あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

多摩全生園  北條民雄さん



二つの死


  秋になったせいだろう。この頃どうも死んで行った友人を思い出していけない。それも彼が生前元気にやっていた頃の思い出ならばまだ救われるところもあるのだが、浮んで来るのは彼の死様ばかりで、まるで取り憑かれてでもいるかのような具合である。夜など、床に就いて眼をつぶっていると、幻影のように、呼吸のきれかかった彼の顔が浮き上がる。眉毛のない顔がどす黒く、というよりもむしろどす蒼く変色して、おまけに骨と皮ばかりに痩せこけて、さながら骸骨、生ける屍とはこれだ、と思わせられるようなのが、眼の前でもがくようにうごめき始めるのだ。それから湯灌してやった時に触れた、まだなまぬくい屍体の手触り、呼吸の切れるちょっと前に二三度ギロリとひんむいた巨大な目玉、呻き、そんなのばかりがごちゃごちゃと思い出されて来るのだから全く堪らない。昨夜の如きは遂に一睡もしないでその幻想に悩まされて明かしてしまった。そのため今日は頭がふらふらし、雑文でも綴るより仕方がない。が、おかげで詩のような文句を考え出した。
粗い壁。
壁に鼻ぶちつけて
深夜━
あぶが羽ばたいている。

 友人に見せたら、ふうむ、詩みたいだ、と言った。題は「虻」とするよりも私はむしろ「壁」にしたい。まあこれが詩になってるかどうかはこの場合どうでもよいとして、昨夜一晩私は壁を突き抜ける方法を考えたのだ。しかし突き抜けることが不可能としても、虻は死ぬまで羽ばたくより他、なんともしようはないのである。
(未完)


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



絶望


 
 十日に一度は、定って激しい絶望感に襲われるようになった。頭は濁った水の底へでも沈んで行くようで、どうにももがかずにはいられない。たいていは一日及至二日でまた以前の気持に復することが出来るが、ひどい時には五日も六日も続くことがある。食欲は半減し、脈搏が上り、呼吸をするさえが苦しくなる。四五日も続いた後では、病人のように力が失せてしまう。しかし、私は一体何に絶望しているのであろうか。自分の才能にか、それとも病気が不治であるということにか、社会から追い出されたということにか、或はまた蝕まれ行く青春にか。いやいや、私は━━。
 ぼんやりそんないいかげんなことを考えているともう夕食になってしまった。


2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



柊の垣にかこまれて


 駅を出ると、私は荷物が二つばかりあったので、どうしても車に乗らねばならなかった。父と二人で、一つずつ持てば持てないこともなかったけれども、小一里も歩かねばならないと言われると、私はもうそれを聴くだけでもひどい疲れを覚えた。

 駅前に三十四年型のシボレーが二三台並んでいるので、
「お前ここにいなさい。」
と父は私に言って、交渉に行った。私は立ったまま、遠くの雑木林や、近くの家並みや、その家の裏にくっついている鶏舎などを眺めていた。淋しいような悲しいような、それかと思うと案外平然としているような、自分でもよく判らぬ気持ちであった。

 間もなく帰って来た父は、顔を曇らせながら、
「荷物だけなら運んでもよいそうだ。」
とそれだけを言った。私は激しく自分の病気が頭をかき廻すのを覚えた。私は病気だったが、まだ軽症だったし、他人の嫌う癩病と、私の癩病とは、なんとなく別のもののように思えてならなかった時だったので、この自動車運転手の態度は、不意に頭上に墜ちてきた棒のような感じであった。が、考えてみるとそれは当然のことと思われるので、
「では荷物だけでも頼みましょう。」
と父に言った。

 自動車が走って行ってしまうと、私と父とは、汗を流しながら、白い街道を歩き出した。父は前に一度、私の入院のことについて病院を訪ねていたので、
「道は知っている。」
と言って平然と歩いているが、私は初めての道だったので、ひどく遠く思えて仕方がなかった。
「お父さん、道は大丈夫でしょう?」
と聴くと、
「うん間違いない。」
それで私も安心していたのだが、やがて父が首をひねり出した。
「しかし道は一本しかないからなあ。」
と父は言って、二人はどこまでもずんずん歩いた。
「お前、年、いくつだった?」
と父が聴いたので、「知ってるでしょう。」と言うと、
「二十一か、二十一だったなあ。ええと、まあ二年は辛抱するのだよ。二十三には家へかえられる。」
 そして一つ二つと指を折ったりしているのだった。
 1934年5月18日の昼下がりである。空は晴れわたって、太陽はさんさんと降り注いでいた。防風林の欅の林を幾つも抜け、桑畑や麦畑の中を一文字に走っている道を歩いている私等の姿を、私は今も時々思い描くが、なにか空しく切ない思いである。
 やがて父が、
「困ったよ。困った。」
と言い出したので、
「道を間違えたのでしょう。」と
訊くと、
「いや、この辺りは野雪隠というのは無いんだなあ。田舎にはあるもんだが━━。」
 父は便を催したのである。私は苦笑したが、急に父がなつかしまれて来た。父はばさばさと麦の中へ隠れた。
街道に立っていると、青い穂と穂の間に、白髪混じりの頭が覗いていた。私は急に悲しくなった。
 出て来ると、父はしきりに考え込んでいたが、
「道を迷ったらしい。」
と言った。
 腰をおろすところもないので、二人はぽつんと杭のように立ったまま、途方に暮れて、汗を拭った。人影もなかった。遠くの雑木林の上を、真白な雲が湧いていた。
 そのうち、電気工夫らしいのが自転車で駆けて来たので、それを呼びとめて訊いた。父は病院の名を出すのが、嫌らしかったが、なんとも仕方がなかった。
 私達は引き返し始めた。

 それからまた十五六分も歩いたであろうか、私達の着いたところは病院のちょうど横腹にあたるところだった。真先に柊の垣が眼に入った。私は異常な好奇心と不安とを感じながら、正門までぐるりと柊を巡る間、院内を覗き続けた。
 
 以来二年、私はこの病院に暮した。柊の垣にかこまれて、吐け口の無い、息苦しい日々ではあったが、しかし二十三になった。私はこの中で何年生き続けて行くことだろう。今日私は、この生垣に沿って造られた散歩道を、ぐるりと院内一周を試みた。そしてふと『死の家の記録』の冒頭の一節を思い出した。

 「━━これがつまり監獄の外囲いだ。この外囲いの一方のところに、がっしりした門がとりつけてある。その門はいつも閉め切ってあって夜昼ぶっとおしで番兵がまもっている。ただ仕事にでかけるときだけ、上官の命令によってひらかれるのであった。この門の外には、明るい、自由な世界があって、みんなと同じ人々が住んでいた。けれど墻壁のこちらがわでは、その世界のことを、なにか夢のようなお話みたいに考えている。ここには、まったく何にたとえようのない、特別の世界があった。これは生きながらの死の家であった。」

 だが、この世界と言えども、私達の世界と較べれば、まだ軽い。そこには上官という敵がいる。だが私の世界には敵がいない。みな同情してくれるのである。そして真の敵は、実に自分自身の体内にいるのである。自分の外部にいる敵ならば、戦うことそれ自体が一つの救いともなろう。だが、自己の体内にいる敵と、一体、どう戦ったらよいのだろう。

 柊の垣にかこまれて、だが、私は二年を生きた。私はもっと生きねばならないのだ。



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



柊の垣のうちから (序)

(注)多摩全生園はひいらぎの垣で囲まれている

 
 心の中に色々な苦しいことや悩ましいことが生じた場合、人は誰でもその苦しみや懊悩を他人に打明け、理解されたいという激しい欲望を覚えるのではないだろうか? そして内心の苦しみが激しければ激しいほど、深ければ深いほど、その欲望はひとしお熾烈なものとなり、時としてはもはや自分の気持ちは絶対に他人に伝えることは不可能だと思われ、そのために苛立ち焦燥し、遂には目に見える樹木や草花やその他一切のものに向ってどなり、泣き喚いてみたくすらなるのではあるまいか? 少なくとも私の経験ではそうであった。

 或いはまた、こうした苦悩の場合のみではなく、反対に心の中が満ち溢れ、幸福と平和とに浮き立つ時も、やはりその喜悦を人に語り共感されたい欲望を覚えるであろう。そしてその喜悦を語り得る相手を自己の周囲にもたぬ場合、それは往々かえって悲しみと変じ、孤独の意識となって自らを虐げさえもするのではあるまいか。多分あなたにもその経験はおありのことであろう、もしあなたが真実の苦しみに出合った方であるならば・・・。そして私がこのようなものを書かねばいられぬ気持ちを解いてくださるであろう。

 とは言いながら、私は自分の私生活を語るに際して、多くの努力と勇気とを必要とする。先ず第一にかような手紙を書くことの嫌悪、それから自己侮蔑の感情、即ちこのようなつまらぬ私生活を社会に投げ出してそれが何になる、お前個人のくだらぬ苦悩や喜悦が社会にとって問題たり得るのか、お前は単に一匹の二十日鼠、或いは毛の生えた虱にすぎないではないか、社会が個人にとって問題であるならば個人は社会にとって問題だと信じるのか? しかしさような信念は十八世紀の夢に過ぎないのだ━━等々と戦わねばならないのである。この場合私の武器とする唯一のものは愛情、もし愛情という言葉が照れくさいならば共感でもよい、私は私の中にある、誰かに共感されたいという欲求を信じる。

 一例をあげれば、われわれはフローベールがジョルジュ・サンドに与えた書簡を持っている。われわれにとって重要なことは、自己の生活を亡ぼし、人間とは何ものでもない、作品がすべてなのだと信じたフローベールが、かかる書簡を書かねばいられなかったというその点にある。
(未完?)



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

多摩全生園  北條民雄さん



ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP582~P584を抜粋しました。
なお、読みづらい仮名づかいは現代仮名づかいに改めさせて頂きました。
言ふこと→言うこと
やうに→ように
思ひに→思いに





 花というものを、しみじみ、美しいなあ、と感じたのは、この病院へ入院した次の日であった。今は収容病室というのが新しく建ったので、入院者がすぐ重病室へ入れられるということはないけれども、私が来た当時はまだそれが出来ていなかったので、私は入院するなり直ちに重病室へ入れられた。
 
 私がそこでどんなものを見、どんなことを感じたか、言語に絶していてとうてい表現など出来るものではない。日光を見ぬうちは結構と言うな、ということがあるが、ここではちょうどその反対のことが言える。たとえばあなたが、あなたのあらん限りの想像力を使って醜悪なもの、不快なもの、恐るべきものを思い描かれても、一歩この中へ足を入れられるや、忽ち、如何に自分の想像力が貧しいものであるか、ということを知られるであろうと思う。私もそれを感じた。ここへ来るまで色々とここのことを想像したり描いたりしたのだったが、来て見て予想以上なのに吃驚してしまった。膿臭を浴びたことのなかった私の神経は、昏乱し、悲鳴を発し、文字通りささらのようになってしまったのである。私は、泣いていいのか、笑っていいのか、また、無気味だと感じていいのか、滑稽だと感じていいのか、さっぱり判らなかった。
 
 そこは、色彩において全くゼロであり、音響においてはコンマ以下であり、香りにおいては更にその以下であった。私の感覚はただ脅えて、石のように竦んでしまうばかりだった。持ってきた書物が消毒室から帰って来るまでの間、私は全く死人のようになっていた。私はせめて活字を、文字を、思想の通った、人間の雰囲気の感ぜられる言葉を、見たかったのだった。今でも忘れないのは、その時私の隣りのベッドにいた婦人患者が、キングだったか、表紙の切れた雑誌を貸して呉れたときのうれしさである。私は実際、噛みつくようにして今まで見向きもしなかったこの娯楽雑誌の頁をくったものである。
 
 しかしなんといっても、自分の書物が、自分の体臭や手垢のしみついた本が帰って来た時のよろこびは、それ以上だった。私は涙を流さんばかりにして、その本を一冊一冊抱きかかえて見たり撫でまわしたりした後、ベッドに取りついているけんどんの上に積んで置いた。それを眺めている間、私はなんとなくほっとした思いになっていた。
 
 私がそういう思いをしている所へ、誰だったか忘れたが、花を持って来てくれたのである。なんという花か、迂闊な私は名前を知らないが、小さな花弁を持った、真赤な花であったのを覚えている。はなびらの裏側は幾分白みがかっていて、薄桃色だった。華かではなかったが、どことなく品の良いととのった感じのする花で、私はもう夢中になって眺めたものである。
 
 それまで、私は花など眺めたことは丸切りなかったのであるが、それからというものはすっかり花が好きになってしまった。
 
 この間、ある事情で四国の故郷までまことに苦しい旅をしたが、帰って来ると私はまだ花の咲かないコスモスを鉢に活けた。舎の前に生えていたもので、私は指先に力を入れながら注意深く掘り返した。そこへ看護婦の一人が来て言うことには、
「北條さんが花をいじるなんて、ちょっとおかしいみたいね。」
 なるほど、そう言われて見ると私は野蛮人に違いない。しかし、私は言ったのである。
「平和に暮したいんだよ。何時でも死神が僕につきまとうからね。」
 彼女は可哀想なという風な表情で私を見ていた。



2030年 農業の旅→ranking


このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

カテゴリ

カウンター

QRコード

QR

検索フォーム