長島事件
著者は、入所した1936年(昭和11年)から、戦後の1946年(昭和21年)までの10年間を、よくぞ生き抜かれたと思います。だからこの本(いつの日にか帰らん 著者 加賀田一さん)を今、私は手に取ることができています。
この本を通してのクライマックスとも言える「長島事件」は、一般社会と同じような風景に見えました。事件は、開拓患者として衆望を集め、患者総代として長島事件の中心となり、初代自助会会長になった木元厳氏のその後の憤死、そして数人の自殺者を出す悲しい結末となりました。
自分の内面や病気の苦しさよりも、周囲の状況や愛生園の現状をありのままに、的確に、冷静に見続けておられる様子が随所に出てきます。
長島事件
私が入所してちょうど半年後(1936年、昭和11年8月)に、1200名全員がハンガーストライキをするという前代未聞の長島事件が起きました。
事件勃発の最大の原因は、国立療養所としての年間予算に「作業賃」がなかったことです。本来、療養所の病人に義務労働のあること自体がおかしいのですが、運営上初めから必要不可欠な仕事として組み込まれていた患者の作業労働に対する報酬が予算に計上されていませんでした(戦後の昭和22年になって初めて、刑務所の作業に支払われる名称と同じ「作業賞与金」が示達されました)。
ひどく安い作業賃でしたが、それでも当時の金で1900円くらいは必要でした。その資金を患者の食料費、治療費、被服費、衛生費等をカットして当てていました。しかも890人定員のところに1200人いたわけですから、人数だけで30%も予算分よりオーバーしています。さらに「無らい県運動」とか「1万人収容計画」を謳って、国策として強制収容を精力的に続けていましたから、入所者への待遇がどんどん悪くなる一方、作業賃の出費は多くなって2200円にもなりました。食料費、被服費、治療費、施設営繕費などから捻出しなければならなくなりました。
「一食半餐を分かちて一人でも多くを」と高唱する園長に忠実な職員が「これはどこか締めなきゃいかん」と思ったのでしょう。当時、島の中央部と東部の物資運搬は船でしたので、隔てる山を掘削して道路を造っていました。土木技術を知っている久保田一朗氏が主任でした。そこで働く土工は午前中3時間、午後2時間働いて一番安い「丙」の6銭でしたから、両切り10本7銭のゴールデンバットも買えない安さです。
早朝、その現場へ職員が「不正出勤があるんじゃないか」と抜き打ち検査に来た。するとそこで働いている人が「バカにしてる! 作業主任を信用しないなんて、わしらはもうできん!」と作業を放棄した。これが長島事件の発端でした。そこで働いていた女性たち40人も「食べ物が悪い」、「我々を奴隷扱いにする」と、日頃の不満を口々に言って騒ぎ出しました。
そのうちに行進が始まって、園内で一番高い、鐘楼のあった光が丘に登って、抗議の気勢を上げました。きっかけさえあればいつでも爆発するところまで怒りのガスが溜まっていたということです。
「事件」が始まったとき、私は部屋にいました。夜になって日頃から不満を漏らしていた連中が「団体交渉をしてるから会場に集まれ」と、バットなどでドンドン叩きながら各寮を回って歩きました。私が会場の礼拝堂に行くと、満員の会場はヤジと怒号で騒然としていました。
「園長の古ダヌキめ、もうだまされんぞ!」
「おれらを島に閉じ込めて殺そうたって、そうはいかんぞ!」
「この野郎! 安い賃金で働かせやがって!」
「奴隷扱いしやがって、人間が食べるものを食わせろ!」
檀上には園長1人がポツンと座っており、その園長に向かって下駄やら草履が飛んでいました。いつでしたか、アメリカのブッシュ前大統領がイラクでの記者会見中に、「記者から靴を投げつけられヒラリとかわしましたが、その時の光田園長の泰然自若とした態度は忘れられません。
その最中に天井の空気穴から鉛筆が1本落ちて来たので、上に向かって「この野郎!」と怒鳴ると、2階から2人が逃げ出しました。職員がその交渉模様を、その前からここで開かれていた寮長会の審議内容ともども盗聴していたのでした。
「盗聴者を捕まえろ!」と、大勢の者が外の暗闇に飛び出しました。2、3人が事務本部に通じる電話線に引っかかって将棋倒しになったりしながらも、夜警中の職員を1人捕まえて人質にしました。
園長に対し、「この卑劣きわまる行為は許されない。現在、逃走未遂で投獄されている4人を解放しなければ、この職員は渡さない」と迫りました。さすが頑強な園長も職員は守らねばならず、患者側へ監房の鍵を渡しました。
鍵を持った4、50人が監房に向かい、本館の前まで来たとき、いきなり放水、目つぶし攻撃を受けました。患者に向けての放水にいきり立ち、興奮のあまり本館のガラス窓を割り出した者を羽交い締めにして止めるなどということもありました。後になってわかったのは、職員のほうでは電話線が切れて連絡が取れなくなって、たくさんの患者が本館めがけて攻めてきたと思ったとのことです。
そこで自分たちだけでは処理しきれないと判断したのでしょう。職員側は本土に連絡したので、消防団員と警官40人が入ってきました。職員の家族も全員、本土に避難しました。
患者側は作業の全面放棄を決定実施し、800人の軽症者、不自由者はムシロ旗を先頭に園内を行進して、島の中央の光ヶ丘に登りハンガーストライキに突入、要求の貫徹を誓い合いました。夜間はサーチライトで照らされての対峙が52時間にわたり続きました。そのため重病棟の食事は医師、看護婦、職員で行わなければなりませんでした。
当時、療養所を管掌していた内務省衛生局から急遽、担当者が派遣されてきました。また同じく内務省(警保局)に属していた警察から、岡山県の特高課長が乗り出してきました。特高といえば、軍隊における憲兵とともに、たいへん恐れられていましたから、特高の登場は患者側を軟化させました。また、みんな病人ですから、体も弱って来ていました。私もムシロ旗を掲げて光ヶ丘でハンストしていましたが、腹は減るしみんな疲れが増していました。結局その堀部という特高課長が仲介に入って話がついたのでした。
3項目要求と戦後民主主義
患者の要求をまとめると3点ありました。処遇を実在人員分に改善すること。2つ目に他の療養所(外島保養院、大島青松園)のような自治権の要求。第3にこのような状態をもたらした園長と職員3人の辞任要求でした。
斡旋の結果は、
・11月から1200人の定員に予算や職員を増やす(事件の発生は8月)。
・自治は認められないけれど、自助会なら認める。患者側リーダーも職員のほうも、どちらもこの事件の責任は問われない。
━以上でした。
結局作業賃という予算は計上されませんでした。自助会は園長の認める範囲での「自治」でしたが、とにかく患者の要求をまとめ、園当局と交渉できる機関が正式に認められました。後にはこの自助会すら戦争の進行につれ解散させられて、職員が軍隊に召集されて少なくなった穴埋めの、管理運営用下請け機関として再結成されることになりました。
戦後になって早速出てきたのがこの時の要求項目でした。各地の療養所で患者自治会が自主的に結成されてゆきました。そして治療薬プロミンの支給を求めて全国の療養所が連携し、これを全国組織として確立したのが1951年(昭和26年)のことでした。
園内作業については、前述のように、戦後、「作業賞与金」という予算がつきました。私たちは「作業賞与金とはバカにしておる。作業賞与なんて刑務所の受刑者に出すものじゃないか」と怒りました。そもそも「賞与」に当たる作業ではなく、日常業務のうちに繰り込まれている必要労働であり、正当な賃金です。が、その後もずっと予算項目としては「作業賞与金」のままです。介護看護作業の専門職員への切替え要求は1954年(昭和29年)の人権闘争以降、労働の内容や分野によって何年もかけて実現してゆきました。
交渉が始まると入監者の釈放を要求し、それは実現しましたが、監房の撤去までは要求しませんでした。この要求は強制収容制度そのものの廃止につながることだったかもしれません。
闘争の直接の影響としては、この後の10月に開かれた全国の所長会議で、ハンセン病患者刑事犯用の刑務所の設置が決められたことが挙げられます。それが草津の栗生楽泉園に設けられた「特別病棟」という名称の重監房です。療養所長に与えられている懲戒検束権でもっとも重いのが30日間の監禁、軽いのが減食2分の1の1週間でした。以後、正式の裁判もなく、管理者側の一方的判断で重監房に送ることができるようになりました。
この決定は全国の入所者にすぐ伝わって、職員は「草津へ送るぞ!」を恫喝用語として使いました。草津は冬には零下15度以下になるところで、暖房もなく1枚だけの布団は凍りつき、記録に残っているところでは96人が送られて22人が凍死しています。この重監房が入所者の批判によって使用されなくなったのが、戦後の1947(昭和22年)、愛生園の監房が最後に使われたのが1951年(昭和26年)です。
その後、愛生園の監房は埋められましたが、塀の一部だけが土留めとして残っており、当時を僅かに偲ばせます。
内部の波紋
事件が終結してからも、反抗した入所者に対する職員の怒りは収まっていませんでした。職員全員が光田園長宛に、不遜な事件のリーダーへの処分がないことを不満とする辞職願を提出したのです。園長はこれに対して、「誰のための療養所と思っているのか。患者のために働けない者は去れッ!」と一喝する一幕もありました。
それでも職員は寮長会の中心とみなした25人について、一人ずつ呼び出し始末書や誓約書を取ろうとしました。弾圧です。大部分の人は拒否しましたが、酷いことに2人が自殺しました。
また開拓患者として衆望を集め患者総代として長島事件の中心となり、初代自助会会長になった木元厳氏がその後、病状が悪化し重病棟に入院した時、鎮痛剤を要求すると、医官から「おまえはあれほどがんばったんだから、それぐらいの痛みは我慢できんことはないだろう」と詰られなんの処置もされませんでした。剛毅な木元氏は「馬鹿にしてる!」と布団を抱えて自寮にもどり、その後失明しても医局に行くことなくほとんど閉じこもって、戦時中に憤死のごとく亡くなりました。
長島事件の渦中にキリスト教徒の4人が助けを求めて脱走しています。外に出て、他の園に入ったその人たちの映像が残っています。そこで彼らは「あんなものは行動隊の暴力団がバットや棍棒で脅かして動員したからやむなく引きずられてやったことで、全員がハンガーストライキをしていたわけじゃない」と言っています。その4人のうちの1人が島に帰りたいということで帰ってきました。我々のほうで「謝罪しないと入れん」と言うと、患者大会の時に「悪かった」と頭を下げて愛生園に戻りましたが、3人は帰りませんでした。これは1年以内の出来事です。
始末書を書かされ、自ら死んだ人もいれば、患者大会で頭を下げて帰ってきた人もいる。後始末というのはそういうことでした。そういうことはあまり表に出ていません。なかのことだから表に出にくいのです。
最初のきっかけになった久保田一朗氏ですが、彼はその後目が見えなくなって、さらに痛みがきつくなって、掘削道路の完成後、海に身を投げました。光田園長はその功績を称えて、大きな石に「一朗道」と書して記念しました。この石碑と名称は現在もそのまま残っています。光田園長には「楽園」建設のために身命を投げ打って難工事を完遂した入園患者のお手本だったのだと思います。遺骨は納骨堂に納められています。土木工事には朝鮮人が多く従事していました。
いつの日にか帰らん(著者 加賀田一さん)
P91~P101 抜粋