あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

すきま風━━自分で選べなかった人生

石田雅男さん「隔離という器の中で」P64~P68抜粋


 時折”もし、ハンセン病に罹らなかったら”そんな思いがすきま風のように、眠りにつく私を揺り動かすことがあります。

 ハンセン病を患った時点から、自分の進みたい道を自分で選択するということは私から消え去り、ハンセン病というバク(夢を喰う動物)に人生の夢を喰われてしまった筈なのにと思いながら、何時も夢の人生の虜にさせられ、あの道、この道かと夢想にふける自分がいます。

 それは心の底にひそむ人生への未練な思いなのかもしれません。

 しかし、私がその都度、その思いを振り切るのは、人生に違いはあっても人間として生れてきた二度とない人生であり、よその花園を覗くことをしないで前を見つめ、振り返らずに残された人生の時間を大事にしなければならない、そう言い聞かせては、入り込もうとする”すきま風”を撃退しました。

 しかし、時に例外もありました。それは五、六年前、国立長島愛生園附属看護学校の入学式に自治会代表として私(自治会会長)が出席した時のことであります。三十名の入学生を前に毎回のように、一般的な激励と期待の祝辞を申し上げるつもりで壇上に立ったのですが、その時、私を襲ったのは予期せぬ嫉妬心でありました。三十名の若い入学生には緊張のなかにも希望通り入学できた喜びと誇りが感じられ、その彼女たちの後ろには期待と心配顔で見つめる保護者の方々がおられましたが、自分の選んだ道への第一歩を進もうとしていることが、とても羨ましく思えたのです。

 「第〇〇期入学生の皆さん、ご入学おめでとうございます。長島愛生園入園者自治会を代表しまして一言、お祝いの言葉を申し上げさせて頂きます」

 と切り出して間もなく、昨夜までこの日のために心の中で準備していた祝辞の言葉を忘れて語りましたのは、次のような話でした。

 「皆さんたちは将来、看護婦さんになることを希望し、この道を選ばれたと思います。しかし、学びの中で不安になり、自信を失い、自分はこの道に向いていないのでは、と何度も壁につきあたるかもしれません。

 また家族と離れて過ごす日々の寂しさもあって、自分で選んだ道でありながら虚しく思える時があるかもしれません。そんな気持ちに陥った時は私たちのことを思い浮かべて下さい。私たちはハンセン病という病気を患ったゆえに、何十年も親兄弟、家族と別れ、生まれ故郷も忘れるほどの長い間、療養所で暮らしてきました。

 私ごとで恐縮ですが、私は十歳の時に発病して、この愛生園に入りました。今、六十歳を過ぎていますが、私の人生には将来夢を抱いて進む道、自ら選んで歩む道はありませんでした。それゆえに自ら選ぶことができ、皆さんが選んだ第一歩の道が、この愛生園附属看護学校ならば、少々のことは挫けないで、簡単に投げ出さないで、自ら選んだ道を大切に頑張って頂きたいと思います。そして病気で苦しんでいる人、弱い人々を看る強くて優しい立派な看護婦さんになって下さることを心から願っています」

 と結んだように記憶しています。

 人間にはそれぞれの生き方があって、健常者、病者もしくは肉体的障害者か、いずれかを背負わされる宿命的なものがあるように思えてなりません。私は望みもしない病者と障害者になりました。これを当然と思ったことは一度もありませんが、健常者におかれた人たちは健康を当然のように思うあまり、健康であることの喜び、有難さ、その素晴らしさを忘れているのではないか、と思うことがあります。

 例えば結婚して子供が生まれた時、親として何を一番先に思うのか、それは手、足はどうか、五体に異常はないか、と心配し、そして無事であったことに大喜びをする、それほど健康とは大切なものなのです。

 私たちは病者であっての苦しみ、障害者としての痛みを受け入れて生きています。そして、同時に他人の痛みも苦しみも理解できるようになりました。

 看護学校の入学式における私の心境は、保護者の方々に見守られている入学生に対し、私にはなかったことへの”嫉妬”であり、宿命的な私の人生に対する悔しさでありました。また同時に、きれいごとのようですが、私の思いの一片を前途ある若い人たちに託したかったのかもしれません。

 私にはもはや自分の将来に夢を託すことができません。寂しい限りですが、私の人生に与えられた時間はそんなに多く残っているとは思えないからです。しかし、どんなに”すきま風”が囁いても、これからの生きる時間はこの世に生きている証として大切に、そして愛しみながら過ごしてゆくことに変わりはないと思っています。


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「里帰り」と「ふるさと帰り」━━里帰り事業に思う

石田雅男さん「隔離という器の中で」P76~P83抜粋


 各県による里帰り事業も初期の頃は、県が用意してくれたバスに乗り、車窓から眺めることに終始して食事時間(弁当)には、しばしの時間を人気のない河原か野原で過ごし、時には神社、仏閣の関係者のご理解を得て境内の片隅で過ごしたこともありましたが、そこには故郷の風も吹いていません。

 従って里帰りの実感もありませんが、それでも社会から、故郷からも隔絶された県出身の入所者に車窓からであっても故郷の山河を眺め、社会の風にも触れてもらいたいとする「里帰り」の県企画であって、悪い筈はありません。

 こうした里帰りも時代と共に内容が改善され、県内の観光旅館、ホテルで一泊から二泊の企画が実施されるようになりました。この「里帰り事業」は各県の申し合わせのように隔年ごとの実施でしたが、それでも参加者は少なく、その顔ぶれが限られて来たのは、健康面の問題と、同じ県人であっても生れ育った地域が異なり、里帰りコースも難しいという事情から、結果は一般的に知られる県内の観光地めぐりの「里帰り」になってしまいました。

 これもまた仕方なし。ふるさとには近づかないでほしい、とする出身者の家族と周りの事情もあって、従来の里帰りの在り方をと願う県人の気持ちも理解できます。

 一方、不自由ゆえに参加者と一緒に行動ができないので参加を諦めている県人にしますと、「里帰り」らしく、ふるさとの側をクルマで走りぬけるだけでもいい、そして、ふるさとの空気を吸ってみたい、そう願う県人もいます。

 里帰り事業の難しいところでもありますが、ある時、兵庫県から、里帰りについての意見を求められましたので、私は従来の里帰りの在り方に良し悪しをつけるのではなく、今までの集団里帰りについては一考すべきではないかと、申し上げましたのは、従来の「里帰り」方式も尊重しながら、新しい企画として、不自由であっても、高齢で体が弱くなっていても、生まれ故郷の風に触れ、墓参りがしたい、そのように希望する県人には小型の車による「ふるさと帰り」として実現できれば、県の里帰り事業にも幅ができて、いいように思いますが・・・と。

 その後、私が申し上げたから実現したというわけではありませんが、兵庫県と他県の数県が「集団里帰り」「個別里帰り」といった二本立ての企画がなされ、しかも隔年ではなく毎年、「集団」「個別」のいずれかを希望にそって実施する、ということになり、ました。

 それぞれの県に大きな前進がみられて大変嬉しく思っているところです。

 それでも「らい」を病んだ者には、哀しいことに家族を失うか、ふるさとを失うか、そのいずれかの運命的なものがあるように思えます。

 皮肉なことに、社会と隔絶された厳しい時代であっても当時は家族もふるさともありました。しかし、入所して数十年が経ち、隔離から解放されて家族の元へ、ふるさとへ戻れる時代になったといわれる今、入所者はまるで年老いた浦島太郎に似て”ふるさと”は遠くに在りて思うものの存在になっています。

 もう20年ほど昔のことですが、私が父親のように親しく思い、おやじヽヽヽと呼んでいた人は長崎県出身で、長崎に「集団里帰り」をすることになった時、おやじさんは80歳という高齢に加えて視力も弱く、そのうえ手足も不自由なこともあって、私は付き添い役を頼まれて同行したのです。数人の県出身者と一緒に夜行寝台車に乗り、眠れない私たちは寝台に座って持っていたウイスキーを二人で飲み交わしていますと、その様子を見ていた一行の御婦人から「あんたたちはまるで本当の親子のようだワ」とひやかされましたが、この「里帰り」で私が最も強い印象を受けたのは、里帰り一行が初日に泊まった長崎県内の旅館でのことでした。

 歓迎会のような宴会が盛り上がっていた時、「Aさん、面会の方がお見えです」と知らせがあり、Aさんとは、私が付き添っているおやじさんのことです。おやじさんは事前にご家族と連絡をとっていたこともあって、来たかと、待っていたように私を促しながら、その宴会の席を離れて案内されるままに別の一室に入りますと、そこには、おやじさんのご家族と思われる方たちが正座の構えで待っておられました。

 初対面の私は少し緊張しましたが、時間の経過とその後の雰囲気に気持ちも落ち着いた時、おやじさんの奥さん、長男、長女、それに3人のお孫さんたちに対して、私からAさんのことを話ました。

 体が不自由になったゆえに不自由な人たちのことが分かり、療養所での医療、看護の充実と療養所の改善のための運動には常に先頭に立ってがんばっていること、お陰で療養所は随分とよくなり、Aさんは病気に罹ったけれども立派に生きて来られて、私たちは心からAさんを尊敬しているんです。と、私はAさんのご家族におやじさんのこと、療養所のあれこれを話しました。

 特にAさんの息子さん、娘さんは子どもの頃に別れた父親のことを恨みに思った時もあったに違いない。そう思えてならなかった私は、息子さん、娘さんに対して病気に罹ったけれど立派な父親であることを誇ってほしい、そう言いたかったのです。

 おやじさんの膝を三人のお孫さんが遊び場のように代わる代わり乗りかかり、おやじさんの顔面は後遺症のせいもあって嬉しさの表現は小さいものでしたが、膝を揺らせて体全体に喜びがあふれていました。

 その様子を奥さん、息子さん、娘さんが笑顔で眺めて、何ともいえない家族の素晴らしさを知りました。

 おやじさんの「里帰り」はこうして旅館の一室でしたが、素晴らしい家族との再会でした。生れ故郷の”ふるさと”には、その後も立ち寄ることなく、亡くなるまで「ふるさと帰り」はありませんでした。家族はいても”ふるさと”には帰れない、”ふるさと”はあっても家族はいない、やるせない思いがします。

 「里帰り」も「ふるさと帰り」もそれぞれ郷愁をただよわせた温もりのあるものであってほしい。”ふるさと”は在っても家族のいない私ですが、「里帰り」「ふるさと帰り」に託す思いはいっぱいあります。

 「ハンセン病訴訟」判決後に地方自治体として各都道府県が入所者の社会復帰支援、また里帰り事業等に前向きの姿勢を示したことに、私は心より感謝を覚えています。

 そして、その成果と課題はこれから見えてくるものと思いますが、今一つ私個人として叶えられるものならば、と秘かに思いを抱いていますのは、ホームステイのことであります。

 長い間、閉じ込められてきた入所者にとって、「社会復帰」「社会生活」「里帰り」等の話が新鮮な響きとなって聞こえてくるなかで、半信半疑の後、それが現実のことと信じられた時、それに順応できない高齢者、後遺症の重い障害者にとっては、遅すぎたということによる新しい哀しみが生まれたように思います。

 私は”ふるさと”はあっても家族のいない入所者が多いと申しましたが、そうした人たちにホームステイのような機会が与えられたら・・・とよく思います。(以下は略させて頂きました)。


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生きる━━史跡は語る、亡き友の支え

石田雅男さん「隔離という器の中で」P121~P128抜粋


 話題らしいものは何ひとつない、無風状態の療養所の中で何故か私たちは、話ばかりに明け暮れました。

 それは「らい」を病み、社会から隔絶された身になれば過去は唯一生きてきた”証”でもあるかのように、私たちは過去を想い出しては、それを心のよりどころにして語り合い、語り尽きればまた繰り返す、同じ話となってもそれを聴き合うようにして付き合うのが療友仲間でもあります。

 そして、私も何時の間にか「愛生園」在園57年。歳月が流れて昔のことを振り返っては、過去がどうであれ、懐かしく想い出されて胸が熱くなったり、また痛く疼いたりすることもあります。

 過去の時間はまるで雨あがりの濡れた地面のように、ぬかるみ、そして水溜まりに足をとられたりして、時には顔を洗うほどの涙を流したこともありました。そのような辛い水溜まりがあっても、その水溜まりに映る青空に生きてゆく小さい勇気を持てたのは、人間としての”生”に対する執着であり、生きることのしたたかさがあったからです。辛く寂しい夜があっても、それなりに朝を迎え、心の疼くような冬が来ても、僅かな安らぎを覚える春も来ました。

 愛生園には今でも隔離時代の遺物のように「患者収容所」が残っていて、収容された患者の消毒風呂、身体検査、所持品あらため等当時の悲愴な思いが詰められたまま、その建物は蔦に覆われています。また、その近くの浜には患者が家族や故郷との永久の別れと唇を嚙みしめて船から降りた”患者収容桟橋”が根元部分のみであっても、当時を思い起させるように残っています。さらには、所内の秩序維持、治安のためとして、これらを乱す者への罰則の対象として設置された監禁室(監房のこと)の鉄筋造りの外壁の一角が、”俺たちのことを忘れるな”とばかりに顔を見せて、埋没に抵抗するかのように残されています。これらを見つめるとき、入所者は身も心も疼き、できるなら目に見えないようにしてほしい、そんな思いから一時期までは建物は解体もしくは埋めるということも検討されました。しかし、今では「人権」問題と「人権意識」から非人道的で過酷な過去を過去として、史実を風化させてはならない、二度と繰り返してはならない、そのためにこれらを保存すべきだ、という思いに変わりました。やがて何時の日か入所者がいなくなっても、保存されていればこれらの史跡はきっと多くの人々に人権を問う無言の語り部となってくれることでしょう。そう思う時、この史跡たちも時代の証人であれば、何処か共通した重荷を背負わされている者同士といった切ない友のようにも思えてきます。

 そして私の隔離の人生にあって、今は亡き親友K君の大きな支えがあったことを忘れてはならないと思うのです。K君は23歳の若さで世を去りましたが、私より1歳年上で、入所した子どもの頃から気がよく合う親しい友でありました。成人してからもお互いに助け合い、励まし合って過ごしましたが、K君は常に私のことを自分のことのように思い、温かい友情を注いでくれました。

 そんなK君がある日、激怒して私の頭を叩いたことがありました。それは私が飼っていた猫の頭を叩いたことが原因でしたが、その時、K君の怒りと悲しそうな表情を見て、私は子どもの頃のことを思い出したのです。

 18歳までの少年少女が住んでいた”望ヶ丘少年地区”では、ある時期に猫を飼うことが流行って相当数の猫がいました。そして、K君も猫を飼う一人でしたが、猫が増えるに伴って猫による被害も多くなり、やがて子どもたちの親代わりを務める人たちから、猫を飼うことが禁じられて、飼い主たちはそれぞれ責任をもって始末しなければならなくました。始末するということは殺すことであります。K君は泣きそうな顔をして、海に捨てる、と私に言いました。そして海岸の岩場から泣きながら海に落としたのです。猫は必死になってK君のいる岩場に戻ろうと泳いでいましたが、泳いでいるというより、苦しそうにもがいているようでした。可哀想だなあ、と思いながら見つめていた時、突然K君が高さ三メートルほどの岩場から海に飛び込み、猫を抱きかかえるようにして岸辺に上がったのです。その後、K君と私は猫をどうするか、小さい頭で悩み考えた末に、猫は殺さずに木の箱に入れて海に流しました。

 K君が猫好きであったことを思い出した時、叩かれた頭の痛みも消えてしまいました。

 優しい人柄のK君と永遠の別れとなったのは、K君が23歳、私が22歳の時でした。

 正月も近くになって私は大阪に居る両親の元へ一時帰省をすることになりました。K君は一年ほど前から胃の具合が悪く、時にはひどい痛みも伴って大変つらそうにしており、私のいない正月は面白くないから、この機会に病棟に入って胃の治療をする、そう言って12月28日に病棟に入りました。私は予定通り12月30日に一時帰省をしましたが、出かける前に私が病棟のK君を訪ねると、彼は私に「俺に代わってこれを着て帰ってくれ」と、新品のオーバーを差し出したのです。そのオーバーは名古屋で働いているK君のお兄さんからの贈り物であり、その頃は療養所でオーバーが着られる人はそんなに多くはいませんでした。そしてK君が一度も袖を通していないこともあって、私はためらいましたが、K君の思いを嬉しく受け入れて大阪に帰りました。

 そして、正月も明けて愛生園に戻るなりK君のいるベッドを訪ねると、K君の姿がなく病棟の人に尋ねたところ、「K君は胃の手術をしたので外科病棟のほうに移ったよ」と教えられて、その病棟を訪ねると、K君は私を待っていたようにベッドに坐り、笑顔で迎えてくれました。手術をしたことに驚いている私に、K君は「今日は帰って来るだろうと待っていた」と元気そうな表情を見せながら、思いもしなかった手術のこと、胃の状態について先生から聞かされたことなどを話してくれました。胃の状態については、胃潰瘍でかなり悪かったが、手術は成功した。しかし、体力が回復したらもう一度手術をしなればならない、とのこと。

 全く心配はない、という思いではなく、私は多少の心配を抱えながら青年寮に戻ったのですが、部屋で着替えて小一時間ほどして連絡を受けたのは、K君の死でした。信じられない思いのなかに驚きが走りました。嫌な聞き違いだ。耳がおかしくなっている、死ぬなんて筈はない、とひとり言のように呟きながら、私はK君の病棟に向かっていました。

 病棟の個室に入ると、そこには医師、看護婦がベッドを囲むようにしてK君を見つめていました。

 看護婦さんの中からすすり泣きをする声も聞こえましたが、私には一時間ほど前の元気で笑顔を見せていたK君の印象が強くて信じられませんでした。

 無念な別れから46年経ちましたが、心優しいK君の友情は心に残り、時として優しさを忘れた私を責めては励まし、私の歩む杖となって支えてくれます。

 人間はもともと優しい心を持って生まれてきた生きものだが、時に、その心を見失ってしまったり、何処かに落としてしまったようなところを見せます。

 どのような境遇にあっても優しさを忘れない、見失わない人間でありたい。

 10歳の時に発病し、哀しい宿命として愛生園に入りましたが、幼な友だちの親友K君とめぐり逢えたことは大きな宝を得たような喜びであります。


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”晩婚”五周年━━雨の日も晴れの日も二つ割り

石田雅男さん「隔離という器の中で」P129~P137抜粋


 平成11年5月22日、私たちは結婚しました。私が62歳、妻は49歳、13歳違いの夫婦の誕生でした。

 入所者の平均年齢76歳という療養所の世界では結婚ばなしも縁遠く、私たちの結婚は25年振りの目出度いでき事として多くの友人知己から祝って頂きました。

 早いものでそれから5年が経ち、私たちもそれなりに落ち着いたベテラン顔を見せながら日々を過ごすようになりました。

 5年間を振り返りますと当然のことながら、夫婦であっても人格をもった人間が二人一緒に暮らすのですから、何度も考え方の相違と虫の居所が悪い時には、主張合戦も交えました。

 私たちが一緒に暮らすことになりましたのは、年齢的に人生の後半に至っていることで、決心しかねていた私たちの背中を押してくれたように思います。

 一般的には年齢についてある時期を過ぎますと、この齢になって今更・・・と結婚を煩わしく考えられる人が少なくないと思いますが、私たちはその反対側の思いから結婚を決意しました。確かに煩わしく思うことも喧嘩のような口論もしましたが、その一方では何かにつけて助け合う二人として孤独な状態を避けることも出来ました。人間とは寂しい生きものなのか。年々加齢するほどに人間関係が煩わしく思え、部屋に閉じ込もりがちになり、やがて孤独という枠の中に身を置くケースをよく見かけます。しかし、私たちは身体障害者ですので、肉体的にも精神的にも弱い人間として、励まし合い、助け合うことが最も必要なことと思い結婚しました。このように思って結婚しました私ですが、一つだけ時折複雑な思いに心が揺れることがあります。それは、今は亡き両親のことです。私がハンセン病を患い、「長島愛生園」に入所しましたのは昭和21年、10歳の時でした。両親はよく面会に来てくれましたが、私が20歳を迎えた頃を境に、面会の度ごとに両親と私の結婚について口論を交わすようになりました。

 母は「子供を産むことのできない結婚は反対や、雅男には療養所を出て結婚してほしいんや」。

 父は「たとえこの療養所の中でも、雅男に好きなひとができて、その女も雅男のことを思ってくれるなら結婚するのもいい、雅男の自由だ」。

 この頃の私には”結婚”ということに全く関心がなく、何故か縁遠いものに思えていましたから、うんざり気味に眺めていました。しかし、今にして思えば父の言葉も母の強く反対した気持ちも真剣に私の結婚、私の将来について考えてくれたことであって、両親の温かい思いが痛いほど理解できるのです。

 同時に他人事のように構えていた当時の私の態度を思い出し、両親に対して申し訳なかった、と神妙に反省もしました。

 療養所内で結婚が許可されて、多くの入所者は結婚しました。隔離の厳しい時代では所内結婚は逃走防止、療養所への足止めとして隔離の徹底の象徴のようにも思えます。考えようによっては不幸にして「らい」に罹り、隔離の身となった者たちが終の棲家として、この地で過ごすなかで同病あいあわれむに愛が加わり、互いに励まし合い支え合う、善意に解釈すればこのようにも考えられる所内結婚でもあったのではないでしょうか。いずれにしても所内管理者にすれば入所者の逃走防止と落ち着いた生活につながるといった一石二鳥のようにも思われます。

 私の結婚に熱い思いを抱いた両親は、もうこの世にはいません。両親の会話を聞かされてから数十年、結婚に縁のなかった私にも「結婚」の二文字が、まさに遅まきながら頭の中に棲みつき、結婚について考え、そして結婚しました。これからの人生に残されている時間は多くはない、お互いに生きてゆくことに不器用な者同士ゆえに晩婚となってしまったのかもしれない。それだけに二人して力を合わせて時間を大切にしてゆこう、笑うことも泣くことも、雨の日も晴れの日も二つ割りで共有して暮らそう、これを心がけて今日に至っております。

 私の両親が生きていればどんな会話をするだろうか、口論ではなく、きっと心から喜んでくれるに違いない、そして、私たちの歩みを灯台の明かりのようにして見守ってくれているような気がします。

 また私たちの結婚で大きな収穫となりましたのは妻、懐子なつこの母のことであります。

 結婚して間もなくして私は懐子に、「お前のお袋さんはどうしているのかなあ、元気で生きておられるかなあ」と、母のことをどう思っているのか、私も気になっていましたのでそれとなく尋ねました。母と音信が絶えて三十数年、逢いたい、しかし何処にいるか分からない、もしかして生きていないかも・・・母を慕う思いと諦めのようなものが懐子の胸に交錯していることを知りました。懐子の母が生きているかどうか分からない状態で時を過ごせば、きっと大きな後悔をする。そう思った私は、「懐子、お母さんを探そう、私たちのお母さんだよ」。

 私たちは早速、懐子の出身地である山口県に問い合わせをしたり、当時の県予防課の担当官を探したりして協力を求めました。そして、半年ほど経って元担当官の方から、「お母さんの居所が分かりました。お元気でお兄さんご夫婦の元で暮らしておられます」と嬉しい連絡を頂いたのです。

 懐子は泣いて喜び、私も胸が熱くなり、元担当官の方のご努力に心から感謝し、お礼を申し上げました。

 そして、次は母からの連絡を待つことになりましたが、母のほうにも躊躇するものがあったのか、一ヶ月経過しても連絡がなく、妙な不安にかられていた頃、母から電話が入りました。

 懐子にとっては、32年振りに聞く母の声でした。

 そして、翌年の平成12年の春に母は愛生園にいる私たちに逢いに来てくれました。三日三晩、母は懐子の子どもの頃の話、発病した11歳の懐子を愛生園に連れてきて、懐子を愛生園に残して帰った時の悲しく辛かった話に終始しました。また、懐子も子どもの時に母と祖母に連れられて愛生園に入り、自分を置き去りにして帰ってしまった母を恨み続けながらも、成人してからは「らい」に罹った自分も辛いけれど、親は親でいろいろと世間体もあって辛い思いをしたことだろう、そう思えるようになってから、母への恨みは何時しか消え、母の立場に重きを置くようになっていたようです。

 母の消息が知れた時、母は再婚もしていなかった。そのことが懐子にとっては自分のような子がいなければ再婚したかもしれない、そうも思えた。懐子が4歳の時に父が亡くなり、懐子が11歳で愛生園に入った後も母は再婚しなかったのです。「再婚の話はあったけれど、病気の娘のいることを言わなくてはならない、それが辛くて」と母は語っていました。子どもの時に親と引き離され、寂しさと心細さに毎日毎日泣き明かした懐子でしたが、母の話を聞いて自分の罪のように悲しく切なかったようです。

 また、母は懐子が「らい」に罹ったことで県の衛生担当者から、「愛生園に入らなければ家の中も家の周りも消毒する。愛生園に行くのであれば消毒しない。だから愛生園に行ってくれ」と言われたそうです。

 公衆衛生上、伝染の怖れから消毒するのではなく、消毒行為はあきらかに周囲への見せしめであり、家族に対する脅かしであって如何に理不尽に扱われたか、今更のように憤りに頭の中が熱くなるのを覚えました。

 私たちに逢いに来て下さった懐子の母はその後もよく来て下さり、来られると一週間前後を一緒に過ごし、最近では懐子との三十数年の空白も相当埋められたようで、お互いに言いたいことを言い合って親子喧嘩のようなところも見られます。三十数年前に母と別れた後、収容所前の入江に立って、毎日母を求めて泣いたという涙の跡も見えない。生きていてよかったナ、私まで何か救われたような気分になりました。

 母には何時までも元気でいてほしい、と願う私たちであります。

 私たちは一緒になって丸五年が経過しましたが、今でも私たちのことを「新婚さん」と声をかける人たちがいて照れますが、多くの友だち仲間から励まされ、助けて頂いて感謝しております。そして若干の健康にも恵まれていることを大きな喜びとして、構えることなく自然体で日々を過ごし、できるものなら次なる「晩婚」十周年を健康に迎えたいものと心から願っております。


石田さんご夫婦は愛生園で元気にお過ごしです。今年は平成29年ですから、結婚して18年を迎えられました。懐子さんとぼくは、3歳しか違わないということが、ひとつの衝撃です。
最近はお会いしておりませんが、
北田由貴子さんや辻村みつ子さんらの文学談義ができたらなあと願っています。


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心のよりどころ(文芸・宗教)━生き甲斐を求めて


石田雅男さん『「隔離」という器の中で』P50~P57抜粋


 「長島愛生園」の園長は現在、七代目でありますが、初代園長であります光田健輔先生ほど光と影を色濃く映した人物はほかにいないと思います。

 明治28年、当時らい患者が四国八十八ヶ所の寺々、熊本県の本妙寺などで参拝者に物乞いをしている様子を見て、英国人宣教師のハンナ・リデルは、救済活動として回春病院を創設されました。

 ”らい”に目を向け、手をさしのべたのは総べて外国人宣教師たちであり、”これでは日本人として恥ずべきことだ”と光田先生が”らい”に関わった動機については多くの人たちの知るところでありますが、その後も”らい一筋”の姿勢は変わらず、やがて”救らいの父”と崇められ、文化勲章を授与された人物となりました。

 ある入所者は、「私たちは世間からも、そして親兄弟からも忌み嫌われましたが、愛生園に入り光田先生にお会いして、本当の親のように思えて安心と感謝の日々を過ごすことができました」。また、「愛生園があっていのち長らえることができたのです。愛生園がなければいつどこでいのち果ててもおかしくはない身の上でした」。

 今は亡き療友の言葉が耳に残りますが、時代の流れが過去を糾弾するにつれ、光田先生は非人道的な隔離の推進者であり、悪の根源とされました。まさに時代の中の功罪相半ばする光と影のようであります。

 入所して数十年、病気と対峙する中で、私は自らの病の醜さをなじり、哀しみながらも私自身をいとおしむ、という心の葛藤に明け暮れ、その状況の中から宗教・文芸等に関心が芽生えたように思います。

 それは、同時に初代園長の光田先生が入所者にとっての”生き甲斐””心の安らぎ”のためにと奨励されたところの「宗教」「文芸」であったのかもしれません。

 文芸活動については、開園早々の昭和6年に俳句会、短歌会が発足し、昭和9年詩謡会(後に詩話会)、昭和16年、創作会(後に随筆会)が発足しました。

 世間から忌み嫌われ、社会から排除され、隔離の中で病苦と闘い、病む身の辛さ、運命的な哀しさと切なさを文芸の場で綴る「らい園文学」と言われながらも文学という名に自分の思いを吹き込むことを生き甲斐とした先人は数知れずいたように思います。

 そして、文芸活動はその後も昭和27年、川柳七草会、昭和29年、評論部会が発足するなど、多くの入所者に関わりを持つようになりました。

 私も昭和29年に詩話会、昭和48年に創作会に入会し、深夜にペンを握り、まるで雨の滴のようにポツリポツリと思いの一滴一滴を人知れず書き綴り、励んだ記憶があります。

 恥ずかしく思いますが、その頃に綴った創作一編と散文一編を本書の末尾で紹介させて頂きます。

 また、生き甲斐対策である一方の宗教活動についても開園と共に真宗同朋会、真言宗大師講、日蓮宗日唱会、キリスト教曙教会が昭和6年に発会、その後、昭和10年、天理教誠心会、昭和23年、禅宗修証会、昭和36年、カトリック・ロザリオ教会、昭和32年、本門仏立宗六清会、昭和34年、日蓮正宗創価学会、このように各宗派が発足し、布教師、伝道師、巡教師、導指の来園布教の基にほとんどの入所者はそれぞれの宗派に入信し、宗教を心の安らぎ、生きる支えとしたようであります。

 私も21歳の時、ふとしたことで”聖書”に興味を抱いてキリスト教会の日曜礼拝に出席をしましたところ、そこには入所者の中でも相当に不自由と思われる盲人の方々、手足にも重い障害のある方たちが、とても明るい笑顔と大きな声で讃美歌を唱っていました。

 その光景は私にとって意外であり、驚きでありました。何故こんなにも明るいのか、と唖然とさせられたのです。”らい”を患っていても手指に若干の障害がある程度で、それほど不自由を感じなかった私でしたが、礼拝者の明るい笑顔に勝る喜びは私にはありませんでした。当時の私は21歳の若さのせいもあってか、宗教というものにあまり関心もなく、宗教の世界に入るようなことは考えられませんでしたが、その明るい表情を見つめていると、これが信仰というものの”力”なんだろうか、と思えてきたのです。

 そして私も何時かは健康を失い不自由になるかもしれない、その時に宗教に関心を持ち信仰を持つなら、今の健康で若い時に・・・と得体の知れない信仰の力に魅せられるようにして、その年の12月にキリスト教信仰者として洗礼を受けました。それなりに聖書もよく読み、礼拝説教にも耳を傾け、賛美歌を唄うクリスチャンらしいところも身についた時もあり、また信仰を見失ったような時もありの日々が今日まで続いております。

 「らい」に罹り隔離された中で入所者が宗教によって観念を押しつけられたのではなく、入所者自らが心のよりどころとして宗教を求めたものと私は思います。

 平成8年、「らい予防法」が廃止されたと同時に、真宗大谷派から”ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明”が出されました。声明文の中には次のように書かれていました。


 1931年、真宗大谷派は「らい予防法」の成立にあわせ、教団をあげて「大谷派光明会」を発足させました。当時から隔離の必要がないことを主張した小笠原登博士のような医学者の存在を見ず、声を聞くこともないままに、隔離を主張する当時の「権威」であった光田健輔博士らの意見のみを根拠に無批判に国家政策に追従し”隔離”という政策徹底に大きな役目を担っていきました。(中略)国家は法によって「患者」の「療養所」への強制収容を進めました。それと相俟って教団は「教」と権威によって隔離政策を支える社会意識を助長していきました。確かに一部の善意のひとたちによって、いわゆる「慰問布教」はなされましたが、それらの人たちの善意にもかかわらず、結果として、これらの布教のなかには、隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。(中略)真宗大谷派は、これらの歴史的事実(教団の行為と在り方)を深く心に刻み、隔離されてきたすべての「患者」とそのことで苦しみを抱え続けてこられた家族、親族に対してここに謝罪いたします。(中略)私たち自身が継続的な「学習」を続けていくこと、そして「教え=ことば」が常に人間回復、解放の力と成り得るような、生きた教えの構築と教化を宗門の課題として取り組んでいくことをここに誓うものです。以上
『真宗』(1996年・5月号)より


 こうした謝罪声明を出された真宗大谷派の厳しい反省と今後の取り組みを示されたものですが、宗教と布教の在り方に限らず人の世では何ごとにおいても過去、現在の観点には、時代的な相違があるように私には思えます。そして時代はどうあれ、宗教によって自分を見つめ、心の安らぎを覚えた入所者の信仰であったことに違いはないと思います。また文芸によって自分の生き甲斐と存在感を覚えたことも疑いのないところです。私たちに残された時間が宗教・文芸に限らず、生き甲斐と心の安らぎを覚える日々となることを願っております。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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