あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

多摩全生園  白浜 広さん


路傍の歌


母さん━━

あなたは知らない

谷合の流れに

白樺の梢に

荒れた地平の涯に

しとしとと みぞれ降る

今日の日を


幽遠のかげりに

あなたが逝ってから

あなたを慕い

どんなにか恨み

昼は太陽に眼をそむけ

星々の睡る夜空の下で

冷たい靄の立ち籠める

暗い山里を

幾度も幾度も越えました


また渇き餓えて

黒い淀に眠るとき

あなたのいない夕暮が

あなたの見えない空の色が

童子のように

わたしを悶えさせ

ひとつの肯定も

否定もなく はては

無限の彼方に

押しやるのでした


母さん━━

果しなき紺青の下に

あなたの知らない

旅路があるのです

あなたの知らない

轍があるのです

わたくしだけに約束された

滂沱のあしたがあるのです


母さん━━

ひとり佇む雪の夜

隙間もれる薄ら灯の中で

ぎりぎり握りしめた

節くれのこぶしが今凍っても

わたしには

振り捨てることの出来ない

負債があったのです

鉄鎖に繋がれた

掟があったのです

天に祈り泥土に跪いても

なお 呵責な

地上の摂理があったのです


でも母さん みんな

あなたの知らない事なのです

もし天国のあなたに

聞えてくるものがあったら


それは しとしとと霙降る

とおい地の涯で

癩という名の病を背負った

浮浪の子が掻き鳴らす

長い長い巡礼の旅の

鈴の音なのです



白浜広(伊藤博、伊藤赤人)さんの略歴
1928年北海道礼文島に生まれる。ハンセン病の宣告を受けて3か月後、全生病院に入院(1934年)。自治会文化部に勤務、また評議委員を務めた。1940年「多摩」に詩を投稿、以来1954年同人誌「灯泥」、1957年「石器」に参加。その後北見洋介の筆名で約20年間「多摩」に発表する。1985年「多摩」俳句欄に投句、1999年五行歌の短詩型の魅力にひかれ投稿。五行歌同人。


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多摩全生園  松井秀夜さん


病歴



母の絶間ない懊悩と苦銀に

母の絶間ない歌声と揺籃に

この小さい肉体はのびあがってきたのだ

この小さい生命は燃えあがってきたのだ

そしてこの私を━━

母はどんなに微笑ましく凝視めていたことだろう。



だが、宿命は虚しくも裏切ってしまった

この小さな肉体に与えられた力も

この小さな生命に描かれた幸いも

母の微笑も凡て絶望の闇に消失せて

淡い燈の下で 幾度吐息し

暗い闇の中で 幾度嗚咽したか、



寂寞とした幾年は流れて

日毎、潰れゆく己が肉体を撫でつつ、

孤独ながら 彼の追憶の歌を口吟み、

私の生活が続けられる。



この療舎で仰ぐ

茜雲は 杳く誰をか呼ばり

その風情がこよなく愛しい、

遠く 彼方に━━

暫く晩炊の手を休めて

母も必ず仰ぐことであろう。

ああ、夏の日、赫耀と燃える陽光に

挑み合ふ 生命があり、

瞬き散る 星座の中に

ほそぼそと 欷く光がある。



この宇宙の真性を 私は

尊厳な気持で 凝視するのだ。



松井秀夜さんの略歴
1921年9月1日高知県に生まれる。1934年9月20日全生病院に入院。小説、詩を作る。1945年1月30日死去。小説は一編が『ハンセン病に咲いた花 戦前編』(2002 暁星社)に収録されている。



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多摩全生園  北條民雄(七條晃司)さん

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北條民雄さんと藤本トシさんの接点


ハンセン病文学の文豪同士が、一時、多摩全生園で一緒になった。

明治34年生まれの藤本トシさんは1987年、邑久光明園で87歳で亡くなったが、彼女より14歳年下で大正3年生まれの北條民雄さんは1937年、23歳で亡くなった。

たった23年の生涯だったが、残した文学は厖大である。

北條民雄さんの作品を読んで」。



北條民雄さんの略歴
1914年9月22日、朝鮮「京城」生まれ。1歳から父の郷里の徳島県那賀郡で育つ。1933年2月発病。1934年5月18日、全生病院(現・多摩全生園)に入院。1936年1月「いのちの初夜」が川端康成の推薦により「文學界」に発表され、「文學界賞」を受賞する。その後「文學界」「中央公論」「改造」「文藝春秋」に作品を発表。1937年12月5日、結核により死去。享年23歳。『定本 北條民雄全集』(1980 東京創元社)。




藤本トシさんの『地面の底がぬけたんです』の中に、北條民雄さんのエピソードがある。藤本さんは大阪の外島保養院におられたが、昭和9年9月21日の第一室戸台風で外島保養院は壊滅し、出身地にある多摩全生園に委託患者として4年間預けられ、その時、北條さんに出会った。


『地面の底が抜けたんです』の一部抜粋


 北條民雄さんて御存知でしょう。あの方と全生園で一緒の時期がありましてね、結核病棟におられましたけど、何度かお見舞いに行きました。というのは、あたしたちは委託患者ですから、時々全員が集まっていろんな話があるわけなんです、その委託患者の代表さんから。例えば、注意とか、しなければならないこととか。そうした折に、病室には必ず時々はお見舞いに行ってくれ、あたしたちはこうやってお世話になってるんだから、ということでしたから、何人かずつ病室を見舞うのです。
 北條民雄さんは、本病は軽いお方でしたよ。なんですか、声をかけても返事もしない人で・・・。ベッドのそばにまいりますと、上をむいて目をあけておられるから、いかがですかとかって伺うでしょ。すると、クルッと背中をむけて、むこうむいてしまいなさる。
 ある時、やはりお見舞いに行った時でしたが、ちょうどお医者さんが診察なさっていたことがありましててね、北條さんに小言を言ってなさってでしたよ。
 あんたは確かに文学者としては優れた人だ、文章も立派な腕をもっている、だけど人間としてはゼロだぞって。まあ、あたしにはどうこう言えませんけど、とにかく、とりつく島がない人でした。頭の中は文章のことでいっぱいで、他のことで口をきくのは、もうめんどうくさいってことだったのでしょうか。何か、いつも考えてられたんでしょうねえ。



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北條民雄さん 続癩院記録(3)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P565~P566を抜粋しました。



 まだ明け切らない朝まだき、或はようやく暮れかかった夕方などに、カアン、カアンと鐘の音が院内に響き亘ることがある。すると舎の人々は、
「死んだな。誰だろう。」
「九号の斎藤さんだろう。もう十年も前から、補助看護がついていたから、昨夜行って見たらもう死にそうだった。」
 そしてその死人の入信していた宗教と同宗の者、または近しく交渉のあった者なぞはぞろぞろとその病室へ集まって行く。つまり死人があると付添夫は室の前へ出て鐘を叩いて、院全体への死亡通知をするのである。
 
 院内には、真言宗、真宗、日蓮、キリスト新・旧等々の宗教団体があって、死亡者はそれらの団体によって葬られるのである。補助看護というのは、病人が重態になり、付添夫だけでは手が廻りかねるようになると、それらの団体の中から各々交替で付添夫の補助をするものである。勿論病人の近親者、友人なども替り合って看護に出る仕組になっている。
 
 ところがこうした宗教団体のどれにも入らない者などが往々あり、補助看護は友達などがやるからよいとして、死亡した場合には、全く葬り手がなかったりする。それではいけないとあって、このようなつむじ曲りのために、各宗が順番で当番を務めることになっている。もっともこんなのは全く少く、千二百幾名かの患者中を探して十名あまりのものであろうし、また、いざ死期が近づくと心細くなると見えて、急に殊勝な心持になってどれかに泣きついてしまうので、こういうのはごく稀である。私なども殆ど体質的と思われるほど宗教の信用出来ない人間の一人であるが、息が切れそうになったら信仰心が急に出て来るかも知れない。この疑問に対して私は今からひどく興味を持っているが、兎に角死に対すると人間の心理は弱点ばかりを露出するものとみえる。
 
 死体は担架に乗せられて、付添夫がかついで解剖室に運ばれる。解剖室と並んでもうひとつ小さな部屋があり、人々はその部屋に来て念仏をとなえ、或はいのりが始められる。その部屋には花などがまつられてあって、ちょっと寺のバラックという感じであるが、突きあたりの破目板がはずされるようになっており、そこから解剖室の廊下の台の上に乗っかっている死体が眺められる仕掛になっている。酷暑の折や、厳寒の冬には死人が多く、どうかすると相次いで死んだ屍体が、その台の上に三つも四つも積み重なっていたりする。
 
 解剖が終り、必要な部分が標本として取られると、また患者達はぞろぞろとそこへ集まって行って、やがて野辺送りとなる。屍体は白木の箱に入れられ、それを載せたリヤカーを引きながら、焼場まで奇怪な行列が続いて行く。頭の毛の一本もない男、口の歪んだ女、どす黒く脹れ上った顔・手、松葉杖をついた老人、義足の少年、そんな風な怪しげな連中が群がり、中央にリヤカーを挟んで列をなして畑の中を通って行く様はちょっと地上の風景とは思われない。遠くに納骨堂の白い丸屋根が見える。
 
 焼場につくとそこでまた念仏がとなえられ、キリスト信者は感傷的に声を顫わせながら讃美歌を唄う。細い小さな煙突からは煙が吹き出し、屍臭が院内中に流れわたる。こうして苦悩に満ちた生涯は終り、湯呑のような恰好をした病院製ー患者が造っているーの骨壺に骨の切れ端が二三個納まって、ハルちゃんが抱えて行ったように、納骨堂の棚の上に並べられる。
「あの人も死んでほっとしとるこっちゃろ。」
「ほんまにまあこれが浮世かいな。」
 念仏の終った老婆たちはそんなことを話合ってそこを離れる。そしてまた病苦の世界へ帰って行くのである。



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在65才、農業歴29年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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