歩く
やがて木枯が吹き荒んで
大地が凍てついて
病み古りたこの躰では
とても歩けないで あろうから
歩ける中に歩いて おこうと
義足の足は哀しく
その音はさびしいけれど
歩けることはやはり嬉しいので
並木道を 田圃の畦を
豚舎を 牛舎を 鶏舎を
ほっつき歩いて すっかりくたびれて
堤の芝生の上に躰を投げ出すと
高い煙突の向うには
幽い山脈のような積雲が漂い
その奥から 誰かが 面をのぞけて
悔のないように
歩ける中に歩いておけと
なにか気味悪い声で呼びかけるので
よろめく体を杖に支えて起ち上り
義足を鳴らして
私はまた歩き出す
外科室にて
ここでは
天国と地獄が
いみじくも解け合い
ひそやかに息づく
互に和み合っていた
もはや
どの様な希望も夢も
芽生えそうもないものにも
ここではなおも望みをつなぎ
ピンセット ゾンディ メスと
器具のかち合う音は冷くとも
それらを通して交う体温は
ほんのりこの部屋を温めた
ああ・・・
ひしめき 並ぶ
柘榴の様な口をあけた
垢まみれの醜怪に歪んだ手と足
灰色に
褪せ 萎び 腫れた貌 々々
・・・・・・・・
臆せず たじろがず
胸に十字を切りつつそれに立ち向い
時に白い指先が血膿に染っても
ほのかな微笑に拭いとる 人の姿よ
ここは地獄 修羅の巷
こここそ天国 パラダイスの都か
冷たいタイルの床には
どす黝い血糊がのたうち
膿汁の浸みた繃帯が這い廻っても
見よ!
玻璃戸近くの小棚の上では
いつか春めいた光を浴びて
一握の草花が
紅く 黄色く
ゆれているのではないか
瀬田洋(村田義人)さんの略歴
生年不詳。山口県の生まれ。農業学校を卒業、その後大島療養所に入所、1941年頃光明園に転園。小説に「葦」がある。1950年8月3日、35歳で死去。
あなたの死を橋本正樹さんが「荒廃の花園━━故 瀬田洋兄追悼」という詩にして悲しんだ。
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けむり
煙突の煙がみだれる日は
私の心がかなしむ日
煙突のけむりがそのまま空に昇り
雲になる日は
私の心がよろこびを唄う日
煙突にけむりのない日は
私の心がうつろな日
煙がみだれないために
煙が消えないために
私は
ボイラーに石炭を投込む
鶴
智恵の精髄よりこぼれる
美のしたたり
鶴
婉然と はたまた艶麗に
叡知の中に
飛翔せり
さしのばした口ばしを
ささえる優雅な音
均整する軽やかな足
白雪暟々の高嶺を翔って
空に散る
伝統のしたたり
雨なく
霧なく
永劫の彼方に
芳醇する
鴻儒の編んだ
精神の象徴
鶴
争いなく
おごりなく
汚れなく
鶴は知識の結集
美学の産んだ 架空の夢
人魚の歌
そなたはいつも
哀しんでいるから 美しい
人の世の
哀しみが産んだ象徴
そなたの母親は哀愁と云う名の方なんです
そなたの母が
そなたに教えた泪が
未来永劫人の世を濡らす限り
そなたもまた
そなたの宿命の歌をうたわねばならない
そなたのいのちがある限り
人の世も また
限りなく美しい
名草良作さんの略歴
1920年2月28日岐阜県生まれ。1942年2月20日邑久光明園に入所。1956年11月3日栗生楽泉園に転園。1958年「傷痕」が「小説新潮賞」の最終選考七編および「第三回中央公論新人賞」の最終予選通過の十編に選ばれる。1960年「省令105号室」が「サンデー毎日小説賞」選外佳作。積極的に療養所の外に発表の場を求めた。1992年1月5日死去。
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日附け
一坪の
花園の芝生を
蹴上げるように
山茶花の花びらが
こぼれ散っていたのは
昨日の夕暮であった
入水━━
そんな事件が
私達の園内をさわがしたのも
遠いことではない
一日違いの
昨日の出来ごとであった
それから
まだ何かがある
しん夜は
餅搗く 杵音で
賑わった
私は明るい樹のもとで
私は明るい樹の下で
お寺の屋根を
教会堂の十字架を
漁師町の屋根屋根を
見ながら
風に頬を擲たせ
ふるさとを想った
ゆうべは
潮騒の音に布団の重さを感じた
風は
私の頬を擲ってオリーヴの実が揺れる
わたしは
癩者がうたうとおい
古里の歌を
じっときいて
たっている
橋本正樹さんの略歴
1912年10月28日石川県に生まれる。1929年5月5日、外島保養院に入院。詩と俳句に没頭した。俳句は橋本秋暁子と号し、戦後の俳句会の中心的存在だった。詩作は1941年頃から始めている。1955年春に片足を切断。1986年1月27日死去。没後、夫人藤本トシの文学碑の近くに「秋暁子亭」と名づけた東屋を遺金で建立。
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橋本正樹さんは藤本トシさんの後夫です。
橋本正樹さんの詩はわかりづらい箇所が多々あるが、全体を通して何となくわかったら、その詩は省かずに載せました。
春
春は
抱擁される季節だ
美しい月があるからだ
夜々の庭木が濡れているからだ
一枚のタオルも濡れるからだ
浅い宵星
話しがある
ロマンスがある
夜空がある
金星がある
浴槽がある
いのちがある
いのちを燃やす窓がある
春はやっぱりいい
抱擁される
季節だからだ
(1953)
二月尽
また来た道を
私は返えすのかも知れない
あたたかい日射が縁側に一ぱい
あたっていると
すわっている畳の上が
急に埃ぽくなって来た
そして 菜の花や菫が私の鼻の先を
通り過ぎでもしたかのように
やさしい追憶を投げかけて呉れる
癩園に朽果てた身垢のことは
そんな時
おくびにも出さないで
ほど遠い春来るの道程の愉しさが
またまた来た
此の道の 目印の中に
立っているような喜びを
私はひとり
草の根のように吸いあげる
(1953)
抜け殻
私のてのひらに
こんなに軽く乗って
お前の命はどこへ行ったのであろう
そっと 寄生木に尋ねてみても
知らないと云った
真白いお前の亡骸よ
こんなに軽く
私の掌に乗って
お前の命はどこへ行ったのであろう
かなしい ものの運命よ
今日吹く野づらの風に
私が そっと山に尋ねてみても
お前の命はなかったのか
(1950)
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ハンセン病文学全集4(記録・随筆)に載っていた藤本トシさんの随筆は今回で終わりです。全部載せたのは、どれもすばらしかったから。
音と声から
一
不自由者の寮は、皆まっすぐ東から西へ延びて建っている。その中の私の寮は、そこに八つの部屋が並んでいて、その北側には三尺の通し廊下がついている。
その廊下を何人かの人工の足が、ぎゅーぎゅーと忍ばせようのない音で歩き、とっさきを布に包んだ松葉杖は、こつ・・・こつ、こつ・・・と遠慮そうに行き、盲人の足はすーすーっと探りながら、それでも元気に通りすぎて行く。
そのたびに、どの音からも冷たい過去が匂い、それを越えて来た、意志のほてりがくる。
だが私をふくめてこの人々の峠道は、まだまだ遠く遥かである。野球や相撲のクイズに興じているのは、道の辺の木陰に憩うひとときなのだ。写真または書画を習い、歌作句作に耽るのは、荒野に咲いた野の花にしばし見とれているのである。
ともかくこれからの尾根は互いにもっと呼び合って越えよう。谺をおこそう。励ましの思いを谺に託して一歩一歩登ろう。
時計が午前九時をうった。治療時間・・・そう思ったとたんに、がたん!と廊下で重そうな音がした。外科の出張治療である。あちらからも、こちらからも、足や手を持ってくる。すりむいた肱も薬缶でやった居眠りやけどの顔も、柱で打ったおでこもくる。これがすむと、眼科と耳鼻科の出張。ちゃりん・・・。しゃーしゃー。こちこち。いろいろな音がする。この音が病の軽重にかかわって、ある時はうれしく、ある時は言いようもなく侘しい。が、どちらにしても、治療が終われば安堵の胸を撫でるのである。
今日もその時がきて、やれやれと背を伸ばしたとき大声が聞こえた。
「やあ、百円飛んでくぞー、そっちの方へいくぞー」
猫のことである。寮での飼育は禁じられているのだが、どこからくるのか近頃たいへん殖えて、困った揚句が一匹百円で買い上げるふれが出たのである。しかし、いくらお金が廊下を走っていても、たとえそれが百万円であっても、残念ながら私の寮では、誰一人拾える者はいないのである。
二
丘に佇って夏の海をじっと見ていると、いや感じているとである。私の眼うらに波しぶきを上げてお御輿が通る。わっしょい、わっしょい、わっしょい。日をはねかえして瓔珞がゆれ、鳳凰が輝く。白鉢巻の力んだ顔がなおいっせいに、揉め揉め! わっしょい!わっしょいと叫ぶ。その中に父の声がある。兄の声も交じる。風に青蘆がなびいて見物の母の顔がちらちらする。
あれから三十余年。私が遊びたわむれたのは太平洋の波であった。今・・・瀬戸内海に向かって私は心で言ってみる。わっしょい、わっしょい・・・。すでに父も母も兄も不帰の客なのだ。
孤独、これは淋しい。だが私の場合それは幸いなことでもある。食卓からホークを口で探り取り、味噌汁の熱度を舌で計っていたとしても、花畠へ迷い込み、お目玉を貰っても、冬は着物にゴム靴を履き、そのうえ小雨でもふれば頬冠りといういでたちでお風呂へ行っても、したたか頭を打って、「やっぱり電柱にゃあかなわない」と半泣きをかくしていても、ふるさとからの深い嘆きの眼ざしを感じないで済むからである。不遇の子を持つ親の心にふれるほど切ないものはない。
真さんはよく母親のことを言う。末っ子だから親も子もよけいに心にかかるのであろう。そのためか、母親は七十を過ぎているのに毎年面会に来る。それが来ない年があった。そのとき彼が私に言うには、
「今日手紙が来たよ。ばかに部厚いので何が入ってるんだろう・・・と思って開けてみたら、手形と足形が出てきたんだ。そして手紙にはこう書いてあったよ。
今年はいろいろな都合でどうしても会いに行くことができません。それで母さんは手形と足形を送ります。私はこの足でお前のそばへ行き、この手でおまえを撫でているつもりです。だからお前も母さんの心をくんで此度は我慢して下さい」
彼はそれきり言わなかった。
夜、蝉の声を聞いて、その方の空を仰いでいると、通りがかりの友が揶揄した。
「闇夜だぜ、だが良い眼にゃ何か見えるのかい」
「私の満月貸してあげる。見てごらんなさい」
向ってきた寂寥から、私はひらり体をかわした。そして「お見事・・・」と我と我が身に喝采を送ったのである。
藤本トシさんの略歴
1901年2月5日、東京生まれ。1919年に発病し、民間病院に通院後、1925年、身延深敬園に入園。1929年5月、外島保養院に転所。1934年、室戸台風により外島保養院は壊滅状態となり、全生病院(現、国立療養所多摩全生園)に委託される。1938年、外島保養院が邑久光明園として再建後、帰園。園の機関紙「楓」の創刊後、短歌、詩、随筆などを投稿していた。1987年6月2日死去。随筆集『藤本トシ』(1970復権文庫)、作品集『地面の底が抜けたんです』(1974思想の科学社)。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)
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生きている
藤本トシさんの代筆をされた方はどんな人なのだろう。晴眼の同病者である代筆者は心から癒され、大いに楽しみにしていただろう。所要時間6~7分です。
おおげさに言えば、数えきれないほど落としては拾い、拾ってはまた落としてしまい、そのたびに部屋中を這いまわり撫ぜまわりながら、わたしの手はようやく一粒の栗を拾った。瞬間、凱歌にも似た太息が唇をついて出る。心に小鳥も海も躍動する朝の風景が開けて、相好をくずした私が、そのさわやかさの中にとける。額は苦闘のなごりの汗を吹いているが、そんなことは苦にならない。
このように物をさがす場合、家人がいればすぐに見てくれるし、今日のように留守であっても、インターホンで頼めば補導員さんがすぐ来て、苦もなく用を足してくれるのだが、しかしそのときには、喜びと感謝の思いがあるだけなのである。ときによると、その思いのなかに、
「こんなことさえ出来なくなってしまったのか」なぞと愚痴が貌を出すことさえあるのだ。
骨が折れたにせよ、暇がかかったにもせよ、小さいものほど始末に困る麻痺ぶかい手が、自力で栗を拾い得たこの感動は、言いようもなく深いものである。そこからは生のあかしが生まれるからだ。
先日、私の部屋に七十になる盲友があそびに来られた。秋季大掃除の前日であった。友はくつろいだ口調で話しはじめたのである。
「うちは、きのう押入れの掃除を全部してしまったぜ。拭き掃除は補導員さんにしてもらったが、夏冬の道具の入れかえは、脚立をつかって三階まで一人でちゃんとすませてしまった。むろん蒲団もやってのけたよ」
私はびっくりしてしまった。三階とは一間の押入れの上にもう一段天井までの押入れがあって、さしあたり不用のものを入れておく倉庫がわりのところである。わたしは問うた。
「あんな高いところから、重い蒲団をどうやって下ろしたり上げたりするんです」と。
「頭さ、頭を使うんだ。まず脚立にのぼって、一ばん上のをそっと頭にのせるとしずかに下りて、それを畳の上におく。このくり返しをやって下ろし終わったら、今度は上げるばんや。
やっぱり一枚頭にのせると、脚立にのぼって、三階に首が出たら、そこでぐっとおじぎをするんだ。すると蒲団がぱっと押入れの中に入るやろ。これを二、三回やったら終わりや」
友は呵々と笑った。おそらくその一瞬、この盲友も生の実感を得たのであろう。誇らかに眉をあげたであろう。足にまだある感覚を、こよない宝と思いながら・・・。
けさは鵙がたいへんよく鳴く。すばらしい晴であろう。窓をいっぱいに開けてふかぶかと呼吸する。そのとき遠くで池野のお婆ちゃんらしい声がした。久しく会わない人である。確かめようと身をのりだしたとき、過ぎた日のひとこまが胸をよぎった。
「あんたよう、なにまごまごしてるんや・・・」
これが、わたしの耳がとらえた池野のお婆ちゃんの第一声である。
あの日も快晴であった。ひとまわり散歩をして、楓陰亭にゆく坂下まできたとき、私はなんとかして一人で亭まで行ってみようという気をおこしたのである。これまでにも何度そう思ったことかしれない。理由は、内海の風景はもはや見るよしもないが、そこにある四季それぞれの長閑さに私は心をひかれていて、人手を借りずに行けたなら、おりおりそこに坐して、松風や笹生の香や、草をけるキチキチバッタなどの中にいたいという、切な望みがあったからだ。
しかしいざとなると、無感覚のうえに数回の手術で、すっかり変形した足には自信がもてず、杖は突くたび両手の中でぐらぐらする頼りなさに、つい気勢をそがれて思いはいつも立消えになっていたのである。
だがその日はちがった。どうしてもという気であった。私は杖を右に向け、左に向けして、恐ろしい崖ぶちを確かめると、一歩を踏みだす地をたたいた。この時である、見知らぬお婆ちゃんが私に声をかけたのは。わたしは心の一部をかくして、
「亭まで行こうと思うのです」
とだけ答えた。
「そうか・・・。わてもあそこへ行くんよ、ちょうどいい、連れになろうや」
お婆ちゃんは、ぽんと私の背をうった。
やがて二人は手に手をとって坂を登りはじめたのである。
意に反したが私は楽しくなっていた。
が、そのうちにお婆ちゃんの歩みは私よりもさらに頼りないのに気がついた。私は組んでいた手に力をこめるとお婆ちゃんの体を支えはじめたのである。よいしょー、よいしょー、坂はだんだん急になり、歩行はいよいよ千鳥になったが、お婆ちゃんのかけ声だけは威勢がよかった。
「ほーら着いたぜ、あとはコンクリートの段を六つ七つ登るだけや」
どうにか目的場所に来て、お婆ちゃんは明るく言ったが、私は当惑してしまった。段がもんだいなのである。もうお婆ちゃんの足は頼れない。杖はなおさら駄目である。どうしようか・・・と思いまどっている耳もとで、声がした。
「早う這わんかい。わてはな、いつも這うて登るのや、らくだぜ」
私は杖をぐっと帯にさしこんだ。突くほうを空にむけて。ふたりは一心に、陽光のなかを、うごめくような蟇の歩みをつづけたのである。
ようやく亭に腰をおろしたとき、お婆ちゃんはあたりかまわぬ声で笑った。その、けろりとしたひびきが真下の海にころげていった。
このとき私は、この新患者のお婆ちゃんから、わが手で生の歓びをかちとるために、残された可能を、えぐりだすことを学んだのである。
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