僕の絵
━━白内障摘出 紅彩切除の開眼手術を受けて
じわりと明るさが沁みこんでくる
一枚一枚繃帯のとかれ
陽光に僕は近づく
最後の一枚を取りさった
押しこくるような勢いで
真昼の光が僕に差しこんだ
医師が光る 看護婦が光る
友だちが光る 僕が光る
きらきら光る 光りに僕は包まれた
僕の目の前に立ちはだかった
厚い鉄板
現在ぶち抜かれ
堰をきったようにあふれる
光りを浴びて僕は立っている
闇からまったく解放されたのだ
黒よりなかった僕に
色がある
ここに僕がある
そこに友だちがある
太陽がある
道がある
大自然がある
日陰にも無限の光線が射しこんでいる
夜でもすばらしく明るいのだ
自分の姿を見詰める
痛いほどの明るさ
一睡もしない日が幾日となく続いた
強烈な光りを受け
闇に馴らされた僕の視神経は耐えられなかった
直射日光にあたった豆モヤシのように
十幾日でへし折れてしまい
二度まっくら闇に僕は覆われ
一層厚い鉄板が目の前にたちはだかった
光りがすぐそこにある
この目で確かめた
明るさが そこにあるのだ
まだ 僕には
どんな厚い鉄板でも突き通す
感が残っている
思いきりこの感をゆり動かして
僕は
光りに向って生き抜く
僕の絵を
描き続けるのだ
生涯僕の見詰める
真黒い鉄板に
竹村 昇さんの過去記事
2030年 農業の旅→

春愁
五月の雨が晴れて
木々の枝先に
草々の葉先に
雨滴が光り
芍薬の花は
燃えるような夕焼けに染り
松の芯はまっすぐに
天を指している
それなのに
私の心の片すみを閉す
重苦しいゆううつ
それはきまって此の季節にやってくる
うすずみ色の
栗毬のようなものだ
それがある時は
重りいく病いと
又ある時は郷愁と結びついて
奈落の底へ私を誘う
そんな時
ぼんやり海岸に佇んでいると
はるかの水平線が
私の眼へとんで来ることがある
今日も昏れいく海岸に
たった今が
過去となっていくことを忘れて
それを堪え受けていた━━
秋
あれもこれも離れていき
これもあれも離れていく
ペンは手をはなれて
机の上に位置をかえ
手とペンは無限のへだたりを生じる
右手と左手のあいだに
秋の野は横たわり
よそおいた木の葉は力なく
樹の枝を見放す
記憶は雲の浮遊と共に移り去り
凡てのものが
風景の中に離散した
靴
二ひきの黒揚羽が
くつぬぎ石に止っている
風雨にうたれたのだろう
はねが破れている
だが
とびたつ心は押えきれない
みどりの草原を夢見る心も
黒い蝶の黒い羽ばたき
黒い翳を落して
一瞬蝶は
一足の靴になった
春
めぐり会えるこの日のいのち
かつての冬の曠野
時雨の枯路も消え去り
なごやかな陽光を
たたえて木々は芽ぐみ
呪われた病いも
新らしい薬によって
癒える夢を育て
活き活きとして
希望に満つ
生きていることの嬉しさを
真実悟らしめる春よ
更に
世のすべての病めるものに
あまねく新らしい光と
こよなき倖のあらんことを
私は願う
上丸春生子さんの過去記事
上丸春生子(上丸たけを・上丸武夫)さんの略歴
1912年3月17日富山県に生まれる。1940年7月9日、光明園に入所。詩作会会員としてよりも、卯の花俳句会会員としての活動が長い。俳句は戦後に始め、「ホトトギス」「玉藻」などの結社に所属。自治会役員も長期務めた。1983年3月18日死去。
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異常な温室
花という花は咲くのに
ここには
胡蝶が来なかった
今年も
りゅうぜつ蘭は
黒い花を咲かせた
が
だれも見向きはしない
つぼみは
ひらかぬさきに枯れてゆき
花びらは
みのらぬさきに
散ってしまったりする
けれど
他目には
さほど異常な温室だとは
想わないらしい
━━ぼくが狂人なのだろうか━━
胡蝶を待つ身体に
棘がはえそうだ
外は
季節の風が吹いているのに・・・
注射
固い光の先が
皮肉を突きぬけて
いやに にごった血を吸いこむ瞬時
ぼくは顔をしかめる
けれど それは
今日から明日への危うげな期待と
苦悩の集積
重く押し入る薬液の
息詰まるほどのながさは
線香花火の
もえつきた後に残された
眸穴の幻映
ぼくは
唇に意味の無い笑いをひろげる
流星
みとめられなかった 生命が
華々しい仲間たちに
さびしい微笑の別れを
わずかな秒数にきざんでは燃える
真暗い世界に生きて
その生命の終りに
やっと 身を摩擦した輝きは
たとえ地上に亡骸が残らなくとも
燃える生命と
擦り減る生命を
誰れかが知っていただろう
夜毎永遠の美を誇る仲間たちよ
ぼくは
あなたたちのような偉大さを知らなかったが
それでも燃えたのだ
小泉雅二さんの略歴
1933年3月5日広島県に生まれる。1948年7月9日、工業高校を中退して長島愛生園に入所。1955年より詩作を始め、詩誌「杭」をつくる。その後、長島詩話会、「青い実」、「乾漠」などに参加。1958年には「裸形の会」を結成、詩誌「裸形」を創刊。1964年「らい詩人集団」の結成に参加。1967年失明。1969年慢性腎炎、尿毒症にて死去。詩集『枯葉の童話』(1959 長島詩話会)、『白い内部で』(1962 裸形の会)、『小泉雅二詩集』(1971 現代詩工房)。
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郷愁
目の見えない友 義足の友は
広々とした原っぱに座って
声を揃えて
どじょっコだのふなっコだの鬼コ来たなと思うべを唄って
唄って、疲れて
沈黙が続いた
四十男はとんきょうな声で
お母さん・・・と呼んだ
声は山から山にひびき渡って 返ってくる
誰も笑わない 笑えない
もう 一度 お母さん・・・と呼ぶ
みんなが一斉に
発破のあとの響のように谷谷の底に吸い込まれていった
共同墓地の前で
可愛い
オカッパの幸子が
私の脳裏に浮ぶ
私は抱きたい衝動になって 幸子・・・お前はなぜ生きていて呉れなかったんだ。
あの時は貧乏のドン底で 南瓜と豆腐のオカラばかり食べた時だから お前は栄養失調で死ななければならなかったんだ。
母ちゃんも乳が出なくなって お前もつらかったろ。だが お前は豆腐のオカラをうまいうまいと食ったんだってなア。
お前の母ちゃんは四人の子供を育てるために、朝の二時頃から夜の十時か十一時までも豆腐作りしなければならなかった。
借金があった。
病棟にいる父ちゃんのところに お前を背負った母ちゃんは まだ夜の明けないうちにマラリヤと癩病で入院している私を病棟の裏の下駄工場の軒下まで呼び出して
「いくら働いても生きていけそうでない、どうせ死ぬなら一緒に死にましょう」と云った。
父ちゃんは母ちゃんと泣けるだけ泣いて語った。
お父ちゃんもお母ちゃんも お前の兄ちゃん姉ちゃんを親無子にして 社会に残して死ぬ気にはなれなかったのだ。
生きれるだけ生きようと思った。
私は何のためらいもなく泣かせて貰った。
今は こう こんなに涙でビショビショだ。
療養所ではどんなに悲しくても 寄合所帯だから
思いきって泣けもしないんだよ。
幸 幸 お前は死んではいない。
身体はここに埋っているが、幸子 お前は死んではいない。
お前の霊は生きている。
私の心に生きている。
加藤三郎さんの過去記事
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第一歩
追いつめられて
二進も 三進も出来なくなって
渇いて 干からびて
歪んでしまった心を持っている私に
あの人は
御仏を信じろと云うのです
西の涯の
太陽の沈む その向こうに 在しまして
見たことのないものには姿さえも見せない
御仏を
皮肉に包まれた骸骨になった私に
どうして信じることが出来ましょう
御仏を信じる資格のない私は
せめて身近にいる人を
もっとも身近にいて
毎日お世話になっている人だけでも
信じたいと思うのです
看護婦さんだけでもよいから
医師だけでもよいから
隣ベッドの僚友だけでもよいから
信じられるようにして下さいと
私は
御仏に念ずるのです
鏡
柱にかけてある小さな鏡に
顔がひとつ写っていた
近寄って見ると
それは私の顔だった
脹れた瞼
歪んだ唇
僅か残っている睫毛や髯も
みんな私のものばかりだ
何ひとつとして他人のものはない
誇張もせず謙遜もせず
そのまま写している鏡を見ているうちに
私は鏡が欲しくなって来た
歪んだ唇は歪んだままに写している
この小さな鏡のように
心の写せる鏡が欲しかった
心のうちでどんなに感謝していても
表現出来なければなんにもならない
有難う
と云って見ても
口先ばかりと思われてしまえばそれまでだ
こんな時
言葉は頼りにならないから
心のうちを写して見せる
鏡が私は欲しかった
未完の孤独
温い手と冷たい手
白い眼と黒い眼
無数の手と無数の眼が
私の周囲で 蠢いている
他人を蔑視したがるのが
人間の習性だとしても
他人から蔑視された時ほど
憤りを感じることはない
むやみと同情したがるのが
それが善人の知恵だとしても
他人から同情された時ほど
切なさを感じることはない
蝕まれた歯には
温い湯も沁みる
冷たい水も沁みる
私は孤独になりたくなって
ある日、小室に移ったけれど
一人でなければならないトイレの中まで
群像は私に 憑いてくる
高野岩次郎(高野金剛)さんの過去記事
高野岩次郎(高野金剛)さんの略歴
1913年8月15日群馬県に生まれる。1957年8月2日、栗生楽泉園に入所。1987年9月5日死去。
2030年 農業の旅→
