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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園  藤本トシさん



ほしかげ


藤本さんの短文はどれも感動する。だからパソコン入力も、時間がかかるという感覚はなくて、癒される楽しい作業になっている。


 私は今までに死を覚悟したことが三度ある。一は関東大震災で、火の粉の雨を濡れ蒲団でふせぎながら、ゆれる大地にしがみついていたとき。三は第一室戸台風で、大阪の外島保養院(光明園の前身)は壊滅、あっと言うまに全員濁流におし流されてしまっとき。二、このときだけは、みずから選んだみちであったが、しかし、ともかく三回とも命拾いをしたのである。が・・・実のところ、その後のさだめもきびしくて、拾ったいのちが邪魔になる日もいくたびかあったのである。
 このようなある日、私は消極的自殺という言葉を聞いた。おかしなことに私の心はこのときパッと明るくなったのである。私はすでに失明していたし、両手の指もうしなっていたので、麻痺ぶかい掌だけでは縊死もできず、一夜でめしいた身の悲しさは、入水しようにも海までゆく見当がつかないのである。そこで毎日うっとうしい顔をして、「梅雨」のような涙を人知れず流しつづけていたのである。つまり消極的自殺を実行していたのである。
 だが私の気持はその日から変わった。いつになったらけりがつくのか知れない自殺、そんなことをのんびりしてはいられないのだ。もうイチかバチかである。けれどイチは見込みがない。とすればバチを取るより方法はないのである。私は肝をすえて闇を凝視することにした。
 暗中に、きらりと砂金のような光を見出し得たのは幾日へたころであろうか。不思議なもので、一つみつかると夕星がしだいに数をますように、私の砂金もだんだん殖えていったのである。
 ともあれ、最初の「きらり」はこうであった。
 「こんちわ・・・、吉川さんいるかな・・・」
 室員たちは出払って、私一人ぼんやり坐っていると三平さんの声がした。
 「畑へ行って留守だけど、でも、もう帰るじぶんよ。あがってお待ちなさいな」
 私がそう言っているところへ吉川さんが戻ってきた。他の友も一緒である。めいめい開墾した畑に何かの種を蒔きに行ってたものらしい。
 吉川さんは甘藷の粉でお団子を作り始めた。三平さんが二つ返事で食べると言ったからである。昭和二十五年の早春であった。食糧事情はすこし良くなっていたが、それにしても代用食の藷の粉が残っているのは自作農のおかげである。三平さんは盲人なのでその余得はない。
 「さあ、たんと出来たぜ。熱いうちに腹いっぱい食べや」
 吉川さんは三平さんの手にホークをくくってやった。
彼は私とおなじように指がないのである。
 時計は十一時を打っていた。
 「ああ・・・ごっつおさん」
 三平さんの謝辞が聞こえたのは、それからだいぶ時がたってからである。吉川さんは言った。
 「もういいのかいおっさん。団子は粉のありったけ二十七作ったんやぜ。あと二つ残っとる。がんばらんかい」
 「うん、じゃあよばれる」
 三平さんが答えた瞬間、室員たちはどっと声をあげて笑い出した。吉川さんの藷団子といえば、少しひらたいが直系五、六センチはあるのである。それを二十七平らげようと言うのである。
 「えっへっへへ・・・」
 みんなの笑いが納まらぬうちに三平さんは食べ終わって、一緒になって笑いはじめた。私は二度びっくりしたのである。くったくもこだわりもない声のひびきであった。私の知る三平さんとは全く別の感じであった。
 「なぜだろう」
 私は思いまどったのである。
 三平さんは園にきて二年たらず、まだ新患の部に属する人であった。彼は家族のことが心配でいつもしょんぼりしていたのである。私たちにこう話したことがあった。
 「おれは三十六のとき病気になってしもうた。上ふたりは亡くなって、下の子が四ツのときだった。
 その子を残して、家内はさとへ帰ってしまうし、親たちは七十に近いし、病気だからといって、ひっこんでおられんやろ。だから俺は人目をさけて暗いうちに山へ行き、暗くなってから戻るようにして何年か働きつづけた。
 あるとき蜜柑の木を消毒していたら、その液が眼に入ってな、それからだんだん見えなくなってしもうた。
 盲になってから俺がいちばん困ったのは、子供が二、三年生のときだった。読めない字を子供に聞かれると、俺は冬でも裸になった。背中の右てに麻痺していないところがあるのや。そこへ子供が指で書くのだが、書く順を知らんやろう。だからやたらに横縦ひっぱるので、なかなか見当がつかんのや。子供はじれるし、俺は寒いし、まったく泣けたぜ」
 三平さんはその他にも多くの悩みがあったであろう。
 「俺ほど辛い人間はあるまい」
 と言っていたのに、その重荷をいつ・・・どのように処理したのであろうか。自分を笑う人たちと共に洒々落々声を合わせて笑っている。私は問うた。
 「きょうは楽しいことがあるのね」と。
 「うーん。見る方向を変えたんや。どうせ苦労するんなら残り福を探そうと思いついたんや」
 私は三平さんに痛いところを、ぐさりと刺されたような気がした。その傷口から汚水がほとばしり出ていく気がした。
 このとき初めて、私は砂金のかげを見たのである。

1969年(昭和44年)


藤本トシさんの過去記事


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菊池恵楓園  村上芳人さん



眼の病ひ日々に重れば陽をいみて手をかざすくせとなりにけるかも




ほのかにも朝の膳ににほひけり友の摘み来し赤き紫蘇の実





水まさる我が故里の小山田にしろ掻く兄のそぞろ恋しも





故郷の青田の水は落されてその畦畦に野菊咲くらむ







柿の実の赤らむ頃は故郷に仔馬あきなふ市の立つらむ





此の眼はも如何になるらむ今日も亦縁の柱にぶっつかりたる





ま探りしその手の下に箸はありと教へられたり目のよき人に






南の国にし去ぬるつばくらめ汝が訪れに又逢はめやも


村上芳人さんの略歴
九州療養所。『檜の影』第一集(大正15年)『檜の影』第二集(昭和4年)『檜の陰の聖父』(昭和10年)


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鯛のアラ煮


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ニンジンとキクイモは輪切りにして、水と出し汁で煮る。その間に鯛アラは15秒湯通ししておく。煮立ったら弱火にして鯛アラを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、生姜1片をすりおろし、落し蓋をして強火にし再度煮立ったら弱火にして10分煮てネギを入れ、さらに5分煮て出来上がり。



ダイコンの蒸し煮

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熱した無水鍋に大さじ1のオリーブ油を入れ、1センチほどに輪切りしたダイコンを置き、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、裏返してポン酢大さじ1と半をまわしかけ、強火で1分からめて出来上がり。

ポン酢でなく次回はユズ味噌(味噌、ユズ、みりん、酒、砂糖)にしてみる。



ホウレンソウのおひたし


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菊池恵楓園  上村正雄さん



再びは立つ能はじと訴へし友の瞳ぞ眼に残りたる




朝けまで友がすけゐし水枕夕べの庭に干されてあるも




ありし日の泣き顔笑顔つぎつぎに目につきまとひすべなきものを




大晦日の昼は曇りて静かなれ友の柩に釘打つ音す




おのもおのも思出ふかく黙したり通夜の夜の更けて寂しも




つきつめてかなしまねども傍らに人の死ぬるを見つつすべなし




血を吐きて日に日に弱るこの友の心は遂に静けかりけむ




枕並べて臥れる友の死ぬにさへ心驚かず今はなりたり




貧しさのことは語らずちちのみの父は給ふもいささかの銭を




骨ばかりなる吾が手を握りちちのみの父は黙せり吾を見つめつつ




親の乳房競ひて吸へる子豚らの押しつ押されつ楽しかるらし




遠く育つ吾子の病ひ篤しとふ寒き夕べを鳥なき渡る




のどぶえにもののつまりてゐる如し寝つ起きつ遂に疲れはてたる




枕べの急須の水はのみほしぬひそやかにして夜のあけむとす




病みこやるわが枕べに友はきて蝿取紙をひろげてゆけり




歌やめて甲斐なき命生きむよは喉はりさけて死ねよと思ふ


上村正雄(政雄)さんの略歴
九州療養所。『檜の影』第二集(昭和4年)『檜の陰の聖父』(昭和10年)


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邑久光明園  藤本トシさん



足あと



ごく短い文章なのに、藤本さんの作品はなぜこんなに感動をよぶのだろう。


 「めくらさんにはね、とくべつに神様がついていてくださるのだよ。そして教えてくださるから独りでもなんでも上手にできるのさ」
 私は今でもこの言葉を忘れない。私は末子なので小学校へ入るころになると、母は年のせいかよく肩をこらした。そして按摩さんを頼みにゆくのは私の役になっていた。その按摩さんがである。今のように車のはんらんはなかったにもせよ、他のさまざまな乗物と、ひと通りの多い街をたった一人で二度も角を曲がって、まいがいなく私の家に来るのである。それがいかにも不思議であった。おさない脳裡には、めくら鬼にされた時たいていは困って泣く自分の姿が浮かんでいた。
 不思議はまだあった。ながい療治がすむと母はきまって茶菓を、時間によっては食事をだした。按摩さんはそれを実にきれいに食べるのである。骨っぽい小魚、貝、汁、豆などの難物さえ手ぎわよくさばいて少しもこぼさない。すむとお行儀よく一礼して座をはなれ、母から渡されたお金を指先で確かめると更に一礼して静かに帰って行くのである。
 先の言葉は唖然としてその姿を見おくる私に、笑顔で母がささやいたものである。その時には、めくらにはめくらの神様がついててくださるかどうか、わが身で確かめる時が来ようなぞとは夢にも思わなかったのである。
 さて、盲目となって、見るかげもない手足になって、私は神様から何を教えられたのであろう。わからない、が・・・おぼろげながら受けとめられたのは、涙の底を掘り下げろ、ということである。ともしびは我が手で獲得するものだ、ということである。
 ともあれ、私はこの掘り下げ作業を始めるようになってから、よく春木のお婆ちゃんを思い出す。というより知らず知らずお手本にしているのかもしれない。この人の両手はてのひらさえ殆どなかった。足も同様で、ひざでいざって、いつも用事を足していた。眼こそ見えたがまことに不自由な日常だったのである。
 お婆ちゃんは八畳五人の部屋にいた。私はそこの付添いだったのである(外島時代のこと)。ある時お婆ちゃんは私に、
 「重箱の上になあ、長い箸を一本横にのせて、その上と下とに団子を一つずつ置いたような字はなんと読むのや」と問うた。
 「そんな字どこに書いてあるの」と聞くと、けさ来た手紙の中にあるというのである。しかし手紙は見せてくれなかった。何かわけがあるらしい。私はじーっと考えていたが、そのうちに、はたと思いあたったのである。いつか本にあったのを教えてあげた文字である。私は言った。
 「それは、母という字よ」
 「ああそうか・・・、それでようわかったわ」とお婆ちゃんはにこにこした。
 その後お婆ちゃんは感ずるところがあってか、少年寮から不要になった二、三年生の読本を借りると、猛勉強をはじめたのである。先生は私であった。教師は頼りないが、お婆ちゃんの熱意の成果はすばらしいもので、一年も経つと便りはおろか、ふりがなつきとはいえ大衆雑誌もどうにか読めるようになったのである。それからのお婆ちゃんは、いつも盲人たちに囲まれていた。娯楽の乏しかった時代なので、お婆ちゃんの読書はその人たちにとって真実大きな慰めだったのである。
 こうして、あの第一室戸台風の高潮に呑み込まれる日まで、お婆ちゃんは盲人たちの心に、そして、自分のたましいに火を点じつづけていたのである。
 今私の周囲には、盲友たちの実に美事な足あとがたくさんある。その最たるものは十一園のライ盲者が万難を排して手をつないだことである。全盲連を結成したことである。そこから生まれでる幾多の活動、その成果のひとつひとつが、谷底の者をうるおす水滴となっているのだ。重症の私はその恩恵をうけるばかりの不甲斐なさなのである。だが、全力をしぼって自他の心を日おもてに向けさせた、このお婆ちゃんの心意気だけは、私のものにしたいのだ。


藤本トシさんの過去記事


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長島愛生園  田井吟二楼さん



漸くに離籍手続終へしこと吾子の寝たれば妻が言ひ出づ




怠らずプロミン注射は受けませと妻はねんごろに言ひて去りたり




いつよりか隈なくなりし顔の痲痺を髭剃られつつ思ひてゐたり




同郷と知りて話題は果てしなし耳遠き吾と咽喉切開せし君と




今日もまた哀れまれゐる一人にて慰問団へ園歌を唄はねばならぬ




痲痺の口唇双手に押へ火を吹けるこの一ときよ人来るなかれ




癩院に五たびの新春巡り来しいまは疑はず島に死ぬ身を




屠蘇汲むに暗き未来が浮ぶなりああこのまま酔ひ痴れてゐたし




胸郭成形の首尾告げ来る君の文疼くばかりに身に沁むものを




手術して癒ゆる疾を羨しめり癩菌は骨の髄まで侵すに




伸び早き寮児に吾子を見つつをり会ひ難きままに三年を過ぎて




耳疎き吾に聴かさむ初音とぞ屠蘇含むとき鶯啼けり




病む父を忘れよといひ忘るなと言ひて醒めたり子に会える夢




歌作る病友らはすでに耳疎き吾と知りゐて労りくるる


田井吟二楼(吟二郎・静観)さんの略歴
明治42年3月香川県生まれ。昭和23年10月20日長島愛生園入園。昭和24年より作歌を始め、「多摩」「龍」「形成」を経て昭和30年中部短歌会入会。「短歌」同人。『青磁』(昭和26年)『小島に生きる』(昭和27年)『あらくさ』(昭和30年)『あかつち』(昭和31年)『陸の中の島』(1956年)『一病息災』(昭和35年)『風光』(昭和43年)『海光』(昭和55年)


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揚げ出し豆腐



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熱した無水鍋に大さじ1の油を入れ、木綿豆腐を半分に切り片栗粉をつけて入れ、極弱火で5分煮て裏返し、ネギを多めにふり、タレ(醤油大さじ2、出し汁大さじ2、みりん大さじ1)をかけ、また5分煮て火を消し、余熱5分で出来上がり。

簡単すぎ?フライパン一つの揚げ出し豆腐」を参考にした。片栗粉がいい役割りをしている。ネギを入れることがポイントと思う。



黒豆の煮豆

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ダイズの煮豆同様、冬の間によく作る。一晩、水で戻した黒豆200gを戻し水ごと圧力鍋に入れ、目分量で水加減を見て水を少し足し、砂糖100gと蜂の巣、醤油小さじ1、塩少々を入れて混ぜ、強火で点火しておもりが廻り始めたら極弱火にして20分、火を消してそのまま1時間以上放置して出来上がり。

簡単おせち 材料3つの黒豆(圧力鍋で)」を参考にした。



サツマイモのおやつ

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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れ(混ぜない)、ユズ一個の果汁を入れ、蜂の巣を置き、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、さっくり混ぜて皿にとって出来上がり。



パスタ

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パスタを茹で始めてから具材を炒め始める。熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、ニンニク1片の薄切り、魚ソーセージの小口切り、タマネギのスライスの順に炒め、最後に昨日残した茹でナバナを入れ、ケチャップとウスターソースで味付けし、パスタが茹で上がるのを待つ。よく湯切りしたパスタを入れ、強火で1分からめて出来上がり。   


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菊池恵楓園  木村美村さん



遺言を口うつしして書く友の筆の運びのすすまざりけり




夢にこそ友の面貌も見るべけれ覚めてはくやし盲なりけり




笑ひつつ児ら近づけり我が口におしこみたりしこれの飴玉




人の世のなやみなきがに吾はもよ子が云ふままに馬となりたり




一枚の賀状すら来ぬ吾れなれやしみじみ仰ぐ初日の光り




二三行書きしばかりの弟の手紙の中ゆ為替いづるも




しかすがにわがとる箸の基末も解し能はざる身となりにけり




親子連れ逃走せしは孤児院へ子を送らるる前の夜なりし




役員選挙
受け取りし投票用紙掌に代書を待てり卓に寄りつつ




仕送りの絶えし故郷を思ひつつ火桶に寄れば火のなかりけり




まざまざと悲しき夢の母そはや覚めての後も涙流れぬ




読み呉るる声も自づと低かりし吾に悲しき手紙なりける




ひそやけきわが明け暮れや仮の名に姿かくして離り住みつつ




幾年のけ長き床も耐へにけむ只十字架を握りしめつつ




桜花見ん術もなし仰向けばたまたま花の顔に散り来も


木村美村さんの略歴
生年不詳。昭和2年九州療養所入所。「檜の影」「歌話会古城」所属。昭和11年没。『檜の影』第二集(昭和4年)『檜の影の聖夫』(昭和10年)『菴羅樹』(昭和26年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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邑久光明園  藤本トシさん





とても面白い、そして悲しい。藤本トシさんは明石海人さんと同じく1901年(明治34年)の生まれだが、言葉づかいや仮名づかいがわかりやすく、古さが感じられない。3~4分で読める短文です。


私は幽霊を見た、確かに━━と言ったら人々はどんな顔をするであろう。鼻先にうすら笑いを浮かべて、じろり一瞥するかも知れない。ばかばかしいと、そっぽを向いてしまうかも知れない。しかし世の中には、理外の理ということもあるそうである。ともあれ私は、今もって解決の出来ない一つの謎を持っているのだ。

 私はレプラの暗黒時代であった大昔に、十九歳で発病した。そして翌年父を、更に半年後母をも亡ってしまったのである。今でもありありと胸に焼き付いているのは、毎日愁いに沈む娘をかかえて、嫂と世間に気兼をしていた痛々しい母のおもかげである。その母がある夜病床に私を呼んで、
 「お前のためにね・・・もう少し生きていたいと思うけれど・・・、私は精も根もつきてしまった。でも・・・死んだらきっとお前を迎えに来るよ。つらかろうが辛抱しておくれ。いいかい・・・かならず今年中には来るからね・・・」と言った。
 それからの私は、どんなにその日を待っていたことであろう。だが秋が去り、冬も去り、春さえも行こうとしているのに、いっこう母からの訪れはないのである。私はすっかり待ちくたびれてしまった。
 どこへ行っても、新米のうちは思うようにならないのが常である。とすると、母は亡者の新米だから、まだ自分の心のままにはならないのかも知れない。それなら、こっちから出かけて行くより仕方がないではないか、と思った。そう考えるとこの世にはさらさら未練のない私である。さっそく家出の準備にとりかかったことはいうまでもない。
 六月も半ばを過ぎたある日、私は我が家から五十里程離れた小田原のある淋しい海岸に佇んでいた。どんより曇ったたそがれの渚には、破れ舟が朽ちるにまかせて置かれていた。私はその破れ舟の陰に身を忍ばせるようにして、夜になるのを待っていた。昨夜は大磯で刑事につかまって未遂に終わった私である。今夜こそ暗くなったらすぐ身を投じて一散に母のもとへ行こうと、思い定めていたのである。見渡すかぎり人影ひとつないのが私の心を安くしていた。ところが暫くすると、さく、さくさくと足音が聞こえてきたのである。ぎょっとして眼を上げると、右手の高い土手から老婆がひとり、ひょこひょこ歩いて来るのである。私は顔を見られないように、何気ない風をよそおいながら老婆とは反対の方へ、くるりと向きを変えてしまった。にもかかわらず足音は私をめがけてやって来て、
 「ねえさん・・・わしは向こうの茶店の婆だがよう、さっきから見ていると、あんた何か心配ごとがありそうだなあ」と声をかけた。
 こまった━━と声ならぬ声でさけんで、私は狼狽をおしかくしながら黙っていた。と、老婆はしきりに私を見上げ見下ろしていたが、曲がった指に気付いたらしく、
 「可哀想に・・・。でもあんたのような病気は身延山にお籠りして、一心に信心すると治るよ。四、五日前にも山に三年お籠りしたという人が、すっかり綺麗になってうれしそうに帰っていったよ。だからあんたもお山へ登って信心してごらん。そしたら治るよ。きっと治るとも。行ってみなさいなー、なー」
 繰返し繰返しこう言ってすすめる老婆の言葉は、まったく熱意そのものであった。その心情にほだされたといおうか、私は老婆の言葉を丸呑みにしたわけではないのだが、固い死への決意がぐらり揺らいだことは確かだ。俗にいう死神が離れたとは、こうした場合のことであろう。私は老婆に連れられて彼女の家に行った。少しばかり駄菓子やラムネを並べた、ちっぽけな店である。
 太った女の子がちょこなんと坐っていた。老婆はその子に店を仕舞うように命じてから、私に小声で聞いた。
 「あんた腹がへってるだろう。お山までは遠いからな、麦飯だがうまい蕗の佃煮や鮒っ子の焼いたのがあるから、たんと食べていきな」
 私はこの時初めて、一日中何も口にしていなかったことを思い出した。だが喉がからからに渇いているだけで、どういうものか空腹感はなかった。私は、
 「この先の町で食事はすまして来ました」
と嘘を言ったのである。
 やがて老婆は提灯をつけて裏口から出てきた。駅まで行ってくれるつもりである。暮れきった空は今にも降り出しそうな気配であった。老婆はうなだれた私を従えて黙々と歩いていく。提灯に照らし出された道幅は、一間ぐらいあったであろうか。とにかく両側には篠竹を交えた雑草が生い茂り、道ぞいに野川が流れているらしく水の音が聞こえていた。
 駅まで五丁はないと聞いたのに、初めての、それも田舎の道はひどく遠い感じがするものである。私は疲れ呆けて、まだか・・・と思いながら歩をとめた。とたんに愕然としたのである。小腰を屈めて歩いていた老婆が、すらりと高い母の姿になっている。私は眼をうたがった。そしてその姿を凝視した。だがいくら眺めても寸分たがわぬ母である。私は慄える足をふみしめて提灯に近づき、そこから母を覗きこんだ。しかし老婆以外の顔はない。私は自嘲しつつ、すごすごうしろへ戻っていった。と━━そこにはまた紛れもない母がいる。私はあわてて再び前へ廻って見た。うしろへ帰って見た。だがこのうろたえた動作は驚きを倍加さすばかりだったのである。それきり私は、疲れも時間の経過もすっかり忘れてしまったのだ。
 こうして、母かー老婆かー二体が渾然一体となった人に導かれて、午後九時十分、わたしは列車の客となったのである。


藤本トシさんの過去記事


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長島愛生園  壱岐 耕さん



病みふして着る事もなき仕事着の壁にかかるを見つつ淋しも




真夜なれど村人たちに会はずやと罪人のごと忍びかへりぬ




終列車の時をはかりてたらちねは迎へたまひぬ道のなかばまで




花咲ける八つ手を見れば心痛し年迫る日を母は逝きにき




わが病悲しむ父より戦争は二人の弟奪ひき




嫁ぎゆきすでに二人の母となるわれの記憶に幼き妹




呼吸管にからまる痰はにくみつつ君が臨終の言きかむとす




咽喉切開ければあと三年の生命とふことば身にしみのどは守るも




宵宵に体拭きくれし妻が病みてよりわれのあせもはにはかに増えぬ




鼻の上の傷のかさぶた眼に見えてただにうるさし煙草すふ間も




妻にさへ時に媚びつつものを言ふかかる卑屈も弱くなりてより




耳のうしろに痲痺せぬところ少しあり汗つたふ時かすかに感ず




病むわれの茶も嫌はずに飲みゆきし人夫らはまた穴堀りはじむ


壱岐 耕さんの過去記事



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ハクサイの蒸し煮

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熱した無水鍋にざく切りしたハクサイを入れ、ベーコン1連を半分に切って置き、風味付けに月桂樹を置き、胡椒で味付けし、極弱火15分、火を消して余熱5分で出来上がり。月桂樹は捨てさっくり混ぜて皿にとり、ポン酢で食べる。



ポテトサラダ

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先日のがおいしかったのでまた作った。熱した無水鍋に小さじ1のオリーブ油を入れ、薄切りしたジャガイモを入れ、大さじ2の水を入れ、風味付けにローズマリーを置き、極弱火で30分、火を消して余熱5分でボールにとり、つぶす。野菜はニンジンと冷凍グリンピース(姉にもらった)を水から煮て、煮立ったらタマネギとキャベツを入れ、再度煮立ったら弱火にして5分煮てザルにあげ、よく湯切りしてボールに入れる。マヨネーズ、塩・胡椒、砂糖、酢で味付けして出来上がり。



ヤーコンの梅煮

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「レンコンの梅煮」というレシピがあったので、レンコン=ヤーコンとして使える「ヤーコンの梅煮』を作った。

鍋にだし汁と昨日の出し殻を小口切りして入れ、スライスしたヤーコンを入れ、小梅を5個入れ、酢、砂糖、酒、みりんで味付けし、カツオブシをふり、煮立ったら弱火にして15分煮て出来上がり。

ヤーコンは煮るより、生で千切りしてサラダや炒め物、さっと湯通しして甘酢漬けに使う方がおいしい。





ナバナの辛子和え

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一週間前からナバナの出荷を始めたが、食べるのは初めて。4月中旬頃まで楽しめる。

ナバナはざく切りし、茎の太い部分は薄切りして沸騰した鍋に先に入れ、1分後にその他の部分を入れ、30~40秒後に冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。その半分を辛子和えにした。

お椀に辛子(チューブ入り)とめんつゆ(もしくは出し汁+醤油)を入れて溶き、ナバナと和えると出来上がり。 


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大島青松園  朝 繁夫さん



君の顔花でうづめてやるときにてれてるやうなこゑ耳にせり




生き残るわれらは酒を酌みあへり酒好きでありしなきがらの前に




車椅子押されつつゆく一湾の春は海底より萌えたてり




快楽には遠き真夜中尿器入れてをとこの放つ音さびさびと




その名さへ付けざるままに死なしめし嬰児を恋ふ立春いまは




玄関を立ち去る君の靴音につきゆきてこころしばらく遊ぶ




歳月は余病かさねていつよりか医師の領分に入りてもの言ふ




一日に三つ四つの柩ならぶ飢餓の時代がありていまあり




背後より抱きとめくれし危ふさの束の間胸のふくよかさ受く




冬ながらあたたかき島の療園の鯉らは池のかたちに泳ぐ




しらなみに乗り来て島の
こがらしは海に出でまたしらなみとなれり


朝 繁夫さんの過去記事

 

朝 繁夫さんの過去記事



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邑久光明園  藤本トシさん


藤本トシさんの美しい小品です。3分で読めます。たくさん遺されている藤本さんの随筆を逐次紹介していきたいと思います。



 今年もコスモスの季節になった。空はどんなに美しいであろう。深々と澄んだ蒼さを思い浮かべていると、そのなかで・・・あの可憐な花が揺らぐ。コスモスは洒落た洋館の庭にあってもいい。炊煙のなびく藁屋の背戸でも調和する。山村の駅のほとりに、ひっそりと寄りそって咲いていた一叢の薄くれないの花を私は今でも忘れない。

 コスモス。私はこの花がもとから好きではあったが、とりわけ二、三年まえから心をひかれるようになってきた。これには理由がある。
 私の眼が明らかだった時のことである。ある夜四、五人の友と雑談を交していると、そのうちに玉枝というまだ新患の娘が自分の過去を話し始めた。
 彼女は中流の家庭に育ったらしい。しかし病気になると物置が少し改造されて、そこが彼女の住居になった。そのうえ戸外に出ることを一切禁じられてしまったのである。若いみそらで、明けても暮れてもがらくたと同居である。窓さえめったに開けられない薄暗い小屋での生活は、気が狂うほど侘しかったという。
 この辛さに耐えかねたある日、彼女は世間がまだ寝しずまっている夜明け前に、窓からそっと抜け出した。むろんはだしである。さいわい町はずれだったので、草原でも土手でも歩くところは広々としていたらしい。そこで思いきり外気を吸って、東天がやや白みそめると、幽霊のように慌てて墓所へ帰った。
 墓所、彼女は自分の住居をそういうのである。この秘密は誰にも漏れなかった。味をしめた彼女は、それから毎日お天気でさえあればこの冒険をやったのである。
「ほんまに、あのときの星空の美しかったこと。残り月の清らかだったこと。野川の音や穂草のそよぎまでが全く絵のようでな、この世のものとは思われんほどやった」。彼女はこう術懐した。

 ある朝、例のごとく暁光に追われて急いで野路を帰っていく途中、土橋の上まで来ると、一茎のコスモスがしっとりと露にぬれて落ちていた。誰が落としたのであろう・・・などと考えているひまはない。彼女はそれを奪うように拾うと駈けだした。
 がらくたの中から小瓶を探し出すと、彼女は洗面の水を節約してそこへ入れた。それにコスモスを挿したのである。墓所の中のたった一つの彩り。彼女はそれを、とみこうみして飽くことを知らなかった。が、油断はできないのである。家人に見られたら外出したことがばれてしまう。それこそ一大事である。彼女は恟々として、かすかな跫音でもすばやくそれを押入れに隠した。
 はかない楽しみである。それも長く続く筈はないのである。数日後、花はとうとう彼女の膝で散ってしまった。
「家の人に内証やから、その花屑を捨てるのに困ったやろう」
 誰かが聞いた。彼女の答はこうであった。
「いいや、花はなんにも捨てやせん」
「じゃーどうしたんや・・・」
「わて・・・何もかも食べてしもうたもん」
「まあー」
 友だちはどっと笑った。実は私も奇異に感じたのである。発病後のくらしが、私のほうがやや幸福だったのか、それとも、更に深い苦悩の日々であったのか、ともかく少しずれがあってその気持が呑み込めなかったのである。
 ・・・・・・
 その後私には失明という打撃があった。手足の感覚がないので、口で物を確かめるより仕方がなくなったのである。初めのうちは唇が大方その役を引受けてくれていたのだが、しだいにおぼつかなくなってきて、近年では舌がそれに代わるようになった。来る日も来る日も、生活する為の物に、舌はまず体当たりして、それを私に教えてくれるのである。あるとき私はマーガレットの花を貰った。へやの飾りとしてのものには、遠慮なのであまり触れないが、自分のものとなると、専用の花筒に入れて心おどらす私なのである。このときも、一日にいくど探りにいったことか。二、三日たっての朝、私は顔を洗うとすぐ、マーガレットにキスの挨拶にでかけた。終えてから静かに筒を置こうとすると、舌先に花びらが残っていた。散る時が来たのであろう。私はそう思いながら、しごく自然にその花びらを食べてしまった。そしてやっと思い当たったのである。あのときの、若い友の言葉が━━。
 病苦と、孤独に苛まれていた乙女の心は、拾った瞬間から、コスモスと一体になってしまったのである。芯を食べようと花びらを食べようと、それはあたりまえだったのだ。一体なのを具象化しただけなのだからである。私は晴ればれとした。
 私の肩をそって撫でて、朝闌の風が過ぎた。甘藷が焼けているのであろう。隣室から秋の匂いがもれてくる。

1963年(昭和38年)


藤本トシさんの過去記事


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松丘保養園  根岸 章さん



朝に一人夕べに一人知らされし病友の死を思ふ寒き日続く




昨夜逝きし老いの名前を朱に記し自治会日誌の厚きを閉ぢぬ




遺骨抱き帰りゆくあり死者の残す金のみ持ち去る遺族らもあり




定員に医師充つるなき療園にわれらを置きて君は辞めゆく




保育所に明日は別れてゆくといふ子と病む父と背を流し合ふ




原爆の症状と云ひつつ癩庇ひ働き居りしとふ友の幾人




指読する声に随ひ盲等の点字器弾く音みなそろふ




無限なるひかりに対ふ如くにて点字うつ貌ひき締りみゆ




対立する派閥感情に乱されて組織侘びしき今日の自治会
(日本社会の縮図がライ園の縮図だったのであり、今も続く日本社会の封建制がライ園の現況に通づると僕は思う)



独房の鉄の窓枠もはずされて監禁室は車庫に変れり



根岸 章さんの過去記事



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ヤーコンとカブの甘酢漬け



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甘酢漬けには出し汁が必要なので、まず出し汁作りから。煮干し等は5時間前から水に浸しておいた。

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カブはスライスして塩をふり、途中で何回かもみながら2時間以上おく。



甘酢を作る

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(鍋に180ccのだし汁、酢120cc、砂糖50g)×2倍を入れ、点火して砂糖を溶かし、ユズ1個の果汁と皮を入れ、生姜1片をすりおろす。



ヤーコンとカブの甘酢漬け

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ヤーコンは切りながら水に浸してアク抜きし、沸騰した湯で30秒茹でて冷水にとり瓶に入れる。カブはさっと水洗いして水気を絞りながら瓶に入れる。甘酢を注いで出来上がり。明朝には食べれる。



ダイコンの蒸し煮

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熱した無水鍋に大さじ1のオリーブ油を入れ、1センチ余りに厚切りしたダイコンを置き、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、裏返してポン酢大さじ1余りをふりかけ、強火で1分からめて出来上がり。

オリーブ油、新鮮なダイコン、無水鍋の組み合わせは抜群と思う。





ネギ入り卵焼き   
   
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ボールに卵3個を溶き、出し汁大さじ2、醤油、砂糖を入れて混ぜ、熱したフライパンに油をひいて流し入れ、表面が乾いたら巻いて出来上がり。


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長島愛生園  北田由貴子さん



シクラメン鉢いっぱいに咲くを置きひねもす夫はわがために読む




島流しと歎きし亡父も見ましゐむ本土への橋のこの起工式




偏見の長かりしかなと思ひつつ架橋起工式の赤飯を食む




手拭ひに病む面隠して故郷出でし遠き日のごと鳴くよ梟は




生命粗末にするなと言ひし父おもふ縊死せし媼の通夜の座にして




縊死なしし悲しみ未だ癒えざるに今朝また一人海に身を投ぐ




自ら命を断つは人間のみなるか真昼の潮騒うつろに響く




これといふ悲しみなけれど拭きてゐる厨の床に涙落ちたり




夫のあらねば掌に包丁を括りつけ夕餉の汁の葱刻むなり




上着の釦かけてくれゐる夫の掌のあな清しもよ菊の香のする




かく病むはもしや夢にてあらむかと眼を遣る庭に揺るるよ菜の花




眉凛凛しき軽症の日の海人を連翹の黄が波打ちて呼ぶ

その妻の縋りて呼べど海人きみはあらぬ方のみてゐしよ狂ひて

病みて人の愛知りたりと海人の言ひし思ほゆ君が碑に佇つ

北田由貴子さん明治42年生まれ、明石海人さん明治34年生まれ。昭和7年明石の楽生病院の閉鎖に伴い長島愛生園に移ったが、この時一緒に移った一人に明石海人さんがいる。北田由貴子さん享年84。明石海人さん享年39。




癩痲痺に汗出ぬからだ苦しくて臥しをり草木の息づく真昼




ほとんどの五体は癩に蝕ばまれ満足なるは乳房のみああ




兄の漕ぐ舟に病む身を潜ませて故郷出でし夜の月顕つ




熱に臥す居間まで冬の陽届き来よ世の隅にのみ生きて来つ我は




手のよき夫が枇杷むく指の機敏なる動き見てをり不意にかなしき




四肢整ふ夫と病み古る我のもつ違和感寝ね際にしみじみ思ふ




死刑囚の手紙に母よと呼ばれつつ励まし合ひ来し何のえにしぞ




妻と子を恋ひつつ獄舎に
刑死さるる君が歌かなし風花の舞ふ




四人部屋に弱視ばかりの面寄せて床に落とせる錠剤探す




渡り初めの橋を盲ひも足萎えも皆笑顔にてけふ五月晴れ




ためらはず雲ら流るる橋渡り島出て来しが行き場なく佇つ




海底の目のなき魚を恋ひたりし海人をおもふ眼を病みて今




生命線消えて無き掌に夫の載す熟柿の柿の重たき夕べ


北田由貴子さんの過去記事



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長島愛生園  佐治早人さん


3分ほどで読める感動的な随筆だったので紹介致します。
(ハンセン病文学全集4 記録・随筆)より全文を引用させて頂きました。

友情


 療養生活も拾年を過ぎると、めったに便りが来ない。ところが昨日、それこそ半年ぶりぐらいに、郷里の父から便りがあった。それも例によって直接ではなく、町に住んでいる兄を経由してである。飛びつく思いで開封し貪り読んだ。書かれてあること一つ一つがなつかしく、中には予期した結果のものでも、こうして改めて知らされると、今更の如く時の流れというものを感じて、新たな感懐が湧く。読み進むうちに、冷酷に、懐疑的になろうとしている私の心が、昔の楽い生活をしていた頃の尋常な心にたちかえってくるのを覚える。
 文中、特に私の胸を打ったのは、旧友Y君の消息であった。外地から無事に引揚げ、今はまた町場で安定した生活をしていて、時折、帰郷するとのこと、しかも、そのたびごとに私の墓に詣でてくれる由、私は熱いものがこみ上げるのを、どうすることもできなかった。あの、温和なYの姿が眼に見える。
 「私の墓」というのは、一家の名誉のため、私自身承知の上、私が死んだことにして、建てた墓のことである。

 Yと私、それは単に、「旧友」とか「幼な友達」とかいうだけの間柄ではない。Yの父親は、この病気であった。幼なかった私は、喧嘩でもして組伏せられでもすると、きまって「カッタイボーの子」「ナリンボーの子」と怒鳴ったものである。Yは、こういわれると、とたんに組伏せた手を離し、へたへたと地面に座ってしまう。そして涙を一杯滲ませた眼で恨めし気に私を睨んだ。私はその視線に逢い、涙を見ると、あゝ悪い事を言った、済まぬことを言ってしまったと気付き、改めて詫び、仲直りして遊んだものだった。特に一家のことで忘れられぬのは、私らの六年生の頃の出来事である。穫入れも済んだ頃、村に稲泥棒が出没する、と伝えられた。次々に盗難が伝わり、「泥棒は親指のない人間だそうだ」などということも噂された。ところが、気の毒なことに、Yの父は病気のため、ちょうどその親指が蝕まれてなかった。そのため自然Yの父は白眼視され、疑われた。しかし、Yの家は財産家で、人の愛にこそ飢えてはいても、そんなことをする人たちではなかった。それでも、村人は偏見と知りつつも、隣人の不幸を喜ぶ心理から、そんなことを噂し合った。私は、子供心にこの村人の態度を憎み、憤りを感じた。そのため、私とYは、この事件からはより一層親密になった。Yは無口で、時には受持の先生の問いにさえ答えぬこともあったが、私とは絹糸のような細い声で話し合ったものだった。
 やがて、この事件の真相も知れた。それは、二つほど川下の部落に住んでいるKというよそ者の子が、腰ひもで足の指を吊りあげて「お父ちゃん、こうするの」と言って遊び戯れていたことから、犯行が露見したのであった。Yの父の無実はおのずと証明されたが、誰に抗議することもなく、そのまま、事は済んでしまった。

 人生とは、なんという皮肉なものか? ライ者の子であるYは、元気で、社会人として生き、健康を誇ってYを虐めた私が、いま、ライになり苦闘している。
 Yは、何も知らず、私の墓前に、水を花を手向けて、私の冥福を祈ってくれている。「私にも子供がある。Yのような荊の道は歩ませたくない」
 私はいま、Yにだけは一切の顛末を打明け、改めて過去の私の態度を詫び、できれば再び昔のような友情に帰りたい。しかし、いまは、それもできぬ立場にある。私が、最後まで、親友を欺くことが、私に与えられた親友への道義なのかも知れぬ。


佐治早人さんの略歴
1916年11月30日、鳥取県生まれ。1939年4月27日、長島愛生園入所。1942年退所するも、1945年再入所。1970年3月29日に亡くなるまで同園で過ごした。1951年より18年間、機関誌「愛生」に年間一、二編の随筆を発表していた。


悲しすぎる結末。最後まで親友のYさんとの再会はなかったのだろうか。1970年は万博のあった年で、世の中はかなり開放的になり、高度成長の時代でもあり、治癩薬の進歩で菌陰性になっておられただろうから、感動的な再会も想像するが・・・。

ハンセン病は遺伝は関係ないが、親子は体質が似るので、親族で何人もハンセン病の人がなかにおられる。それと「地域性」があって、その風土がハンセン病の発生しやすい地域もあったようである。


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リメイクしてカレー




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昨日の豚汁は、汁を少し減らし、ルーを2個入れてカレーにした。



塩サバ

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キャベツと豆腐の蒸し煮
  
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無水鍋に手でちぎったキャベツを敷き、豆腐を半分に切って入れ、削り節をふり、醤油大さじ1、ポン酢大さじ1で味付けし、よく煮立ってきたら極弱火にして10分、火を消して余熱5分で出来上がり。


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邑久光明園  藤本トシさん



自殺未遂と言はるる己が影濃ゆし傷心に射す署の燈の明かさ




生にも死にも希み絶えたる身の置き処刑事が示せる小さき古椅子




冷たさが冷たしと思へる親しさよ雪にまみれて足らへる心




子を生さぬさだめの中に起き臥して憐れがらるるみごもりしこと




子を生さぬさだめの故にみごもれば思ひは侮辱にひとしきものを




人と生れ雀とうまれ睦み合へりそのみなもとの命をおもふ




晴ればれと窓ゆ小鳥の鳴く聞けば見たし仰ぎたし深き朝空




盲夫足をくじきて
厠へと深夜さぐりて夫を負ふこの力あり涙にじみくる


藤本トシさんの過去記事


藤本トシさんの略歴
1901年2月5日、東京生まれ。1919年に発病し、民間病院に通院後、1925年、身延深敬園に入園。1929年5月、外島保養院に転所。1934年、室戸台風により外島保養院は壊滅状態となり、全生病院(現、国立療養所多摩全生園)に委託される。1938年、外島保養院が邑久光明園として再建後、帰園。園の機関紙「楓」の創刊後、短歌、詩、随筆などを投稿していた。1987年6月2日死去。随筆集『藤本トシ』(1970復権文庫)、作品集『地面の底が抜けたんです』(1974思想の科学社)。楓短歌会『光明苑』(昭和28年)



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長島愛生園  村瀬広志さん



点字器に向ひし吾を友は嘲ひ又穴あけを始めるのかと言ふ




すでに汝の署名終りし離婚状に人の手借りて印おしもらふ




製本を終へし点字愛生三十部の量感を吾は手に抱へみつ




探りつつ裏を確め吾が貼りし切手は逆さになりゐしと言ふ




英単語学ぶ友あり日本語を学ぶ友あり点字学ぶ吾




治療室に待ちつつ居れば声低く離婚せし吾を話題としをり




盲ひてより常に通りし道の辺に芹の匂ふを初めて知りぬ




嫁ぎてより便り絶ちゐし妹が夏衣送り来母の家より




訴へてゐるにかあらむ壁へだてて盲ひの友の荒き異国語




ながく咲く香のしるき沈丁花しるしとなして道まがりゆく




またも雨ならむ窓の辺に点字打つ用紙の音が湿りおびくる




耳鳴りのはげしき今朝は舗装路の吾が杖の音さへ意外にとほく




手さぐりにズボンをたたみ寝敷きする心の皺をのす如くして


村瀬広志(ひろし)さんの略歴
大正10年生まれ。昭和22年長島愛生園入園。「形成」「緑風」所属。『陸の中の島』(1956年)『あかつち』(昭和31年)『青芝』(昭和32年)『風光』(昭和43年)『海光』(昭和55年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『潮風の中に』


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松丘保養園  根岸 章さん



学業を断れし過去に触るるごと机によれば迫る夕闇




湧く夢も朝は惨めに堕ちゆきて痛む掌の傷を独り手当す




病み重き吾をいとはぬ友の児の澄める眼に近寄りがたし




言論の自由は云へど今の世に癩者を取材の記事消さるると云ふ




裏路を歩む習性が人間の卑屈を露呈し気付かずにいる




入り代り入り代りしつつ編まれきし園誌我等継ぎて編みゆく




もりたててゆかねばならず療園誌ひたすら編むにちから幼し




昭和5年創刊されし園誌なり重ねられきていま我等編む




硬貨多く交れる誌代数へつつ猫にも似たるわが掌侘びしむ




年月を重ね煤けし壁の色淋しみながら我等誌を編む




両義肢の軋みのこして前をゆく友の背もまろし冬風の中




堅雪の上に散らばる杉の毬小さき影をおのおのがもつ




酌み交す酒に酔ひつつ磯浜に眉なきことも意識になかりし




唇に探り点字書読みてゆく貌に翳あり君のうつくし




歌想ひ居るときの貌激しくてもの云ひかねしと妻の嘆ける




花充ちて桜の匂ふ丘の道連れ立つ妻に歩幅をあはす




当選者の辞退続きて繰り返す役員選挙に白票多し




灯の下に妻の剥きゆく柿の皮生きゐる如く渦まきたまる


根岸章さんの略歴
昭和5年秋田県生まれ。昭和23年松丘保養園入園。長年自治会執行役員として入所者の福祉向上に寄与。現秋田県人会長。聖公会松丘ミカエル協会の信徒会長など。昭和26年白樺短歌会入会。「国民文学」所属。『陸の中の島』(1956年)『白樺』第一集(昭和32年)『白樺』第二集(昭和38年)『白樺』第三集(昭和47年)『白樺』第四集(昭和58年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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豚汁



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具材のダイコン、タマネギ、ニンジン、キクイモ、ジャガイモは適当な大きさに切り、ジャガイモは切りながら水に浸してアク抜きする。

具材をすべて鍋に入れ、水で戻したシイタケも小口切りして入れ、水と出し汁を入れ、煮立ったら弱火にして味噌半量と酒を大さじ1入れ、生姜1片をおろし入れ、5分ほど煮て、湯通しした豚肉100g、醤油大さじ1、残りの味噌半量を入れ、10分ほど煮て味をみて、ゴマ油を数滴入れて出来上がり。「プロの味の豚汁」を参考にしている。



 

ダイズの煮豆

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青大豆は一晩、水に浸す。干しシイタケは30分ほど水に浸す。具材のニンジンとヤーコンは角切りする。

圧力鍋に大豆と戻し水を少し入れ、出し汁を入れ、具材を入れ、シイタケは小口切りし、戻し水も入れる。醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ゴマ油を数滴入れ、強火でおもりが廻りはじめたら極弱火にして20分煮て火を消し、そのまま放置して出来上がり。3日ほどかけて食べる。

        



サツマイモのおやつ

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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れ(混ぜない)、ユズ1個の果汁を入れ、蜂の巣を入れ、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、さっくり混ぜて出来上がり。定番です。


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松丘保養園  岡村健二さん



わがらいの故にふるさと出でゆきし父母思ふ姉らをもおもふ




病棟の廊下に立て置きし君が盲杖たほれる音す夜の更けしに




病みてより田畑つぎつぎ他人の手に今日は又売買委任状に印捺す




おそれゐしわが顔の痲痺ひろごりてこころは沈み夜早く寝る




痲痺の足鍛へむとけさも歩みゆく雪固き二粁のわが療園の道




シャツのボタンかけ難くゐる痲痺の手のいよいよ冷たしけさの寒さは




はるばると来し韓国の乙女子は病む祖母の療舎を写生して居り




臥す君に窓より折折指図うけ芽吹きし葡萄のつる棚にひろげぬ




瀬戸の小島に老いて癩病むわが友は伊予柑あまた送りてくれぬ




わが庭の熊笹に降る雨の音こころにぞ沁む病友逝きし夜に




おん墓に供へしみ酒を分けて飲む秋日温し芝生の上に




戦より狂ひ帰還りて日すがらを笑ひてゐたる義兄を思へり




いく度か強き反応にも堪へながらプロミン射ちて二十年経ぬ




病み崩えし今も抽出しにしまひ置くわが海兵の写真一葉




み墓辺の山モモの実も熟れたるか狂ひて逝きし義兄をおもへり


岡村健二さんの略歴
昭和2年高知県生まれ。昭和34年松丘保養園入園。34年白樺短歌会入会。「青森アララギ」所属。『白樺』第四集(昭和58年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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駿河療養所  鬼丸一郎さん



山に登り吾が病気言えば癩癒えて結ばるる映画妻は聞かせる




吾が辞表出しに行きたる妻は帰り鏡の前に声殺し泣く




しまいいる家庭医典の癩のページ破りし妻が寝顔見ている




二月七日相ノ浦海兵団に入れと吾が病むも知らず赤紙が来し




水無月の霧に富士ヶ峰煙る日をこの院に来し兄と妻とが付き




吾が入院村に知らるるを怖るれば妻等は陸奥に遠く移りぬ




陸奥に編物教えて暮す妻に涙の出でて病窓に覚む




妻が筆の便りも今は読めずなり点字を習う唇に探ぐり




吾が点字の手紙を読むと陸奥の妻等は点字覚えしと言う




陸奥より来たる妻は吾に泣きどうしても目は治らぬかと言う




前後なき徳利のセーターを妻は編み来ぬ盲い吾が為


鬼丸一郎さんの略歴
明治40年生まれ。昭和25年駿河療養所入所。「アララギ」「人間短歌」所属。『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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松丘保養園  滝田十和男さん


天河

父病むが科あるごとく罵られ川べりに独り笹舟ながす




蒼ざめて待部屋去らぬははと吾れに濡るるまで消毒の液は撒かれぬ




とほくゆく癩のからだを憚かりて出で立ちをさへ夜半をえらべり




子種断つかなしみを噛み入りゆきしに手術室の顔うすく笑へり




誰と誰が死に就ける寝台と知り尽し寝返る夜半を藁こぼれ落つ




看護婦が眼反らせと強ひしとき拇指はあはれ切落されぬ




屈折もまかせぬ指に血は通へこころかたむけ射つプロミンに




なが年を遇はねば吾れの崩えざまにはやも眼は濡れて言葉とならぬ




脳廓も咽喉も萎えし現身に湧く性欲をかなしと思ふ




病む者が苦役負はねば立ちゆかぬああ国立の癩療養所




盲ひてゆくことを知りてか見ゆる目に点字習はむと妻の呟く




感覚を掌に残したる盲等が渇けるごとく点字を習ふ




天の河懸れるよひの沼岸にともなひし妻がくに恋しと云ふ




幼なくて癩病む謂れ問ひつめて母を泣かせし夜の天の河




盲ふまでのながき怖れを耐へきたる君の眼も光うしなへり




死の際を吾が名いくども呼びしとふ母を語りて姉声をのむ


滝田十和男さんの過去記事



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ポテトサラダ



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熱した無水鍋に大さじ1の水を入れ、薄切りしたジャガイモを置き、月桂樹を入れ、極弱火で30分、余熱5分で蓋を開けたら少し焦げていた。油を入れない場合は(火力にもよるが)大さじ2~3の水が必要と思った。

熱いうちにボールにとってつぶす。他の鍋に少し水を入れ、ニンジン、冷凍グリンピース、タマネギ、キャベツの順に時間差で煮てザルに上げ、よく湯切りしてボールに入れ混ぜる。マヨネーズ、塩・胡椒、砂糖少々、レモン果汁(酢の代り)で味付けして出来上がり。



ゆで卵
  
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ポテトサラダに1個入れようと思ったが入れなかった。


 
タマネギと魚ソーセージのケチャプ炒め

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熱したフライパンにゴマ油を入れ、ニンニク1片の薄切り、魚ソーセージ1本、タマネギの順に炒め、ケチャップとソースで味付けして出来上がり。


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栗生楽泉園  秩父明水さん


癩新薬プロミン予算復活を願ひて断食の祈祷決しぬ




プロミンにて嗄声癒えたる友のこゑわが聴覚を驚かしめつ




いのちなきものと思はず朝開き夕べは閉づる花にふれつつ




盲われの歌に写像のなきことを指摘さるるを頭垂れて聞く




二十年病みて盲目となりし身のたはやすく今は涙流れず




二十年癩にし盲ひありありて今若草の妻と添ひ寝る




術もなき吾が愛欲の衰へを言はざる妻に看とられ居りぬ




盲ひしを幸と思はねど霜凪のこの安らかさ日の中をゆく




感覚のしびれし指に触るるもの皆よごれものの如き感じなり




咲きさかる花のけはひは盲わが五感をこえて夕べしづけし




衰へか救ひか知らず年古れば癩病むことも沁みて嘆かず




抹消神経痲痺し尽して生きてゐる日日を丸太のやうに冬籠る




麓まで白き浅間を告ぐる妻の面さへしらず吾は添ひゆく




人手より人手に育ち来し妻の時にあどけなく吾にあまゆる




盲導鈴こはれし角より四十五歩左に曲り百歩と記憶す




便り絶ちて病む吾みむと麦蒔終へ湯治よそほひ兄の来りぬ




自殺者を讃ふる如き口吻も一期のはなむけと黙して聞きつ




雪風に半日吹かれ屍色に変色せし手を人に言はれをり




給食のマカロニうまし故郷のほうとうに似しこの舌障り


秩父明水さんの略歴
明治41年2月17日埼玉県生まれ。昭和7年聖バルナバ医院入院。7月24日受洗。昭和10年病状悪化して失明状態。11年「アララギ」入会。点字習得。昭和12年5月から斎藤茂吉の指導を受ける。完全に失明。昭和16年4月24日バルナバ医院解散に伴い栗生楽泉園入園。昭和20年「アララギ」復刊とともに土屋文明に師事。「新泉」「潮汐」「高原」で鹿児島寿蔵に師事する。昭和25年4月君代と結婚。昭和39年群馬県文学賞短歌の部受賞。昭和42年没。『高原歌集』(昭和12年)『雲遊ぶ山』(昭和31年)『盲導鈴』(昭和32年)『山霧』(昭和41年)『三つの門』(昭和45年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)
 
 


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栗生楽泉園  川島多一さん



松葉杖つきあゆむ身は傘さし得ず今日はプロミンの注射休みぬ




飾りもなき不自由者室に借受けし一鉢の白きバラの花匂ふ




竝べある二足の靴に顔寄せて白きボタンの目印を探す




玄関に梔子と沈丁花持ちこみて共にきびしき冬を越えんとす




お歳暮よと言われて朗らに頂きぬ二週間分の薬の袋




炬燵の上に置きたる鉢の沈丁花眠らんとするわれに匂いくる




風邪熱の落ちたる今日は玄関の花木に急須の水注ぎやる




閉じぬ眼の涙に汚れしわが眼鏡を看護婦は丹念に清めくれたり




友夫婦に守られて長き冬越えし机の上の鉢の金魚たち




山道にて看護婦の拾いしどんぐりが机の引出にころころ踊る




蛇口よりほとばしる寒の水をのみ今朝も廊下の体操にいでゆく




我がことを村人たちに隠し隠し惨めに死にし母の恋おしも




納屋にかくれ機械を踏みて縄ないしかなしき日日は今も忘れず




古里を出でしかの日の記憶悲し水塚のかげに若竹茂りいき




病むわれに会うために兄は善光寺に詣ずと嫁にいつわりて来し




わが杖の音を覚えしと目の見えぬ姪は寝台に坐り待ち居つ




名を呼びつつ探り寄るベッドに応えなく姪の面に白布かけあり




若き日の写真美しと聞くときに病みくずれ死にし姪あわれなり




十五年振りに来し姉は許してと言いながら我の手を取りて泣く


川島多一さんの略歴
大正2年生まれ。昭和9年栗生楽泉園入園。「高原」に出詠。『山霧』(昭和41年)『棕櫚の葉』(昭和53年)『冬の花』(昭和53年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『凍雪』(昭和63年)『高原短歌会合同歌集』(平成4年)


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大島青松園  朝 滋夫さん



おだやかに凪ぐごとく見えてつかのまも移ろいやまぬ内海の潮




みじろげば待合室の木の椅子が軋むそれぞれに重い患部をいだき




病みて永き二人の間のくらがりに線香花火の火華散らしむ




歓楽は昨夜果てしかな仕掛花火の骨組ばかり見せて恥辱めく




乱れ打つ太鼓は狂い舞う獅子は搾取されどおしの農民の譬諭




中絶の子はまぼろしのなかに育ち馳けもどりくる春の渚より




せり果ててがらんどうなる魚市場もっとも魚のなまぐさい時




人間の美醜よりわれを解き放つ街の群集の中にある森




濃密に流るる冬の霧の中樹と樹とは近くにありて孤立す




病むわれら船もろともに観光船の追いぬいてゆく波にあおられ




ガスコンロのすべての孔が焔を吐き煮つめられいる女の論理




つるばらはつるばらどうしからみあいて虚空へ立つらい園の冬の心




渇水期の島よ蛇口が絶望にちかい韻たてて吐く水の量




古き創を透視されいて少年期のあやまちはいまむれかえる初夏


朝 滋夫さんの過去記事


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鯛のアラ汁




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「アラ汁」にするか「アラの水炊き鍋」にするか「アラ煮」にするか考えて、今回はアラ汁にした。

昆布、煮干し、干しシイタケは出し汁を作る要領で昼から4時間ほど水に浸しておいた。具材のダイコン、ニンジン、キクイモは千切りにし、タマネギはスライスして鍋に入れ、煮立ったら弱火にして昆布は取り出し、湯通しした鯛アラを入れ、生姜1片をすりおろし、酒とミリンを入れ、強火にして再度煮立ったら弱火にして10分煮て、目分量で味噌を溶き入れ、醤油を大さじ1入れ、ネギを入れ、5分煮て出来上がり。





ニンジンとキクイモの蒸し煮
  
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熱した無水鍋に大さじ1のオリーブ油を入れ、乱切りしたニンジンとキクイモを入れ(混ぜない)、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、今回はポン酢でなくニンニク醤油とオイスターソースで味付けして出来上がり。

ベーコンか豚肉を入れるともっとおいしいかも知れないが、野菜だけでも十分おいしい。
 


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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