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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

早世の画家  石田徹也さん

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今日の朝日新聞の「文化・文芸」欄で初めて知った石田徹也さん。ぼくより20年あとの1973年(大阪万博の3年後)に生れ、2005年に32歳で亡くなられている。

今、石田徹也さんの大規模個展が、スペインの首都マドリードの国立美術館で開かれている。日本社会の生きづらさや閉塞感が漂うとされる作品群に、なぜか欧州で熱い視線が注がれている。(朝日新聞8月20日、24面)


学校の校舎に首が描かれた「囚人」という画があった。石田さんにとっても学校は監獄で、とらわれた囚人のような場所だったのだろうか。


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ぴんとこない


(8月15日朝日新聞社説 一部抜粋)

ひめゆり資料館は今年、開館30周年を迎え、新たな課題に直面している。最近、来館者の感想に「ぴんとこない」との言葉があった。戦争が遠い昔の出来事に思われていると、館長の普天間朝佳さん(59)は言う。

99年度に100万人超だった入館者数は18年度は約53万人まで減った。修学旅行も減少傾向にある。その流れを変えたいと、来夏に「さらに、戦争から遠くなった世代に向けて」というテーマでリニューアルする。



ぼくも50代の中頃、ブログのネタに長島愛生園に行き、歴史館も見学したが、歴史館はどうも「ぴんとこなかった」。

ぴんときたのは、

(1)元ハンセン病患者の講演を愛生園で聞いた時

(2)元ハンセン病患者から本を2冊もらって読んだ時

(3)患者自治会事務所の図書室で本を借りて読んだ時

数人の講演や、これらの本が心に沁みた。


いわゆる「箱もの」ではなく、一篇の詩に心を動かされることもある。


ひめゆり資料館には無くて、ハンセン病療養所にあるのは、厖大な数の文学である。これを前面に押し出せば、必ず、深く追求していく人が現れる。


世界遺産登録の活動はぼくにはよくわからないが、もっと直接的に訴えることができるのは、詩や短歌や随筆を朗読したり紹介したりできる「人」を育てることが、将来にわたってハンセン病問題を追及することにつながる。




こんな資料館もあるらしい。朝日新聞8月15日「ひと」欄

「ふれてください戦争に」を著した戦争資料館の副館長
武富 慈海さん(70)


軍服や日章旗、飯盒、千人針など無数の戦争遺品が20畳のプレハブを埋め尽くす。「手をふれて下さい」と紙に書かれている。

福岡県小竹町の「兵士・庶民の戦争資料館」。従軍が7年にも及んだ父の登己男さんが、戦争の理不尽さを伝えようと、私費を投じて設立した。自身が持ち帰ったものや収集・寄贈の品々が並ぶ。

「戦争の実相を知るには戦場をくぐったモノを見て触れること」

その信念を貫いてきた資料館が40周年を迎え、「ふれてください戦争に」(燦葉出版社)を今月出版した。3千点にのぼる収蔵品のうち110点余りを解説した。

入場無料の家族経営。当初から裏方で支えてきた。2002年に登己男さんが死去し、母智子さん(93)が館長、自身は副館長に。最近は母に代わり、館の運営から外での講演まで多忙な日々を送る。

来館者には決まって、重さ1キロの鉄帽、5キロの重し入り背嚢を身に着けてもらう。「行軍中は50キロ近くあったそうです」

児童養護施設の元職員。33年間で身寄りのない800人を社会に送り出した。「この子たちを再び戦場に送らない」。その思いが原動力だ。50歳で得度し、戦争犠牲者への供養を欠かさない。

来館者は年に約800人。ネットで知ったという若者が増えてきた。父の遺志を刻み込んだ著書は「若い世代にこそ読んでほしい」。



ひめゆり資料館  

長島愛生園・邑久光明園・大島青松園 瀬戸内3園の世界遺産登録運動 

兵士・庶民の戦争資料館

それぞれいろんな取り組み方をしている。「人の心に響く」かどうかがポイント。


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タワーマンション


2022年、タワマンの「大量廃墟化」が始まることをご存じですか 不動産業界では暗黙の常識(週刊現代)


タワーマンションには、いろんな問題があるんですね。この記事を読んで初めて知った。


タワーマンションという言葉を実感として自分の心に捉えたのは、7月17日の朝日新聞のトップニュース『「階級社会」へ日本の変質』(社会学者・橋本健二さんへのインタビュー記事)からだった。


年に1度、農閑期に大阪へ遊びに行くが、その時に、東大阪の永和駅前の高層ビルや放出駅前の高層ビルを目にして、かなり威圧感を感じていた。これはタワーマンションだったのだ。


こんな空中空間には怖くてぼくは住めないし、もちろんステイタスシンボルとかみじんも思わず、「こんなところによく住めるなあ」という気持ちが強い。


ここに住む多くの人は「仮の宿」と考え、「永住空間」とは考えていないのだろう。


人間が生きておれるのは80年ほどだから、どこに住んでもいいし、経済的なこともあって、誰もが望むような場所に住めるわけではないし、いったん住み始めたら、さらなる移住は簡単ではない。


ぼくはたまたま、生まれた家に住んでいる。社会で成功していたら(いわゆるいい会社に勤め続けていたら)、都会でマンションとかに住んでいたかも知れない。


転職を繰り返して、結局、地元に帰り、農業を始めたが、築68年の家に住み続けている。昨年の3月に屋根瓦だけ交換した。


家に関しては雨露がしのげたらいい。経済的にそれ以上のことは望まなかった。


集落には新築の立派な家も多いが、比較はしなかった。自分は会社に縛られることなく、自由な農業をしているのだから、それ以外のことに欲望を持たないようにした。


とにかく持ち家であるし、家のことに気持ちを向ける必要がなかった。


住宅事情は多くの人にとって大変な問題かも知れない。ただ、あのタワーマンションだけは、人間を疎外するような建物であり、空間である。


人間は大地(土)からあまり離され過ぎると、心身に不調をきたすように思う。


「土着性」という遺伝子は、今の世代では、まだ切り離すことができない本能的な拠り所と思う。


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泰緬鉄道


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 映画「戦場にかける橋」でも知られ、戦時中に旧日本軍がタイとビルマ(現ミャンマー)を結んで建設した泰緬鉄道。過酷な労働現場に動員されて亡くなった連合国軍捕虜らの人生をたどり、記録に残す活動を25年間続けている男性が、タイにいる。

豪州人のロッド・ビーティーさん(71)。タイ中部カンチャナブリに自分で作った博物館「泰緬鉄道センター」で毎日、一人で集めた元捕虜たちの情報をパソコンに入力している。

ワラン・ロバート 1903年1月6日、豪州ニューサウスウェールズ州生まれ。捕虜としてシンガポールからタイに移動し、豪州・英国人捕虜からなる「Fフォース」(建設作業のグループ名)で鉄道建設作業。43年9月18日、マラリアのため死亡。共同墓地のA15区画に埋葬

「事実を突き詰めて、歴史を伝える。犠牲者の数だけではわからないストーリーがあるんだ」とビーティーさん。英国や日本からも資料を集め、元捕虜たちの人生を調べてきた。ジャングルを歩き、鉄道部品や元捕虜の遺品を探した。そうして集めたデータは、建設に携わらなかった元捕虜も含めて10万人分を超えた。

活動の原点ともいえる思い出がある。24年前、元捕虜の80代の男性が息子に支えられてやってきた。「自分が働いていた場所を思い出せない」という。ビーティーさんが資料をもとに男性が当時いた現場を割り出し、連れて行くと、男性は「私は今、あの時の23歳だ」と言って、息子の腕を振り払って歩いたという。ビーティーさんは歴史を残す意味を感じたと話す。

ビーティーさんがタイに住み始めたのは1993年。当時は宝石商だった。たまたま、知り合いに元捕虜の追悼式の手伝いを頼まれ、生き延びた元捕虜の話を聞いて「忘れてはいけない母国の歴史だ」と感じ、泰緬鉄道について調べるようになったという。95年からは、約7千人の元捕虜らが眠るカンチャナブリの墓地の管理も任された。

博物館をオープンしたのは2003年。この墓地の脇に作り、集めた鉄道部品などを展示している。その中には、日本語が書かれた、線路の枕木を固定する犬釘がある。鉄道完成記念のものだ。当時、鉄道連隊中隊長だった東京都の菅野廉一さん(100)から「あなたは信頼できる」と言われ、贈られたという。

捕虜や、東南アジア各地から集めた人々に過酷な労働を強いて作られた泰緬鉄道は、旧日本軍による残酷な行為の一例として語られることが多い。だが、ビーティーさんの集めた情報で、豪州政府が主張する日本軍の暴行の事実が覆されたこともあったという。ビーティーさんは「日本を擁護するつもりはない。事実の追及は、戦争で苦しんだ人への敬意だ」と言う。

毎年、数十人の元捕虜の遺族が「祖父の最期を知りたい」とやってくる。「彼らの家族のストーリーを伝えるのは、私にしかできない。体が動く限り続けたい」と静かに語った。

(朝日新聞8月16日 7面)



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水木しげるさんの怒りを想像する

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主な地域の日本の戦没者の概数
(朝日新聞8月16日 27面)

日本の戦没者だけで約310万人にのぼった先の大戦。降伏を伝える玉音放送が流れて、15日で74年を迎えた。洋上での戦闘、逃避行の末の栄養失調、侵略への加担。元兵士や遺族、戦争を知らない世代が、各地で犠牲者を悼み、戦争と平和に思いを巡らせた。


中国本土 46万5700人

中国東北地方(ノモンハン含む) 24万5400人

旧ソ連(モンゴル含む) 5万4400人

日本本土 70万人

沖縄 18万8100人

北朝鮮、韓国、台湾 9万5400人

硫黄島 2万1900人

中部太平洋 24万7千人

ニューギニア 18万600人

ガダルカナルなど 11万8700人

フィリピン 51万8千人

インドネシア 3万1400人

ミャンマー、タイ、マレーシア、シンガポール、インドなど
21万2400人






(折々の言葉 鷲田清一 朝日新聞8月16日)


水木しげる
ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。

戦争末期、漫画家は南太平洋の戦線で左腕を失い、傷病兵としてからくも生き延びた。思考停止と無責任が支配する組織の論理によって、自決と玉砕を命じられた仲間たち。生き残りが少ない部隊が「模範」だった。後に「あの場所をなぜ、そうまでにして守らねばならなかったのか」と別の連隊長に言われ、底なしの空しさを感じた。漫画『総員玉砕せよ!』のあとがきから。




ぼくも怒りがこみ上げてくる。

集落でも近所の人が何人も亡くなっている。顔は知らないが、名前を聞いた。

いったい、何が戦争に向かわせたのか。

誰が、戦争に仕向けたのか。

そういう流れを止めれなかったのか。

学校の社会の教科書では、何も学ばなかった。

この国はドイツと全然違う。

戦争の責任は誰もとらず、うやむやで、戦時中の公文書の大半は焼き捨てられている。

それが現在に続くこの国のありかた。

戦前と戦後と何か変わったことがあるか。

変わっていない、何も変わっていない。

人間の心も、政治の在り方も。

また繰り返すかもしれない。

そして誰もとめられない。

そしてまた、誰も責任をとらない。

そしてまた、責任の所在があきらかにされない。

なにもかも、うやむやにしてしまうのだ。

どうしてこうなってしまうのか。

わからない


毎年この時期には、戦没者の亡霊が帰って来る。

この国の人たちよ、お前たちも俺たちと同じ苦しみを味わうがいい。

時代は変わっても、日本人の心は戦前と何ら変わっていないのだ。



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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