ほしかげ
藤本さんの短文はどれも感動する。だからパソコン入力も、時間がかかるという感覚はなくて、癒される楽しい作業になっている。
私は今までに死を覚悟したことが三度ある。一は関東大震災で、火の粉の雨を濡れ蒲団でふせぎながら、ゆれる大地にしがみついていたとき。三は第一室戸台風で、大阪の外島保養院(光明園の前身)は壊滅、あっと言うまに全員濁流におし流されてしまっとき。二、このときだけは、みずから選んだみちであったが、しかし、ともかく三回とも命拾いをしたのである。が・・・実のところ、その後のさだめもきびしくて、拾ったいのちが邪魔になる日もいくたびかあったのである。
このようなある日、私は消極的自殺という言葉を聞いた。おかしなことに私の心はこのときパッと明るくなったのである。私はすでに失明していたし、両手の指もうしなっていたので、麻痺ぶかい掌だけでは縊死もできず、一夜でめしいた身の悲しさは、入水しようにも海までゆく見当がつかないのである。そこで毎日うっとうしい顔をして、「梅雨」のような涙を人知れず流しつづけていたのである。つまり消極的自殺を実行していたのである。
だが私の気持はその日から変わった。いつになったらけりがつくのか知れない自殺、そんなことをのんびりしてはいられないのだ。もうイチかバチかである。けれどイチは見込みがない。とすればバチを取るより方法はないのである。私は肝をすえて闇を凝視することにした。
暗中に、きらりと砂金のような光を見出し得たのは幾日へたころであろうか。不思議なもので、一つみつかると夕星がしだいに数をますように、私の砂金もだんだん殖えていったのである。
ともあれ、最初の「きらり」はこうであった。
「こんちわ・・・、吉川さんいるかな・・・」
室員たちは出払って、私一人ぼんやり坐っていると三平さんの声がした。
「畑へ行って留守だけど、でも、もう帰るじぶんよ。あがってお待ちなさいな」
私がそう言っているところへ吉川さんが戻ってきた。他の友も一緒である。めいめい開墾した畑に何かの種を蒔きに行ってたものらしい。
吉川さんは甘藷の粉でお団子を作り始めた。三平さんが二つ返事で食べると言ったからである。昭和二十五年の早春であった。食糧事情はすこし良くなっていたが、それにしても代用食の藷の粉が残っているのは自作農のおかげである。三平さんは盲人なのでその余得はない。
「さあ、たんと出来たぜ。熱いうちに腹いっぱい食べや」
吉川さんは三平さんの手にホークをくくってやった。
彼は私とおなじように指がないのである。
時計は十一時を打っていた。
「ああ・・・ごっつおさん」
三平さんの謝辞が聞こえたのは、それからだいぶ時がたってからである。吉川さんは言った。
「もういいのかいおっさん。団子は粉のありったけ二十七作ったんやぜ。あと二つ残っとる。がんばらんかい」
「うん、じゃあよばれる」
三平さんが答えた瞬間、室員たちはどっと声をあげて笑い出した。吉川さんの藷団子といえば、少しひらたいが直系五、六センチはあるのである。それを二十七平らげようと言うのである。
「えっへっへへ・・・」
みんなの笑いが納まらぬうちに三平さんは食べ終わって、一緒になって笑いはじめた。私は二度びっくりしたのである。くったくもこだわりもない声のひびきであった。私の知る三平さんとは全く別の感じであった。
「なぜだろう」
私は思いまどったのである。
三平さんは園にきて二年たらず、まだ新患の部に属する人であった。彼は家族のことが心配でいつもしょんぼりしていたのである。私たちにこう話したことがあった。
「おれは三十六のとき病気になってしもうた。上ふたりは亡くなって、下の子が四ツのときだった。
その子を残して、家内はさとへ帰ってしまうし、親たちは七十に近いし、病気だからといって、ひっこんでおられんやろ。だから俺は人目をさけて暗いうちに山へ行き、暗くなってから戻るようにして何年か働きつづけた。
あるとき蜜柑の木を消毒していたら、その液が眼に入ってな、それからだんだん見えなくなってしもうた。
盲になってから俺がいちばん困ったのは、子供が二、三年生のときだった。読めない字を子供に聞かれると、俺は冬でも裸になった。背中の右てに麻痺していないところがあるのや。そこへ子供が指で書くのだが、書く順を知らんやろう。だからやたらに横縦ひっぱるので、なかなか見当がつかんのや。子供はじれるし、俺は寒いし、まったく泣けたぜ」
三平さんはその他にも多くの悩みがあったであろう。
「俺ほど辛い人間はあるまい」
と言っていたのに、その重荷をいつ・・・どのように処理したのであろうか。自分を笑う人たちと共に洒々落々声を合わせて笑っている。私は問うた。
「きょうは楽しいことがあるのね」と。
「うーん。見る方向を変えたんや。どうせ苦労するんなら残り福を探そうと思いついたんや」
私は三平さんに痛いところを、ぐさりと刺されたような気がした。その傷口から汚水がほとばしり出ていく気がした。
このとき初めて、私は砂金のかげを見たのである。
1969年(昭和44年)
藤本トシさんの過去記事