あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

多摩全生園  北條民雄(七條晃司)さん

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北條民雄さんと藤本トシさんの接点


ハンセン病文学の文豪同士が、一時、多摩全生園で一緒になった。

明治34年生まれの藤本トシさんは1987年、邑久光明園で87歳で亡くなったが、彼女より14歳年下で大正3年生まれの北條民雄さんは1937年、23歳で亡くなった。

たった23年の生涯だったが、残した文学は厖大である。

北條民雄さんの作品を読んで」。



北條民雄さんの略歴
1914年9月22日、朝鮮「京城」生まれ。1歳から父の郷里の徳島県那賀郡で育つ。1933年2月発病。1934年5月18日、全生病院(現・多摩全生園)に入院。1936年1月「いのちの初夜」が川端康成の推薦により「文學界」に発表され、「文學界賞」を受賞する。その後「文學界」「中央公論」「改造」「文藝春秋」に作品を発表。1937年12月5日、結核により死去。享年23歳。『定本 北條民雄全集』(1980 東京創元社)。




藤本トシさんの『地面の底がぬけたんです』の中に、北條民雄さんのエピソードがある。藤本さんは大阪の外島保養院におられたが、昭和9年9月21日の第一室戸台風で外島保養院は壊滅し、出身地にある多摩全生園に委託患者として4年間預けられ、その時、北條さんに出会った。


『地面の底が抜けたんです』の一部抜粋


 北條民雄さんて御存知でしょう。あの方と全生園で一緒の時期がありましてね、結核病棟におられましたけど、何度かお見舞いに行きました。というのは、あたしたちは委託患者ですから、時々全員が集まっていろんな話があるわけなんです、その委託患者の代表さんから。例えば、注意とか、しなければならないこととか。そうした折に、病室には必ず時々はお見舞いに行ってくれ、あたしたちはこうやってお世話になってるんだから、ということでしたから、何人かずつ病室を見舞うのです。
 北條民雄さんは、本病は軽いお方でしたよ。なんですか、声をかけても返事もしない人で・・・。ベッドのそばにまいりますと、上をむいて目をあけておられるから、いかがですかとかって伺うでしょ。すると、クルッと背中をむけて、むこうむいてしまいなさる。
 ある時、やはりお見舞いに行った時でしたが、ちょうどお医者さんが診察なさっていたことがありましててね、北條さんに小言を言ってなさってでしたよ。
 あんたは確かに文学者としては優れた人だ、文章も立派な腕をもっている、だけど人間としてはゼロだぞって。まあ、あたしにはどうこう言えませんけど、とにかく、とりつく島がない人でした。頭の中は文章のことでいっぱいで、他のことで口をきくのは、もうめんどうくさいってことだったのでしょうか。何か、いつも考えてられたんでしょうねえ。



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北條民雄さん 続癩院記録(3)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P565~P566を抜粋しました。



 まだ明け切らない朝まだき、或はようやく暮れかかった夕方などに、カアン、カアンと鐘の音が院内に響き亘ることがある。すると舎の人々は、
「死んだな。誰だろう。」
「九号の斎藤さんだろう。もう十年も前から、補助看護がついていたから、昨夜行って見たらもう死にそうだった。」
 そしてその死人の入信していた宗教と同宗の者、または近しく交渉のあった者なぞはぞろぞろとその病室へ集まって行く。つまり死人があると付添夫は室の前へ出て鐘を叩いて、院全体への死亡通知をするのである。
 
 院内には、真言宗、真宗、日蓮、キリスト新・旧等々の宗教団体があって、死亡者はそれらの団体によって葬られるのである。補助看護というのは、病人が重態になり、付添夫だけでは手が廻りかねるようになると、それらの団体の中から各々交替で付添夫の補助をするものである。勿論病人の近親者、友人なども替り合って看護に出る仕組になっている。
 
 ところがこうした宗教団体のどれにも入らない者などが往々あり、補助看護は友達などがやるからよいとして、死亡した場合には、全く葬り手がなかったりする。それではいけないとあって、このようなつむじ曲りのために、各宗が順番で当番を務めることになっている。もっともこんなのは全く少く、千二百幾名かの患者中を探して十名あまりのものであろうし、また、いざ死期が近づくと心細くなると見えて、急に殊勝な心持になってどれかに泣きついてしまうので、こういうのはごく稀である。私なども殆ど体質的と思われるほど宗教の信用出来ない人間の一人であるが、息が切れそうになったら信仰心が急に出て来るかも知れない。この疑問に対して私は今からひどく興味を持っているが、兎に角死に対すると人間の心理は弱点ばかりを露出するものとみえる。
 
 死体は担架に乗せられて、付添夫がかついで解剖室に運ばれる。解剖室と並んでもうひとつ小さな部屋があり、人々はその部屋に来て念仏をとなえ、或はいのりが始められる。その部屋には花などがまつられてあって、ちょっと寺のバラックという感じであるが、突きあたりの破目板がはずされるようになっており、そこから解剖室の廊下の台の上に乗っかっている死体が眺められる仕掛になっている。酷暑の折や、厳寒の冬には死人が多く、どうかすると相次いで死んだ屍体が、その台の上に三つも四つも積み重なっていたりする。
 
 解剖が終り、必要な部分が標本として取られると、また患者達はぞろぞろとそこへ集まって行って、やがて野辺送りとなる。屍体は白木の箱に入れられ、それを載せたリヤカーを引きながら、焼場まで奇怪な行列が続いて行く。頭の毛の一本もない男、口の歪んだ女、どす黒く脹れ上った顔・手、松葉杖をついた老人、義足の少年、そんな風な怪しげな連中が群がり、中央にリヤカーを挟んで列をなして畑の中を通って行く様はちょっと地上の風景とは思われない。遠くに納骨堂の白い丸屋根が見える。
 
 焼場につくとそこでまた念仏がとなえられ、キリスト信者は感傷的に声を顫わせながら讃美歌を唄う。細い小さな煙突からは煙が吹き出し、屍臭が院内中に流れわたる。こうして苦悩に満ちた生涯は終り、湯呑のような恰好をした病院製ー患者が造っているーの骨壺に骨の切れ端が二三個納まって、ハルちゃんが抱えて行ったように、納骨堂の棚の上に並べられる。
「あの人も死んでほっとしとるこっちゃろ。」
「ほんまにまあこれが浮世かいな。」
 念仏の終った老婆たちはそんなことを話合ってそこを離れる。そしてまた病苦の世界へ帰って行くのである。



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北條民雄さん 続癩院記録(2)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P564~P565を抜粋しました。



 また時とすると親子が揃って入院することもある。
 
 前記少年から半年ばかり遅れた頃、ハルちゃんという女の子が父親と二人で這入って来た。年はまだ九つであるが、大柄で世間ずれがしているせいか十二三には見え、それに非常にきれいな顔をしていて、この子が来ると暫くの間院内中がこの噂でいっぱいになったくらいである。病気は軽症であるに加えて神経型のため、外面どこといって病人らしいところがない。黒く鮮かな眉毛と澄み切った大きな眼とが西洋の子のように接近していて、頬が痩せてさえいなかったら、シャリイ・テムプルを思わせるくらいである。もっとも、こういう世界に長年暮し、見るものと言えば腐りかかった肉体と陥没した鼻、どす黒く変色した皮膚などで、患者達は美しい少女や少年に無限に執拗な飢えを感じているため、余計綺麗に見えたというところもないではない。ところがこの子の父親はひどい重症で、おまけに結核か何かを患っており、収容病室から舎へ移ることも出来ないで重病室に入り、その後間もなく死んでしまった。この親子は良く馴れた力の強そうな大犬を一頭連れていて、暫くの間収容病室内で奇妙な一家族を形成して人々を怪しませたものであった。
 
 私はこの親子のことを考えると、曲型的な癩の悲劇とはこんなものであろうと思わせられるのであるが、実は彼等はここへ来るまで世の人々の言う癩病乞食であったのである。つまり歩行の自由を奪われた父親を、車のついた箱に載せ、その力の強い犬に曳かせて、この九つになったばかりのミス・レパースは物乞いして歩いたのである。そして彼女の母親もやはり病気で、その頃は既に立つ力もなく、家に寝て彼等の帰りを待っていたという、文字通りの人情悲劇である。母親は彼等が入院するちょっと先に死んだ。
 
 だから彼等が入院した時は全身しらみだらけで、付添夫たちもちょっと近寄れなかったそうである。頭髪はぼうぼうと乱れ、手も足も垢が厚ぼったくくっついて悪臭を発散していたのは勿論である。が、風呂からあがり、床場へ行って髪をオカッパに切って来ると、忽ち見違えるほどであった。と付添夫たちは言った。
「この児の母親も実に美しかった。この児はその母親そっくりだ。」
 とは病める父親の術懐である。
 
 ところが、ある朝、私が例のように畑の中を歩き廻っていると、焼場の中から数人の人が群がって出て来るのに出合った。見ると一番先頭に立ってその児が骨壺を抱いて歩いて来るのである。
「どうしたの? 誰が死んだんだい。」と私が言うと、彼女は「父ちゃん。」と言って笑うのであった。別段悲しそうにも見えず、かえって一見愉快そうに壺を抱えているのである。


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北條民雄さん 続癩院記録(1)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P560~P562を抜粋しました。


 癩院にはどこの療養所でも親子、或は兄弟が揃って入院しているのが少なくない。と言うよりも半数以上は親兄弟を持っており、これによっても如何に家族間の伝染が激しいかを思わせられる。一体癩菌が結核その他の慢性病に較べてずっと伝染力が弱いということは医学でも言われていることであるし、また患者数の激増等のない点から考えても頷けるが、やはり家族間では長い間の接触や、幼年期の最も伝染し易い時期に於ける病父母との接触等によって伝染がたやすく可能なのだろう。

 『(前略)お正月の五日頃、愛生園のお父さんから、年賀状が届きました。お母さんが封をお切りになると、陽子さん清彦さんと書いた手紙も入っていました。お母さんは、其の手紙を私に渡して下さったので、すぐその手紙を読みました。
 陽子ちゃん清ちゃんおめでとう。皆んな無事で楽しいお正月をしましたか。お父さんはお前たちと別れ別れのお正月で何となく淋しい心持のお正月でした。早く此の父も病気をなおして、家へ帰り、一家揃った楽しいお正月をしようね。今頃、そちらは雪が沢山積もって居ることでしょうね。けれどこちらは大変暖かく、梅の花が咲いています。(中略)
 それからは、お父さんのお手紙が待遠しくてなりませんでした。郵便屋さんが通ると、手紙が来ないかしらといつも表へ出て見たりして居ました。
 私は其の中に病気になってしまいました。病気になる前はどうしてか、私は眠くて仕方がありませんでした。学校の授業時間にもこくりこくりと居眠りばかりして居ました。
(中略)
 其の中にお父さんも帰って来ました。其の日、私はお母さんの後について、畠へ行って居ました。妹の悦ちゃんも、弟の清ちゃんも学校へ行って居りました。そうして、「お母さん姉さんただ今」と言って帰って来ましたが、ざしきにお父さんが居るのを見て、不思議そうにじっと見つめるのです。私たちが「だれか分る」って言うと「ううん知らない」と言って頭をふっていました。するとお父さんは「忘れたろう、もう長い事会わなかったからな」と言って笑って居ました。
 其の夜は一家そろって楽しい、嬉しい夕ごはんをいただきました。それからお父さんはおいしゃ様のように私たちの体を見ました。そうすると、私の外に、お母さんと弟が病気でした。そして「姉さんも兄さんも妹も病気と言う所はないようだが、体が弱かったから一度あちらで見てもらわなければいけないだろう」とお父さんは言われました。私はこちらへ来ると言う事をとなりの光ちゃんだけに知らせました。(後略)』━━第六巻第六号『愛生児童文芸』所載。尋六、陽子作━━
 
 これは一例であるが、これに類した事実は実に多いのである。
 私の病院には今百名あまりの児童がいるが、これらの子供たちも殆どが親か兄、或は姉などと一緒に入院しており、中にはまだ十歳に足らぬ幼児の姉弟などもいる。その姉弟は姉が十歳、弟は八歳で今年学園へ入学したが、それでも病気の点からいうと私などよりもずっと先輩で、入院してからでももう五六年にはなるのである。弟の方などは珍しいくらいの早期発病で、三つくらいのうちからはや病者となって入院していたのである。
 
 まだ寒い風の吹く三月初めの頃十二歳の少年が入院した。病気は軽く、眉毛は太く、くりくりとした大きな眼は田舎の児らしく野性的な激しさで輝いていた。が、右足を冒されていて関節がだめになっており、歩くと足を曳きずって跛をひいた。この子は叔父に連れられて来たのであるが、別れる時になると医局の柱にしがみついて大声で泣き、その夜も一晩泣き通した。実の父親とは八年前に生別したまま、叔父に育てられて来たのだそうである。
 
 ところが、この少年にとっては全然想像することも不可能になっていたのであろうその父親は、やはりこの病院に入院しており、病み重って重病室に呻吟していたのである。勿論間もなく少年も父のいることを教えられたが、しかし、これがお前のお父さんだ、と重症の父親を示された時、この少年の神経はどんなにふるえたであろう。父親は高度の浸潤にどす黒く脹れ上って、腎臓病者のように全身がぶよぶよになっており、あまつさえ喉頭癩にやられた咽喉には穴があき、カニューレでかろうじて呼吸をし、声は嗄れて一声出すたびに三四度もその穴で咳する有様である。━━実は私がこの親子を初めて知ったのは、この父親の入っている病室の付添を頼まれた時のことで、それ以前からその少年が入院したことは知っていたが、父親がいようとは夢にも思っていなかったのである。少年は毎夜父親の許へ来、何かと世話するのであった。当直をやっている夜など、ちょろちょろと廊下を伝って現れ、当直寝台の上で本など読んでいる私を見ると、ぺこんと一つ頭を下げてニコッと笑い、父親の枕許へ寄る。また私がT氏に教わりながらカニューレの掃除をしてやっているところへやって来たりすると、少年は恐怖と好奇心との入り乱れた表情で父親の咽喉にあいている直径二分くらいの穴と、その穴から抜き出したカニューレの管に細長く切ったガーゼを押し込んだり抜いたりしている私の手許とを見較べるのであった。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


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