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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

愛生園における自殺者


愛生園における自殺者は、私が愛生園に入所した昭和24年以降で、私が把握しているだけでも38名もいます。一昨年も2人、今年も1人の療友が自ら命を絶ちました。私は、一昨年の3月頃、私の3歳年下の療友が、私が入室していた病棟の公衆電話で友人に「私が死んだら、後のことを頼むぞ。」と頼んでいるのを耳にしました。最後に「ありがとう、ありがとう。」と泣き声で言って電話を切っていました。まさかと思いましたが、それからわずか30分後に、その療友は自室で首を吊って自ら命を絶ったのです。

飛び降り、服毒、首吊りなど自殺の方法は様々ですが、隔離され、家族と断絶されて絶望のどん底に陥り、生きる望みを失って命を絶ったという点においては誰もが同じだっただろうと思います。私のように自殺しようとして死にきれなかった、という患者はそれこそ数知れないでしょう。(野道の草 P134)


毎年の自殺者の数ははっきりつかめているはずだが、園当局は公開していない。

監房もほとんど埋めてしまっている。自治会は反対しなかったのだろうか。

このような状況を見ると、証拠隠滅ではないかと思う。もし監房に今、入ることが出来たら、どういう監房だったか体感できるのに。



平成4年12月、岡山県のブルーライン(当時のブルーハイウエー)で、愛生園の入園者6名が乗ったワゴン車が、反対車線から猛スピードで無理な追い越しを掛けてきたトラックと正面衝突し、6名の入園者全員が即死するという惨事がありました。この事故処理の際、牛窓署は「いろいろあって(車を)よそに出すわけにいかない}と事故車両を異常に早く愛生園内に戻してきたのですが、その事故車両内は血だらけで、まだ遺体の一部(大腿部・指数本)が残っており、私もそれを目にしました。医局主任の先生が、その遺体の一部をもって、帰ってきた六体の遺体を回って、足のない人を探して納棺しました。入園者というだけでこのように十分な調査もせず、むごい仕打ちだと思いました。自治会は、このような警察の事故処理はハンセン病に対する誤った偏見・差別に基づくものであるとして、強く抗議をしました。(P132)

もう22年にもなるのか・・・。この事故は新聞にも大きく載ったし、亡くなられた人が愛生園の人だったこともあり、強く記憶に残っている。隔離され、長年苦労をされてきたのに、最後まで運が悪すぎると思った。しかし、ここに書かれている事故処理に関しては初めて知った。牛窓署のやり方はちょっとひどすぎる。

この事故は「らい予防法」が廃止される4年前で、「伝染病」という認識だったのだろうか。



しかしながら私は、入園当時、光田園長と個人面談で対立したのが響いたのか、プロミン注射を拒否され、プロミゾールという内服薬を一日一錠もらっただけでした。このため、私もさすがに弱って翌25年に「なんとかしてくれ」と頼み込み、やっと注射をしてもらえるようになりました。(P114)

園長辞職要求問題での私個人のエピソードとしては、辞職要求派だった私は、園の事務官に同年(昭和28年らい予防法改悪反対運動)11月呼ばれ、退園するように強く勧告されましたが「死んでも出ない」と言って頑張りました。私は、結局入所以来都合3回、園から「出て行け」と言われたことになります。(P121)

宇佐美さんは戦い続けた人だった。「出て行け」と言われることは入所者にとって最も厳しい局面だが、それを見越して戦い、「死んでも出ない」と頑張った宇佐美さんだからこそ、ハンセン病瀬戸内訴訟の長島愛生園原告団長として、屈せず頑張れたのだ。

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サトイモのコロッケ


出し汁作り
 

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昆布、干しシイタケ、イリコは前夜から水にひたし、中火で点火し、煮立ったら弱火にして昆布を取り出し、削り節を入れ、5分ほど煮て、出し殻を全て取り出し、再沸騰させてアクを取って出来上がり。



出し殻でふりかけ


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出し殻はみじん切りして乾煎りし、砂糖と醬油で味付けして出来上がり。




黒豆の煮物


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一晩、水で戻した黒豆(150g)を戻し水ごと圧力鍋に入れ、砂糖100gと醬油小さじ1を入れ、おもりが回り始めたら弱火にして20分、火を消してそのまま放置して出来上がり。いつもの「簡単おせち★材料3つの黒豆」を参考にした。




ヤーコンの甘酢漬け

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まず甘酢を作って冷ましておく。甘酢は、出し汁180cc、米酢120cc、砂糖50g、トウガラシ1本を小口切り、ニンニク醬油大さじ1、ショウガ1片のすりおろしを入れ、火にかけて溶かす。

ヤーコンはアクが多いので、切りながら水にさらしておく。沸騰した湯で2分ほど茹でて冷水にとり、水気を切って瓶に入れ、甘酢を注ぐと出来上がり。翌朝には食べれる。





サツマイモのユズ煮


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ムラサキ芋700gほどを乱切りして無水鍋に入れ、大さじ2の水、大さじ2の蜂蜜、大さじ2のユズ果汁を入れ、煮立ったら弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。




キャベツのレモン醬油和え


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キャベツは小さくざく切りして、沸騰した湯で1分ほど茹でて冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。ワカメは15分ほど水で戻してざく切りし、沸騰した湯に5秒くぐらせ、冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。お椀にレモン果汁大さじ2、出し汁大さじ2、醬油大さじ2、砂糖少々を入れ、小魚を3分ほど浸し、ボールに入れて和えると出来上がり。 




サトイモのコロッケ
   
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サトイモは薄切りして25分ほど蒸し器で蒸し、ボールに入れてつぶす。その間に、ニンジン、キクイモ、タマネギをみじん切りし、ニンジン、キクイモは沸騰した湯で2分ほど茹でて置く。

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片のみじん切り、ベーコン3枚の細切り、タマネギ、茹でたニンジン・キクイモの順に炒め、醬油と胡椒で味付けし、ボールのサトイモと混ぜ、コロッケ型にして薄力粉をつけ、熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、弱火で蓋をして5分、裏返して5分焼いて出来上がり。ソースで食べた。





卵豆腐
   
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卵2個を溶いてボールに入れ、出し汁1カップ、ミリン大さじ1、塩少々を入れてまぜ、容器に入れ、煮立ったら弱火にして10分、火を消して余熱5分で出来上がり。いつもの「簡単!手作り卵豆腐」を参考にした。

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療養所の内部は治外法権


「野道の草(著者 宇佐美治さん)」より、抜粋させて頂きました。

国立療養所内部は治外法権だったんです。療養所と言えば、病院でしょ、その病院の敷地に監房があったんですよ。だれを入れるのか?って・・・。園長に歯向かう患者をぶち込んだんです。療養所所長に「懲戒検束権」があってね、裁判もなしですよ、園長の権限なんですよ。昭和28年にようやく廃止になったんです。
そう、この島の中に、監房があったんですよ、信じられないでしょうねえ、後から案内しますよ。(P20)



相次いだ自殺者


島の南側の崖っぷちから海に飛び込んで自殺した患者は、たくさんおりましたね。私も、その場所に立って、目をつむって、足に力を入れて、重心を前にしたこともあったんですよ・・・。でも、勇気がなかったんでしょうか・・・、こうして生きているのは。
監獄があったんだよ、という話は先ほどしましたが、療養所の中には、火葬場もあり、お墓もあるんですよ。葬儀屋さんはいませんよ。
入所者が死ぬと、ですか?
自治会役員や、故人の親しい者が、遺体を病棟から火葬場へ運び出して、材木を集めてきて荼毘に付すんですよ。
人間が焼けるとき、どうなると思います?立ち会ったことありますか?
弓なりに反り返るんですよ。焼ける途中でねえ。
その弓なりの遺体を、鉄の棒で必死に、ぐーんと、抑えつけているんですよ・・・、自治会役員はそういう仕事もするんですよ。私もやりましたよ。
昭和50年頃までは、本当にひどい状態でした。(P22~P23)



人間の心は不思議ですねえ


生活環境を改善していこうと、僚友同志で力を合わせてね、助け合い、励まし合い、そして、当局へも改善要望を出してきたのでしたが、多くの人は、さっきも話したように、諦めたり、皇室やら、宗教団体やらの慈悲、国からの施しがもらいたい・・・、それぞれが、自分の昔より今が幸せと思うんですねえ。思わされるんですねえ・・・。
私が思うには、人間の心の不思議さというのでしょうか、宗教がそういう役割をしているんでしょうかねえ。
園内には、キリスト教、仏教の各宗派、新興宗教、創価学会などありとあらゆる宗教がありますよ、それから政党も、共産党、自民党、公明党などの支部もありますよ。(P23)



収容時の状況


翌朝、私は、前夜上陸した地点を確認するために収容所桟橋まで行きました。収容所桟橋からの風景は、左に納骨堂、正面の谷間にコンクリートの監房、監房の上の方に恵の鐘、右側に収容所、という四点セットでした。ホロコーストのラーゲル(収容所)、園の職員に反抗すれば入れられる脅かしの監房、望郷の嘆きの鐘である恵の鐘、骨になっても帰れない亡霊の住む万霊山の納骨堂・・・。「これが終の棲家か、雪五尺」という一茶の句を連想しました。ここで脅かされ、虐げられて、望郷の想いを抱えながら一生を終えなければならない、そのことをまさに象徴するような風景でした。半世紀経った今でもこの原風景は変わっておりません。(P75)

その後、私は分館に呼ばれ、職員から、住所、年齢、家族構成、家族の病歴、宗教、職業について事情聴取を受けました。家族の病歴を聞くのは、他の家族にも患者がいないかどうかを確認するためであり、宗教を聞くのは療養所で死んだ時のためです。この事情聴取の際、私はちょっと書類に触れたところ、事務官から「触るな!」と叱られました。前日の収容の際にも列車から降りようとして降りるなと恫喝され、このときもまた同様に恫喝された私は、自分が終身刑を受けた囚人にでもなったような気持ちになり、どんどん落ち込んでいったのでした。
この職員からの事情聴取の際、私の入園番号は5206と告げられ、在園者名簿に私の名前が記載されました。入園番号、これは私にとって、囚人番号と同様でした。帰った後、収容所の舎長から、木製の名札を手渡されました。宇佐美治という名前の上に真という文字が書いてありました。その文字は、分館で申し出た私の信仰する宗教である真宗の略でした。裏面には入園番号が書かれていました。「大事にしておけ。病室に入ったときにはこれを床頭台の前に掛けるように。」と言われました。これが死んだときのための認識番号だったのです。(P76) 



愛生園の生活状況と光田園長

私が療養所に入って、まず驚いたのは、収容された日に出された食事の酷さでした。出された食事は真っ黒な麦飯、臭い大根のみそ汁であり、とても食べられたものではありませんでした。長島に来る途中、父は名古屋のデパートで、療養所で食べるようにと寿司を買ってくれていました。しかし、収容時のどさくさで、その寿司を踏まれてしまったことから、私はそれを捨ててしまっていたのです。「人に踏まれた物など食べられない」という気持ちでしたが、療養所で出された食事を見ると、それよりもっと酷い食事だったのです。私は「しまった・・・」と寿司を捨てたことを後悔せずにはいられませんでした。
収容後2、3日して、同収容者(同じ日に収容された者同志をこのように呼んでいます)と一緒に園内を見て回ったのですが、その時に目についたのが、入園者たちがしているガーゼでした。通常の白いガーゼではなく、着物の裏のぼろばかりを使ったものだったのです。
また園内の十坪住宅の近くの共同洗い場では入園者たちがみんなで食器を洗っていたのですが、水は汚く、どぶの酷い臭いがしており、とても衛生的といえる状態ではありませんでした。
さらに、「つばくろ」等の夫婦不自由舎を見てもっと驚いたのは、12畳半ほどの狭い部屋に4組もの夫婦が雑居生活をさせられていたことでした。別の機会に、この様子を見た父親は「この人達は、一体どうやって寝ているのだろう。」と、そのおぞましさに言葉がでない様子でした。
私は愛生園に来る前に、北條民雄や明石海人の本を読んでいて、療養所内の断種、患者作業、住居や食事の酷さ、貧困な医療といった状況については、おおよその知識は持っているつもりでした。しかし、実際に愛生園に来てみると、その状態は想像を超えた酷いものだったのです。私は「断種までしていながらなんていう生活をさせているんだ。」「療養所ではない収容所だ。アウシュビッツと同じではないか。」と感じ、「やはり自分達患者はここで死ぬしかない、絶滅の対象とされているんだ。」ということを思い知らされたのでした。
園の生活はとても人間の生活とは呼べず、収容所と言うしかないところでしたが、さりとて「らい」というレッテルを貼られ、家族からもふるさとからも追われた私には、園から追放されれば、帰るところも無く、生活するめども立たない絶望的な状況だったのです。死を選ぶのか、療養所を選ぶのか、私達患者には、その二つの選択しかないことを骨の髄まで思い知らされました。そして、この療養所では、光田園長が患者の生殺与奪権を握った、絶対的な存在であることも実感したのでした。 (P80) 

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春キャベツのお好み焼き

  
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牛肉100gは80度の湯で15秒湯通ししておく。ボールに春キャベツの粗みじん切り200g、薄力粉100g、溶き卵1個、水を適量入れて固さを調整し、湯通しした牛肉を入れて混ぜる。

熱したフライパンに大さじ1弱の油を入れ、ボールの具材を入れ、弱火で蓋をして5分、裏返して5分焼いて出来上がり。ソースとケチャップで食べた。

「ためしてガッテン」のお好み焼きを参考にした。簡単でおいしい。



ヤーコンのニンニク醬油炒め

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ヤーコンは薄い短冊切りにし、熱したフライパンにゴマ油を入れて炒め、ニンニク醬油で味付けして出来上がり。


ナバナのおひたし

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ナバナはざく切りして、沸騰した湯で1分半ほど湯通しして冷水にとり、水気をよくしぼる。カツオブシと醤油で食べた。

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徳田靖之弁護士


野道の草(著者 宇佐美治さん)より抜粋

私はいまも忘れることができないのですが、22年前の昭和60年に当時の西ドイツ大統領のワイツゼッカーさんが、第二次世界大戦終結40周年に際し、「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目になる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と、自国の侵略行為を反省して歴史を直視する姿勢で、世界に向かって「荒れ野の40年」と題して、演説した言葉に感銘しているんですよ。(P46)


最も目を向けなければならない医学界、法曹界、宗教界、文学界、政界の5者が、ハンセン病に関して無関心、それどころか隔離を助長するような発言をしたのは何故なのか。特にハンセン病学会は「間違っていることを、なぜ間違っているといえなかったのだろうか」。

らい予防法が廃止されたのは1996年(平成8年)という遅さだった。


島比呂志さんが、平成7年9月に、九弁連、九州弁護士連合会のことですが、ここへ手紙を出したんですよ。内容ですか、
「・・・らい予防法について、・・・人権に最も深い関係を持つはずの法曹界が、何らかの見解も発表せず、傍観の姿勢をつづけているんですか・・・」
というものですが、この島さんの手紙がきっかけで、弁護士さんが立ち上がってくれて、裁判闘争へと歴史が動いていったんですよ。
熊本地方裁判所へ提訴したのは、平成10年7月31日でしたねえ。提訴の日に原告団は、
「国家権力による残虐行為を不問にしたままでいいものでしょうか。子もなく孫もいない私たち入所者の孤独と無念の思いを、国はどうして癒してくれるというのでしょうか。(中略)私たちは、裁判によって国のハンセン病対策の歴史と責任を明らかにして、
①日本国憲法に背き、未曽有の人権侵害が国家の名のもとに惹き起こされ、放置されたのはなぜなのか。真相を究明して国の責任を明確にし、損害に対して補償すること。
②国の責任に基づき、すべての人権侵害の現状回復を図る。
③国が二度と同じ過ちを犯さないようにさせる。
このことが成就したとき、全国療養所の納骨堂に眠る先輩たちの無念を癒す魂の供養にしたいと考えます」
という内容の声明を出して、竪山勲さん、志村康さん、溝口製次さんたち13人が、熊本地方裁判所へ提訴されたのです。その勇気に私は感動しましたよ。(P31~P32)


私が原告になった時期が遅れたことですか?
あのときのことを振り返ると、本当に、ほぞをかむ思いでいっぱいになるのですよ。自分自身の心に弱さがあったことを、懺悔に堪えないでいます。いまでも悔悟の涙でいます。
私にも原告に加わるようにと求められたのですが、そのときの私は、
「昭和28年の『癩予防法闘争』のときのような園内分裂をくりかえしたくない。協力はするから」ともっともらしい理由を付けて原告になることをためらっていました。ほんとに、卑怯な私だったと思います。
心の中にある「やはり、懐かしいふるさとで死ねるものなら死にたい。永遠の眠りは父母の傍らで」という自己中心の思いに負けていたのだと思うのです。「父と母のお墓に入りたい」との思いに負けてしまっていたんですね。
恥ずかしいかぎりです・・・。
ある講演会でね、私が話し終わった後の質問タイムで、
「宇佐美さんは、どうして原告にならないのですか。言っていることと、やっていることが違うではないか」
と、学生さんから指摘されたんですよ。私は、しどろもどろになりましたねえ。青年の真っ直ぐな心が、私の弱さをズバリ、と見抜いたのですねえ。
口では「不正とたたかう」と言いながら、講演会でも「迫害に負けないで頑張りますので、ご支援をよろしく」と言いながら、裁判の原告になろうとしなかった私は、その後、裁判闘争に参加していくなかで、基本的人権とか、人間の尊厳とか、日本国憲法とかを深いところでつかまえきる力が弱かったのだなあ、と大いに反省したんです。
当時は、私が原告にならなくても、裁判所は憲法違反を認めるだろうと、原告にならない自分を慰め、合理化していたのでした。(P32~P33)


文字どおりの、死にものぐるいのたたかいが積み重ねられて、首相になったばかりの小泉純一郎総理大臣が、原告団の私たちに面談することになりました。
・・・・・
「テレビのテロップで、『首相、控訴断念』を流しているんだ」と教えてくれたんですよ。
この言葉を聞いた私は、全身の力が抜けて、人工衛星に乗っているような、体が空中で舞うような、そんな気持ちになりましたねえ。(P42~P43)

うれし涙は温かく、熱かった

私たちは、泣きました。抱きあって、泣きました。
横を向いても、泣いている人、後ろを向いても、泣いている人・・・。
私も、思いっきり泣きましたねえ・・・。
75年の生涯で、初めての、うれし涙が頬をぬらしつづけましたよ。
うれし涙は、温かい、熱い・・・。
これが、そのときの偽らない私の実感でした。
弁護団団長の徳田靖之さんはね、ソファーの上でコートを頭からかぶって嗚咽されていましたね。マスコミから記者会見を求められても、徳田団長は、とうとう、ソファーを離れられなかったんですよ。
高揚した気分が収まったあとに、憲法違反の悪いことをしてきたのは、政府や国会であり、言われなき苦しみや辱めを受けての運命を生きてきた俺たちが、「お願いします」と、なんで頭を下げて、お願いしなければならないのか・・・、との思いが、心をよぎったのも正直な気持ちだったけれどもねえ。
「国が控訴断念」のニュースは、5月24日の新聞でも報道されました。
その新聞には、私と小泉純一郎首相とが握手をしている写真が載りましたよ。(P43~P44)
 

「徳田靖之弁護士」・・・新聞を見ながらどこかで見た名前だと思ったら、やっぱりそうだった。昨日の袴田事件の再審決定でも、「弁護団共同代表」をされていました。
 
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サトイモののっぺい汁


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ダイコンとニンジンは厚めの短冊切り、サトイモとキクイモは厚めの輪切り、シイタケはスライスして鍋に入れ、水と出し汁でひたひたにし、ショウガ1片をすりおろし、煮立ったら弱火にして10分煮て醬油で味付けし、さらに5分ほど煮て片栗粉大さじ3(大さじ3の水で溶く)を入れ、2~3分煮て出来上がり。

出し汁、シイタケ、ショウガの3つを入れれば、肉を入れなくてもおいしいのっぺい汁ができる。




ネギ入り卵焼き   
    
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卵2個を溶き、出し汁を大さじ2入れ、醬油と砂糖で味付けし、熱したフライパンに油をひいて流し入れ、ネギを入れ、弱火で5分ほど焼き、巻いて火を消し、余熱2分で出来上がり。

今日は親戚の法事でお膳を頂いたので、簡単な2品を作った。

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光田健輔園長が初診察で「宇佐美、出て行け!」


だってね、ここ(長島愛生園)へ入れば、すぐに、プロミンを注射してもらえると思っていたんですよ。23才だったね、愛生園に来たのは。昭和24年の4月27日でした。それから13日後にね、光田健輔園長がはじめて診察してくれたんですよ。待ち遠しかったですねえ。一日千秋の思いでしたね。嬉しかったですよ。これで、俺のハンセン病は治るんだあ、と小走りで医局へ向かいましたねえ。私はプロミンの注射を期待してね、光田先生の前に立ったんですよ。ところが、
「お前、何でもっと早くこなかったんだ、ここで気に入らないことは何だ」
と聞かれたので、私は、
「国立療養所というのに、衣食住も衛生状態も悪いですよ。夫婦が4組、12畳半に8人がカーテン無しで寝かされている。非人間的な取扱いじゃないですか。これじゃあ、豚でもケンカしますよ」
と言ったんですよ。そうしたら光田園長は、
「文句があるなら、すぐ出て行け!」
とものすごい大声で、怒鳴ってねえ。退去命令を出すんですよ。強制収容しておきながら、ですよ。
家には帰れないし、行くあてはないし、困りながら、まー、出ていかにゃーしょうがないのかなーと思いながらとぼとぼと歩いていると、うしろから追いかけてきた看護師さんが、
「ちょっとー、宇佐美さーん、戻りなさい」
と袖を引っ張って、私を医局へ連れ戻したんです。医局には別の先生がいてね、私に、
「キサマー、コミュニストかー」と怒鳴るんですよ。
「ニヒリストやー」
と言い返してやったんですよ。そしたら先生は、
「キサマ、うまいこと言うじゃないか」
という話し合いになって、
「行くところはないだろう、園長には私がよく言っとくから、宇佐美、ここにおりなさい」
と言ってくれたのです。
私は、ほっとしましたよ。後から知ったんですが、その先生は、難波政士といって岡山大学出身の人でした。
この一件は私にとって、衝撃でしたねえ。


「救癩の父」と言われる光田園長の実相は

光田健輔医師は、「救癩の父」とか「日本のシュバイツアー」と呼ばれるほどに、神様的な存在でした。ところが私に対する態度でわかるように、ハンセン病患者を救う医学者ではなかったんですよ、彼は・・・。患者の人権をないがしろにして、終生隔離政策でハンセン病を根絶やしにしようと、医学界・国民を欺いた犯罪者と言ってもいいくらいなんですよ。私に言わせればね。
光田医師は全生病院の院長のときに、「断種(精管の一部を切除したり、結びつけたりして、生殖能力を失わせること)」を考案しているんですよ。大正5年のことです。
「癩病は、遺伝する、強烈な伝染病だから、患者を一般社会から強制隔離して、根絶やしにする。子孫をつくっちゃならない。そういう法律をつくりなさい。手錠をかけて強制隔離をしなさい」
と言った張本人なんですよ。国会でね、そう証言(昭和26年11月8日、参議院厚生委員会)してるんですよ。それで、離れ小島や僻地に「癩病国立療養所」という名前の収容所を国につくらせて、ハンセン病患者の強制収容をはじめたんですよ。患者たちは、てっきり、国立の療養所へ行けば、病気を治してもらえると思うじゃないですか。療養所と聞けば、病院、と連想しますよねえ、だれだって。
ところが、療養所へ到着してみたら、クレゾールの消毒風呂へ入れられるは、狭い部屋に押し込まれての雑魚寝ですよ。症状が重い人も放ったらかしで死を待つばかり、病気になっても治療もろくにしてくれない、軽度な患者には、土方作業やら、重度な患者の身辺の世話係をやらせるんですよ。
重労働や栄養不足で後遺症がひどくなってね、死んでいったんですよ、入園者の先輩たちが・・・。残酷だったねえ、あのころは。人間扱いされてなかったんですよ。
長島愛生園の初代園長になった光田医師は、
「ここはお前たちの楽園になるんだから、自らの力で、山を削れ、道を作れ、家を建てろ、相互扶助だ、報恩作業をしろ」
と患者に重労働を命令したんですよ。
あまりのひどさに耐えかねて、療養所から逃げ出し、海を泳ぎ切れずに溺れ死んだ人もいるんですよ。脱出に失敗して捕まえられた人は、監房に閉じこめられたんですよ。

日本癩学会のなかで、愛知県海部郡甚目寺町出身で京都帝国大学医科大学の小笠原登医師は、「癩病は治る病気であり、伝染力は強くない。強制隔離の必要はない」と、自分の学問的見解を貫いたんですよ。長いものにまかれないでね。私は小笠原医師を尊敬しているんですよ。
小笠原医師は、昭和9年に、「癩の極悪性の本質について」を発表して、「感染力の微弱性」を主張しているんです。ところが、光田医師たち多数派は、小笠原医師の主張を検証もしない、世界の医学の進歩に目を背けたまま、「癩病は恐ろしい伝染病説、遺伝病説」を唱えていたんですよ。
昭和9年の42年も前の明治6年には、ノルウェーの細菌学者アルマウェル・ハンセンが、「らい菌」を発見しているのにですよ。そして、昭和18年には、アメリカで、「プロミン」という薬が、ハンセン病治療に有効であることがわかったのです。
ところが、こともあろうに、光田医師たち多数派は、昭和16年の第15回日本癩学会で「国民を惑わす小笠原登医師を京大から追放しろ」という決議文を採択して、京大総長に届けているんですよ。しかし、京大は、小笠原登医師を定年まで京大の特別皮膚科で、ハンセン病の治療と研究にあたらせたのです。
ひどいですねえ、て・・・。想像を絶するひどさですよ。
小笠原医師の学説を弾圧して、日本の医学のあり方を誤らせ、権力者と一体となって、国民に偏見、差別という間違った考えを植えつけたんですよ。患者と家族の運命を、人生をね、むちゃくちゃに壊した張本人なんですよ。光田医師たちは。
昭和26年に「癩予防法」改正問題が国会で議論されたときにはね、国会で、「手錠をつけてでも、根こそぎ、癩患者を強制隔離すべき」、「逃走罪を法制化して刑務所に入れよ」と、証言しているんですよ、光田医師は。
こういう光田医師の実相を知らない若い医師が、光田医師を慕ってねえ、結果として、強制隔離政策を遂行したんですよ。映画にもなった小川正子著の「小島の春」を読むとわかりますね、このことが。
私たちはね、人権無視の法律をただし、国のやり方や、光田園長のやり方をあらためてもらって、人間らしく生きたいと思って運動してきたんですよ。
ところが、同じ僚友仲間でも、
「光田園長が気にくわないなら、出て行けばいいじゃないか。国にたてついたら予算を削られるだろうし、追い出されたら行く所がない。野垂れ死によりましじゃないか」という考え方になってしまうんですねえ。残念なことに・・・。


「野道の草」 著作 宇佐美治さん
P12~P17を抜粋させて頂きました。
宇佐美さんは昨日の金泰九さんの「わが八十歳に乾杯」にも出てきた長島原告団の代表です。 

この最後の3行の問題は、長い間、入所者を真っ二つに分断してきたようだ。つまり「園長派」と「反園長派」の対立である。

このことは「いつの日にか帰らん」にも、昭和26年の参議院厚生委員会の光田発言に関して「この頃には園長辞職要求の強硬派と園長に心酔する穏健派の対立は目立って来ていました。そのため自治会会長選挙は紛糾、3ヶ月を要して1票差で穏健派が当選しました。したがって内部では執行部を含め両派がしのぎを削りながら予防法反対運動を進めていました。」と書いてある。 

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当初9名の長島原告団の勇気


『わが八十歳に乾杯』 著者 金泰九さん
P278~P282の一部抜粋
名前の泰という字が違うのですが、字が読めず(検索できず)、まことに失礼致します。


弁護団の徳田康之代表に私の心境なるものをつづり送った。内容は大要次のようなものだった。
①原告に入りたいと思っていること。
②しかし私は在日朝鮮人であるので先頭にたってやることには問題があると思うこと。仮に私が原告代表にでもなったら、朝鮮人に対する反発が作用して原告は増えないこと。
③そこで友人である宇佐美治氏を説得して代表になってもらい、そして長島原告団を結成したいこと。
などであった。

徳田弁護士からは便箋20枚にもなる激励の返信をいただいたのである。数度の手紙のやりとりの後、私は意を決して宇佐美氏を訪ねたのであった。1999年3月のことであったと思う。
「俺、原告になりたいと思う。宇佐美氏も原告になって、代表をやってくれないだろうか。原告は俺が集めるから」と切り出したものだった。
宇佐美氏は一応了承はしたが、「党委員会に了承を得たいので少し待ってほしい」ということだった。そして数日後、彼が言うには「委員会では了承は得られなかった」ということであった。
「じゃ、もう原告にならんのか」と迫ったところ、「原告にはなる」と言い切ったのである。私は内心『それでこそ宇佐美だ』と思わずにはおれなかった。
その後、彼は不自由な体ながらも立派に長島原告団代表の責務を果たしたのである。さすがであった。
さあ、後は『原告さがしだ』と思って、思わしい人にあたるけれど、ほとんどの人がしり込みをするのであった。50人以上の人にあたった。
『この人は原告になるであろう』と思った人から「ノー」と言われると、その理由はともかく、私は「自分の人徳の無さ」を嘆くのであった。「朝鮮人がしゃしゃり出るな」と面と向かっては言わないものの、そのような表情が見て取れる人もいた。朝鮮人に対する偏見を垣間見て、かえって私は内心奮起する気持ちになるのであった。
朝鮮人同胞には友人柳氏以外、原告勧誘はしなかった。同胞に声をかければ原告になってくれる人は何人かいるはずだ。でも戦術的に、日本人僚友が多く原告になった後に同胞に声をかけるつもりでいた。

一方、自治会は裁判についてはおおむね静観の姿勢をとっていた。それでも自治会役員のうち数名は裁判について理解を示していたので、何名かは原告になってくれるものと思われた。なかには、原告にはなれないが、しっかりがんばってくれるように、と激励を受けたこともあった。嬉しい激励であった。

原告になるだろうか、と半信半疑の人から「よし分かった。原告に入ろう」といわれたときは思わずその人を見つめたものだ。人は見かけによらんというが、まったく予断は禁物だと思った。

どうにか9名の原告同意者を得て1999年6月、九州弁護団を通して、熊本地裁第六次原告となったのである。まことに勇気ある、そして希少な原告9名であると思うのであった。

1999年9月に至り、やっと瀬戸内からも弁護団が結成され、岡山地裁にも提訴する原告がでるようになり、長島原告団はいやが上にも活気づいたのであった。

当時、愛生園の原告の人数は27名になっていたが、27名のうち隠れ原告も数名いた。原告であることを他に知られたくないというのであった。
 
園内の空気は原告を少数派として特別視していたし、中には原告を「恩知らず」と非難する人もいた。「強制収容されたから、今こうして安気に暮らしておれる。何が不足で裁判するんだ。この恩知らずもの」と主張する人たちであった。

彼らもまた強制収容され、長く隔離された結果、自らの人間解放に目覚めることのない「隔離の被害者」たちであった。

確かに、人権侵害の予防法も廃止になり、制限措置はなくなり、施設内生活は一見、安穏であった。

しかし、誤ったらい予防法政策により、未だ我々は「人間の尊厳」を失ったままではないのか。この裁判は失った「人間の尊厳」を取り戻すための裁判ではないのか。らい予防法の誤りを国が認めて「謝罪」をする以外、尊厳を取り戻す方法はない。また隔離政策のもと、支配者による憐憫主義の中、ただただ忍従の果て亡くなっていった数千の仲間のためにも、この裁判は勝たねばならないのだ。私は強くそう思うのであった。
 
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オニオンツナサラダ


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タマネギ1個をスライスして水に10分ほどさらし、ザルに上げてよく水切りしてボールに入れ、油を切ったツナ缶を入れて和え、醬油で味付けして出来上がり。

ツナ缶を一缶全部使ったので、レシピに出ていたカツオブシは使わなかった。1ヶ月後には収穫できる早生の新タマネギを使ったら、もっとおいしい。





シイタケの甘辛煮


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スライスしたシイタケとニンジンの千切りを鍋に入れ、水を少し入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、削り節を少し入れ、煮立ったら弱火にして30分ほど煮て佃煮風にした。「お弁当にぴっぱり♪椎茸の甘辛煮」を参考にした。



キャベツのレモン醬油和え

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春キャベツはざく切りして、沸騰した湯で1分ほど茹で、火を消す直前にシシウド(山うど)を入れて冷水にとり、水気をよくしぼってボールに入れる。ワカメは15分ほど水で戻してざく切りし、さっと湯通しして冷水にとり、水気をよくしぼってボールに入れる。

お椀に、醬油大さじ2、レモン果汁大さじ2、出し汁大さじ2、砂糖少々を入れて混ぜ、小魚を10分ほど浸し、ボールに入れて和えると出来上がり。

キャベツの代わりにナバナやコマツナでもいい。おいしいからしばしば作っている。



ゆで卵 

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ケチャップライス
    
   
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熱したフライパンにオリーブ油を入れ、ニンニク1片のみじん切り、ウインナー2個の小口切り、タマネギ半個のスライスの順に炒め、醬油、ケチャップ、胡椒で味付けして火を消し、ご飯を入れ、中火で点火し、ご飯がケチャップになじんだら出来上がり。

チャーハンもケチャップライスもご飯を最後に投入したら、失敗しない。

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うしなった眼


うしなった私の眼は

こんな所に落ちていたのか



月の出の

誰も知らない浜辺の砂のうえに

それはこぼれ落ちた流れ星のかけらのように

青く透明な光をはなちながら

遠い月をじっと見つめている



誰がこんな所へ捨てたのか

深い闇の世界を私の心に残したまま

病み疲れた肉体のすき間から

容赦なくうばい取られていった その眼



あの日の激しかった痛みも

長い長い苦しみの影も

縫い合わされた瞼の裏に

まだ

こんなにもはっきり残っているというのに



諦めきったはずの

なお諦めきれない悲しみの手が

どこからともなく そっとのびてきて

私のその眼を拾いあげようとする

だが 波は

遠い日の歌を奏でながら打ち寄せてきて

その手をさえぎろうとする



やがて

月が中天に冴え渡る時

私のその眼は 貝がらになる



近藤宏一さん著作「闇を光に」の中の詩です。

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鯛アラを使った2品


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買い物が別になくてもスーパーに立ち寄るのは、鯛アラがあるか確認のため。

今日は久しぶりに鯛アラがあり、安かったので2パック買い、1パックは冷凍にした。


鯛アラとニンジン・キクイモの煮物

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ニンジンとキクイモを薄切りして鍋に入れ、水と出し汁を入れ、煮立ったら弱火にして5分ほど煮て、湯通しした鯛アラの半分を入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ショウガ1片をすりおろし、落し蓋をして、中火で10分煮て、ネギを入れ2分ほど煮て出来上がり。



鯛アラの水炊き鍋

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残りの鯛アラは水炊き鍋に使った。

土鍋に水と出し汁を入れ、ダイコンの薄切りとシイタケを入れ、煮立ったら弱火にして湯通しした鯛アラと豆腐半丁を入れ、10分ほど煮てネギを入れ2分ほど煮て出来上がり。ポン酢で食べる。


サツマイモのユズ煮   
  
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無水鍋に乱切りしたサツマイモを入れ、水を大さじ2、ユズ果汁大さじ2、蜂蜜大さじ2を入れ、煮立ったら弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。


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戦時下の療養所


終戦の前年(昭和19年)にもなると、野草でも食べられるものならなんでも食べるというような劣悪な食糧事情になり、私たちも自給自足を目指して島内の荒地を開墾しサツマイモやカボチャなどを作りました。ところがこの重労働が原因で病気が再発する入所者がどんどん出てきました。私たちはこのことを「菌が騒ぎ出した」と言っていましたが、私の場合、まず第一番に目にきました。

それは「虹彩炎」という炎症で、目に光線が入るとものすごく痛い。部屋には黒いカーテンを張って、光線を入れないようにしましたが、それでも痛くて痛くて、一週間泣きどおしでした。一ヶ月ぐらいで痛みは治まりましたが、目を開けると、ほとんど見えなくなっていました。紅彩癒着を起しており、瞳孔が針の穴ぐらいになっていて、メガネをかけてやっと少し見える程度でした。

それが薬もないのにどうして治ったのか、私もよくわからないのです。ただ覚えているのは20ccの血液から採取した2ccの血清を注射したことです。「あんた、こんな瞳孔で見えますか」と、新しい先生が来られるたびに不思議がられましたが、瞳孔は小さい穴のままにしていたら、目の方は治まりました。


戦争末期

昭和20年に入ると、食料が療養所に廻ってくることなど期待できなくなり、私たちも園の許可をもらって開墾作業をすることになりました。島の森を拓いて畑にして、種芋も本州のほうから融通してもらって植えつけました。溜池や水田も入所者の労働で造りました。いずれも重労働ですが、自給しなければ飢え死にします。動ける人(七割)は男女の別なくみなゲートルを巻いたりもんぺ姿で畑作業ですから、まったく異常ですが、その異常が日常となったのがこの時期でした。

開墾地へ上がる急傾斜をだれ言うともなく「自殺坂」と呼びました。重い「肥たご」や水桶を提げて上がります。途中でひっくり返せば、そこまでの努力がまさしく水の泡と消えました。また「たこ足作業」とも言いました。自分の食い扶持を自分の生命を削って獲得しようとしているからです。動けない不自由者、重病者は自分で食い扶持を確保できないので、かわいそうでした。

こうした状況のなか、さらに療養者に対して松根油の採集労働が義務付けられました。松根油というのは、読んで字の通り、松の根から採る油です。島に生えている大きな松の木を切り倒して、その根を掘り起こし、海辺にまで運んできて斧で割り、その鰹節大の塊りを海辺に据え付けた大釜で長時間焚いて精製した油です。

これが戦闘機の燃料になるのだそうです。松の大木が密集した緑の島もハゲ山に変わり、松の大木を求めて他の島にも行きましたが、すでに制海権も制空権もなく、南方から運んでくるべき石油もない状況下での窮余の策でした。こんなものを飛行機に使って戦争に勝てるわけがないと、私でも思っていました。

健康人にも重労働のこの作業のために、屈強な人を、当時の言葉で言う「軍事徴用」に出すよう、施設側から要請されました。その代わりに食事をうんと出すと言うのですが、それで松寿寮で患者の中から15~16人だったと思いますが、選んで徴用労働に出てもらいました。私たち役員も応援に行きました。

愛生園にいた私たちにとって、戦争というのはこのようなことでしたが、しかしくだらんことをやったと思います。戦争には負けてよかったと思います。

愛生園入所者数がもっとも多かったのが1943年(昭和18年)で2009人(死者163名)、前年は1800人でした。1942年から1945年までの4年間の死亡者が889人(逃走が413件)、1945年は死亡者最多で332名(1478人の23%)、翌1946年の死亡者は312名です。死者のほとんどは栄養失調です。そのため戦後2年目の1947年(昭和22年)には在所者が1200人に減少しています。
 

「いつの日にか帰らん」 著者 加賀田一さん
P112~P113、P117~P119を抜粋させて頂きました。

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サトイモの煮物


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サトイモは皮をむいて乱切りし、シイタケも適当に切って鍋に入れ、水と出し汁を入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、削り節を少し入れ、煮立ったら弱火にして15分煮て出来上がり。



ナバナを使った3品


(1)ナバナのバター醬油炒め

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ナバナは茎の太い部分とその他に分け、茎の太い部分は2~3分茹で、ザルに上げて湯切りし、熱したフライパンにバターを引き、ナバナを入れて炒め、醬油で味付けして出来上がり。


  
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その他の部分は沸騰した湯で、1分ほど茹で、火を止める寸前にシシウドを入れ、冷水にとり、水気をよくしぼってボールに入れる。 


(2)ナバナとシシウドの白和え


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豆腐半丁は沸騰した湯を弱火にして2分ほど茹でてボールに入れ、タレ(醤油大さじ1+酢大さじ1+ごま油大さじ半分+トウガラシ1本の小口切り)を作り、ナバナの半分を入れてタレで和えると出来上がり。


(3)ナバナとシシウドのおひたし

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残りはポン酢で食べた。



卵豆腐


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定番です。

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よき精神看護を望む


ハンセン病は併発した病気によって瞳を侵されることが多いという悲しい現実。

入所者が入所者の看護をしなければならなかったという現実。

園が開設された当初は「開拓患者」と呼ばれ、患者が道路や設備の整備にかり出された。その状況は長く続き、きわめて安い賃金で使われた。

愛生園は、かたちこそ療養所でしたが、目的は不治の病を前提にした、病者による病者だけの「楽園」作りにあったようです。そのためには避けられない強制労働がいくつもありました。(いつの日にか帰らん P76) 
 

病気や隔離によって精神を病む人(病んだ人)も多かったようである。

神谷美恵子先生は精神科の先生で、今で言う統合失調症の人だけを対象にしておられましたので、普通の入居者で直接話したことのある人は少ないと思います。私が非常に感動したのは先生の考え方でした。私はこんな所に入ってまで、朝から晩までがなっている人が近くの監房の中にいるので「困るなあ」と思って見ていました。それを先生は「隔離されている中で隔離されている人がいる」と言われました。私はその言葉にハッと気がつきました。同じ病気なのに確かにそうだ。隔離されながら、さらに偏見をもって隔離している。偏見の中に偏見がある、ということを感じられるのが、先生の素晴らしさでした。(いつの日にか帰らん P199~P200) 
 

園長派と反園長派の、患者同士の烈しい対立もあった。先日、語り部の講演でお聞きした自治会長も、夜「鎖をもって歩いている人がいた」、怖かった、と話されていた。


日本の療養所にも大勢の在日韓国・朝鮮人ハンセン病患者がいました。わたしが全生園に入所した時分は、明確な人数はわかりませんが、数十人はいたと記憶しています。彼らはときには日本人以上に真面目に働きがんばっていましたが、所内には彼らを蔑視する空気が漂っていました。
ハンセン病という社会からもっとも過酷に差別されてきたものどうしなので、療養所で患者たちは、国籍などに関係なく助け会って生きていたのではないか、と思われる方がおられるかもしれませんが、現実はまったく違いました。(世界ハンセン紀行 P86)


「僚友」という感情で固く結ばれた関係も数多く書かれています。



よき精神看護を望む

点字愛生50号に掲載された「盲人会によせて」という楊井総婦長の一文を読んで私はひどく胸をうたれた。長い間重病棟に入室していて、暗い心の窓を閉ざしたままだんまり抵抗を続けているというAさん、味噌汁に卵が入っていないといって助手さんを困らせたというBさん、それは決して他人事ではなく、まるで私の心の中を覗き見られたような気がしたからである。Aさんのだんまり抵抗、それはいつから始まったのか、どうして生まれたのか。誰がそのようなことを教えたのか。私はAさんなるその人を知らない。しかし私の体験してきた長い療養生活30年の過去をふり返るとき、そのだんまり抵抗なるものの本質が、ほぼ分かるような気がするのである。それは口先だけの言葉や、形式的な、事務的な看護だけでは決していやすことの出来ない古く深い傷跡なのである。私は次にCさんの場合の実例をあげてこのだんまり抵抗なるものの本質を解剖し、今後みんなのために、よき看護が行われるよう要求したいと思う。

Cさんは文字通り戦前の強制収容にによって長島愛生園に入園した。もう二、三日待ってほしい、その間に妻や子供たちを親戚に預ける話をするから、と平身低頭頼みに頼んだのだが、係官はこれを許さず、おろおろと見守る妻子を後に彼は無理矢理トラックに乗せられたのであった。その後、彼が使用していた衣服や、道具類は忽ちにして火に焼かれ、家は消毒液に満たされ、それまで平和だった彼の家庭は瞬時にして地獄へと化したのであった。あくる日、近所の人々の冷たい目をのがれて妻子が鉄道に身を投じた事を知らされたのは、彼が島に来てすでに半年を経過してからであったという。Cさんのだんまり抵抗は実はこの時から始まっているのである。

私は彼の場合の話を更に続けねばならない。昭和21年の夏の頃、彼の掌に一枚の伝票が届いた。それは当時ものすごい勢いで園内に蔓延していた赤痢病棟への臨時付添6日間の繰出し伝票だったのである。彼は拒否しようとした。しかし当時の付添作業というのは患者間の最高の美徳であり、最高の義務とされていたので、作業場が忙しいということを理由にすれば、作業部長の証明書を持って来いといわれ、健康状態が悪いといえば医者の診断書を出せとつっぱなされて、彼はすごすごとこれに従わざるを得なかったのである。終戦後の混乱していた時代に瀬戸内海の小さな島のらい療養所、しかも急性伝染病の赤痢病棟がどんな悲惨な有様であったかは、想像に難くないであろう。医薬品の欠如、栄養源の不足は勿論、昼間でもうす暗い病棟からは毎日のように死亡者が運び出され、停電や断水がくり返される中では室内の掃除や給食の状態、或いは一人の患者が一日に何十回とくり返す用便の後始末など、患者の看護業務が適正であろう筈はない。彼は忽ちにして感染した。赤痢病棟における闘病生活は悲惨で苦しかったが彼は奇跡的に退室することが出来た。しかし退室後健康が快復するに従って彼の本病は騒ぎはじめた。神経痛や熱コブによって手足が侵されるのみならず彼の瞳に光が届かなくなるのに数年を要しなかったのである。後日医者が彼に対してやはり赤痢という大病を患ったことが病気を騒がせた原因になっている、と述懐したのをきいたとき、彼の心は一層かたくなとなり、だんまり抵抗は一層深くなったのであった。

強制収容によって妻子を失い、看護体制の不備によって赤痢が感染して遂に手足のみならず瞳まで犯された彼は、一体何によってその生涯を報われるというのであろうか。彼が療養所へ来たのは誰のためか。何のためか。固く暗く閉ざした心の窓、だんまり抵抗の冷たい表情はこうした歴史のしこりを深く深く内在しているのである。

Aさんの場合もBさんの場合も、このCさんとそして私と一体どこが違うのであろうか。私は思う。現在の看護体制が完全に職員の手によって行われ、医薬品も充実し設備もある程度充実している中で、今まで報われなかった古い傷跡を一体どうすれば癒すことが出来るのか。

今私が望むのは、そのよき精神看護の面である。表面的な言葉のやりとりではなく、或いは形式的な事務的な看護でもない。救らい事業という美名の陰で犠牲となった幾多の生命や心の古傷に対して人々は今こそ等しく心からの理解とねぎらいを送るべきではなかろうか。一服の薬を与えるとき一本の注射をうつとき、こうした長い歴史の中で傷つき傷ついてきた心を思いやることによって固い固いだんまり抵抗の表情は少しずつほぐれてくる事を私は信じて疑わない。それは一日や二日では駄目だ。何日も何年もかかってくり返しくり返し行うべきであろう。味噌汁の中に卵が入っていた入っていないという問題を起こしたBさんの場合も単に卵一個の問題ではない。それは看護る者とみとられる者の信頼の問題である。信頼は理屈では生まれない。通り一ぺんの説法では勿論駄目だ。不自由者看護の問題にしてもそうだ。補導員は女中ではない。最初園当局が計画した肉体的なリハビリテーション、精神的なリハビリテーションを、その侵された条件の中において少しでも実施してほしいものと思う。

十数年前、吾々の組織である全盲連が、不自由者看護切替を要求した時に夢見た理想は今、目の前に迫っているともいえる。本省や園当局がその考えをいま一歩前進させることによって、それは実現するのである。私はAさんやBさんが一日も早く病室を退室することを祈り、また今は亡きCさんの冥福を祈りながらこのペンをおきたいと思う。
(「点字愛生」第56号 1969年12月)
近藤宏一さん著作「闇を光に」より P96~P99  

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下肢静脈瘤の手術


今日は左足の下肢静脈瘤の手術だった。1週間前の右足で、手術の状況はわかっているというものの、1時間ほどの手術はやはり緊張する。水曜日の検診まで風呂も入れない。

今日は家畜のえさやりと電柵の開閉くらいで、夕飯も残り物で済ませた。

昨日、ヤーコンとキクイモの植え付けをし、明日、レタスの2回めの定植(11月10日頃に蒔いて越冬した苗)をすると3月の主な農作業は終わる。

キンリョウヘンは花蕾がのぞいてきた。あと7~10日すれば咲くだろう。高温障害に注意し、水やり(ぬるま湯)の回数を3日に1回ほどに増やす。

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入園番号


四四三四ーこれが私の入園番号

骨張っていて

少し不安定に傾いていて

なんとなく泣きべそをかいているその文字づら



治療室のカルテに

年金袋に

選挙のときの入場券に

それはいつでも私の名前と同じ重さで登場し

里帰りの順番が来ると

帰省願書にもその通りに書いてから捺印する

四四三四

四四三四

はじめの頃は他人行儀でよそよそしいだけの

数字であったのに

使われやすくて簡単で

トレードマークのような気軽さと

改名のような親しさと

それでいてなんとなく抵抗を感じさせながら

それはもう三十年も私のなかに住みついてきた一つの抽象

さきにもない

あとにもない

ただひとつだけの私の顔

ー道を行くとき もしもそれが地面に落ちていたら

私はいきなり拾い上げて泥だらけのままポケットにしまいこむだろう

ぶつぶつつぶやきながら しかしごく自然に



やがて私が息をひきとるとき

人事係の帳簿に赤い線が引かれ

それは私とともに再び帰らぬ歴史となる

一から始まったおびただしい数字の行列が

次第に消されていったように

四四三四もまた永遠に空番号となる


(「愛生」1974年3月号)
近藤宏一さん著作「闇を光に」より

なお、「いつの日にか帰らん」の加賀田一さんの入園番号は1507番で、最後の入所者は1970年代に入った方だったと思いますが、高知から来た人で6908番でした。つまり開所以来の愛生園入所者は6908人ということになります。(P74)

加賀田一さん 1917年生まれ 1936年愛生園入所(19歳)

近藤宏一さん 1926年生まれ 1938年愛生園入所(11歳)

加賀田さんと近藤さんの入所は2年しか違わないが入園番号は2927の開きがある。つまり加賀田さんと近藤さんの間に2927人が入所していることになる。
 
この2年間はなぜこんなに入所者が増えているのだろうか。いわゆる「無らい県運動」などで強制入所させられた方が多いのだろう。この2年間に愛生園入所者の半数近く(42%)が入所されている。
 
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タジン鍋


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春キャベツを下敷きにして、シイタケを置き、ベーコン1連を置き、フキノトウを置き、胡椒で味付けし、弱火で15分、火を消して余熱5分で出来上がり。

フキノトウは変色したが、ほろ苦みがあって春の香りがする。



ポン酢作り

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醬油70cc+酢50cc+ミリン30cc+レモン果汁25cc+出し汁25cc=200cc(1カップ)のポン酢の出来上がり。



ネギ卵

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ネギはざく切りし、出し汁と水を少し入れ、醬油とミリンで味付けし、煮立ったら弱火にして4~5分煮て、溶き卵2個を入れ、3~4分煮て出来上がり。

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鼠退治


「闇を光に」のP174~P175 「鼠退治」


終戦間もない頃、私はI君、A君と共に精米所で作業をしていたが、一粒の米麦が宝石のように尊ばれる時節でもあり、少しでも無駄をはぶく意味から、ある日作業場に巣食っている鼠どもを退治することになった。鼠の巣は作業場の片隅に古くから積み上げている叺(かます)の中であるが、親方のBさんが推定するところによると、少なくとも二~三十匹はいるだろうという。血気にはやる私たちはこれを一挙にせん滅し、鼠一族を絶滅しようとその作戦をたてた。まず敵の陣地には手をふれず、そのあたりにおいてある機械や道具類、麦俵などを外へ運び出して、我々の行動範囲を少しでも広くすることに努めた。次に敵を一匹でも逃してはならぬというので適当な場所に精麦を入れる箱などを並べて万里の長城を築いた。準備万端、ところで私たち三人、親方の命令一下、手に手にデッキブラシやこん棒を握りしめておもむろに敵陣を包囲。さすが胸がおどった。背の高いI君が深呼吸を一番、さっと一枚の叺(かます)をはね上げた。しかし敵の気配は全くない。おかしいぞと思う間もなくI君の手が次の叺(かます)にふれたかと思うと黒いかたまりがぱっと空にとんで出た。瞬間「えい!」と耳をつんざく気合いをかけた。A君の一撃は見事にこれを叩き落としていた。まぐれ当たりとはいいながら、その武者ぶりは正に宮本武蔵なみであった。この物音におどろいたのか壁ぎわの隙間から数匹のネズ公がとび出してきた。「それっ」とばかり私たちは一せいに打って出た。戦闘開始だ。チュウチュウと可憐な悲鳴をあげてすばしこく逃げまどう奴をめがけて叩く。突く、けとばす、踏みつぶす。もうこうなれば無慈悲もなにもあったものではない。それにすきをみてはI君が敵陣を取り崩していくので狭い場所に敵の数がふえるばかり。「それ、ここだ、あそこだ、右だ、左だ」とけん命に声援する親方の声も耳に入らない、手当り次第、めったやたらとこん棒をふり下すだけ。足許には敵の死がいが転がり、草履はぬげ、眼鏡はふっとび、それはまさに修羅の巷であった。数時間後、いやほんの数分だったかも知れない。戦いを終えて私たち、戦果の数をかぞえてみた。全部で二十七匹であった。
 
翌る日私たちは、その鼠は園長先生の命令で重病棟の病友の二号食になったことを知った。鼠を食わせる園長・・・。病人に・・・。しかし私たち三人はおどろかなかった。

毎日のように栄養失調で倒れてゆく病友のことを考えあわせたからではない。実は五、六日前、私たち三人はひそかにネズ公を食べていたのである。いや食べずにはおれなかったのである。だから光田園長に食糧対策の不備を追求するのならともかく、「病人に鼠を食わすとは何事だ」という非難の声があるとしても、私はちょっとそれは的が外れているのではないかと思っている。八十数年の生涯のうち、やはり光田園長はこのことが一番苦しかったにちがいない・・・。
(「点字愛生」第34号 1964年8月) 
「闇を光に」の著者 近藤宏一さん

この短文がとてもおもしろかった。近藤さんはすでに眼が見えず、しかも20年ほど前の記憶を、前日のことのように書かれている。「それ、ここだ、あそこだ、右だ、左だ」とけん命に声援する親方の声も耳に入らない・・・等がとてもおもしろかった。眼が見えなくなっているのに悲壮感は感じられない。書き写しながら、これほどの短文を書くにはかなりの読書量が必要と思った。そして、読んだときより、書き写していると、もっとおもしろいことがわかった。

鼠を食べるのは第二次世界大戦の戦地(外地)ではよくあったと聞く。ただ、鼠の食べれる箇所はごく少ないだろう。同じ長島にある邑久光明園では「猫を喰った話」というチェミョンイルさんの著作もあるし、それほど驚かなかった。それくらい「ひもじかった」のだと思う。

ただ、「鼠退治」の最後の2行に書かれている「想像」は、果たしてそうだろうか・・・。


「いつの日にか帰らん(著者 加賀田一さん)」のP193には次のように書かれている。
 『光田園長は退官の翌年、長島を訪ねて来られ、「自治会の執行委員にお会いして謝罪したい」と申し入れて来られました。そこで八名が面会室で会い、私もその末席にいましたが、光田前園長は「私は在任中、二つの罪を犯した。一つは遺体解剖で、遺族の合意もなく行った。二つ目は断種、妊娠中絶、堕胎を行ったことで、これは1940年の国民優生法の成立以前は違法だった。この二つの罪を謝罪しなければ、長島を去ることはできない」と言われて謝罪されました。

この光田園長の謝罪発言を聞いたのは僅かな人たちだけです。その後、伝聞として聞いた人はある程度いると思いますが、この謝罪の弁が多くの人たちが聞くことのできる公開の場でなされていたなら、強制収容によって家族の断絶や崩壊といった被害に遭われた方や中絶、堕胎をされた方の気持ちも、その万分の一でも癒されたのではないかと思われます』 
 
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ダイズの煮豆


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玄米3合を洗って無水鍋に入れ、水を4カップ半入れて一晩おき、同じく一晩ひたしたダイズを入れ、煮立ったら弱火にして45分、火を消して余熱30分で出来上がり。

6つほどに小分けし、ラップに包み、冷凍庫に入れた。



出し汁作り

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干しシイタケ、イリコ、昆布は一晩ひたし、中火で点火し、煮立ったら弱火にして昆布は取り出し、削り節を入れ、5分ほど煮て、出し殻はすべて取り出し、再沸騰させてアクをとり、冷めたら瓶に入れ、冷蔵庫で保存する。



ダイズの煮豆

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残りのダイズは戻し水ごと圧力鍋に入れ、ニンジンとヤーコンをダイズと同じくらいにサイコロ切りし、出し殻も小さく切って入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、ゴマ油を数滴入れ、出し汁を入れて水の量を調整し、おもりが回り始めたら弱火にして20分、火を消してそのまま放置して出来上がり。 

   
    

カレー
    
   
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昨日の豚汁はルーを3個入れて20分ほど弱火で煮込み、カレーにした。

カレーを目的にすると多々「作り過ぎ」になるが、リメイクしてカレーにすると残ることはなく、しかもその方がおいしいカレーになる。



ナバナとシシウド(山ウド)のおひたし


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昨日と同じおひたしにした。

ナバナの茎の太い部分とその他の部分は時間差で茹で、火を消す5秒前にざく切りしたシシウドを入れ、冷水にって水気をよくしぼり、今日はポン酢で食べた。

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近藤宏一さん著作「闇を光に」


盲目10年

見えないという不思議

見えるという不思議

これは

まこと神様の傑作・・・



盲目の譜

人間の

ものを見るという不思議

見えないという不思議

これこそ

神の傑作・・・

というべきでありましょう




『ハーモニカの歌』まえがき

私は「眼聴耳視」という言葉をラジオで学びました。眼で聴き、耳で視る、というこの不思議な言葉は、ある経文の一句であって、あらゆる事柄の本質を見透す心の姿勢をといているというのであります。失明25年、音をたよりに生きてきた私にとって、この耳で視る、という一語は、日常的な実感でありましたので、思わず共鳴し膝を打ちました。特に失明とともに私たちが持っている手足の後遺症には、ハンセン氏病特有の知覚麻痺がともなっておりますので、その不自由度は意外に高いのでありますが、これほどの病気がなぜか、耳と脳とをおかさなかったということから、聴く、味わう、考える、記憶するなどの働きが、本来の人間性を失わず、その能力を発揮しうる最良の機能であることを、青い鳥楽団という具体的な音楽活動を通して教えられてきたのであります。それはまた好きという一点だけで結束した一部晴眼者を含む十数名の重障失明患者が、それもかなり衝動的本能的に、あるいは長期療養生活のなかの閉ざされた時間と孤独からの逃避であったかもしれないといたしましても、音楽という花を咲かせるためにあえて困難に立ち向い、励まし合い、多くの善意に支えられながら、ひとつの可能性を発見したという貴重な体験でもあります。

発見した可能性・・・それは為せば為る、という確信であり、生きることの喜びであります。すべてを奪いとろうとしたはずの病気が、実は一方で生甲斐への道をひらいていたという、それは一編のドラマにも似ていると私には思えてなりません。この意味で「青い鳥」の音楽はその技術ではなく、そこにこめられている感動の純度こそ問われるべきものではないかと反省するのであります。
 
明治三十年の調査によれば、その頃のわが国におけるハンセン氏病患者総数は三万を超えていたそうですがありますが、現在(1979年)では全国十六か所の療養所に約八千、しかもそのうち八割までが菌陰性者であり、我が国のハンセン氏病行政はすでに終末期に入っているという人さえおります。こうした大きな時代の流れの片隅で、眼で聴き、耳で見つめながら、ひたすらに生き抜こうとした一群の足あとを少しでも後世に伝えたいと思いたち、私はここに貧しさを省みず、稿を起してみようと思うのであります。


近藤宏一さんの著作「闇を光に」から、P61、P90~P92を抜粋させて頂きました。
 
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豚汁

 
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慣れると豚汁はとても簡単である。豚肉100gは昼から解凍しておいた。

鍋に、シイタケ、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、ダイコン、キクイモを乱切りして入れ、水と出し汁でひたひたにし、煮立ったら弱火にして味噌半分と酒を入れて5分ほど煮て、湯通しした豚肉を入れ、残りの味噌半分を入れ、大さじ1の醬油を入れ、さらに5分ほど煮て、味をみて、ごま油を数滴入れ、ネギを入れ、2~3分煮て出来上がり。

いつもの「プロの味!の豚汁」を参考にした。
 


シイタケの煮物

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シイタケを適当に切り、ニンジンは千切りして入れ、水と出し汁を少し入れ、醬油、砂糖、酒、みりんで味付けし、煮立ったら弱火にして、ことこと20分ほど煮て出来上がり。



ナバナの茎のバター醬油炒め

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ナバナの茎の太い部分は2~3分湯通ししてザルに上げ、よく水切りをする。熱したフライパンにバターをひき、ナバナを炒め、醬油で味付けして出来上がり。
 
ナバナの茎の太い部分はアスパラと同じように使える。「アスパラのバター醬油炒め」を参考にした。



ナバナとシシウド(山ウド)のおひたし

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フキノトウとシシウドを収穫した。

ナバナの茎の太い部分をのぞいた茎葉はさっと湯通しし、5秒ほど前にシシウドを入れて冷水にとり、水気をよくしぼる。花かつおをふって食べた。シシウドの風味がいい。

フキノトウは朝の味噌汁に使う。

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点字


ここに僕らの言葉が秘められている

ここに僕らの世界が待っている

舌先と唇に残ったわずかな知覚

それは僕の唯一の眼だ

その眼に映しだされた陰影の何と冷たいことか



読めるだろうか

星がひとつ、それはア

星が縦にふたつ、 それはイ

横に並んでそれはウ

紙面に浮かびでた星と星の微妙な組み合わせ



読めるだろうか

読まねばならない

点字書を開き唇にそっとふれる姿をいつ

予想したであろうか・・・



ためらいとむさぼる心が渦をまき

体の中で激しい音を立てもだえる

点と点が結びついて線となり

線と線は面となり文字を浮かびだす



唇に血がにじみでる

舌先がしびれうずいてくる

試練とはこれかー

かなしみとはこれかー

だがためらいと感傷とは今こそ許されはしない

この文字、この言葉

この中に、はてしない可能性が大きく手を広げ

新しい僕らの明日を約束しているのだ

涙は

そこでこそぬぐわれるであろう



「闇を光に」 著者 近藤宏一さん
1938年 11歳で長島愛生園入所
2009年 83歳で没する

2007年 英国救らいミッションがハンセン病問題の啓発に貢献した人物に贈るウェルズリー・ベイリー賞を受賞
 
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ヤーコンの甘酢漬け


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先に甘酢漬けの漬け汁を作っておく。出し汁180cc+酢120cc+砂糖50g=300ccにトウガラシ1本の小口切り、ニンニク醬油大さじ1、ショウガ1片のすりおろしを入れて火にかけ、砂糖を溶かして冷ます。

ヤーコンは皮をむき、7ミリほどにスライスしてすぐ水に浸す(アクが多いから)。沸騰した湯に水切りしたヤーコンを入れ2分ほど茹でて冷水にとり、瓶に入れ、上から甘酢を注ぐと出来上がり。



サツマイモのユズ煮

 
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サツマイモ700gほどを乱切りして無水鍋に入れ、水を大さじ2、蜂蜜大さじ2、ユズ果汁大さじ2を入れて混ぜ、煮立ったら弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。




ダイコンのユズ漬け


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今季最後の漬物である。気温が上がるとカビが生じやすい。だからいつもの半分(1キロ)だけ漬けた。

ダイコンの皮をむいて縦割りし、砂糖200g、塩50g、酢50cc、ユズの果汁と皮を入れ、重石をする。明日には水が上がり(確認する)、6日間漬けると出来上がり。





ニンジンとヤーコンのキンピラ

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ニンジンは千切りして軟らかくなるまで湯通しする。フライパンにごま油を入れ、軟らかくなったニンジンの水気を切って入れ、千切りしたヤーコンと一緒に炒め、醬油、酒、みりんで味付けして出来上がり。




パスタ


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具材は、ニンニク2片、トウガラシ1本の小口切り、ウインナー3個の小口切り、タマネギのスライス、湯通しして冷水にとり細かく切ったナバナを用意する。

沸騰した鍋に塩を一つまみ入れ、パスタを8分茹でる。その間に具材を炒め、醬油、胡椒、ケチャップで味付けし、パスタが茹で上がるのを待つ。パスタの水気を切ってフライパンに入れ、1分ほど炒めて具材になじむと出来上がり。





卵豆腐
    
   
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定番です。

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解剖のし放題


愛生園では誰の了解もなしに遺体を解剖していました。ハンセン病そのもので死ぬ人はまずいません。併発した病気で亡くなります。主治医としては患部がどのようになって死んだのかをどうしても検証したいわけです。医者としては珍しいほど魅力があるのでしょう。

変わった症状がたくさんあって、標本にもしています。ハンセン病だけでなく、身体病変を知るためにたいへん勉強になったようです。医師としても知見を増やすためには解剖が一番いいそうです。徳永進先生も、「私もずいぶん解剖はしたからな。初めはびくびくして解剖してたけれど、しまいには子供がカエルの解剖をするのと同じで、何も感じなくなる」と言っていました。

片っ端からやっているので、私は事務所の方に「解剖には遺族の同意が必要と聞いてますが、誰かの了解をとっているのですか。法律違反ではないのですか」と質したら、「国費で治療しているからいいんだ」という答えが返ってきました。

研究材料になることを承知して大学病院等に無料入院する施療室とか施療患者という制度が当時はありました。国立療養所だから国がすべての面倒を見ているということで、この施療患者の扱いだったのかもしれません。死亡者の全員を解剖の対象にしていたようです。まさに治外法権のなかの違法行為でした。


ホルマリン漬け

解剖室から医者が肝臓か腎臓のような血だらけの臓器を下げて、本人も血だらけで試験室に帰る姿を何べんか見ました。それをホルマリンのビンに入れて標本にするのです。試験室には病巣の標本、結核の肺や、腎臓や肝臓のホルマリン漬がいっぱいありました。後の検証委員会で問題になった胎児もたくさんありました。

堕胎された胎児をどういう目的でホルマリン漬にしたのかはわかりません。ずらりと並んだ胎児のなかには大きな体になっているものもありました。不良な子孫をなくそうという民族浄化思想が元にはあったのでしょう。

私たち入所者が「一時帰省」を申請すると、光田園長じきじきの最終面接がありました。その面接が園長室の隣の実験室で行われたので、ホルマリン漬胎児の異様な光景を見た入所者はたくさんいたことでしょう。一度見たら忘れられません。1996年(平成8年)、現在の本館に建てかえるまでは、私だけではなくたくさんの人が見ています。 
 

患者の死に方

愛生園では死は軽いものでした。戦争中、私が当直した日、寝ている姿そのまま、栄養失調で弱って死んでしまった人がありました。朝、起き出さないので、布団の中を見るとすでに息絶えていました。まだ30代の壮年期でした。患者が脈を取ったわけでもない。看護婦も医者も脈を取ったわけでもない。脈も調べないうちに死んでしまった。こういう姿を私は見てきました。

戦争末期の昭和19年や20年頃は、労働もきつく食料も不足していたのでもっともたくさんの死者が出ました。当時私は患者事務所の松寿療の役員をしていましたから、事務所に出ていて、入所者が亡くなったという連絡を受けると、そこへ行くのが仕事のひとつでした。故人の持ち物を勝手に持っていかれては困りますから、それらをきちんと記録し、慰安金を納めるというようなことをしていました。

多い時は、1日に4回、立ち会いに行ったことがあります。4人の死者が出たということです。「今朝、起きて『洗面だよ』と布団をめくったら死んでおった。それで看護婦に連絡して、それから医者に連絡してきた」という連絡を受けたこともありました。終戦の年には332人が死んでいます。実に入所者の23%です。これでは最後まで残ってもあと4年だなあと思ったものです。


結婚=断種 入籍ー個室

家内も歳をとり、86才になりました。声だけは元気ですが、体の方は少し弱ってきています。愛生園で会って結婚し、それからはずっといっしょに住んできました。子供はできませんでしたが、68年もいっしょに生活できたのは幸せなことです。

結婚した当時、世の中は国家総動員法が布かれ戦時体制でした。徴兵も軍需動員も私たちにはなかったのですが、いつ病気が再発するかわからず、園のなかで過ごすことを決意しました。それが家内との結婚につながったのです。

いまだに解明されない謎ですが、ハンセン病患者は男性が多く女性のおよそ2倍です。不治とされていたため、いったん入所したらここでお互いに助け合い励まし合って一生を過ごさせるというのが療養所の方針でした。園内で安らかな生活を送ってもらうためという理由で、外での既婚者にも所内結婚を認めていました。ただし未入籍結婚の場合は男の通い婚であることは先述しましたが、その場合も断種を受けなければ認められませんでした。女性の閉経した人まで行われていました。

私も悩み抜いた結果、断種手術を受けました。そのときは本当に情けなく、もう人間失格というか、男子ではなくなったような死んだような気持ちになったものでした。

私と同時期に結婚した4組のうち、私たち以外の3組は金をもっている人で、初めから4畳半の私室でした。私もお金があれば四畳半に入りたかったのですが、ありませんでしたので6畳での2組が新婚生活の始まりでした。こればかりは残念でしたが、家内にも「我慢してくれ」と頼み、とうとう6畳で3年間過ごしました。

6畳に2組の生活というのは、布団を敷くとそれだけでいっぱいです。今の人たちには想像もつかないでしょう。後に真ん中に衝立ができましたが、その頃はありませんでした。ですから、今日は私たち夫婦が友達のところに行って夜は空けておくと、あくる日の夜はもう片方がいなくなるという形で、互いに気遣って生活をしていました。
 
しかし内縁関係の人たちはもっとひどい状態でした。12畳半に女性が6人、そこへ通い婚で泊りにだけ行くのですから。それから考えると、結婚して順番がくれば、とにかく個室がもてたわけです。ただしその順番とは、夫婦者の一人が亡くなって独り者になると回ってくるわけですから、考えればひどいものでした。
「いつの日にか帰らん」P104~P110著者加賀田一さん



小鹿島の断種台

韓国訪問で一番の目的は小鹿島ー韓国・南西部の全羅南道にある小島に行くことでした。光州市から車で3時間、鹿洞という港町から船に乗ります。ほんの600メートル先が小鹿島です。ここに日本統治時代に設立されたハンセン病療養所「国立小鹿島病院」があるのです。

小鹿島は周囲30キロ程度の小さな島。島全体が療養所です。といっても日本のような病棟には、不自由者が入るのみで、軽症者は島の6地区にレンガの家を建て、そこで生活を営んでいます。国の援助が乏しく、養豚、養鶏業などの事業で生活を支えています。戦争中、最高時入所者は8000人を数えていたそうですが、今は200人ほどだそうです。

近年、植民地時代の小鹿島の実態についての研究が進み、日本の療養所以上に残虐な行為が行われていたことが明らかとなっています。また、入所者117人が2003年から2004年にかけて、日本政府にハンセン病補償法による補償を求めましたが、国はこれを却下、03年8月、その処分の取り消しを求めて東京地裁に行政訴訟を起こしています。(2005年8月現在継続中)。

今回の訪問ではスケジュールの関係で十分時間をとることが出来ませんでしたが、短い間でも、日本統治下での過酷な療養所の実態をかいま見ることができました。

ここでは患者が逃走すると、懲罰として断種が行われていたというのです。日本でも断種は広く行われており、私も強制手術されましたが、それは結婚時に限られていました。ところが小鹿島では懲罰の一つだったのです。当時の断種台が残されていました。手足を縛りつけ抵抗できないような拷問台のようでした。また、レンガ造りの監禁室や、これまた懲罰のために使用していたという「焼きごて」も目にしました。やはり、逃走者や施設の運営に反抗的な入所者に対する懲罰として、焼き印を押していたのです。

これら日本による残虐な歴史の「証人」を前に、ことばもありませんでした。小鹿島で開いていただいた歓迎会では、日本の植民地支配に対して、一人の日本人として謝罪しましたが、この島で何を言ってもすべてが軽いように思えてなりませんでした。入所者たちは「これから未来に向けて力を合わせていきましょう」といったことばをかけられました。日本政府が小鹿島入所者の損害賠償請求でとっている態度を思うと、今思い返してもいたたまれない気持ちです。彼らの日本政府に対する損害賠償請求のたたかいを支援していきたいと思っています。
世界ハンセン病紀行(P91~P94) 著者 多摩全生園の平沢保治さん

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肉ジャガ

 
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牛肉100gは湯通ししておく。ハクサイが終わったので「すき焼き」は作らず、肉ジャガに全部使った。具材のタマネギをスライスし、、ジャガイモ、ニンジン、キクイモは乱切りしておく。

熱した無水鍋に大さじ1の油を入れて具材を炒め、全体に油がまわったら火を止め、大さじ2の水を入れ、醬油、砂糖で味付けし、その上に牛肉を置き(これらは混ぜない)、点火して弱火で20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、バター大さじ1を入れて混ぜると出来上がり。

我が家の無水肉じゃが」を参考にした。



ナバナの辛子和え

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ナバナはざく切りし、茎の太い部分を先に入れ、時間差で葉の方を入れ、1分ほど茹でて冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。

お椀に出し汁大さじ2、醬油大さじ2を入れ、チューブの辛子4㎝ほどをいれて溶かし、ナバナと和えると出来上がり。
5分でできる!絶品菜の花の辛子和え」を参考にした。



揚げ出し豆腐 
   
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熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、木綿豆腐を半分に切り片栗粉をまぶしてのせ、蓋をして弱火で5分、裏返して3分焼き、ネギを散らし、タレ(出し汁大さじ4、醬油大さじ2、みりん大さじ1)をかけ、3分ほどしてネギがしんなりしたら出来上がり。

簡単すぎ?フライパン一つの揚げ出し豆腐」を参考にした。

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夕映え讃歌


この随筆は石田雅男さん(77歳)が40歳の頃の作品です。当時、入所者が生き甲斐を見つけれるように、絵画や文学や陶芸がさかんに奨励されたようです。

この随筆が好きで、ブログを訪問してくださる人に、読んでもらいたいと思いました。臨場感が胸に迫ります。


夕映え讃歌

 茜の空が海を染め、その燃え立つ色が紅葉した山林に点火しそうな晩秋の夕映えによく出会い、そして燃えに燃えている光景に大きな感動を覚えて眺め入った。
 過ぎ行く秋の日暮れの早さ、一日の短い時の流れ、それを惜しむような哀愁を示唆するように、限りない赤さで燃えているのではないだろうかー少女のような感傷を抱いて眺めたり、あるいは短い一日であればこそ、悔いなく過ごそうとしている謳歌の輝きなのかーとも思えて眺めることもある。そうした夕映えを私一人で受け止めているような気分の中で、遠いある日を思い出すのである。

 それは、軽症だった私が突然、らい性神経症に襲われ、初めておのれが病者であることの惧れを自覚し、らい患者であればだれもが等しく心に刻む暗い翳りを自らの心に刻み込んだ頃のことである。
 三か月ほどの病床生活から解放された時、私の両足は下垂し、歩行困難な重症患者となっていた。それは今の今まで想像だにしなかった。自ら背負う病の重さ、らい者であることへの疼く痛みであった。そして、当然のことのようにーこんな人間の生きる価値が何処に、生きてゆく日々の”はり”が何処にー。
 私の幾日もの時間は暗闇の中での手さぐり状態となって、それらしい生きてゆける目標を見出そうと努めた。だが、療養所に身を置く者でありながら、病者である「自分」を見つめることに全く盲目であった私には、何も見えるものはなく、ずるずると暗い底なしの闇をさ迷うほかはなかった。
 そんなある日、私は衝動的に長島の東海岸の岬にそそり立つ「楯岩」に登りたい心にかられたのである。
 「楯岩」はその名前のように武具の「楯」の格好で海から十数メートルの高さで聳え、その昔、風流を愛した万葉の歌人たちが歌に詠み、また源平合戦のさなか、南下する平家の武者も、それを追う源氏の武者もそれぞれの思いを胸にこの「楯岩」を眺めてすぎた、と聞く。
 見上げれば高所恐怖症の私が相手にできるシロモノではなかったが、私の心の何処かで本能的に湧き出る「死」への期待が高所恐怖症をも忘れさせ、ある種の勇気を与えたのだろう。ともあれ私は楯岩の荒々しい肌に頬ずりするような恰好で登っていった。
 高い所に登るには下を振り返ってはならない。子供の頃に聞かされた言葉が脳裏をかすめた。いくら「死」を覚悟し、期待すらしているとはいえ、私は無意識にそれを厳守していた。そして、どれほどの時間が経ったであろうか、かなりの所まで登っていることを意識した時、ある岩角に手を掛け力を入れて瞬間、その岩角は思いもよらない脆さで崩れた。それでも私が崩れた岩角と共に落下しなかったのは、不自由な足ゆえに動作が緩慢で、完全に離れ切っていなかったからである。
 一瞬、ギクッ!となったもののやがて落ち着きを取り戻し、用心深く岩角を確認して登らねばと自分に言い聞かせたが、結局は一歩もその場から動けなくなってしまった。何故なら、私が手を掛けた周囲の岩角は驚くほどの脆さで崩れたからである。
 これも駄目だ、これも・・・と焦り、手当り次第、岩角に手が動いた。しかし、すべての岩角はまるで私を見捨てたようにポロポロと崩れた。その落下する音が私を嘲笑するように響き、焦燥感と恐怖が胸に広がってゆくのを覚えながら、私は見てはならない下を振り返ってしまったのである。眼下は鋭い角を海から突き出した岩、それに呼応する白い波の牙が、今に落ちてくるであろう獲物を待ち受けているように映った。私は完全にその光景に飲まれてしまい、もはや登る気力も引き返す勇気も失せて金縛りに遭ってしまったのである。
 壁にへばりつく一匹の蛙のようになってからどれほどの時間が過ぎたであろうか。私がふんばっている足もとの岩角が突然動いたように思えた。だが、それは私の恐怖からくる錯覚だろうと思いつつも、全神経が足に集中すればするほど、足の小振るいがひどくなって止まらない。しかし、足元の岩を確認しなければならない。私はあるかなしかの勇気を出し、祈る思いでそれを見た。
 するとどうだろう、小振るいしているのは足ばかりでなく、現実に岩角は足の小振るいに合わせてまるで抜けかけた歯のように動いているではないか。肌が硬直し、血の気が岩肌に吸いとられてゆく恐怖に襲われ、続いて今度は「死」の直前にする清めのように全身に汗が噴き出した。流れる汗が「生」の終わりを私に意識させた時、涙がとめどもなく流れ出た。何の涙なのか「死」を期待すらして登ってきたはずなのに・・・。過去の思い出が走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かんだ。どれもこれも後悔に満ちた心残りするものばかりであった。
 健康な時から無意識のうちに見栄と外聞のために神経を労し、八方美人的な行動をしていた自分であった。それは生き方として好かれる一面はあるが、それでは自分らしさは何処にあるのか、自分は死んでいたようなものではなかったのか・・・。
 今までの生きかたが滑稽なほど哀れに思えてならなかった。私が流した涙はぬぐいきれない後悔の涙であった。こんな後悔を背負って死んでゆくのか、そう思うとたまらないほど、もう一度生きたいーという「生」への未練でいっぱいになった。
 これからの人生で後悔を少しでも埋めてゆけないか、そのための努力を払いたい。
 私は何時の間にか必死に命乞いをしていた。そして、この場をなんとかしなければ、と焦った。
 ここまで登ってきたのであれば、下りることもできる。自信を持とうと努めたものの死を恐れなかった登りに比べると、それは大変な相違であった。しかし、幸いなことに登りに労した時間の何倍もの時間を要しながら、私は無事に岩の下に戻ることができたのである。
 疲労が波のように押し寄せるなかで、見上げる楯岩は真っ赤な夕映えの中にあった。西空の雲を焼くような情熱的な夕陽と向かい合っていると、何時の間にか清々しい気分となって今までの疲労も恐怖も消えてゆくのを覚えた。
 あれから16年の歳月が流れた。
 思えば今日までに、私は随分と生き方が変わったように思う。少なくとも他人に繕う見栄とその虚像が消え、自分を縛ることもなく、正直にありのままの言動で日々を過ごしているように思える。それは反面、他人には好かれないかもしれない、だけど私は今の生き方が好きであり、過去の自分に比べて救われていると思っている。
 あの楯岩に登った日から私は「自分」をこよなく愛し、少しでも悔いのない生き方をと努める日々である。
 今年も、そして来年も、いつも私は夕映えの中で自分を映し、自分の心を燃やしながら、あの日のことを忘れず茜空を賛美しようと思う。

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レンコン(ヤーコン)のお焼き風


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ヤーコンはすりおろし、汁はコップに移し、ネギのみじん切り、溶き卵1個、花かつお1袋を入れ、薄力粉で固さを調整しながら混ぜ、熱したフライパンに大さじ1の油を入れ、弱火で蓋をして7分、裏返して5分焼いて出来上がり。

裏返す時に失敗して、ぐちゃぐちゃになったが、簡単でおいしい。ポン酢で食べる。

ヤーコンはレンコンの、キクイモはゴボウのレシピがそのまま使える。「野菜はともだち」に出ていた「レンコンのお焼き風」を、ヤーコンに置き換えて作った。

ヤーコンはダイコンより簡単にすりおろせて、汁気もダイコンより多い。ヤーコンの汁はとても甘い。



キャベツのレモン醬油和え


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キャベツは細切りして1分ほど茹でて冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。ワカメは20分ほど水で戻し、ざく切りしてさっと湯通しして冷水にとり、水気をしぼりながらボールに入れる。
お椀に醬油、レモン果汁、出し汁を各大さじ2入れ、砂糖を少し入れて混ぜ、小魚を浸し、ボールに入れて和えると出来上がり。



ゆで卵 
 
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驚いたコメント


ものすごくうれしいコメントでした。「癩者」という詩を書かれた志樹逸馬さんのお姉さんのお孫さんとは!

これもネットのおかげです。ネットがなければ、こういう出会いは100%ありえないです。

逸馬さんは1959年(昭和34年)に42才で亡くなられていますが、「プロミン」という特効薬は効かなかったのでしょうか。1946年(昭和21年)から使われ始め、これでピタッと菌がなくなって、非常によく効いたらしいのですが、中にはプロミンが効かなかった人もおられたようで、逸馬さんにはあまり効果がなかったのかも知れません。年代的にプロミン治療はされていると思いますから。 
 
らい病は今では、「水虫より早く治る」らしいです。そして毎年数名の新たな患者もあるようですが、通院治療で後遺症も残らないようです。

しばしば書かせてもらっている「いつの日にか帰らん」の著者である加賀田一さんも1917年(大正6年)生まれで、なんと志樹逸馬さんと同い年であり、加賀田さんはプロミンの投薬過剰で一時瀕死状態になりましたが、奇跡的に回復され、「いつの日にか帰らん」初版第一刷を出されたのは2010年の93才でした。今年は2014年ですから4年前です。私はまだ加賀田さんがご健在でおられるかどうかも知らないのです。

入所者が2千人ほどおられて、4人に1人が亡くなった1944年~1945年をお二人とも、よくぞ生き抜かれたと思います。想像ですが、お二人は顔見知りだったかもしれません。


島村静雨という人が書いた「志樹逸馬その人と詩」というあとがきで、彼は1917年(大正6年)東北の地で、教育家を父として生まれ、1930年(昭和5年)9月にハンセン病と診断され、間もなく東京の多摩全生園に入院した。
まだ可愛いかった少年の彼が、入院間もないころ、絣の着物を着て父母や家郷を恋い、治療棟の前で泣いていた姿を鮮明に記憶している。そして人々に「坊ちゃん、坊ちゃん」と可愛いがられた、と病養歴の古い知人が話してくれたことがある。
その後、1933年(昭和8年)8月、長島愛生園に転園し、養鶏部につとめ飼料の野菜作りなど、土に親しみ、後に養鶏部の主任となる。
この頃から文学に関心を持ち、詩は1935年(昭和10年)頃から書いていたようである。
わたしが、彼に初めて会ったのは、まだ第二次大戦中のことで、愛生園に私が入園間もない頃、傷痍軍人の友で養鶏部で働いていたT君の結婚式の時であった。志樹さんは既に結婚していて、細君と共にその挙式の諸々の世話をしていた。そのもの静かで紳士的な態度は初対面のわたしに好感のもてる人柄であることをすぐ感じさせた。

彼が亡くなる一、二年前であったが、彼を訪問すると、志樹さんはそれ迄の自分の全作品とも云うべき、童謡集、詩作品、詩集、詩作ノート、感想文等々数十冊にも及ぶ大学ノートを丹念に整理して本棚にならべているのを見、彼らしいと感動させられたものである。
(あとがきを一部抜粋させて頂きました)


8年ほど前に、長島に逸馬さんの遺骨を取りに来られたのですね。

私は「癩者」という詩を始めて読んだとき、戦慄を覚えました。地中からマグマが噴き出すような感覚です。今後も何十回と、この詩を紹介させて頂くと思います。


愛生園の入所者は毎年数十人亡くなり、1月7日現在で249人。平均年齢は83才で、今後、差別や人権侵害の苦しみを語ることのできる入所者はいなくなる。このような負の歴史にふたをされ、消されたくない、と僕らは焦っている。(長島愛生園自治会長 中尾伸治さん 79才)

邑久光明園では1月1日現在で146人。平均年齢は84才で、本名を名乗ることが出来ているのは半分に満たない。子供はおらずとも、兄弟姉妹の子供ら、親族の結婚をいまだに気遣っているからだ。(邑久光明園自治会長 屋猛司さん 72才)

いずれも朝日新聞1月24日付けであるが、屋猛司さんの年齢が若いことに驚かされた。


3月16日(日曜日)の新聞で、『ハンセン病元患者の詩人「塔和子さん」が本名で故郷へ70年ぶり』と、生家跡のある美しい海岸風景とともに大きく掲載されていた。
 塔さんは愛媛県西予市明浜町田之浜に生まれた。9人きょうだいの上から3番目。13歳で病気がわかり、瀬戸内海・大島(高松市)にある国立療養所大島青松園に隔離された。
入園当初、姓はそのままで、名を「和子」と変えた。作品を発表するにあたり、24歳で姓も変え、「塔和子」と名乗るようになった。身元がわかって家族が差別されないよう、実家につながる痕跡を隠したとされる。
生涯に19冊の詩集を発表し、1999年に高見順賞を受賞。昨年8月、83才の生涯を島で閉じた。多くの入所者と同様、療養所の納骨堂に園名の塔の名で納められた。
分骨を進めたのは塔さんの弟の男性(77才)だ。葬儀で喪主をつとめたが、名前を言えず、「塔の弟」とだけ語った。本当は姉を本名で送りたかったが、塔さんの存在を隠して結婚したきょうだいのことなどが頭を離れなかった。「ぼくは逃げている」と泣いていた。
転機は昨年末。西予市が広報誌で15ページの塔さんの特集を組んだ。名誉回復の一歩だと感じた。男性は同市を訪ね、塔さんの詩の朗読会を見学したら、参加者から声がかかった。「田之浜じゃあ悪くいう人はおらん。『塔和子を生んだまち』になっとるよ」・・・。
 
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下肢静脈瘤の手術


昨日の午後から緊張しだし、今日の午前中もずっと緊張状態だったが、1時半~2時半の手術自体は痛みはほとんど感じなかった。しかし時間は長く感じた。

局部麻酔で、頭はどうもなかったので、医者や看護師さんの会話はよく耳に入った。女医さんが施術して看護師さんが3~4人いて、主治医の男性が指図していた。手術はレーザー手術で、「車の運転はできません」と説明書に書いてあったので、妻に仕事を休んでもらい、片道50分ほどの距離を乗せていってもらった。家に帰ってから家畜の餌やりと電柵を閉めるために田んぼに行ったが、別に運転には支障なかった。

今日はおかずを作る気がしなかったので、買った惣菜ですませた。

費用は片足5万円ほどで、1週間後、今度は左足の手術がある。

3年ほど前から、足がえらいこぶんこぶんしているなあと思っていたが、痛くもかゆくもなく、日常生活にも支障はなかったので、そのままにしていた。

あなたの足は、こぶんこぶん(でこぼこ)していませんか。

女性に頻度が高く、年齢とともに静脈瘤の頻度は増加し、親や姉妹に静脈瘤のある人におこりやすく、立ち仕事(美容師、調理師、店員など)に従事する人に多く、また進行しやすいと書いてあった。

我が家では、風呂上りの父親の足がそうだったので、遺伝かも知れない。
 
静脈瘤ができると、足がむくむ、だるい、重い、痛む、ほてるなどの症状が出て、足の筋肉がつる、いわゆる「こむら返り」もおこりやすくなると書いてあったが、どの症状も全くなかったので放置していたが、胃の検査のついでに見てもらったら、右足は通常の8倍、左足は4倍と言われ、手術の必要があると1ヶ月半ほど前に言われていた。

どうせするなら、もっと早くしたかったが、今日と1週間後しか空きがなかった。

手術後「弾性ストッキングをはかされ、包帯も蒔いている」ので屈伸が不自由で、農作業に不便だが、お彼岸(春分の日)までに、ジャガイモ、ヤーコン、キクイモの3種類だけは植えつける必要があり、特にジャガイモは遅らせない。


ミツバチの待ち受け箱は、一昨日と昨日の2日間で所定の場所に仕掛けた。今年は15箱しか設置しなかった。数多く仕掛けてもあまり意味がないし、1週間に1回ほど、ムカデ、クモ、大きな黒蟻、ヤモリ等の先客(黒蟻以外はミツバチの天敵)が入っていないかチェックする必要があるので、たくさん設置すると手間がかかる。

ミツバチを呼ぶ「キンリョウヘン」は一鉢平均で5本ほどの花芽がついている。これから注意するのは「低温」よりも「高温(ビニールをかぶせているから)」で、夜間と昼間の寒暖の差が大きいのも好ましくない。

365日、目をかけてきたキンリョウヘンの花芽が3~5㎝ほどの長さになっている。七分通り咲くのは、予定している4月10日頃と思う。その頃、日本ミツバチの「第一分蜂」が始まり、5月20日頃までの40日間、待ち受け箱に入っているか見回るのが楽しみである。
 
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園長辞職要求の強硬派と園長に心服する穏健派の対立

ハンセン病対策のための参議院厚生委員会が1951年(昭和26年)11月、国立療養所の三園長(多摩全生園・林芳信、長島愛生園・光田健輔、菊池恵楓園・宮崎松記)を参考人に呼んで開かれました。このとき三園長が隔離政策を積極肯定したことから、新予防法も強制隔離を踏襲することになりました。その三園長のうちでも光田発言はもっとも激しいものでした。それは「手錠でもはめて捕まえ強制的に入れればいい」、「治療も必要だが、まず幼児感染を防ぐため、らい家族のステルザチョン(断種)をやらすほうがいい」、「逃走罪というような罰則がほしい」といった患者を犯人扱いしたものでした。

当時、療養者の外出には許可が必要であり、全国会議なども書面が主であり、会合時は「一時帰省」を名目にして出かけました(全患協支部長会議出席のための無断外出は即時退園処分)。三園長証言が全療養者に明らかになるのは翌年5月のことで、それ以後、各地から抗議撤回運動が起こり、これが予防法反対運動へとつながってゆきました。

保健行政から隠れている在宅患者を古畳の埃にたとえて「叩けば叩くほど出てくる」と証言した菊池恵楓園の宮崎園長は、在園者の前で証言の撤回を声明しました。

愛生園でも翌年10月、私たちが光田園長に証言内容について問い質したところ、「言葉の足りなかったところもあるので機会をみて関係者に説明したい」とトーンダウンしただけで取り消す意思のないことを明らかにしました。

これを受けて愛生園自治会執行部は、「これ以上、撤回要求することは辞職勧告になるので、それはできない」と本部へ連絡しました。この頃には園長辞職要求の強硬派と園長に心服する穏健派の対立は目立って来ていました。そのため自治会会長選挙は紛糾、三か月を要して一票差で穏健派が当選しました。したがって内部では執行部を含め両派がしのぎを削りながら予防法反対運動を進めていました。

しかし、胸像破壊事件(この胸像は岡山の「長島友の会(会長は岡山市長)」が1947年に光田園長の古希を祝って贈ったものでした。破壊を知った穏健派300名が胸像のあった礼拝堂広場に集合、強硬派の糾弾を始めました。両派の烈しい対峙を見た園当局が警察の出動を要請、警察が警戒体制を数日間続ける事態となりました)は両派の対立を先鋭化させ、ついに後戻り不能とさせました。妥協点も見出せず、多数の役員が辞任、機能麻痺に陥った自治会執行部はついに自ら事務所の閉鎖を宣言しました(11月)。1954年(昭和29年)には、いよいよ園当局が乗り出し、「現役員は全員1年間就任しない」他の勧告を出し、冷却期間を置いて3月、改めて役員選挙を実施、自治会を再建しました。

かつて、自助会が解散させられ、戦時中は下請け機関になってしまったわけですが、それでも自治会は自分たちの組織でなければいけないという思いがありました。そこには長島事件の、あのときあそこまでやって自助会を作ったんだという気持ちがどこかに生きていました。

戦後、自分たちがやる自分たちのための自治会の結成ということで、第一の目的に「人権を守る」という言葉が出ました。しかしこの第一条を決めるのに非常に抵抗があり、ずいぶんもめました。結局目的の条に「園長指導の下に自治相愛の精神に則リ」(第3条)と入り、名称も正式には自治会ではなく「敬和会」(第一条)となったのです。光田先生の「大家族主義」をそのまま守った組織でした。結果的にそれが予防法闘争を闘ったことから自分たちのために自分たちが自分たちを組織する入園者自治会にさせる機運をもたらしました。

自治会再建後、自治会本来の姿にするため「敬和会規約改正小委員会」が設けられるにあたって、その委員長に就くことになりました。この職に私が選ばれたのは、当時、園内にできたいくつかの政治的組織のいずれにも属していなかったということがあると思います。その後も園内には各政党の支部があり、活発に活動していました。

新執行部の成立から1年半後の1955年(昭和30年)末に新規約ができました。ここに晴れて名称を「長島愛生園入園者自治会」とし、目的には「人権を守り、相互の親睦と文化的生活向上を図る」と謳いました。
「いつの日にか 帰らん」P142~P146 著者 加賀田一さん

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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