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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  瀬田 洋さん


歩く
 
やがて木枯が吹き荒んで

大地が凍てついて

病み古りたこの躰では

とても歩けないで あろうから

歩ける中に歩いて おこうと

義足の足は哀しく

その音はさびしいけれど

歩けることはやはり嬉しいので

並木道を 田圃の畦を

豚舎を 牛舎を 鶏舎を

ほっつき歩いて すっかりくたびれて

堤の芝生の上に躰を投げ出すと

高い煙突の向うには

幽い山脈のような積雲が漂い

その奥から 誰かが 面をのぞけて

悔のないように

歩ける中に歩いておけと

なにか気味悪い声で呼びかけるので

よろめく体を杖に支えて起ち上り

義足を鳴らして

私はまた歩き出す









外科室にて


ここでは

天国と地獄が

いみじくも解け合い

ひそやかに息づく

互に和み合っていた


もはや

どの様な希望も夢も

芽生えそうもないものにも

ここではなおも望みをつなぎ

ピンセット ゾンディ メスと

器具のかち合う音は冷くとも

それらを通して交う体温は

ほんのりこの部屋を温めた

ああ・・・

ひしめき 並ぶ

柘榴ざくろの様な口をあけた

垢まみれの醜怪に歪んだ手と足

灰色に

褪せ 萎び 腫れた貌 々々

・・・・・・・・

臆せず たじろがず

胸に十字を切りつつそれに立ち向い

時に白い指先が血膿に染っても

ほのかな微笑に拭いとる 人の姿よ

ここは地獄 修羅の巷

こここそ天国 パラダイスの都か


冷たいタイルの床には

どす黝い血糊がのたうち

膿汁の浸みた繃帯が這い廻っても

見よ!

玻璃戸近くの小棚の上では

いつか春めいた光を浴びて

一握の草花が

紅く 黄色く

ゆれているのではないか


瀬田洋(村田義人)さんの略歴
生年不詳。山口県の生まれ。農業学校を卒業、その後大島療養所に入所、1941年頃光明園に転園。小説に「葦」がある。1950年8月3日、35歳で死去。
 

あなたの死を橋本正樹さんが「荒廃の花園━━故 瀬田洋兄追悼」という詩にして悲しんだ。


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邑久光明園  名草良作さん


けむり


煙突の煙がみだれる日は

私の心がかなしむ日


煙突のけむりがそのまま空に昇り

雲になる日は

私の心がよろこびを唄う日


煙突にけむりのない日は

私の心がうつろな日


煙がみだれないために

煙が消えないために

私は

ボイラーに石炭を投込む













智恵の精髄よりこぼれる

美のしたたり



婉然と はたまた艶麗に

叡知の中に

飛翔せり


さしのばした口ばしを

ささえる優雅な音

均整する軽やかな足


白雪暟々の高嶺を翔って

空に散る

伝統のしたたり

雨なく

霧なく

永劫の彼方に

芳醇する


鴻儒の編んだ

精神の象徴



争いなく

おごりなく

汚れなく

鶴は知識の結集

美学の産んだ 架空の夢










人魚の歌

そなたはいつも

哀しんでいるから 美しい

人の世の

哀しみが産んだ象徴

そなたの母親は哀愁と云う名の方なんです

そなたの母が

そなたに教えた泪が

未来永劫人の世を濡らす限り

そなたもまた

そなたの宿命の歌をうたわねばならない

そなたのいのちがある限り

人の世も また

限りなく美しい



名草良作さんの略歴
1920年2月28日岐阜県生まれ。1942年2月20日邑久光明園に入所。1956年11月3日栗生楽泉園に転園。1958年「傷痕」が「小説新潮賞」の最終選考七編および「第三回中央公論新人賞」の最終予選通過の十編に選ばれる。1960年「省令105号室」が「サンデー毎日小説賞」選外佳作。積極的に療養所の外に発表の場を求めた。1992年1月5日死去。


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ブリの照り焼き



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ブリは15秒湯通しして片栗粉をまぶす。

熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、ブリを入れ、蓋をして弱火で4分ほど焼き、裏返して4分ほど焼き、タレ(醤油大さじ2、酒大さじ2、蜂蜜、みりん)を入れ、煮つめて出来上がり。「こってりふわふわ☆ブリ照り焼き」を参考にした。





出し汁作り

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煮干し、干しシイタケ、昆布は一晩、水に浸しておいた。中火にかけ、煮立ったら弱火にしてカツオブシを入れ5分ほど煮て、出し殻は全て取り出し、再沸騰させアクをとって出来上がり。



大豆の煮豆

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青ダイズは一晩、水に浸しておいた。圧力鍋に戻し水を半分捨てながらダイズごと入れ、ニンジンとヤーコンの角切り、シイタケのスライスを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、出し汁を入れてひたひたにし、おもりが回り始めたら極弱火にして20分、火を消して圧が抜けるまでそのまま放置して出来上がり。



ホウレンソウのゴマ和え

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ホウレンソウは根元の部分から入れて30秒、葉の部分を浸して30秒茹でて冷水にとり、ざく切りして水気をしぼる。

ボールに出し汁大さじ2、醤油大さじ2、蜂蜜を入れて混ぜ、ホウレンソウをほぐしながら入れ、すりゴマ(市販品)をふり、混ぜて出来上がり。



サツマイモの煮物

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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れて混ぜ、大さじ3の水を入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。



年越しそば

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家人が作った。エビとホウレンソウ。 
       


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邑久光明園  大塔寺睦生さん



埋火


夜ふけ
 
さむさむと

誰も恋うでもなく

誰も慕うでもなく

病いを愛する孤独のぬくもりを

凝っと抱きしむ


しらじらと凍りつく壁

ばらばらと庇を打つ霰

訳もなく

妖しく燃えいぶる心


ぷつぷつと破れゆく畳

ひしめく群衆の雄叫びも

遠く去って

限りなく背負う十字架の

嗚咽を聴く

今宵。


さむざむと更ける夜に

誰を恋うでもなく

誰を慕うでもなく

病いを愛するゆえに

孤独のぬくもりを凝っと抱きしむ



大塔寺睦生さんの略歴
1912年5月21日奈良県の生まれ。1932年3月26日外島保養院入院。2001年11月4日死去。


素敵な詩だと思う。大塔寺さんは89才まで生きられている。他にも詩をたくさん書かれたと思うが3篇しか掲載されていない。


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邑久光明園  大塔寺睦生


木の芽に降る雨

こんなにほの白く明るく

こんなに静かにあたたかく

今日も雨降る

木の芽濡らして・・・

何かをみ出そうとするか

何かを書き出そうとするか

たくましき意慾が

紅蓮ぐれんのごとく燃焼する


仮令たとえ それは・・・

不調和の墨絵であってもよい

夢の創作であってもよい

未完成の詩品であってもよい


そは!

憧れの霊峯を究めんとする

芸術美への

足掻きであり

悶えでもある


すべてを失なった

嗚咽の中から

いと小さき希望を抱いて

限りなき幻想の夢を

現実のひととき


こんなにほの白く明るく

こんなに静かにあたたかく

今日も雨降る

木の芽濡らして・・・









オレンジ色の薔薇


残照の明るさに

一日の疲れの寂しさがある


無限の哀愁を秘めて

こぼれ落ちた

オレンジ色の薔薇一弁

干からびた魂に

流浪の旅の想い出がある

返り来ぬ齢を数えつつ

訳もなくその色が好きである


それは

わたしの萎びた感傷に

ぴったり合った色だから・・・



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鯛アラとダイコンの味噌煮




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鯛アラは15秒湯通しする。

乱切りしたダイコンとシイタケを鍋に入れ、出し汁と水を入れ、酒、みりんと蜂蜜を少し入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、鯛アラを入れ、生姜1片をすりおろし、5分煮て、味噌を溶き入れ5分煮て出来上がり。



ダイコンおろし
  
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塩サバ

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ブロッコリー

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ブロッコリーの茎は薄切りして30秒茹で、その後、花蕾の部分を入れて1分茹でて湯切りし、マヨネーズで。




ニンジンの煮物

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先日小分けしたマグロは解凍して15秒湯通しする。

鍋に乱切りしたニンジンとシイタケを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、ひたひたに出し汁を入れ、煮立ったら弱火にして10分煮て、マグロを入れ、10分煮て出来上がり。


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邑久光明園  蜷川ひさしさん



焚火


真白に

霜の降りた道

人々の体温に

ほほえみをあたえながら


あお天を指さして

女神の様に立っている

炎の精










パレット


視力の失った掌に

パレットをひらくと

干からびた絵具の中から

明るい夢が湧いてくる


グリーンから生まれた蝶が

水車のしぶきに驚いて

タンポポの葉裏にかくれると

妹のリボンが馳けてくる


レッドから流れた夕雲が

白帆の風にはこばれて

裏庭の物干にひっかかると

母のエプロンがゆれている


イエロウから落ちた木の葉が

マッチの軸にひろわれて

机の上に廻っていると

先生のスリッパが怒っている


闇の世界が息苦しくなって

箸をもつことが嫌になると

古いパレットを開いて

明日への夢をえがいてみる



蜷川ひさしさんの略歴
1925年大阪府生まれ。1941年邑久光明園入所。1970年死去。



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邑久光明園  蜷川ひさしさん



惜春


雪につまずき

風にむせびながら

ようよう訪れてくれたのに

私は悲しいことばかり言って

花束をもってきてくれても

小鳥の歌を聞かせてくれても

拗ねてばかりいた

それでもおまえは

いつもやさしい瞳で

みつめていてくれた


今度おまえが訪ねてくれるときは

心から迎えるようになりたい

あんなに待ち遠しかったのに

もう行ってしまおうとしている

春よ










流星


手が萎えてしまった時・・・・・・

まだ足があると言われ

足が立てなくなった時・・・・・・

まだ目があるんだと思った

だがその目も・・・・・・

右は日曜になってしまい

左は半どんになってしまった


達磨の様な体に

のしかかる闇から

這い上ろうとしてすがるものは

みんなわらばかりだ

開眼手術成功

そんな喜びも

山の向こうのことでしかない


ああ私は一体なにを希望に

生きていけばよいのか

・・・・・・・・・・・

この瞬間にも

どこかの空を

星が流れている様な

夜だ



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クリームシチュー


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豚肉100gは15秒湯通しする。

熱した鍋に大さじ1の油を入れ、ニンニク1片の薄切り、豚肉、タマネギのスライスの順に炒め、ジャガイモとニンジンを加えて炒め、全体に油がまわったら火を止めて、大さじ2~3の薄力粉を入れて混ぜ、ひたひたに牛乳を入れ、コンソメ1個を入れ、ジャガイモが柔らかくなるまで中~弱火で20分ほど煮て、塩・胡椒で味付けして出来上がり。

シチューの素はもういらない!これでOK」を参考にした。


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藤本トシ・山田法水・橋本正樹


『地面の底がぬけたんです』一部抜粋

結婚

 あたしがいた部屋は、十五畳に八人なんですけど、夜になると増えるんです。結婚しておられる方がいましょ、ですから。まえに言いましたような結婚生活ですからね。だけど、にぎやかって言えばにぎやかでしたよ。男の人同士で話をしたり、お茶のんだりして・・・。
 その頃、そうですねえ、独身者は、あたしの部屋では二、三人でしたか。あたしはもちろん、まだひとり身でした。
 あたしが結婚したのは、外島に来て一年余り経ってからでしたか、もうはっきり憶えてませんけど、昭和六、七年だったと思います。
 手足はだいぶいい人でしたけど、眼はもう駄目で、日蓮宗の導師をしていた人でした。あたしも、身延にいたせいで日蓮宗ですから。その人が二度三度お勤めに行くありさまを見ていてね・・・手足がいいといっても盲人ですから、不自由でしょ。それに当時は、男には男の付添いさんということになってましたから、やっかいでしょうと思いまして・・・。
 いやあ、恋愛ってほどのものじゃあありますまいねえ。もちろん、ぜんぜん嫌なら結婚しないでしょうけれど、とにかく、十八も齢はちがってたんですから・・・ただ、不自由だろうと思いましてね・・・。
 その人とは、二十九年間つれそいました。
山田法水といいましたけれど。
 外島では、結婚してる人の方がずっと多ござんしたよ。独身者は四分の一くらいでしたかねえ・・・それがねえ、みんな淋しいといおうか何といおうか、女の人が入ってきますとね、まあ、いろんな、仲人になろうとする人が来ましてね、この人はどうだあの人はどうだって、やたらにすすめに来るんです。ま、あたしは自分で選びましたけど。
 ところが、あたしと十八もちがうんですから、あれは金がめあてだ、金さえ取ってしまえばそれっきりだって、そんな陰口を叩かれましてね。あたしの耳には二、三年も経ってから入ってきたんですけど。
 だけど、二十九年間めんどうみましたよ。導師をしていた人だけに、亡くなる時はきれいでした。ちゃんと、こうやって、手を合わせて、おばあさん、ありがとうございましたって合掌しました。
 二十九年間といいますけど、その途中で、あたしが目を失いましたろ、目の悪い人の不自由を見てお世話するつもりになったんでしょ、そのあたしが目を失ってしまって・・・。
 そこからが、あたしの、本当の修行がはじまったんですね。それまでは、どんなことでもつらいとは思いませんでしたけれど・・・あれからが、あたしの、頂上の修行でした。
 ともかく、その人を送ることができまして・・・。
 この病気は、どこもかしこもみんなしびれてしまいますけど、舌だけは麻痺しない。あたしも目を失くしてからは、ほんとにそれで助かりました。特におじいさんが病んでからは、なんでも噛んで食べさせてあげるのですが、硬さも熱さも、みんな舌があってこそね、わかるのですから・・・。だけど、入歯を洗ってあげることができなくなったのはつらかったです。ですが、これも舌に助けられたんです。
 入歯を洗うのは、他人さまには頼みにくい。いえ、お願いして、やって下さらないことはないのですが、他人の入歯を洗うというのは、気持のいいもんじゃありませんです。あたしはこのとおり、今も入歯をしたことはありませんけど、おじいさんのを長年洗っていて、これはなかなか、他人さんにお願いできるようなことじゃないってわかってますから。あれはいけませんですよ。
 というのは、食べカスがついたりしてて、ヌラヌラしますでしょ。それをあたしは、目がいい時は、ブラシの硬いので何回も何回も洗いましたけど、目が見えなくなると、ブラシがあってもこすられんのです。すぐ落とすんです。手が麻痺してますから、持ってるものやらなにやらわからなくなるんです。目が見えなくなってわかるのは、それまで目でこすってたんですよ。目で持ってたんですよ。手でこすったり持ったりしてたんじゃないんですねえ。
 それで、しょうがないから、あたしは、自分の歯でみんなカスを取って、そして舌でさぐってみて、これでどこにも汚れはない、みんな取れてると確かめてから、おじいさんに入れてあげました。これは、あたしが目を失ってから九年間、やりとおしました。
 その九年間が・・・。
 だけど、臨終の時、ひと言、おじいさんがあたしを拝みましたのでね、もう・・・苦労は忘れました。この人(
橋本正樹氏)は、当時、隣の部屋にいたんです。この人はその時分から、あたしのしてきたことを、一部始終しっています。おじいさんが死んで一年経ってから、こんどは逆に、あたしのめんどうをみてやろうと思ってくれたんでしょうか、一緒になることになりまして・・・。
 なんだか、話がずいぶんこっちの方まできてしまいましたねえ。・・・外島の作業の話でしたね。


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邑久光明園  橋本正樹さん



日附け


一坪の

花園の芝生を

蹴上げるように

山茶花の花びらが

こぼれ散っていたのは

昨日の夕暮であった


入水━━

そんな事件が

私達の園内をさわがしたのも

遠いことではない

一日違いの

昨日の出来ごとであった


それから

まだ何かがある

しん夜は


餅搗もちつく きね音で





賑わった








私は明るい樹のもとで


私は明るい樹の下で

お寺の屋根を

教会堂の十字架を

漁師町の屋根屋根を

見ながら

風に頬を
なげうたせ

ふるさとを想った


ゆうべは

潮騒の音に布団の重さを感じた


風は

私の頬を擲ってオリーヴの実が揺れる


わたしは

癩者がうたうとおい

古里の歌を

じっときいて

たっている



橋本正樹さんの略歴
1912年10月28日石川県に生まれる。1929年5月5日、外島保養院に入院。詩と俳句に没頭した。俳句は橋本秋暁子と号し、戦後の俳句会の中心的存在だった。詩作は1941年頃から始めている。1955年春に片足を切断。1986年1月27日死去。没後、夫人藤本トシの文学碑の近くに「秋暁子亭」と名づけた東屋を遺金で建立。



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サトイモとイカの煮物



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イカは軟骨をとり、輪切りにして、15秒湯通しする。

サトイモは乱切りして鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、出し汁でひたひたにし、煮立ったら弱火にして10分煮て、イカを入れ、生姜1片をすりおろし、5分煮て出来上がり。



ホウレンソウのゴマ和え

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ホウレンソウは根元から入れて30秒、その後、葉の部分も浸して30秒茹でて冷水にとり、ざく切りして水気をしぼる。

ボールに大さじ2の出し汁と醤油を入れ、蜂蜜を入れて混ぜ、ホウレンソウをほぐしながら入れ、すりゴマをふって出来上がり。



ネギとシイタケの煮物

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シイタケをスライスして鍋に入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、大さじ3の出し汁を入れ、煮立ったら弱火にして5分煮る。練り製品を細切りして入れ、冷凍していたマグロを解凍して15秒湯通しして入れ、5分煮て、ネギのざく切りを入れ、強火にしてネギがしんなりしたら弱火にして5分煮て出来上がり。
   
  


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邑久光明園  橋本正樹さん


橋本正樹さんの詩はわかりづらい箇所が多々あるが、全体を通して何となくわかったら、その詩は省かずに載せました。




荒廃の花園
━━故 瀬田洋兄追悼


それはかなしい一つの記憶でもあるが

あなたの
精根いのち が西に傾むく日車草ひまわり

まみえた時のように

この
荒廃あれはてた花園のなかに

たった一つ見られる

美しい風船かずらが

わたしのあしもとに揺れていた

かそかな日の想いのなかに

かそかに淡い光を湛えながら

あの日のあなたの面影にどっか結びついている
記憶おもいに垂れて

秋風に乱してはならないこの荒れた花園の朝を

ただひとつかそかにも風船かずらが揺れている

(1950)








秋の翳


秋津のぶつかる音が

私のみけんで外れる


あれほどあつく灼けついていたいらかの

かなしみが


その後の消息を断つように

私のうしろに消え去ってしまうと

今日は

松風がきゅうに輝き出し

みちと云うみち辺には

ところかまわずバッタが

宙返えりする


私の虫歯のいたみを

どうにか桔梗の花かげに

美しく 捨てては しまったものの


それでも

私の外は

広い 海である以外には


私は

何も云うべき言葉を

持たない

(1952)








春の標識


いそ山の

いばらの刺から


岩の裂目の牡蠣がらの

貝から


くずおれたあし

こぼれた 
とびの羽根など

そんな中から


しめやかな 春がやって来るのに

違いない


今日いちにち

砂山に隠れて

私は静かに前方を見る


ふしだらけの

明るい景色の中には

そそり立つような黒い
からす

脚が垂れさがり

聴き澄ます耳もとには

なんとも云えない

幽閉された 大きな力が

こみあげて来るようだ


それが人々の呼びあう

春と云うものであるかも

知れない


そう云えば

私の頬先にふれた

風のなかには

たら
の新しい芽刺が

あかるい光を保っている

春の季節はもう十分に

私のあしもとに拡がっているのだ


砂山に崩れてもくずれても溜る

白い貝殻族よ


明日はきっと柔かい春風が吹いて来て


わたしたちのたましいの一つ塚を

濡らすのに違いない

(1953)



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邑久光明園  橋本正樹さん



橋本正樹さんは藤本トシさんの後夫です。

橋本正樹さんの詩はわかりづらい箇所が多々あるが、全体を通して何となくわかったら、その詩は省かずに載せました。





春は

抱擁される季節だ

美しい月があるからだ

夜々の庭木が濡れているからだ

一枚のタオルも濡れるからだ

浅い宵星

話しがある 

ロマンスがある

夜空がある

金星がある

浴槽がある

いのちがある 

いのちを燃やす窓がある


春はやっぱりいい

抱擁される

季節だからだ


(1953)








二月尽


また来た道を

私は返えすのかも知れない

あたたかい日射が縁側に一ぱい

あたっていると

すわっている畳の上が

急に埃ぽくなって来た

そして 菜の花やすみれが私の鼻の先を

通り過ぎでもしたかのように

やさしい追憶を投げかけて呉れる

癩園に朽果てた身垢のことは

そんな時

おくびにも出さないで

ほど遠い春来るの道程の愉しさが

またまた来た

此の道の 目印の中に

立っているような喜びを

私はひとり

草の根のように吸いあげる


(1953)








抜け殻


私のてのひらに

こんなに軽く乗って

お前の命はどこへ行ったのであろう

そっと 寄生木やどりぎに尋ねてみても

知らないと云った

真白いお前の亡骸なきがら

こんなに軽く

私のてのひらに乗って

お前の命はどこへ行ったのであろう

かなしい ものの運命さだめ

今日吹く野づらの風に

私が そっと山に尋ねてみても

お前の命はなかったのか


(1950)



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ヤーコンのちぢみ



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ヤーコン500gはすりおろし、水気はコップにとり(飲める。甘くておいしい)、大さじ2の片栗粉を入れて混ぜる。

熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、スプーンでヤーコンを落し、蓋をして極弱火で裏表5分ほどずつ焼いて出来上がり。ポン酢で。




塩サンマ

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ダイコンおろし

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キャベツの簡単炒め


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熱したフライパンに油をひき、太めの千切りにしたキャベツとニンニク醤油のニンニクを薄切りして炒め、オイスターソースとニンニク醤油で味付けして出来上がり。
  
  


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邑久光明園  山田法水さん




山田法水さんは藤本トシさんの先夫です。


夜話



俺が懐しさと喜びに慄えながら

七年振りで古里の土を踏んだ時

待っていて心から受け入れてくれたものは

真暗な闇と古巣の納屋だけだったよ


俺が二日間元の主人顔をしていた時

昼間訪ずれて来てくれたものは

節穴から忍びこんだ白っちゃけた光線と

蟋蟀コオロギの老ぼれだけだったよ


俺が後悔のほぞを噛みながら

しょんぼり帰園ってくる時

沁々と来し方行く末を囁きながら

駅まで送って来てくれたのは

闇夜が産んだ

あの時雨だけだったよ









やすらい


麗らかな日が

憩うている私の足を

撫でてくれる

暖めてくれる

峨々たり峯を攀じ

底しれぬ谷を辿り

風雨の暴力に耐え

果しない吹雪の広野を

越えてきた

足を

七十余年の労れ

萎えはてて

盲杖にすがっていても

ひょろひょろと

よりどない歩み

その歩みから

人々に切れ凧を

連想させて

秘かにそう呼ばれている

足・・・・・

私はこの足で

あすも歩まねばならない

すべてを越えて行かねばならない

足跡には

鮮血が滲むだろう

だがその奥に法悦よ

燿やいてくれ

・・・・・・・・・・

麗らかな日が

草に憩う

私の足を

撫でていてくれる

あすを励ましてくれている


山田法水さんの略歴
外島保養院に入院。日蓮宗の熱心な信者で、昭和二十年代前半まで邑久光明園の日蓮宗立正会の役員を務める。詩のほかに短歌も発表。早くから視力を失ったが、文芸活動に専念した。風水害後、多摩全生園に委託。生没年、入所年は不詳。


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邑久光明園  藤本トシさん


ハンセン病文学全集4(記録・随筆)に載っていた藤本トシさんの随筆は今回で終わりです。全部載せたのは、どれもすばらしかったから。




音と声から



 不自由者の寮は、皆まっすぐ東から西へ延びて建っている。その中の私の寮は、そこに八つの部屋が並んでいて、その北側には三尺の通し廊下がついている。
 その廊下を何人かの人工の足が、ぎゅーぎゅーと忍ばせようのない音で歩き、とっさきを布に包んだ松葉杖は、こつ・・・こつ、こつ・・・と遠慮そうに行き、盲人の足はすーすーっと探りながら、それでも元気に通りすぎて行く。
 そのたびに、どの音からも冷たい過去が匂い、それを越えて来た、意志のほてりがくる。
 だが私をふくめてこの人々の峠道は、まだまだ遠く遥かである。野球や相撲のクイズに興じているのは、道の辺の木陰に憩うひとときなのだ。写真または書画を習い、歌作句作に耽るのは、荒野に咲いた野の花にしばし見とれているのである。
 ともかくこれからの尾根は互いにもっと呼び合って越えよう。こだま
をおこそう。励ましの思いを谺に託して一歩一歩登ろう。
 時計が午前九時をうった。治療時間・・・そう思ったとたんに、がたん!と廊下で重そうな音がした。外科の出張治療である。あちらからも、こちらからも、足や手を持ってくる。すりむいた肱も薬缶でやった居眠りやけどの顔も、柱で打ったおでこもくる。これがすむと、眼科と耳鼻科の出張。ちゃりん・・・。しゃーしゃー。こちこち。いろいろな音がする。この音が病の軽重にかかわって、ある時はうれしく、ある時は言いようもなく侘しい。が、どちらにしても、治療が終われば安堵の胸を撫でるのである。
 今日もその時がきて、やれやれと背を伸ばしたとき大声が聞こえた。
 「やあ、百円飛んでくぞー、そっちの方へいくぞー」
 猫のことである。寮での飼育は禁じられているのだが、どこからくるのか近頃たいへん殖えて、困った揚句が一匹百円で買い上げるふれが出たのである。しかし、いくらお金が廊下を走っていても、たとえそれが百万円であっても、残念ながら私の寮では、誰一人拾える者はいないのである。




 丘に佇って夏の海をじっと見ていると、いや感じているとである。私の眼うらに波しぶきを上げてお御輿が通る。わっしょい、わっしょい、わっしょい。日をはねかえして瓔珞がゆれ、鳳凰が輝く。白鉢巻の力んだ顔がなおいっせいに、揉め揉め! わっしょい!わっしょいと叫ぶ。その中に父の声がある。兄の声も交じる。風に青蘆がなびいて見物の母の顔がちらちらする。
 あれから三十余年。私が遊びたわむれたのは太平洋の波であった。今・・・瀬戸内海に向かって私は心で言ってみる。わっしょい、わっしょい・・・。すでに父も母も兄も不帰の客なのだ。
 孤独、これは淋しい。だが私の場合それは幸いなことでもある。食卓からホークを口で探り取り、味噌汁の熱度を舌で計っていたとしても、花畠へ迷い込み、お目玉を貰っても、冬は着物にゴム靴を履き、そのうえ小雨でもふれば頬冠りといういでたちでお風呂へ行っても、したたか頭を打って、「やっぱり電柱にゃあかなわない」と半泣きをかくしていても、ふるさとからの深い嘆きの眼ざしを感じないで済むからである。不遇の子を持つ親の心にふれるほど切ないものはない。
 真さんはよく母親のことを言う。末っ子だから親も子もよけいに心にかかるのであろう。そのためか、母親は七十を過ぎているのに毎年面会に来る。それが来ない年があった。そのとき彼が私に言うには、
 「今日手紙が来たよ。ばかに部厚いので何が入ってるんだろう・・・と思って開けてみたら、手形と足形が出てきたんだ。そして手紙にはこう書いてあったよ。
 今年はいろいろな都合でどうしても会いに行くことができません。それで母さんは手形と足形を送ります。私はこの足でお前のそばへ行き、この手でおまえを撫でているつもりです。だからお前も母さんの心をくんで此度は我慢して下さい」
 彼はそれきり言わなかった。
 夜、蝉の声を聞いて、その方の空を仰いでいると、通りがかりの友が揶揄した。
「闇夜だぜ、だが良い眼にゃ何か見えるのかい」
「私の満月貸してあげる。見てごらんなさい」
向ってきた寂寥から、私はひらり体をかわした。そして「お見事・・・」と我と我が身に喝采を送ったのである。



藤本トシさんの略歴
1901年2月5日、東京生まれ。1919年に発病し、民間病院に通院後、1925年、身延深敬園に入園。1929年5月、外島保養院に転所。1934年、室戸台風により外島保養院は壊滅状態となり、全生病院(現、国立療養所多摩全生園)に委託される。1938年、外島保養院が邑久光明園として再建後、帰園。園の機関紙「楓」の創刊後、短歌、詩、随筆などを投稿していた。1987年6月2日死去。随筆集『藤本トシ』(1970復権文庫)、作品集『地面の底が抜けたんです』(1974思想の科学社)。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)


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サツマイモの煮物



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乱切りしたサツマイモを無水鍋に入れ、大さじ3の水を入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、ユズ1個の果汁を入れ、皮も細切りして入れ、よく煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。




お焼き

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ホットケーキミックス1袋(150g)、溶き卵1個、牛乳50CC(100CCと袋には記載されていたが、ニンジンをすりおろすので半分にした)、ニンジンのすりおろしと蜂蜜を入れて混ぜる。

熱したフライパンにバターを入れて流し入れ、蓋をして極弱火で、裏表5分ほどずつ焼いて出来上がり。



出し汁作り


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干しシイタケ、昆布、煮干しを一晩、水に浸しておいた。中火にかけ、煮立ったら弱火にしてカツオブシを入れ10分ほど煮て、出し殻は全て取り出し、再沸騰させアクをとって出来上がり。



カブの甘酢漬け
   
IMG_1474.jpg IMG_1477_20161226184037902.jpg IMG_1479_2016122618403900f.jpg  

カブはイチョウ切り、または半月切りして塩をふり、しんなりするまで2~3時間置く。水気をしぼりながら瓶に入れ、甘酢(出し汁180CC、酢120CC、砂糖50gを溶かし、生姜1片をすりおろし、醤油を小さじ1入れる)を注いで出来上がり。




ハクサイの甘酢漬け
  
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ハクサイは拍子木切りして塩をふってもみ、しんなりするまで2~3時間おく。水気をしぼりながら瓶に入れ、甘酢(出し汁180CC、酢120CC、砂糖50gを溶かし、生姜1片をすりおろし、醤油を小さじ1入れる。ハクサイの場合は小さじ1のゴマ油を加える)を注いで出来上がり。




塩サバ

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邑久光明園  藤本トシさん



くだける


藤本さんは食べること一つとっても、こんなに大変なんだ。状況が手にとるようにわかる感動的な小品です。



 私が一番困ることは、と言うより避けようと心をつかっていたのは、よその部屋で食べものをいただくことである。
 我が家では当然のような顔をして湯呑の中のお茶の熱度を舌先で確かめたり、お小皿のこんぺい糖や栗ボーロを、これも一つ一つ舌先で巻きあげ、もののみごとに平らげてしまうのだが、よその部屋ではそうはいかない。いくら不自由は周知であっても、これではあまり不作法である。それに自分自身も情ない。
 そこでやむなく手を出すことになるのだが、これが実に辛いのである。てのひらだけの手が恥ずかしいからではない。あまりに麻痺ぶかいために、たいていの場合、粗相するからである。お菓子ならまだしも、お湯呑を転がして、そこら一面お茶だらけにした時などは身が縮む。これを思うと大好物のお寿司やみたらし団子があったとしても咽喉から手はけっして出ない。
 理由はもう一つある。
 私は失眼して間のないころ、軽症寮の友を訪ねたことがあった。すすめられたお茶をこぼさぬように、こわごわすすっていると、友がこう言ったのである。
 「あんたの好きな焙豆がな。すこしばかりあるのや。さあ・・・手を出しなはれ」
 私は喜んでその言葉にしたがった。すると、
 「あれまあ、両手を出すほどありゃへんがな・・・」
 と苦笑しているらしい声がいきなり私の胸を射た。
 ・・・・・・・・・・・・
 「なに言ってんのよ。どんなにすこしでも私のお手皿は小さいから、二つ並べなきゃこぼれるわよ。眼で梶はとれませんからね」
 今なら平然とこう言ってのけたであろうに、そのときは新米盲のかなしさで、心はまともに傷ついてしまったのである。
 私が他室で物をいただかなくなったのは、この時からである。ところが今日、思いがけなく、そのかたくなが大痛棒をうけた。こうである。
 桜がチラホラ咲き始めたというのに、まだ肌寒い海かぜの中を、私はチエさんの寮に向かって歩いていった。縫い物を頼むためである。吠えながら犬がやってきて私を越して左へ曲がった。私はゆっくり反対の方向に杖をまわした。そのとき、
 「やあやあ、しゃもじが招いてくれたよ」
 と声がした。チエさんである。どうやら庭にいたらしい。チエさんはけげんな顔の私の前で一気に喋りはじめたのである。
 「今日はこの部屋でなあ、親たちの年忌を勤めて貰ったのや。牡丹餅をたんと作ってよう。詣ってくれた人達にふるまったところや。今みんな帰ったので、あんたにも食べさせたいと思うたけど、あとかたづけが大変やろう、あんたの方から来てくれたらなあ・・・と思っていたところや。
 うちのほうではな、こんなときその人がひょっこり来ると、しゃもじが招いたと言うのや」
 私はいつものように、
 「困ったー」
 と思った。何とかしてこのご馳走をさけねばと苦慮しはじめたのである。
 そこで、コーヒーを飲んできたばかりなので満腹だと言ってみた。用事があるのですぐ帰るとも、奥歯がうずくとも言ったのである。けれどチエさんは、
 「今日はとくべつの日だから一つだけでも食べておくれ」
 ときかないのである。私はとうとう根負けして、
 「では本当に一つだけよ」
 ということになってしまった。
 たちまち牡丹餅があらわれた。じつは大好物のそれである。チエさんはゴム紐で、私のてのひらにしっかりさじをくくってくれた。古里から送られてきたという糯米と小豆のなつかしい匂いが私の五臓をかけめぐる。
 ひと口いただいてみると、まったく美味しい。内心ほくほく、ふたたびさじをおろそうとしたとき玄関で大きな声がした。
 「こんちわー、いるかなー」
 杉山さんである。彼もやっぱりしゃもじに招かれて来たらしい。やがて、彼の前にも牡丹餅が運ばれた。この人も盲目なので、チエさんが持たせてあげた箸でコツコツと器をたたいて、そのありかを教えている。
 「あっ・・・こりゃうめえ、とってもうめえぞ」
 杉山さんのしんからうれしそうな声が私の耳を打ったとき、私は一つを食べ終えた。そこへチエさんが来て、
「さあさあ・・・もっと食べや、追加をたんと持ってきたぜ」
 と言った。杉山さんはさらに歓声をあげてこれに応じたのである。チエさんは私にも声をかけた。
 「さあ、あんたも食べた食べた」
 「じゃあ、もう一つ」
 私はうっかり言ってしまった。その背にぴしりー、平手がとんできたのである。
 「あんたは、うちに来てまで遠慮してー、ほんまに阿呆やー」
 と言葉がつづいた。
 お腹いっぱい食べ終わった私の顔は、濡れタオルできれいに拭きとられた。手も同様に掃除されたのである。私の目はこのとき覚めた。長いあいだ人々の愛情をふみにじっていたことが悔いられた。人と場所とを分別する心を私に残して、狭心はくだけていったのである。



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邑久光明園  藤本トシさん



福音


藤本さんは1987年、87歳まで生きられた。所要時間6~7分です。


 「このたび大阪府のご斡旋によりまして、かつら
を作っていただけることになりました。まだ確かなひにちはわかりませんが、そのうちに美容師がみえてくわしい事を教えてくださるそうです。それでご希望のかたは・・・」
 園内マイクから流れでる言葉に、私は驚きの耳を立てていた。変ったものである。嬉しい時代になったものである。今はお洒落用の鬘が色々あって、ふいに外出する場合これを用いると、たちまち好みの美髪になるということは聞いて知ってはいたのだが、私は愚かにも、この事実を瀬戸の小島に直結させて考えたことはなかったのである。
 むろんここにもお洒落の物を望む人達はいるであろう。が、しかし、それとは比較にならぬほど、痛切に毛髪を恋う多くの人々もいるはずである。せっかく菌マイナスになっても、脱毛の後遺症はなんともいたしかたがないからである。したがって、「髪がほしい!」との切なる願いは決して女ばかりのものではないのだ。
 「俺が帰省した時はとてもむし暑くてな、車内で帽子をかむっているのは俺のほかに誰ひとりいなかったぜ。だが俺は禿を丸出しすることもできず、長いあいだ暑いのをじっと我慢していたんだが、そのうちに頭がカッカとしてきてな・・・。下車するときには酔いどれのようにふらふらして、足が地につかなかったぜ」
 これは男性から聞いた話の一例だが、これに類した嘆きは男の側にも数かぎりなくあるのである。
 かつて、といってもだいぶ昔のことだが、私の部屋に六十二、三の老婆が収容されて入ってきた。この人は、部屋の者に初対面の挨拶をするときでも姉さん冠りを取らなかったのである。が、みんな心得たもので、痛いところはけっして触れようとはしなかったのである。こうして問わず語らず、数年が過ぎた。その間三日に一度ぐらいの割合でつむりの手拭は取りかえられたが、真夜中にでもするのであろうか、部屋人の留守の間にこっそりやるのか、取りかえるところを誰一人見た者はなかったのである。そのうちお婆ちゃんの手はしだいに曲がり、麻痺はいよいよ深くなってしまったのである。
 このお婆ちゃんがある日、頭が痛いといって用達先からよろよろと帰ってきた。あわてて敷いてあげた床にもぐり込んだが、だいぶ熱があるらしく布団が小刻みに慄えている。病者にはありがちなことだが、しかしお婆ちゃんの場合はなんとなく変なのである。そのころ晴眼だった私は、医局に走った。さいわい先生はすぐに来てくださったのである。その前で恐縮しているお婆ちゃんのつむりには、あの姉さん冠りがいつものようにしがみついていた。
 「手足に傷は無し、内臓にも異常はないし、どこからの熱かな・・・。ともかく薬をあげるからね、それを服んでも治らなかったらまた来てください」
 先生はこう言って帰って行かれた。
 そのあとで部屋の者たちは言い合わせたように、頭をかかえて涙ぐんでいるお婆ちゃんの側に寄ったのである。もしやそこに、たちの悪いおできでも出来ているのじゃあるまいか━━、と懸念したからである。
 「お婆ちゃん、みんな同じ病気やないか。かまうかいな・・・、一度頭を見せてごらん」
 総がかりでなだめすかして、どうにかお婆ちゃんを納得させるまでには、かなりの時間がかかってしまった。
 お婆ちゃんがうなずくのを見ると。すぐ一人はうしろへまわった。御意の変わらぬうちである。この友は、姉さん冠りの端が止めてある針をてばやく抜こうとしたのだ。が、急に顔をこわばらせて、
 「抜けんわ!」
 っとうわずった声を出したのである。お婆ちゃんは耐えかねたようにうめく。私は再び医局へ走った。こんどは外科である。
 結果は、お婆ちゃんは手がめっきり悪くなったので、持ちやすい極太の針をつかっていたのだが、その大きな夜具とじ針で、手拭を頭にずぶりと深く縫い付けていたのであった。しかもそれは数日前のことなので、化膿しかけたために激しい頭痛と悪寒におそわれたのである。私はぞっとした。言いようのない恐れが身うちを駈けた。他人事ではないのである。
 「ここまで、頭も手も・・・しびれてしまうもんかいなあ・・・」
 お婆ちゃんはおろおろとして泣いた。長い年月衆目から守りつづけてきたつむりを、もはや隠すてだては無くなってしまったのである。深い嘆きは怒りにも似て、お婆ちゃんは青ざめたままその日一日誰とも口をきかなかった。
 しかしこの人は、さすがに老い人であった。だてに齢をとってはいなかった。日を経て諦めがつくと、とたんにさっぱりして、
 「よいとよんやまか・・・どっこいさの・・・せ・・・」
 などと威勢よく、電灯にてらてら頭をかがやかせながら、大きな輪の中で盆踊りを始めるほどになった。
 精巧な鬘を作ってくださるというこの放送が、もしも墓石の下まで通ったら、お婆ちゃんはどんな顔をするだろう。垂涎三尺、なんとも羨望にたえない眼を上げるであろうか。苦楽一如と悟入した顔をそむけて、ただふわふわと、煙草のけむりを輪に吹いているであろうか。それはともかく、若ければ若いほどこの放送は福音である。
 誰もがみな、艶やかな匂う黒髪となったら、今年許されている観光旅行はさだめし賑やかなことであろう。晴れやかに空を仰ぐ友らの顔を浮かべると、こちらの心も温かい。
 「おばさん、あしたあんたの番やぜ・・・都合はどうや・・・」
 マイクの前を去りもやらず、ぼんやりしている私の背後でパーマ主任の声がした。私は承知のむねを答えたのである。
 パーマをかける。わたしが・・・。だがこれは美容のためではない、といえば私も女である以上嘘になるかもしれない。しかし九分九厘までは、盲目のうえに指さえ失った者のせっぱ詰まった生活手段である。そこで髪はできるだけ短く切り、できるだけ縮ませて貰うことになる。こうすればおくれ毛が顔に散らないし、だいいち我が手でなんとかときつけることが出来るのである。隣の友の口ぐせを借りれば、おない年(我が身のこと)を使うほど気楽なことはないのだ。ところが、このような髪かたちの者を、陰ではお釈迦さまというそうな。けれど私は思う。結構なことだと。
 数十年も病み古る私だが、さいわいなことに今日まで髪については少しも苦労をしなかったのである。今もって毛髪だけは健在なのである。人並なのである。この歓びは大きい。これあるがために、お釈迦さまでも羅漢でも私は嬉々としてこの名をうけとめる。



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鯛アラとダイコンの煮物



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鯛アラは15秒湯通しする。

鍋に乱切りしたダイコンを入れ、出し汁と水を入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、鯛アラを入れ5分煮て、味噌を入れ、みりんと酒と蜂蜜を少し入れ、大さじ1弱の醤油を入れ、ユズ1個の皮をすりおろし、5分煮て出来上がり。



ホウレンソウのおひたし

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ホウレンソウは根元から入れて30秒、葉の部分を入れて30秒茹でて冷水にとり、ざく切りして水気をしぼる。カツオブシをふり醤油で。



ダイコンおろし

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ポン酢で。   
  


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邑久光明園  藤本トシさん


生きている

藤本トシさんの代筆をされた方はどんな人なのだろう。晴眼の同病者である代筆者は心から癒され、大いに楽しみにしていただろう。所要時間6~7分です。


 おおげさに言えば、数えきれないほど落としては拾い、拾ってはまた落としてしまい、そのたびに部屋中を這いまわり撫ぜまわりながら、わたしの手はようやく一粒の栗を拾った。瞬間、凱歌にも似た太息が唇をついて出る。心に小鳥も海も躍動する朝の風景が開けて、相好をくずした私が、そのさわやかさの中にとける。額は苦闘のなごりの汗を吹いているが、そんなことは苦にならない。
 このように物をさがす場合、家人がいればすぐに見てくれるし、今日のように留守であっても、インターホンで頼めば補導員さんがすぐ来て、苦もなく用を足してくれるのだが、しかしそのときには、喜びと感謝の思いがあるだけなのである。ときによると、その思いのなかに、
 「こんなことさえ出来なくなってしまったのか」なぞと愚痴が貌を出すことさえあるのだ。
 骨が折れたにせよ、暇がかかったにもせよ、小さいものほど始末に困る麻痺ぶかい手が、自力で栗を拾い得たこの感動は、言いようもなく深いものである。そこからは生のあかしが生まれるからだ。
 先日、私の部屋に七十になる盲友があそびに来られた。秋季大掃除の前日であった。友はくつろいだ口調で話しはじめたのである。
 「うちは、きのう押入れの掃除を全部してしまったぜ。拭き掃除は補導員さんにしてもらったが、夏冬の道具の入れかえは、脚立をつかって三階まで一人でちゃんとすませてしまった。むろん蒲団もやってのけたよ」
 私はびっくりしてしまった。三階とは一間の押入れの上にもう一段天井までの押入れがあって、さしあたり不用のものを入れておく倉庫がわりのところである。わたしは問うた。
 「あんな高いところから、重い蒲団をどうやって下ろしたり上げたりするんです」と。
 「頭さ、頭を使うんだ。まず脚立にのぼって、一ばん上のをそっと頭にのせるとしずかに下りて、それを畳の上におく。このくり返しをやって下ろし終わったら、今度は上げるばんや。
 やっぱり一枚頭にのせると、脚立にのぼって、三階に首が出たら、そこでぐっとおじぎをするんだ。すると蒲団がぱっと押入れの中に入るやろ。これを二、三回やったら終わりや」
 友は呵々と笑った。おそらくその一瞬、この盲友も生の実感を得たのであろう。誇らかに眉をあげたであろう。足にまだある感覚を、こよない宝と思いながら・・・。

 けさはもずがたいへんよく鳴く。すばらしい晴であろう。窓をいっぱいに開けてふかぶかと呼吸する。そのとき遠くで池野のお婆ちゃんらしい声がした。久しく会わない人である。確かめようと身をのりだしたとき、過ぎた日のひとこまが胸をよぎった。
 「あんたよう、なにまごまごしてるんや・・・」
 これが、わたしの耳がとらえた池野のお婆ちゃんの第一声である。
 あの日も快晴であった。ひとまわり散歩をして、楓陰亭にゆく坂下まできたとき、私はなんとかして一人で亭まで行ってみようという気をおこしたのである。これまでにも何度そう思ったことかしれない。理由は、内海の風景はもはや見るよしもないが、そこにある四季それぞれの長閑のどかさに私は心をひかれていて、人手を借りずに行けたなら、おりおりそこに坐して、松風や笹生の香や、草をけるキチキチバッタなどの中にいたいという、切な望みがあったからだ。
 しかしいざとなると、無感覚のうえに数回の手術で、すっかり変形した足には自信がもてず、杖は突くたび両手の中でぐらぐらする頼りなさに、つい気勢をそがれて思いはいつも立消えになっていたのである。
 だがその日はちがった。どうしてもという気であった。私は杖を右に向け、左に向けして、恐ろしい崖ぶちを確かめると、一歩を踏みだす地をたたいた。この時である、見知らぬお婆ちゃんが私に声をかけたのは。わたしは心の一部をかくして、
 「亭まで行こうと思うのです」
 とだけ答えた。
 「そうか・・・。わてもあそこへ行くんよ、ちょうどいい、連れになろうや」
 お婆ちゃんは、ぽんと私の背をうった。
 やがて二人は手に手をとって坂を登りはじめたのである。
 意に反したが私は楽しくなっていた。
 が、そのうちにお婆ちゃんの歩みは私よりもさらに頼りないのに気がついた。私は組んでいた手に力をこめるとお婆ちゃんの体を支えはじめたのである。よいしょー、よいしょー、坂はだんだん急になり、歩行はいよいよ千鳥になったが、お婆ちゃんのかけ声だけは威勢がよかった。
 「ほーら着いたぜ、あとはコンクリートの段を六つ七つ登るだけや」
 どうにか目的場所に来て、お婆ちゃんは明るく言ったが、私は当惑してしまった。段がもんだいなのである。もうお婆ちゃんの足は頼れない。杖はなおさら駄目である。どうしようか・・・と思いまどっている耳もとで、声がした。
 「早う這わんかい。わてはな、いつも這うて登るのや、らくだぜ」
 私は杖をぐっと帯にさしこんだ。突くほうを空にむけて。ふたりは一心に、陽光のなかを、うごめくようながまの歩みをつづけたのである。
 ようやく亭に腰をおろしたとき、お婆ちゃんはあたりかまわぬ声で笑った。その、けろりとしたひびきが真下の海にころげていった。
 このとき私は、この新患者のお婆ちゃんから、わが手で生の歓びをかちとるために、残された可能を、えぐりだすことを学んだのである。


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邑久光明園  藤本トシさん



盲友


この病者は、生きているうちに二度死ぬっていうんです。一度はライになった時、二度目は失明した時です。
あたしが書いたもので残っているのは、ほとんど全部といっていいくらい、目を失ってからのものでしょ・・・(藤本トシ「地面の底が抜けたんです」より抜粋)
所要時間6~7分です。


 蜘蛛の糸の主人公カンダタのような悪人でも、生涯のうちには蜘蛛をふみ殺さずにおいてやったかすかな善事があるように、思い出は、たいてい湿っぽい陰をもつ私にも、たった一つ、かみしめればすがしい香のたつ過去がある。
 かつて私の友に、といっても年は九ツもうえなのだが、本川さんという盲女がいた。この友は手足もたいへん不自由だったので、お風呂いがいの外出は殆どしなかったのである。病みほうけて一見みるかげもないこの人に、私は初めて会ったときから心をひかれた。
 それは、
 「あれ新患や」
 と言われることが、私にはまだ侘しくてならなかった頃のこと、ぼんやり戸口にたたずんでいると唄が聞こえてきた。向かい寮からである。
  ゆうぐれに
  ながめ見あかぬすみだがわ
  つきに風情はまっちやま
  帆あげた舟がみゆるぞえ
  あれ とりが鳴くとりの名も
  みやこに名所があるわいな
 美声。しかも心にしみる唄いぶり。私は思わず声の方へ歩み寄った。これが本川さんだったのである。
 縁とはふしぎなもので、それからまもなく、私はこの人の手紙の代筆をするようになっていた。つづいて縫いはり洗濯にまで及んでいったのである。こうして十一年の日が流れた。(外島時代からの通算である。)
 昭和十九年の冬、本川さんは風邪をこじらせて部屋から病室へ移った。しかし、じきに戻れると思っていたのに、病状はおもいに反して、半月ほどのうちにめっきり衰弱してしまったのである。なにしろひどい食糧不足だったので、ろくに食べていなかったせいもあろう。
 ある朝、みまいにゆくと、当惑げな付添いの顔が待っていて、私を廊下へ手まねいた。
 「本川さんはなあ、熱いお湯がほしいと言うから飲ませてあげると、
 これぬるいわ・・・、と言うんよ。こっちがびくびくするほど煮えたったのをあげても、やっぱりぬるいって言うんよ」
 このささやきを聞いたとき、私は、はっとむねをつかれた。舌も咽喉も麻痺したのである。
 多くの病友の死をみつめてきた私の眼は、ほそい寝息のなかに、この友にもついにきた生のかぎりの翳をみた。その夜、先生からも付添いに注意があったそうである。
 翌日たずねると本川さんはいきなりこう言った。
 「私、死ぬんやろかー」
 「そうや・・・。極楽へゆけるのよ」
 ちゅうちょなく答える私の背を付添がこづいた。このようなばあい、心とくちと正反対に言うのが常識である。私もしばしばこれをやった。だが本川さんにはその必要はないと思ったのである。この人の心は決定けつじょう
していると、つねづね思っていたからである。なんにもお祀りしていない自分の押入れのまえに坐って、朝夕合掌しているだけだが、その姿にはしんけんさがあふれていた。
 「ありがとう。じゃ今日から準備するわ」
 と言った友の言葉は、低かったがはっきりしていた。
しかし・・・準備とはなに・・・。心のか、物質面のことか、私はそれをはかりかねた。そのまま日は二、三日流れたのである。
 三日目の夜、空襲警報が出ないうちにと病室へ走って行ったが、その戻りのこと、
 「本川さんな、こんどは今日からねまきを朝晩かえてくれって頼むんよ。そんなに汚さんのになあ」
 洗濯ものを私の手にわたしながら付添いがこう言ったのである。このときサッと謎がとけた。本川さんはたとえ洗いざらしでも、さっぱりした身なりで臨終を迎えようとしているのであった。
 つぎの日、私はびっくりしてしまった。本川さんが小唄を唄うと言うのである。あんたが何時もほめてくれたから今日は聞かせると言うのである。やがて唇がうごきはじめた。
  うめ に も は・・・・・る の
  い ろ そ え て 
  わか み・・・・・ず・・・・・
 聞きとれたのはここまでであった。だが声にはならずとも、唇は最後まで唄のづづきの動きを見せていたのである。風雲急となってからは一回も唄わなかったその唇が・・・。
 唄い終わったとき私は拍手を送った。付添いもいつかきていて手を打っていてくれた。その夜更け、友は従容として逝ったのである。
・・・・・・・・・
 じぶんも盲目となって今しみじみ思えば、しっとりと・・・そして爽やかにむねにしみた小唄、「ゆうぐれ」のあの余韻は、そのころは生地獄のようだった癩盲の苦を、超え得たものの凱歌のひびきであったのだ。
 「梅にも春」は、わが手で拓いたその道を、みごと歩みおおせた者が、いのち終わる日、我れと我が身に贈ったことほぎ唄であったのか。すべてのものに告げる別れも、そのこころの奥にひそめて・・・。
 ともかく、私の知るかぎりでは愚痴を言わなかった人。あの透明な笑いが、ときおり耳によみがえる。

1969年(昭和44年)


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大豆の煮豆


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青ダイズ150gは一晩、水に浸しておいた。圧力鍋に戻し水を減らしてダイズごと入れ、シイタケは戻し水ごと入れ、ニンジンとヤーコンの角切りを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、おもりが勢いよく回り始めたら、極弱火にして25分、火を消して圧が抜けるまでそのまま放置して出来上がり。



ハクサイとツナ缶の煮物 

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鍋に水を入れずにハクサイを入れ、強火で時々混ぜながら、ハクサイがしんなりしたら弱火にして、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、よく油を切ったツナ缶を入れ、12分ほど煮て出来上がり。



目玉焼きとハム  

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ハムはお歳暮でもらった。


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コンビにでショートケーキを買った。家人のリクエストで。
    
   


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邑久光明園  藤本トシさん


アカシヤの土堤

これもおもしろい。所要時間6~7分です。文中の丸橋忠弥と伊豆守は読解不明だが全然問題なし。


 私はその日も土堤の小草に腰をおろして、満々と水をたたえた、ま下の堀をみつめていました。生家への根強い愛着が、なんとかしてここを出ようと私をあせらせていたのです。この園の前身外島保養院へ入院後まのない頃のことでした。ところで脱けでるには寮を囲むこの堀を越えてゆかねばなりません。私の当惑は泳げぬことにあったのです。どうして渡ろう・・・。とまたもや同じ思いを繰返していた時、
 「ねーさん、なにしとる」といかにも鈍重な声が私の背にのしかかってきました。驚いてふりむく眼に子供のように小さい老人が笑いを浮かべているのです。私は心を見すかされたような気がして、黙ったままそこを離れてしまいました。その日初めて土堤の果てまでいったのです。鉄条網のかたわらにアカシヤの花が咲いていました。殆ど雑草さえない堤ですのに、これはまたおもいもかけぬ喜びでした。それからというものは私が考えをめぐらす場所は、言うまでもなくこの木のもとに移ったのです。そしていつかの妙な老人、いいえ病気のためにそうみえたのでまだそれほどの年ではなかった三ちゃんとも、いつのまにか仲良しになっていました。彼も淋しい新患だったのです。知能が常人より低いこのひとは、私の行動に疑惑の目を向けないいたって気安い友でした。並んで彼のちぐはぐな話を聞いている私の膝に、彼の肩に、柔らかいアカシヤの葉がゆれて、風のまにまに白い花がほろほろと散ってきました。よそめには平穏そのものに見えたでしょう。
 「あの・・・お京ねえも土堤へよく来るなあ」
 ある日三ちゃんがこう言いながら十間ほど先にいる人を指さしました。私もそれに気付いていたのです。瞬間、吉也(弥)に結んだ水玉の帯がかしいで白い顔がちらっと向きました。三ちゃんの遠慮のない大声が聞こえたのかもしれません。どぎまぎして会釈する私に張りのある声が「こんにちわ」と答えました。
 その翌々日、私は憑かれたもののように夜の堤を歩いていました。昼、田舟がつないであるのを見たのです。帰りたい一途、私はあたりに気を配りながら堀へと下りてゆきました。やがてへたへたと坐りこんだ私、探しても探しても舟はありませんでした。立ちあがる気力もない肩先を雨を孕んだ生あたたかい風がさあっと吹いてゆきました。その時ふと人の気配を感じたのです。息をこらす私の前方へ誰かが下りて来たのです。ぽちゃん・・・水の音が夜気に沁みました。続いてまた・・・。その人は少しずつ間をおいて何かを掘へ投げこんでいるのです。
 雨が降り出してきました。そのなかを不審の目をみはりつつ、すばやく歩いている私。前の人が戻りはじめたのです、走るように━━。遠い街灯の光に辛うじて認め得た姿、それはお京さんだったのです。
 四、五日後、私は夾竹桃が影をうつす池のほとりでお京さんと話していました。
 「あなたはこの頃ちっとも土堤へ来ないのね」
 「もうその必要がないのや」とお京さんが答えました。
 「どうして・・・」
 「わて・・・実は逃走しようと思うてな、その場所を探していたのや。母が急病と聞いた日から・・・。けどその心配は解消してしもうた。あぶない橋渡らんでほんまによかったわ」。いかにも明るい彼女の微笑でした。よい折、私はおもいきって先夜のことを聞いてみました。
 「えっ、あの時見てたのあなたやったの・・・なら驚くのやなかった。でもあんな時分、あすこにいやはったとすると・・・あんたもやっぱりお仲間やな。つねからどうも臭いと思うた」。大笑いするお京さんにつられて私の口も心も軽くなってきました。
 「水に何を捨てたの、幾度も」
 「捨てたのやない、測量や」
 「測量・・・」
 「経験者のおつたさんに一番浅いところ教えられたけど、どのくらいかわからへんよって計ったのや」
 「まあ、丸橋忠弥ね。それで石を投げただけでわかった」
 「あほらしい。伊豆守が声も出せずに慄えていた堀端やないか。そんな気のきいた丸橋かいな。瓦のかけらを炭俵の縄で結わえて、それをほうっては濡れ具合をみてたのや」。こうして次の日、密かに出るしたくをしていた時思いがけぬ面会。病後のやつれが残る母親だったのだそうです。私はその夜眠れませんでした。話の末に、
 「脱出するなんて、わてもあんたも真剣に家を愛しておらんのや」と言われたお京さんの言葉が、胸に刺さってうずくのです。覚めかけた内奥の心が嘆きに徹しよう・・・とおずおず囁きはじめるのです。海に向った庭隅で地虫がしきりに鳴いていました。
 幾日かの後、久しぶりに行ってみた土堤。私は出ることを断念していました。にもかかわらずぼらが跳ねて涼しい水輪を描いた時、いつしかそこへ下りはじめていました。「一番浅い所」のあたりだったからです。しみじみと眺めているうち、少しばかりの蘆の根にからんでいる縄の端を見つけました。私は水に手を入れて引き上げてみました。捨ててきたと言ったお京さんの測量機だったのです。縄のところどころを布で結んで目盛りがしてありました。
 「ねーさん、それなんや」。計ってみたい衝動にかられて、さっと瓦を水中に投げ入れた刹那でした。この声を聞いたのです。びっくりした手から縄の端が飛んで堀へ沈んでいきました。
 「それなんや」。再び土堤からの声、三ちゃんなのでした。澄んだ空にほのぼのと夕月が浮かんでいました。安堵の息を深く吐く頭上に、伊豆守がみたびの声を張りました。
 「アカシヤの花、みんな散ってしもうたぞ」



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邑久光明園  藤本トシさん



光芒


広ちゃんがあなたの12の随筆を知ったら、いてもたってもおられず、一目散に会いに来られるでしょう。所要時間6~7分です。


 三月四日、午前九時を少しまわったころ園内放送がかかってきた。
 「今日は午後一時に障害年金四ヶ月分をお渡ししますから、受けられる方は印をもって分館へおいで下さい」
 瞬間、寮はいつもより静かになった。受けられない友への遠慮めいた思いが口を封じたものらしい。だが、声のないざわめきが満ち潮のようにふくれてくる。かがやく眸の饒舌が感じられる。ハンセン氏病園のうちでも、最も深い谷間にはじめてさしたこぼれ陽である。そのなかで私もまずはほっとした。
 「さあ・・・これあんたの分や、さわってみ。六千円やで」
 暖かくなった午後の道からはずんだ足音が戻ってきて、名ばかりの私の手に紙幣をぽんと載せてくれた。それを探っていると、紙幣を透して抄本がちらちらする。ふじ紫だったという私の戸籍抄本、それが配達されたときと同じ吐息がふいに心をついてでた。
 ふるさとからの音信が絶えて三十年である。その間にあの苛烈な戦争があったので、郷里の人々はすでに私は亡き者とおもかげ
さえも忘れ果てていたのだろう。私も結局それが気楽と喜んでいたのだったが、こと年金問題となると、その救いの手を、一人で一級障害をいくつも背負う身であるために、入用もかさむことから諦めきれなかったのである。
 抄本を送って貰おう・・・と決心はしたが、しかし私は戦後の家族の住所を知らない。そこでやむなくたった一人の知人に頼んで、家族へ手紙を渡して貰ったのである。
 幽霊からの通信にどんなにみんな驚いたことであろう。だが寝ている子を起こした私も、折りかえしきた甥の返事を読んで貰って、少なからずろうばいしたのである。
 彼は、私が家を出てから十余年後に生まれた次兄の末っ子であるらしい。高校を終えると、一人横浜へ来て遠縁の店で働いているというのである。私の病気などみじんも気付いていないらしい。こんなことが書いてあった。
 「僕は今日久しぶりに新田へ遊びに行きました。ちょうど良かったと言って叔母さんの手紙を渡してくれたのです。
 僕はこのときまで叔母さんがあることをぜんぜん知りませんでした。叔母さんはどうして一人だけそんなに遠くへ行ったのですか。
 父は二十年も前に死んだのですが、叔母さんは御存じなかったのですか。本家の伯父さんも同じ年に亡くなっているのですよ。それから、抄本のことは早速母の方へ申しおくりましたから御安心下さい。(中略)
 それでも僕は叔母さんがいることを知って本当にうれしいのです。近いうちに都合をつけてきっと遊びに行きます。父は僕が歩き始めたころ亡くなりましたので、その顔を少しも憶えていないので、叔母さんに会ったら父の面影が浮かぶだろう・・・と思うといまからでも行きたい気がします。叔母さんにも幾人かの子供さんがあるのでしょう。会っていろいろ話し合うのが楽しみです」
 これは困ったとしょんぼりしている私のそばで、読み手はくすくす笑っていた。その笑いの底で、同病者である手がそっと私の心を撫でた。愁いをほぐしてくれていた。やがて抄本が手にはいると、その晩考えたあげく、
 「私も広ちゃんに会いたい気持ちで一杯です。しかし近日中にここから隣り町へ移ることになっておりますので少しお待ちになって下さい。引越しがすみしだいくわしい住所をお知らせいたします。ではお体を大切に」
 甥に出す礼状の末尾に、私はおずおずこの嘘を添えた。こうしてさりげなく濃霧の中へ這入ってしまった。親も兄弟さえも既にない故里、そのような所へもう二度と出てはならない幽霊なのだ。
 ・・・・・・・・・・・・・
 てのひらの六千円がいま私から離れてがまぐちへ入れられようとしている。その前の道を、これから貰いに行く下駄が急ぎ、ポケットを押えていそいそと盲杖が戻ってくる。どの足音にも柔かくまつわる早春が感じられてうれしい。
 あすこそは新しい魚が、思いに想ったトランジスターが、ナイロンのカッターが、季節に合ったスカートが、彼または彼女のものとなるであろう。
 ・・・・・・・・・・・・・
 その夜みえさんが遊びに来た。火鉢の前へ坐るとすぐに、
 「なあ・・・もう春やから色はピングがいいやろか。それとも赤のほうがうつるやろか・・・」
 いきなり始めたこの問いに、私はちょっととまどったがすぐ意を察して、
 「そうねえ、どっちもいいけれど・・・でもそのうちにいろんな既製品を売りに来るんでしょ。そのとき色にこだわらずに一番可愛らしい感じの服を選べばいいじゃないの」
 と答えた。彼女は、ふるさとに幼い子供を残して来た母親だったのである。希みはまず愛児へのおくりものだったのだ。灯のもとでなおあれもこれもと、やりたい物の胸算用をつづけているみえさん。そのお相手で私の頭もいそがしい。切れた私の絆。生々しく結ばれている友の絆。ふたりは何時しか互いにそれをみつめていた。みおつくしの鐘が鳴るとみえさんは慌てて帰っていった。親としてのせめてもの希いがかなえられる軽やかな足どりで。隣の窓からは、もう静かな寝息が洩れてくる。
 辛うじて得た、ひとすじの光芒の中に浮かぶ喜びの群像。そのひとびとに、今宵の夢はまどかであろう。

1960年(昭和35年)



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お好み焼き



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NHKためしてガッテンの本に載っていたお好み焼きレシピが好きで、定期的に食べたくなる。

太めの千切りにしたキャベツ200gをボールに入れ、薄力粉100g、溶き卵1個、水100CC、牛乳50CCを入れて混ぜ、15秒湯通しした豚肉100gを入れて混ぜる。

熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、具材を流し入れ、蓋をして極弱火で裏表5分ほどずつ焼いて出来上がり。ウスターソースで。



コンニャク炒め

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手でちぎったコンニャクを、油をひかずに炒め、ニンニク醤油のニンニク2片を薄切りして入れ、ニンニク醤油で味付けし、七味をかけて出来上がり。簡単にできておいしい。
   


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邑久光明園  藤本トシさん


ある朝

原稿用紙でたった4枚ほどなのに、心にしみる。


 光、とりわけ太陽の光線はなんという美しさでありましょう。万象を失ってしまってから、私は初めてその真の美にふれた思いがするのです。いいえ、盲眼にすべての形が映らねばこそ、ただ一つのこった、わずかにはいる光線が私をこれほど歓喜させるのかも知れません。とはいえ衰えはてた網膜に感じる光は、波間を分けてさしのぼる朝日のそれではなく、空も下界もくれないに染めつつ悠然とかたむく落日のそれでもむろんないのです。しいていえば幻想的なものなのです。
 夜も昼も晴れ間のない深い霧の世界、しかしその眼が陽を捉えますと、光はたちまち金粉となって飛びかい、霧の中で上下左右にゆれるのです。まったく静かな、そしてきれいな舞踏です。私はこの踊子を透して、あるときは遠い過去の野川を見ます。ある時は、手塩にかけて咲かせた大輪のばらを憶い、またあるときはその日のさだめが緑かー白かー占うこともあるのです。
 私はけさ、その不思議な踊子と共に婦長碑のほとりへ行きました。そこには椿の木があるのです。
 そして西側の枝は、立っていて探るのにちょうどいいところに、二つのつぼみをもっているのです。この莟はときおり訪ねる私の口中で、太り育っていくいぶきを生き生きと吐いてくれるのです。
 今日はどのくらいになっているであろう・・・と楽しい杖はおのずからはずみます。ところが来てみると、二、三日小糠雨が降りつづいたためか、莟はすっかりふくらんでいて、もう私の口中には入りませんでした。というより舌に柔かい花びらが触れた瞬間、花に気の毒になってきて、探るのをやめたのです。けれどそのとき、掌中のものをふいに失ってしまったような、味気ないうつろさがちらっと顔をだしました。そのせいか、それともあいにく停電になって、めあての音が全部絶えたためか、戻りの杖はとかくつまずきがちで、どうにか大通りへは出たものの、寮からは離れているらしく、さっぱり見当がつきません。いくら耳をすましてもむだですし、撫でまわしてみても手は空間を泳ぐばかりで触れるものはありません。何もかもが、私だけを残して無限に遠ざかってしまったような感じです。
 こうなると足もとより心の方がよろよろと、みじめな歩行を続けていました。そのときです。とつぜんすばらしい声でカナリヤが囀りました。救いです。向こうにどこかの寮があるのです。
 「あそこまで行って誰かに道を教えて貰おう」
 私はほっとして肩で大きく息をしました。と、その目の前に、さんさんとあの光の浮遊があるのです。おそらくこれは不安のあいだは、見れども見えなかったのでありましょう。
 カナリヤがまた高音をはってくれました。これこそ虹の架け橋です。私はかるがると杖をもちなおし、別人の足どりで金の砂子を揺りながら、その架け橋を渡って行きました。

1962年(昭和37年)



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邑久光明園  藤本トシさん



ほしかげ




藤本さんの随筆はどれも感動する。だからパソコン入力も、時間がかかるという感覚はなくて、癒される楽しい作業になっている。


 私は今までに死を覚悟したことが三度ある。一は関東大震災で、火の粉の雨を濡れ蒲団でふせぎながら、ゆれる大地にしがみついていたとき。三は第一室戸台風で、大阪の外島保養院(光明園の前身)は壊滅、あっと言うまに全員濁流におし流されてしまっとき。二、このときだけは、みずから選んだみちであったが、しかし、ともかく三回とも命拾いをしたのである。が・・・実のところ、その後のさだめもきびしくて、拾ったいのちが邪魔になる日もいくたびかあったのである。
 このようなある日、私は消極的自殺という言葉を聞いた。おかしなことに私の心はこのときパッと明るくなったのである。私はすでに失明していたし、両手の指もうしなっていたので、麻痺ぶかい掌だけでは縊死もできず、一夜でめしいた身の悲しさは、入水しようにも海までゆく見当がつかないのである。そこで毎日うっとうしい顔をして、「梅雨」のような涙を人知れず流しつづけていたのである。つまり消極的自殺を実行していたのである。
 だが私の気持はその日から変わった。いつになったらけりがつくのか知れない自殺、そんなことをのんびりしてはいられないのだ。もうイチかバチかである。けれどイチは見込みがない。とすればバチを取るより方法はないのである。私は肝をすえて闇を凝視することにした。
 暗中に、きらりと砂金のような光を見出し得たのは幾日へたころであろうか。不思議なもので、一つみつかると夕星がしだいに数をますように、私の砂金もだんだん殖えていったのである。
 ともあれ、最初の「きらり」はこうであった。
 「こんちわ・・・、吉川さんいるかな・・・」
 室員たちは出払って、私一人ぼんやり坐っていると三平さんの声がした。
 「畑へ行って留守だけど、でも、もう帰るじぶんよ。あがってお待ちなさいな」
 私がそう言っているところへ吉川さんが戻ってきた。他の友も一緒である。めいめい開墾した畑に何かの種を蒔きに行ってたものらしい。
 吉川さんは甘藷の粉でお団子を作り始めた。三平さんが二つ返事で食べると言ったからである。昭和二十五年の早春であった。食糧事情はすこし良くなっていたが、それにしても代用食の藷の粉が残っているのは自作農のおかげである。三平さんは盲人なのでその余得はない。
 「さあ、たんと出来たぜ。熱いうちに腹いっぱい食べや」
 吉川さんは三平さんの手にホークをくくってやった。
彼は私とおなじように指がないのである。
 時計は十一時を打っていた。
 「ああ・・・ごっつおさん」
 三平さんの謝辞が聞こえたのは、それからだいぶ時がたってからである。吉川さんは言った。
 「もういいのかいおっさん。団子は粉のありったけ二十七作ったんやぜ。あと二つ残っとる。がんばらんかい」
 「うん、じゃあよばれる」
 三平さんが答えた瞬間、室員たちはどっと声をあげて笑い出した。吉川さんの藷団子といえば、少しひらたいが直系五、六センチはあるのである。それを二十七平らげようと言うのである。
 「えっへっへへ・・・」
 みんなの笑いが納まらぬうちに三平さんは食べ終わって、一緒になって笑いはじめた。私は二度びっくりしたのである。くったくもこだわりもない声のひびきであった。私の知る三平さんとは全く別の感じであった。
 「なぜだろう」
 私は思いまどったのである。
 三平さんは園にきて二年たらず、まだ新患の部に属する人であった。彼は家族のことが心配でいつもしょんぼりしていたのである。私たちにこう話したことがあった。
 「おれは三十六のとき病気になってしもうた。上ふたりは亡くなって、下の子が四ツのときだった。
 その子を残して、家内はさとへ帰ってしまうし、親たちは七十に近いし、病気だからといって、ひっこんでおられんやろ。だから俺は人目をさけて暗いうちに山へ行き、暗くなってから戻るようにして何年か働きつづけた。
 あるとき蜜柑の木を消毒していたら、その液が眼に入ってな、それからだんだん見えなくなってしもうた。
 盲になってから俺がいちばん困ったのは、子供が二、三年生のときだった。読めない字を子供に聞かれると、俺は冬でも裸になった。背中の右てに麻痺していないところがあるのや。そこへ子供が指で書くのだが、書く順を知らんやろう。だからやたらに横縦ひっぱるので、なかなか見当がつかんのや。子供はじれるし、俺は寒いし、まったく泣けたぜ」
 三平さんはその他にも多くの悩みがあったであろう。
 「俺ほど辛い人間はあるまい」
 と言っていたのに、その重荷をいつ・・・どのように処理したのであろうか。自分を笑う人たちと共に洒々落々声を合わせて笑っている。私は問うた。
 「きょうは楽しいことがあるのね」と。
 「うーん。見る方向を変えたんや。どうせ苦労するんなら残り福を探そうと思いついたんや」
 私は三平さんに痛いところを、ぐさりと刺されたような気がした。その傷口から汚水がほとばしり出ていく気がした。
 このとき初めて、私は砂金のかげを見たのである。

1969年(昭和44年)



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ニンニク醤油



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冷凍していたニンニクの皮をむき、さっと水洗いして瓶に入れ、醤油を注いで出来上がり。常温で数日おき、その後、冷蔵庫で保存する。2週間ほど経過したら醤油に味がつく。少なくなったら、時々、醤油を追加する。



サツマイモの煮物

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無水鍋に乱切りしたサツマイモを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、大さじ3の水を入れ、ユズ1個の果汁をしぼり、皮は細切りして入れ、煮立ったら極弱火にして25分、火を消して余熱5分で出来上がり。
   



ブロッコリー

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茎は薄切りして30秒、その後、花蕾の部分を入れて1分茹でて、湯切りし、マヨネーズで。



ニンジンとキクイモの煮物

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鍋に乱切りしたニンジンとキクイモとシイタケを入れ、醤油、蜂蜜、酒、みりんで味付けし、出し汁と水でひたひたにし、煮立ったら弱火にして5分煮て、先日小分けしたマグロの一つを解凍して15秒湯通しして入れ、10分煮て出来上がり。  
    


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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