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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

竹の子の木の芽和え


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また竹の子をもらった。竹の子は鍋に入る大きさに切り、米ぬかを少し入れ、煮立ったら弱火にして40分ほど煮て火を消し、そのまま冷ます。



竹の子の佃煮

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下処理した竹の子は洗って適当な大きさに切り、出し汁と水を入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして水分が半分ほどになったら削り節を入れ、水気が少なくなるまで煮て出来上がり。「竹の子の佃煮」を参考にした。




竹の子の木の芽和え


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木の芽(山椒)はすりこ木ですり、その中に味噌を砂糖、酒、みりんで溶いたものを入れて混ぜると木の芽味噌の出来上がり。

下処理した竹の子は薄めの麺つゆで煮て、水気を切ってボールに入れ、木の芽味噌を入れて和えると出来上がり。


スナップエンドウの炒め物 

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スナップエンドウをごま油で炒め、塩、胡椒、醬油で味付けして出来上がり。



エンドウと卵の煮物


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エンドウは洗って鍋に入れ、出し汁を入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして卵2個を入れ、5分ほど煮て出来上がり。

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焼き肉


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焼き肉用の肉260g(1280円)をもらって冷凍していたが、食べ方がわからない。

1ヶ月ほどたつので、とにかく使おうと思って昼から解凍した。



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まず、タレを作ることにした。冷凍しているニンニク3片をすりおろし、同じく冷凍しているショウガ1片をすりおろし、トウガラシ1本の小口切りを入れ、醬油を入れた。




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タマネギ1個をスライスし、葉は小口切りした。 




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レタスを洗った。



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肉は80度の湯で15秒ほど湯通しした。



   
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熱したフライパンに大さじ1ずつのサラダ油を入れ、弱火で牛肉を焼き、いったん取り出してタマネギを炒め、タマネギに火が通ったら肉を戻し、タレを入れ30秒ほど炒めて出来上がり。

最初、魚焼きのグリルで焼こうと思ったが、タマネギを刻んだりしているうちに、こんな風な焼き肉になった。 

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鯛アラを使った2品


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鯛アラは昼に冷凍庫から出しておいた。

80度の湯で15秒湯通しする。


サトイモと鯛アラの煮物

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サトイモは乱切りして鍋に入れ、水と出し汁でひたひたにし、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして5分煮て、鯛アラを入れ10分煮て、ざく切りしたタマネギの葉を入れ3~4分煮て出来上がり。



鯛アラを使ってタジン鍋
  
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タマネギの葉はざく切り、玉はスライスしてタジン鍋に入れ、湯通しした鯛アラを置き、練り製品を置き、ウインナー2個の小口切りを置き、エンドウを置き、シイタケのスライスを置き、シシウド(山ウド)を置き、胡椒で味付けし、弱火で15分、火を消して余熱5分で出来上がり。ポン酢で食べる。



初物レタス

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まだ少し小さいが収獲を始めた。



ゆで卵

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エンドウ・スナップエンドウ


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田んぼから帰る前に収穫したエンドウとスナップエンドウのスジをとり、



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スナップエンドウは油で炒めて、塩・胡椒で味付けして出来上がり。



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エンドウは沸騰した湯で1分ほど茹でてザルに上げ、そのまま食べたり、



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ご飯が足りなかったので、ソウメン(去年、お中元でもらったもの)5束を茹で、濃縮2倍のつゆ(これも、お中元でもらったもの)をかけ、エンドウを薬味にした。


ハーブティ 

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左から、アップルミント、コモンタイム、セイジ、レモンバームで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らし、取り出すと出来上がり。


ミツバチは借りた2群、捕獲した1群とも順調と思う。

明日から2日ほど天気がぐずつくので、次の分蜂は4月30日の水曜日以降になるだろう。

すべての待ち受け箱にキンリョウヘンの鉢、もしくは一輪挿しを置いているが、このうち2つの待ち受け箱に探索蜂が、昨日に続き飛来している。多分、5月1日前後に第二弾が入居してくれると思う。

昨年借りた3群は、田んぼの果樹の根元に置いたが、標高の低い場所に置くと、農薬の影響が免れないような気がするので、今年はまた葉タバコ跡地の山を中心にした置き場にしようと思う。

ただ、借りた巣箱を移動するのは、ミツバチの出入りが終わる7時以降の夜間になり、巣箱を家に持ち帰って再設置するのは8時以降になるので、山に上がるのはイノシシが出るのでちょっと危険であり、借りた巣箱は今まで通り、田んぼの果樹の根元に置いている。

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2年ぶり 第一弾 入居 

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待望の第一弾が入居してくれた。2年ぶりなので本当にうれしい。

朝7時半頃には右の巣箱に早くも数匹の探索蜂が訪れ、左の巣箱にも来ていた。それを見て、今日は入居してくれると思った。

11時にまた山に上がったら、左のキンリョウヘンに蜂球が出来ていたので、入居を確信した。右のキンリョウヘンにもかなりミツバチがいて、巣箱の出入りも数多くしていたから、てっきり2群ゲットできたと思ったが、昼食後にまた上がったら、右の巣箱の蜂は少なくなっていたので、最後に護衛に守られて飛来した女王蜂が左の巣箱に入ったのだろう。

昨日まで、キンリョウヘンを置いたすべての待ち受け箱へ探索蜂が飛来していたが、今日の入居で、他の待ち受け箱への飛来は急に無くなった。しかし夕方見たら2つの待ち受け箱に探索蜂が来ていた。
 
入居したことで、半径1.5キロ~2キロ圏内に「元巣」が存在するという事実が確認できた。当地では4月末~5月頭が分蜂の中間点だから、まだまだ捕獲できる。この元巣から第2弾、第3弾、第4弾の分蜂(日本ミツバチは春の1ヵ月間に3~4回の分蜂をする)をゲットしたい。



タマネギの葉の卵とじ

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鍋に出し汁を入れ、醬油とミリンで味付けし、煮立ったら、ざく切りしたタマネギの葉を入れ、しなっとしたら溶き卵2個を入れ3分ほど煮て出来上がり。



タマネギのオイスターソース炒め

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タマネギの玉はスライスし、シシウド(山ウド)は粗みじん切りにしておく。

熱したフライパンに大さじ1のオリーブ油を入れ、ニンニクのみじん切り、ウインナー2個の小口切り、タマネギのスライスの順に炒め、火が通ったらシシウドを入れ、オイスターソース大さじ1、醬油小さじ1、胡椒で味付けし、30秒ほど炒めて出来上がり。





春キャベツのレモン醬油和え
   
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春キャベツは細目にざく切りして沸騰した湯で1分ほど茹でて冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。お椀に出し汁大さじ2、醬油大さじ2、レモン果汁大さじ2、砂糖少々を入れて混ぜ、小魚を入れて1分ほど浸してボールに入れて混ぜると出来上がり。

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初物 スナップエンドウ


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初物のスナップエンドウはスジをとり、ゴマ油で炒め、塩・胡椒で味付けして出来上がり。スナップエンドウはこの食べ方がおいしい。



エンドウの湯通し


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エンドウは湯通ししてポン酢で食べた。



ポテトサラダ

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ジャガイモは薄切りして蒸し、ボールに入れてつぶす。スライスして水にさらしたタマネギをザルに上げ、水気をしぼりながらボールに入れ、ゆで卵1個を入れてつぶし、湯通ししてみじん切りしたシシウド(山ウド)を入れ、、マヨネーズ、酢、砂糖、塩、胡椒で味付けして出来上がり。
  
   
 

ハーブティ


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左からアップルミント、コモンタイム、セイジ、レモンバームで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らして引き上げる(取り出す)と出来上がり。


ミツバチは今日、本体が入居してくれると思ったが、いまだ先発隊(探索蜂)が出入りを繰り返しているだけである。頻繁に出入りしている待ち受け箱が3箱あり、明日は何らかの動きがあるだろう。

一昨日借りてきた2箱とも女王蜂が健在なら、待ち受け箱のキンリョウヘンには興味を示さないはずである。

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ミツバチの第一波が襲来


タジン鍋


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タマネギの葉のざく切りとタマネギのスライスを下敷きにして、キャベツの外葉も3枚ほどざく切りして置き、シイタケのスライスを置き、ベーコン1連を置き、胡椒で味付けし、弱火で15分、火を消して余熱5分で出来上がり。ポン酢で食べる。



黒豆


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一晩水に浸した黒豆150gを、戻し水ごと圧力鍋に入れ、砂糖100gと醬油小さじ1を入れ、おもりが回り始めたら弱火にして20分、火を消してそのまま放置して出来上がり。

枝豆は作るが、アズキ、ダイズ、黒豆は作っていない。親戚でもらったり、産直の直売所で収穫期の12月にまとめ買いしている。豆類はよく使うので、各2キロくらいは必需品である。



出し汁作り


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煮干し、干しシイタケ、昆布は一晩水に浸しておく。点火して煮立ったら弱火にして昆布は取り出し、削り節を入れ、5分ほど煮る。

出し殻を全部引き上げ、再沸騰させてアクをとると出来上がり。 



オニオンツナサラダ

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新タマネギ2個をスライスして水に5分ほどさらしてザルに上げ、手で水気をしぼりながらボールに入れ、油切りしたツナ缶をほぐしながら入れて混ぜ、半分はマヨネーズで、残り半分は花かつおを入れて混ぜ、醬油をかけて食べる。

簡単にでき、新タマネギはおいしいので、しばしば作っている。



ミツバチの第一波が襲来

昨日借りた2群とも活発に出入りしている。最初の関所は越えた。しょっちゅう眺めていたら、今日は仕事にならなかった。果菜類の定植準備を急ぐ必要があるのに全然前に進めれない。

分蜂期は毎年こうなってしまう。

ここ数日の暖かい天気で、キンリョウヘンが一気に五分咲きになった。だから一輪挿しにしたり、もしくは鉢のままタマネギネットをかぶせて待ち受け箱の傍らに置いて行った。

不思議なことだが、昨日まで当地ではミツバチをまだ1匹も見かけていなかったのに、昨晩2群を借りてきたら、それらのミツバチが他のミツバチの集蜂効果をもたらしたのか、半分以上の待ち受け箱のキンリョウヘンにミツバチが来ているのを見た(まさか、借りた2群がキンリョウヘンにたかってはいないと思う。もしそうなら無王群の可能性がある)。

ミツバチ(探索蜂)が特に多かった池の上の山(葉タバコ跡地)の桜の木の根元(3年連続でゲットした置き場)の待ち受け箱には明日か明後日には待望の第一弾が入るだろう。去年は当地では1群もゲットできなかったので、2年ぶりである。

昨日まで、全く見かけなかったミツバチが今日になって突然押し寄せてきた感じである。桜の木の根元以外にも、ひんぱんに出入りしている待ち受け箱が2箱あり、今、ミツバチの第一波が襲来している。だから農作業どころではなかった。
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日本ミツバチの2群を借りてきた


今日はミツバチの分蜂騒動で忙しく、夕飯はできなかった。
当方の山や畑だけでなく、蜂仲間にも待ち受け箱を置かせてもらっていたが、その待ち受け箱に2群が入り、もらいに(借りに)行ってきた。


去年は、多くの蜂仲間が、蜂群の全滅もしくは激減の憂き目に遭い、元巣が越冬した蜂仲間は少ない。その中で、今日借りてきたオーナーは2群を越冬させ、待ち受け箱を置くように勧めてくれたので、元巣の近くに4箱を置かせてもらっていた。咲き始めたばかりの一鉢と、リポビタンDの瓶に挿した一輪挿しを3つ、それぞれの待ち受け箱の傍に置いた。

19日の土曜日に設置して、今日は23日だから4日目である。昨日「入った」という連絡を受けたが、巣箱の中を確認したら2つの巣箱に十数匹の蜂がいただけで、本体はまだ来ていなかった。だから、今日はどちらかに入るだろうと思っていたが、結果的にどちらの巣箱にも入った。

21日に分蜂があって、高い木の枝に蜂玉となり、その蜂玉が21日、22日と動かず、今日いなくなっていたので、その蜂玉がどちらかの待ち受け箱に入り、もう一つの待ち受け箱には、他の元巣の分蜂が入ったのだろう。

実はオーナー(去年のオーナーとは別の人です)も今日1群をゲット(この群は蜂数がそれほど多くない)しているので、今日だけで3つの分蜂群を捕まえたことになる。元巣は2つしかないのだから、1群は2日あけただけで再度分蜂したか、他所の自然巣の群が来たのかも知れない。あるいは、3群の中の1群は「無王群」の可能性もある。 

去年のオーナーにも、今年のオーナーにも、当地で越冬して分蜂群がゲットできれば、順次、返却する予定です。
 

とにかく、借りてきた2群の明日の動向が大いに気になり、楽しみでもある。明日、活発に出入りしてくれれば一応は一安心で、今後1週間は巣箱の開閉(内検)は避け、8日目に継ぎ箱をする時に、巣が伸びていれば女王蜂が健在である証拠となる。

だから、本当の喜びとなるか、ぬか喜びとなるかは8日目頃に判明する。
 
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新タマネギの甘酢漬け


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ヤーコンの甘酢漬けと同じ甘酢をまず作る。出し汁180cc、酢120cc、砂糖50g、ショウガ1片のすりおろし、トウガラシ1本の輪切り、ニンニク醬油大さじ1を入れ、火にかけて砂糖を溶かし、冷ます。

新タマネギ3個(中玉)はスライスして水に5分ほどさらしてザルに上げ、水切りして瓶に入れ、甘酢を注ぐと出来上がり。2日ほど経過したら食べれる。



今季初のハーブティ

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左から、レモンバーム、コモンタイム、アップルミント、セイジで、沸騰したら火を止め、これらのハーブを入れ、3分ほど蒸らして取り出すと出来上がり。

コモンタイムは常緑草で、アップルミントやセイジも厳寒期でも多少は収穫できるので、1年を通してハーブティは作れるが、自分の場合は麦茶代わりに飲むので、のどが渇くようになってから作る。

なお、甘いハーブティは、ステビアが収穫できるようになる6月上旬から。



鯛アラとサトイモ、シイタケの煮物

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サトイモは乱切り、シイタケはスライスして鍋に入れ、出し汁と水を入れてひたひたにし、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、湯通しした鯛アラを入れ10分煮て、タマネギの葉を入れ3分煮て出来上がり。

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「民族浄化」の歌


長島愛生園 「開拓の歌」



世の隅に悩む はらから迎えて

愛のわが村を うち築かん

祖国を浄むる 一大使命に

生きゆく身の幸 いざうたわん





青森県の北部保養院(現・松丘保養園) 「園歌」


身は傷つきて いたむとも

心は清く 甦り

民族浄化 目指しつつ

進む吾等の 保養院


まことにすごい歌です。らい者は死ねというような・・・。どちらも療養所の医師が作った歌です。

以下「いつの日にか帰らん」P49~P51を抜粋させて頂きました。

私が愛生園に入った頃は、露骨に「非国民」「国の厄介者」という扱いでした。戦時中でしたが、私たちは兵士にも軍事徴用工にもなれず、役立たずの「穀つぶし」だの「ただ飯食い」などと蔑まれました。目の見えない人は頭を振っているだけで何もできないからといって、職員からは「座敷ブタ」と言われました。他園のことですが、「お前たちはクソ製造機だ」と、人を人ともおもわぬ侮辱があって問題にもなりました。本当にあったことです。

私たちは小学校へ入るとともに「万邦無比の聖なる日本」と教えられました。だからハンセン病は日本にあってはならない国辱的疾患でした。厄介者であり、「民族浄化」の対象だったのです。

長島愛生園には「開拓の歌」というのがありました。その作詞者は愛生園の医務課長(現在の副院長に相当)で、後に鹿児島の星塚敬愛園の園長になった林文雄医師です。そこには次のようにあります。

世の隅に悩む はらから迎えて

愛のわが村を うち築かん

祖国を浄むる 一大使命に

生きゆく身の幸 いざうたわん

この歌を毎月の20日に催された開園記念日に患者、職員の全員が集合して歌っていました。「祖国を浄むる一大使命に生きゆく身の幸」とは、「隔離の中で死んでゆくことによって消滅することが祖国へ尽くす道であり、これに励むことを幸せとせよ」の意です。ここには治療(による社会復帰)の精神はなく、犠牲への精神洗脳があるばかりでしょう。


また、青森県の北部保養院(現・松丘保養園)の園歌には次のような一節があります。

身は傷つきて いたむとも

心は清く 甦り

民族浄化 目指しつつ

進む吾等の 保養院

この作詞者は当時、北部保養院の医師で、後に内務省衛生局予防課長となった高野六郎氏です。「民族浄化目指しつつ進む吾等の保養院」と、その浄化対象者である患者に歌わせていました。私たちはときに自嘲的になることがあっても、こうした歌詞にとくに疑問をもつこともなく歌っていました。 
 
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アジの南蛮漬け


アズキご飯

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3合の白米を洗って無水鍋に入れ、4カップと50ccの水をいれ、一晩水に浸したアズキを入れ、煮立ったら弱火にして30~40分、火を消して余熱30分で出来上がり。


ぜんざい

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残りのアズキはザルに上げて圧力鍋に入れ、水を3カップ入れ、おもりが回りだしたら弱火にして15分、そのまま放置する。

圧が抜けたら、蓋を開けて水分量を確認し(少なければ加える)、砂糖を3回に分けて入れ、塩少々を入れ、味ききして出来上がり。「圧力鍋で超簡単!ぜんざい」を参考にした。



アジの南蛮漬け

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料理してあるアジを買えば、意外と簡単にできる。いつもの「アジの南蛮漬け」を参考に、まずタレ(酢90cc、醬油60cc、みりん60cc、砂糖大さじ1、赤トウガラシの輪切り1本)を作り、タマネギ1個をスライスしておく。タレはレシピの2倍量を作った方がよい。

いつもの200ccでなく170ccの油(フライは油が少なくてすむ)を入れ、180度に温度設定し、洗って片栗粉をつけたアジを3~4匹入れ、裏と表を1分半ほどずつ揚げて、ボールに入れる(この時、ジュッと音がするのがいい)。


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全部揚げたらタマネギのスライスを入れて混ぜると出来上がり。残った油は120ccで、11匹で50ccの油を使ったことになる。

要した時間は「野菜のかき揚げ」の半分で、30分ほど。
 
    
   

    
タマネギの葉の酢味噌和え  

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タマネギの葉はざく切り(根元の白い部分は縦に3~4等分する)して、沸騰した湯で1分半ほど茹でて冷水にとり、水気をよくしぼりながらボールに入れる。お椀に酢、味噌、砂糖を入れ、小魚を入れて混ぜ、ボールに入れて和えると出来上がり。「葉タマネギの酢味噌和え」を参考にした。

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入所者は国民健康保険の「適用除外」


加賀田一さん著作「いつの日にか帰らん」P23~P26を抜粋させて頂きました。以前に紹介させてもらいましたが、大事な項目なので再度紹介させて頂きました。


わかっていながら、やろうとしなかった-これが一番悪いことです。強制収容を政策として続けることによって、一人一人が自らつくってゆく人生を諦めさせた。それはそのまま家族との再会や故郷に迎えられることを断念させることでした。その断念と引換えのように所内における福祉や生活、医療について改善が図られてきました。

これは人権の尊重という視点から見れば差別の増幅にほかなりません。「らい予防法」による強制収容は間違っていたときちんと謝罪すること、それは一人一人の社会復帰についてきちんと責任を持つということです。

全国に国立のハンセン病療養所が十三か所ありますが(最初に設立された公立療養所五か所も、戦時中に国立に移管されました)、「らい予防法}が廃止された1996年(平成8年)、その入所者の平均年齢はすでに73歳に達していました。しかし、社会復帰のための支度金はわずかに150万円でした(その後、250万円に変更)。

また、入所者は国民健康保険の「適用除外」でした。所内や特定「委託病院」の治療は無料ですが、外部の大学病院やら一般病院での「保険外診療は差し支えない」、つまり有料なら診てもらえるというものでした。私たちは本人証明書としてもっとも一般的に使われる「健康保険証」すら持てませんでした。結局「らい予防法」が廃止されてもなお、入所者がこのまま歳を取って「自然消滅」してゆくのを待つという基本姿勢に変化はなかったのです。

「らい予防法」が廃止されて2年たった1998年(平成10年)7月、鹿児島の星塚敬愛園の入所者ら13名が「らい予防法違憲国家賠償」を求めて熊本地裁に提訴しました。国民として正当な権利である社会復帰を阻んだ強制隔離政策は憲法に反するから謝罪して責任を取るべきだという訴えです。国は強制隔離してきた歴史的事実を忘却のうちに流し去ることを狙っている。そういう国家の体質は改めるべきだというのが、この訴えの主旨でした。

熊本地裁への訴えが始まると、続いて東京の多摩全生園、そして瀬戸内海の三園からも同じような動きが始まった。三つの原告団があるのですが、その人数が何人なのかを明らかにすることは、これがまた非常にデリケートな問題で、ハンセン病問題を象徴するものでした。「原告になっとることが家にわかったら困るから、わしが原告に入ってることは言うてくれるな」というわけです。ずっと身を隠して生きている。「今さら表立ったところへ出ていくと家族が困る。だからこの裁判に自分は出たいけど出られない」、「名前を出してくれるな」という原告がいるので、確実な人数はつかめなかったのです。

弁護団もこの「最大の人権蹂躙問題」に対して無知であったことを深く反省すると声明して、250人の弁護士が集まりました。原告名の秘密も守って、弁護士が代理人を務めました。最後にはおおよその人数(2200人)は公表しましたが、個人名までは公表しませんでした。

熊本地裁の判決は3年後の2001年(平成13年)5月に出ました。それは1960年(昭和35年)以降についての隔離政策は人権侵害であり憲法違反だというもので、原告側の主張を大筋で認めるものでした。

判決は同時に、国会に対しても1953年(昭和28年)には治癒することが確定されており、1965年には「らい予防法」を廃止すべきだったと、その怠慢を「立法不作為」として断罪しました。行政と立法を、司法がはっきりと断罪した画期的な判決です。下級審の裁判長が国政の誤りを正した判決に、私たちは万感の思いを込めて万雷の拍手を送りました。

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初物 エンドウ


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初物のエンドウはスジを取り、1分半ほど茹でてザルに上げ、マヨネーズで食べた。



イワシの梅煮


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鍋に出し汁150ccを入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ショウガ1片をすりおろし、種を取った小梅4個を入れ、煮立ったら弱火にしてイワシを入れ、落し蓋をして30分ほど煮て汁気がなくなると出来上がり。「いわしの梅煮」を参考にした。




木の芽味噌
   
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先日作った「竹の子の木の芽和え」がおいしかったので、そのレシピの「木の芽味噌」を作り、蒸したジャガイモにつけて食べた。



新タマネギのオイスターソース炒め

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熱したフライパンに大さじ1のオリーブ油を入れ、ニンニクのみじん切り、ウインナー2個の小口切り、タマネギの順に炒め、最後に粗みじん切りしたシシウド(山ウド)を入れて火を止め、オイスターソース大さじ1と、醬油小さじ1を入れ、強火で点火して30秒ほど炒めて出来上がり。



卵豆腐


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ボールに出し汁1カップ、大さじ1のみりん、塩少々、溶き卵2個を入れて混ぜ、容器に入れ、煮立ったら弱火にして10分、火を止めて余熱5分で出来上がり。

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「未感染児童」T君

加賀田一さん著作「いつの日にか帰らん」の最後に書かれている項目ですが、あまりにひどいT君の状況に、「渡る世間は鬼ばかり」というのはこういうことを言うのかと思いました。


「未感染児童」T君

病気になった親が収容されるときにいっしょに連れてきた子供さんがいました。それぞれ故郷では養育のできない事情があったわけです。この子たちのことを「未感染児童」と言うのですが、これもすでに偏見の意味を含んだ言葉です。「未だ感染していない」けれどもいずれは感染、発症するというニュアンスを籠めた命名であり、使い方が間違っています。

この子たちは病気ではないわけですから、非患者地域の「保育所」で集団生活を送ることになり親子別々の生活です。この保育所には通算すると百人以上いました。月に一度の開園記念日にお互いに遠くから眺める機会を与えられていました。

病気の学童は園内に設けられた愛生学園に通い患者の教師が教えました。医師・職員住宅の児童は船に乗って対岸の村の学校に通っていました。この「未感染児童」の保育所の子供たちには島内に黎明学園という立派な名称の特別教室があてがわれて、教師と保育師が正式の教科書を使って寺子屋式で教えていました。親が病気だったために教育差別を受けていたわけです。新憲法施行の翌年、1948年(昭和23年)からは地元の裳掛小学校の分校扱いになったことは先述した通りです。

戦後、保育所育ちの子供たちが社会に出る準備や社会訓練をする場として、大阪に白鳥寮という施設が設けられました。近所周辺には戦災孤児のための寮といっていたようです。今の新幹線の新大阪駅の近く、大阪水道局の貯水池があった近くです。長島育ちと明記されて親の病気がわかれば排除され就職できないということで、いったん住所も白鳥寮に移してここから就職したり社会に出たりしました。

そういう施設としてはもう一つ島根県平田市(現・出雲市)の古平田寺がありましt。そこに錦織という青年住職がおられて、自分のところで一時子供を引き取りました。「未感染児童」は一度、住所や本籍もそこに移して、それから出ていったわけです。

この白鳥寮が、対象者がいなくなり閉鎖になったのが1965年(昭和40年)のことです。ちょうど私が自治会長をやっているときでした。そのときに白鳥寮を大阪府に1610万円だったと思いますが、売却しました。その代金を資金にして入所者の社会復帰と社会福祉のための設備を整えました。すでに活版印刷、ラジオの組立て、車の運転、簿記、タイプ、園芸、パーマ、洋裁、編物などはやっていましたが、岡山はイグサの産地でしたから、地場産業の畳工場を新たに造りました。この工場で毎日8時間働くことで社会復帰訓練をする福祉厚生施設でした。 

あまり語られていないのがこの「未感染児童」のことです。病気でもないのに患者同様の偏見、差別、排除を受けて育ち、一生をそのために苦しんだ人が多くいます。

親から相談されて、私なりに世話をした子供にT君がいます。T君は黎明学園を出てからも、その頃は保育所に4~50人ぐらいいましたから、保育所の食料自給のために島内で働いていました。仕事は百姓仕事と豚舎での豚飼育でした。保育所の補助要員ですから、本来なら職員、少なくともそれに準ずる待遇を与えるべきです。それが成人する20歳まで無報酬のまま働かされていました。愛生園のための奴隷労働でした。

その頃、T君の親から相談されて、 待遇の酷さに私も驚きました。保育所は私たちの居住区とは「別世界」ですから、生活全般その他なにもわかりません。保育所の教師が寮長でもあり、保育児童全員の親代わりです。園の窓口を通してその教師に面会を求めました。そして「社会復帰をさせてやっていただきたい」と要請しました。しかし彼女は「引受人がないと出すことはできません」とそっけない返事を返すだけでした。
「今後もここで働かせるなら、きちんと雇員として採用し、独立の道を与えてやって下さい」と強く申し入れると、「引受人ができれば社会復帰させます。探してください」と言うばかりで、雇員とすることについては触れようとしません。病人でもないのに「社会復帰」もおかしなものですが、それだけここは世間から「隔絶」されていたわけで、だからこのような少年が存在し、このような事実があり得たわけです。

面会にもよく来られて、病気についてもよく理解している方に、親が病者であるために就職に困っているという事情をよく話した上で、「社会復帰」について依頼したところ、2か月ほどたって、大工さんの仕事をもってきてくださいました。棟梁の家に住み込んで大工職人の修行をするという良い話でした。

この話がまとまったことを保育所に伝えると、意外なことに喜ぶどころか不満そうでした。それは手当もなしに真面目によく働く人間を失うことが残念という態度でした。

親も当人も、仲介した私も、喜んでT君を送り出しました。もともと世間ずれしていない真面目な性格ですから、一生懸命に働いていたようです。

それから5年たって、また親御さんから相談を受けました。T君本人から「給料を一度もいただいたことがない」と言ってきたというのです。住込みの徒弟制度で、子守りから掃除、家事一切をやらされているので、T君が小遣い銭の話をしたら、親方の大工に「お前の親はらい病で、行くところがないお前を助けてやっているのだから、有難く思え」と言われたというのでした。

人の弱みに付け込んで利用しようという、ひどい大工でした。こんなところにいたのでは将来もなにもないことは明らかですから、新たな仕事先を伝を頼って探しました。

幸いなことに6か月の見習い教習に合格すれば本格採用になるという好条件のベアリング会社が見つかりました。無事に見習い期間を通って本採用が決まりました。そこで戸籍抄本が求められ、提出しました。そこにはT君の父親について「光田健輔届出により死亡届出受付」と記されていました。当時、愛生園での死亡者はみな、そのように記録されました。

会社の担当者から「あなたはどうして光田健輔と関わりがあるのか」と尋ねられて、T君は頭の中が真っ白になり、何も答えることができないでそのまま退室したそうです。人事係もよく光田健輔の名前を知っていたものです。 

T君の消息がそれ以来わからなくなりました。親御さんは気が狂ったように、同じ保育所を出て外で生活している方を中心に手配して探しました。唯一の手がかりは京都でばったり出会ったという友人の話です。喫茶店に入ってコーヒーを飲んで別れたが、事情も知らないので詳しく聞くこともなかったから、どこで何をしているかわからないとのことでした。

親御さんは生きるだけは生きていてほしいと言って、ただ生きていることを祈っておられました。病気になった人も気の毒ですが、保育所にいた百何人の子供さんが元患者と同じ思いを味わい、未だに隠れています。その人たちは今は家族もいて、穏やかに暮らしていることでしょう。

今さらハンセン病のことをしゃべって、寝た子を起こすようなことはしてくれるなと、私も言われます。それは昔の影に脅えているのだと感じますけれでも、その人たちの気持ちを無視するわけにはいきません。女性の場合は保育所育ちを隠して結婚して、その後子供に恵まれ、孫もできて、比較的平和に過ごしておられる方もいると聞きますが、心のなかでは苦しい時期があったに違いありません。

脅えなければならない影が社会に残っている限り、ハンセン病問題は解決したとは言えません。 

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旬のタマネギ「ばっかり」食


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春キャベツとタマネギの葉を下敷きにして、湯通しした鯛アラを置き、胡椒で味付けし、弱火で15分、火を消して余熱5分で出来上がり。ポン酢で食べる。

鯛アラはタジン鍋に使ってもおいしい。




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タマネギの玉の部分はスライスして5分ほど水にさらしてザルに上げ、手で水気をしぼりながらボールに入れ、油切りしたツナ缶をほぐしながら入れて混ぜる。


マヨネーズ和え

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半分はマヨネーズで和えて食べる。


花かつお和え

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半分は花かつおを入れて混ぜ、醬油をかけて食べる。

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うらを見せ おもてを見せて


これは近藤宏一さんの晩年の作品(随筆)です。なかなか味わいのある小品と思います。「闇を光に」のP190~P194を抜粋させて頂きました。


うらを見せ おもてを見せて

朝起きて、身支度をしていると、突然婦長さんがお見えになった。こんなに早くどうしたのだろうと訝りながら、上着を着ようとしていると、
「今朝方、守口さんが亡くなられましたよ」と言われる。思わず顔を上げると、
「昨日入室したんですけれど、もう遅かったんです。肺炎だったんですよ」
と。風邪をひいて休んでいるということを聞いて、私が廊下伝いに守口さんの部屋を訪ねたのは、一週間程前のことだった。その時は、床の中とはいえまだ元気で、久しぶりに思い出話をしたり、教会の話をしたり、守口さんの好きな讃美歌「ここも神の御国なれば」を一緒に口ずさんだりしたことなどを思うと、今朝の訃報は信じられない。婦長さんは言葉を継いで、
「あの時、介護員の報告を聞いてすぐ部屋へ行ってみたんです。そうしたら熱は高いし、食事は取っていないと言われるし、これはいけないと思い、入室を勧めたんです。ところが普段でも一徹なおじいちゃん、その時は一層頑固で、私の言うことなど聞き入れてくれそうにありません。でも私、一生懸命勧めたんです。そうしたら、やっと一つの事を打ち明けてくれたんです。それは、自分の娘に会いたいって言うんです。守口さんが愛生園に来た後、間もなくお嫁に行った一人娘だと言うんです。時々、面会に来ておられた奥さんが亡くなられてからは、もう肉親といえばその娘さんが唯一人、それも長い間の音信不通、まるで雲を掴むような話です。でも私、守口さんのその願いを叶えてあげたいと思って、福祉へ頼んでおいたんです」

私は婦長さんの話を聞きながら思った。ハンセン病を発病した私たちは、世間の目を恐れて、自分から身を隠そうとしてきたし、家族から遠ざかる例も少なくはない。まして他家へ嫁いで四十年、会える可能性は非常に少ない。ところが婦長さんは意外にもこうおっしゃるのだった。
「実は昨日の昼頃、その娘さんという方が面会に来られたんです。六十過ぎの、和服を召した上品な方で、S子さんとおっしゃる。早速部屋へお連れして、守口さんの耳元にそれを告げると、さすがに驚いて、二人はしばらく顔を見合わせたまま、声も出ないでいるんです。でもやっぱり親子、それと分かると、S子さんはいきなり布団の上へ覆いかぶさるようにして、わっと泣き出す。守口さんも呻くような嗚咽を・・・。そうなると他人の私のいるところではありません。そっと部屋を出たんです。それから三時過ぎだったでしょうか、そのS子さんが管理室の私の所へおいでになって、「大変お世話になりました。父をよろしくお願いいたします、この次来る時はもっとゆっくりさせていただこうと思います。」と丁寧な挨拶を残してお帰りになったんです。私はホッとして部屋へ取って返してみると、守口さんは床の上に体を起こしていて、私を見るなり、「婦長、わしゃ入室するぞ、入室じゃ入室じゃ」とまるでだだっ子なんですよ。娘さんに会えたことが余程嬉しかったんですね。それだのに、病室へ入ると急に容体が変わってね」

婦長さんはすすり泣きをこらえるように廊下に立って戸をいっぱいに開けられた。涼しい風がさっと流れ込んで来た。中庭のむこうの守口さんの部屋から、例のしわがれ声の讃美歌が聞こえて来そうに思えた。私は初めて守口さんと出会った遠い日のことを思った。

私が眼を悪くして不自由者棟に移ったのは、昭和二十五年であった。その部屋には池山さんというおじさんがいて、その人の所へ、時々裏の方から訪ねて来ていたのが、この守口さんだった。このお二人は、去る昭和十七年、東海地方のある県から、同じ列車に乗せられて、この島へ送られて来たという。池山さんはお百姓、守口さんは海産物問屋の番頭で、当時国防婦人会の会長をしていたしっかり者の奥さんと、年頃の娘さんを残して来たという。二人は共に五十歳がらみ、何かにつけてよく似ていた。いかめしい髭面といい、病気による手指の欠損といい、片足義足というのも同じであった。二人はお茶が大好きで、時折カタログを広げては、今日は玉露にしよう、煎茶にしよう、いやこっちの抹茶がいいよなどと、高い金を出し合ってそれを注文し、果ては部屋の中央の木の火鉢でお湯を沸かし、懇ろにそれを立てて、同じ部屋の私たちにもふるまってくれた。

夏のある朝、私は野点に誘われた。目指すロザリオの丘までは約二百メートル、満天の星がこぼれ落ちそうにまだ残っているという夜明け前であった。曲がりくねった道を上り詰めると、そこには思いがけない人が待っておられた。耳鼻科の女医のN先生であった。先生は、私たち三人を足元の茣蓙の上に、円座を組むようにして座らせて下さった。眼の前では炭火の匂い、お湯のたぎる音、もう用意は万端整っているらしい。深呼吸をすると、丘の上の佇まいが胸いっぱいにひろがってきて、とても気持ちがいい。
やがて先生は、
「東の空が白み始めましたよ、日の出ですね。そろそろ始めましょうか」
とおっしゃって、まずは私たちの手の平にそれぞれ小さなお菓子を、次いで鮮やかに茶筅をさばく音。
「さあどうぞ一服を」
と、初めは池山さんから、次に守口さんに、続いて何の作法も知らない私にも、それは文字通り五臓六府に染み渡るものであった。先生ご自身も、口に含んでゆっくり味わっておられるご様子。
「こんなお茶の会、いつから始めたんですか」とおたずねすると、
「今年になってからですよ。今朝で三回目です。もっと来てあげるといいんですけどね」と、先生は優しくおっしゃる。
「いやいやありがたいことじゃ、こんな朝のええ空気の中でのう。そうじゃ、ここも神の国じゃでのう」とは守口さん・・・。

あれから幾星霜、池山さんは既に世を去り、N先生は南の方の療養所へ転勤して行かれた。そして今朝、平成6年9月16日は、その守口さんが逝ってしまわれたのである。

ハンセン病はドラマだと思う。ここに十人おれば十遍の、百人おれば百遍のドラマがある。守口さんもそのヒーローの一人であって、この限られた療養生活の中では、しかし比較的自由な心で生きた人のように思える。良寛の句に、
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」
というのがあるが、墓碑銘にしてあげたいものだ。
「守口さんは九十三歳だったんですって」と、婦長さんのすすり泣きもようやく終わったようだ。
 
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キンリョウヘンがやっと咲いた


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キンリョウヘンの花がやっと咲いた。お彼岸(3月20日)以降の最後の追い込み(詰め)が非常に甘かった。4月10日の開花を予定していたが8日遅れた。来年以降の課題にしたい。

蜂によって受粉すると、その後、繰り返し使えなくなるのでタマネギネットをかぶせてから、待ち受け箱の傍に置く。待ち受け箱の中は何もない空間。




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最も期待しているのが葉タバコ跡地の山の斜面で、5個の待ち受け箱を設置した。その他の場所に10ヵ所置いて合計15の待ち受け箱を設置した。

分蜂期間は5月20日頃までなので残り1ヶ月しかチャンスはない。



苗の購入

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ピーマン18本×56円=1008円
ナスビ18本×56円=1008円
トマト18本×56円=1008円
キュウリ8本×56円=448円
スイカ(接ぎ木苗)6本×189円=1134円
合計4606円




育苗中

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左からスイートバジル、ナンキン、ソウメンナンキン、韓国カボチャ。



ケチャップライス

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具材はニンニク、ベーコン、タマネギの玉と葉、シシウド(山ウド)。

熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、ニンニクのみじん切り、ベーコン3枚の細切り、タマネギの玉と葉の順に炒め、最後にシシウドを入れ、ケチャップ、醬油、胡椒で味付けして火を止め、ご飯を入れて点火し、ご飯をほぐしながら具材になじんだら出来上がり。「ケチャップライス」を参考にした。



タマネギの葉のバター醬油炒め

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熱したフライパンにバターを入れてベーコン2枚の細切りを炒め、ざく切りしたタマネギの葉を入れて炒め、白ワイン、粒マスタード、醬油、黒胡椒で味付けして出来上がり。
葉タマネギのバター醬油炒め」を参考にした。
 

 

ゆで卵


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心のよりどころ(文芸・宗教)


以下は石田雅男さん著作 『「隔離」という器の中で』 P51~P56の一部を抜粋させて頂きました。


ある入所者は、「私たちは世間からも、そして親兄弟からも忌み嫌われましたが、愛生園に入り光田先生にお会いして、本当の親のように思えて安心と感謝の日々を過ごすことができました」。また「愛生園があっていのち長らえることができたのです。愛生園がなければいつどこでいのち果ててもおかしくはない身の上でした」。
今は亡き僚友の言葉が私の耳に残りますが、時代の流れが過去を糾弾するにつれ、光田先生は非人道的な隔離の推進者であり、悪の根源とされました。まさに時代の中の功罪相半ばする光と影のようであります。

入所して数十年、病気と対峙する中で、私は自らの病の醜さをなじり、哀しみながらも私自身をいとおしむ、という心の葛藤に明け暮れ、その状況の中から宗教・文芸等に関心が芽生えたように思います。

それは、同時に初代園長の光田先生が入所者にとっての”生き甲斐””心の安らぎ”のためにと奨励されたところの「宗教」「文学」であったのかもしれません。

文芸活動については、開園早々昭和6年に俳句会、短歌会が発足し、昭和9年、詩謡会(後に詩話会)、昭和16年、創作会(後に随筆会)が発足しました。

世間から忌み嫌われ、社会から排除され、隔離の中で病苦と闘い、病む身の辛さ、運命的な哀しさと切なさを文芸の場で綴る、「らい園文学」と言われながらも文学という名に自分の思いを吹き込むことを生き甲斐とした先人は数知れずいたように思います。

そして、文芸活動はその後も昭和27年、川柳七草会、昭和29年、評論部会が発足するなど、多くの入所者に関わりを持つようになりました。

私も昭和29年に詩話会、昭和48年に創作会に入会し、深夜にペンを握り、まるで雨の滴のようにポツリポツリと思いの一滴一滴を人知れず書き綴り、励んだ覚えがあります。

また、生き甲斐対策である一方の宗教活動についても開園と共に真宗同朋会、真言宗大師講、日蓮宗日唱会、キリスト教曙教会が昭和6年に発会、その後、昭和10年、天理教誠心会、昭和23年、禅宗修証会、昭和36年、カトリック・ロザリオ教会、昭和32年、本門仏立宗六清会、昭和34年、日蓮正宗創価学会、このように各宗派が発足し、布教師、伝道師、巡教師、導師の来園布教の基にほとんどの入所者はそれぞれの宗派に入信し、宗教を心の安らぎ、生きる支えとしたようであります。

私も21歳の時、ふとしたことで”聖書”に興味を抱いてキリスト教会の日曜礼拝に出席をしましたところ、そこには入所者の中でも相当に不自由と思われる盲人の方々、手足にも重い障害のある方たちが、とても明るい笑顔と大きな声で賛美歌を唱っていました。

その光景は私にとって意外であり、驚きでありました。何故こんなにも明るいのか、と唖然とさせられたのです。”らい”を患っていても手指に若干の障害がある程度で、それほど不不自由を感じなかった私でしたが、礼拝者の明るい笑顔に勝る喜びは私にはありませんでした。当時の私は21歳の若さのせいもあってか、宗教というものにあまり関心もなく、宗教の世界に入るようなことは考えられませんでしたが、その明るい表情を見つめていると、これが信仰というものの”力”なんだろうか、と思えてきたのです。

そして私も何時かは健康を失い不自由になるかもしれない、その時に宗教に関心を持ち信仰を持つなら、今の健康で若い時に・・・と得体の知れない信仰の力に魅せられるようにして、その年の12月にキリスト教信仰者として洗礼を受けました。それなりに聖書もよく読み、礼拝説教にも耳を傾け、賛美歌を唱うクリスチャンらしいところも身についた時もあり、また信仰を見失った時もありの日々が今日まで続いております。

「らい」に罹り隔離された中で入所者が宗教によって観念を押しつけられたのではなく、入所者自らが心のよりどころとして宗教を求めたものと私は思います。


平成8年、「らい予防法」が廃止されたと同時に、真宗大谷派から、”ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明”が出されました。声明文の中には次のように書かれていました。

1931年、真宗大谷派は「らい予防法」の成立にあわせ、教団を挙げて「大谷派光明会」を発足させました。当時から隔離の必要がないことを主張した小笠原登博士のような医学者の存在を見ず、声を聞くこともないままに、隔離を主張する当時の「権威」であった光田健輔博士らの意見のみを根拠に無批判に国家政策に追従し”隔離”という政策徹底に大きな役目を担っていきました。(中略)国家は法によって「患者」の「療養所」への強制収容を進めました。それと相俟って教団は「教」と権威によって隔離政策を支える社会意識を助長していきました。確かに一部の善意のひとたちによって、いわゆる「慰問布教」はなされましたが、それらの人たちの善意にもかかわらず、結果として、これらの布教のなかには、隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。(中略)真宗大谷派は、これらの歴史的事実(教団の行為と在り方)を深く心に刻み、隔離されてきたすべての「患者」とそのことで苦しみを抱え続けてこられた家族、親族に対してここに謝罪いたします。(中略)私たち自身が継続的な「学習」を続けていくこと、そして、「教え=ことば」が常に人間回復、解放の力と成り得るような、生きた教えの構築と教化を宗門の課題として取り組んでいくことをここに誓うものです。以上
『真宗』(1996年・5月号)より

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初物 竹の子を使った3品


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我が家の竹林はイノシシが掘り返して畑のような状態であり、竹の子はまだ1本も掘れていない。これはもらった竹の子である。

竹の子は皮をむいて鍋に入るような大きさに切り、米糠を大さじ3入れ、煮立ったら弱火にして30分ほど煮てそのまま冷ます。




竹の子の木の芽和え


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山椒はすり鉢ですり、お椀に味噌、砂糖、酒、みりんを入れて溶かし、すり鉢に入れ、さらにする。

下処理した竹の子をサイコロ切りして鍋に入れ、出し汁と醤油と水を入れ、煮立ったら弱火にして10分ほど煮てザルに上げてボールに入れ、木の芽味噌を入れて和えると出来上がり。「農家のレシピ 木の芽味噌」を参考にした。



竹の子の佃煮

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下処理した竹の子は細めに切って鍋に入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、水と出し汁でひたひたにし、煮立ったら弱火にして10分ほど煮て削り節を入れ、さらに5分ほど煮て水気が少なくなれば出来上がり。「農家のレシピ 竹の子の佃煮」を参考にした。


 
竹の子の煮物

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残った竹の子は普通の煮物にした。

下処理した竹の子は適当にスライスして鍋に入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、水と出し汁でひたひたにし、煮立ったら弱火にして10分ほど煮て出来上がり。



ワケギの酢味噌

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ワケギはざく切りし、シシウド(山ウド)は粗みじん切りにし、沸騰した湯にワケギを入れて1分半ほど茹で、火を止める直前にシシウドを入れ、冷水にとり、水気をよくしぼる。

ボールに酢、味噌、砂糖、みりんを入れて溶かし、小魚を入れ、ワケギとシシウドを入れて和えると出来上がり。

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凍てた饅頭


これは石田雅男さんが書かれた「凍てた饅頭」という創作作品です。少し長いので、「感動的な部分」のみにしようかと思いましたが、やはり全文を紹介した方がいいと思いました。
途中から、俄然面白くなりますので、それまでくじけずに読み進めてください。全文読むのに10~15分ほどです。


凍てた饅頭

松の葉先に真珠の小粒を思わせる水玉が光っていた。そっと触れると、それは冷たい感触を残して流れ消えた。

木の間を透かして目の前に小豆島が大きく東西に横たわって見える、小高いN療養所の丘である。その小豆島は十数キロの遠くにあるとは思えない近さで映り、その西端に四国高松の屋島が文字通り屋根形の一角を思わせて小豆島の肩越しに覗き、一方の東端は西島と呼ばれる小島が墨絵ぼかしに浮かんで見える。

瀬戸の海は殊更に静寂な顔をよそい、空は白い部分と黒い部分が激しく張り合って油絵に見るような分厚く動く雲があった。

増尾一郎は、雨上がりの夕暮れにこの丘に登ってきたのだった。彼の家はこの丘から遠くない西の山裾にある四畳半が四室の長屋のその一室で、隣には彼より三つ年上の65歳の森浦常吉がおり、二人は仲良く老後を過ごしていた。それは毎日話らしい話もないのに話ばかり交わして、療養所の生活を代表するかのように何かを話し合っては過ごすのであった。

平穏無事な日々は結構なことには違いないが、二人の行動範囲も年々縮小されて、そこに必然的ともいえる世間的な話題との断絶が生じ、孤独と寂しさが日暮れの陰のように迫ってくるのを覚えてやりきれないものがあった。平穏無事な生活の中の唯一の苦痛は話題のない沈黙の時の流れであった。しかし、こうした沈黙の箱の中に閉ざされた時、決まって淡い陽が差すのは錆びた遺物ともいえる遠い昔の想い出である。そして、二人の会話は何度も何度も語られ聞かされるものとなったが、それでもお互いに抵抗も覚えず、一方が懐かしそうに昔を語れば片方はそれに相槌をいれた。仕方なく聞いてやっている。仕方なく話してやっているといった構えは二人にさらさらない。何度も聞かされた話であっても楽しい話は心から笑えたし、悲しい話には深刻になって、その都度新鮮な感情が動いた。こうして時が過ぎ、僅かに生活している実感が一日の暦をめくってくれればよかった。
「雨が降っちょるでどうにもならんが・・・」
晩秋の雨には珍しい激しさで雨は昼頃から降り出し、森浦常吉は屋根を打つ雨音を払いのけるように言いながら増尾の部屋に飛び込んで来た。
雨が降らなければ何かをするような口調であるが、何も予定はない。ただ増尾の部屋に入っていくには大人としての挨拶が要るように思っているのか、彼は必ず大きな声で入ってくるのである。それを増尾は何時の間にかノック代わりとして聞く習慣がつき、別段こだわりもしなかった。
「すぐと上がる雨じゃろ。お茶でも呑もうかね」
療養所の午前中は、治療のために医局を中心に行き交う患者がそれぞれに挨拶を交わし、会話の渦を作る。
それは森閑とした午後に比べて、まことに活気ある午前中と言えた。それだけに療養所の一日は午前中に終わってしまうようにも思える。
増尾も森浦も午前中は心弾ませ、まるで社交場へでも行く気分で治療棟へ足を運び、そこで他人の会話と動作に接し密かに退屈をまぎらしていたのである。しかし午後は怖いほどの退屈が待っていた。そうして何時の間にか二人にとってお茶の時間が出来、いまでは欠かすことの出来ない日課となった。
戸棚から専用の湯呑み二個を出し、湯ざましをかけて常用の玉露茶を注ぐ。若干の差であるが、森浦よりも増尾のほうが障害的には手指が揃っているだけ曲がりなりにも手の動きがよく、この場合の世話は増尾であった。
「どうぞ」と促して森浦と共に呑むのであるが、それぞれいっぱしの茶人になったつもりか妙に改まって呑むのである。一人用の小さい卓袱台に向かい合った二人の姿は、長いようで短かった人生の終着駅のような、あるいは浮世の片隅に設置された待合室とも思える侘びしい翳りのようなものがないではなかった。
「そうだ、饅頭があったんだよ」
そう言って増尾は戸棚から饅頭を出した。褐色の艶をたたえた栗饅頭はほこらしげに光っていた。
「森浦さん、饅頭は好きじゃなかったかね。今日買って来たんだけど・・・」
「・・・」
森浦は返事をしない。急に神妙な顔で饅頭を見つめるだけで、一向に食べようとしない。増尾は仕方なく自分だけ食べだしたものの、今日売店で買う時、お茶のあてに何がよいかを物色し、最初にこの饅頭が眼に入った。しかし、その時、一応森浦のことを思った。そして饅頭以外のものをとも思ったが、結局は森浦自身の好物である饅頭に決めた。自分本位で買ったことを嫌らしい行為として反省が湧いたもののどうしようもなく、それにこだわるとうしろめたい気分で饅頭も喉を通らないように思えた。
「森浦さんに悪かったね。そんなに嫌いなものとは知らなかったから・・・」
相変わらず森浦は虚ろな眼で、その視線は饅頭に向けていた。
「森浦さん、怒っているの? 何も言ってくれないけど・・・」
増尾は何度も声をかけ、話しかけたが返事がない。やがて我慢が出来なくて、大きな声で眼の前の森浦を呼んだ。
「・・・森浦さん!」
その声で森浦はひょいと顔を上げ、まるで夢から醒めたような顔だった。
「森浦さん、一体どうしたんですか?」
「うっ、うん、ちょっと昔を思い出していたんじゃ・・・」
「昔を?」
「ああ、この饅頭を見てな・・・」
「饅頭で?」
「増尾さんとは随分と昔話をやったが、饅頭の思い出話はまだ一度もしていないはずじゃ。忘れておったわけじゃないが・・・」
森浦は感慨深げに小さく呟いた。
「饅頭の思い出とはどんな・・・」
増尾には、森浦の呟きが大きな興味ある響きとして耳に入っていた。話題もなく、まして興味ある話なんて底をなめても得難い時に、誰にも話していないーの一言はたまらない魅力であった。
「森浦さん、聞かせてよ。・・・いまでも話したら不都合なこと? でなければ頼むよ」
増尾は迫った。
「・・・恥ずかしいというか、惨めというか、ともかくいやな思い出なんじゃ・・・」
恰好悪い昔のことなんでな・・・そう言いながら、それでも森浦は話す気配を見せた。増尾はまるで自分が興味津々の話をするかのように、喉の渇きを覚え、湯呑みの底にあった茶を口に運んだ。
「そうじゃね。あれは終戦の翌年、昭和21年の冬じゃった」

らい病だ! 腐れ病だ!
石を投げられ追われるような屈辱と痛みを抱いて、兵庫の小さい山村を逃げ出した。
らいの病は、彼に隠し通せないほど顔面にどす黒い斑点を浮かせ、神経痛は口唇を侵し、しまりの無さが涎をおとさせた。その様子に家族や妻までが気味悪がって彼を避けるようにした。必然的に何時の間にか薄暗い納屋に閉じこもる時間が多くなり、それが当たり前のようにやがて暗黙裡に外出禁止となり、完全な納屋の住人となってしまった。小さい山村の人々は森浦の家族を避け、森浦の家族は彼を避けるようになり、彼は誰を恨むでもなくただ己を責めた。

ーこんなことになるのだったら、いっそのこと軍隊に徴兵され、戦場で勇ましく戦死でもしていればどんなに栄誉であったか。あの時、村の仲間が次々と徴兵される中でわしだけが・・・。

薄暗い納屋で、彼はあまりの皮肉さに泣けてならなかった。そう、森浦は身長が不足で徴兵検査に失格したのだ。その頃、軍隊に入ることの出来ない男は人間でないほと侮辱された。

家族も世間的にはそう言って恥じるものの、それは周囲に対する付き合い上の愚痴であり、表向きの芝居に過ぎなかった。事実、森浦の両親や妻は、何が幸いするかわからんのう、と密かに喜び合ったのである。しかし、それも束の間のことであった。

「わしはそんなある夜、家族も妻も捨て、村を出ていく決意をしたんじゃ。それから夢中で村を飛び出して二年間、山陰地方で過ごした・・・」


山陰地方、それは日本海に面した鳥取県であった。
そこで、彼は二年間もの間、田畑の作物から海岸に干された魚などの盗み食いをして空腹を満たし、疲労した身体を安心して横たえたのは人気のない小さい寺か、海辺の潰れかけた物置小屋だった。

二年間の流浪の中で、幾日も野宿した彼にとって風雨の凌げる場が得られればそこが最高の褥であった。だが、疲労と空腹は毎日襲い、よたよたと歩く砂浜の道は重く何度もくずおれ、そのたびに白い牙をむき、大きくうねって押し寄せる日本海の波に恐怖して起き上った。

鳥取の冬は想像以上の雪国で家も木立も雪の下に征服され、木立ちは雪の下に雪のなすがままの恰好を見せ、それでも家は僅かに抵抗を示すかのように屋根の一角を天に向けていた。この白い静かな戦いとは別にこの時期の海は轟々と猛り、飛沫は高く白い牙は森浦まで呑み込む構えを見せた。それを意識した時、彼は今さらのように己の生の無意味、あまりの惨めな存在が哀れに思え、足元に流れつく瓦礫の一つを握りしめた。

二度目の冬、空腹と疲労を背負って鳥取と兵庫を結ぶ吹雪の戸倉峠を何度も何度も雪の中に転げながら、必死に峠を越えようとした。
「無我夢中じゃったが、あの時どうして兵庫の故郷に近い所まで来ていたのか判らなかったナ」
全く無意識の行動に思えたが、心のどこかに故郷を偲ぶ何かがその行動をとらせた。そして現実に故郷を間近に見た時、-どうしてここへ戻ってきたのだー自分を疑った。山や小川を友にして過ごして数十年の故郷に違いないが、恋しい感情をあらわに表明し、諸手を挙げて縋り寄る身ではないのだーこんな所へどうして今更!

それは惨めさの再確認のために吹雪の戸倉峠を越えてきたようなものである。

鳥取と違ってそこは雪が少なく、それでも十センチほどの積雪のある山野を穴のあいた藁靴をひきずり、故郷を思いながら雪の中を彷徨した。何処へ行くといった目的のない身体にはもはや気力も活力もあるはずがない。

もう駄目だ! そう思った時、彼の体内の力が恐ろしい勢いで抜け落ちその場に崩れてしまった。

どれほどの時間が経ったじゃろうか。わしは虚ろな眼で前方を見て眼をこすった。四、五メートルほどのところにぼんやりと何か紙包みのようなものが見えたんじゃ。わしは一瞬それが食物を包んでいる、と本能的に思えた。いや願っていたようじゃ。わしは犬のように四つん這いでそれに近づいた。多少の雪を被っていた紙包みに異常な期待を寄せて手に握った。震える手で開けてみると饅頭じゃった。饅頭が三個あった。直感は的中したものの、わしは何か信じられなくて辺りを見回し、再度饅頭を見つめた。今度はあっという間もなく口の中へ押し込んだ。黒砂糖を固めたほどの固い餡じゃったが、カスン、カスンと歯が割っていくと甘い味が口の中に広がった。わしは何度もその甘さを惜しみながら唾を呑み込んだ・・・。

こうして三個の饅頭を食い終わった時、僅かな生気が森浦に甦ってきた。すると、今まで忘れていたような凍てつく寒さを身に感じ、ーこれからどうするーと自らに問いかけた。

粉雪が舞っていた。「この雪の中でわしは凍死するのか。わしが死ねば誰が哀しみ、泪するのか。いやわしのようなものが死んだとてむしろ清潔な雪野原を汚した汚物ぐらいに思われて他人は罵るだろうよ」
森浦は、吐き捨てるように同情されたい感情を振り払った。真実、彼はマッチ一本の温かさでいいから人の情が欲しかった。ぼんやり眺める風景は何時の間にか視界を遮るほどの吹雪になっていた。
ーこのままでは本当に凍死するぞー
彼は死の恐怖を覚えた。しかし、この時の森浦の死への恐れは、生きるために死を恐れるそれではなかった。白い雪の上で天刑病のなれの果てだと騒がれ、多くの野次馬どもに曝される、そんな恐れだった。
ーこんなところで死んでたまるかーそう呟きながら彼はヨロヨロと起き上った。その時である。
「おい! 君!」
間近に吹雪を裂くような声が飛び込んで来た。ヨロヨロと起きかけた時だっただけに、びっくりしてまた雪の上に腰を落としてしまった。何時来たのか森浦は気付かなかったが、一メートルほど離れた所に人がいた。恐る恐る見つめると巡査らしかった。そして確かに巡査と判った時、森浦は反射的に逃げようと思ったが、心と身体は別で巡査に背を向けるのが精一杯だった。
「この雪の中で何をしておるのか!」
巡査は訝しげに迫った。
「お前、見るところ乞食だナ。何処から来た、こら、顔をよく見せろ!」
汚れた手拭いで頬被りをした顔を伏せ、巡査に背を向けていた森浦は、仕方なく恐る恐る巡査を見上げた。血色の失せた死人同様の顔面、その口から涎が糸を引いて雪に穴をあけている。巡査は一瞬ギクリとした表情で後ずさりした。
「実際に逃げ出したいほどに恐れたのは巡査のほうじゃったかもな。それでも職務上わしを浮浪患者として始末しよった」
この巡査の手続きによって森浦は強制収容させられ、今日に至ったのである。37歳の時であった。


「饅頭は当時をよく思い出させる。だから、何時の間にかわしは饅頭を避けるようになってしもうたんじゃ・・・」
森浦はそう言って話を閉じた。
増尾は聞き終って、自分の興味本位で要求した話は、森浦自身が一番触れたくなかった過去の屈辱の疼きであることを知り、申し訳ない気持ちで心が塞いだ。
「森浦さん。悪かったね。大変辛い思い出ばなしをさせてしまって・・・」
今度は増尾が神妙になってそう言った。
「いやいや、わしは最近になって思うのは、あの時の饅頭はひょっとして仏さんか神さんが下さったのじゃないかと・・・こう言うと年のせいだと思われるが・・・」
「・・・」
増尾は黙っていたが、ある意味で仏さんか神さんがくれたものと思えると言ったのが理解出来るような気がした。何故なら、その頃の日本はとてつもない食糧危機にあって、国民は一部の人を除いて大半が栄養失調と名のつく悲惨と残酷の海原にあった。生き抜くことの困難な時代のただ中にあって、森浦は病を背負って絶望の淵にいた。その時、饅頭を食べて少なからず生気の甦りを意識したと言った。そして運命が今日に至っているのではないか。

当時、この療養所も病と栄養不足が死への両輪となり、拍車がかけられていた。毎日数人の死者が出て火葬の煙は絶えることなく青い山間に昇った。そして、なおも葬りきれない死者が安置室に積み重ねられるといった想像し難い光景が現実だった。そんな時代に森浦は入所し、当時の患者に課せられた強制労働にも耐え抜いてきている。
小柄な身体であっても人生の重荷を背負った逞しい男として、森浦が映った。ともかく森浦の入所経緯に惨めな漂いがあるが、当時の古い入所者には共通する癩の憂き目である。増尾も森浦と同時代の収容であったが、増尾自身、森浦の話を聞いて、ああ自分は彼より倖せだったナーと思える部分がある。彼は昭和24年、34歳の時に入所したが、それまで親の愛情をいっぱい受けていたように思えた。山口県の片田舎に生まれた彼は16歳の時、胸を患い、それはひどい喀血をした。村雀たちはたちまちに「あの家には肺病がいるから前を通る時は息を止めて走れ」などと囁いた。その後、戦争に行くこともなかった代償として人間扱いから外れ、24歳の時には「癩」を患った。親は大きなショックを受けた。とりわけ母は、ーこれほどの不幸、可哀想な人間がこの世の中にいようかーと親としての自責の末に床に伏し、増尾が島に来て数ヶ月ほどして世を去った。母子には何の罪もない。だが母はその優しさと思いやりのあまり生命を縮めたのだと、増尾は今もその思いに変わりはなかった。
「癩」を患ったことは親不幸と言えるが、森浦よりも倖せだと何処かで思えるのだった。
「森浦さん、嫌いでなければ饅頭を食べて下さいよ」
「ああ、食うかなあ」
「そう! それじゃお茶の入れ替えをするよ」
増尾はそう言って急須を持ち、勝手場に急いだ。増尾は心中、森浦のカラッとした表情に安堵を覚えて嬉しくなっていた。屋根を激しく打っていた雨も何時の間にか二人の話を密かに聞き入るような秋雨の雫となっていた。

瀬戸の海の静かなたたずまいを象徴するかのように「弁天島」がある。山の一角から転げ落ちたような一握りの小島、石砂利の参道がまるで海に浮かんで見える。先程まで話し合った遠い昔話の長患いにも似た思いを意識しながら、増尾はそこからの風景を見やった。
「癩」という重荷を背負わされた時、人生が終わったように思えた。確かに一つの人生は終わったが現実に生きてきたことはある種の惰性であったのか、そして、そんないい加減な生き方であらゆる困難、屈辱と妥協してきたのか。
いや、惰性で生きたとは思いたくない。何処かに生きることへの愛着、自分への愛しさ、それをなんとか正当化しようと努力してきたと思いたかった。
その増尾の姿勢は今日もなお続いている。一例を挙げれば、増尾は成人しても生きていくハリも目的もないまま過ごしていた頃、ふとしたことから一人の女性の息吹に触れ、それはやがて「愛」となり二人はグランドで向かい合った時、増尾は持病のような分別からその「愛」に一年と少々で終止符を打ってしまった。自分は40歳で、看護婦である彼女の23歳という年齢に対するギャップが、増尾の愛を押しつぶしたのであった。しかし、それが別離の後でやりきれない後悔となった。

今になって増尾はよく思う。ー人生にあっては時に奴隷のような従順さで、悪魔の吹く笛であってもその調べに心ひかれれば、酔って踊れる人間でありたかったーと。それが人間をどれほど倖せにするか、増尾は「自分」という人間が自分が一番可愛がってきた筈だが最も「自分」を不幸にしてきたように思えてならなかった。

この増尾と比較して先程の森浦常吉は、「自分の力で生きてきたように思えても実際はそうじゃない。人間は常に何かに生かされていると思うんじゃ」
「生かされている?」
増尾は、意外そうにオウム返しで言ったのである。
「そうじゃ、お陰でこの療養所の考えられないほどの変わりようも知ることが出来た。患者も昔と違って人間らしく生活しとる。それに、ライ病も治って社会に出てゆくなんで信じられないほどじゃ。驚くことは最近、患者の若い人は看護婦さんと仲ようなって、社会で夫婦になっているそうじゃないか。増尾さんよ、考えられんのう・・・」
「・・・」
「まことに良い時代になったもんじゃ」
森浦は真底から今日まで生きてこられたことを、「生かされている」と解釈し、感謝すらしている口ぶりが老後の落ち着きを増尾に教えているようで、この年齢になっても何処か訳の分からない焦る自分の生きざまを情けなく思った。
一度の人生にあって少しでも悔いを残さないように努めるのは人間の常であろう。だが、それでもなお、多くの悔いを残すものなのか・・・。
黒い雲も白い雲も何処かに消えて、空は茜に燃えていた。瀬戸の海はそのしたたりを受けて赤く染まっている。その落日を眺めながら、「生かされているのか」と呟きながら、漁船が重いエンジン音を島影に残して消えてゆくのを増尾は見ていた。

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お好み焼き


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豚肉100gはさっと湯通ししておく。ボールに薄力粉100g、溶き卵2個、水を半カップ、細切りしたキャベツ200g、湯通しした豚肉、シシウド(山ウド)の細切りを入れて混ぜ、熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、ボールの具材を流し入れ、蓋をして弱火で5分、裏返して5分焼いて出来上がり。ソースで食べた。

ためしてガッテンの本を参考にしたが、キャベツの量と水の量を間違わなければおいしくできる。




揚げ出し豆腐

    
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レシピが暗記できていると作るのも早い。

豆腐を半分に切って全面に片栗粉をまぶし、熱したフライパンに大さじ1の油を入れて豆腐を置き、蓋をして弱火で5分、裏返して2分焼き、ワケギ(ネギ)の小口切りをふり、タレ(出し汁大さじ4、醬油大さじ2、みりん大さじ1)をかけ、また蓋をして3分焼いて出来上がり。

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医師が土足のまま病人の部屋に・・・


岡山県の東部、瀬戸内海に周囲16キロ、東西6.5キロの小さい島「長島」があります。そこに国立ハンセン病療養所「長島愛生園」が設置されたのは昭和5年、患者不在の開園式が執り行われ、翌年の昭和6年に85名の患者が収容されて以降、愛生園は年々患者数を増やし、昭和18年には2008名となりました。

隔離することを目的とした療養所運営は、如何に患者を療養所から出さないようにするか、そのためには手段を選ばずの感があります。

昭和5年の患者不在時に、”監禁室”という名の鉄筋二重壁による「監房」が造られていて、あたかも犯罪者の収容を待ち受ける構えで、さらに収容された患者には日本通貨であるお金の所持は許されず、代わりに愛生園発行の”園内通用票(園金)”に換えられました。

そして患者同士の園内結婚を奨励するかのように一室一組夫婦から徐々に住宅不足を理由に二組夫婦の同居をさせました。さらには夫婦部屋が与えられるまで、”通い婚”として、男性は夜になれば女性のいる雑居部屋で過ごすことまで許可されたそうです。これらは、総て患者を逃走させない隔離徹底の手段にほかなりません。まさに「隔離」という器の中は人権蹂躙に満ち、人間性を喪失させ、一個の人格を破壊した非人道的なものであります。

ハンセン病(らい)患者を隔離した一番の理由は、”らい”の社会的伝播を怖れてのことと、その症状の醜い後遺症にあったように思われます。しかし医学が進みハンセン病も不治の病から治る病となり、感染力も極めて弱く、感染する恐れはない、と医学的な見解が示されました。これを仲間の僚友たちは、隔離政策を是とするのはこの時点までとし、その後も”隔離法”と言われる「らい予防法」を存続させてきたことが問題であった、と話します。

だが私は「隔離」に関しては医学的見解云々とは関係なく、大きな問題として考えさせられるのです。それは「隔離」が人権を蹂躙し、非人道的に扱われても良いのか、という点であります。隔離の中にも個人的、社会的な配慮があって人権尊重を第一義に置いて人間性、社会性を損なわないよう隔離することが、本来の「隔離」の基本ではないのか、と思えてならないからです。

隔離の厳しい時代には病気に罹っても病人とされず、むしろ罪人のように扱われました。ハンセン病以外の病気で床に伏せっている患者を診る時、医師、看護婦が危険物に近づくように完全装備で何のためらいもなく、当たり前のように靴もぬがず土足のままで病人のいる部屋へ上がってくる、このような行為があるでしょうか。また普段でも何かと入所者に監房の存在をほのめかす、それは脅しの管理以外の何ものでもありません。そして、「お前たちは何の役にも立たず国の予算を喰うだけのごくつぶし、座敷豚だ」と吐き捨てるように言った職員もいたようです。

入所者と職員の間には深い嫌悪の溝があり、職員にとって入所者は汚物の生きものに過ぎなかったのかもしれません。療養所の中には、職員地区と患者地区を分ける境界線が、目には見えないけれど引かれていました。従って職員地区を通り過ぎる場合は事前に通行許可証を申請し、それを持参しないと通行できない徹底した区別がありました。同じ人間という意識と療養所に勤める聖職者の自覚はなく、患者を扱っていました。これが隔離の実態であり、幾つかの良い事例は一部に過ぎません。

石田雅男さん著作『「隔離」という器の中で』P36~P41の一部を抜粋させて頂きました。


「医師や看護婦が土足のまま病人のいる部屋へ上がってくる・・・」ということを石田さんの講演の時にもお聞きしました。今はもちろんないですが、過去にそういう時代もあったということです。

あなたはこのことをどう思われますか。

そして最初の患者が入ってくる前に、すでに「監房」も造られていたという事実!

石田さんは終戦の翌年(1946年)、10歳の時に長島愛生園に入所されています。

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ヤーコンを使った2品


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ヤーコンは今回で終わった。最後はやはり「ヤーコンの甘酢漬け」で、先に、出し汁180cc、酢120cc、砂糖50g、ニンニク醬油大さじ1、トウガラシ1本の小口切り、ショウガ1片のすりおろしを入れ、火にかけて溶かして冷ます。

ヤーコンは7ミリほどの輪切りにして水にさらし(アクが多いから)、沸騰した湯で1分半ほど茹でて冷水にとり、瓶に入れ、甘酢を注ぐと出来上がり。



ヤーコン炒め
 

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一部は千切りにしてゴマ油で炒め、醬油で味付けした。



出し汁作り

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左がヤーコンの甘酢漬けで右が出し汁。

ヤーコンが残り少なかったので、甘酢も少なくした。



ヤマイモのすりおろし 

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ヤマイモも今回で終わった。醬油をかけて食べた。



サツマイモのユズ煮

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サツマイモも、後1回作ると終わる。



サトイモとシイタケの煮物


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サトイモは乱切り、シイタケはスライスして鍋に入れ、出し殻も刻んで入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、水と出し汁を入れてひたひたにし、煮立ったら弱火にして15分煮て出来上がり。

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伊藤赤人さん 五行歌集


多摩全生園、伊藤赤人さんの五行歌集「望郷の丘」から、いいなと思ったものを紹介させて頂きます。




陽の陥ちた空の


昏れなずむ

僅かな余白に

人は明日を信じ

夢を描く





五行歌に出会い

ハンセン病を

初めて

ウタに作る

思いを込めて





癩、かったい

業病、不治

お前を背負った

私に投げかけられる

言葉ー





家郷を捨て

過去を捨て

自分をも

捨てさせた病

ハンセン病ー





癒える

病となった

今もまだ

市民権を得られない

ハンセン病ー





誤解と偏見の

中に生きた

人間の暦

ハンセン病を

識って下さい





命の感動も

季節の感触も

熱さも冷たさも

伝わらない萎えた手に

ペンを握りしめて・・・





いつも

神の手の

中から

ずり陥ちそうな

人間でいたい





水底に落した

一つの小石

その重さを

背負って生きる

人生もある





死の噂

自分の事のように

聞いている

老の

背中





人の世には

山を越え

河を渡っても

辿りつけない

ふる里がある





あなたの

乾いた心を

潤すものは

あなた自身の

泪です





消すことの

出来ない

病痕は

私の生きてきた

証!





「望郷の丘」は

療区の

小高い築山

皆んなの思いが

呼び名になった 





砕けた

思い出を

拾うように

一つ一つ

骨を拾う





曾て存在した

人が人として

生きることを

国が拒否した法律

癩予防法ー 





隠れ棲む

自分を

誰もいない

空に向かって

解き放す





暗い囲いの中で

満ちてくる

血の重さに

耐えてきた

不妊の女たち





「もういいかい」

幾ら待っても

戻ってこない自由

今も 私は

隠れんぼの鬼





見知らぬ家並

見知らぬ顔

今浦島の

目に映る

車窓のふる里





この世の中に

人の知らない

社会の

在ることを

人は識らない





サスペンス映画

「砂の器」に

もう一人の

ハンセン病者の

私を見た





捨て去られ

忘れられて

九十年ー

社会の死角

ハンセン病





家郷の

歳月は

一人の人間を

記憶から

消してゆく





絆を

断たれた

死者を

囲むのは

みな他人





同じ苦しみ

悲しみを

共有した

僚友の死に

「自由になったね」





病醜の

友の

真白い

綺麗な

骨を拾う





武蔵野の

雑木林を

拓いた療区

2003年

人家に囲まれる





花の記憶を

緑に閉じ込め

葉桜は日毎

物憂い季節の

陰を深めてゆく





闇が

深いほど

命を燃やす

蛍火は

美しい





突くたびに

凛と鳴る

意志のような

白杖の

鈴の音





何時までも

夕陽の海を

見ていた

病を

知った日





生きることを

問いつづけ

癒えた今も

問いつづける

ハンセン病という病




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新タマネギを使った3品


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今は1年で最も旬の野菜の少ない時期だから、「そればっかり食」が続く。

鯛アラは80度の湯で15秒湯通ししてから鍋に入れ、水と出し汁を少し入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ショウガ1片をすりおろし、煮立ったら中火にして落し蓋をして5分ほど煮る。



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タマネギ4個の葉の部分をざく切りして、落し蓋をとった鯛アラの上に置き、時々混ぜながら3~4分煮ると、鯛アラとタマネギ葉の煮物の出来上がり。

卵とじより、魚のアラと煮た方がおいしい。



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玉の部分は薄くスライスして10分ほど水にさらし、ザルに上げて水切りしてボールに入れ、よく油を切ったツナ缶をほぐしながら入れて混ぜる。半分はマヨネーズと和え、残り半分は花かつおを入れて混ぜ、醬油をかけて食べる。タマネギが新鮮だからおいしい。

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新タマネギを使った2品

 
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新タマネギ(早生タマネギ)4個は、葉と玉に分け、
 
   
  
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葉の部分はざく切りして鍋に入れ、出し汁と水を入れ、醬油とミリンで味付けし、3分の1~4分の1にめたったら(煮えてかさが減ったら)、弱火にして溶き卵2個を入れ3分ほど煮て出来上がり。



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玉の部分は、熱したフライパンに大さじ1のゴマ油を入れ、ニンニク1片のみじん切り、ウインナー3個の小口切りの順に炒め、タマネギのスライスを入れ、火が通ったらオイスターソースと醤油(2対1の割合)で味付けして出来上がり。




キャベツのレモン醬油和え


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キャベツは小さくざく切りして沸騰した湯で1分半ほど茹でて冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。シシウド(山ウド)の茎は捨ててざく切りし、さっと湯通しして冷水にとり、みじん切りして水気をしぼり、ほぐしながらボールに入れ、キャベツと混ぜる。

お椀に醬油大さじ2、レモン果汁大さじ2、出し汁大さじ2、砂糖少々を入れて混ぜ、小魚を入れて2分ほど浸し、ボールに入れて和えると出来上がり。

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「断種の強制」


所内結婚の最悪の問題点は、結婚の条件として、男性側に断種手術(手術によって生殖能力を失わせる)を強制したことです。手術が行われた日のことは、太い五寸釘を心に打ちこまれたように、今も頭から消えることはありません。術後、痛みに耐えながら一週間くらい横になっていたときの悔しさも、死ぬまで忘れることはないと思います。

スピーチでは、以上のような体験にも触れました。断種政策に対する参加者の反応は強烈でした。「なぜそういった行為を許したのか」「なぜあなたがたはたたかわなかったのか」といった質問がいっせいに返ってきました。参加者にはカトリック教徒(スペイン人、ブラジル人など)が大勢いましたから、無理もありません。同様の質問は、日本でも、ハンセン病に関心を持つ人たちから受けることがあります。

療養所の外から見ると、断種の強制は、どう考えても許しがたいことだと思っています。まったくその通りです。しかし、意外に思われるかもしれませんが、私達の入所者運動は、1998年に国賠訴訟がはじまるまで、このことをあまり問題にしてこなかったのです。強制収容や所内の劣悪な医療状況を強く批判できても、断種強制の責任を問う運動は、課題にあがらなかったのです。

率直にいってこれは運動の弱さだったと思うのですが、いま振り返れば、わたしたちには手術を受けないと結婚を認められず、夫婦舎に入居することができない状況を打ち破る発想も力もなかったことを認めないわけにはいきません。肉親と故郷からひきちぎられてこのハンセン病療養所に収容され、今後ここで社会との関係を断たれたまま生きていかざるを得ないと覚悟した多くの入所者にとって、療養所の壁の内側でのルールに無理やりでも合わせていくこと以外、選択肢がなかったのです。人間としての扱いを断念することなしに、療養所ではとても生きていくことができなかった。諦観というか、それだけわたしたちは、社会から追いつめられていた、孤立していたということなのです。
「たたかいたくても、たたかえなかった」
結局、会場からの質問にわたしは、そう答えることしかできませんでした。これでは理解してもらえないだろうなあと感じましたが、同時に、日本のハンセン病療養所で行われてきたことが、いかに常軌を逸していたか、逆に痛感させられた瞬間でもありました。

(以上は、1997年4月にスペインであったハンセン病回復者国際会議での平沢保治さんのスピーチです)

このとき、日本から参加した回復者はわたしたち夫婦だけでした。わたしは会議で、自分の体験と重ね合わせて、日本のハンセン病療養所の生活と政策、そして患者運動の戦後史をごく簡単に報告しました。強制的な入所、所内での重労働、監房まで設置してくり返された入所者に対するさまざまな虐待、病気が治っても社会に戻れない現状、患者自身による人権闘争、そして、らい予防法廃止(1996年3月)に追い込んだ入所者運動の経験等です。

スピーチの時間は15分ほどでしたので、これだけの内容を、日本のハンセン病患者・回復者の現状について何の予備知識もない参加者に伝えるのは至難の業だったのですが、みんな熱心に聞いてくれました。らい予防法廃止を達成したことについては、みんな、共感してくれる一方、「そんな差別的な法律が今まで存在していたこと自体、信じがたい」といった反応もありました。

しかし、参加者にいちばん強い印象を与えたのは、わたしが公の席ではじめて語った自らの断種体験でした。

平沢保治さん著作「世界ハンセン紀行」P69~P74の一部を抜粋させて頂きました。

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賢治バンド


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友人のHさんの「賢治バンド(おやじバンド)」のチャリティーコンサートがあった久米南町の治部邸へ行った。

Hさんは農業をするために30年前、大阪から久米南町の峠という集落に移住された。ただ収入の糧は主に学習塾で、趣味でずっと音楽を続けてこられた。

自己紹介・・・宮沢賢治が残した言葉や賢治精神を広く伝えることで、まわりの人や生きもの、自然、環境、宇宙ぜんたいとの関わり方、また、これからの生き方、さらには、ほんとうの幸せについて考えるきっかけになれば、と活動しています。

賢治バンド・・・宮沢賢治の言葉や精神を広く伝えていこうと賢治の詩などの作品にオリジナル曲をつけて演奏し歌うバンド活動をしています。

演奏する賢治作品・・・雨ニモマケズ、永訣の朝、生徒諸君に寄せる、農民芸術概論綱要序論、昴、政治家、電線工夫、雲、(わたくしどもは)、春と修羅(序)、(降る雨はふるし)、(われらぞやがてほろぶべき)、疲労、稲作挿話、銀河鉄道の夜、松の針、林と思想、報告、月天子 他

久しぶりに演奏を聞かせてもらい、また元気をもらった。



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治部邸はHさん方から4キロほどの久米南町山手という集落にあり、江戸時代の庄屋である。集落全体が見おろせる丘にある。



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城壁のような石垣、赤土の土塀、古井戸。


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周囲はブドウの産地である。



パスタ 
    
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遅くなったのでパスタだけ作った。
沸騰したら塩を小さじ1入れ、パスタを8分茹でる。茹であがる3分ほど前にニンジンの千切りを入れる。

熱したフライパンに大さじ1のオリーブ油を入れ、トウガラシの小口切り、ニンニク1片のみじん切り、ベーコン1連の細切りの順に炒め、新タマネギのスライス、キャベツ、新タマネギの葉の順に炒め、ケチャップ、醬油、胡椒で味付けし、茹であがったパスタとニンジンの水切りをして入れ、1分ほど炒めてパスタが野菜になじんだら出来上がり。



農作業

昨日、サトイモを5品種、合計で130個ほど伏せた。

ショウガは小粒品種の「三州生姜」を25個伏せた。発砲スチロールに土と籾殻と生姜を入れ、台所の水屋の上に置いていたら、腐らずに冬が越せた。

料理をするようになってから、生姜は必須野菜になった。三州生姜は小指の先ほどの大きさのが40個以上まぶれつくので、小さく分解して洗い土をよく落とし、半日ほど陰干しして水分を少なくし、ジップロック等の袋に入れて冷凍しておくと1年はもつので、とても重宝している。

冬越しのネギは春になると分けつするが、それを掘り起こし、半分まで切り戻し、2~3本に分けて移植した。

昨日、ナンキン、ソウメンナンキン、韓国カボチャ、スイートバジルの種を蒔き、電熱温床を25度に設定した。

キンリョウヘンの花がまだ咲かない。あと1週間ほどかかるかも知れない。

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世界遺産登録より図書の充実を


らい者の書かれた文学は、深い感動を呼ぶ。

らい者の文学を読むと、この国の政治システムがわかる。

らい者の文学を読むと、この国の歴史がわかる。


ハンセン病療養所のある市と県は、図書館に「ハンセン病文学コーナー」を設けてほしいと思う。これは療養所を世界遺産登録することより意義があると思う。

世界遺産登録になっても、人はあまり訪れないだろう。長島にある歴史館を見ても、入所者の肉声は聞こえてこないし、歴史回廊を歩いてみたところで、当時の現況を想い起こすことは難しい。

一冊でも入所者の本を読むと、療養所がどんな場所だったか、少しずつ状況がわかってくる。

まず入所者の書かれた本を読むことがハンセン病を知る最も近道と思う。

読んだ本の内容や登場人物や場所や詩を思い浮かべながら、実地にに見てまわったら、「あの時の、入所者が見ていた風景や風」を感じる事もできるだろう。

ハンセン病を知ることは、ハンセン病の本を読まなければならない。この点が世界遺産登録の目的とは基本的に異なる点だと思う。

世界遺産登録は「観光地化」のようなものであり、ハンセン病隔離問題を将来にわたって考える目的とは異なる。世界遺産登録より療養所のある県や市で「ハンセン病文学コーナー」を設けてもらうことの方がはるかに意義がある。


愛生園の自治会事務所には図書室があり、本を借りれるが、遠方の人には不便であり、なかなか利用はしてもらえない。そして本自体も、きちんと整備されているわけでなく、入所者のだれがいつどのような本を出されているか、自分で調べないとよくわからない。

歴史館にも本は数冊置いてあるが、愛生園入門書として欠かせないと思える「いつの日にか帰らん」、「闇を光に」、「野道の草」、「ハンセン病・隔絶40年」の4冊は置いていない。

自治会事務所の図書室の本は、読まれたような形跡がほとんどない。これらの本は「僚友」より「長島外の人」に読んでもらいたいと意識しながら書かれていると思う。

愛生園のことを知るには、入所者の書かれた本を読むことが、もっともわかりやすく、近道なのである。 

本を読み込まないと、入所者と出会えても、会話も続かず質問事項もわからない。 

当面の目標は、愛生園を知るための入門書ベスト10冊を選ぶ作業をしたい。

全国13の国立療養所の近くに住む誰かに、この作業をしてもらいたいと思う。

13×10冊=130冊。これだけの本を読めば「ハンセン病の大家」である。

ハンセン病文学には感動があって癒される。究極の所、入所者の書かれた本を読まないことには、ハンセン病のことは何もわからない。世界遺産に登録してもあまり意味がないと思うのはこの点である。
 
差別はハンセン病だけではない。部落解放問題や非正規社員問題は、何ら前に進んでいないように見える。

ハンセン病文学コーナー

水平社文学コーナー(あまりにも著名な中上健次さんの本をまだ一冊も読んでいない)

鉱山文学コーナー(鉱山を知ることは現在の非正規社員問題を考えること) 
 

ハンセン病文学のレベルは高いので、陶芸や絵画や写真の世界でも、いわゆる一般社会の作品よりかなりすぐれていると思う。長島という小さな島内での活動であるが、岡山県下全域の中でとらえても、文芸活動における長島はまさに百花繚乱、「ルネッサンス」のような一時代を築いたと思う。
 
岡山県には長島に2つのハンセン病療養所があるのに、市や県にハンセン病文学コーナーがないなら、声だかに問題にする必要がある。
 
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ワケギの酢味噌


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酢、味噌、砂糖を混ぜて小魚を入れ、1分半ほど茹でたワケギを冷水にとり、水気をしぼりながら入れて和えると、旬の一品「ワケギの酢味噌」の出来上がり。



黒豆の煮物


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黒豆150gは一晩、水に浸し、戻し水ごと圧力鍋に入れ、砂糖100g、醬油小さじ1を入れ、おもりが回り始めたら弱火にして20分、火を消してそのまま放置して出来上がり。
いつもの「簡単おせち★材料3つの黒豆」を参考にした。



サトイモののっぺい汁

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サトイモ、ニンジン、キクイモは輪切りし、シイタケはスライスして鍋に入れ、出し汁と水でひたひたにし、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て醬油で味付けし、ショウガ1片をすりおろし、さらに5分煮て味ききし、サトイモが軟らかくなっていたら、片栗粉大さじ3(大さじ3の水で溶く)を入れ、2~3分煮てとろみがついたら出来上がり。




目玉焼き

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無水鍋の外蓋をフライパン代わりにし、中蓋で蓋をして弱火で3分、火を消して余熱2分で出来上がり。塩・胡椒で味付け。

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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