fc2ブログ

あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

菊池恵楓園  山崎玲子さん

 

不思議な女

その女の顔は

会う度に変っていた。


天気のよい朝は

生き生きと輝き


曇った昼は

抜けたようにぼんやりし


雨の降る日は

怒ったように


何物かを信頼し

何物かに抵抗するような眼を光らせていた。


夜は

悪魔の真黒い誘惑の掌が

黄泉の国からのびて来る

絶望と苦悶の中で

悪魔とのたたかいに

女の胸ははりさけそうに痛み


うつろなひとみには

不気味な蛾の

ゆるやかな羽ばたきが映る。


だが

再びこの地上に太陽が上ると

女は、

さらりと暗いかげを捨て

充実した一日の仕事に精を出す。


太陽が雲にかくれる度に

女の顔にも影がさす。


そして又、女には絶望の夜が来る。


だが

女は死なないで生きている。










私の胸は熱い涙にぬれています。


私の想いは遠く故郷に走ります。

父母のいるなつかしの土地なのです。


私の手はしきりにペンをにぎります。

そのペンは私の思いを書くのです。


私の眼はまるい月を眺めます。

暗い夜空を青く照らす月なのです。


私の耳には彼の人のいびきと、

無心に鳴く虫の声だけが聞えます。


私の心は何かを思います。

虫の声が月の光が、そうさせるのです。


私の胸は熱い涙でぬれています。









何が私の悩みを


何が私の悩みを救うのか

時間か。


仕事にまぎれることか

静かに座して祈ることか


そぞろ歩きの回想か

おお何が私の悩みを解決するのだ。


傷つけられた胸の痛みに

魂の深い傷のうずきに

どこの特効薬がいいというのだ


この悩める私の心を

そっと愛の衣に包み快よく温めてくれる

かぎりなく尊い愛の神を

私の心は強く感じているのだが

所詮生涯つきまとう私の悩み

いつまでも私について来るお前

ああ何が私の悩みを救うのだ



山崎玲子(伊藤富子)さんの略歴
1932年4月5日鹿児島県に生まれる。1947年8月23日菊池恵楓園に入所。1994年8月18日死去。




2030年 農業の旅→ranking

このページのトップへ

菊池恵楓園  西羽四郎さん


子に


いまごろ お前に

平和な夢が 訪れているだろうか

知られてはならぬ 遠い地点に

この父は病んでいる

お前の為に

けれどもお前の未来の為に

シミほどの汚れを残したくない


施療院の

冷めたい手術台の上で

メスのきらめきを鋭く感ずるとき

お前の笑靨を 胸に抱いておもった

先ず生きねばならぬ

先ず闘わねばならぬ


おまえは、くずれた父の病の同胞を見たら

その醜さに 身震いするかも知れぬ

むごたらしさに

その眉が ひそむかもしれぬ


だがお前は 嘲笑いはしないだろう

指さして逃げもしないだろう


わたしは かなしい旦暮を

お前に 知らせたくない

お前に 味わせたくない



西羽四郎(西羽仁)さんの略歴
1921年7月4日台湾で生まれる。学生時に発病、友人たちの冷たい目に刺される思いで1938年2月長島愛生園に入所。戦争中は台湾楽生院に入院、終戦後引揚船にて菊池恵楓園へ入所。愛生時代から詩に親しむ。


2030年 農業の旅→ranking 
このページのトップへ

菊池恵楓園  重村一二さん(2)


山羊の歌


桜の根元に

今日もお前はたっている

長老の髭さみしく

むすばれたクサリを

じっとみている


高い青い空の下で

お前はたゆみなく廻った

枯木のような足で

退屈な円周をえがいて


太陽がかえる頃

お前は哀愁をこめてないた

その声が余りに不気味なので

仲良しになろうとした

小鳥たちを追いかえした





重村一ニさんの略歴
1922年山口県に生まれる。村役場、海軍工廠、鉄道などに勤めたのち、1943年応召、南方派遣、1945年復員、1946年菊池恵楓園に入所。自治会副会長を務めたほか、園内の青年団・婦人会機関紙「晩鐘」に詩などを発表(1947~1950年)。園内の詩誌「炎樹」には1959~1961年に発表。「菊池野」には1951年より論文を発表している。2003年2月死去。

2030年 農業の旅→ranking 
このページのトップへ

菊池恵楓園  重村一二さん(1)


宣告の手記


━━あなたはレプラです

といわれたその一瞬

硝酸をあびせられたように思った

私の二十五年の歴史の

全リズムが

果てしもない奈落に

頭蓋骨を粉々にくだかれ

心の水銀が

無限のかなたに飛び散ったかのように思った


あの激しい戦場で

すこしもひるまなかった私が

今 恐怖と絶望のどん底で

こんなに青ざめなければならない


パーヴに 電車が走り

ネオンは輝き

人は流れている

が もう私とは遠い


妖婆は異様に叫び

私を追いたてる

あたりは

無数の癩菌が

爪をかざし

ガッガッ牙をならし

私の肉体に這っている

医務室の古棚の上にある

ぞっとするようなライの標本が

私に迫ってくる


ああ いやだ!

私一人がレプラなんて とても耐えられない

みんなレプラになれ みんな

私はどうすればいいのだ

もう私の皮膚の下では

底設導抗を穿っているのだ

明日にでも

あの戦慄的なバラのような結節が

火山のように爆発するのだ


ああ それでも私は

この肉体のなかに

自分をゆだねて

深淵のなかで呼吸しなければならないのか


2030年 農業の旅→ranking 
このページのトップへ

菊池恵楓園  荒谷軟波さん(2)



もろもろの鉢の植木にあけ芽吹き春としなれば癒えたかりけり




干蒲団かい抱きつつ取り入るる片足飛びの伊藤君あはれ





越し方のしじの思ひに眠られぬ霜夜は疵の痛みおぼゆる




白飯を渡さるるとの前ぶれに子供の如く待つ身淋しも




つくづくと吾子のゆくへを思ふときながらへがたき吾身くやしも




遠くそだつ吾子のたよりのありければ病養ふ心動くも




味噌汁に身のあたたまりゆくときし露営つづくる吾子を思ふも




秘めて住む吾に届けるはらからの妻の手紙を受けておびゆる




むしろ二枚持ちて這ひゆく路作り朝顔の種子を蒔きて安らぐ




日に三度飯待つのみの吾がうつつ心がなしも生のたづきの



荒谷軟波(哲六)さんの略歴
明治26年生まれ。大正後期に身延深敬園九州分院から九州療養所入所。『檜の影」所属。昭和18年没。『菴羅樹』(昭和26年)『ハンセン療養所歌人全集』(昭和63年)

2030年 農業の旅→ranking 
このページのトップへ

プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
にほんブログ村 料理ブログ 男の料理へ



セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最新記事

最新コメント

カテゴリ

カウンター

QRコード

QR

検索フォーム

月別アーカイブ