春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。
わたしの存在が
わたしの存在が いかに小さくとも
すべてであってひとつであるもののために ムダでなかったとの証言を
人類の歴史に刻まれてゆく という約束を
ただ このわたしを忠実に見守ることで しめしたい
(1953・5・19)
便所の電灯が昼ともっているのをみつけたとき ハタと心に映じたこと
消し忘れられている灯のあわれさ
灯をつけていなければと 一心におもっているが
その灯は いま なんの役もしていない
消されてはじめて
昼の世界はこんなに明るかったと
さとることができる
(1954・3・11)
旅人
きょうかたわらにいた人とあすは十里を離れ
きのうまで山ひとつ間にしていた人と夕べにはあう
わたしはなつかしくてならない
すべての人がいつも遠くて また近いような気がする
わたしは すべての人の中にわたしの分身を感じる
よんでも その分身がこたえてくれない時は
わたし自身がわたしにとって遠いものと思われてくる
わたしの分身
それはふるさとであり 童心であり
平和であり さびしさである
わたしは未完成だから
また あなたの分身をわたしの中に感じるので
わたしは旅人として歩みを休めることができない
(1955・12)
朝
海辺の芝草をサクサク踏んで
たれにも気づかれず
朝はやく 露にぬれたなぎさに 近よる
自然が たれにも 見られているという
意識をもたない
静かなすがたでいるところを
そっと 足音をしのばせて
近よって
ながめたい ながめる
わたしは この時 とてもうれしい
美しい
なつかしい
幸福だと思う
わたしも
この世界にふさわしいものとして
ひとつの位置のあることを 感じる
(1954・8・8)
おれは近ごろ
俺は近ごろもう死んでもいいナ とよく思う。
いざという時には死ねるんだ、人間であればだれにも死はきっとやって来るんだ、と思うと安心できた。
それでいて、死がおそろしいのだが、死をおそれなければならぬ理由さえ、考えるのに疲れた。
生きていて、あすに何があるのだろうかと思った。
もうじき夏が来て暑くなればスイカが食べられるのだ。アイスクリームはおいしいだろうな、その時おれはきっと、生きている喜びを味わうに違いない。お菓子の配給日が楽しみだ。ということばかりが、頭に浮んで来るのだ。
こんな泡沫にひとしい、くりかえされては消えてゆくことがらが第一で、どうして、あすがきのうに同じなのだと言わずにおれよう。
毎日刻々
毎日刻々
おれから何かがハガレてゆく
四十年汗を流してたがやし育て
この身につけたと思っていた
それらがまるで松の皮でも落すように
けずりとられてゆく
血となり肉となったと思うのはまちがいで
おれはもう何も持てないはだかなんだ
このからだのどこにひそんでいた汚れやチリなのか
消化しきっていたはずのものがことごとく
古びた廃品の役立たずになってしまっているのだ
大切にしていたもの
美しいと身につけていたもの
力だと思っていたもの
みなウロコをはぐように
このからだからハガレ落ちてくる
何もないと思うさびしさの中から
あとからあとから
毎日のように ハガサレル ハガレル ハガレテユク
もっとハガシテくれ
(1957・9・16)
虫のなく夜 灯の下で
朝から歩きつづけて来たのに
おまえに語ることばがない
水道の出がいいので 頭を洗い タオルをゆすいだ
カルピスをミルクでうすめて パンを食べた
売店で氷水をのみサバカン三六円を買った
タマネギを刻みカツオブシをけずってショウユをかけたら
食欲が出て二杯半も進んだ
昼寝をした フロにはいった
夕食後 トミ子さんの病室を訪ねた
それらがみな遠いところでの出来事であったように
ただ自分が行きずりの旅人であって
風のょうな存在でしかなかった と
わたしは きょう
わたしの中ですでに忘れられたものを
独白するひとでしかないのだ
(1959・9・2)
志樹逸馬さんの略歴
1917年7月11日東北地方に生まれる。福岡県小倉で旧制中学に入学、一学期のみ学び、父の死によって東京へ転居。12歳で発病し、1928年10月全生病院に入院。1933年8月、長島愛生園に転園。この頃から文芸への関心が高まり、詩作を始め、「愛生」誌に発表するようになる。1959年12月3日死去。詩集『志樹逸馬詩集』(1960 方向社)、『島の四季』(1984 編集工房ノア)
志樹逸馬さんの過去記事その1
志樹逸馬さんの過去記事その2
志樹逸馬さんの過去記事その3
志樹逸馬さんの過去記事その4
2030年 農業の旅→

コンクリートの道
盲目や足なえが永い間欲しがっていたコンクリートの道が
病院の広場を縦断して出来あがったという。
寒い夕方。
私はほこり臭い袷の襟をかき合せながら外へ出る。
鼻孔から頭の芯まで突刺す様な風はすっかり冬の風である。
私は馴れない探り杖に勇気を出して広場へ出た。
杖の先に固い手応えがある。
衰えた眸の中に白く光っているコンクリートの道。
私は撫でる様にそっと 杖をすべらせてみる。
こつこつ叩いてみる。
誰れも見て居ないようなのでちょっと歩いてみる。
からんころん下駄が鳴る。
もう少し歩いてみる。
萎縮した足の筋がのびのびしてくる。
胸がどきどきとはずんでくる。
私は思いきって道一ぱいに杖を振り歩き出す。
肩を張り腰に調子をつけながら
一生懸命に手を振って歩く。
体じゅうの血が一度に廻り初めた。
心臓が跳り出した。
杖も跳る。
がらがらと下駄が辺りに響く
息気をはずませ調子をとって、
私はどんどん歩く。
冷い夕風の中を一人で歩いている。
終点は治療室の入口まで、
いや何処までも歩いて行きたい。
胸に熱いものがこみ上げてくる。
目頭が熱くなってくる。
コンクリートの新しい道を歩きながら、
私は泣いていると云うのだろうか。
人間らしく歩けるので、
力一杯歩いているので。
近藤宏一さんの略歴
1926年大阪生まれ。1938年、11歳の時に長島愛生園に入所。子供時代から詩や作文を書き「愛生」、「綴り方倶楽部」などに発表。戦後、赤痢病棟の介護に従事した際に赤痢に罹患、ハンセン病が悪化し、失明、四肢障害を負う。わずかに知覚が残された唇と舌で点字を学び、盲人の仲間とともにハーモニカバンド「青い鳥楽団」を結成、楽長をつとめる。長島詩話会に参加し「裸形」等で詩を発表するほか、「らい詩人集団」同人として活動。晩年まで各地の学校、集会等でハーモニカの演奏、講演活動を行う。2007年、英国救らいミッションがハンセン病問題の啓発に貢献した人物に贈るウェルズリー・ベイリー賞を受賞。2009年10月5日没。
近藤宏一さんの過去記事その1
近藤宏一さんの過去記事その2
近藤宏一さんの過去記事その3
近藤宏一さんの過去記事その4
2030年 農業の旅→

野路の旅
はりさけむ痛苦を胸に秘めて
絶えなむ玉の緒の、慟哭にふるへつつ、
一人とぼとぼ野路を歩く。
灰色の旅路を。
おおこの寂寞。悲痛、哀愁よ。
誰と共に語り、何をか記さむ。
叢に沈みて白き、一本の百合、おお野百合よ
お前は誰がために、かく優しくも、
装ひを凝らしたのか、唯幾分時、
俺に見せる為か、ソロモン極盛の、
時でさえ、及ばざりしてふ、この装ひを。
無始の闇黒に、根をおろして、
無窮の幽界に、消ゆるまでの幾日
唯幾日の栄華とも知らずにか、
儚きは姿、いとちひさき刹那の生命よ。
されどされど、おお野百合よ。
お前がここに、現存するまでには、如何に、
永劫不断の努力と準備とが、暗黙の間、
刻々と費されて来たことか━━そしてお前の、
この姿、匂ひ、気高さ━━一切は、なんといふ完全さにまで、
おお、驚異すべき生の一滴よ。
送りいでし生命の、噴焔勇躍、伸展完成、
やがて大飛躍、つぎの新生命へ、蜂までが、
お前を助けているのだもの、俺はもう
言ひ知れぬ、無限の、懐かしさを、憶ふよ、
おお偉大なる生の力。愛、愛、愛、
俺も無意味の、存在ではない。
道はただ白い━━永遠につづいて、
俺は歩かねばならない、勇敢にましぐらに、
火のついたこの体が、もえつきるまで。
悲哀のどん底に流るる、生の真実を索めて。
後藤暁風さんの略歴
全生病院に在籍していたと思われるが、後藤暁風はペンネームと見られ、詳細は不明である。1935年刊行の『野の家族』には故人とある。
2030年 農業の旅→

夕暮
枯れたはっぱが一、二枚
からからからと
舞いながら
白くかわいた道を横ぎって
小さな水たまりにおちた
春の日
麦の穂が出揃った
子供達は
水々しいのんびりとした空の下で
青々とした原っぱで
眠むたそうだ
子供をおぶった小娘が
たんぽぽをつんでいた
どこかで牛がないた
(1957・2・22)
ある時
あんまり風がひどいので
ガラス戸を細目に開けて
外を見た
うす汚ない猫が
桜の木の下をとおっていた
あんまり風が冷たいので
両手で顔をかくして
その指の間から海を見た
狂ったように荒れていた
すべて すき間からのぞいた
淋しい時だった
(1957・2・21)
ねずみ
お前の姿の なんと愛らしいことよ
しかし お前が
あの憎らしい野ねずみの子であるなんて
お前が私の手に入った時
私は今までの一番懐しいものを見たような
不思議な感情にひきずりこまれた
村の田舎のたんぼで
うず高く積まれた藁の中に
お前の仲間がふるえていたのを
私は幾度見たことか
お前には親の罪がわからない
だのにお前は人間に嫌われる
でも 私は嫌わない
私だけはお前を
私の胸の中にしっかりと抱いてやるのだ
お前の愛らしい姿を見ると
大きくなっていくお前を恨みたい
お前だけは
今のままの
この愛らしい姿でいておくれ
お前が
私の意志に判して大きくなると
私は最愛の持物を取られたような
深い悲しみに陥ちいることを
お前は知っているだろうに
さあ 私がお母さんに代って
お前にお乳をあげよう
そして 私のふところに
安らかに眠るのだよ
どこからか
子守歌が聞えるだろう
(1957・9・15)
西原桂子(杉野桂子、杉野博子)さんの略歴
1941年3月14日熊本県に生まれる。1955年中学3年生の頃よりハンセン病の自覚症状があり、中学を卒業した翌年9月11日菊池恵楓園に入所。1957年4月9日、岡山県立邑久高校新良田教室第3期生として入学のため長島愛生園に転園。1961年3月7日卒業して菊池恵楓園に帰園、現在にいたる。1959年、先輩と2人で小詩集『石と少女』を出す。「菊池野」などに随筆、生活記録などを発表。また園内の文章会に入会し、会の雑誌「菊池野文学」に発表。1989年3月から「菊池野」編集長を務める。
2030年 農業の旅→

点字
指先が痺れているので
唇で点字を習う
子供達が数える
星の歌のように
不確かな唇で
私は点字を追う
私の習う点字の一字一字は
闇を彩り
星座となり
ついに私を方向づけるのだ
星の物語を聞いた子供らが
夕食後の一時 庭を賑わすように
口笛におくられながら
遠い 遠い 処へ
今日も私は点字を習いにゆく
盲
正しいゆきかたと云えば
生意気だと言われ
平和な生活をと思えば
黙っていなければならない
考えが違っていても
正しいと思っている人に
それでついてゆかねばならない
そう言いながら
盲は死んで行った
私は今その言葉を
想い起し
底をかすめる
花の 翳を感じながら
窓辺に佇んでいる
平和の鐘よ響け
灰色の世界に
赤いランプの燃えたのは
それは
ロシア革命だった
暗黒の世界に
青いランプの燃えたのは
それは
宗教革命だった
そのいずれに誰が救われたか
死の灰が
人間のいなくなった地球の周囲を何廻転もする
眼に見えない炎が何万年も燃え続ける
そんなことがあり得ないと
誰が断言出来るか
いき苦しい世の中に
悲惨な日の来る時計の針が廻っている
平和の鐘よ やがてこの地上に
お前の響を聞くことが出来なくなるかもしれない
平和の鐘よひびけ
世界の耳の遠い人達に聞えるように響くのだ
中村七鶯さんの略歴
1921年11月22日石川県に生まれる。1939年8月21日光明園に入所。短歌・俳句もつくったが詩にいちばん力を入れていた。盲人会会長を長く務める。2002年3月20日死去。
中村七鶯さんの過去記事
2030年 農業の旅→

あなたがたは倖せですか
あなたがたは倖せです。税金の苦労もなく、交通事故の心配だってなく、食うことの悩みもない、こんなにも空気のよいところに生活しているみなさんは本当に倖せです。と
ある参観者はいった
そういわれれば
クレゾールの匂いも
いやな悪臭にも 何時の間にか馴らされ
後遺症の顔を横目でみつめられた
あの表情にも
患者さん というくすぐったい呼び名にも
馴れっこになってしまった
鋤 鍬を握った この手に
スプンやホークを握り
一日三度の飯を食らって寝るのが仕事
これが
人生だったら本当に倖せ者です
美しい首輪をつけ 鎖でつながれて
尾をふっている犬
きれいな籠の中をとびまわっている
小鳥をみるたび
”あなたがたは倖せです”といった
ある参観者の言葉を
私はくり返す
生の意味
蛍光灯と
白い壁のかがやきに
酔いどれたように
眠っている
おまえの静かな寝顔を
おれは見ている
忘れよう 忘れようとして
郷里に残して来た
妻や子のこと
音信不通になっているものの安否
何度もおまえはくり返し
語った
ほほこけた口びるを動かして
先生さまや
看護婦さまたちに
ようしてもらって
ありがたい
もったいないほど ありがたい
なみだでるほど ありがたい
いいどごろで おれも
生き過ぎでまった と
おまえは
四十年も背負い続けてきた
その重みにいま
別れを告げようとしている。
慰霊祭
せききった悲しみの雨が降る
トタン板をたたいて
読経はいっそう 美しい声で沁みいり
入りまざる 今と昔
見える
見える
千三百余名の故人の顔
お供物の果物のように
積み重なって
笑っている
地獄谷と呼んだ
谷を耕して
作った段々畠で
亡くなった
栄養失調のおっさんの顔
死んでくれと我が子に頼まれて
青酸カリを呑んで死んだ
男の顔
山で首くくった
おかみさんの顔
みんな笑っている
顔 顔 顔
笑っている顔
郷里から追われ
親 兄弟から隔絶された
千三百余名
読経と線香の漂う
慰霊祭会場に
笑っている顔 顔 顔
加藤三郎(河東三郎)さんの略歴
1910年秋田県に生まれる。1948年栗生楽泉園に入所。1967年軍属物語『草津の墓碑銘』により群馬県文学賞受賞。詩集『僕らの村』(1992年 皓星社)。短歌は「アララギ」「潮汐」に所属。
2030年 農業の旅→

夏分蜂か、それとも逃去か。どちらにしても逃去群もゲットできたので、あまり問題はない。
昨日午前9時、70メートルほど離れた場所にいたが、ミツバチの分蜂独特の「うなり声」を聞いて、すぐに現場にかけつけた。おびただしい数の蜂が周囲を飛んでいたが、やがて5分ほどの間に、高木の梢で球になって落ちついた。
夏分蜂はしてほしくないが、されてしまった以上、仕方がない。すぐに次の手筈を整えた。つまり、春に設置してそのままにしていた15ほどの「待受け箱」を1時間ほどかけて掃除してまわった。新しい住み家に選んでもらおうと思って。
昼食後、蜂球が気になってすぐに田んぼに行ったが、高木の蜂球はすでにそこにとどまってはいなかった。すぐに山の待受け箱を見に行ったが、山の上り口の池の土手端の待受け箱にミツバチを見て、これを「新居」に選んでくれたことを確認した。
ミツバチの気に入った住み家が簡単に探し出せるわけではない。必ず待受け箱のどれかに入ってくれると思っていたら案の定だった。
分蜂(逃去)後、元巣を確認したら、底板(台座)に蜜がかなりたれていたので、暑さで逃去したのかと思ったが、その後、手鏡で内見したら、まだかなりの蜂が残っている。これはやはり逃去ではなく分蜂か? 1週間もすれば判明する。
元巣の前で取っ組み合いの喧嘩も見られるので、逃去ではなく分蜂か・・・。昨日はたれていた蜜も今日はさほどではない。
新居は、位置はほとんど変わらず、10メートルほどの高低差だけある。
土手の端なので(人通りはほとんどないが)万一、人に危害を与えてもいけないので、葉タバコ跡地の山へ移そうかと、昨夕7時半頃まで悩みに悩んだ(動かすなら当日でないと、翌日になると場所をおぼえてしまうので動かせない)が、動かさなかった。
動かさなかった理由は、
(1)もし逃去なら、元巣の蜜を運びやすい。
(2)この場所でどうか・・・来年以降の「実験」もあって。
(3)元巣と新居が近い方が2つの状況確認には都合がよい。
(4)葉タバコ跡地の山の中の方が9月という最大の難所(稲の農薬散布)を乗り越えるには有利と思ったが、急坂なので毎日の確認は身体的にすこしきつい。
分蜂ならオス蜂がいるはずだが、オス蜂は見ていない。
内見したとき「王台?」のようなものを3~4コ見た。
2030年 農業の旅→

私の誕生日
一月二十七日
電話が入って
ハイどうぞ
言ったとたんに
━━誕生日おめでとうございます
今日は香山さんの誕生日よ
東京の友だちの声
━━当の私が忘れていたのに
━━私は忘れないわよ━━ほほほ
忘れられない声が
電話の向こうで明るくした
私の心
四十九歳の時
訳もわからず書き始めて
二十年が過ぎた
夢見るほど気になっても
いい詩は書けない
今年こそ
来年こそはと思って月日が流れる
ほっと気持ちの休まる
詩を書いてみたいと願っている
いい日も忘れている
水曜日は代筆の日
一番好きな日が来るのに
なんにもない
水曜日はなんでもかんでも
安心して書いてもらえる日
これが一番いい日
なのになんにも出てこない
愚痴が多すぎて
詩が出てこない
齢のせいかな
ぼけたかな
妄導線今と昔
缶からに石ころ入れて
カンカンと杖で叩けば
カランカランと缶が鳴る
はるか向こうの
右へ曲ってるか
左へ曲っているか
缶からが教えてくれる
今は昔
妄導線はハイカラになって
音楽が流れ青空に響いて鳴る
つい音楽に聴きほれていると
道に迷って困る
ハイカラは
うっかりできない
お風呂
目が見えなくなってから
治療とお風呂に
やっと一人立ちできた頃
風呂に行くと
みんなが━━この頃はえらいな! とほめてくれる
絣のモンペは膝がうすくなって
下着が見えはじめた
上っぱりの襟は破れてきて
私が歩く調子に揺れている
━━頭は角刈りで威勢がいい と言われ
━━ちょっと座れや と言われて
私が座るとモンペの膝あてを縫ってくれる人
━━白くてもいいやな と襟も直してくれる
━━女っぷりが上がったぞ
━━ああいい女になった
と目の見えない私を相手に楽しんだ人々
みんな遠い昔のこと
今は私と同じ齢をとって
職員介助を受けている
香山末子さんの過去記事その1
香山末子さんの過去記事その2
2030年 農業の旅→

さようなら
━━失格者のノート
わたしに 生きる場をあたえたひと言
━━空をいただいた山なみ 笹舟にメルヘンをながした小川 土橋 校庭の大欅 机のらくがき わたしのいのちとともにあるふるさとのすべてに
母にさえ ひとりこころに言わなければならなかった
「さようなら」!
あなたを そしてわたしを 生かしてくれたひと言
━━あのとき
あなたに 祈るように言った
「さようなら」!
「さようなら!」
行くことも
会うことも
あしたも
わたしに ただひとつのこされたことば
「さようなら!」
わたしの
生きるしるし━━。
切断した左足の葬いの日に
ひとすじのけむりになり
日かげに透き
そらにとけていった
わたしの片足
やがて 日かげのなか
ふるさとにつらなる空のなかから
すきとおるあおさと
あふれるひかりをあつめ
わたしのなかにかえってきた
しきりに ふるさとに近づくおもい
わたしのなかに
そらのあおさがあふれ
ひかげのあたたかさがみち
ふるさとは ひろがり ひろがる。
日記
━━1947年最終の記
しびれ くずれた わたしのししむらに あと数分で 又年輪がくい入ろうとしている おいつめられた わたしのこころを過去へ 必然へ 容赦なくきざんでゆく 振子のおと
━━きずついた童心をいだき 鉄の車に身をゆだねた・・・ あれから まる十一年 うしなった知覚 切れた指 くずれていく人のかたち ひとびとのことばが 音になって過ぎ わたしは いつのまにか ことばをうしなっていった・・・
ふるさと━━ それは ゆめにのみおとずれ 次第にふかく はっきりと わたしのなかにはきざまれてゆくものの うつつには あの星座より遠く
━━この夜半を ひとり聴入るふりこのおとに
ひしひしと 胸奥ふかく沁みこんでくることば
南のふるさとの島へ帰った友が わたしの手をみながら たわむれに言った
「こりゃー君 にんげんの手じゃないよ━━ハハハハハ・・・」
手だけではない もう手だけではないのだ いま居たら言ってくれるかもしれない いや わたしは言ってほしい
「いったい 君は にんげんか!━━」と。
日記
━━わたしの目
太陽のひかりを そのままうけると
まばゆくて 涙が出 充血してかすみ
なにも 見ることができません
光線よけの くろいめがめをかけ
つまずいたり ころんだり
時には 花の色をまちがえたり
すべてを めがめごしに見なければなりません
それで わたしには
たれよりも たそがれが早くやってくるのです・・・。
その時は━━
そのときは この高原に
御歌のいしぶみだけがそびえていて
わたしたちの栖だった家々のあとには
麦がみのっているにちがいない
そして 畑のあぜなどに
ちょっぴり
わたしたちの植えた花が咲いて
蛙や 虫が 月の夜を鳴いているだろう
谷の骨堂には みんなのひとびととわたしもいて
おとずれる人はなくても
庭の木蓮がひらいて 山梔子がにおって
草むらには 昼も虫がうたって
公園の 丘の楓が林になり
その時も 三つの池は水連をうかべ
やっぱり 空をうつしているにちがいない━━。
断片
〇手━━
どうだ
このそこぬけのあかるさは
俺の指は切断されて 四本無い でも
これで種も播けば芽が出る 花もひらく
こうして 土を掘っていれば いつか
無くなった指がでてきそうな気がする
〇足━━
治療室に 梅の丘に 谷の公園の池に 今日もあるいた 指の無い犬の足みたいだなんて すっかり忘れてた。
━━こうして 布団のなかでうごかしてみる
これは おやゆび
これが こゆび
今度はみんないっしょだ
たしかにうごいてる・・・
義足に神経痛がくるって云う あの 義足の人の話は嘘じゃないなきっと
そうだ もう寝よう
今夜はゆめのなかで ふるさとまでの空を この足でかけられそうだ・・・。
迷路
あるくことが
わたしを和らげてくれる
だが 何に 何処に向ってあるいているのか
今日も 限られた垣根を廻り
かえってくると
径ににまよったような
とまどいをおぼえる。
2030年 農業の旅→

花の耳
万葉の萩は
初鴨の渡るのをきいて咲いた
渡りのときと
花のときとが
ひとつである耳は
花でなければならない
万葉の昔から
花であることを遠ざけて
どれだけ人は生きようとしてきたことか
美学は変わらなければならない
遠ざけることで失われるものは
花ではないから
遠ざけても遠ざけきれないものを
耳は花にしてきた
(※『万葉集』巻十・二二七六)
虫の音も
生れる前から
夜は長かった
ニセ物のハピーエンドを横行させるから
それに背を向けたりするが
この世では 絶望より
明るく生きる方がむつかしい
九つの幸いを得た耳にも
夜は長かった
虫の音に寝つかれない夜がつづくと
己が幸いを数えたりした
月のない夜も
虫の音は止まない
もう秋も深いのだ
虫の音も草の底なる夜長かな 九幸
(※九幸は杉田玄白の号)
紅葉
バスの中で
どこのどの樹の紅葉が美しいといったのはやはり女だった
男は合槌をうつだけだ
美しいものがきわまるとき
狼狽えるのは男の方だ
女にはかりそめということがない
闇であり
鬼でもあるのは
「紅葉狩」の女たちにかぎるまい
八十種もあるという赤い色の中から
ゆめゆめ一つを撰んではならぬ
散る前の華やぎは
ついの願望
いまも紅葉にこりない人に
鬼は舞う
無花果
”ハルメ
駄目じゃないか
他所の無花果を 黙って採っちゃ”
”無花果くらい なんじゃ
日本は朝鮮を盗ったじゃないか”
2030年 農業の旅→

雪
雪が降る
雪が
降ってくる
追想を 煌やきながら
庭のユスラウメの枝を
おしつけて
雪が降る
降っている
ぼくは
すこし裏戸をきしませて
あける
裏山の槻の大木が
八方に大きく
枝をひろげている
雪におさえこまれても
動かない槻の木は
その尊厳を
雪に加飾され
声もなく枝をひろげている
雪が降る
降っている
田舎の冬は
息もひそめ
そそくさと
暮れてゆくのだ
父がいた
母がいた
姉もいた
六つちがいで
いちばん口うるさい
姉だった
言葉すくなく
働くためにだけ
この世に生まれてきたような
父も
すこしべっぴんで甲斐甲斐しい
母も
口うるさい
姉 も
もう いない
雪が降る
降っている
冬の夜を
火を囲んだ
肉親のあたたかさ
それだけが
この世にひとりとなってしまった
ぼくの
みずみずしい光なのだ
別離の日から
父も
母も
姉も
ちっとも齢をとらずに
すっかい老いたぼくの裡で
火を囲んでいる
霜柱の賦
霜柱が崩れる
電柱が輝きながら
ぼくの足裏で
崩れる
過疎の村落の
土橋は
土くれの渇いたまま
草をはやしていた
この貧しい村で生まれた
素朴で純真な暖かい物が
流れている
この村の昔の鎮守の森が
僕の
うらぶれた肩を
幼い日と同じ翳を
なげかけるのだ
霜柱が崩れる
その音の確かさを
僕の五十年目の
ふるさとの
空を仰ぐ
父も亡く
母も亡く
姉も亡く
僕の
村落のすべてを
駆けめぐった
同級生達の顔、顔、顔
つまづいたまま立ち上がる事もできなかった
僕の過去が
どっと押し寄せてくる
この一瞬の長い長い
坂道よ
霜柱が
僕を包む
霜柱が
僕を呼ぶ
霜柱が
僕を少年にする
傷ついたまま
自分自身を
罵りながら
愛しみながら
遠くから来た
旅人のように
そっけなく
痛みをこらえている
僕が
そこに立っている
この
不思議な
人間だけがもつ事のできる
悲哀と喜びを
同居させながら
僕は
霜柱を
思いっきり
踏みつけるのだ
秋田穂月さんの過去記事
2030年 農業の旅→

雨よ どしゃぶりに降れ
ぼくは静かに降る雨を見ている
誰もいない部屋
ガラス窓に息を吹きかけ
指で こすったりする
白根の噴煙は雨雲の中に
一筋 しろく流れている
雨が こんなにも
静かに降ることができるのに
ふるさとを離れる真夜中の駅では
桶からあふれるほど激しく降った
汽車の窓もあけられず
ぼくは
母の手を確かめることができなかった
車窓にぶつかる横なぐりの雨が
灯火管制の暗がりに佇む母を矢のような光りで包んでいた
雨よ 静かに降るたびに
やっと落着いた部屋の窓によりかかる
帰れない望郷の想いに沁みこんで
雨よ 降れ
ライの子のために
考える余裕をあたえないで
どしゃぶりに
何もかも押し流して 降れ
春の陽を浴びて
芝生に足をなげだし
まる顔の
どんぐり眼をぼくに向け
おもいきり跳ねてみたいという
君の
関節という関節は包帯で覆われていた
あの山頂まで何時間かかるだろうか
山頂には
海のにおいがして
海鳥は鴉と郭公の鳴き声を混ぜあわせた声で
海をさわがせている
そう言って笑う君は海をただ感じるだけだという
海をまだ一度も見たことがないという
肘をさすり
膝をこする
春の陽に躰をゆする君
ぼくは病気とは関わりのないところで
ぼくの
一度だけの
海水浴の話をしていた
それは伝説ではないという
寝苦しい夏の夜半
躰中が熱く
おれは圧しつぶされていく首筋をかきむしっていた
そのことはおぼえていた
おれはどうしていたのか
時間が
おれに戻ってきたとき
喉仏の下に
小さい穴があけられていた
気管切開
「喉切り三年」だ
三年しか生きられない
それは伝説ではないという
ライの
最後の呼吸の窓
ふれると
いつも冷たい管一本
春がきても
夏がやってきても
嵌めこまれた管にしめっぽい空気が送りこまれ
息づくたびに
おれは
ヒーヒー と
生命の謎ときに
喉の奥の方で
しゃがれ声に力んでいた
(註=昭和23年夏手術。3年後その穴をふさぐことができた。)
越 一人さんの略歴
新潟県出身。1945年6月栗生楽泉園入所。詩集に『雪の音』(1957 私家版)、『違い鷹羽』(1985 創樹社)、『白い休息』(1994 土曜美術社出版販売)。
越 一人さんの過去記事
2030年 農業の旅→

ゴブランの池
そこは
蛇ガ原といっていた
草深い凹地に一つの池がある
人呼んで
ゴブランの池と云う
昔
そこに神のみ使い役であった
大きな白蛇がいた
その名をゴブランと呼び
今もなお池の岸辺に
蛇塚がある
夜々
かずかぎりない星屑が
ゴブランの池に
落ちこぼれ
耳うるさく
ガオガオ
ガオガオ と
蛙どもは泳ぎ出て
一つひとつの星屑を
食べちらしてゆく
カラカラに乾ききった
私の病体を
いくたびかこのゴブランの池に
捧げんとしたが
黒ぐろとした水の深さに
いきじなくも
ただおののくだけ
風強き今宵
ふるさとのゴブランの池に
草々はゆれうごき
蛙どもは
池面にむれつどい
音たかく
ザザザザッ と
しぶきをあげる
ガオガオ
ガオガオ
遠いふるさとの
ゴブランの池に
私の想い出は
今も
幼なき日のままに。
宇津木豊さんの略歴
1911年愛知県生まれ。1937年全生病院に入院。園内で詩作を行う。没年不詳。
2030年 農業の旅→

晴れた日
風の吹く日
暗鬱に沈みながら
柊垣の一本路を歩いていった
空はさっぱりと晴れあがり
小鳥らは胸をはり
枝から枝へと
とびながら歌っていた
一人の老婆が柊垣の外で
私をにらみつけた
私も老婆をにらみかえした
(お互いに見たくもない自分をみたのだ)
柊の葉も
こんなにも
いじけて尖っている
(私の思想感情のように)
どこまで流されていったのだろうか
一片の雲が
北から南へ
ゆっくりと
うごいていった
奥 二郎(奥 隆治)さんの略歴
1930年生まれ。韓国出身。1940年神奈川県から全生病院に入院。1950年から詩作を始める。「灯泥」同人。短歌は奥隆治の名で発表。1957年8月10日、自ら命を断った。『奥二郎詩集』(1958 私家版)。
2030年 農業の旅→

今日の夕飯
(タジン鍋)
(素麺)
(ゆで卵)
久しぶりにタジン鍋にした。タマネギのスライスを下敷きにし、オクラとピーマンを半分に切って置き、一番上にサケ2枚を置き、コショウで味付けし、弱火で20分、火を消して余熱5分で出来上がり。ポン酢で食べる。
タジン鍋に魚を使う場合、80度の湯で15秒湯通ししてから置くのは必須作業である。タジン鍋で蒸した野菜は甘くておいしい。
タジン鍋では水は使わない。使っても大さじ2まで。水よりオリーブ油を使った方が焦げにくい。
水は使わなくても、野菜から水が出る。
ご飯が少し足らなかったのでソーメン4束を茹でた。薬味はミョウガと青シソで、市販のめんつゆを使った。
昨日の夕飯
(キュウリの酢の物)
(ピーマンのじゃこ煮)
(オクラのカレー醤油炒め)
キュウリ3本はスライサーで切り、塩もみをして10分ほど置き、水でさっと洗い流し、水気をしぼりながらボールに入れる。
酢大さじ3、醤油大さじ1、砂糖大さじ1を混ぜてボールに入れ、キュウリと和えると出来上がり。
スライサーを使っていた時、指先もすってしまい、人差し指の先なのでパソコン入力の時に痛い。バンドエイドでは入力しづらいので「コロスキン(透明な被膜で傷口をガード)」をつけた。
ピーマンは細切りして鍋に入れ、小魚は熱湯をかけて鍋に入れ、醤油、砂糖(蜂蜜)、酒で味付けし、水を大さじ2(だし汁が古くなっていたから)入れ、中火で5分ほど煮て汁が少なくなれば出来上がり。
オクラは熱湯で1分ほど茹でて冷水にとり、半分に切り、熱したフライパンに油を少し入れ、オクラを炒め、醤油とカレー粉で味付けして出来上がり。
2030年 農業の旅→

主語
れぷらだけが俺たちの天地
どうして
美しい詩などが生れるだろう
春の花も 風に散る柳の緑も
青葉の光りも 時鳥の音も
それはれぷらの助詞にすぎない
天恵と 天刑は
れぷらの形容詞
宿命と 悲惨は永遠の副詞
山の暮れ 野の黄昏れは
れぷらの動詞
一葉落ちるのもその類だろう
自暴自棄と自殺は接続詞
信頼と敬虔も同様だ
天国と 地獄はそれに続く
新薬出現 全治癒は未然形
咽喉切開が終止形
これらの活用はみんな暗い
だが たったひとつ
地にしがみつき根を張って
生きてゆくいのちしずかな感動詞がある
こんな俺たちの主語 れぷらに
天地のどんなしめりが どうして
美しい詩をうたわせよう。
盾木弘(盾木氾、小杉敬吉、島鬱二、辻辰摩)さんの略歴
1917年6月26日栃木県に生まれる。一歳二か月のとき小児麻痺を患う。小学生の頃ハンセン病に罹患。十四歳頃に病気を自覚し、十八歳より隠れ住む生活となる。1938年10月9日全生病院に入院。「山桜」出版部、自治会、全患協などで働く。小説・詩、短歌・随筆など多数。1988年頃失明。随筆集『あの人・このこと』(小杉敬吉著、1998 私家版)、『ハンセン病に咲いた花』戦前編・戦後編(盾木氾編著、2002 暁星社)。編集の仕事に『俱会一処』(1979 一光社) 『全患協運動史』(1977 一光社)など。2003年5月10日85歳で死去。
2030年 農業の旅→

朝の空気
香り高い朝の空気を
胸一ぱい吸って
昨日の悲しい想出を振り棄てよう
汚れのない青い空を無心に仰ごう
泥溝の臭い カビの臭いも
遠く果てしない処へ溶け込んでゆくだろう
今日の生も
明日の死も
誰にも判らない人生のきびしさ
新しい朝の空気を腹一ぱいたべると
全身の血が
一せいに流れわたる
荷物
午前十時 荷物受取り
あけてのぞけば
母の匂い 室内に流れる
影
何と醜い細長く
影 影
月光の下で重く胸につかえて
僕は はるか彼方へ
眸を通すと
赤く渋く光る灯
漁村の灯火なのか
今日は愉しい暮しであろうか?
煙草の立ち登る煙が
夢と溜息を
煙に包まれ星空へ向って
飛び散って行く
勇気
澄んでる 秋の空
眺めていると
悲しい気持が心底から流れ出る
僕は癩 癩 癩
思いきって遠くへ行こう
静かに港の方へいそぐ
あの船の方向に
黒い不吉な死の鳥の様に
帆を見つめて走って行く
その青さに滴っている
あの悪い血を海の辛い液体の中で
刻み殺すだろう
ささやかな風にのって
声が聞えて来る
ああ そうだ
妹の声
兄さん 兄さん
と呼んでいる
勇気をだそう
歯を喰いしばり敢えて
耐える為の勇気をもとう
妹
ショボ ショボ降る雨の中
一人で雨雲を眺めていると
ああ 妹の顔 顔 顔
悲しげに僕を見ている
妹よ
寂しいだろう
僕のために悲しかろう
辛かろう
しかし強く生き抜いてくれ
妹よ
母と力を合せて
一生懸命勉強してくれ
馬場照市さんの略歴
1934年3月20日香川県に生まれる。1955年2月24日大島青松園に入所。「花虎魚」同人。
2030年 農業の旅→

流星
手が萎えてしまった時・・・
まだ足があると言われ
足が立てなくなった時・・・
まだ目があるんだと思った
だがその目も・・・
右は日曜になってしまい
左は半どんになってしまった
達磨の様な体に
のしかかる闇から
這い上ろうとしてすがるものは
みんな藁ばかりだ
開眼手術成功
そんな喜びも
山の向こうのことでしかない
ああ私は一体なにを希望に
生きていけばよいのか
・・・・・・・・・・
この瞬間にも
どこかの空を
星が流れている様な
夜だ
焚火
真白に
霜の降りた道
人々の体温に
ほほえみをあたえながら
蒼天を指さして
女神のように立っている
炎の精
パレット
視力の失しなった掌に
パレットをひらくと
干からびた絵具の中から
明るい夢が湧いてくる
グリーンから生まれた蝶が
水車のしぶきに驚いて
タンポポの葉裏にかくれると
妹のりぼんが馳けてくる
レッドから流れた夕雲が
白帆の風にはこばれて
裏庭の物干にひっかかると
母のエプロンがゆれている
イエロウから落ちた木の実が
マッチの軸にひろわれて
机の上に廻っていると
先生のスリッパが怒っている
闇の世界が息苦しくなって
箸を持つことが嫌になると
古いパレットを開いて
明日への夢をえがいてみる
蜷川ひさしさんの略歴
1925年大阪府生まれ。1941年邑久光明園入所。1970年45歳で死去。
2030年 農業の旅→

新しいパソコンの画像のアップロードがうまくできず、しばらく料理画像をのせられず、言葉だけになります。
一昨日崩した体調が、今日の午後になってやっと回復にむかいつつある。
今日の夕飯
ゴーヤとツナの苦くないサラダ→ゴーヤは半分に切り中のズをとって薄切りし、塩もみをして10分ほど置き、熱湯で30秒ほど茹でて冷水に取り、水気をしぼりながらボールに入れる。タマネギ1個は薄切りして5分ほど水にさらし、水気をしぼりながらボールに入れる。ツナ缶(今回はノンオイルを使ってみた)の汁気を切ってボールに入れる。
これらをマヨネーズとレモン果汁大さじ1~2で和えると出来上がり。
オクラの湯通し→熱湯で1分ほど茹でて冷水に取り、薄切りして鰹節と醤油をかけて食べた。
2030年 農業の旅→

生涯
灰色の空を
術もなく見詰めていると
今捨てて来たばかりの
生涯が
身につづれをまとい
尻切草履に身体を託して
手押車に
人の世の残滓を
こぼれる程積んで
素朴な歌を唄いながら
ただ一人過ぎていく
海の山のその彼方の
故郷に向って
雪
松を鳴らす風が落ちて
うみの向う側から
かすかな足音が近づいてくる
カーテンを繰って
曇った硝子を拭い
眸を凝らすと
松の梢に父が居た
桜並木に母が居た
半白髪をふりたて
煙草のやにが黄色く沁みた指先で
頁を繰り乍ら聞かせてくれた
遠い国の物語
夕食の後片づけを済ませ
温めた膏薬の匂いに
小さな幸せを嗅ぎとって
ぽつりぽつりと唄い出した
浦島太郎
耳をすませば聞えてくる
松の梢の父の声
桜並木の母の声
帰える途を忘れてしまった
思い出が
雪の明かりに
ぼんやりと夢の世界を描いていた
露(Bちゃん)
しばらくして失せていく
生命
庭の柿の葉裏に宿って
逢いたい人を待っていた
私は昨日までBちゃんと呼ばれ
大人からも
友達からも可愛がられた
柿の木を植える時
身体の倍もある鍬を
よっこらさよっこらさと
振っていたら
隣近所の大人たちが出て来て
にこにこ見ていた
「三年するとなるか知ら」
と云うと
「八年かかるよ」と大人達は笑った
ちいさな庭の柿の木は
私の生きていた印し
柿の葉の下から
「お早ようさん」
大声で呼んでも
誰も起きてくれない
お母さんが居てくれたら・・・
と思う間に
別れの時が来た
裸木
苦渋のミゾを幾筋も蓄えた奇人が
風雨に荒された私の膚を見上げ
独白を繰返している
━━よくもこんなに荒されて
生きてゆけるものだなあ━━
私は老人の持つ刃物に
すごく恐れを感ずる
かしげた首のあたりに
最後の一枚の葉が
吸いつくように落ちた
何の未練もなく脱ぎ捨てた葉は
足下で腐食し
ミミズの衣食住となり
私もまた私の落葉の美味を称賛しつつ
一日でも生きのびようとすることは
いけないことだろうか
山川きよし(山川清)さんの略歴
1923年2月27日大阪府に生まれる。1941年4月10日、光明園に入所。戦後の文芸団体の発足に関わる。1948年から1950年、「楓」の編集にも携わる。昭和20年代には自治会執行委員も務める。詩以外に創作、評論もある。1958年6月21日35歳で死去。
2030年 農業の旅→

田中長一君の急逝を悼む
白百合の花を
昨日君は明日一本くれと言って帰った
今日私はその百合を
君の霊前へ持っていく
白百合の花びらには
まだ露が残っている
今日それは悲しい涙かもしらぬが
昨日は涼しい朝露であった
雪
庭の枯木に
雪がのこっている
朝日が照り映えて来ると
豆電灯のようになる
裏の山に
雪が少したまっている
朝日が照り映えて来ると
油絵のようになる
心の奥に
古里の姿は消えずにいる
雪が降って来ると
ぼんやり窓辺に佇つようになる
或る一日
島山の
ま陽は隠れて
夕立の空
俄に暗くなって来た
島山の
雲は絶えず動いて
片時雨の空
虹の橋をかけて来た
島山の
西日は落ちて
黄昏れの空
青々となって来た
古里の
彼方を仰ぐ
星の空
月は朧となって来た
大仏正人さんの略歴
1894年11月12日福井県に生まれる。旧制中学を卒業後、僧籍に入る。1919年2月24日、外島保養院に入院。入院後は自治会役員のほか、浄土真宗法話会の導師、園内の学園教師としても活動。1934年の風水害(室戸台風)後は栗生楽泉園に委託患者として移る。詩と短歌を多くつくった。1969年12月21日死去。
2030年 農業の旅→

少し体調不良で、何を食べたいか自問したら「ゴーヤチャンプル」だった。
ゴーヤ2本は半分に切り中のズを取って塩もみをして10分ほど置き、熱湯で30秒ほど茹でて冷水にとり、水気をよくしぼる。
豚肉100gは80度の湯で15秒湯通しする。
熱したフライパンに大さじ1のオリーブ油を入れ、ニンニク1片の薄切りを炒め、豚肉、ゴーヤの順に入れて炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。
他にいつもは朝のおかずにしているトマトを切り、ソースをかけて食べた。
オクラを湯通しして薄切りしたが、これには箸が伸びず、ご飯も欲しくなかった。
腹下げはあまりに暑かったからか、それとも変なものを食べたかも知れない。
2030年 農業の旅→

病歴
母の絶間ない懊悩と苦銀に
母の絶間ない歌声と揺籃に
この小さい肉体はのびあがってきたのだ
この小さい生命は燃えあがってきたのだ
そしてこの私を━━
母はどんなに微笑ましく凝視めていたことだろう。
だが、宿命は虚しくも裏切ってしまった
この小さな肉体に与えられた力も
この小さな生命に描かれた幸いも
母の微笑も凡て絶望の闇に消失せて
淡い燈の下で 幾度吐息し
暗い闇の中で 幾度嗚咽したか、
寂寞とした幾年は流れて
日毎、潰れゆく己が肉体を撫でつつ、
孤独ながら 彼の追憶の歌を口吟み、
私の生活が続けられる。
この療舎で仰ぐ
茜雲は 杳く誰をか呼ばり
その風情がこよなく愛しい、
遠く 彼方に━━
暫く晩炊の手を休めて
母も必ず仰ぐことであろう。
ああ、夏の日、赫耀と燃える陽光に
挑み合ふ 生命があり、
瞬き散る 星座の中に
ほそぼそと 欷く光がある。
この宇宙の真性を 私は
尊厳な気持で 凝視するのだ。
松井秀夜さんの略歴
1921年9月1日高知県に生まれる。1934年9月20日全生病院に入院。小説、詩を作る。1945年1月30日死去。小説は一編が『ハンセン病に咲いた花 戦前編』(2002 暁星社)に収録されている。
2030年 農業の旅→

かささぎ(一)
母に手を引かれて
日本への旅立ちの朝
いつも庭先に訪れる
あの気ぐらいの高いかささぎが
見送りに来てくれた
つぶらな瞳でわたしを見詰め
遊びに行くのか? と
小首をかしげていた
こよなくわたしを慈しんでくれた
一人身の伯母は
「わたしだけ置いてなぜ行くのか」と
天を仰いで悲しんだ
七ツの夏の終り頃だった
石ころだらけの畑の真中に
盆石のように佇む大きな岩があった
傍にわたしは一人立ちつくしていた
何故だったのか今も思い出せない
ふるさとを旅立つ侘しさの故か
二つ年上の兄を失った悲しみの故か
岩から沁み出るように
虫の声が絶えまなく聞こえていた
耳鳴りのように今も聞こえている
北国の小さな町で
物ごころつき初めて見える父の顔
「父さんだよ 呼んでごらん」と
母にせかされて
どう呼べばよいかも判らず
思わず「アベ」(おやじ)と出てしまった
母はひどく戸惑い
父は「そうか そうか」と頷きながら
やさしく抱きしめてくれた
痛かったあの時の髭の感触が
頬に甦る
いつしか六十有余年の歳月が過ぎ
「人生七十古来稀なり」となってしまった
何ものかの加護と
人々のぬくもりを享受て
よくぞ命長らえたものである
わたしの一番の倖せは
還るふるさとのあること
肉親もさることながら
あの日のかささぎや虫たちも
きっと私の還りを
待っているにちがいない
そのことだけは信じよう
蝶
祖のおわします先山
父や母も共に眠る
まろやかに盛り上げられた緑の墓前
時の物や韓酒など供え
芝生にひざまずき
祀りの二度の拝を捧げる
と、どこからか
一羽の蝶ひらひらと
白衣の喪服の舞
しばしあたりを乱舞して
高く高く ひらひらと
碧空の彼方に溶け込むように
消えて行った
人の魂は蝶に生まれ変わると
遠い幼い日
寝物語に父が噺した
二十年前
ふるさとを訪ねた初夏の
あの日の蝶は
七歳で逝ってしまった兄の
魂の影だったのか
行きたい
帰りたい
あの日のように
蝶の舞うふるさとに
(※先山=先祖の墓のある小高い山)
恨
韓国江原道江陵の海岸で
潜水艦が座礁した
乗組員の多くは自決したり
山中をけもののように追われ射殺されたという
正気の沙汰とは思えない
愚かなことをして見せるものだ
お題目のように
統一とか民族の大和合などと唱えてはいるが
心にもない空言のようである
血筋も言葉も同じなのに
憎しみあうその正体はなんなのか
あらゆる国民は
相応の政治しか持てないという
北も南もお里が知れるということか
無垢な若者たちの鮮血で
ふるさとの山河を紅いに彩れば
無窮花が咲くとでも思っているのか
平和なふるさとの花
トラジや無窮花は
月の出る夜やさしく開く花なのに
庭先にかささぎが来て啼くふるさとには
夢の木でも育てるように
息子たちに愛を注いだオモニがいるはず
オモニたちの心の襞に
奥深く秘むものは
帰らぬ吾子に寄せる深い恨
恨 それはうらみではない
やりば無き悲しみと
叶うはずない夢とは知りながら
見果てぬ夢に憧れる情念
夏が過ぎ秋が訪れ
ふるさとの空は
地上のおろかな出来事も
そしらぬげに
どこまでも碧く深く
平然
(※1 無窮花=ムクゲ)
(※2 トラジ=桔梗)
(※3 オモニ=母)
かささぎ(二)
遠い遠いそのむかし
かささぎは
めぐり逢うふたりのために
その翼をひろげて
天の川に橋を架けたという
やんちゃ坊主のように
カチカチ カチカチと
かささぎの鳴く日は
慶いことがあり
珍しい客が訪れるともいう
夢をはぐくみ
倖せをもたらす鳥でもある
かささぎは
朝鮮原産のカラス科の鳥で
カチカチと啼くので
カチガラスとも呼ぶ
文禄、慶長の役の頃
数多の陶工たちと共に
北九州に奉ぜられ
四百年を経た今も
かたくなにまで節を曲げないで
関門海峡をすら渡ろうとせず
沈壽官と共に生きる
アメリカの国鳥は白頭鷲
日本は雉
わたしの国は
カササギが一番相応しいと思うが・・・
まっすぐ伸びたポプラの木の
風にゆらく梢の枝先で
虚空をみつめながら
かささぎは
遥かな昔
銀河の涯てに架けた橋を
思い出している
むろん 北と南の架橋のことも
(※沈壽官 李朝期の陶芸家。その子孫は、今も沈壽官を名乗り、九州に在住)
韓 億洙(岡一郎)さんの略歴
1927年5月1日韓国慶尚北道に生まれる。入湯治療のため草津に来たが、ハンセン病とわかり1948年6月24日栗生楽泉園に収容された。詩集『恨』(2002 土曜美術社出版販売)
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今日の夕飯
(1)カレー
(2)ゴーヤの佃煮
(3)ニンニク醤油
(4)焼きナスビ
(5)ゆで卵
昨日のポトフの汁を減らし(捨て)、ルーを2個入れて、カレーにした。
ゴーヤ2本(約400グラム)は中のズをとって薄切りし、塩もみをして10分ほど置き、沸騰した湯で1分茹でて冷水にとり、水気をよくしぼる。
鍋に醤油40cc、酢40cc、砂糖70グラムを入れて煮立たせ、ゴーヤを入れて中火で水気が少なくなるまで煮て、最後にかつお節2パックと煎りゴマ(市販品)を入れて出来上がり。
ゴーヤの収穫が続く10月上旬頃まで、「ゴーヤとツナの苦くないサラダ」、「ゴーヤの佃煮」、「ゴーヤチャンプル」の3つをしばしば作る。
ニンニク醤油は、ニンニク3球(24片ほど)の皮をむいて洗い、瓶に入れ、醤油を注ぐと出来上がり。
焼きナスビは定番です。ナスビ料理はほとんどこれ。
2030年 農業の旅→

プロフィール
Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


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