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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

駿河療養所  田村史朗さん(2)


田村史朗遺歌集


兄二人を殺されし盲いのこの我に天皇を罵らずに居れというのか




赤紙あかがみにこき使われしかの四年黒き眉返せ見ゆる眼返せ




自治会の解散企らむ陰謀にも挑発にも乗らずいまはもの言う




目に見えぬ圧迫なれば監房設置に案外呑気で患者らはいる




「アカハタ」を聞きつつ描く空想が癩に盲いし今を支うる




盲い果てて流人の如き寂しさを党にまぎらすを人知るや否や





藤本松夫の死刑は止めよと大臣に打電し止めどなく涙こぼれつ




映画あれば寮はひとりの天下にて思いきり声あげ万葉を読む





大寒もようやく過ぎぬ盲杖に感づる土のやわらかくして



田村史朗さんの略歴
1918年10月5日福岡県大川市生まれ。旧制佐賀高校、京都帝大経済学部を繰り上げ卒業し陸軍燃料廠本部勤務主計軍曹で敗戦を迎える。1947年駿河療養所入所。1949年駿河療養所所歌作詞。失明。1950年駿河会会長。1951年復生病院に「追放」12月再入所。1952年作歌をはじめ「アララギ」入会。1953年点字を習得。「檜の影」「静岡アララギ」入会。らい予防法闘争に参加。1954年新日本歌人協会入会。1955年駿河会評議員議長、所内留置場設置反対闘争、ハンセン病盲人に身体障害者手帳交付の運動を起こし成功。1956年日本共産党入党。1957年藤本松夫救援活動に全力を尽くす。1959年身障者福祉年金獲得のため点字投書を提唱し獲得に成功。1959年12月22日肝臓がんのため逝去。享年42。駿河会最初の自治会葬をもって葬られた。『苔龍胆』第一集(昭和28年)『苔龍胆』第二集(昭和29年)『苔龍胆』第三集(昭和31年)『三つの門』(昭和45年)『陸の中の島』(1956年)『田村史朗遺歌集』(1961年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


田村史朗さんの過去記事


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ヤーコン(レンコン)団子

 
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ヤーコンはレンコンのレシピがそっくり使える。そのレンコンレシピに載っていたレンコン(ヤーコン)団子を作った。(野菜はともだち参照)

ヤーコンの皮をむいてすりおろし、たくさん出る水分はコップにとり、つなぎに片栗粉を大さじ2ほど入れ、小口切りしたネギを少し入れ、熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、スプーン等で落とし入れ、裏表5分ずつ焼いて出来上がり。ポン酢で食べる。

形が少し崩れたが、甘くておいしい。コップにとったヤーコンの汁はちょっと土っぽいがとても甘い。すぐ飲む。



ブロッコリー
 
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茹でてマヨネーズで。こてこて味付けしない方がおいしい。




簡単キャベツ蒸し

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熱した無水鍋にキャベツを手でちぎって入れ、シイタケのスライスを入れ、軽く塩をして極弱火で10分蒸して蓋を開け、生姜1片をすりおろし、水で溶いた大さじ1の片栗粉でとろみをつけ、醤油で味付けし、強火で30秒炒めて出来上がり。(野菜はともだち参照)



干しシイタケ
 
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晴天が3日続くと乾き、ジップロックに入れて冷蔵庫で保存すれば1年は持つ。



キンリョウヘンの水やり

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週に1回、土曜か日曜に水やりをする。休日にすると忘れない。すでに1センチほどの花芽が伸び、おごった鉢には5個以上の花芽がのぞいている。

パオパオの二重トンネルにして、その上からポリをかぶせ、夜間はその上に古毛布を被せる。まだ電熱温床は入れていない。例年勤労感謝の日前後に当地では強い初霜があるのに、今年は月末になってもまだ降りない。だからこの時期になっても暖かい日中はミツバチがせわしなく出入りしている。


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駿河療養所  田村史朗さん


田村史朗遺歌集


事実なき自白強いられ冬暮るる分館の土間の上の六時間




うるさき患者を追放すれば院の秩序が保てるとでも思っているのか





患者自治会の役員はせぬ職員の批判はせぬこれが我再入所誓約書





癩予防法改正の日の来るのを待ちて屈辱の誓約書に黙し押印す





部屋出ずるを断ちて百日か我は点字一分に六十字打つべくなりぬ





癩吾等の国会陳情団二十名送りてしばし緊張を解く





生きも死にも今は率直にうべないて千一本目のプロミンを射つ




眼球剔出言い渡したる医師の前我は心を整えんとす




ただひとり山の深きに我は来ておのずから湧く涙を拭う





今日も来て教えらるるがに我はありただ黙黙と毛糸編む汝に


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長島愛生園  依田照彦さん


依田照彦歌集

癩とわかり七日目にして吾をここに入れたる叔父を今は肯ふ




癩故にみだれむよりは自決せよと言はれし言葉今に忘れず




下駄ひきて足蹇え吾の歩むさま猫は見てをり地に首つけて




吾が一生の幸とせむ茂吉選歌欄に入りて二年選受けしこと





療養のかたはら成りし気象年報ささやかなれど台長に送る




歌により生くる甲斐ある癩園にせめて静かなるわが部屋が欲し




真実をさぐる思ひに舌当つる基本点字の金板の冷え





盲ひし身の縛らるるごと男手に袴下の紐を結びもらひぬ





盲導柵白く伸びたる坂登る朝の治療に始まる一日





血を呼ばふ声は吾がうちに悶えつつ父祖の血統も吾にて断たる





吾が腿を裂きて採りたる筋膜を医師は無雑作にぶら下げて見す




身障度異なる四人が眼を手足を補ひ合ひて淡淡と棲む





六畳に二名の議決も崩れゆくになほたのむ雑音なき私生活




些細なることにも利かぬ吾が指よポケットの十円玉をつまみ出して貰ふ





義肢ふたつ外され並ぶ夜の室に床展べて明日につづく空白





癩園に隔離舎あり狂人舎あり不自由舎あり又更に超不自由舎が建つ





重対軽の患者相剋を憂ふとも吾が拠るは不自由者八百余名の連署





飯済めば立ち出づるかな組織をばただ批判するのみの君等をあとに




委員会分科会世話人会とつづきつつ今日はしづかに歌会にをりぬ





病む記録たたかふ記録身に刻み国の処遇のまにまに貧し





武蔵野の土を包みて送りくれしやさしかりしを春来れば恋ふ





開園四十周年は吾が闘病の四十年何を求めて生きてきたりし





この園に十二の療舎移り住みなほ明日の我が住定まらぬ





今朝の霧にパン牛乳船も着かぬといふ島の不便は唐突に来る





消極に傾く日日を思へども致し方なき老のきざしか





礼拝堂炎上
蜂起せし彼の日とどむる血判状自治のゆるみの火に失ひぬ




絶詠
痛覚の失せし指より血の噴くを生けるしるしと見つめてゐたり




一日の動き支へし足伸べてほてれる肌の繃帯を解く



依田照彦(横内武山)さんの略歴
大正元年香川県生まれ。父を早く失い母とともに生活の苦労をする。姉1人妹2人の4人兄弟。昭和6年5月27日開園間もない長島愛生園に入園。数年にして軽快退所し、大阪で働く。姉の婚家に身を寄せていた母を引き取り、妹2人も自分の手で嫁がせる。昭和15年再入園。学園教師、長島気象観測所の作業に従事。昭和17年「アララギ」入会。不自由舎に移ったのちは、性格的に不向きと見られた自治会活動にも関与、社会党員として政治活動に参加。一時、植物採集に懲り長島の植物を余すところなく採集したこともある。昭和46年11月26日脳出血で急逝。『島の角笛』(昭和8年)『青磁』(昭和26年)『小島に生きる』昭和27年『あらくさ』『陸の中の島』(1956年)『あかつち』(昭和31年)『青芝』(昭和32年)『風光』(昭和43年)『三つの門』(昭和45年)『依田照彦歌集』(昭和47年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『楓陰集』(昭和12年)

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ブリ大根


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ダイコンは乱切りして鍋に入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、出し汁を入れ、水も少し入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、15秒湯通ししたブリのあらを入れ、生姜1片をすりおろし、落し蓋をして10分煮て出来上がり。

ぶり大根」を参考にしたが、ダイコンを下茹でせずにそのまま煮ても味は変わらないと思う。




玄米ダイズご飯


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玄米3合を洗って無水鍋に入れ、水を4カップ半入れて一晩浸す。ダイズも一晩浸す。炊く時にダイズを玄米の上に置き、ダイズの戻し水を半カップ入れ、6~7分で煮立ったら極弱火にして1時間20分、火を消して余熱30分で出来上がり。少し焦げたがおいしかった。

無水鍋ではダイズも玄米も1時間15分~1時間半で煮える。30分ほど余熱処理するので合計2時間ほど。圧力鍋だとおもりがまわり始めたら極弱火にして20~25分、火を消して余熱処理を1時間以上するので合計で1時間半ほど。

味の比較をしたことはないが、時間をかけた分、無水鍋の方がおいしく炊けると思う。圧力鍋を活用するのはダイズを煮る時だけなので、圧力鍋が壊れたらもう買わない。

   
 



ニンジンとキクイモの酢醤油和え

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ニンジンは拍子木切り、キクイモは適当に切って鍋に入れ、煮立ったら弱火にして10分ほど煮て柔らかくなったらザルに上げる。ボールにラッキョ酢と醤油を入れニンジンとキクイモを入れてすりゴマをふって和えると出来上がり。「ニンジンの酢醤油和え」を参考に、去年何度か作った。

味が濃くならないようにしたことと、レシピの「酢+砂糖+みりん」は「ラッキョ酢」で代用した。





ハクサイの甘酢漬け


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ハクサイは縦5センチ、横1センチほどに切って塩をふり、重石をして3時間ほど置き、水気をよくしぼる。その容器にヤーコンの甘酢とラッキョ酢(酢+砂糖の代わり)を入れ、レモン果汁を少し足し、醤油とゴマ油を小さじ1入れ、鷹の爪を1本小口切りし、その中にハクサイを戻して混ぜると出来上がり。

白菜の茎の甘酢漬け」を参考にしたが、以前、違う方法で何回も作ったことがある。この方が簡単そうだった。半日待たなくてもすぐに食べれる。
 
      


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ポポーという果樹


ポポーという果樹をご存じですか。水曜日の新聞に大きく載っていて初めて知った。

苗木を売っているホームセンターでも見かけたことがない。買う気になったのは、
(1)アケビに似ており、カラスが狙わないだろう。
(2)熟すると落下するのは、フェイジョアやクルミに似ている。
(3)落葉高木で柿のように庭木として植えられる場合が多い。

後押しとなったのは、長島愛生園 壱岐耕さんの歌集黒薔薇に「熟すれば自ら落つるポポーの実木下にけさは草敷きておく」という短歌が載っていて、なんか「ご縁」があるような気がした。

市場性がないのは、
(1)収穫した時が食べ時で、日持ちがしない。
(2)ビワのような黒い種がたくさん入っている。

近くの苗木販売業者に電話したら、そのうちの1軒で1980円と言われたので2本注文した。毎年100本ほど注文があり、以前にテレビでポポーが取り上げられた時は300本ほど注文があったようだ。

タキイやサカタの通信販売では品種が6種類ほどあるが、苗木が小さく、価格も2倍以上する。

植えてみないと育ち具合は不明(ミカンを植えても当地では大きくならない)だが、アケビに似ているので害虫は少ないような気がする。

果樹はとにかく植えてさえおけば、後年大きな効果を発揮することがある。サクランボは実がなる年は少なく、なっても小鳥の餌になる事が多いが、花がきれいで春先の蜜源となり、落葉も遅く、その太い根元は格好の巣箱置き場となっている。

カラスが狙わないというのは最大のメリットで、キーウイ、フェイジョア、八朔の3種類は我が家では、冬期間の楽しみの果樹である。

桑の木も昨日数えたら6枚の田畑(猫の額のような田畑も多い)に52本(2品種)あり、300頭ほどずつ3年飼ってカイコは止めたが、6月~9月の4か月間、ヤギの大好物の餌である。どんどん伸びる側枝をバシバシ切ってヤギに与え、背丈ほどの高さにとどめれば他の果樹の邪魔にはならず、場所もとらず、どんな荒地でも桑の木だけは逞しく育つ。5センチポットに3本挿し木しておけば1本は根が出て、1~2年で50本に増やした。


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菊池恵楓園  藤本松夫さん(3)



澄み渡る空の青さよ真実の再審を寄せよ我は祈る




さつまいも三個ありてささやかに秋分の日をば祝いぬ




自嘲めく心もあれど捨てかねて短歌かく事も日課となりぬ





面会もとぎれとぎれ拾年過ぎ吾の望みも小さくなりゆく





朝露を身に浴びながら野草刈る農夫の姿獄窓に思い居り





いたずらに虚空をさぐる思いして獄に過ぎ行く日々の淋しさ





獄塀に影ながながと昏れゆきて吾れにひたひたと寄せる哀感





吾が知らぬ讃美歌なれば只管に師の口元を見つめつつ唄う





今日も一日ことなく終えて夜の房に背を寄す柱の欲しき刻あり





争いはすべてが吾の事からと母の便りは囚吾を泣かしむ




神の道知らざるままに掌を合わすこのひとときの心はなぎぬ





此の膝に吾子の甘えし記憶あり獄の寒さにひたに堪えいて




吾が歌の活字となりて世に出るをよろこびくれる母の文来る





囚友の寝つき早きを羨みつつ虫の鳴く音に吾娘想いいる


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菊池恵楓園  藤本松夫さん(2)



出獄の背広に替えて別れ言う囚友の笑顔は日本一なり





闇を貫く群蛙の声哀し母と暮らせし日と異ならず




死刑なるが故の孤独かまなぶたの焼け付くまで本を熟読す




夜勤終えてかえる看守に羨望を感じていたり獄の休日




主の平安汝にあれと祈る母の手紙束になりて幾度か読む




さようならと立てばおろおろ面会の母は寂しき瞳し給う




刑長きもののみが持つ性なるか吾も何時よりか壁際に座す




限られし鉄格子の視野一杯に降り来る秋日に摑まりてたつ




独房に一人布団を繕いて手馴るる寂しさに吾は疲れつ





憶い出は悔につらなるものばかりにてこの寂しさを支うるものなき




区切られし冷たき壁の底にいて午前八時の飯を喰い居り





悲しみは二九の年につながりて獄に三九の年を迎うる





鉄窓に参観者が残すかすかなる香料暫し佇ちてかぎ居り





苦しみの半生の記録にて風に吹かるる悲しみもある





一枚の葉書なれども深深と療友は囚なる我をいたわる




手を曳きしことも記憶あり高校二年になりし吾娘の文読む


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ヤーコンの甘酢漬け


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ヤーコンはスライスして、小さじ1入れた酢水に1分ほど浸し、沸騰した湯で30秒ほど茹でて冷水にとり、瓶に入れる。

出し汁180ccを火にかけて砂糖50gを溶かし、酢120ccを入れ、冷めたら瓶に注いで出来上がり。

使ったのはヤーコン大1個で、300cc(180cc+120cc)の甘酢がコーヒーの瓶なら7分目くらいで、ヤーコンがひたひたになる。明朝には食べれる。



出し汁作り

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前夜から、煮干し、昆布、干しシイタケを浸しておく。中火にかけて煮立ったら弱火にして昆布は取り出し、削り節を入れ、5分ほど煮て、出し殻をすべて取り出し、再沸騰させてアクをとると出来上がり。冷めたら瓶に入れ冷蔵庫で保存すると1週間ほどもつ。



出し殻のふりかけ


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出し殻は手で水気をしぼってみじん切りし、熱したフライパンで乾煎りし、砂糖と醤油で味付けして出来上がり。



ニンジンとキクイモ


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昨日の大根ステーキをニンジンとキクイモに変えてみた。

熱した無水鍋に大さじ1のオリーブ油を入れ、5ミリほどに切ったニンジンとキクイモを置き、極弱火で20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、バターをとかし、ポン酢を入れ、強火で1分炒めて出来上がり。

オリーブ油を入れずに、バターだけにするともっとヘルシーかもしれない。



ハクサイのベーコン蒸し


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昨日のパスタに2枚使ったベーコンが3枚残ったので、ハクサイに使った。

ざく切りしたハクサイをタジン鍋に入れ、ベーコンを置き、胡椒で味付けし、弱火で15分、火を消して余熱5分で出来上がり。ポン酢で食べた。

水を入れなくても、右下の画像のようにハクサイからコップ3分の1ほどの水が出た。
 


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菊池恵楓園  藤本松夫さん(1)


獄中歌



寝はぐれて夜ふけの獄に夏虫の白壁這うを吾は見ていし





獄の蜘蛛は白壁伝い高き隅に一夜の内に巣を作るなり




年毎に小さくなりゆく吾が夢か秋空今日も碧し





獄塀も沈みし暗の空に佇ち遠き蛙をたぐりつつ聞く




台風のそれて静けき屋根添いに蜂の飛びきて鋭き影曳く




ふんわりと夕日に赤きちぎれ雲今日も一日無事に過せり




送り来し人形なれど許可ならず手にも触れず領置す獄の悲しさ




今朝替えし花筒の水臭いだつ昼を臥し居り獄のベッドに





視界せまき獄舎の窓にわがよれば親しく住みし山遠く見ゆ





秋夕焼もゆるが如き獄塔に明日もとなえる番号哀し




はるばると母の便りの着きし日よ心を濡らし日照雨降る




獄庭に小さく咲きし菊花をながむる今日は父の命日





靴音をきけば誰ぞとわかるまで病長かりし独房にいて





泣きに来し母の小さき顔の皺ただおろおろと見守るばかり




面会の次回の日をば指おりて数える母はいたく老けたり




護送車の窓にすがりつくごとくして叫びし母の声を忘れず



藤本松夫さんの略歴
1922年7月18日、熊本県菊池郡水源村生まれ。1950年自覚症状のないまま、ハンセン病の宣告を受ける。1951年同村F宅にダイナマイトが投げ込まれ、Fが熊本県衛生課のハンセン病調査に際し藤本を患者として報告したことを逆恨みしての犯行として逮捕された。懲役10年の判決を受け菊池恵楓園内の拘置所に収容されたが脱走。脱走中にFの刺殺体が発見され53年死刑判決。57年8月最高裁で死刑確定。この事件は、裁判官は調書や証拠を扱うのにゴム手袋に長い箸を使うなど偏見と、はじめから藤本を犯人とする警察・マスコミなどの予断に満ちたものであった。58年「藤本松夫を救う会」(会長 中野菊夫)が発足し、全患協とともに松夫の救援を行う。62年には「救う会」による現地調査が始まり、運動が次第に盛り上がり再審が請求されたが、1962年9月14日福岡刑務所で処刑。藤本は、はじめ文字も読めなかったといわれるが獄中で文字を学び、短歌や詩を作り全国の支援者に書簡を送り無実を訴え続けた。


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長島愛生園  壱岐 耕さん


黒薔薇

たまきはる命のきはも会いがてぬ かたゐの兄を汝は持ちにし




臥りゐる慰めに聞けとわが友は鶯の籠かしてくれにけり




このままに二十日を病めば盲ふてふ眼の痛みはや七日つづきぬ




このごろのわが癖となりて起きぬけに紫陽花に向ひ視力をためす




入園の人あるらしもこの夜更けぽんぽん船の近づく音す





療院のならひ悲しも夫逝けば住みなれしいへも移されにけり





つぎつぎに起れる家の不幸みなわれのやまひに因するごとし




心してつねにありつつ知らぬ間の火傷はかなし痺れたる手に





パラソルを欲しがりて手紙よこしたる義妹は癩園に病む吾等とも知らず





人生とはああこの一語よ崩れゆく肉体もちて何と解くべき





かつて誰とも争ひしことなきわが性を少し物足りなく妻は思ふらし





単純な寓話ぐらゐでいやされる悩みでもなし眼をふかく閉づ





インクの栓口もて開けるわがさまを見つめてをりし妻が目にあふ





断れし指ふたたび生えるはずもなく全治といふも悲しき病ひ




傷いえしプロミン治療の例として裸のからだ人に見らるる





世の中に隔てられたる癩院になほ囲ひして監禁室あり





唇に今日火傷して気のつけば何時かここにも麻痺及びゐる





二時間もたたぬに尿の紅く染まる今度の注射は効くかと思ふ





プロミン治療以後の稀なる再発と医師らきてとるわが血を肉腫を


壱岐耕(耕人)さんの略歴
明治45年愛知県生まれ。昭和7年明石の楽生病院閉鎖で明石海人らと長島愛生園入園。はじめ健康に恵まれ海人の世話や購買部の責任者など幅広く活動。また、花作りに力をそそぎ園内の花壇の美化につとめた。昭和14年2月から「水甕」に作品発表。昭和29年「水甕」同人。その後「アララギ」に移る。昭和32年2月6日急逝。享年44。『楓陰集』(昭和12年)『青磁』(昭和26年)『小島に生きる』(昭和27年)『あらくさ』(昭和30年)『陸の中の島』(1956年)『あかつち』( 昭和31年)『黒薔薇』(昭和32年)『三つの門』(昭和45年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)


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大根ステーキ


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熱した無水鍋のフライパンに大さじ1のオリーブ油を入れ、1センチほどに輪切りしたダイコンを置き、ごく弱火で20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、強火で点火してバターを溶かし(箸を利用して)、ポン酢(大さじ3~4)をかけて30秒ほどして火を消し、1分蒸らして出来上がり。

「うまうま☆大根ステーキ(バタポン味)」を参考にした。おいしかったので近日中にまた作りたい。

無水鍋で20分+5分でダイコンが蒸せる。そして水も残らない。これがポイントだった。



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残りのダイコンはダイコンおろしにした。



初物ホウレンソウでパスタ


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ホウレンソウにロケットも加え、ざく切りして30秒茹でて冷水にとり、水気をよくしぼる。ベーコン2枚は細切り、ニンニク1片はみじん切り。パスタは表示の8分茹でる。


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パスタを茹で始めてから、フライパンを熱し、大さじ1のオリーブ油を入れ、ニンニク、ベーコン、タマネギ、青菜の順に炒め、ケチャップとウスターソースで味付けし、火を止めてパスタが茹で上がるのを待つ。

ゆで上がったパスタはよく湯切りしてフライパンに入れ、強火で1分ほどからめて出来上がり。

反省その1→水気をしぼった青菜はよくほぐして(ばらして)おくべきだった。

反省その2→パスタにタマネギは必須なのに忘れて、その間中断してしまった。




サトイモの煮物
 
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サトイモはこそげるようにして皮をむき、乱切りして鍋に入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、削り節も少し入れる。20分ほど水で戻したシイタケは戻し水ごと入れ、出し汁を入れ、たらずは水を入れ、煮立ったら弱火にして15分煮て出来上がり。定番です。朝や昼のおかずにもいい。




キャベツのレモン醤油和え
   
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キャベツは細目にざく切りして1分茹でて冷水にとり、水気をよくしぼりながらボールに入れる。小魚はさっと湯通しする(もしくは湯をかける)。

お椀にメンツユ大さじ2(もしくは醤油とだし汁各大さじ1)、レモン果汁大さじ1、蜂蜜少々を入れて混ぜ、ボールに注いで混ぜると出来上がり。


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松丘保養園  生島 明さん



白樺第一集(白樺短歌会)



君の歌は暗いといふ評にこだはりつつ明るい歌詠めば嘘めく




傷心を癒やす術なく夜の床に自嘲の言葉いくつかはけり




施療患者吾に飼われて生くる故仔犬は常に暗き眼を持つ




愛されぬ患者の一人と評されつつ熱出でし夜はふてぶてと臥す




結局は体力に左右さるる会議にて何時しか暗き雰囲気に堕つ




理解とは一体どんなことなのかつまりは誰も私を知らない



生島明さんの略歴
大正12年生まれ。昭和9年松丘保養園入園。「白樺短歌会」所属。昭和37年没。享年38。『白樺』第一集(昭和32年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)。


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栗生楽泉園  金 夏日さん


無窮花


欄干にもたれておれば雪深き真下の谷に啄木鳥きつつきの音




母たちを帰国せしめて東京に父はのこれりライわれのため




ライ園のわれも僅かの献金をしぬ動乱祖国の難民のため





戦死せし兄の茶色の背広着て会いに来ましき六十歳の父




戦災の炎に一夜眼を焙り五年を経てわれは盲いぬ




朝鮮語の点字学びて祖国の歌くちずさみつついつか眠りし




八十の齢の同胞も朝鮮語の点字ひたすら学ばんと云う




年老いし同胞に学べる朝鮮語の点字生かしたし祖国にゆきて





日本の統治下に朝鮮で学べざりし朝鮮文学を今にして学ぶ





韓国にクーデター起りしこの宵は朝鮮語学校早じまいしぬ





クーデターにわが同胞が殺し合う銃声を聞きて今宵は眠れず





韓国より留学に来し朴先生わが舌読をおどろき見守る





ライ知らぬ後の世の人は舌読のわが写真見ていかに思わん





少年のころ世話になりたる全生園故郷の如くなつかしみおり




無窮花とはいかなる花か朝鮮の国花と聞けばわれは知りたし





病友の誰もが今日は食を断ち処刑されし藤本松夫を悼む



金 夏日(金山光男・吉川正夫)さんの略歴
1926年朝鮮慶尚北道桃山洞の農家に生まれる。1939年先に日本にわたっていた父を追い一家で渡日。菓子工場で働きながら夜学に通う。1941年発病、多摩全生園に入園。1944年長兄が海軍の軍属として徴用、逼迫した家計を助けるため退園、1945年東京大空襲で罹災、長兄戦死。1946年病状悪化し栗生楽泉園に入園。兄弟帰国。1949年失明。「潮汐」に入会。母帰国。1951年日本に残った父と帰国した母が前後して死亡。1953年点字舌読をはじめる。1955年通信教育で朝鮮語の点字を学ぶ。1960年園内の同胞により朝鮮語学校が開かれ母国語を学ぶ。1969年菌陰性となる。昭和50年代から日本名金山光男を改め本名・金夏日に戻す。『陸の中の島』(1956年)『盲導鈴』(昭和32年)『山霧』(昭和41年)『三つの門』(昭和45年)『冬の花』(昭和53年)『無窮花』(1971年)『黄土』(昭和61年)『凍雪』(昭和63年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『高原短歌会合同歌集』(平成4年)『やよひ』(1993年)『機を織る音』(2003年)。


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ヤーコンのニンニク醤油炒め

 
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昨日のダイズの煮豆が黒くなったことを反省し、「ヤーコンのアク抜き」と検索して調べた。

ヤーコンは切るとすぐに変色するので、材料を準備して最後にヤーコンを切り、小さじ半分の酢を入れた水に浸した。1分ほどでザルに上げよく水切りをする。熱したフライパンに大さじ1弱のゴマ油を入れ、ニンニク1片のみじん切り、魚ソーセージの細切りの順に炒め、すぐにヤーコンを入れて2分ほど炒め、ニンニク醤油で味付けし、1分炒めて出来上がり。今回は変色しなかった。



サツマイモのおやつ

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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れ(混ぜない)、蜂蜜を入れ、極弱火で30分、火を消して余熱5分で出来上がり。ユズ果汁を入れ忘れたので、最後に蓋を開けてから入れた。




3種のサラダ

  
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レタスとロケットは手でちぎり、サラダ水菜はざく切りし、ザルに入れてよく水切りする。市販のドレッシングで。



ネギ卵

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鍋にだし汁を入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、削り節も少し入れ、煮立ったら弱火にして卵を入れ、3分ほどしてざく切りしたネギを卵の周囲に置き、3~4分煮て出来上がり。      


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菊池恵楓園  伊藤輝文さん


山峡の石橋


野菜刻む包丁の音もととのひ来し新妻置きて吾は去り来ぬ




入りつ日に阿蘇のけむりの紅く映え遠く隔たる家の恋しも




売られたる家の最後の夜にしていたく寂しく眠れざりけり




川より運びし石を墓標に積み置きて家族悉くふるさとを去る




病む吾を去りゆきし妻は山里に貧しく在りて炭を焼くといふ




疎まるる病の吾れ故に嫁がざる妹が来て酒つぐ茫漠の世か





地下足袋の土を落して注射場の列に加わる患者土工夫





息き絶えし友の骸の傍に足袋を穿かせし義足横たふ




萎えし手より滑り落ちたる石鹸は生き物の如く拾い難しも




病む吾とともに正月を過ごさむと雪降るなかを父は来ませり




古里の山にみのりし栗を茹で手萎えの吾に剥きくるる父





萎えし手にフォークを持ちて飯を食ふわれの手許を父が見てゐる





しらじらと霧のなづさふ檜の杜を浅蜊貝売るこゑ透りくる




命ある限りなげかむ足萎えとなりては穿かれず下駄を捨てたり




高血圧にて母は死にしと思ひゐしに気のふれし事をけふ父の告ぐ




植付けの終りし棚田に人を見ず通潤橋は吾のふるさと





出稼ぎにゆくと偽りて寮園に命終りし人もありたり




梔子くちなしの匂ふ舗道に来かかりて盲ひの君は杖をとどめつ




古里に帰り来にけり遠き日を病みかくれ住みし土蔵が見ゆる




娶りしを罪の如くに思ひつつ別れし妻を此処に来て恋ふ




病み崩えしわがうつそみをしみじみと嘆きて弟の一夜宿れり




癒ゆるなき療養所の吾をかなしみてか若き命を断ちし妹




少なきを詫びつつ面会に来る度に銭を呉れたる妹の逝く





面会に来し妹が絞りたる形のままの雑巾があり





生きの身のひとりの思ひ極まりて仰げる空に雲の一ひら




老いづけばかたみに心寄るものを吾より先に弟の逝く




赤き陽がいま水平線に沈みゆく日の没るさまは何処にても寂し



通潤橋の影を映せる轟川はやは群れつつ浅瀬に泳ぐ




この谷の水引く棚田いく世代此処に貧しく母は果てたり


伊藤輝文さんの略歴
大正3年熊本県の緑川上流の村に生まれる。昭和6年県立農学校卒、8年県の農林関係の職につくが、朝鮮の咸鏡南道の朝鮮窒素会社に転じる。発病して帰郷、結婚。昭和33年菊池恵楓園入園。7月「檜の影」会に入会。34年7月「アララギ」入会。『海雪』(昭和35年)『檜影集』(昭和51年)『三つの門』(昭和45年)『山峡の石橋』(昭和57年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)。


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菊池恵楓園  高橋 寛さん


なぎの窓辺に


花園の花に疲れて野を行けば青き穂に立つ麦畑つづく




たかぶりのをさまる時に涙落つかくうとまれて術なき病ひ





痺れたる曲りし指の悲しきよ今日もきづかず火傷をしたり




兵となり戦ひ病みぬそののちはただおどおどと過ぎし十五年




生くる身を罪とも思ふ日のありてなべてのことはただ淡淡し




古里思ひ明日を思ひて術もなく妄執のごとく父母思ふ




つきつめて思ふは苦し今はただ買ひしアザレヤの蕾をかぞふ




また一人菊作りにて交りし友逝き菊の季節となりぬ




病みつつも菊を作りて十幾年痺れし手の指を骨より断ちぬ




疵癒えて妻と小鳥と
万年青おもと待つ夕べの部屋に帰り来にけり




四畳半に妻と二人の十幾年いら立つときもさからはずゐる





死に近き母を見舞ひにゆくことも許されず吾が病み古りにけり





吾が母の葬りに集ふ写真の中逢ひしことなき人多きかな





何百かの人に送られ征きし駅病む身ひそかに帰り来りぬ





今更に生きる時間に大差なし無理多けれど妻よ旅せむ




雑草を抜き取る力残る身のおのれ励まし補助義足はく




かなしみを塗り込めしごとき己が手か五本無くして五本の指





からうじて挫ける心を保ちゐる吾にかなしき蛙の鳴く夜




切りし足を医師が看護婦に示し居りああわが指がついてゐる足





痛ければ構はず膝立て飯を食ふ亡き父の写真の掛かれる下に





両の手の繃帯取れねば術もなし洗面バケツに顔入れて振る



高橋寛さんの略歴
大正10年福井県の農家の次男に生まれる。未熟児だったが父母や祖母の愛を受けて育つ。13歳のとき妹が出生。大学生の兄が中国で戦死。高等小学校卒業後、農業技手補に合格家業を継ぐ。昭和17年2月現役兵として中国戦線に派遣。20年11月敗戦後捕虜生活の中で発病。21年7月上海から最終帰還船で佐世保から菊池恵楓園に送られる。「思春期を非常体制下にそだち、青年期を戦場におくり、壮年期を療養生活に暮らす」。昭和24年受洗。村上多一朗のすすめで「檜の影」に入会。「アララギ」に参加。『菴羅樹』(昭和26年)『陸の中の島』(1956年)『海雪』(昭和35年)『檜影集』(昭和51年)『なぎの窓辺に』(昭和56年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)。


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ダイズの煮豆


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ダイズの煮豆の季節がやってきた。このダイズは義母にもらった。

具材はヤーコンとニンジンを同じくらいの角切りにし、干しシイタケは20分ほど水で戻した。ダイズは一晩、水に浸しておいた。圧力鍋なら極弱火で20分煮るだけだが、無水鍋では極弱火で1時間15分は煮る必要がある。普通の鍋なら2時間以上煮てもなかなか柔らかくならないだろう。

無水鍋にヤーコン、ニンジンを入れ、戻し水ごとダイズとシイタケを入れ、この時点で水加減をみて、水を少し減らしてから、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ごま油(風味付け)を1滴落とし、煮立ったら(蓋を開けて状態を確認した方がよい)、極弱火にして1時間15分、火を消してそのまま冷まして(放置して)出来上がり。

あと15分足して1時間半煮た方がよかった。なおキクイモがコンニャクのような色になっているのはキクイモのアクによる。切るとすぐに変色するので、切りながら酢水につけたら変色しないと思うが、色が変わっても別に問題ない。



大根の柚子漬け

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1週間ほど前に漬けた大根の柚子漬けを樽から出した。もう1週間経過するともっとおいしくなる。




おでん→カレーにリメイク  

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昨日のおでんにグリコの二段熟カレールーを1個入れてカレーにリメイクした。

今日のカレーをイメージしたわけではないが結果的に、おでんに入れた月桂樹、生姜、タマネギがカレーにヒットしたと思う。そして、ダイコンがカレーと相性がいいのに驚いた。
 


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大島青松園  林みち子さん


夕映ながく


故国遠く独り病む身の如何ならん小声に友はアリラン歌う




「親不幸なる子」と五歳の日のわれの今日を言いあてし女の遍路




咽喉切開わが受けし日と母の死の重なる疼き消ゆることなし




ライ園の夜空に天ノ川仰ぐここに少女のいのち古りにき




目のくもり払わんとして瞬きをまたくりかえす昼の孤独に




宵はやく慣いとなりて床に入る眠るも眠らぬも時のままにて




うかうかと見ていしわれか聞くのみの夫が確かなストーリーを言う




杖にさぐる人それぞれに癖ありて夫の帰りもその音に知る




一本一本苦しみしのち落とされて指失せし手が語るわが過去





しのび来て独り見て立つ生家跡蝶は遥けき日のままに舞う




日本をうち破りたる米国の治癩薬にてこの身癒やさる





矢面に立ちて自治の灯ともしたる人逝きぬ菊のとみに薫る日





生けるものかく逞しく美しき蜘蛛はさかさになりて巣つくる




一つ一つ身体の自由うしないて今のいのちに縋る一眼




おがむ形に両手合わせて物つかむその片腕の患みて窮まる





光みる眼をもたぬ夫と居て点す灯りはわれのみのため




古稀迎うる吾に寄りくる子もあらずグラス二つを満たす灯の下





衰えをとみに覚ゆるわが視力春の霞か黄沙の降るか




うからなく家もあらざる古里にわれを包みて山あたたかし




人住めばそこに道あり柿熟れて病みて離りし古里に似る





目に光ある間に何かなすべしと声なき声に心せかるる





今は今の心にたりて生くるほかなかるこの身よ鳳仙花散る





耳のうしろに僅か知覚の残りいて生きの証のごとく噴く汗





かなしきまでにわれはこだわる嫋やかな五本の指の動く表情





風呂の湯のあつさ加減を舌にみる麻痺せぬところそこのみありて





海を出で海に没りゆく日のさまを此処に仰げり少女老ゆるまで



林みち子さんの略歴
大正4年11月徳島県生まれ。7歳で発病。昭和8年6月大島青松園に入園。昭和32年1月「関西アララギ」に入会。38年6月萩原澄と結婚。昭和47年第10回関西短歌新人賞受賞。昭和48年夫・萩原澄の古里に二人の歌碑建立。昭和60年1月関西アララギ年間優秀作品賞受賞。『やどりぎ』(昭和43年)『三つの門』(昭和45年)『心よ羽ばたけ』(昭和52年)『夕映え長く』(昭和63年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)。傘寿を夫と共に迎え「らい予防法」廃止を記念して、歌文集『開かれた石の門』(平成8年・共著)を刊行。



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大島青松園  島田しげるさん


美しき非情


白杖にまだ馴れきれず足重く不安踏みしめ踏みしめ歩む




抑えても込み上げてくるもののあり推薦欄に我が歌が載る




盲いたる我に温き春光を浴びて漂う梅の香に酔う





白き杖大地に一歩一歩記し闇の非常をま探りゆきぬ





舌先に点字を習うこの姿老いゆく母に見せたくはなし




自らを燃やして光見出さん舌に点字の粒をま探る




灯の消えし重症寮に黙深しやみをひき裂く春の雷





癩ゆえに青春もなく盲いたる吾に桜はひらひらと散る




療養のわがうつろいを満たしつつ散りゆく桜が春日に匂う




蜜柑の花匂う車窓に見えぬ眼を向けつつ想う故郷の山河





患者が患者を看とらねばならぬらい園のこの現実を打ち破るべし




しみじみと独りの思いかみしめぬ僚友の縊死を知らされし後





脱げし下駄杖に探れば杖先に触れて冷たき石ころの音





生きの眼を摘出したる空洞に冬深ませて吹き抜ける風





挫折感深まりてゆく枕辺をやわらげて匂う水仙の花




ひまわりは太陽の花バンゴッホの晩年思う独りの午後を



島田しげる(茂)さんの略歴
昭和6年12月6日愛媛県南宇和郡伊方町に男5人女4人の末子として生まれる。幼くして父をなくし母の愛を一身に背負って育つ。昭和26年9月1日19歳で大島青松園に入園。兄妹のうち唯一人の発病。園内作業の過労で失明。失明後、詩や短歌、文章を書き、川柳は「島一休止」名。昭和39年9月から46年1月まで「林間」に所属。『美しき非情』(昭和50年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)。


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おでん風


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野菜はダイコン、ニンジン、キクイモ、タマネギを用意した。適当な大きさに切って鍋に入れ、出し汁と水を入れる。月桂樹と削り節も少し入れ、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、先日の残りの鶏肉を湯通しして入れ、生姜1片をすりおろし、平天を入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、弱火で15分煮て出来上がり。


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月桂樹、生姜、タマネギはおでんには入れないようだが、違和感はなかった。


卵豆腐
  
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ボールに卵2個を溶き、1カップのだし汁、大さじ1のミリン、塩少々を入れて混ぜ、容器に入れる。無水鍋に容器の3分の1が浸るくらいの水を入れ、煮立ったら極弱火にして容器を入れて10分、火を消して余熱5分で出来上がり。


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菊池恵楓園  島田尺草さん



みまかりし友の遺稿を写し居る夏の浅夜を雨降り出でぬ




ストーブの焼けほてりしを囲みつつ師と語り居る今朝は嬉しも




電燈に飛蝗ばった とまりてみじろがぬ寒夜の部屋に独り寝てをり




向日葵の広葉にそそぐ雨脚の目にはすがしき夏来りけり




子規歌集しばし読み止め眺め居る庭の山茶花ひとつ散りたり




(石川孝君を悼む)
友を焼く煙の匂ひうら悲し日暮れて山を我が帰り来ぬ




秋づきて落つるひと葉か病みこやる夕べの窓に音たてにけり



(少年敏夫は我が檜の影にありて俳句短歌を学びゐたりき)
ありし日に汝が学びつつ書きにけむ幼き文字を見ればかなしも




歌会終へて帰る夜道や下駄の歯のしみつくほどにはや凍りをり





音もなく桜散りしく昼ふけや我が死ぬる日はかくもありたき





注射もせず薬ものまずなりはてし心荒びのしるきを思ふ




土の面に落ちては消ゆる雪をみつつ心ひそかになりゆきにけり





そのかみの面影もなく病み崩し我が身をいまはもてあましつつ




部屋の中に花などさして眺めゐる楽しみごとを病みて知りけり




健けき人にまじらひひと日我が心ほがらかに歌詠みにけり




今日明日と迫る命と思はねど若き心のしづまりがたし




やすやすと呼吸のできねば起きなほり寝なほり遂に心尖れり




この道に草鞋の紐をしめなほしたゆまぬ歩み我が続けまし





現身の視力かへらずこの春は花さへ我にそむく思ひす



島田尺草(大島数馬)さんの略歴
明治37年9月16日福岡県嘉穂郡に生まれる。16歳で発病し、薬を求めて各地を放浪。大正13年九州療養所入所。入所後、作歌を始め、昭和3年より歌誌「水嚢」に参加。昭和12年「水嚢」同人。長年「檜の影」編集に従事し自ら印刷工となって発行に尽くす。昭和8年失明。9年に気管切開。歌集『一握の藁』(昭和8年)『檪の花』(12年ともに水甕社)。昭和13年2月23日没。享年35。『檜の影』第2集(昭和4年)『檜の影の聖父』(昭和10年)『島田尺草全集』(昭和14年)『菴羅樹』(昭和26年)『三つの門』(昭和45年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)



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鯛アラと根菜の煮物


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ニンジンとキクイモは5ミリほどにスライスする。鯛アラは湯通しする。鍋にニンジンとキクイモを入れ、水とだし汁を半々ほど入れ(全部出し汁だとすぐになくなるから)、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして5分煮て、鯛アラを入れ、生姜1片をすりおろし、落し蓋をして、引き続き弱火で12分ほど煮て出来上がり。30分以上おいてから食べると味がしみる。

ニンジンとキクイモは火の通りも同じくらいで相性もよく、煮崩れもしない。





ジャガイモのオイスター炒め


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熱した無水鍋に大さじ1のオリーブ油を入れ、薄切りしたジャガイモを置き(混ぜると底の油量が減り焦げる)、風味付けに月桂樹3枚とローズマリー2茎を置き、極弱火で30分、火を消して余熱5分で蓋を開け、オイスターソース大さじ1と醤油小さじ1、胡椒で味付けし、強火で30秒ほど炒めて皿にとり、冷凍して粉々にしたバジルと粉チーズをふって出来上がり。



タマネギと魚ソーセージの炒め物
   
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熱したフライパンにごま油を入れ、ニンニク1片のみじん切り、魚ソーセージ半本の小口切り、タマネギのスライスの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。


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蜜蜂 冬の装い


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田んぼの一群と、


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山の一群の巣箱を、ダンボールで囲んでもらい、越冬のための寒さよけをした。

簡単に見えるかも知れないが、自分にとっては超苦手作業なので、蜂仲間に頼んでしてもらった。

5年前の初年度にまぐれで、たまたま一群が越冬したが、分蜂後、残った群もすぐに逃げ去った。だから今回が初の本格的越冬である。

ためこんだ蜜を少しずつ食べながら、4ヶ月後の春を待つ。蜂群が小さかったり、貯蜜量が少なかったら、2月末~3月上旬が最も危機的状況となるらしいが、どちらも極めて強群(大群)で貯蜜量も多いので、2月末~3月上旬に「給餌」をする必要もなく、アクシデントがなければ4月10日前後に「第一分蜂」をするだろう。強群なのでどちらも4回は分蜂すると思う。自然界において種を維持できるのは25~30%と思うので、春の分蜂期間である4月10日~5月15日頃の間に4回は分蜂しないと種が途絶えてしまうだろう。 


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長島愛生園  福岡 武さん


石あたたかし



肩叩かれふり向くしばし声とならず二十七年振りの弟立てり




慌しく会ひて別れを惜しむ間も銀杏もみぢの散りやまぬなり





死の床に父は言ひしか弟にらい園にわれの生きてゐること




何といふ脆きこころぞ一言のいたはりにわが溺れてゐたる





戦死せり友あり若く死にしあり療園にいまわれは生きをり





一言一句に癒やされてゆくわが渇き真砂に水の滲み入るがごと




ひとつひとつ小さく諦め生きて来てわれにいのちの一眼保つ





囚はれてゐる思ひにぞ島のうちいづくにゐても波音ひびく





泊り客などある筈なけれど一組の布団を妻の蔵ひおきあり





注射うち薬つづけて三十年菌ほろびしとき髪白きわれ





羽づくろひしつつしんがりをゆく家鴨わが拙さを見る思ひせり




古き病友らの遺せし書冊ひしめきて吐息嗚咽のこゑぞきこゆる




かつがつに一眼保ち盲友らの世話する側にいまわれのあり





天体の一瞬ならむ七十六年人のいのちの短く長し





わが耳に聞けば哀しき虫が音の或ひは歓喜のこゑかも知れぬ





海鳴りはたらちねのこゑか噴き出づる汗も涙もしほ辛くして





童のまま齢経しごとき老いざまをいまは嘆かじ古稀を迎へし




いたはられ支えられきてけふのあり石に座れば石あたたかし



福岡武(武夫)さんの略歴
大正6年7月10日三重県生まれ。昭和23年7月15日長島愛生園に入園。「アララギ」から昭和43年10月「形成」に入会。木俣修に師事。昭和54年岡山県文学選奨受賞。『あらくさ』(昭和30年)『陸の中の島』(1956年)『あかつち』(昭和31年)『風光』(昭和43年)『海光』(昭和55年)『石あたたかし』(昭和62年)『ハンセン療養所歌人全集(昭和63年)『夢にはあらず』(平成9年)。

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ハクサイとツナ缶の煮物


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ハクサイ500gはざく切りして鍋に入れる。お椀にツナ缶、醤油大さじ2、オイスターソース小さじ2、胡椒少々を入れて混ぜ、ハクサイの上に置き、中火で10分煮て全体をかき混ぜ、今度は弱火で10分煮て、最後に水溶き片栗粉でとろみをつけて出来上がり。「白菜とツナのとろとろ煮」を参考にしたが、味が少し濃かった。なおレシピではツナ缶の油も全部使うようになっていたが、油はよく切っていれた。



ブロッコリー

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一昨日同様、1分半ほど茹でて湯切りし、マヨネーズで食べた。



3種サラダ
  
   
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いつものサラダで、サラダ水菜はざく切り、ロケットとレタスは手でちぎる。市販のドレッシングで。




初収穫 ヤーコン

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ヤーコンを初収穫したら、今年はすごい入りだった。1株で3~5キロ。


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2株めでコンテナ7分目ほどになり、


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3株めの半分はコンテナに入りきらなかった。

ヤーコンは掘り上げて3~4日経過すると甘くなるが、日がたつと逆に栄養素(フラクトオリゴ糖をたくさん含有する)は減っていく。

キャベツ、ロケット、ミズナ等と生食サラダが主体だが、「レンコン」と全く同じレシピが使える。

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長島愛生園  太田正一さん



天のてのひら



苦しみて生きたるは癩者のみにはあらぬ歴代救癩先駆者の悲史





届きたるふるさとの餅に耳よせて何聴かんとす盲のわれは





友の眼をわが眼となしてめぐる丘たんぽぽに飛ぶ蝶もまぶしも




盲人に録音書あり人間が愛に用うる声のよろしさ




天地苦しきまでに光りつつ光りつつ見えぬ眼を圧して来る





一代きりの癩者の畠の枇杷の実は小粒にて甘しわれも一代




乾きたる風よ光よ癩園の道は海に沿い曲る他なき




舌読は酷き学びと言う声をあえて退けきわれは若かりき




結実は重たからんか鶏頭の傾く海が今日も鳴るなり




乾きたる楠の一葉をもてあそぶ舌の知覚の親しくもあるか





海よりの冷えもろともにコスモスにかぶさるごとく夜の来りたり




二十一世紀に滅びる癩と聴くからに愛しも一日一日のいのち




新たなる一壺加えてそれぞれに位置たしかなりあわれ骨壺




大患のうつつ疲れかまな底に動かぬ白き風景がある




木蓮が保つ孤高を渡る風ひびき合いつつどこまで渡る




牡丹雪降ると誰彼の声透る大気は水に似たる和らぎ




長島架橋ことほぐ花火とどろけばわが流離感砕かれてゆく




勝鬨の声挙げて橋を渡り来るよ東京の療友ら沖縄の療友ら




病みたるは七歳盲いたるは二十二歳わが七十歳戦うなゆめ




介護婦が掌に載せくれし天道虫おのが天地を隅なく歩む



太田正一(省二・弧石)さんの略歴
大正7年兵庫県生まれ。健康な記憶を持たないほど幼くして発病。昭和9年5月6日長島愛生園に入園。16年失明盲人寮に移る。21年春母面会。25年受洗。28年盲人会の結成とともに点字舌読をはじめる。36年結核病棟に入室。昭和40年「塔」(高安国世主宰)。昭和55年度現代歌人協会賞受賞。『風光』(昭和43年)『海光』(昭和55年)『風光る』(昭和55年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『天のてのひら』(平成元年)


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お好み焼き


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先日おいしかったのでまた作った。キャベツ200gは太めの千切り、豚肉100gは湯通し、薄力粉100g、卵1個、水150ccをボールに入れて混ぜる。熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、具材を2つに分けて流し入れ、裏表5分ずつ焼いて出来上がり。ウスターソースで食べた。



キャベツのレモン醤油和え


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残りのキャベツはざく切りし、1分半ほど茹でて冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。小魚は火を止めて15秒湯通しした。お椀にレモン果汁大さじ1、出し汁大さじ1、醤油大さじ1、砂糖少々を入れて混ぜ、小魚を2分ほど浸してボールに注ぎ、混ぜると出来上がり。




出し汁作り


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前夜から干しシイタケ、昆布、煮干しは鍋の水に浸しておいた。点火して煮立ったら昆布は取り出し、削り節を入れ、弱火で5分ほど煮出して具材は全て取り出し、再沸騰させてアクを取り、冷めたら瓶に入れて出来上がり。



出し殻でふりかけ

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出し殻は手で水気をしぼってみじん切りし、熱したフライパンで乾煎りし、砂糖と醤油で味付けして出来上がり。



切干大根のゴマ和え


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切干大根は30分ほど水で戻し、醤油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして8分ほど煮て、最後に酢を少し入れて火を止める。煮汁は捨ててすりゴマを入れて和えると出来上がり。

ゴマ和えはいまいちなので、次回は切干大根の違ったレシピをネットで検索したい。

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長島愛生園  北田由貴子さん


死角の島


癩病めば優生手術をうけて住む夫婦舎地区に子らの声なし





弱き眼に容赦なく沁みる陽を避けてわれは日陰を撰りつつあゆむ




義肢の友はるばる山を越えてきて今日はわがために日もすがら読む





わが膝にわがこぼしたる飯粒を拾ひつつ何かつぶやく夫よ




亡き父母の遺志継ぐ姉が讃岐米背負ひて今年も面会に来し





相逢へば手をとりて泣くわが姉の荒れしその手にふるさと匂ふ





長生きをせよと言ひつつわが髪を梳づる夫に溢れくるもの





女子寮に老いて盲ひて鈴つけし靴にてあゆむ友とゆきあふ




おもかげのはるかになりし海人の歌碑をおほひぬ楓もみぢは




ひたすらに点字舌読せる友は訪ひ来しわれにいまだ気づかず





舌にのみ残る知覚に点字読む友の一途さにこゑもなく佇つ





爪もげて痛覚のなき足ながら生けるしるしと血の噴きいづる




わが視力ありて絵をかきゐしころに憧れたりしピカソ逝きたり




エンジンを響かせて漁に出る船に島の夜あけは海より来たる




紅きダリヤ活けし治療室にわが眼洗ふこの看護婦の孕る羨し





堪えて生きむ堪えて生きむになほゆらぐこころ放たむ茜の空に





先生が育てたまひし海人の歌碑に来れば我にも燃ゆるものあり





生甲斐を歌に託せよとのたまへることば率直にあたためて来ぬ





夫とわれ劬りあひてこれの世の死角の如き島に存らふ



北田由貴子(林由貴子)さんの略歴
明治42年香川県の港町に4人兄弟の末子に生まれる。祖父は寺子屋、父は塩田の仕事に従事。昭和元年発病。明石の楽生病院に入院。昭和7年病院の閉鎖に伴い5月13日長島愛生園に移る。このとき一緒に長島愛生園に移った一人に明石海人がいる。昭和11年「水甕」入社。昭和16年「水甕」準同人。昭和23年結婚。一時、絵画による新しい生き方を模索したが視力の衰えで断念。昭和45年内田守人との再会を機に「水甕」復社。昭和48年「水甕」同人。「もくせい」所属。平成5年没。享年84。『萩の島里』の林由貴子。『楓陰集』(昭和12年)『死角の島』(昭和51年)『海光』(昭和55年)『この島を』(昭和57年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)『春を待ちつつ』(平成元年)。


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ブリのアラ汁


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鯛のアラを買うつもりでスーパーへ寄ったが、ブリのアラしかなかった。3つに小分けし、その1つを使った。干しシイタケは水で戻した。具材はダイコン、ニンジン、キクイモを同じくらいの大きさに乱切りして鍋に入れ、水、シイタケと戻し水、残っていた出し汁1カップ弱、市販の出しの素少々を入れ、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、湯通ししたブリのアラを入れ、酒少々と味噌の半量を入れ、生姜1片をすりおろし、さらに10分煮て、残りの味噌半量と醤油大さじ1を入れて味を見て、最後にシュンギクを入れ1分煮て出来上がり。
簡単!ブリのあら汁」を参考にした。


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豚汁よりアラ汁の方がおいしいと思う。




初物 ブロッコリー

  
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初物のブロッコリーは茎と房に分け、茎は薄切りした。沸騰した湯に茎を先に入れ、30秒後に房を入れ、1分ほど茹でてザルに上げ、マヨネーズで食べた。



大根おろしと人参おろし


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ポン酢で食べた。



ポン酢作り

  
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醤油70cc+酢50cc+みりん30cc+出し汁25cc+ユズ果汁25cc=200ccのポン酢を手作りした。753ポン酢を参考にしている。

出し汁がなかったのでユズ果汁を50ccにした。うっかり醤油を120cc入れ50cc多かったが、味はさほど変わらなかった。

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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