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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  加賀田一さん(39)

 
孤児Kさんの縁


「いつの日にか帰らん」P219~P223


 ちょっと小説のような話があります。

 東京の目黒に「慰廃園」というカトリックの方々が建てた私立のハンセン病救護所がありました。カトリックでは堕胎は大罪です。入所者の男女は厳格に分離します。夜はそれぞれの居住棟にシャッターを下ろしていたそうです。それでも男女が近くにいると、子供ができるようなことが起きます。しかし、そこでは生めません。

 二親は園から出て、都内で子供を生みました。その赤子がKさんで、これらの経緯もKさんから聞きました。それから両親はKさんを伴い愛生園に来たらしいのです。その愛生園もまだできたばかりで、健康な子供を世話する用意はありませんでした。そこでKさんは草津にあった聖バルナバ教会に預けられ、そこの救護所で育ちました。

 Kさんは何年か経って病気は出たけれど、少し症状があるだけで後遺症もなく回復しました。そして、多摩全生園にいた福島県出身の女性と結婚しました。この女性は一家十一人、病気の人も病気でない人も全員が全生園に入所しました。両親が病気だったために子供も全部連れての強制収容でした。そのなかの次女とKさんが知り合って結婚し、社会復帰したのです。それが終戦の年でした。

 二人は東京巣鴨近くの六畳一部屋のアパートに入居して、紙問屋に勤めていました。ところが都営住宅の建設のために立ち退くことになりましたが、住むところが見つかりません。そこで思い切って都営住宅の抽選に応募、くじを引いたところ、三百人を越す応募者の中で幸運にも当選しました。「これはただごとではない。両親が巣鴨近くで生んだと聞いたことがあるけれど、その両親が見守ってくれていたものに違いない」と信じて、以後、両親の行き先を探し始めたといいます。

 私たちは患者運動で東京に出ると、宿賃がないので多摩全生園に泊まります。全生園には池袋から清瀬まで電車に乗って、清瀬からバスに乗ります。私がたびたび東京へ出ているとき、全生園で奥さんのほうのご兄弟からKさんの話が出ました。「Kさんはどこで生まれたかわからない。両親もKさんを聖バルナバ教会に預けてどこへ行ったかもわからないけれど、設立間もない愛生園に夫婦で行ったらしい。その両親の名前はセツオとキミエというらしい。愛生園になにか手がかりが残っていないか調べてほしい」と、多摩全生園には愛生園からも多くの宿泊があるにもかかわらず、たまたま私が依頼されました。

 私は帰ると、すぐにセツオとキミエという名前の夫婦が長島愛生園にいたかどうかを調べました。そうするとお骨がありました。1933(昭和8)年にセツオさんが亡くなって、そのあと何年かたってキミエさんは再婚され、1942(昭和17)年に亡くなっていることがわかりました。

 再婚後のキミエさん夫婦の住んでおられたのが「遍路寮」でした。それは下村海南という朝日新聞の有名なジャーナリストがいて、戦前は貴族議員、戦中は情報局総裁もやったと思いますが、その海南さんが寄付した建物でした。海南さんが『遍路』という著書を出版し、その印税によって建てられたので「遍路寮」という名称が付けられました。

 キミエさんが昭和17年に亡くなった後、「遍路寮」のその空いた部屋に順番が回って入ったのが、私たち夫婦だったのです。調べてみたら、なんと私が住んでいる部屋が、Kさんのお母さんが住んでおられた部屋でした。

 このことをお知らせするとKさんは大変喜ばれました。私が「納骨堂にお骨がありますよ。分骨されるんだったら私が手続きをしますよ」と伝えると、何十年ぶりかに自分の親がわかったと、喜んでここへ来られました。Kさんにとっては生んだというだけのつながりであっても、それは何ものにも代えがたい縁でした。そしてお母さんの住んでおられた部屋に住んでいた私が調べたというのも縁に違いありません。さらに縁がつながりました。

 Kさんはここの納骨堂に初めてお参りに来ました。するとたまたま散歩に来た入園者が突然、「おい、えっちゃんじゃないか」と驚きの声を上げました。その人も聖バルナバ教会で育ち、そこの救護所を出て社会復帰し、再発して今度はここに入園した伊豆大島出身の人でした。その人とKさんが聖バルナバ教会の小学校時代の友達だったわけです。こういう小説みたいな不思議な巡り合わせが、こうして身分を隠して療養したりする人の中にはあります。

 以後、Kさんと私の交流が続き、亡き両親のいるところへ来させてくださいと、毎年というわけにはいかないけれど、何年かに一度お参りされて、会っていましたが、この間、亡くなられました。これは、カトリックの小さな十五人ほどの救護所で「禁断の恋」によってこの世に生を享けて、両親を知らずに育ち、そして両親を慕った一人の生命の話です。

 私が交際するだけでも、ハンセン病者となったがための、いろいろな一生があります。

 下村海南先生と私たち夫婦の縁についても一言つけ加えておきます。海南先生が長島に来られると、毎早朝、必ず園内を散歩されました。その折り遍路寮にいる私のところを訪ねて来られます。戦後になってからのことですが、東京に帰ってから私宛に色紙を託して下さいました。色紙には、「遍路寮もいたく古びたり 我と語る主の妻のういういしき哉」と歌が詠まれていました。古びた寮の姿に、戦に敗れた後の自分を託し、いまだ若くて病気も軽かった私の妻を対照させた感慨でしょうか。この色紙は愛生園歴史館に納めました。


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長島愛生園  加賀田一さん(38)


高島重孝先生



 「いつの日にか帰らん」P207~P214抜粋


 二代目園長の高島さんは非常に人間的でした。出身は東京の渋谷と聞きましたが、そこの高島外科の次男坊です。慶応大学の医学部に在学中、草津にある栗生楽泉園に医療援助に行かれ、そこで会ったきれいな娘さんがどんどん症状を悪化させていく姿を見たそうです。そしてまた、「お医者さんがいないから是非来て下さい」とたくさんの患者さんに頼まれました。そんな体験があって、自分の家が病院なのにとうとうハンセン病のなかに入ってきたという方です。

 その後先生は、楽泉園から東北新生園の医務課長を経て、駿河療養所の所長になられました。そして光田先生の後任として愛生園の二代目園長に就くことになったのですが、そのとき長島に橋を架けることが約束だったことは、その後の頓挫の経緯とともに「架橋」のところで述べました。

 先生は就任の挨拶で「光田先生の後を私が継ぐのは木に竹を接ぐようなもの」とおっしゃいました。これは隔離政策と反対の「解放」政策をとるということでした。まず就任条件の架橋がそれでした。

 しかし職員には光田イズムが深く浸透していましたから、そしてまた高島先生は人がよく、強引さの全くない方でしたから、なかなか自分の考えどおりにはゆきませんでした。入園者との窓口(現在の福祉室)の職員には、開園のころには就職する人がなく定年になった警官上がりがほとんどだったこともあって、患者に対して「おい、こら」と、犯罪者か身分の下の者に接する態度でした。

 窓口に「帰省願い」を出すと、医師でもないのに「オマエは治療が足らん」とか「鏡をよく見てこい」などという暴言を吐く者もいて、これに抗議もできないのが予防法闘争前でした。こうした職員の気風はその後も残っており、折りを見て出てきました。これを改めさせるためにも、先生はずいぶん苦労されたと思います。

 私は自治会長としてお会いする機会も多く、個人的なエピソードはたくさんあります。最初に強く印象付けられたのは、「看護婦さんは菩薩だ」とおっしゃったことです。親や兄弟の反対を押し切ってハンセン病療養所を志し、人の嫌がる病人を胸に抱きかかえて治療している姿は菩薩ですとしみじみおっしゃいました。

 前にも書きましたが、あからさまな差別がひどかったのが職員用の連絡船であり、その船長でした。患者用の船は乗り遅れたら何時間も待たねばなりません。しかし職員船の船長は「乗ったら絶対あかん」と乗せませんでした。船長の理屈は「この船は職員家族や通学児童も利用するから患者と同船は伝染の危険がある」という光田イズムです。路線バスでは乗車拒否に遭ったり、そんないやな思いを身近なところでしょっちゅうしていました。

 高島園長は「そんな差別があっちゃいかん」という考え方ですから、港で「ああ、乗りなさい」と言う。ところが船長が「園長、困るじゃないですか」と言い張る。船ですから、園長よりも船長のほうが強いのでしょう。

 夜、虫明の桟橋で園長といっしょになったことがありました。もう患者用の最終便が出たあとで、虫明には旅館などありません。園長が「乗りなさい、乗りなさい」と勧めて、私が乗ると、船長が「デッキにおれ」というので、外に立っていた。すると園長は中から「そんなところに立っていると危ない。中に入りなさい」と強く招くので、私が中に入ると、「腰かけたらいい」と横に座らせて、「今日、これを貰ってきたからあげるよ」と言います。見ると泡盛でした。光田園長時代は酒、米は禁制品でしたから驚きました。

 自治会長としては1971(昭和46)年、光明園と愛生園の自治会が共同して架橋運動をすることになったことを園長に報告すると、「なんだ、14年前に話がついていたのに、そのときは反対しておいて」くらいのことは言われるかと覚悟していたのですが、先生はもっとずっと心の広い方でした。返ってきたのは「それはいいことだ。一生懸命やってくれよ。応援するし、できることはいっしょになってやろう」でした。

 政府の謝罪後、過去を調査する「検証会議」が開かれましたが、そこで大問題として取り上げられたのが堕胎であり、胎児のホルマリン漬でした。私たちは罪責として堕胎も大きく取り上げていましたが、ホルマリン漬についてはその一つの例でした。外からの「一般の眼」がこれを重大視することによって、私たちは私たちの「異常への馴れ」を気付かされたのです。

 というのも本館建替えの際、私たちは、「異常」の「証人」として機敏に対応することなく、あの大量の胎児標本を職員が処分するのに任せてしまったからです。それより以前に、内部の医者および統治責任者という当事者として、その異常さへの反省感覚をもっておられたのが高島先生でした。

 あるとき高島先生が私に、「加賀田くん、お地蔵さんを買ってきたんだが、山のなかに建ててきたよ」と言われました。「子供を堕ろして捨てて、あんな無慈悲なことをしたらいかんのじゃないかと思って、それで石屋によって既製品だったけど地蔵さんを買ってきた。ところが職員に『こんなもの建てちゃいかん』と言われてね。建てるところがないんだよ、きみィー」と嘆かれました。職員としては、自分たちがやったことの罪業を認めることになるということでしょう。

 高島さんは「したことは間違いです」という考え方ですし、なによりも心を痛めておられました。ここにいる以上「どうも気が安まらない。何か心の支えになるものがないと居づらい」と、ご自分のポケットマネーでわざわざ求めてこられたのです。これを聞いて私たちは自治会としてすぐに山の中へ探しに入りましたが、すぐには何処だかわかりませんでした。光明園へ行く旧道から上がって行ったところ、現在の道路からは下になりますが、林の中に見つけて、周囲の雑木やら草を刈って祀りました。

 それからはこっそりとお参りする人が出てきて、花やら線香が手向けられて、いつか自然に道もできました。外からくるお客さんもお参りするようになりました。現在は整備した万霊山に遷しました。親の入っている納骨堂の横手に水子地蔵として祀っています。先生はこういう優しさをもっておられました。

  個人的にもいろいろな話がありますが、文字通り「裸の付き合い」がありました。高野山の宿坊でのこと、風呂に入ると、高島さんが入ってきて、「背中を流そう」と、私の背中を流してくれました。あとで坊さんが「園長先生は患者さんと一緒に風呂に入る」と感心していました。

 園内部では特に職員からの非難に「高島園長は岡山の名士のところばかり行って、大風呂敷を広げている」というのがありました。光田園長は非社交的な学究肌でしたから、その違いが目に付いたのでしょう。しかしロータリークラブの会員になって広く交際したのも、先生としては愛生園を特殊な場所としてではなく、医療の場として認めさせ、地元との風通しをよくしようという意図からでした。このことをはっきりと知ったのは、先生が七十歳の定年を迎えられ、退官と同時に勲一等を授与された、そのお祝いの会の席上でした。

 私にも声がかかり、出席させていただきました。そのとき先生は冒頭のご挨拶で、「今日のような会に私は値するものじゃない。勲一等をもらうような者ではない。この席に患者代表が祝いに来てくれている。このことの方が意義がある」とおっしゃいました。この挨拶のあと、「患者はどこにいる」と、岡山大学の小坂学長や両備バスの松田社長、県の名士が私のところへやってきて、「よく来てくれた」と盃に酒を注がれました。

 これは私個人のことだけではありません。両備バスは長く患者を乗車拒否し、切符を手で受け取らず足で外へ蹴飛ばしたり、かぶった帽子の内を覗き込んでハンセン病者と分かると途中の山道で降ろしたり、入所者の恨みの籠った相手でした。岡山大学とは、歳とともに多くなる合併症治療のためにも医学部との人的交流が不可欠でした。その道が高島園長時代に拓かれたのです。高島園長の活動によって園並びにハンセン病が地元の人々に徐々に理解されて行ったこと、これは充分に成功であり、大きな功績でした。

 先生は晩年、神奈川県の二宮に家を建て、障害者となられた奥様の面倒を見ておられました。愛生園に出入りの業者と患者の大工を連れて行って建てた三十坪の小さな家でした。加倉井夫人と本多さんという方がその家を訪ねた後、私のところに電話がありました。それは「勲一等で表彰しておいて、あのような老後の住まいでいいのでしょうか。生涯をハンセン病に尽くされた方の老後としてはあんまりです」というものでした。このお話も先生が生涯をこの病気に捧げられたことを証明しているように思います。



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長島愛生園  加賀田一さん(37)


神谷美恵子先生
 

「いつの日にか帰らん」P198~P207抜粋


 神谷美恵子先生が亡くなったのは1979(昭和54)年10月22日でした。今年(平成21年)、京都の思文閣美術館で先生没後30年の催しが企画されており講演を頼まれていますが、亡くなって30年たってもそういう会がもたれるところに先生のお人柄、人間性が表れていると思います。

 神谷先生が医官として正式に愛生園に入られたのは1961(昭和36)年ですが、戦時中の学生時代も一人で実習に来られています。光田園長を「慈父」として尊敬し、愛生園の医師になりたかったというのですが、お父様がどうしても反対されて正式に赴任されるのはずっと後になりました。お父様は前田多門といって岡山県出身の内務官僚であり、また新聞人でした。神谷先生もお父さんの仕事の関係で少女時代をヨーロッパで生活しています。

 前田多門は敗戦直後に文部大臣に就任し、その父の頼みによって英仏独語の会話にも堪能な神谷先生はGHQと日本政府間の通訳の仕事をしています。先生は精神科の勉強途中だったので、早く学校に戻して欲しいと要求するのですが、その能力を買った政府要人が許さなかったようです。

 神谷先生は精神科の先生で、今で言う統合失調症の人だけを対象にしておられましたので、普通の入所者で直接話したことのある人は少ないと思います。私が非常に感動したのは先生の考え方でした。私はこんな所に入ってまで、朝から晩までがなっている人が近くの監房の中にいるので「困るなあ」と思って見ていました。

 それを先生は「隔離されている中で隔離されている人がいる」と言われました。私はその言葉にハッと気がつきました。同じ病気なのに、確かにそうだ。隔離されながら、さらに偏見をもって隔離している。偏見の中に偏見がある、ということを感じられるのが、先生の素晴らしさでした。

 神谷先生は、人間はどんなに精神病を患っていても愛情は通じるという信念を持っておられたと思います。統合失調症の患者さんを看護婦さんが散歩させるときは必ず一人に二人がついて歩きました。それを神谷先生はお一人で五、六人といっしょに散歩しておられました。何人かで弁当を持って山へピクニックに行く姿を見かけたこともあります。

 ですから先生の愛情というものが精神病者の中に伝わっているというふうに私は見ました。先生は「この人たちは私に代わって病んでくださっておられる。私はこの人たちと友達になることを一生の仕事としたい」と言っておられますが、それが患者さんと接する基本の姿でした。

 精神病の患者は監房廃止後、日赤から寄付された日赤寮に移されましたが、寮は施錠されていました。神谷先生が来られて、精神病棟を別に建てる必要についておっしゃっていました。当時、昼間は入所者が付き添い、夜間は担当職員が一人付いていた「杜鵑寮」という病棟で、昭和40年、一人の患者が不満からわざとストーブを倒して全焼するという事件がありました。幸い死傷者は出ませんでしたが、その後で瀬戸内三園共同の精神病棟が建ちました。

 その頃、先生が「加賀田さん、入園者のアンケートを取らせてください」と言ってこられたことがありました。その後「アンケートの結果はどうでしたか」と尋ねますと、「そうですね。あまり公表できませんが、自治会の会長さんに協力をお願いしておいて結果を知らせないのはおかしいですから、・・・・そうですね。七十%の人が異常です」と言われました。私もアンケートに答えた一人でしたから、「あ、私も精神異常でしょうか?」とすぐに聞き返すと、「いや、そうではありません。社会的異常が起きています」という説明でした。

 それは隔離の中にいるからということでした。考えてみると入所者は普通の社会人ではありません。国費で賄っていますから、経費を一切出す必要がありません。税金も納めていません。医療費、食費も出していません。そういうことが長く続くと、「異常を起こすんです」という話をされたので、私自身についても大いに考えさせられました。生活意欲を失い、社会性が失われていくのですから閉鎖的で独りよがりになっていきます。ですから若い人のセンスを受け容れることに柔軟にならなければいけないと反省しました。

 先生は心臓が悪かったそうで、自分の意思に沿わないまま人生を終わらせるのは気の毒、というご主人の神谷宣郎先生(大阪大学名誉教授)の思いやりから、先生は愛生園の医官に正式に就かれ、宝塚の自宅から通っておられました。その先生が亡くなられたときに、ちょうど私が自治会の会長をしていましたからお葬式に参列することになりました。

 その前夜、休もうとしていたら、神谷先生といっしょにこの精神科の医官を務めておられた葬儀委員長の高橋幸彦先生から「自治会として弔辞をいただきたい」と、電話で言って来られました。

 「いや、困ったな。今から弔辞を書くといっても明日の朝の新幹線で行かなきゃならないし・・・」。急遽、先生から外国語を教えていただいていた島田ひとしくんに、「なんか、あんたが印象に残ってることはないか」と尋ねると、「じゃあ、私の詩を読んでくれんかい」ということになりました。島田くんはその後亡くなられましたが、独学でフランス語とドイツ語を学んでおり、神谷先生が来られると疑問点を尋ねていました。詩人で理論家、患者運動にも積極的で、愛生園入園者五十年史『隔絶の里程』の中心編集者、執筆者の一人でした。

 葬儀場の大阪の千里会館へ行くと、私は遺族席に座らされました。そして弔辞として島田くんの立派な詩を読ませてもらいました。



神谷先生に捧ぐ

そこに一人の医者がいた
五十年の入院生活を続けている私たちにとって
記憶に残るほどの医者に恵まれてきたわけではないが
めぐみは数ではない

そこには一人の医師がいた
「なぜ私たちでなくて、あなたが?」とあなたはいう
「私の”初めの愛”」ともあなたはいう
代わることのできない私たちとのへだたりをあなたはいつもみずから負い目とされた

そこにはたしかに一人の医師がいた
私たちは、いまとなっては真実にめぐり会うために痛み

病むことによってあなたにめぐりあい
あなたのはげましを生きることで
こうして
あなたとお別れする日を迎えねばならない

さようなら
神谷美恵子 

さようなら



 葬式が終った直後、高橋葬儀委員長が「ご遺族の意思によって、本日の御香典はすべて長島愛生園に寄付させていただきます。どうかご了承願います」と、出棺前に言われました。私は突然のことに驚き、言いようのない感動に襲われました。

 その帰りです。愛生園の庶務課長と私がいるところに光明園の原田園長が来て、「加賀田さん、神谷先生には光明園にも来ていただいとったので、うちの患者さんにもちと分けてやってくれ」と言われました。これには私もびっくりしました。「自治会が貰ったわけじゃないですから。帰って、園長にちゃんと報告しますから」と答えましたが、原田園長と愛生園の友田園長は、二人とも愛生園で同僚医師だったのですが、どういうわけか犬猿の仲でした。

 香典は六百万円もの高額でしたので、光明園に百五十万円を渡しました。四百五十万円をどうするか。園長は「君に任した」というので、何か記念として残るものをと自治会で考え、五百二十平方メートルの土地に「神谷書庫」を建てました。

 香典はあとになってさらに、アメリカ、フランス、ドイツなどの知人友人から届いたという八十万円が贈られてきました。これで書庫内部の棚や調度品を揃えました。「愛生」編集部に送られてきた全国療養所の機関誌や資料、蔵書が、古い倉庫に大量に溜まっていましたので、それを集めて整理し神谷書庫に収め、いつでも利用できるようにしました。お陰で研究熱心な方による利用が最近、頻繁になっています。

 神谷書庫落成の折りには神谷宣郎先生にお越しいただきましたが、先生から「あの小額でこんな立派なものを建てていただいて」と丁寧にお礼を言われ、私たちは恐縮するばかりでした。その後、予防法の廃止や違憲判決があって関連書物の出版もかなりありましたので、それら新しい図書も古い資料とともに蒐集しています。

 先年、天皇皇后両陛下が長島愛生園にお見えになったとき、美智子妃殿下が神谷書庫の見学を希望されましたが、コースから外れると宮内庁が言うので行かれなかったということもありました。妃殿下が皇太子妃の頃、精神的に悩まれた時期があり、そのとき神谷先生が面談していろいろ話をされて、美智子様も立ち直られたということがあったそうで、神谷先生の著書は愛読書とのことです。

 このとき私も妃殿下に握手を求められる光栄に浴しましたが、その後になって、看護婦さんや看護学校の生徒さんから私に「握手して下さい!」といわれて、「えっ?」と戸惑うと、「美智子様と握手した手でしょ!」と言うので、「あれから手も洗ったし、顔も洗ったよ」と答えると、「それでもいいから」との明るい返答です。ああ、美智子様は若い女性にずいぶん人気があるものだなと感心しました。
 神谷先生の息子さんはストロー笛で有名ですが、この方は愛生園にも来られて、今でもご縁が続いています。

 それにしても「私の代わりに病んで下さっている。この人たちとお友達になりたい」という思いやり、考え方、そしてそれを実行し貫かれた、そういう立派な人とお話できたことを私は誇りに思います。園内には、どこか聖女の趣きがあった神谷先生の写真を飾っている人もいます。先生は私より四歳ほど姉さんになりますが、その先生を思いますと、比較するのではありませんが、自分がほんとに俗人だと感じます。



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長島愛生園  加賀田一さん(36)


石館守三先生

「いつの日にか帰らん」P184~P186抜粋


 1966(昭和41)年、大阪府と藤楓協会(現・ふれあい福祉協会)主宰の「ライ(ハンセン病)を正しく理解する集い」が森ノ宮の青少年会館で開かれた際、体験談を話してくれと私に声がかかりました。私は「この通り、治っています」としゃべったのですが、そのあとで高島園長に「君に会わせたい人があるので、いっしょに来てくれ」と呼ばれて、ついて行くとそこには真っ白な髪の紳士が立っておられました。

 高島先生は私に「この方がいつも話している、日本でプロミンを精製されて、続いて毎日の静脈注射では痛くて痛くて辛かろうと、DDSを始めとする経口投与内服薬を開発された東大薬学部長の石館教授です」と紹介してくださいました。そして私のことを「この患者さんがプロミンの過剰注射による副作用で末期症状に陥った体験者です」と紹介されました。

 すると、石館先生は私の手の甲から右腕いっぱいに広がっているケロイドを撫でながら、「済まなかったね。よく我慢してくれた。よく治ってくれたね」と、ハンカチを目に押し当てられました。治ったほうがお礼を言って感動するのは当然のことですが、薬を作って治した先生が感動しておられたのです。このとき私は恐縮を超えて、神か仏に出会ったような深い感動を覚えました。私の生命を九十二歳の今日まで延ばしてくださったのは、あの涙を流された先生の深い人間愛のお陰と信じています。

 私が死なずに生きたことを心から喜んでくださった石館先生がおられたからこそ、私は予防法の廃止後、鳥取県の要請に応えて、学校、公民館、シンポジウム、フォーラムで「語り部」として講演を続けることができたのです。この活動が社会教育に貢献したという理由で、思いもよらなかった表彰を県の教育委員会から頂きました。こうして人間としての名誉回復につながることができたのも、多くの方たちの生命の明りがあったからです。最後に私の思い出に残る人たちについて、その「いのち明り」の姿を述べたいと思います。

※「いのち明り」は故・岡部伊都子さんの言葉です。愛生園開園六十周年記念文化講演会(1990年11月13日・愛生園福祉会館)に講師として来園された岡部さんの演題が「いのり明り」でした。

 


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長島愛生園  加賀田一さん(35)


犀川一夫先生


「いつの日にか帰らん」P194~P198抜粋

 犀川先生は慈恵医大の医学生時代にハンセン病医療に一生を捧げることを決意し、その道を貫かれた敬虔なクリスチャンです。愛生園を辞めるという話が伝わったときには入園者1700名が署名して、厚生大臣宛に留任をお願いしましたが、こんな例は他にはありません。戦争末期に光田先生を慕って長島へ来られ、召集され軍医として「中支」を転戦、復員して今度は正式に愛生園に就任されました。

 私は1944(昭和19)年、病気が悪くなったときに犀川先生にお世話になり、そして戦後はまたプロミンの主治医としてお世話になることができました。「プロミンは初めてで、その使い方は私にもわかりません」と、たいへん率直なお人柄で同年輩ということもあり、いろいろな世間話も親しくできました。

 プロミン使用によって菌の陰性者が続出し、園内の雰囲気がどんどん明るくなってゆきました。先生は、内服薬も開発されて自宅からの通院治療が可能になったのだから、もう隔離しているのは間違いだと思っておられました。しかしそれを言うことは光田理論から離れることであり、恩師に反対を唱えることは意に染まないということで悩まれたと思います。

 その頃キリスト教の医療団体から、今なおハンセン病者が多く発生している東南アジア地域に専門医師がいないので先生を派遣したいという話が持ち込まれて、先生は1960(昭和35)年、台湾に渡られました。そこで内服薬投与による外来治療制度という先生の考えておられた医療を、厳しい条件のなかで責任をもって実践されました。東南アジア各地で診療、調査された先生はWHO(国連・世界保健機関)に推挙されて、その専門官として西太平洋地区各国の状況に合ったハンセン病医療政策、体制造りに参与されました。

 先生はこの地域で医療に尽くす動機として、太平洋戦争中に日本軍が行った罪障への償いと奉仕の気持ちがあったと自ら記しています。この地域のハンセン病発生者の減少を見て、WHO本部は先生にアフリカのナイジェリアへの派遣を打診しました。しかし先生は恵まれた待遇のWHOを辞めて、米軍占領下の沖縄に行くことを選びました。

 沖縄においては1967年においても173名の新患者が発生していました。そして専門医師がなぜか一人もいませんでした。前から診察に行くたびに、琉球政府や患者から着任を懇請されていたそうです。

 先生は沖縄愛楽園の園長に就任されると、その最初の仕事として職員住宅と患者区域を隔てるだけでなく、園全体を囲った真っ黒な高い塀を撤去させました。1972年の施政権変換、沖縄の日本復帰にあたっては本土政府のらい予防の適用に抗って、ついに「特別措置法」によって在宅外来治療を公認させました。また本土においてはあり得なかった回復者の職員採用を認めさせました。そしてハンセン病医療を一般保健医療体制のなかに組み入れ、沖縄県全域の保健所の玄関窓口に表示される診療日程表に「ハンセン病診療担当 犀川一夫医師」と告知されるまでになりました。ここまでをほとんど独力で実現されました。

 予防法が廃止になったときの言葉が忘れられません。山縣有朋の邸だった椿山荘で廃止の記念式典が行われて、私も出席しました。玄関でタクシーを降りたら、ちょうどそこに犀川先生も降りてこられた。顔を合わすのは私が沖縄に行ったとき、先生のところを訪ねて喜ばれたとき以来でした。お互いにもっとも古くからの主治医と患者ですから、先生は「おお、永いこと元気でやっとるな!」と、久しぶりに肩を抱き合いました。

 そして会場まで歩きながら先生は、「いやあ、私も長島が好きだった。若いときあそこの果樹園の梅の木の下で一杯飲んだこととか、患者さんと一緒に勤労奉仕をしたことが懐かしいよ。予防法が今日のように、もっと早く廃止されとったら、きみらと一緒に長島におったのに。何年遅れたか」と言われました。

 その言葉を聞いて、やっぱり先生は私が思っていた通りだなと思いました。私としてはもう少し強く主張してほしかったのですが、恩師の考えを深く理解するがために、その恩師を裏切るような真似はできなかった。そのために大変苦しまれた先生でした。

 亡くなる三、四年前、犀川先生から愛生園に旧交を温めに行きたいという連絡があったので、先生を歓迎して親しかった人たちが集まりました。そこでは「私は遺言をしに来た」とおっしゃいました。その遺言とは光田先生の本心についての説明とご自分が愛生園を去った理由でした。

 ━━━光田先生は本心から患者さんのことを思っておられました。この病気は深いから、特効薬ができたといっても十年たってみないと簡単には治ったとは言えないという信念をもっておられました。その頃、ひどい症状の患者を診察されたときに、「プロミンがある時代にまだこのような患者が隠れていたとは、これは我々医師の怠慢だよ」と涙を流しておられました。国会証言で、先生はそういう気持ちをそのままああいう言い方で言ってしまったのでしょう。

 その後、先生はお歳のことがあって勇退されました。私は十年たって、プロミン投与のその後の結果を見ながら、自分の意に染まない形で医療をすることはできないからと長島を出ました━━━

 これを遺言として私たちに伝えたかったとおっしゃったのです。
 犀川先生は、国家賠償裁判では証人台に立たれ、原告側に極めて有力な証言をなさいました。私の生涯において、たまたまこのような先生と若いときに出会って親しくなったことは非常に印象深く心に残る出来事でした。

 


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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