「闇を光に」のP174~P175 「鼠退治」
終戦間もない頃、私はI君、A君と共に精米所で作業をしていたが、一粒の米麦が宝石のように尊ばれる時節でもあり、少しでも無駄をはぶく意味から、ある日作業場に巣食っている鼠どもを退治することになった。鼠の巣は作業場の片隅に古くから積み上げている叺(かます)の中であるが、親方のBさんが推定するところによると、少なくとも二~三十匹はいるだろうという。血気にはやる私たちはこれを一挙にせん滅し、鼠一族を絶滅しようとその作戦をたてた。まず敵の陣地には手をふれず、そのあたりにおいてある機械や道具類、麦俵などを外へ運び出して、我々の行動範囲を少しでも広くすることに努めた。次に敵を一匹でも逃してはならぬというので適当な場所に精麦を入れる箱などを並べて万里の長城を築いた。準備万端、ところで私たち三人、親方の命令一下、手に手にデッキブラシやこん棒を握りしめておもむろに敵陣を包囲。さすが胸がおどった。背の高いI君が深呼吸を一番、さっと一枚の叺(かます)をはね上げた。しかし敵の気配は全くない。おかしいぞと思う間もなくI君の手が次の叺(かます)にふれたかと思うと黒いかたまりがぱっと空にとんで出た。瞬間「えい!」と耳をつんざく気合いをかけた。A君の一撃は見事にこれを叩き落としていた。まぐれ当たりとはいいながら、その武者ぶりは正に宮本武蔵なみであった。この物音におどろいたのか壁ぎわの隙間から数匹のネズ公がとび出してきた。「それっ」とばかり私たちは一せいに打って出た。戦闘開始だ。チュウチュウと可憐な悲鳴をあげてすばしこく逃げまどう奴をめがけて叩く。突く、けとばす、踏みつぶす。もうこうなれば無慈悲もなにもあったものではない。それにすきをみてはI君が敵陣を取り崩していくので狭い場所に敵の数がふえるばかり。「それ、ここだ、あそこだ、右だ、左だ」とけん命に声援する親方の声も耳に入らない、手当り次第、めったやたらとこん棒をふり下すだけ。足許には敵の死がいが転がり、草履はぬげ、眼鏡はふっとび、それはまさに修羅の巷であった。数時間後、いやほんの数分だったかも知れない。戦いを終えて私たち、戦果の数をかぞえてみた。全部で二十七匹であった。
翌る日私たちは、その鼠は園長先生の命令で重病棟の病友の二号食になったことを知った。鼠を食わせる園長・・・。病人に・・・。しかし私たち三人はおどろかなかった。
毎日のように栄養失調で倒れてゆく病友のことを考えあわせたからではない。実は五、六日前、私たち三人はひそかにネズ公を食べていたのである。いや食べずにはおれなかったのである。だから光田園長に食糧対策の不備を追求するのならともかく、「病人に鼠を食わすとは何事だ」という非難の声があるとしても、私はちょっとそれは的が外れているのではないかと思っている。八十数年の生涯のうち、やはり光田園長はこのことが一番苦しかったにちがいない・・・。
(「点字愛生」第34号 1964年8月)
「闇を光に」の著者 近藤宏一さん
この短文がとてもおもしろかった。近藤さんはすでに眼が見えず、しかも20年ほど前の記憶を、前日のことのように書かれている。「それ、ここだ、あそこだ、右だ、左だ」とけん命に声援する親方の声も耳に入らない・・・等がとてもおもしろかった。眼が見えなくなっているのに悲壮感は感じられない。書き写しながら、これほどの短文を書くにはかなりの読書量が必要と思った。そして、読んだときより、書き写していると、もっとおもしろいことがわかった。
鼠を食べるのは第二次世界大戦の戦地(外地)ではよくあったと聞く。ただ、鼠の食べれる箇所はごく少ないだろう。同じ長島にある邑久光明園では「猫を喰った話」というチェミョンイルさんの著作もあるし、それほど驚かなかった。それくらい「ひもじかった」のだと思う。
ただ、「鼠退治」の最後の2行に書かれている「想像」は、果たしてそうだろうか・・・。
「いつの日にか帰らん(著者 加賀田一さん)」のP193には次のように書かれている。
『光田園長は退官の翌年、長島を訪ねて来られ、「自治会の執行委員にお会いして謝罪したい」と申し入れて来られました。そこで八名が面会室で会い、私もその末席にいましたが、光田前園長は「私は在任中、二つの罪を犯した。一つは遺体解剖で、遺族の合意もなく行った。二つ目は断種、妊娠中絶、堕胎を行ったことで、これは1940年の国民優生法の成立以前は違法だった。この二つの罪を謝罪しなければ、長島を去ることはできない」と言われて謝罪されました。
この光田園長の謝罪発言を聞いたのは僅かな人たちだけです。その後、伝聞として聞いた人はある程度いると思いますが、この謝罪の弁が多くの人たちが聞くことのできる公開の場でなされていたなら、強制収容によって家族の断絶や崩壊といった被害に遭われた方や中絶、堕胎をされた方の気持ちも、その万分の一でも癒されたのではないかと思われます』
盲目10年
見えないという不思議
見えるという不思議
これは
まこと神様の傑作・・・
盲目の譜
人間の
ものを見るという不思議
見えないという不思議
これこそ
神の傑作・・・
というべきでありましょう
『ハーモニカの歌』まえがき
私は「眼聴耳視」という言葉をラジオで学びました。眼で聴き、耳で視る、というこの不思議な言葉は、ある経文の一句であって、あらゆる事柄の本質を見透す心の姿勢をといているというのであります。失明25年、音をたよりに生きてきた私にとって、この耳で視る、という一語は、日常的な実感でありましたので、思わず共鳴し膝を打ちました。特に失明とともに私たちが持っている手足の後遺症には、ハンセン氏病特有の知覚麻痺がともなっておりますので、その不自由度は意外に高いのでありますが、これほどの病気がなぜか、耳と脳とをおかさなかったということから、聴く、味わう、考える、記憶するなどの働きが、本来の人間性を失わず、その能力を発揮しうる最良の機能であることを、青い鳥楽団という具体的な音楽活動を通して教えられてきたのであります。それはまた好きという一点だけで結束した一部晴眼者を含む十数名の重障失明患者が、それもかなり衝動的本能的に、あるいは長期療養生活のなかの閉ざされた時間と孤独からの逃避であったかもしれないといたしましても、音楽という花を咲かせるためにあえて困難に立ち向い、励まし合い、多くの善意に支えられながら、ひとつの可能性を発見したという貴重な体験でもあります。
発見した可能性・・・それは為せば為る、という確信であり、生きることの喜びであります。すべてを奪いとろうとしたはずの病気が、実は一方で生甲斐への道をひらいていたという、それは一編のドラマにも似ていると私には思えてなりません。この意味で「青い鳥」の音楽はその技術ではなく、そこにこめられている感動の純度こそ問われるべきものではないかと反省するのであります。
明治三十年の調査によれば、その頃のわが国におけるハンセン氏病患者総数は三万を超えていたそうですがありますが、現在(1979年)では全国十六か所の療養所に約八千、しかもそのうち八割までが菌陰性者であり、我が国のハンセン氏病行政はすでに終末期に入っているという人さえおります。こうした大きな時代の流れの片隅で、眼で聴き、耳で見つめながら、ひたすらに生き抜こうとした一群の足あとを少しでも後世に伝えたいと思いたち、私はここに貧しさを省みず、稿を起してみようと思うのであります。
近藤宏一さんの著作「闇を光に」から、P61、P90~P92を抜粋させて頂きました。
ここに僕らの言葉が秘められている
ここに僕らの世界が待っている
舌先と唇に残ったわずかな知覚
それは僕の唯一の眼だ
その眼に映しだされた陰影の何と冷たいことか
読めるだろうか
星がひとつ、それはア
星が縦にふたつ、 それはイ
横に並んでそれはウ
紙面に浮かびでた星と星の微妙な組み合わせ
読めるだろうか
読まねばならない
点字書を開き唇にそっとふれる姿をいつ
予想したであろうか・・・
ためらいとむさぼる心が渦をまき
体の中で激しい音を立てもだえる
点と点が結びついて線となり
線と線は面となり文字を浮かびだす
唇に血がにじみでる
舌先がしびれうずいてくる
試練とはこれかー
かなしみとはこれかー
だがためらいと感傷とは今こそ許されはしない
この文字、この言葉
この中に、はてしない可能性が大きく手を広げ
新しい僕らの明日を約束しているのだ
涙は
そこでこそぬぐわれるであろう
「闇を光に」 著者 近藤宏一さん
1938年 11歳で長島愛生園入所
2009年 83歳で没する
2007年 英国救らいミッションがハンセン病問題の啓発に貢献した人物に贈るウェルズリー・ベイリー賞を受賞
愛生園では誰の了解もなしに遺体を解剖していました。ハンセン病そのもので死ぬ人はまずいません。併発した病気で亡くなります。主治医としては患部がどのようになって死んだのかをどうしても検証したいわけです。医者としては珍しいほど魅力があるのでしょう。
変わった症状がたくさんあって、標本にもしています。ハンセン病だけでなく、身体病変を知るためにたいへん勉強になったようです。医師としても知見を増やすためには解剖が一番いいそうです。徳永進先生も、「私もずいぶん解剖はしたからな。初めはびくびくして解剖してたけれど、しまいには子供がカエルの解剖をするのと同じで、何も感じなくなる」と言っていました。
片っ端からやっているので、私は事務所の方に「解剖には遺族の同意が必要と聞いてますが、誰かの了解をとっているのですか。法律違反ではないのですか」と質したら、「国費で治療しているからいいんだ」という答えが返ってきました。
研究材料になることを承知して大学病院等に無料入院する施療室とか施療患者という制度が当時はありました。国立療養所だから国がすべての面倒を見ているということで、この施療患者の扱いだったのかもしれません。死亡者の全員を解剖の対象にしていたようです。まさに治外法権のなかの違法行為でした。
ホルマリン漬け
解剖室から医者が肝臓か腎臓のような血だらけの臓器を下げて、本人も血だらけで試験室に帰る姿を何べんか見ました。それをホルマリンのビンに入れて標本にするのです。試験室には病巣の標本、結核の肺や、腎臓や肝臓のホルマリン漬がいっぱいありました。後の検証委員会で問題になった胎児もたくさんありました。
堕胎された胎児をどういう目的でホルマリン漬にしたのかはわかりません。ずらりと並んだ胎児のなかには大きな体になっているものもありました。不良な子孫をなくそうという民族浄化思想が元にはあったのでしょう。
私たち入所者が「一時帰省」を申請すると、光田園長じきじきの最終面接がありました。その面接が園長室の隣の実験室で行われたので、ホルマリン漬胎児の異様な光景を見た入所者はたくさんいたことでしょう。一度見たら忘れられません。1996年(平成8年)、現在の本館に建てかえるまでは、私だけではなくたくさんの人が見ています。
患者の死に方
愛生園では死は軽いものでした。戦争中、私が当直した日、寝ている姿そのまま、栄養失調で弱って死んでしまった人がありました。朝、起き出さないので、布団の中を見るとすでに息絶えていました。まだ30代の壮年期でした。患者が脈を取ったわけでもない。看護婦も医者も脈を取ったわけでもない。脈も調べないうちに死んでしまった。こういう姿を私は見てきました。
戦争末期の昭和19年や20年頃は、労働もきつく食料も不足していたのでもっともたくさんの死者が出ました。当時私は患者事務所の松寿療の役員をしていましたから、事務所に出ていて、入所者が亡くなったという連絡を受けると、そこへ行くのが仕事のひとつでした。故人の持ち物を勝手に持っていかれては困りますから、それらをきちんと記録し、慰安金を納めるというようなことをしていました。
多い時は、1日に4回、立ち会いに行ったことがあります。4人の死者が出たということです。「今朝、起きて『洗面だよ』と布団をめくったら死んでおった。それで看護婦に連絡して、それから医者に連絡してきた」という連絡を受けたこともありました。終戦の年には332人が死んでいます。実に入所者の23%です。これでは最後まで残ってもあと4年だなあと思ったものです。
結婚=断種 入籍ー個室
家内も歳をとり、86才になりました。声だけは元気ですが、体の方は少し弱ってきています。愛生園で会って結婚し、それからはずっといっしょに住んできました。子供はできませんでしたが、68年もいっしょに生活できたのは幸せなことです。
結婚した当時、世の中は国家総動員法が布かれ戦時体制でした。徴兵も軍需動員も私たちにはなかったのですが、いつ病気が再発するかわからず、園のなかで過ごすことを決意しました。それが家内との結婚につながったのです。
いまだに解明されない謎ですが、ハンセン病患者は男性が多く女性のおよそ2倍です。不治とされていたため、いったん入所したらここでお互いに助け合い励まし合って一生を過ごさせるというのが療養所の方針でした。園内で安らかな生活を送ってもらうためという理由で、外での既婚者にも所内結婚を認めていました。ただし未入籍結婚の場合は男の通い婚であることは先述しましたが、その場合も断種を受けなければ認められませんでした。女性の閉経した人まで行われていました。
私も悩み抜いた結果、断種手術を受けました。そのときは本当に情けなく、もう人間失格というか、男子ではなくなったような死んだような気持ちになったものでした。
私と同時期に結婚した4組のうち、私たち以外の3組は金をもっている人で、初めから4畳半の私室でした。私もお金があれば四畳半に入りたかったのですが、ありませんでしたので6畳での2組が新婚生活の始まりでした。こればかりは残念でしたが、家内にも「我慢してくれ」と頼み、とうとう6畳で3年間過ごしました。
6畳に2組の生活というのは、布団を敷くとそれだけでいっぱいです。今の人たちには想像もつかないでしょう。後に真ん中に衝立ができましたが、その頃はありませんでした。ですから、今日は私たち夫婦が友達のところに行って夜は空けておくと、あくる日の夜はもう片方がいなくなるという形で、互いに気遣って生活をしていました。
しかし内縁関係の人たちはもっとひどい状態でした。12畳半に女性が6人、そこへ通い婚で泊りにだけ行くのですから。それから考えると、結婚して順番がくれば、とにかく個室がもてたわけです。ただしその順番とは、夫婦者の一人が亡くなって独り者になると回ってくるわけですから、考えればひどいものでした。
「いつの日にか帰らん」P104~P110著者加賀田一さん
小鹿島の断種台
韓国訪問で一番の目的は小鹿島ー韓国・南西部の全羅南道にある小島に行くことでした。光州市から車で3時間、鹿洞という港町から船に乗ります。ほんの600メートル先が小鹿島です。ここに日本統治時代に設立されたハンセン病療養所「国立小鹿島病院」があるのです。
小鹿島は周囲30キロ程度の小さな島。島全体が療養所です。といっても日本のような病棟には、不自由者が入るのみで、軽症者は島の6地区にレンガの家を建て、そこで生活を営んでいます。国の援助が乏しく、養豚、養鶏業などの事業で生活を支えています。戦争中、最高時入所者は8000人を数えていたそうですが、今は200人ほどだそうです。
近年、植民地時代の小鹿島の実態についての研究が進み、日本の療養所以上に残虐な行為が行われていたことが明らかとなっています。また、入所者117人が2003年から2004年にかけて、日本政府にハンセン病補償法による補償を求めましたが、国はこれを却下、03年8月、その処分の取り消しを求めて東京地裁に行政訴訟を起こしています。(2005年8月現在継続中)。
今回の訪問ではスケジュールの関係で十分時間をとることが出来ませんでしたが、短い間でも、日本統治下での過酷な療養所の実態をかいま見ることができました。
ここでは患者が逃走すると、懲罰として断種が行われていたというのです。日本でも断種は広く行われており、私も強制手術されましたが、それは結婚時に限られていました。ところが小鹿島では懲罰の一つだったのです。当時の断種台が残されていました。手足を縛りつけ抵抗できないような拷問台のようでした。また、レンガ造りの監禁室や、これまた懲罰のために使用していたという「焼きごて」も目にしました。やはり、逃走者や施設の運営に反抗的な入所者に対する懲罰として、焼き印を押していたのです。
これら日本による残虐な歴史の「証人」を前に、ことばもありませんでした。小鹿島で開いていただいた歓迎会では、日本の植民地支配に対して、一人の日本人として謝罪しましたが、この島で何を言ってもすべてが軽いように思えてなりませんでした。入所者たちは「これから未来に向けて力を合わせていきましょう」といったことばをかけられました。日本政府が小鹿島入所者の損害賠償請求でとっている態度を思うと、今思い返してもいたたまれない気持ちです。彼らの日本政府に対する損害賠償請求のたたかいを支援していきたいと思っています。
世界ハンセン病紀行(P91~P94) 著者 多摩全生園の平沢保治さん
ハンセン病対策のための参議院厚生委員会が1951年(昭和26年)11月、国立療養所の三園長(多摩全生園・林芳信、長島愛生園・光田健輔、菊池恵楓園・宮崎松記)を参考人に呼んで開かれました。このとき三園長が隔離政策を積極肯定したことから、新予防法も強制隔離を踏襲することになりました。その三園長のうちでも光田発言はもっとも激しいものでした。それは「手錠でもはめて捕まえ強制的に入れればいい」、「治療も必要だが、まず幼児感染を防ぐため、らい家族のステルザチョン(断種)をやらすほうがいい」、「逃走罪というような罰則がほしい」といった患者を犯人扱いしたものでした。
当時、療養者の外出には許可が必要であり、全国会議なども書面が主であり、会合時は「一時帰省」を名目にして出かけました(全患協支部長会議出席のための無断外出は即時退園処分)。三園長証言が全療養者に明らかになるのは翌年5月のことで、それ以後、各地から抗議撤回運動が起こり、これが予防法反対運動へとつながってゆきました。
保健行政から隠れている在宅患者を古畳の埃にたとえて「叩けば叩くほど出てくる」と証言した菊池恵楓園の宮崎園長は、在園者の前で証言の撤回を声明しました。
愛生園でも翌年10月、私たちが光田園長に証言内容について問い質したところ、「言葉の足りなかったところもあるので機会をみて関係者に説明したい」とトーンダウンしただけで取り消す意思のないことを明らかにしました。
これを受けて愛生園自治会執行部は、「これ以上、撤回要求することは辞職勧告になるので、それはできない」と本部へ連絡しました。この頃には園長辞職要求の強硬派と園長に心服する穏健派の対立は目立って来ていました。そのため自治会会長選挙は紛糾、三か月を要して一票差で穏健派が当選しました。したがって内部では執行部を含め両派がしのぎを削りながら予防法反対運動を進めていました。
しかし、胸像破壊事件(この胸像は岡山の「長島友の会(会長は岡山市長)」が1947年に光田園長の古希を祝って贈ったものでした。破壊を知った穏健派300名が胸像のあった礼拝堂広場に集合、強硬派の糾弾を始めました。両派の烈しい対峙を見た園当局が警察の出動を要請、警察が警戒体制を数日間続ける事態となりました)は両派の対立を先鋭化させ、ついに後戻り不能とさせました。妥協点も見出せず、多数の役員が辞任、機能麻痺に陥った自治会執行部はついに自ら事務所の閉鎖を宣言しました(11月)。1954年(昭和29年)には、いよいよ園当局が乗り出し、「現役員は全員1年間就任しない」他の勧告を出し、冷却期間を置いて3月、改めて役員選挙を実施、自治会を再建しました。
かつて、自助会が解散させられ、戦時中は下請け機関になってしまったわけですが、それでも自治会は自分たちの組織でなければいけないという思いがありました。そこには長島事件の、あのときあそこまでやって自助会を作ったんだという気持ちがどこかに生きていました。
戦後、自分たちがやる自分たちのための自治会の結成ということで、第一の目的に「人権を守る」という言葉が出ました。しかしこの第一条を決めるのに非常に抵抗があり、ずいぶんもめました。結局目的の条に「園長指導の下に自治相愛の精神に則リ」(第3条)と入り、名称も正式には自治会ではなく「敬和会」(第一条)となったのです。光田先生の「大家族主義」をそのまま守った組織でした。結果的にそれが予防法闘争を闘ったことから自分たちのために自分たちが自分たちを組織する入園者自治会にさせる機運をもたらしました。
自治会再建後、自治会本来の姿にするため「敬和会規約改正小委員会」が設けられるにあたって、その委員長に就くことになりました。この職に私が選ばれたのは、当時、園内にできたいくつかの政治的組織のいずれにも属していなかったということがあると思います。その後も園内には各政党の支部があり、活発に活動していました。
新執行部の成立から1年半後の1955年(昭和30年)末に新規約ができました。ここに晴れて名称を「長島愛生園入園者自治会」とし、目的には「人権を守り、相互の親睦と文化的生活向上を図る」と謳いました。
「いつの日にか 帰らん」P142~P146 著者 加賀田一さん
2030年 農業の旅→
