春愁
五月の雨が霽れて
木々の枝先に
草々の葉先に
雨滴が光り
芍薬の花は
燃えるような夕焼けに染り
松の芯はまっすぐに
天を指している
それなのに
私の心の片すみを閉す
重苦しいゆううつ
それはきまって此の季節にやってくる
うすずみ色の
栗毬のようなものだ
それがある時は
重りいく病いと
又ある時は郷愁と結びついて
奈落の底へ私を誘う
そんな時
ぼんやり海岸に佇んでいると
はるかの水平線が
私の眼へとんで来ることがある
今日も昏れいく海岸に
たった今が
過去となっていくことを忘れて
それを堪え受けていた━━
訴え
弟よ
友よ
腹の足しにもならないものを
書きつづけているからと
責めないでくれ
病に呆けて
やっと細く息をしている私は
書くことによって
切つない純粋がみつかるのだ
自我とか 思索とか
それだって私には虹なのだ
近頃の私は
洗面器の水のように
冷たく さびしく
疲れている
それでいて
かりそめの情さえも
炎天の木かげのように
やさしく
心に沁みてくるのだ
花に想う
壮麗な牡丹は崩れて
いつの間にか卯の花は朽ち
紫陽花のまりは雨だれに打たれ
静かに少しのやすむひまもなく
花の季節は移っていく
漂白された日々にでも耐ゆる愛と美は
大きな土壌のふところに抱かれて
生命の尊厳さをほこっている
雑草の中よりのび上がって
花は
懸命に自己の存在を訴えている
そのようないとなみの中に
生きていく俺たちの慕情があるのだ
一冊の書籍による人生の探求は
静かなる思索のひかり
一枚のレコードよりおこる即興幻想曲は
願いのひとときの音律
花粉が流れていく流れていく
永遠の孤独を求めて
自ずからの骸の上を
美しいものへの郷愁は
くめども尽きざる生命の泉
めぐり来る季節への羽搏き
花は花の為に生き
俺たちは俺たちの日々を生きていく
2030年 農業の旅→

黄昏
綿屑の様な雲は
茜にもえて
墨を流した様な
煙突の煙は
だんだん薄くなりながら
西から東へ流れていく
電線に止っていた雀は
泥礫の様に見えながら
とんでいった
屋根の庇と
豆の手との間に
蜘蛛はさかさになって
囲を踏んまえている
皺のかたまりのような海面へ
太陽がめり込んでいった
くらがりのかけらが
とんでいる
蝙蝠だ
だんだん濃くなっていく
やみに包まれた私の
瞼にはっきりと
故郷の山川は生れた
靴
二ひきの黒揚羽が
くつぬぎ石に止っている
風雨にうたれたのだろう
はねが破れている
だが
とびたつ心は押えきれない
みどりの草原を夢見る心も
黒い蝶の黒い羽ばたき
黒い翳を落して
一瞬蝶は
一足の靴になった
春
めぐり会えるこの日のいのち
かつての冬の曠野
時雨の枯路も消え去り
なごやかな陽光を
たたえて木々は芽ぐみ
呪われた病いも
新らしい薬によって
癒える夢を育て
活き活きとして
希望に満つ
生きていることの嬉しさを
真実悟らしめる春よ
更に
世のすべての病めるものに
あまねく新らしい光と
こよなき倖のあらんことを
私は願う
2030年 農業の旅→

盆踊り
癩者は白鳥になる夢をもっている
栗の毬は手に触れがたいが
一皮はげば中から薄桃色の
美しい実がころげ出る
癩者の盆踊りを誰かが鬼が踊っていると
云った
外面すごく醜悪に見える病者にも
内面に美しい夢があり希望をもって生きている
苦しみも悲しみも打忘れ踊っている様は
灯を求めて飛び交う鳥に似ている
癩者は白鳥になる夢をもっている
踊っている鬼ではなく
あこがれに湖上を狂わんばかり
踊っている様だ
ランプの灯
盲になった私にも
色々な思い出があるのだから
夜になったら もう一度ランプの灯を
つけておくれよ
それは慾ばりでしょうか
ランプの灯には
妹が生れたよろこびの日の思い出がある
ランプの灯には
母を亡くした日の悲しい記憶がある
ランプの灯には
楽しく学校に通った少年の日の希望が残っている
私を慰さめて呉れるランプが
いつも郷愁の中にともっている
思い出がふかいランプの灯を
盲の私にもつけておくれよ
雨に陽に
春になって足の傷が治ったら
小鳥を飼うのだと云い
夏になって足の傷が治ったら
盆踊りに出るんだと云った
いつになったら
友の足がよくなるのだろうか
掛けてある松葉杖が
木枯に
かたことと
焦燥しているかの様になっていた
2030年 農業の旅→

「死にたくない」と言ふ告白を君も残し癩病む一生を亡びてゆけり
酒あらく癩みすさみ行く若さあり吾が過去として今思ふかも
患者道徳といふものがあり死の母にその夜逃亡の友をかばひて
何故生むんだと自虐は母に言ひすてて悔いつつ不運の夜の闇に哭く
癩診断を今は疑ふ余地もなし顔の浮腫の日に日に重く
降り続く霧雨今日も降りやまず鐘哀哀と島は暮れ行く
吾も亦指を落せり癩病の運命と言はば母よ嘆かん
(発病当時)
あらがひて酒に荒さびし明暮も母は涙に許し給ひき
(明石海人)
見舞行きし人の思はぬ衰弱にもの言ひかけてしばし見守る
たへがたき疲れなるらし痰切れし暫しの間も君はまどろむ
2030年 農業の旅→
