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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

大島青松園  政石 蒙さん



枯野の駱駝


(1ページ半です)

 枯れ尽くした曠野の一角に佇む駱駝の姿は、最も自然であり立派である。もうそこには、真紅の衣を着た乙女を背にして色褪せて見えた駱駝のみすぼらしさはない。動物園の柵の中で鬱屈している駱駝の惨めさなど無論ない。
 自然は駱駝のために存在しているようにすら思われるのだ。冬の到来に備えて脂肪の充実をみせ、背の双つこぶはエネルギッシュにふくらみ、夏の始めに毛を刈りとられて薄ぎたない紫斑を浮かせていた肌には柔毛がふっくらと生えて、陽光にふれると金色に輝く。風に向って立つと金色のさざ波がたつのだ。自然と駱駝は混然と溶け合って、ただもう美しい。常にはみすぼらしい駱駝にも生の尊厳を感じさせるときが存在するのだ。
 ”こんな私にも、何処かに、生の尊厳を意識でき得る場があるかも知れない”
 と私の心を動かせるのだった。らいを患い、人の生活から遠ざけられて、生きようとする意志を喪いかけていた私に、希望のようなものを与えてくれたのは、秋深まった枯野に立つ駱駝だった。

 動物園の柵越しに、私は駱駝の鼻面を撫でていた。あの外蒙古の駱駝たちは、茫々と果て霞む曠野で駱駝らしい生を続けているに違いない。この虜れた一つこぶの駱駝の眼底には、暑い砂漠や緑のオアシスがいまだに残っているのではないかと心が熱くなるのだった。
 異国の病院で隔離生活を余儀なくされたことも遠い日の出来事になり、いま私は一日の行楽を許されて、島の療養所から出てきて動物園の駱駝の傍らにいる。そして、かつて私を慰め力づけてくれた駱駝たちを偲んでいる。いまになお私の足下には曠漠たる原野がひろがっている。あのころの孤独とは異質の孤独も味わっている。苦しみもある。しかし、私の心の中にあの日の駱駝たちが棲んでいる限り、私は自分の生を忠実に生きられるような気がするのだ。

(おわり)

政石蒙さんの過去記事


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長島愛生園  千葉修さん



長島八景


二 小豆暮雪

2ページです。

 長島を吹き渡る風が西に変り、気温がぐんぐん降下し始める頃から、真向いの小豆島がだんだん近く、鮮かに見えて来る。観測所の露台から、向うの小豆島の山の襞もはっきり見え、あか土の地肌がそれと見分けられるようになると、もうすっかり冬で、海の色から冬は来るのかと思うばかりにあおぐろく沈みきった入海をへだてて、長島の延長ででもあるかのように思われて来る。小豆島まで五里と言われ、或いはもっと近いともいわれているが、その島の襞々に、頂上に、真白い雪が幾日もつづけて見られる頃には、五里はおろか、まったく距離感がないまでになる。
 長島で雪の降るのは珍らしく、観測日誌に雪を記録する日はあっても、その大半は飛雪で、殆ど積雪にも降水にもならない。まれに、降りしきる雪に目が覚めて気づく時はあっても、その頃にはすでに解けはじめている状態である。しかし、小豆島の頂上と襞々の雪は、こんな時でも一週間も十日も消えない。長島から小豆島を見ていると、西北面の故でもあろうが、さすがに長島は暖いな、という気がする。小豆島は、長島の何処からでも眺められ、四季の移りも実にはっきりしていて、いつの場合でも、私たちのいい文芸素材になって呉れている。
 紅葉の名所寒霞渓はあの辺だ、四国遍路の時はあの雪の峠を越えたものだ、などと語り会う誰彼の懐旧談も、もう聞き古した。小豆島はこのように、絶えず私どもの無聊を慰めて呉れるが、その頂上一帯に雪の消えない日の、没際の夕日にほんの一瞬燦ときらめく時ほど、魅力ある光景はない。ちょうどその頃、私は十八時の観測の時なので、日照紙を取換え、空の雲行をしばらく観察しながら、 むかうともなく対う小豆島の雪の照り返しを、これで十年近くも賞でて来ているのである。風のすっかり落ちた露台の冷えに耐えながら、見る見る漁船の灯がちらつきはじめるまで、見とれているのである。
 その頃、小豆島の雪は薄くれないから、また、もとの白さにかえって、黝い入江の海をいやが上にも暗くするのである。


千葉修さんの過去記事


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邑久光明園  藤本トシさん



「地面の底がぬけたんです」の一部抜粋

誰か死ぬ日々=戦中


7ページです。

戦争中の園の様子が手にとるように迫って来ます。藤本さんがその時代を生き抜かれたのも、たまたま偶然だった。たまたま生き延びられたから、すばらしい随筆が数多く残された。それは戦後、昭和23年の秋に失明してから書かれたものが多いが、『しかたないから、頭の中に文章を書きまして、ここはテン、ここはマル、ここはひとマス空けてとか、行を変えるとか、みんな完全に頭の中に納めまして、その上でしゃべるんです。
よくそれだけ覚えたねえって言われましたけど、十枚くらいのものまではその頃できました。まだ六十くらいで、若かったということもありましょうか。ですから、書き取ってもらいましてから、読みかえしてもらいますでしょ、すると、ああそこはその字じゃなしにこの字ですとか、テン、マルまで全部言えました。頭の中で、原稿用紙をめくりながら読んでるようなもので・・・
』というくだりが「失明の項(近日中に更新)」に書かれています。


 ここは島だもんですから、なにもかもが不足だといったって、外から買うわけにはいかないのです。
 ですから、送金のあるお方はまだいいんですけど、送金のないものは全くみじめでした。ある人がない人に分けてあげるなんて、そんなことはできやしません。それはね、そう申しあげるとなんですけど、幸せに暮らしておられるお方だから、そういうふうに考えられるのでしてね。もうあなた、おしつまってから、あげたりもらったりなんかできません。自分のものを自分で食べなかったら、生きられないんですもの。それに、人さんが炊いたり買ったりされたものを、いただく方でもかなわないのす。お返しできるあてがあればいいですよ。だけど、いただく一方ってことはできませんでしょう。その時だけじゃあない、お互いずっと一緒に住むんですもの。だから、わけてくださらないというより、いただけないんです。
 それに、戦争中は、働ける人に優先的に特別配給があった時代でしょ。ですから、あたしたちみたいに不自由で働けないものは、どちらかというと、あんまり食べてはいけないというような、そんな空気ですから、不自由者にはますますものがまわってこなかったんです。
 園全体の食糧といっても、代用食ばっかりでしたけど。
 この、今の中道のあたり、もう足の踏み場もないくらいの畑でした。家の周囲はもちろん、作れるところはみんな畑でした。
 それでも足りないから草を食べるんです。あちこち生えてましょ、はこべやなんか。それはもう、草がこの島にまた生えるのかしらんというくらい取りつくしてしまって・・・ちょっと芽が出たら、すぐ取って食べちゃうんですもの。
 他の病棟からむしりに来なさったら、そこはうちの畑ですからって・・・草でもそんなふうでした。
 陸のものを食べつくせば、こんどは、四方が海ですから、 石蓴あおさを取ったり貝をさがしたり・・・もう一日中食べものをさがしにかかりっきり。
 どこの家でも、泥をこねた小さな竈を作りましてね、食べられるか食べられないかなんておかまいなしに、とにかく何でも炊きました。味つけは海水をじかにやって。
 塩なんて、そんな洒落たものないんですよ。ごくたまあに、二日分とか三日分のおかずだといって、サジにちょっとの配給でしたから。だけど、ここは四方が海で、そのぶんはずいぶん助かりました。
 塩は貴重品のひとつで、だんだんお金が通用しなくなりますと、物々交換になって来るんですけど、その時塩はいいんですよ。園内でも、個人で塩をつくっていた人もいたようです。
 それに、病者の中にブローカーみたいな人がいまして、外から買いに来る人に、いいものはみんな集めて売ってしまうんです。着物でもいいもの持ってる人もありましたけど、着物を惜しんで飢え死にしたらつまりませんものね。
 みんな食べものとかわって外へ出ていってしまいました。
 だんだん戦争がすすんでいきますと、園内でも翼賛会ひと色になってしまいましてね。聖戦貫徹ということで、社会から軍部や情報部の人がたくさん入ってきて、滅私奉公をあおるものですから、患者の方もいくらかおかしくなってしまって・・・こんな非常時に不自由な病者ということで何もできないのは、ただの穀つぶしだから、自決することがいま残された最後の御奉公だなんてこと言いだす人も相当でてきまして・・・大変でした。
 お医者さんも看護婦さんも外へとられていきますし、だいいち薬品がなくなっていきましてねえ、ひどいことになりました。
 早くいって待っている人だけが、ほんの少し受けられる程度で、繃帯やガーゼなんかも失くなってしまって、治療受ける人は自分で作ってくるように言われて・・・繃帯の配給のさいごのものは、たしかスフでした。それまでは天竺みたいなのも使ってました。
 あのスフはいけません。皮膚になじまないのです。巻いても、すべってすぐほどけるんです。知らないうちにほどけてしまって、医局から帰ってきた時には、どこにいったかありゃしない。だからって固くしすぎると傷をいためますし、再生がきかないようなものでしたけど、それさえも充分というわけにはいきませんで。
 終戦の前の年じゃなかったでしょうか、和製の新薬が出たことがあるのです。セファランチンという。あれが大変なものでしてね。あれを打っていく人も亡くなったんですよ。あたしどもは、世話いらんちんって、悪口言ったもんです。あたしは打ったことありませんでしたけど。
 いえ、希望じゃありませんで、診察した結果、この人に打とうってやったらしいんです。それがコロコロいってしまうんですよ。
 それまでも新薬とか特効薬とかってので効いたためしがなかったんですけど、あれは宣伝もたいへんなものでしたし、ひょっとしたらこんどはという気もあったんでしょう。乾性の人ではなしに、湿性の結節の出るような人に打ったみたいでした。

 あの頃はまた、食事が悪くて体力がないから、傷をしても治りが遅いのです。そこへもってきて薬も材料もないのですから、ほんとにあの頃はもう・・・。
 ひどいこともあったんです。わずかの薬を手に入れるために、物もちの人が看護婦さんを買収したり、逆に看護婦さんの方でも、患者の方に何かものを要求したり・・・配給の米を、どこかに貯めていて、嵐の晩に横流ししたり・・・。
 それも、桟橋のところに米がたくさん沈んでるというので、みんなが拾いにいきまして、これはどういうことなんでしょうということになって、やっとわかったことなんです。
 あそこまでいってしまうと、職員も患者も看護婦もなにも、もうありません。食うか食われるかのどんぞこまでいきましたら、もう人間の気持ってのは失くなってくるんです。
 ほんとに、とげとげしい時代でした。
 みんな栄養失調ですから、手足の傷なんかを悪くして切断なさった人は、ほとんど助かりませんでした。
 毎日誰か死ぬんです。こんどは俺の番だぞなんて、本人は冗談のつもりでしょうけど、それが笑えないような毎日でした。
 棺桶つくるにも材料はもうなくて、あそこにもここにもって、亡くなったまんまで・・・あたしなんかが今まで生きてるってのが不思議なくらいです。
 そこへもってきて赤痢がはやりましてねえ。敗戦になる直前でしたか。何でも口に入れたせいでしょうね。
 そりゃ、どのくらいお腹がすいたって、立って歩けないで這って歩きましたもの。それもしょっちゅう・・・。朝、目をさましたって意識が戻ってくるまで、だいぶん時間がかかるんです。待ってなきゃいけない。
 相当消耗してたんですねえ。
 あの時は、かかった人は一も二もなく亡くなりました。
 (昭和二十年の一年間だけで二百五人死亡)。
 もう焼き切れなくて、カマの中に入りきれなかったお方が、何体も何体も並べられてました。
 煙の絶えることがなくて・・・。
 ほんとによく生きていたものです。
 もう終わり頃は、それこそ何にもなく、海水をうすめて沸かした水ばっかり呑んでました。それでお便所にばかり通って、それも、さっき言いましたように這って。
 這って通うのも、昼間ならまだいいのです。ところが夜になると灯火管制でまっ暗で、どこに何ひとつの灯もないでしょう。手足に感じがないから、この病気には手さぐりってことがない。いくらさぐっても畳の上なのか廊下へ出たのかわからないのです、つらいことに。それでも、さぐりさぐり見当つけて這うんですけど、体力はないし我慢はないしするから、もう間にあわなくて、その辺でしちゃう人も相当いました。そこまでいったんです。死なないまでも、半死にの状態です。
 まあ、夜になれば灯がつくということだけでも、戦争が終わった時はホッとしました。


藤本トシさんの過去記事


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タラの水炊き鍋



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「タラの水炊き鍋」はレシピにも出ている。昨日、スーパーで見て速攻で買った(鯛でもタラでも、アラがあることは少ない。多分、すぐに売れるのだろう)が、食べてみて、あまり生きがよくなかった。

昼から土鍋に水を入れ、出し汁を作るのと同じ方法で、昆布、干しシイタケ、煮干しを水に浸しておいた。

生シイタケを少し追加し、ダイコンは千切り、ニンジンは薄切りして入れ、煮立ったら昆布は取り出し、80度の湯で15秒湯通ししたタラのアラを入れて5分ほど煮て、ハクサイとネギのざく切りを入れ、10分ほど煮て、ハクサイがしんなりしたら出来上がり。ポン酢で食べる。




手作りポン酢
  
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同じアラでも、タラより鯛の方がおいしいし、いいダシが出るように思う。

煮ている間にポン酢(醤油70cc+酢50cc+みりん30cc+出し汁25cc+レモン果汁25cc=200cc)を作った。


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松丘保養園  武田牧水さん



些かのことにも不安を感ずる日なり長き廊下を行きもどりする




落ちぶれし者の如くなり隣より笑声するを黙して聞くも




笑ひても怒りてもゆがむ我が顔は黙して居らば並に見えんか




かくかくにつなぐ命のはかなさを友みまかりてしみじみ思ふ




ひたすらにしはぶきしつつ癒ゆるなき病に遂につかれ果てんとす




油くさき薬をぬりて病みこやりもの言はぬ子に言ふ術しなし




別るると吾にすがりてなきむせぶ祖母の髪の白かりしかな




大理石の解剖台にのせられて肺きらるべき吾のさだめや




つきつめし如くにたちまち思ひ立つ死!死はやすくかち得るものか




旅に居て病むとは知らずひたすらに我を待つらん君を思へり




ひたぶるに欲しと思ふもの我にあらば淋しと思ふ時なけんものを




ふっとわきふっときえゆくうれしさも苦しさもみな我らしきこと




何の臭ひも今は全くなしぞろぞろと崩るる骨を拾ひたりけり


武田牧水(牧泉)さんの略歴
大正3年生まれ。盛岡師範卒の銀時計組、小学校教師となったが発病、昭和5年松丘保養園入園。昭和7年白樺短歌会創設会長に就くも、昭和8年28歳にて自死。「白樺短歌会」所属。『白樺』第一集(昭和32年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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大島青松園  政石 蒙さん

(2ページです)


生くるともなく

 ホジルボロン俘虜病院に病んでいた頃のある夜、屋外便所へ用を足すために玄関からとび出した私は、何かにぶつかって転倒した。外灯にすかし見た私は、雪をかむった大きいかたまりを見出した。にょっこり頭をもたげたので駱駝になった。北風を避け玄関脇の軒下に丸まって駱駝は眠っていたのである。家角を吹き廻ってくる雪片が駱駝の軀にしきりに降りかかり、したたか雪をかむっているのだった。
 乾草と塩と水だけで生きていながら、駱駝は零下二十度、あるいはそれ以上の酷寒の夜を、屋外にうずくまって過ごすことができるのである。栄養失調症で肉体の衰えている私には、受けとめることのできないほどの逞しさだった。その強い生命力に憧憬を感じる前に私は圧倒されへなへなとなりそうであった。
 零下二十度の吹雪の中で用を足して、骨の髄まで凍りきった思いでの帰りがけ、駱駝は頭を埋めて生くるともなく眠っていた。



駱駝の声

 秋の夜には駱駝が鳴いた。そんなふうに駱駝は鳴かないとひとは言ったが、私の孤独な魂に触れたあの鳴き声は、駱駝の鳴き声でなくてはならなかったのだ。
 孤独に耐えきれなくなって漏らすため息のように、鳴くことで一層深まる孤独を噛みしめてでもいるように嫋々と、駱駝は夜を鳴いたのだ。私はひとりぼっちの隔離小屋のベッドで心の濡れる思いで聞いた。駱駝の声がそんなに切ないものであったのか。人にうとまれ、嫌われながら、尚も生きている私自身の生が切なかったのであろうか。駱駝の声は暗い曠野の果てから流れてきて私の魂に突き刺さったのだ。
 生きるということがどんなに切ないものであろうと、切なさのあるために生は尊厳なのであろうか。秋の夜の駱駝の声は、私だけが知っている。



ともだち

 駱駝は私のともだちだった。日に一度だけの食糧差入どき以外には殆ど人の訪れることのない隔離小屋の生活の中で、駱駝は珍客でもあった。
 コノ線ヨリ許可ナク入ルベカラズ そんな立札を無視し、煉瓦連ねた線を踏み越して、駱駝は私の庭へやってきた。駱駝の横腹を押したり、首にぶらさがったり、鼻面を撫でたりする。私が触れることのできる唯一の生きものであった。駱駝の腹も首も鼻面も暖かだった。私は毎日駱駝の訪れを待った。駱駝の来ない日は一日中孤独だった。

(つづく)

政石 蒙さんの過去記事


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邑久光明園  藤本トシさん


光明園に帰る


昭和13年4月    外島保養院は邑久光明園として再
27日          建され、この日、岡山県邑久郡(現・
             瀬戸内市)の長島で落成式を行った。

昭和14年8月
    優生手術ワゼクトミー強制施行を決定

昭和20年6月
    国民義勇隊編成

昭和20年10月
   患者に選挙権が認められた

昭和21年1月
    患者自治会復活

昭和23年11月
   プロミン治療開始

昭和28年8月
    らい予防法改正案成立。
             反対運動は激しかった。

(2ページ半です)

 帰ってきたとはいっても、その時の光明園てのは、まだつくってる最中でしょう。来る日も来る日も作業の毎日でした。中道だって、今こそこんなにきれいですけど、ここは山だったところを発破で崩してつくったんですよ。そんなことは、最初の原田久作園長さんが、ずいぶん苦労して、それだけの予算をとって下さったんだそうです。
 なにしろ、まだ歩けやしませんでしたもの、帰ってきた当時は。舎が建つところだけは平らになっていまして、岩のかけらやなんか、みんなこの中道に放りだしたままでしてね。
 だから、目が悪い人もいい人も、不自由者もみんな、その岩のかけらの間に座り込みまして、ひとつひとつ拾って運びまして、海にすてに行きました。でも、あまり苦にはなりませんでした。自分たちの家を建てるんですから。みなさんもそうだったと思います。とにかくよく働きました。作業賃もなにもないんですけど。患者総出でした。
 あの、いま健康舎のある藪池のグラウンドね、あそこは以前は沼と田んぼで、葦が生えてヨシキリがいっぱいいたんですよ。田んぼといっても、あたしらが来る前に、社会の人がつくっていなさった田んぼでした。
 住むところはまだなく、食べものもひどかったです。あんまりなんで、どなたか、ハンストなさったお方が出ました(十四年十一月)。いえ、おとがめなんてありませんでしたでしょ。自治会の役員さんが辞めなさったくらいじゃないですか。役員さんが辞めなさるのは、それはなんでもありません。楽になったってくらいのもんで。
 いえ、自治会は、光明園ができてあらたにつくったんじゃありませんでね、外島の時の、村田先生の時のがそのまんまなんです。ですから早かったんです。ですけど、それで村田先生が八方から叱られなさったんです。また患者自治会を許したっていって。
 住むところといえば、どしたって官舎が先に建ちましょ。その職員の住居地を板塀で区切りましてね。板塀といってもほんとの塀じゃありませんで、二分板をずっと並べて縄でからげてありました。むこう側が職員の家族の方々で、こちら側があたしたち。
 患者って変なものでねえ。健康な家族の方が何をしているだろうと、その隙間から覗くんですよ。覗いてみたってしょうがないのに、赤ちゃんにオシッコさせたり、おんぶしたり、小さな子がなんだかして遊んだりしているのを見るのが、珍しくてしょうがないんですよ。こちら側には、子どもってものがありませんのでね。それをじいっとながめているのはやっぱり女の人が多くて・・・男の人はどっちかっていうと、無関心ですね。
 そういうふうで、まだなんにもできていなくて、仮小屋ずまいのような毎日でしたけど、活気はありました。あちこちに別れ別れになっていた者同士が、四年ぶりに帰ってきたんですもの。お医者さんだって看護婦さんだって、外島の時の人たちがほとんどそのままでしょ、それで、自分たちの園をつくろうってんですから、もう、つらいのも何も忘れてやりました。
 ところが、やっと形ができはじめたところで戦争になってしまいまして・・・。


藤本トシさんの過去記事


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けんちん汁


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ニンジン、サトイモ、キクイモ、ダイコン、シイタケは小さ目に乱切りし、タマネギはスライスして鍋に入れ、出し汁と水を入れてひたひたにし、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、醤油、酒、みりんを入れて10分煮て味見し、生姜1片をすりおろし、ユズ1個の皮をすりおろし、果汁も入れ、3分ほど煮て、片栗粉大さじ2を同量の水で溶いて入れ、3分ほど煮てとろみがつけば出来上がり。

味が淡泊なので、生姜やユズでアクセントを。

生姜たっぷりけんちん汁」、「簡単!けんちん汁風スープ」、「野菜けんちん汁・田舎雑煮」を参考にした。



大豆の煮豆


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一晩、水に浸したダイズを戻し水ごと圧力鍋に入れ、水を少し減らして、出し汁を入れ、ニンジンとヤーコンの角切り、昨晩、夜なべに作った出し汁の出し殻を小さく切って入れ、シイタケを少し追加し、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ゴマ油を数滴入れ、強火で、おもりが回り始めたら極弱火にして20分、火を消してそのまま放置して出来上がり。冬の間の定番です。 


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長島愛生園  千葉 修さん


長島八景


 長島へ初めて来る人の殆どが、その水明と、山紫にまず驚嘆する。園長光田健輔先生が長島をめぐるこれら風光の中から、特に選ばれた景勝がこの長島八景である。先生は夙に短歌会員にこれを詠じてはと奨められたのだが、環境の美に全く眩惑されきった私どもは、一様に逡巡して数年を経た。私は今、散文によるこの表現を思いたち、入園当時の白紙的心境に今一度たちかえって綴ってみようと思う。

3ページです。

一 光丘晩鐘

 愛生園に収容されて、混乱した心境もやっと落着いた頃、誰もが真先に歩を運ぶのは光ヶ丘であり、その頂上の鐘楼堂であろう。私が収容された日、遣瀬なく、没日の海に対っていた時、微かではあったが、はっきりと、丘を伝い、海を渡ってゆくこの晩鐘の音を聞いて、島に来たことを新しく感じ、いよいよこれで私の第二の人生が始まるんだという、名状し難い感慨を催したことを憶えている。
 後になって、この鐘が時報としての大きな役目を果し、ラジオが今日ほど普及していなかった当時のこととて、対岸虫明では、この鐘に時計を合しているということを知った。而もこの鐘を厳寒に、酷暑に、風雨の日に、機械さながらの正確さで撞いて呉れる人がBさんという一入園者だということを聞くに及んで、私は一層この鐘の音に愛着をもつようになった。いや、それよりもこの鐘の床しい由来が更に私の心を捉えて離さないのである。
 はじめて光ヶ丘へ登った私は、皇太后陛下の「つれづれの御歌」の刻まれた鐘を仰ぎながら、寄贈された西本願寺のこと、職員患者一体となっての連日に亘る石運搬奉仕作業に次いで、鐘運搬奉仕のあったこと、そして鐘の撞き初めの日にはBKから全国放送された等々の美しい思い出を、先輩の病友から聞かされて感動を新にしたものである。
 気象観測所に移ってからの私には、この朝夕六時に鳴る鐘がこよない対象となった。時計とラジオと、この鐘がきっかり揃って鳴る朝夕の観測の気持よさは、やはり私だけしか味わえない醍醐味だった。真冬の朝六時はまだまだ夜中といった感じで、観測もなかなか楽ではないのだが、十年一日然と、黙々と鐘を撞き鳴らすBさんの真摯な姿に接すると、忽ち清浄な我にたちかえって、気軽に床を跳ね起きるのである。
 朝の鐘もいいが、夕映えに光ヶ丘の芝生が黄に染まる頃、寂かな余韻を曳いて鳴る鐘の音は、何とはなしに心に沁みこんでくる。そして、今日の一日を省る心のゆとりが自ら萌して来るのに気づくのである。今日も終わったな、と思うと同時に、あのミレーの詩心にも通うような何か禱りたい率直さにたちかえるのは私一人ではないであろう。Bさんは不自由になって行く軀に鞭打って、コツコツと実にコツコツと、朝夕二回ずつ丘を上って鐘を撞いているうち、片脚を失い、松葉杖に縋るようになったが、それでも時を違えるようなことは全くない。その真剣そのものの姿に励まされて、いつか私は観測の時を機械的に守れるようになった。しかし、Bさんは、ついに両脚をうしなうまでに病気が昂進し、二十年一日のようだった尊い努力に美しい実を結ばせた。
 Bさんにかわって、軽症のYさんが撞き鳴らす鐘の音は、依然分秒を違えることはないが、韻々と響くその鐘に目覚めては、反射的にBさんが痛ましくなって来て仕方がない。それが晩鐘の場合には、わけて私の胸を衝きあげるばかり寂しい。
 こうして、恵の鐘の美しい音色は、貞明皇后の御在世のままの暖い御声の絶える間がないように、貴い奉仕者が後を継いで、響き続けるであろう。そして、愛生園の全島はおろか、対岸の村々に、ときに私どもの悲痛な訴えとなり、また、うるわしい唄声ともなって、絶える間はないであろう。
 観測所を去ろうとしている私は、今、裏窓越しに真向いに見える恵の鐘、青く照りかえす甍の鐘楼、緑一色の芝生を眺めながら、時計を睨みつつYさんの黒い影がやがて幢木の綱を握ろうとしている姿をも併せた、夕べの光ヶ丘に見惚れている。すっかり秋めいて来た夕暮の黄色い光は、たゆとうように光ヶ丘を蔽っている。


千葉修さんの過去記事


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邑久光明園  伯々上霞人さん



人々は囲碁に将棋に秋の夜を更しいませど盲ひ我れ寝む




人の死を告げて廻れば院の夜はただ
蟋蟀こおろぎの声すみてゐき




麻痺しるき手のもとなさよ飯運ぶ箸よく落す冬となりたり




吾が生れし家の貧しさ思う時足らはざるなき院の明け暮れ




いとはるる身を憚らず胸張りて小島の磯の砂原を行く




吐詩朗は欠詠がちとなりにけり病に負けて居るにかあらむ




大楓子の丸薬はまたやはらかく戻りてくさきこの残暑かな




車中にて注射を受けしかの時の塩沼医師はやさしかりけり




病みてきく雨の親しき日なりけり梅の蕾のふくらみしとか




秋も早やふかみたるらし麻痺しるき手の硬ばりを感じそめたり




正子忌に小島の春はたけにつつ咲き呆けたる磯のたんぽぽ


伯々上霞人(葭人)さんの略歴
明治24年4月14日大阪府生まれ。光明園入園。昭和35年4月2日没。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)『陸の中の島』(1956年)


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邑久光明園  藤本トシさん



外島保養院時代(一部抜粋)



4ページ(1ページは525字)です


 そういうとなんですけど、園長さんの方針で、園の暮らしはずいぶんかわるものなんですよ。あたしは、大水で外島がなくなってしまってからは、東京の全生園にあずけられたんですけど、まあ何とちがうことかとびっくりしました。それに外島では、家から送金のない人には一円三十銭下さったんですけど、よそでは五十銭だか六十銭くらいでしたからねえ。
 よそに行ってはじめて、村田院長先生の偉さがわかりました。
 たくさんの著作がありましてね、その印税とかってものがくるんですよ。それもみんな患者のためにお使いになってでした。
 夜学もありましてね。あたしは小学校の高等科を出ただけですから、あそこで三年間教えていただいたのが、どれほどのはげみになっているかわかりません。だいたい、あたし、学校が好きなんです。雨が降ろうがどうであろうが、とにかく夜学がある日は一回も欠かさず行きました。精勤賞をもらいましたよ。
 生徒数は、はじめは六十人くらいいたんですが、だんだん減っていって・・・だけどあたしは閉校になるまでがんばって・・・科目は、ひと通りなんでもありました。哲学とか考古学も。哲学の時間は、いねむりする人が多かったようです。
 ほんとにねえ、大水とあの事件さえなければ、村田先生も・・・いえ、赤化追放事件っていわれてるのがありましょ、昭和八年の。あれで結局村田先生はやめることになるんですものねえ、ほんとに。


赤化追放事件

 今から思えば何でもないことですけどねえ。アカでもなんでもないのに・・・。最初はただ、いく人かのお方が、宗教を捨ててしまったというだけなんですよ。ひとつの礼拝堂に、キリスト教とか日蓮宗とかの六つの宗教が祀ってありましてね、患者はみんないずれかに属してたんです。それをあの人たちは、それまで入っていた宗教から自分を抜いてしまわれて、それが、宗教理事会との問題になって・・・たしかそうでしたね。
(橋本)「指導者というか、そんな人がいてな、京大かどこかで社会主義の運動をしていた人で、長島に入ったんや、長島愛生園に。それがわかって追放されて外島に来たわけや。その人を外島に入れるか入れないかという問題が起こったけれども、村田院長は腹の太い人やし、入れたんや。反対もずいぶんあったらしいけど。赤化運動はしないという一札を入れてな。
 それで、しばらくはおとなしゅうしとったけれども、そのうちにいろいろなグループ活動を始めたわけや、ライ問題研究会やとか。そのまわりに、いろんな若い人があつまったんやな。中心になっていたのはその人と、あと四、五人やったと思うけど、結局、全部では十七人が追放されたわけなんや。秩序が保てんということで。
 追放てなことになる前に、そのいちばんの中心人物は亡くなるんやけど、ふつうならお葬式には患者もみんな出るんやけど、その時は、その人の支持者と導師だけで、他の人は出なんだんや。そんなこともあって、特に宗教理事会の方では、これは何とかせないかんと言うようなことになって、とうとう出てもらうことになったんやな。
 しかし、また一方では、時代ということもあったんやないかなあ。社会でも、昭和八年というと、いろんな、そういうことがおこっていた頃やからな。
 ともかくそんなわけで、出てもらうことになったんやが、それが、伝染病患者を出したということで、大阪で問題になって、結局そのいざこざで、村田院長が責任とらされて、やめなあかん結果になってしもうたんやね」

 村田先生はあんなお人でしたから、たいていのことは呑み込める人なんですけど、あの時は、患者とか宗教理事会の方がやかましかったんでね。しかたなかったんだろうと思います。
 たしかに、あの人とは、一時あたしたちと、気持ちの上ですこうし離れていたという感じはありましたけれでも、何か悪いことをしたわけじゃなしねえ、何も追放というようなことをしないでもと思いましたよ。
 あたしが、友だちと二人で身延から外島に来たって言いましたでしょ。その友だちも、それで出たんです。女の人はその人一人でしたけど。いまは草津の療養所で元気にしているそうですけど。だけど、あの壮健さんみたいだった人が、いまはもう盲人で、杖をついておられるそうです・・・・。
 そのことがあったあくる年が、大水です。あれでなにもかもおしまい。外島の全部がなくなったんですからねえ。あたし、書いたものにもございましょう。ほんとに恐ろしかったですよ。たくさん亡くなりましたものねえ(六百十名中百八十七名死亡)。
 遠いところへというんで、みなさん土手の上へ出て、大阪の方へ逃げなさったんだそうですけど、足がよくて遠くまで行った人ほど亡くなったんです。大丈夫だと思った土手が切れたりして・・・まわりは田んぼでしたが、そっちの方へみんな流されてしまって・・・。
 足も悪いし、もう半分諦めて、職員部屋のところにかたまっていた人とか、正門の方に逃げた人とかが、そこだけちょっと高くなってましたもんで、かえって助かったようなことで・・・子どもさんも亡くなりました。ほんとにねえ、健康な人ほど亡くなって、不自由なものほど、動けずにいたものほど助かるなんて・・・。

(注)外島保養院は明治42年4月1日、第三区連合府県立・外島保養院として設立された。12府県の連合で、敷地は大阪府西成群川北村(現・神崎川河口付近)に2万坪で、定員300名だった。初代院長は今田虎次郎。4月20日に収容を開始した。

藤本トシさんの過去記事



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大島青松園  政石 蒙さん



駱駝の怒り

2ページです。


 駱駝は従順な動物とみなされている。怒った駱駝を見ることは殆どない。
 人間三人を背に乗せてのんびり歩いている駱駝。荷車を曳き、あるいは丸太を背いっぱいに積まれてのっそりのっそり野を行く駱駝。人間が指示するままに膝を折り敷き、背に荷物を積み終るまでじっと待っている駱駝。まさに従順の権化のようである。叩かれて悲鳴をあげても容易に怒りはしないのだ。
 駱駝は従順な動物とみさなれている。その駱駝が怒ったのだ。私は見たのだ。
 大きな水汲用の箱車を曳かされて坂の途中で行き悩み、横暴な人間共に小突かれ叩かれた駱駝は、一瞬、前足をあげてあがくと見る間に、満身力にして走りはじめた。貯水槽は台車からころげ落ち、台車だけ曳いた駱駝は雪煙をあげながらめったやたらに馳けてくる。愕き慌てた俘虜二人は大声で喚きながら後を追うが、駱駝に及ぶはずがない。病院を取り巻く鉄条柵の一角に、まなこくらんだ駱駝はぶつかって杭をへし折りようやく停止したのだった。駱駝の怒りの凄まじさに私は息をのんだ。
 駱駝は従順な動物だ。駱駝の従順さに馴れ、駱駝にも怒りのあることをうち忘れた人間共の浅はかさが、涙の出るほどおかしかった。



駱駝と蒙古娘

  真紅なる衣を着し乙女乗りたればいよよ駱駝の色は
  褪せたり

 そんな光景を見た。燃えたつような真紅の服を着た蒙古娘が駱駝のこぶの間で揺られていた。むれるように暖かい春の野面は緑に萌え生気に満ちみちている。茶褐色の肌もつ駱駝はひどくくすんでみすぼらしい。蒙古娘は蒙古の春の歌を口ずさむ。風が光りながら流れる。駱駝は黙々と野草を踏んで歩む。何処まで行っても緑の野は尽きない。娘は王女のように春を楽しんでいる。そんなときの駱駝は、蒙古娘をひきたてるための存在のようでかなしい。
 駱駝の容姿は醜い。首のうねりもいびつなら、背のこぶは苦悩を湛えているように見える。茶褐色の目立たない毛色。どうひいき目に見ても美しい動物ではない。その醜さに私はひきつけられ親近感を覚えるようだ。
 人々から穢れたいまわしい存在として嫌われうとまれて生きている私の心が、醜い駱駝を愛するのであろうか。醜い人間は自分と同じように醜いものを愛したり、逆に虐げたがるようだ。私はその前者にあたるのであろうか。

(つづく)

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春先の巣箱内検


日本蜜蜂は日本に古来から住みついている、2キロ四方を行動範囲にした地域密着型の和蜂である。一般にマスコミ等で蜜蜂と言うのは、養蜂業者が飼育している移動飼育の「西洋蜜蜂」を言い、市場に出回っているのは大半が西洋蜜蜂の蜂蜜であり、多くは輸入品であろう。

日本蜜蜂は半分は野生で半分は家畜である。巣箱の状況が悪化すれば、あっさり逃げ出す。この点が家畜化しているニワトリやヤギと違う点であり、「半分野生」がわくわく感の源である。

冬の間、内検は控えていた(冬季はしない方がいいらしい)が、すでに2月も末なので、春の活動開始に備えて一度巣箱の底を掃除する必要があった。

2郡とも1センチ以上の巣屑が積もっていた。蓄えた蜂蜜を食べながら越冬するので巣屑が落ちる。

蜜源の少ない冬の間は凶暴になっているので、防御ネットをきちんとかぶり、ゴム手袋をはめ、ひっかき棒で巣屑をかき出す。


採蜜しなかった一群は、最下段の開閉扉を開けると威嚇音(一斉に羽を震わせて、シャーという音を出す)が聞こえたが、秋(9月20日)に採蜜した一群の方は威嚇音はしなかったが、攻撃して来る蜂はこちらの方が多かった。

怖くなり、手鏡と懐中電灯で内部を確認する余裕は持てなかった。

採蜜しなかった方は越冬確実で、4月10日頃には第一分蜂があるだろう。

採蜜した方は、まだ予断を許さない。蓄えた蜜が切れて餓死するのは3月上旬が最も多いらしいから。「給餌(砂糖水をトレーに入れて巣箱の底に置く)」は得意でないのであまりしたくない。

2週間後の3月12~15日頃にまた内検するので、この時には、怖くても巣箱内の状況をきちんと把握し、苦手でも「給餌」が必要になるかも知れない。


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炊き込みご飯



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3合の白米を洗って無水鍋に入れ、出し汁2カップ、酒50cc、醤油50cc、残りの水1カップ半(全部で水分量を4カップにする)を入れて混ぜる。

ニンジン、サトイモ、キクイモ、シイタケを小さ目に乱切りして無水鍋に入れ(具材は混ぜない)、強火で7分ほどで煮立ったら、極弱火にして40分、火を消して余熱30分で蓋を開け、さっくり混ぜて(底が少し焦げているぐらいの水加減が最も良いが、火加減や、煮る時間によっても変わる)出来上がり。

きのこの炊き込みご飯」を参考にしている。


 
ダイコンとシイタケの蒸し煮


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熱した無水鍋に大さじ1のオリーブ油を入れ、1センチ半ほどに輪切りしたダイコンを置き、スライスしたシイタケを置き、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、裏返して大さじ2のポン酢をまわしかけ、強火で1分からめて出来上がり。



ネギ卵


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ボールに卵3個を溶き、ネギは小口切りする。熱したフライパンに小さじ1の油を入れ、卵を流し入れ、ネギを入れ、表面が乾いたら巻いて裏返し、1~2分して火を消し、2~3分余熱で焼いて出来上がり。


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菊池恵楓園  水原 隆さん



故郷のなまりあらはに妹の仮名書き文はしたしきろかも




はらからの写真焼きつつしかすがに眼の見えし日を羨しみにけり




隣人の死したる騒ぎ病む友に聞かせじと吾が部屋の戸をさす




喉を病む身はかなしけれ子らがする花火にむせて咳き入りにけり




仕送りのありにし頃は人並に社友となりて歌を学びき




下駄の緒に鈴つけたれば友等皆猫のあだ名を我れにつけたり




心して杖ふりにけり朝顔の蔓伸びしてふ庭の垣根に




手を触れて通ふ廊下の窓硝子のしみて冷たき冬となりにし




眼をぬきて痛みは去りぬ物忘れせし心地にて今朝は寝て居り




病み籠る身には親しも小夜更けて餅引くらしき鼠の音も




母そはに一度会ひて死にたしと願ひしことも遂にむなしき




現身の胸に注射をさされつつ病篤きを今朝知りにけり




弟の送りし銭の大方は食ふことのみに使ひはたしつ


水原 隆さんの略歴
宮崎県の人。元税関吏。大正11年8月九州療養所入所。「水甕」から「アララギ」に移り土屋文明に師事。カトリック教徒。昭和9年9月18日没。享年36。『檜の影』第二集(昭和4年)『檜の陰の聖父』(昭和10年)『九州療養所アララギ故人歌集』(昭和15年)『菴羅樹』(昭和26年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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大島青松園  政石 蒙さん



駱駝

2ページです。


 先日、機会に恵まれて栗林公園にある動物園を観ることができた。島の療養所で生活するようになってからの六年間、犬と猫、そして最近檻に飼われるようになった猿、患者の食糧用に飼われている豚、家の内外で見かけるネズミや小鳥のほかに動物を見ていなかった私は、すべての動物に興味を持ったが、中でも駱駝を見ることのできたのは非常なよろこびだった。
 駱駝は猿のように愛嬌をふりまくこともなく、縞馬のように美しくもなく、奇妙な背のこぶが人々の興味の対象となるくらいで、柵の前に人影はまばらだった。近々と柵際に立つと、駱駝はくりっと私を見てから首をのばしてきた。私は旧知に会ったような親しさを感じながら鼻面を撫でた。もう今では私の手や指の感覚は麻痺してしまい触感は皆無に近い状態なのだが、杳い日に駱駝に触れた肌の感触がよみがえり、一層親しみを覚えるのだった。
 あの駱駝たちは、このように一つこぶではなく、厄介げなこぶを二つまでも背負ったアジヤの駱駝だった。外モンゴルの曠野の中に逞しく生きていた駱駝たち。従順で忍耐強く、働き者でひょうきんで、そしてグロテスクな姿態に似合わず清澄な声で鳴く駱駝たち。
 私はしばらく駱駝の鼻面に手を触れたままでいた。



雪原の駱駝

 「駱駝だ!」誰かが叫んだ。雪に閉ざされた山の斜面に五、六頭の駱駝が打連れ、長い首を垂らし雪のおもてに鼻面を押しあてていた。近づく自動車のエンジンの音をききとめた駱駝たちは一斉に頭をもたげた。
 「駱駝だ、駱駝だ」
 わけのわからない感動だった。孫悟空が現実に現れたような奇妙な服装をした蒙古人を見、お伽の国に連れ込まれた気持から抜けきれないでいた私だった。ふーっとため息をつくほど異境を感じた。
 外蒙古はアジヤの秘境だ。かつて彼の地に足を踏み入れて生きて還り得たものはいない、などと聞いている外蒙古に俘虜として労役に従うため、ソビエト領を過ぎソ蒙国境を越えて間もない地点だった。
 雪の上に駱駝がいようなどと想像もしなかった無智な私にはおどろきだった。熱砂の畳々と起伏する砂漠をキャラバンと共に旅をする駱駝の甘いイメージしか持合わせていなかった私は、零下二十度の厳冬の野面に佇んでいる駱駝の姿に、感動すると共に薄気味わるくなっていた。

(つづく)


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邑久光明園  藤本トシさん



外島保養院時代


昭和4年5月、深敬園からの友だちと2人で、大阪駅から人力車に乗って公立外島保養院へ行き、入院を頼む。昭和9年9月21日の第一室戸台風で、同保養院が壊滅する時まで、同院で暮らす。

5ページ(1ページは525字)です。


 外島保養院に行った時分は、いまほど重症じゃありませんで、手の指も曲がってはいましたけど、まだ損じてはいませんでしたし、目も両方ともよかったし・・・麻痺はだいぶんありましたけど。ですから、ここでも、あたしたちみたいな重症者が入っているところを不自由舎、それほどでもない軽症の方たちのところを健康舎って言ってますでしょ、あたしはその健康舎に入ったんです。
 当時の治療はやはり、大風子油とカルシュームの注射だけでした。大風子も最初のうちは良く効くんです。だけど、そのうちにだんだん効かなくなってしまって・・・どういうんでしょう、慣れてしまうのでしょうか。
 注射の量は、大風子は三グラムくらいでしたか。五グラム打つ人もいたようですけど、よっぽど体力がないとね、打てません。それというのも、打ったあとが散りにくいんです。グリグリになって熱をもって、よく化膿するんです。よくもめ、よくもめって言われて、一所懸命でもむんですけどね。化膿してなおらなければ、切らなきゃいけないんですから。いまだに、小さな塊がたくさん残っています。
 注射しかない時代に、その注射が散らずに化膿して、切開手術を受けなきゃいけないなんて、皮肉なことですけどねえ。

 外島へ来まして、はじめは言葉に困りましてねえ。関西の言葉がわからないんですよ。(中略)
 その言葉ですが、新患といったら、昔はおさんどんというか下女みたいなもんで、さっぱり幅がきかないんです。古くからいるお方はもう取締役みたいなもので、新患にいろいろ指図するんです。そういう人が、あたしに、あんたっ、隣り行ってな、いかきかってきてっと言うんです。はいっと答えたものの、お金はくれないし、まごまごしましたよ。買ってくるのと借りてくるのがね、わからなかったもので、そんなことになって・・・それに、いかきもわからない。大きなザルのことでしたけど。七輪のことはかんてきと言いますしね。往生しました。最初はそんなふうで、いちいちおこられてばっかり。それにあたしが、言葉のおしまいに、ちゃったちゃったって言うものだから、ちゃったの姐さんってからかわれて・・・。
 そんなところは、やはり、宗教病院と公立の大きな病院の違いでしょうね。あたしはお金の融通がついたら、出ませんでしたよ。だけど、公立の大きな病院に行って、あたしはどれだけ鍛えられたかしれやしません。それまではどこにも他人よそさんの前に出たことがなしでしたからね。
 昔は、公立病院には水道がなかったんです。外島にはあることはあったんですけど、今のように、家の中までには引き込んでありませんでね、あたしどもの部屋から二十間くらいありましたが、そこまで水を汲みに行かなくちゃいけないのです。天秤棒で麻縄のついた水桶をかついで。ところがあたしは、それまで桶ってものをかついだことがないんです。だけど、みんなは慣れてるんですか、力があるんですか、まえうしろに桶をかつぐんです。あたしは力もないしで、ひとつの桶を二人でしかかつげない。すると、ちょうどいいことに、一人だけ足の悪い人がいましてね、片方だけ松葉杖をついてられる人で、その人があたしと組んで下さったんです。
 その人と組んでるときはとてもいいんですけど、その人といつもというわけにはいきませんでしょ。体の調子が悪い時などは、他の人と組まなくちゃいけない。そうすると、組んだ人は癪にさわるんですね、あたしがのろいから。前をかつげって言われてそうすると、うしろから、チョンチョンチョンチョン、こやって押すんです。もっと早く歩けというんでしょうね。すると、桶の水がチャブチャブして、背中から腰の方へかかるんです。それをずいぶんやられました。

 外島でも作業はありました。女は洗濯です。洗濯といっても、コンクリ板みたいなところに拡げて、石鹸をこすりつけて荒いハケで洗うんです。むこう鉢巻で、膝まであるかないかの短い襦袢を着て、縄なんかで胴をしばりましてね、そりゃ勇ましい格好ですよ。
 自分が洗濯する受け持ち区域というのが、それぞれありまして、そこから何枚って勘定してきてやるんですけど、荒仕事でねえ、あたしにはつらかった。
 なんにもできずに、あっち行って叱られこっち行って叱られでした。けど、ちょっといいこともあったんですよ。それは、みなさん、わりに手紙書きが不得手でしてね、それをあたしが買ってでまして、今日は誰のを書きましょかって・・・。
 この手紙書きというのは信用が大事でしてね。というのは、特に自分の家のことは誰にも教えないんです。病者同士も。それを書かせてくれるのは、そりゃありがたいことなんです。信用のない人には、自分の本当の住所を教えやしませんからね。この病気であることが知れたら家族が迷惑するというのが、みんな頭にありますから。
 あたしがいた部屋は八人いましたけれど、殆ど文盲の人で、あたしは、それでどれだけ助かったかしれません。あたしだって、立派な字なんかとても書けないんですけど、小学校の時分から作文が好きで、どっちかというとあたしの方が楽しんでるみたいに、一所懸命文案しました。書きあげますと、これでいいですかって読みあげるんですけど、あ、自分が思うとおりより、もっといいこと書いてくれたって喜ばれまして、新患でしたが、それであまりいじめられずにすんだと思います。


藤本トシさんの過去記事


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駿河療養所  北野 実さん



新聞の文字はっきりと見ゆるなり夢の間の吾れ盲にあらず




元気でね又来るからと帰り行く兄の足音坂に残れり




生れし家より我の本籍移し来て此の療園に生きてゆくべし




ひぐらしの声を録音せんと待つ療舎も山もまだ静かなり




長椅子に並び座らせ看護助手爪切りくるる陽の暖かく




納骨堂に一人し居れば
懸巣かけすが鳴きからす真近く鳴きて離れず




唇に感覚のあり触れてみる盲人用時計を注文したり




萎えし手を補い絶えず使う歯よいたく短くなりしと思う



北野 実さんの略歴
大正8年生まれ。昭和22年駿河療養所入所。「東京アララギ」所属。『苔龍胆』第一集(昭和28年)『苔龍胆』第五集(昭和48年)『苔龍胆』第六集(昭和55年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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ジャガイモとニンジンの蒸し煮



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熱した無水鍋に大さじ1のオリーブ油を入れ、小さ目に乱切りしたジャガイモ(春作)とニンジンを入れ、風味付けに月桂樹とローズマリーを入れ、ユズ果汁1個分を入れ、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、冷凍バジルをふり、混ぜると出来上がり。皿にとり粉チーズをふった。

  

ナバナのパスタ

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熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン3枚の細切り、タマネギのスライスの順に炒め、最後に茹でて水気をしぼったナバナを入れ、ケチャップとソースで味付けし、パスタが茹で上がるのを待つ。

よく湯切りしたパスタを入れ、1分ほど炒めて具材になじむと出来上がり。残りのナバナはポン酢で食べる。
 


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邑久光明園  崔 南龍さん



『猫を喰った話』にもこの随筆が載っていたが、特に力作と思う。題名の黴(カビ)の理由が最後の方でわかります。7ページ(1ページは525字)です。


 「この糞たれ奴、お前さえいなければ、おれは何時でも死んでやるんだが・・・」
 父がこんな事を口にするようになったのは、私が十二になった春、ある病院でよくない病気だと診断されてからである。
 母を知らず大きくなった私は、父が暗い顔で、この糞たれ奴と言われる度に淋しい思いでたまらなかった。そして、よくない病気とは何んだろう? どうして人がそんなに嫌い、父が死んでやると口にする程悩むのだろうか、私は子供の頭で考えてみたが、どうしても解らなかった。
 ある日、奈良に住んでいる叔母がやって来て、気晴らしに奈良見物でもしたらどうだろうと、父だけを誘って出掛けて行った。勿論私は行けず、父が頼んで行った隣りのおばさんにに身のまわりの世話をしてもらう事になり十畳と六畳の家に、しばらく一人で住まなくてはならなかった。
 父が奈良へ行って、二、三日経ったある日、私が何時ものように学校から帰って来ると、家に見なれぬ女の人が来ていて私を待っていた。そして、その女の人は、意外にも叔母からの使いで、私の父の死を口早に告げ、早速奈良へ一緒に行かなくてはと、私の手を引いた。
 (うそだ、うそだ、お父さんが死んだりするものか!)
 その時、私は足が地からはなれるような驚きを感じた。
 私は使いの人に連れられて神戸から奈良へと電車で走った。ところが、どうした事か叔母の家に着いた時には、死んだという父の姿も見えず、放心したような叔母と、その叔母を慰めている幾人かの隣人らしい人達がいただけだった。私はただ事でない空気を感じ、自分の小さな身の置き所に迷った。
 叔母はそんな私を見つけると、
 「南龍や、しっかりしておくれよ。一体、うちとお前はどうしたらいいんだと言うのよ。南龍の親たちはお前一人に全部の苦労を残して行きたい所へ行ってしまいはった。本当にしっかりしておくれなはれや南龍や!」
 父の死の罪が私にでもあるかのように、深い息をしながら言った。
 (この糞たれ奴、お前さえいなければ、おれは何時でも死んでやるんだが・・・)
 どうして、その父が死んだというのだろう? そして、私と父の死とにどんな関係があると言うのだろう? 私の頭は不可解の上にさらに不可解が重なり真っ暗になった。それでも子供心に取り残された淋しさを憶え、所はばからず泣き出してしまった。
 それから二日経って、棺のない父の葬儀があった。私は変な気持ちで、白いかたびらを着せられ、藁草履をはかされ、手に持った線香の煙にむせびながら、葬列について町外れの火葬場まで行った。そして、そこで私は荒なわでしばられた、まだたがの青い真新しい樽棺を見た。叔母はこの中にお前の父がいると言ってなわ目をといてくれたが、私は覗きもしなかった。私には父が死んだとはどうしても信じられなかったからである。
 不可解の内に父の葬儀がすみ、不可解の内に日が経って秋になった。私はたった一人の親族であるこの叔母の家に置いてもらう事になり、学校へも行かず、近所の子供とも遊ばず、ただ家の中にじっとしていやな日を送っていた。その間にも、どうした事か警察の者、役所の衛生課の者だと言う人たちがやってきて、
 「この子供かね、崔の子供で病気だと言うのは」
 と誰も皆同じような事を言いながら帰って行くのであった。
 ある日の夕方、一人者の叔母は、工場からの帰りに珍しく柿をたくさん買って来てくれた。そして、柿の皮をむきながら力のない声で私に言った。
 「南龍や、病院へ行く気はないかいな、叔母さんがこんな事を言うと薄情に聞こえるかも知れんが、そうした方が互いにええと思うけんど・・・。南龍も知っているやろ、毎日のように見える役所の人たち、あの人たちは、お前の事や死んだお父さんの事で来てはるんや。そらお前、大人でも行きたくない病院だもの、南龍が行くと言う筈がないやろなあ・・。それでもなあ、南龍、一日でも早く病院へ行けばそれだけ早く病気がなおると、役所の衛生課の人も言っていたし、叔母さんもそう思うんやけど・・・」
 私は喰べかけた柿を手に持ったまま、じいっと叔母を見つめた。すっかりやせこけた顔や茶色っぽく乾いた髪の毛が、まだ三十五だという叔母を、もうおばあさんに思わせた。私は、ふと叔母が可哀相になった。しかし、私にはまだ父がどうして死んだのか解らず、又死んだとは信じられず、ただ父さえおれば今までのように、たった二人でも楽しく暮していけると思えて仕方がなかった。
 「いやだ!」
 私は父が今でも、どこかから帰って来てくれそうな気がしてこう言った。
 「叔母さんだっていやよ、いやがる南龍に、無理に行きなはれなんか。しかしお前も何時までも子供だと思っていたら大変よ、もうお父さんはいてはれへんのやで」
 叔母は力なく肩を落し、さも情けなさそうにつぶやきながら、皮をむき終った柿を盆の上に置いた。置かれた柿はダルマのように、赤い体をころんころん動かしていたが、しばらくするとそれも静かになって、ぽっと、思い出したようについた電灯の光にみずみずしく光っていた。
 そんな事があってから、叔母はあまり私の病気の事や父の事を口にしなくなり、毎日町の工場へ通うのに日を送っていた。私は家の中にいて、漫画本や冒険本にもあき、働いている叔母を少しでも手伝おうと思って、家の中や土間などを掃除するようになった。叔母はそんな事をしなくてもいいと言いながらも喜んでくれた。私もうれしかった。
 その日も私は何時ものように土間を掃いていて、隅に下駄箱があるのに気付いた。私はそこを掃除しようと思い、中にある物を全部外へほうり出した。はきものは大部分叔母の下駄や草履であったが、一番下の箱の奥から一足の靴が出て来た。
 「あっ、お父さんの靴だ!」
 私は思わずそう叫んで靴を両手に持ってみた。やっぱり父がはいていた靴だった。左の方が外側ばかりいたんでいるのだから、たしかに父の靴だった。父の左の足が少しびっこだったので、靴にこんな癖がついているのだった。私が毎日、会社へ行く父のためにみがいた靴だから、私はそれを一番よく知っていた。しかし、この靴をはいていた父はどこへ行ったんだろう。私は日当りに靴を揃えて考えてみた。
 「本当にお父さんは死んだんだろうか、『この糞たれ奴、お前さえいなければ、おれは何時でも死んでやるんだが・・・』そう言っていた父がどうして死んだろう?
うそだ! うそだ! お父さんはどこかへ用事で行っていて今に帰って来る。しかし、そうしたら、この靴は一体誰れのものなのだ。お父さんのものだ。そうするとやっぱりお父さんは・・・」
 私はもう一度靴に手をふれてみた。靴の底には父の足跡があって、そこには灰色の黴が一面に生えていた。長い間はかないせいなんだろう。私はふと悲しくなった。そして、父がもう二度とこの靴を履くことがないのを私は、その時はっきり意識した。もう父は死んだんだ。私は靴の底に生えている灰色の黴を見つめながら、一人取り残された淋しさをひしひしと身に感じた。
 私はその日の夕方、工場から帰ってきた叔母に言った。
 「叔母さん、僕、病院に行く」
 私は父がいないのなら、どこへ行ってもかまわないと思った。父のいない所に、私もいたくなかったからだった。
 「どうして急に南龍はそんな事を言いだすの?」
 叔母は驚いた表情で私の顔を見た。
 それから二、三日経って、雨雲が重くたれて、あの父の靴底の黴を思わせる灰色をした夕暮れに、私は病院へ行くため、町の踏切りで叔母と手を振って別れた。


崔 南龍(本名)さんの略歴
1931年2月22日、神戸に生まれる。韓国籍。1941年発病。父が自殺し、再婚の母は協議離婚。入所まで親戚の家を転々とする。1941年7月15日、奈良県大和高田から邑久光明園に収容される。入所時は小学3年だった。生活記録集『孤島』(編・共著 初版第一集1961、第二集1962 私家版)、作品集『猫を喰った話』(2002 解放出版社)。


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多摩全生園  田島康子さん



療院に果てる命をうとみ居る吾の感傷もいつまでつづくか




病みてより結ばれし父母に生れし吾いま療園に人を恋ひをり




たべものにかかはりて一日くれし夜あじけなく机のほこりをぬぐふ




明日の自活あるを信じて洋裁など習ひき吾の卑小の歴史




わが病すでに知る友この街の洋裁店に在りあゆみをかへす




病める吾をあはれみて母が送り来し手巻煙草など売りし三百円




堕ちて来しせまきこの園にああかくもボスありブルあり常に抗争す




療友幾人死にゆきし監房たづね来てマッチすり壁の落書を読む




結核対策費失業対策費などわずかにして再軍備するという祖国を憎む




救ライにつくせしという人らラヂオに語りいて吾ら嘲笑のうちにくるるライ予防デー




退園の日のために金をためるあり目的あらば貧にも耐えん




療園に埋もれし過去ながければむごき言葉にも涙みせざり




病院街の終点に降りてらい園へ曲る道より孤りとなれり




ライ研究所と患者地帯をくぎる溝埋めて咲けり荒地野菊は




除草奉仕に来てのぞき見ぬガラスびんの底に横ざまの小児の背中



田島康子(村井康子)さんの略歴
多摩全生園。社会復帰。『木がくれの実』(昭和28年)『陸の中の島』(1956年)『輪唱』(昭和34年)


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神山復生病院  高原 出さん



たった二つ古榾木に椎茸産ましめ今年の秋は小走りに逝った




扇風機を背に恋をしている女の便り読んでもらっている晩夏




風呂に行く玄関に寒の月上ったばかり「ああ会いたいのきやああれん達に」




芝を刈る背に声をかけ咳ばらい一つ落して足音がゆく




受話器から「おとうさんの墓はきっと建ててあげますから」だってさやれやれ




チチロ鳴く場所は昨日に変らねど吾が草を刈るは少し移れり




帰天の女の黒ミサの最中すすり泣く人ら何がそんなに悲しいの




何かこう楽しきものを溢れさせ購入パーマ機めぐり女患ら働く




五年間見えざりし左眼やや明るめば見える眼閉じて病廊を歩む




一里近き癩院持山に来て草刈ると放たるる思ひ鎌を研ぎつつ




盲導鈴頭上に暫く鳴り休むとき遙か下谷に郭公きこゆ




逝きし桂司がその前年くれたりき山椒せいせいと生きていにけり


高原 出さんの略歴
『陸の中の島』(1956年)『未明の鳥』(昭和33年)以後、「苔龍胆』に参加。『苔龍胆』第五集(昭和48年)『苔龍胆』第六集(昭和55年)


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ハクサイの蒸し煮

 

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熱した無水鍋(ガスコンロの安全装置が働いて、強火が弱火に変るまで2分ほど熱する)に、ざく切りしたハクサイを入れ、スライスしたシイタケを入れ、ベーコン1連を半分に切って入れ、レモン果汁大さじ1をふりかけ、胡椒で味付けし、極弱火で25分、余熱5分で蓋を開け、さっくり混ぜて出来上がり。ポン酢で食べる。

冬野菜が終りに近づき、3月、4月は、春野菜ができる5月頃まで端境期になり、野菜の種類が少なくなるので、今頃から4月中旬頃まで生えるシイタケはとても重宝する。


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駿河療養所  鈴木一歩さん



誕生日の小豆ことこと煮えており今日吾があるもプロミンのため




晴るる日は見えぬ眼にあかるみのほのかにありて心なごむも




探りゆく我を追い来て名も告げず柔き手が手をひきくるる




乾布摩擦して十三年かにかくに七十六歳の命今日あり




採算合わぬ蜜柑にくらす妻子らを思えば療養の吾が胸いたむ




病みながら蜜柑栽培の指図する一つのつとめの如き思いに




看護婦に抱かれ新病棟に移りゆくこのみじめさも足病めばこそ




感情をおさえて過ぎし日多かりき雑居生活の二十三年




釦かからぬ手萎えの盲いはじらわず女のズボン買いてもらいぬ




箸茶碗持ちて食う手になれかしと指の屈伸今日もしており


鈴木一歩さんの過去記事



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栗生楽泉園  板倉峰次さん




いばら

義務奉仕作業や特別監房のことがわかりやすく書かれています。7ページ(ハンセン病文学全集の1ページは21行×25字=525字)です。


 私が発病したのは昭和二十年の正月早々でした。一寸したいたずらが過ぎて、右手を大きくやけどしてしまい、それが中々なおらず、あげくに顔一面にハンモンが出て非常に困りました。ちょうどその頃は戦争の真最中で、毎日のように空襲がありました。私の家は東京の亀戸にあり、私は千住のある工業学校に通っていたのですが、勉強や勤労動員の作業は、ほとんどする暇がありませんでした。そして遂に三月九日夜の大空襲で、私の家も焼かれ、その夜、私達家族はちりぢりばらばらになってしまい、やっと千葉の親戚の家にたどりついたのですが、その翌日私は千葉の大学病院で、らい病だといわれたのでした。その時十七歳になる私は、らい病がどういう病気かということも全然知らず、ピンときませんでしたが、しかし重大な病気だということはおぼろげに感じていました。私は病院で書いてもらった住所をたよりに、武蔵野にある全生園を訪ねました。ところがここではごく簡単に「ここは空襲が危ないので、草津へ疎開しようという話もあるのだから、草津の方へ行け」と断わられ、仕方なく草津の住所を書いてもらい、すごすご帰りました。その後、母から、「いっそ空襲で死んでくれたらよかった。とてもこの病気はなおらない。世間の人に嫌われて生きてゆけないのだから、死んだ方がよい。お母さんといっしょに死のう」といわれ、むしょうに悲しくなり、「自分が生きているのがそれほど迷惑になるのなら、死んでしまおう」と一度は真剣に死ぬことを考えたが、どうして病気になっただけで死ななければならないか納得がゆかないので、草津にも病院があるのならそこへ行こう、と決心し、それから間もなく焼野原の東京にわかれをつげて、草津の楽泉園に入りました。
 その頃の療養所は全くひどいもので、食事といえば米粒などひと粒もないような麦飯や大根や甘藷の種藷のまじった飯で、おかずは塩汁のようなものが出る位でした。家からの道中絶食同様で来た私も、さすが食欲が進まず、二口三口たべたきりで箸をおいてしまいました。入園の翌日、始めて診察と治療にゆきましたが、顔のものすごくはれた人や、足のない人、眼の見えない人が大勢おり、一種独特な悪臭がプーンと鼻をついて、唯もう恐しくなり急いで部屋に帰ったものでした。幸いいっしょの部屋の人は、東京にいたことがあるとかで、いろいろ東京の話を知っており、その点、頼りになり、二、三日経つとどうやら御飯もたべられるようになり、また医局へ行ってもそれほどこわくなくなりました。
 一ヶ月ほど過ぎて園の生活になれた頃、義務看護というのが来ました。これは一ヶ月間重症病棟や不自由舎に通い、目の見えない人や手の不自由な人たちの食事の世話などをするのですが、始めは気味の悪かった部屋の人たちも、だんだん話して馴れてくると、みんな良い人で、それぞれ私と同じような、或はもっとひどい目にあって、入園して来たことがわかりました。
 「お召列車」で豚箱のような貨物で送られて来た人や、手錠をはめられ刑事につきそわれてここへ来た人たちの話を聞くと、自分のことのように腹がたちました。そしてまた、一ヶ月はすぎましたが、その頃は朝夕まわりの山に吹く風の音が電車の音に聞え、時々戸を開けて外を見たものでした。私は暇さえあれば本を読んだり、廊下に立って浅間山を眺め、家のことばかり考えていました。その頃は本だけが楽しみで、毎日のように図書室に通い、本を借りて来て読みふけりました。
 暖かくなると、部屋の人につれられ山へ薪を取りに行きました。自分でたく薪は全部自分が取るとのことで、木炭は配給になりましたが、それも一里も二里もあるような山の中から、丈夫なものが木炭を背負って来て、みんなに配給するというやり方でした。それで木炭を背負いに行かない人は、分館に呼ばれて怒られたり、また長靴の配給がされなかったり、作業のやれない人は衣料品(作業服だけだが)も貰えなかったりしました。私も割当でよく木炭背負いに行きましたが、雨の降っている時に、びっしょり濡れた木炭を新しい俵につめなおし、一里以上の山道を登って来るのは、都会で育った私には泣き出したくなる位、辛いことでした。丈夫な人は大部分がいろいろな作業をやっておりましたが、私もその頃新聞配達の作業につきました。これは家にいた頃二ヶ月位やったことがあるので楽でした。
 しかしその頃、木炭背負いの時、長靴の中へ小石が入り、マサツをおこして出来たうら傷が悪くなり、とうとう重症病棟に入りました。その頃の病棟は「死ぬ人が入るところだ」といわれていたくらいですべての面が悪く、お金のある人はどんどんうまいものを買って喰べるが、家から仕送りもなく、お金のない人は、やせる一方で、病棟から出るころはほとんどがユーレイみたいにほっそりとしてしまいました。
 ここで私は終戦を迎えました。その日、昼頃天皇陛下の放送があるというので、病棟で一つしかないある人のラジオの前へ、大勢が集まって放送をききました。私はよくわからず、「戦争は終ったんだなあ」と思っていると「日本は負けたんだ」「そうだ、戦争は終ったんだ」という声があちこちから聞え、騒がしくなり、泣き出す人や、怒鳴り出す人もおりました。私は何かしら目がしらがジーンと熱くなって来たので、あわてて自分のベッドへ帰り布団をかぶってしまいました。「やっと苦しい戦争は終ったが、日本はこれからどうなるのだろう。家の人たちは大丈夫だろうか」とむやみに心配になりました。
 こうして戦争は終り、新聞やラジオは毎日のように民主主義をとなえていましたが、私たちの生活は戦争中のそのままで一寸も良くなりませんでした。分館長の加島は絶対の権限を持っており、名ばかりの患者代表は加島の御用機関で、一般の患者は手紙の切手をはる米粒もないほど困っているというのに、自分たちは甘藷や砂糖などの特別贈与を受けていたり、患者が患者を密告したりリンチしたりして、職員のいうことを聞かない者はすぐに「監房に入れるぞ」とおどかされ、すくみあがっていました。私は特別監房の飯運びを一寸の間やったのですが、内部は全くひどいもので、コンクリートに囲まれた板の間で、寒中、零下十八、九度の時でもセンベイ布団が二枚きりで、運ばれる飯も朝昼の二回で夕食は昼に運んだ冷たい量の少ない飯という始末でした。入っている人に話を聞くと誰も罪らしい罪を犯しておらず、ただ浮浪癖があるとか、前に逃走したことがあるとかですが、入れられたが最後、よほどのことない限り死ぬまで出してくれないのです。一人の若い人は社会で非常線にひっかかりらい病ということがわかり、ここへ入れられたとかで、何年も前から入っているそうで、頭が狂ってしまい、ときどき、自分の喰べた弁当の空箱に糞を入れて出したりしました。それで新らしい弁当箱を貰いに分館へゆくと「仕様のない奴だ、二、三日ほっておけ」というのです。三日目位にまた弁当を持ってゆくと「今日は良い天気ですね」などと、食事の抜かれたことも知らずケロッとしているのです。その人も、その横にはいっている人も死んだのですが、二、三人の関係者でお通夜をした時見た身体は、ほっそりとして髪や爪はのびほうだいで、目ばかりギョロッとしてまるでミイラのようでした。
 また相変らずの木炭背負いは老人、女、子供の差別なく、動ける者はわずか一円位の背負賃でほとんど強制的にやらされ、身体の具合の悪い人は自分で五円位のお金を出し、丈夫な人に運んで貰っておりました。
 その他ひっきりなしに、温泉工事、草刈り、草背負い、除雪作業、それから傾斜八十度もある地獄谷からの人間鉄索による薪上げなどの奉仕が続き、その報償として石炭や石の入った満州大豆が一合という有様でした。しかしその一合の大豆でも、食料不足のその当時は貴重品だったので、自分の体が悪くなるのを知っていても、手や足を傷だらけにして頑張って来ました。そんな状態なので死者も多く、毎日のように死ぬ人の火葬のため、火葬場の煙突の煙は絶える間もありませんでした。
 この外、とても常識で考えられないようなことを続けて来たのですが、遂に昭和二十二年の人権闘争で患者の不満が爆発してしまいました。


飯倉峰次(佐川修/本名・金相権)さんの略歴
1928年3月1日、朝鮮に生まれる。1945年3月10日の東京大空襲に被災、発病。同年3月26日栗生楽泉園入所。1958年身延深敬園、1964年4月多摩全生園に転所。同年より全患協本部に勤務。『全患協運動史』(共編 1977年 一光社)、『俱会一処━━患者が綴る全生園の七十年』(共編 1979年 一光社)の編纂に携わる。


戦争が終って、一見、すべてが変わったように捉えられていますが、状況が全く変わらずに残されたものがあり、その一つが隔離された療養所でした。形を変えて、或はより強固となって戦前と同じ状況が続いた事例は他にも多いと思います。結局、戦争が終っても、本当に変えなければならない日本社会の根底にあるものを改革することはできなかった。


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多摩全生園  瀬戸愛子さん



病む吾を秘めて娶りし兄にしていつよりか便り遠くなりたり




残る右眼の視力も遂に失せゆく日夫はヨブ記を読みてくれたり




聴覚と臭覚がまだ残れりとわが身励ます如く呟く




顔かたち病みくづれつつ残りたる黒髪よ香油惜しみなく使ふ




新しき点字書舌読に汚しゆく何かわろしとひそかに苦し




茂吉歌集舌読しつつ夜の床に眠れぬことのひそかにたのし




高熱に喘ぎ苦しむ闇のなか十字架のキリスト現はれては消ゆ




四十年帰るなかりしふるさとをテレビが映す盲ひしわれに




盲ひわが目に描きみる青ふかき紫ときく朝顔の花




近寄せてもらふ白き梅紅き梅くらべて嗅げば少し異なる




盲目の足萎えわれに風薫り庭辺の緑眼に浮ばしぬ




久久に外に出づれば盲導鈴冬の小鳥に声代りをり




医師に対へば何か救ひのある如くわれのまた来し眼科診療室




顔洗ひつつはずれし義眼洗面器の水の底にてまろぶ音する




水洗ひできる材質の点字書があればと願ふ舌読の日日




洗い来てわがベッド脇に置きくるる消毒薬匂ふポータブル便器




寝たきりに終らざりしを幸として病棟を退る車椅子にのりて


瀬戸愛子(杉田愛子)さんの略歴
大正元年12月生まれ。16歳の学生時代に発病。昭和12年12月多摩全生園に入園。昭和18年から視力が衰え、31年失明。昭和25年頃から数年間、杉田性で「国民文学」に所属し松村英一に師事。失明後作歌から遠ざかっていたが、点字を習得し録音テープによる「読書」が出来るようになり、作歌を再開。『木がくれの実』(昭和28年)『陸の中の島』(1956年)『開かれた門』(昭和53年)『青葉の森』(昭和60年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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芋天



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野菜のかき揚げは、ちょっとめんどうで、からっと揚げるのは難しいが、芋天なら、油切れも良く、まず失敗はしない。ただ、揚げるのに時間がかかる。

いつものようにサラダ油は1カップだけ入れ、180度に温度設定する。100gの天ぷら粉に袋の表示通りの水を入れて溶き、薄切りしたサツマイモを入れ、テンプラ鍋に4枚ずつ入れながら揚げる。


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衣がなくなるまで揚げたら、これだけの量になった。3日ほどかけて食べる。残った油はちょうど半カップで、これだけの芋天で100ccの油を吸ったことになる。

サツマイモは発泡スチロールに籾殻を入れ、その中にサツマイモを入れ、台所の冷蔵庫や水屋の上に置いておけば、当地では冬越しできる。





一昨日の残りをカレーにリメイク

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一昨日、根菜を無水鍋で蒸し、ユズ味噌で味付けした残りと、昨日の鯛アラの水炊き鍋→味噌汁の残りも加え、水も少し加え、カレールーを1個入れてカレーにした。



ゆで卵
   
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ナバナの酢醤油
   
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酢醤油には、酢、醤油、みりん、出し汁、レモン果汁を入れるが、考えてみれば「ポン酢」と同じだった。これらの比率はポン酢を作る時の比率が最もおいしいので、その都度作らなくても、ポン酢を入れるだけでいい。 


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栗生楽泉園  田中美佐夫さん



患者らの障害度示すと表札に赤青黄の紙貼りてあり




真夜中にトイレより帰り何時かと押せば答える音声時計




ステレオの操作のボタン小さくて口もて探り舌先で押す




食堂の前に植えあるアララギの赤き実を食む小鳥らの声




山国に雉子と尾長の増えたるを聞けば盲いの我らもうれし




病み老いていたく我が背の痩せ細り痛くないかと洗いくださる




我が肩の窪みは深く湯が溜まりメダカかえると笑い言う声




尿を取る看護婦さんに真向いて平静保たんと気張るひととき




入園時に母が縫いくれしチャンチャンコ老いたる今も直し直し着る




血の気なきわが痲痺の手を若き医師は切っても血が出ぬと笑いつつ診る




古里よりの手紙に心騒ぎ居たり付添婦さんに読みて貰うまで




わが庭の隅に植えてある五葉松訪ね来る友の目印となりぬ




我が痲痺の指にならいて爪までがいたく曲りて切るに手間取る


田中美佐夫さんの過去記事



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長島愛生園  和公梵字さん





感動的な作品です。5ページ(ハンセン病文学全集の1ページは21行×25字=525字)です。


 人間の顔がそれぞれ違うように、声もおのおの異っている。喜怒哀楽を顔で表現するように、声もその人の感情や個性を現わすものである。毎日聴き馴れているラジオのアナウンサーの声も皆同じようであって、それぞれ異っている。日曜日の午後七時十五分からのアメリカ便りと各地のスポーツや、その他催しものの実況放送の志村アナウンサーの声は、句切れがはっきりしているし、「二十の扉」の藤倉、「話の泉」の和田、「社会の窓」の松野と、それぞれ音感が異っている。声楽家、流行歌手、浪曲家と皆その音感が違う。声帯模写をやる人なんかは、どれが本当の自分の声か、わからないんじゃないかと思う。
「美人悪声」と言うが、「醜女美声」と言うことを聞かないから、あまりあてにはならない。女優さんなどは声も美しいし、唄の上手な人が多い。「美人悪声」の語は、美人の悪声は玉に傷と、あわれんでの言葉なのかも知れぬ。美人のどら声を聞いて、げっそりすることもあるだろうし、醜女の美声に粟膚たつこともあるだろう。
 女子はそんなこともないらしいが、男子は十四五歳になると、いわゆる「声変り」がある。声変りをして、少年から青年になるのである。激しい父の声、やさしい母の声、なつかしい幼な友だちの声が、遠い思い出として、幻想のなかに聞えてくることがある。
 癩を病む私たちのそのほとんどの声は、変ってしまっている。湿性の人は殊に声帯が侵されて、声の満足な人が少ない。吐く息が言葉となっている人も少なくない。乾性の人でも頬と唇が麻痺している人が多いので、そんな人は発音がはっきりしないようである。盲人は、聴覚が殊に鋭く、声によってその人を知り分けている。
 私が声を失ったのは、忘れもしない昭和二十一年の三月十九日の朝からである。二十年の冬から咽喉の調子が悪く、声がかすれ勝ちだったのが、二十一年の三月十八日に馬鈴薯を植えるのに下肥をかついで、翌日にはすっかり声が出なくなっていた。肩を使ったからで、そのうちに出るだろうと思ったが、二日たち、三日過ぎても声は出なかった。そこでいささかあわて出し、先生に診察してもらったところ、声帯に、結節が出ているとのことだった。吸入をかけてはとおっしゃるので、日に一回ずつ毎日のように半年あまり通ったし、按摩やお灸がよいと聞いたので、その方の治療もしたが、とうとう、声は出なかった。
 一朝にして唖の世界に転落して、日常の不便はいうまでもなかった。朝の挨拶を受けてもそれに応えることができないし、お互い顔を向け合っての話なら、前後の様子から判断してもらって通ずるが、障子一重隔てて名前を呼ばれても、それに応えることができない。そこで考えたのが手をたたくことである。手をたたくのも、相手を呼ぶ時、相手の呼ぶのに応える時、こちらがそのことを承知した時などと、その範囲が限られる。それから口笛である。遠くの相手を呼ぶ時は口笛で足りる。それから「はい」「いいえ」は、幼児の如く頭を前後左右に振って表現するのである。人中や物音の騒しいなかでは相手の耳もとに口を寄せて話す。これも親しい人ならともかく、そういうことのできない人には、文字を書いて示すよりほかに手はないのである。
 こういった表面に現われた苦労とは別に、精神的な苦しみも大きい。相手に話しかけられてこちらが一生懸命になって応えたところで、相手に通じない場合は、こいつ傲慢な奴だと思われはしないだろうか。またこちらが一生懸命になって話しかけても、相手にきこえず、知らん顔をしていられると、何か侮辱を受けた感じで卑屈になり、従っていよいよ必要な事以外は話すのが億劫になって黙っているが、何か不満があって黙っているのではないだろうかと思われはしないかと、神経質になり、日常生活のなかに礼儀の失われてゆくのは、淋しいことだった。

  声ほしき願ひ一とすじ夜のいとど

 その頃の作だが、いつわらない気持だった。夜ごと見る夢は、声が出て話している夢ばかりだった。
 声を失っての生活が三年半つづいた。たいてい咽喉内に結節が出て声の出にくくなった人は、半年か一年で気管切開の手術を受けるのがおさまりで、私もその覚悟はしていた。
 一昨年から癩の治療薬として、プロミンが一般に使用されるようになり、私も去年の三月末から注射をしてもらった。熱瘤が出て、四月五月と、八月九月は病室住いで、プロミンも熱瘤の出る時は休んだりして精勤にはやらなかったが・・・十月五日の朝、洗面所で含嗽をしていると、何時もとは音が違うようなので咳払いをした、高い音がする。なんか咽喉がこそばゆいようだ、あたりを見廻して人のいないのをたしかめ「お早う」と言ってみた。声だ、声が出たのだ、夢にまで見つづけてきた声が。誰彼となく話しかけてみたい衝動にかられたが、恥しいような気がして、部屋へ戻り咳払いをする。朝食時の話に私の声を聴いて部屋の人たちはきょとんとしていた。しばらくして「梵字君、声が出るじゃないか」と言われた時は、恥しいような、嬉しい気持で一杯だった。
 その日以来時々ひょっこりと、自分でもびっくりするような声が出るようになり、人の居ない所や、夜路を歩きながら、一人で声を出して演説の真似などをしたりした。だんだんと、その声が、自然に、連続的に出るようになった。十月十六日の夜に俳句会があり、四年振りで俳句の披露をした。句友のみんなが拍手を送って喜んでくれた。熱瘤が出たり、しゃべりすぎたりすると、出にくくなることもあるが、この頃では、どうやら日常の会話には不便を感じないまでになっている。
 声を失って初めて声の有難味を知ったわけである。


和公梵字さんの略歴
1922年11月23日、山形県に生まれる。軍属として従軍中、中支で発病。1941年7月、長島愛生園入所。句集『黄鐘』(1976年 駒草発行所)


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駿河療養所  鈴木一歩さん



きはまりて静かなるこの冬の夜に隣り間の友のせきひびきけり




もろ草の萌えゐづる日も近からむこの芝山の地肌のぬくみ




かにかくに切断せずに癒えし吾がこの右足を日日に撫で見る




この秋は豊作ならむ思ひきり蜜柑の枝はきれと妻に伝へつ




病うちあけ離婚せまりし遠き日よ爪切りくるる妻も老いたり




花は実になるとしみじみ妻は言い藤の莢実を吾が手にのせぬ




語りつくしし妻は吾が傍に面伏して短き会いをまどろみている




農奴の如く鍬とる嫁のあればこそ安らぎて吾が病養う




ボルドー液蜜柑にかけ終え会に来し妻は畳に横臥し語る




病める眼に幻の如富士山が見えし年月もおぼろになりつ




富士山頂に人を追い越し追い越しつつ登りし足も細くなりたり




悲しみを超え療養に務め来て今日七十七歳の吾が誕生日




家族あげて蜜柑の摘果最中と故郷の便り僅かに五行




購いし蜜柑の青く匂うさえ押えがたなき郷愁となる




沈丁花梔子くちなしも植えん木犀もくせいも移りし庭にゆめはひろがる




見えそうにさも見えそうに見えぬ眼にあかるく映る初日の光




テレビに語る土屋先生の声地蔵様がもの言いますかのようにきこゆる


鈴木一歩さんの略歴
明治29年生まれ。昭和27年駿河療養所入所。昭和52年11月16日死去。享年81。「アララギ」所属。『苔龍胆』第二集(昭和29年)『苔龍胆』第三集(昭和31年)『苔龍胆』第四集(昭和40年)『苔龍胆』第五集(昭和48年)『苔龍胆』第六集(昭和55年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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