が居るなどとは夢にも思っていませんでしたし、何か力強いものを感じますと共に、異郷の地で大きな病を養っている人の姿に、自分の事を忘れて涙が流れて来ました。私たちはお互いの不幸を慰め合うために、いきおい同胞たちが集い合うようになりました。私の入っている部屋は五人定員でしたが、日本人僚友が四人と私の五人でしたので、新しい患者である私を慰めるために同胞の誰れかが何時も来てくれましたが、言葉とか風俗や習慣の違いから、あまりしげしげと同じ部屋へ集まる事は苦情が出るという事を聞かされました。そう言われてみると、うなづける幾つかの問題がありました。私たちの韓国人は総体に声も大きいのと、その育って来た環境や性格から、非常な誤解を招くことがあり勝ちですし、此の療養所の制度では不自由になって不自由寮へ移るか、又は結婚して夫婦寮へ下るか、一時帰省をして籍でも切らないかぎり一生をその部屋で暮らさなければならないのですから、あまりの我儘は許されませんし、それぞれがひかえ目な生活をしています。
 女子独身寮は男の部屋と違って、口論やケンカのような事はありませんが、子供寮を上がったばかりの人から、四十歳、五十歳の人まで雑居生活ですから、みんなの気持ちが一つにまとまる事は不可能なのはあたり前の事ですし、最近とは違ってその頃は此の病気が完全に治るとは考えられませんでしたから、女同志の冷たいいがみ合いなどもあります。表面上はしっくりととけ合っているのですが、病状に対する苛だちと焦りが、つい角を出すのです。それに男女の比は独身者では五対一位の割合で、夜になれば男の人が遊びに来ますが、一生をこの島で送るより仕方がないと皆んなが諦めているのですから、男女関係についても神経質になっています。一方で男の人としゃべっているかと思えば、片隅では残して来た子供や夫の事を、ぐちをこぼしていますし、その両方に神経を使わなければなりません。この島の噂は無責任で、毎日噂に神経をすりへらさなければならない事より、一緒になって笑いころげている方が生きて行くのに好都合なのです。
 この島の男女の交際ほど、およそロマンチックらしからぬものはないでしょう。殆どの人たちは見合いと言うよりも、それぞれの親しい人からの推めで結ばれています。子どもを育てるとか、将来の設計を考えなければならないという事はなかったのですから、それほど真剣に考えなくても良かったのでしょう。私も夫との結婚は見合いもせずに式を挙げました。別に見合いをしなくても、歩いて十五分か二十分足らずの療養所では、みんなが顔見知りで、その性格も人の噂等でおよそは解っています。女の部屋では雨が降って誰も遊びに来ない時などは、誰かの口切りで、男の人の品定めが行われる事は決してめずらしい事はありません。
 私が夫の事について最初に知ったのは、私の親しく出入りしている人の部屋で、丁度来合わせた彼に紹介されたのですが、その時彼は入園後二十日も経つのに未だ部屋が決まらなくて、収容所にいるとの事でした。私がその当時の事を後々まで憶えていたのは、私の知人が彼を指さしてこの島の療養所の韓国人について語った事が記憶に重たく残っていたからです。と言いますのは普通日本人僚友は収容されると一週間でそれぞれの寮へ入るのですが、私たち韓国人の場合は中々受取って貰えないのでついつい日延べになって、彼の場合は二十五日目にやっと部屋が決まりました。新しい入園者があると患者自治会の人事係が各寮へ入居の交渉をするのですが、一旦入ったら特別の事のないかぎり、そこで一生共同生活をしなければなりませんので、その部屋の人たちは出来るだけ良い人をと希望するのです。
 私の知人の言葉を彼はじっと聞いていましたが、それに軽くうなずいただけで、それ以上何んにも口を開きませんでした。かえってかすかに微笑をためていました。私の結婚について知人から推められた時、その相手が彼である事を思い出したのですが、一週間ばかり考えたあげく、私は彼と結ばれました。その頃の夫は病状も比較的軽症でしたし、私は人並の生活は出来るだろうという考えでした。
 一旦ライと宣告されてたら、プロミン剤の出現はありましたが、私のように後遺症の残っている者は退園する事はできません。よほど早期に発見された人たちだけが社会へ帰れるのですが、その人たちに対しても世間の人たちはライに患ると忌み、嫌う事は少しも以前と変わりありませんので、ハンセン氏病と訣別する事は今日の社会情勢ではまだまだ無理な実状です。一日も早く大手を振って社会へ帰れる日が来る事をみんな望んでいます。
 私は病状が固定して来たのと、それから世間で言う適齢期を迎えていたので、どちらかに決めなければなりませんでした。一つは社会へ帰る道ですが、これは先に書きましたようにほんの一部の人に限られていますし、又中々きびしい道です。が、私のように一応病状は固定したとは言うものの大きな後遺症の残っている者はもう一つの生き方、この島を永住の地と決めて結婚生活に入る事しか残されていません。私が発病したために母はすぐ下の弟を連れて私と三人で父や家族と別居しました。それは夜逃げ同様にして、誰も知らない土地へ移ったのですが、そこで私は塩酸を呑んで自殺を計ったものの死に切れずに、この島の療養所へ渡って来たのですから、若しかりに全快治癒しても一般社会へは帰る決心がつかなかったかも知れません。
 私は毎日夫婦寮の人たちの生活を、、見聞きしていましたから、結婚についての大きな期待は持っていませんでした。一寮八室の夫婦寮は左を向いても右を向いても、何んの変化もありません。一つの規格の中に二人の別々の人間が、その不幸な魂を寄せ合ってひっそりと暮らしているのです。来る日も来る日も何んの変化もない時間が連続して流れる、そんな単調な生活を続けながら、何時とはなしに人生を終るのです。しかし、それでも殺風景で、ギラギラした独身寮の生活よりは、うるおいがありますし、愛する自信があったらわずらわしい独身寮よりは、少しは人間らしい生活が夫婦寮では出来るのではないかと考えたのです。
 此の三月で、私は八回目の結婚記念日を迎えましたが、毎年その日はささやかな食膳を飾って、私たちはお互いの生命をたしかめ合っています。



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邑久光明園  岡村正吾さん



病める身を隔離し居れど民族の浄化おもへば苦にならなくに




別れがたき吾子をのこして病める身は遠ざかりゆく車窓に首伸ぶ




海人の歌集白描読みをればおのずからにして涙こぼるる




茂りたる山を背にしてきほひよく少年寮に鯉のぼり立つ




両眼をとぢて堪へゐるこのひまに手術終へたり睾丸いたむ




大御代の恵みとは言え安らかに病み臥して居り男ざかりを




岡村正吾さんの略歴
邑久光明園。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)に出詠。このとき故人とある。


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邑久光明園  高崎あつしさん



枕辺に右と左の足袋分けて安眠しゐたる盲の友は




静脈に射すプロミンの冷感が五体に沁みて浄まる如し




心なく嘘も交へてはげましき心ひがめる盲ひし妻を




童等の爪切り奉仕に不自由者の人等並べり菊かをる廊下に




手術終りわれに松葉杖かしくるる看護婦マスクの中に微笑める




義弟に嫁が決れば預けある子供は何処にそだててもらはむ




病ゆえに一生を島に果てなむか目覚むれば今朝を海鳴りの音




島にきて働く人夫はそれぞれに幾人の生を支へておらむ




手作りの位牌に向ひ読経する声折折につまりきたれる




野に出て病み古る五体を草に伏す青き空気に自浄す思ひ



高崎あつしさんの略歴
明治40年8月1日三重県生まれ。昭和13年9月2日邑久光明園に入園。真宗導師を務める。中部短歌所属。平成7年7月20日没。『光明苑』(昭和28年)『海中石』(昭和31年)


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コロッケ


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無水鍋に大さじ4の水を入れ、薄切りしたジャガイモとニンジンを入れ、極弱火で35分、余熱10分で蓋を開け、塩・胡椒をしてつぶす。つぶすので時間を長めにした。

歳暮でもらったハムは小さく切って炒め、ジャガイモに混ぜる。

熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、丸めて薄力粉をつけたコロッケを焼いて出来上がり。ケチャップとソースで。




ホウレンソウのおひたし

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茹でてカツオブシと醤油で。




サワラのアラを使った2品

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サワラのアラは15秒湯通しする。


  
アラとネギの煮物

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鍋に出し汁を少し入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、サワラのアラを入れ、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、ネギのざく切りを入れ、5分煮て出来上がり。




アラ汁

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鍋に千切りしたダイコンとニンジンを入れ、シイタケのスライスを入れ、出し汁と水を入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、サワラのアラを入れ5分煮て、味噌を溶き入れ、ネギの小口切りを入れ、5分ほど煮て出来上がり。
 


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邑久光明園  西尾小菊さん



ありし日の友の詠みたる歌淋みし読み返しつつおもかげ偲ぶ




夕顔のねじもどしつつ一つ咲きまた咲きつぼみふくらみて来し




はでやかなセルに着替へて少女らの通る姿は病者とも見えず




縫物にいそしむ友のかたはらに眼を病むわれは日向ぼこせり



西尾小菊さんの略歴
邑久光明園。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)に出詠。故人とあり。


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邑久光明園  橘美代志さん



しみじみと悲しかりけりみつめゐる手に一本のおゆびたらぬも




働きて金が貯まれば面会にまた来ると言ひて母帰りけり




新築の夫婦舎を見に吾と妻と出で来て語る生活のあり




子を生さぬ運命は言はず秋の夜の灯かげに育児ノート読む妻は




吾れひとり歩むと言ひて妻の肩はなれて見たり二三歩がほど




妻の石が吾より遠く飛びにけり春の潮は照りてまぶしき




時代異なる今に新しく吾は読む内村鑑三先生旧約の教へ




筍を掘りたる鍬も洗はずに出で来き既に十四年経ぬ




暗くなる緑の中に浮き立てる静かなる花も今日はかなしも




身を悩み嘆く人あらば来たり見よ
玉木愛子に溢るる光




乳母車に乗り通ひ来て祈る君にキリストイエス泣き給ふべし



橘美代志(津島久雄)さんの略歴
昭和4年6月16日静岡県生まれ。昭和17年4月7日邑久光明園に入園。昭和19年から22年まで少年少女寮の養育係として働く。昭和28年から数年「アララギ」に所属。中部短歌所属。昭和39年長島聖書学舎に入学、昭和42年卒業。昭和52年日本基督教団光明園家族教会の牧師となる。著書『早く朝にならんかな』(昭和53年)。平成16年に引退。『光明苑』(昭和28年)『陸の中の島』(1956年)『海中石』(昭和31年)。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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