あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

反省と誓いの碑

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P42~P45抜粋


 2008(平成20)年、鳥取県県民文化会館前に「反省と誓いの碑」が建立されましたが、きっかけは徳永進先生のアイデアでした。

 「加賀田さん、石碑を建てようじゃないか。県民のためにということで隔離されて一生を棒に振った。あんたといっしょだ。この人たちの遺骨は郷里に帰れない。帰りたくなかったというのなら別だけど、望郷の念にかられていながら、遺骨になっても帰れない。そんな不条理があってはならん。せめてそういう人たちがいたという碑を造って残そうじゃないか」という言葉が始まりでした。

 「是非やりましょう」と私が大賛成したのは言うまでもありません。

 私が早速片山知事に話したところ、「それはそうだ」と、二つ返事で資金の半額として百八十万円の予算を組んでくれました。そのあとすぐに設立委員会を結成し、ハンセン病の啓発という主旨を理解してもらって建設資金を募りました。募金事務は元担当官の福田敏さんが引き受けてくださいました。一口千円でたちまち五百二万円が集まり、県の百八十万円を加え建設に取りかかりました。

 碑の前面には「いつの日にか帰らん」という文句が刻まれました。文部省唱歌「故郷」の一節ですが、その作曲者・岡野貞一が鳥取市の出身だったこと、さらには「らい予防法」判決の日、熊本地裁に集まった原告、支援者が声を合わせて歌ったのが、「夢は今もめぐりて 忘れ難きふるさと」の歌だったことから選びました。碑の横には「ハンセン病強制隔離への反省と誓いの碑」と入れましたが、これを入れるについては実は一悶着あったのです。

 県はすでに「ハンセン病施策を考える委員会」を作っていたのですが、それでもやっぱり県の職員は官僚、お役人でした。「『反省』という文字を入れるのはやめてくれませんか」と言うのです。

 国が行ってきた隔離政策が間違っていたということは、県の職員も若い人はみな理解しています。二度とこのようなことがあってはならないという主旨のもとに集まった浄財であるにもかかわらず、そのお金で建てる碑には「反省」の文字を入れたくないというのです。

 「反省」と入れれば、先輩方のやったことを間違っていたと批判することになる。自分らは後輩として、先輩が間違ったとは言いにくい。もち間違ったと言えば自分の将来に影響する、つまり、出世のコースから外れるという気持ちがあるわけです。ただただ保身です。「反省」という言葉には厚労省の官僚も県の官僚も非常に抵抗しました。

 しかし私たちは「反省」の文字を削るわけにはいきませんでした。最近の例としてはエイズがありますが、これからどういう新しいウイルスが発生して人間を襲うかわかりません。今まで聞いたこともなかったエイズの出現は、偏見、差別による病者の排除というかたちで人々の間に広がりました。きちんとした知識の普及がなく、噂によって恐怖だけが広まるところでは偏見、差別、排除が起きるのは人情というものです。こういうことは厳しい検証と反省がなければ、また起こります。そこにこそ誓いの意味もあるわけです。こうした私たちの強い思いが通じ、「反省」の文言は残されることになりました。

 デザインは県民から募集し、委員会で厳選の結果、倉吉市在住の池田正晰さんの作品が採用になりました。上下二色のツートンカラーで、下半分の白色は真面目に生きる純粋さを、上半分の黒は病魔に襲われて苦しんでいるという、ふたつの心の葛藤を表現しています。荒いハツリ部分は日本海、白くこまやかなハツリは瀬戸内海のさざ波です。高さ三メートルの大きい石を地形や風景との調和も考慮して二メートル六十センチに削りました。

 ところがいよいよ建てることになって、まだまだ偏見や差別が強いことを知りました。建てる場所で少しもめたのです。徳永先生は「砂丘が見えるところや、大山の見える鳥取県らしいところに建てたら」と提案していましたが、県立博物館の庭や公園の一隅ではだめかといった意見も寄せられ、紆余曲折の末、ようやく県庁の芝生の中に落ち着きました。

 片山知事のもとで一期だけ副知事をやられた、総務省出身の若い平井伸治新知事が一言、「県庁のこんなところに建てたって誰も気がつかない。こんなバカなことはない。毎日イベントがある県民文化会館の玄関ドアの横に建てなさい」と指示して、鳥取市のメインストリートに建てることに決着したのです。

 「反省と誓いの碑」建立は私の人生の最後の締めくくりだと思っています。


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神谷美恵子先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P198~P207抜粋


 神谷美恵子先生が亡くなったのは1979(昭和54)年10月22日でした。今年(平成21年)、京都の思文閣美術館で先生没後30年の催しが企画されており講演を頼まれていますが、亡くなって30年たってもそういう会がもたれるところに先生のお人柄、人間性が表れていると思います。

 神谷先生が医官として正式に愛生園に入られたのは1961(昭和36)年ですが、戦時中の学生時代も一人で実習に来られています。光田園長を「慈父」として尊敬し、愛生園の医師になりたかったというのですが、お父様がどうしても反対されて正式に赴任されるのはずっと後になりました。お父様は前田多門といって岡山県出身の内務官僚であり、また新聞人でした。神谷先生もお父さんの仕事の関係で少女時代をヨーロッパで生活しています。

 前田多門は敗戦直後に文部大臣に就任し、その父の頼みによって英仏独語の会話にも堪能な神谷先生はGHQと日本政府間の通訳の仕事をしています。先生は精神科の勉強途中だったので、早く学校に戻して欲しいと要求するのですが、その能力を買った政府要人が許さなかったようです。

 神谷先生は精神科の先生で、今で言う統合失調症の人だけを対象にしておられましたので、普通の入所者で直接話したことのある人は少ないと思います。私が非常に感動したのは先生の考え方でした。私はこんな所に入ってまで、朝から晩までがなっている人が近くの監房の中にいるので「困るなあ」と思って見ていました。

 それを先生は「隔離されている中で隔離されている人がいる」と言われました。私はその言葉にハッと気がつきました。同じ病気なのに、確かにそうだ。隔離されながら、さらに偏見をもって隔離している。偏見の中に偏見がある、ということを感じられるのが、先生の素晴らしさでした。

 神谷先生は、人間はどんなに精神病を患っていても愛情は通じるという信念を持っておられたと思います。統合失調症の患者さんを看護婦さんが散歩させるときは必ず一人に二人がついて歩きました。それを神谷先生はお一人で五、六人といっしょに散歩しておられました。何人かで弁当を持って山へピクニックに行く姿を見かけたこともあります。

 ですから先生の愛情というものが精神病者の中に伝わっているというふうに私は見ました。先生は「この人たちは私に代わって病んでくださっておられる。私はこの人たちと友達になることを一生の仕事としたい」と言っておられますが、それが患者さんと接する基本の姿でした。

 精神病の患者は監房廃止後、日赤から寄付された日赤寮に移されましたが、寮は施錠されていました。神谷先生が来られて、精神病棟を別に建てる必要についておっしゃっていました。当時、昼間は入所者が付き添い、夜間は担当職員が一人付いていた「杜鵑寮」という病棟で、昭和40年、一人の患者が不満からわざとストーブを倒して全焼するという事件がありました。幸い死傷者は出ませんでしたが、その後で瀬戸内三園共同の精神病棟が建ちました。

 その頃、先生が「加賀田さん、入園者のアンケートを取らせてください」と言ってこられたことがありました。その後「アンケートの結果はどうでしたか」と尋ねますと、「そうですね。あまり公表できませんが、自治会の会長さんに協力をお願いしておいて結果を知らせないのはおかしいですから、・・・・そうですね。七十%の人が異常です」と言われました。私もアンケートに答えた一人でしたから、「あ、私も精神異常でしょうか?」とすぐに聞き返すと、「いや、そうではありません。社会的異常が起きています」という説明でした。

 それは隔離の中にいるからということでした。考えてみると入所者は普通の社会人ではありません。国費で賄っていますから、経費を一切出す必要がありません。税金も納めていません。医療費、食費も出していません。そういうことが長く続くと、「異常を起こすんです」という話をされたので、私自身についても大いに考えさせられました。生活意欲を失い、社会性が失われていくのですから閉鎖的で独りよがりになっていきます。ですから若い人のセンスを受け容れることに柔軟にならなければいけないと反省しました。

 先生は心臓が悪かったそうで、自分の意思に沿わないまま人生を終わらせるのは気の毒、というご主人の神谷宣郎先生(大阪大学名誉教授)の思いやりから、先生は愛生園の医官に正式に就かれ、宝塚の自宅から通っておられました。その先生が亡くなられたときに、ちょうど私が自治会の会長をしていましたからお葬式に参列することになりました。

 その前夜、休もうとしていたら、神谷先生といっしょにこの精神科の医官を務めておられた葬儀委員長の高橋幸彦先生から「自治会として弔辞をいただきたい」と、電話で言って来られました。
「いや、困ったな。今から弔辞を書くといっても明日の朝の新幹線で行かなきゃならないし・・・」。急遽、先生から外国語を教えていただいていた島田ひとしくんに、「なんか、あんたが印象に残ってることはないか」と尋ねると、「じゃあ、私の詩を読んでくれんかい」ということになりました。島田くんはその後亡くなられましたが、独学でフランス語とドイツ語を学んでおり、神谷先生が来られると疑問点を尋ねていました。詩人で理論家、患者運動にも積極的で、愛生園入園者五十年史『隔絶の里程』の中心編集者、執筆者の一人でした。

 葬儀場の大阪の千里会館へ行くと、私は遺族席に座らされました。そして弔辞として島田くんの立派な詩を読ませてもらいました。

神谷先生に捧ぐ

そこに一人の医者がいた

五十年の入院生活を続けている私たちにとって

記憶に残るほどの医者に恵まれてきたわけではないが

めぐみは数ではない


そこには一人の医師がいた

「なぜ私たちでなくて、あなたが?」とあなたはいう

「私の”初めの愛”」ともあなたはいう

代わることのできない私たちとのへだたりをあなたはいつもみずから負い目とされた

そこにはたしかに一人の医師がいた

私たちは いまとなっては真実にめぐり会うために痛み


病むことによってあなたにめぐりあい

あなたのはげましを生きることで

こうして

あなたとお別れする日を迎えねばならない


さようなら

神谷美恵子 


さようなら


 葬式が終った直後、高橋葬儀委員長が「ご遺族の意思によって、本日の御香典はすべて長島愛生園に寄付させていただきます。どうかご了承願います」と、出棺前に言われました。私は突然のことに驚き、言いようのない感動に襲われました。

 その帰りです。愛生園の庶務課長と私がいるところに光明園の原田園長が来て、「加賀田さん、神谷先生には光明園にも来ていただいとったので、うちの患者さんにもちと分けてやってくれ」と言われました。これには私もびっくりしました。「自治会が貰ったわけじゃないですから。帰って、園長にちゃんと報告しますから」と答えましたが、原田園長と愛生園の友田園長は、二人とも愛生園で同僚医師だったのですが、どういうわけか犬猿の仲でした。

 香典は六百万円もの高額でしたので、光明園に百五十万円を渡しました。四百五十万円をどうするか。園長は「君に任した」というので、何か記念として残るものをと自治会で考え、五百二十平方メートルの土地に「神谷書庫」を建てました。

 香典はあとになってさらに、アメリカ、フランス、ドイツなどの知人友人から届いたという八十万円が贈られてきました。これで書庫内部の棚や調度品を揃えました。「愛生」編集部に送られてきた全国療養所の機関誌や資料、蔵書が、古い倉庫に大量に溜まっていましたので、それを集めて整理し神谷書庫に収め、いつでも利用できるようにしました。お陰で研究熱心な方による利用が最近、頻繁になっています。

 神谷書庫落成の折りには神谷宣郎先生にお越しいただきましたが、先生から「あの小額でこんな立派なものを建てていただいて」と丁寧にお礼を言われ、私たちは恐縮するばかりでした。その後、予防法の廃止や違憲判決があって関連書物の出版もかなりありましたので、それら新しい図書も古い資料とともに蒐集しています。

 先年、天皇皇后両陛下が長島愛生園にお見えになったとき、美智子妃殿下が神谷書庫の見学を希望されましたが、コースから外れると宮内庁が言うので行かれなかったということもありました。妃殿下が皇太子妃の頃、精神的に悩まれた時期があり、そのとき神谷先生が面談していろいろ話をされて、美智子様も立ち直られたということがあったそうで、神谷先生の著書は愛読書とのことです。

 このとき私も妃殿下に握手を求められる光栄に浴しましたが、その後になって、看護婦さんや看護学校の生徒さんから私に「握手して下さい!」といわれて、「えっ?」と戸惑うと、「美智子様と握手した手でしょ!」と言うので、「あれから手も洗ったし、顔も洗ったよ」と答えると、「それでもいいから」との明るい返答です。ああ、美智子様は若い女性にずいぶん人気があるものだなと感心しました。

 神谷先生の息子さんはストロー笛で有名ですが、この方は愛生園にも来られて、今でもご縁が続いています。

 それにしても「私の代わりに病んで下さっている。この人たちとお友達になりたい」という思いやり、考え方、そしてそれを実行し貫かれた、そういう立派な人とお話できたことを私は誇りに思います。園内には、どこか聖女の趣きがあった神谷先生の写真を飾っている人もいます。先生は私より四歳ほど姉さんになりますが、その先生を思いますと、比較するのではありませんが、自分がほんとに俗人だと感じます。


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部落集会への招待

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P34~P36抜粋


 2001(平成13)年、5月27日、小泉首相が国の有罪判決を受け入れると声明した直後でした。私の出身集落、用瀬町塚ノ原という部落にちょうど公民館ができて、そこで出身集落の人と話をすることになりました。前年に一度町に帰っていましたから、今回、部落に行くのは全く平気でした。町長と一緒に行って、偏見と差別はどうして起こったのかを中心に話しました。

 その後で婦人会の料理クラブの方たちが作ってくださっていた田舎の伝統料理を、部落の方たち全員と家内と町長と一緒に食べさせてもらいました。町長が、「加賀田さん、あんたもえらい目に遭われましたね。ビールの一杯もつがせてください」と言ってくださり、近所の人も膝をつき合わせてビールを酌み交わしながら、「はー、あんたはえらい目に遭うたな。せっかくの人生を棒に振ったな」と慰めてくれました。

 療養所に残って歳を重ねている人はたくさんいます。この人たちはみな、「自分だけが犠牲になればいい。家族に迷惑をかけとうない」と、施設から一歩も出ないでいるわけです。これについては私の個人史でお話したいと思っていますが、病気になったときの私がまさにそうでした。故郷で向こう三軒両隣の人が理解をしてあげられなければ、家族も「今さら悪夢を思い出させるな。寝た子を起こすようなことを言ってくれるな」ということになり、入所されていることを薄々知っている近隣者にしても、偏見や差別の強い中では「お元気でおられますか」とお見舞いのことばもかけられない。これでは遺骨の引き取りの問題も進みません。

 ハンセン病というのは、近所、両隣の人、知人、友達が膝をつき合わせて話し、正しく理解しないと、啓発が進んだことになりません。講演、シンポジウム、フォーラム、集会も正しい知識普及には絶対必要なことですが、それだけでは本当の啓蒙は進まない。私が信念としていつも言うことは、「近所にそういう人がおられたら理解をしてあげてください。その家族の人を励ましてあげてください」です。

 私としては故郷に受け入れられたこと、これが啓発の必要を感じた一番の原点になっています。これこそが人権回復の証になると思いました。それまではやはり自分自身を隠していました。町を挙げての町民大会へ招かれたことが出発点になって、それからは啓発活動を一生懸命やるようになりました。ここから私の社会復帰が本当に始まったような気がします。今では、村のなかで出会うと、「アア、帰って来てたんだね。今晩また話を聞かせて下さいよ」と、近所の人が集まってくるようになりました。これも予防法の誤りが認められてからの大きな違いです。

 しかし結局故郷への移住は、親族の方々の強い要望もありましたが、82歳と歳をとってしまってできませんでした。故郷で住むには遅すぎました。本来、ローマ会議後すぐにやらなければならなかったことです。50年くらい前にやるべきことがやられていたら、その後、ハンセン病も世間の認識としては結核程度の病気で治まっていたと私は思います。

 私たちにしてみれば、結核だった人が回復して普通に社会復帰しているのと同じになれたと言いたいわけです。そうすれば忘れられた病気になっていたでしょう。でも今は逆に「風化させてはならん」ということで、いろいろな所で話をしています。


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違憲判決と三権の分立

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P23~P27抜粋


 わかっていながら、やろうとしなかった━━これが一番悪いことです。強制収容を政策として続けることによって、一人一人が自らつくってゆく人生を諦めさせた。それはそのまま家族との再会や故郷に迎えられることを断念させることでした。その断念と引換えのように所内における福祉や生活、医療について改善が図られてきました。

 これは人権の尊重という視点から見れば差別の増幅にはかなりません。「らい予防法」による強制収容は間違っていたときちんと謝罪すること、それは一人一人の社会復帰についてきちんと責任を持つということです。

 全国に国立のハンセン病療養所が十三ヶ所ありますが(最初に設立された公立療養所五カ所も、戦時中に国立に移管されました)、「らい予防法」が廃止された1996(平成8)年、その入所者の平均年齢はすでに七十三歳に達していました。しかし社会復帰のための支度金はわずかに百五十万円でした(その後、二百五十万円に変更)。

 また、入所者は国民健康保険の「適用除外」でした。所内や特定「委託病院」の治療は無料ですが、外部の大学病院やら一般病院での「保険外診療は差し支えない」、つまり有料なら診てもらえるというものでした。私たちは本人証明としてもっとも一般的に使われる「健康保険証」すら持てませんでした。結局「らい予防法」が廃止されてもなお、入所者がこのまま歳を取って「自然消滅」してゆくのを待つという基本姿勢に変化はなかったのです。

 「らい予防法」が廃止されて二年たった1998(平成10)年七月、鹿児島の星塚敬愛園の入所者ら十三名が「らい予防法違憲国家賠償」を求めて熊本地裁に提訴しました。国民として正当な権利である社会復帰を阻んだ強制隔離政策は憲法に反するから謝罪して責任をとるべきだという訴えです。国は強制隔離してきた歴史的事実を忘却のうちに流し去ることを狙っている、そういう国家の体質は改めるべきだというのが、この訴えの主旨でした。

 熊本地裁への訴えが始まると、続いて東京の多摩全生園、そして瀬戸内海の三園からも同じような動きが始まった。三つの原告団があるのですが、その人数が何人なのかを明らかにすることは、これがまた非常にデリケートな問題で、ハンセン病問題を象徴するものでした。「原告になっとることが家にわかったら困るから、わしが原告に入ってることは言うてくれるな」というわけです。ずっと身を隠して生きている。「今さら表立ったところへ出ていくと家族が困る。だからこの裁判に自分は出たいけれど出られない」、「名前は出してくれるな」という原告がいるので、確実は人数はつかめなかったのです。

 弁護団もこの「最大の人権蹂躙問題」に対して無知であったことを深く反省すると声明して、二百五十人の弁護士が集まりました。原告名の秘密を守って、弁護士が代理人を務めました。最後にはおおよその人数(2200人)は公表しましたが、個人名までは公表しませんでした。

 熊本地裁の判決は3年後の2001(平成13)年5月に出ました。それは1960(昭和35)年以降についての隔離政策は人権侵害であり憲法違反だというもので、原告側の主張を大筋で認めるものでした。

 判決は同時に、国会に対しても1953(昭和28)年には治癒することが確定されており、1965年には「らい予防法」を廃止すべきだったと、その怠慢を「立法不作為」として断罪しました。行政と立法を、司法がはっきりと断罪した画期的な判決です。下級審の裁判長が国政の誤りを正した判決に、私たちは万感の思いを込めて万雷の拍手を送りました。

 それからが小泉さんの出番です。当時の秘書官の回想記を見ますと、政府と自民党の中でいろいろとあったようですが、小泉純一郎総理は上級審への控訴断念を決定し、地裁判決は確定しました。当時、医師出身の坂口さんが厚生労働大臣でしたが、小泉さんには勇気があったと思います。翌月6月の内閣支持率は90%を越して、人気のあった小泉内閣を通じても最高記録を示しています。

 あの「控訴断念」のとき、私は日本でようやく三権分立が生きた、民主主義がようやくここに定着したという感想を持ちました。それは長い間の厚生省との交渉、また架橋運動を通じていつも煮え湯を飲まされるような思いばかりしてきた体験が感じさせたことです。同時に差別され続けてきた私たちの生存が、ここにきてようやく三権分立の立証に役立つことになったという感慨もありました。


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加倉井駿一先生

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P215~P218抜粋


 加倉井さんは非常によくもののわかった人でした。その時点で可能なことを勇気をもって実行される、そういう役人、官僚はなかなかいませんでした。

 加倉井さんは慶応大学医学部を卒業すると公務員として茨木県に奉職します。ここでハンセン病に出会いました。それは上司の命令によって患者をトラックで強制隔離する、その尻押しでした。そのときに「こんな酷いことをやって、患者さんに申し訳ないことをした。なにか機会があれば患者さんに償いたい」と思われたそうです。

 戦後、厚生省療養所課の時代に新予防法が制定されましたが、こんなことをすべきじゃないと思っていたそうです。反対闘争で座り込んだ患者を省内の食堂へ案内して、「コーヒーでも飲みなさい」と勧めた話は、代表で行った人から「親切な役人もいる」と聞いていましたが、それが加倉井さんでした。

 鳥取県の厚生部長に転出し、着任後すぐに愛生園に慰問に来ました。私はたまたま県人会の会長をしていましたから、「強制収容されて家族との絆も切れて、故郷へ帰ったことのない人を、県が代わってお墓参りをさせてあげてください」とお願いしました。すると加倉井さんは、「それはいいことです。菌の陰性者証明のある人を拒否するのは間違っています」と即座に返事をされました。

 加倉井さんが県に戻って衛生課長と担当官に話すと、彼らは「難しいですね。らい予防法に抵触しますし、そんな予算は組んでいません。宿泊するところもありません」と言う。「県の職員の出張費を使ったらいい。宿泊は県が経営する国民宿舎があるだろう。そこはそういうことのためにあるのだから、そこへ泊める」と加倉井さんが言っても、まだ渋るので、最後は「部長命令だ。きみたちは部長命令が聞けんか」と言ったそうです。これを聞いて加倉井さんは「水戸っぽ」だなと感じ入りました。鳥取県庁にはまずいないタイプです。

 私たちの方では、家族との再会やお墓参りを望みどおりに叶えて帰ってくる二泊三日の旅ということで、菌陰性で一度も帰ったことのない人を条件に、四人を選定しました。

 こうして話が進んでいるとき、加倉井さんが「里帰りは鳥取の駅まで列車で来るように」と言ってきました。不自由な人が四人だけで、しかも二十年近く外泊もしていないので、「迎えに来て欲しい」と頼むと、「それでは隔離から一歩も出んことになる。駅まで自分たちで来なさい」との厳命でした。

 こうなると四人は不安がいっぱいです。私に「いっしょに行ってくれ」と頼むのですが、私は二年近く前に墓参りに行っています。ここまで来て中止になったのでは話になりません。今後にも悪影響となります。やっと説得して、当日の朝は岡山駅で列車に乗り込み座席に座らせるところまで付き合いました。

 鳥取駅には迎えが来ていて、四人はそのまま県の車で県庁の厚生部長室に招かれました。そんな扱いを受けたことは絶えてないので、「出されたお茶もよう飲まなかった」とは、帰ってからの笑い話です。

 国民宿舎では共同の温泉風呂ではなく家族風呂で、食事は部屋に運んでくれました。そしてお墓参りや肉親の人にも会える人は会いました。普通の列車に一般乗客として乗ることが、生き方においてどんなに大きな勇気を与えることになったか、これも里帰りが生んだ大きな意義でした。以後、旅行を趣味とし、一人で旅に出かけるようになった人もいたようです。

 四人が部長室に招かれたとき、そこに加倉井さんをよく知る朝日新聞の記者がいて、この里帰りを特ダネとして全国に報じました。翌年から「里帰り事業」という名称のもとに各県が一斉に初めました。全国の自治体、県が故郷に帰ったことのない人を受け入れて、ホテルに泊めて、家族に代わって里帰りをさせるという「制度」ができたのです。

 実は加倉井さんは鳥取県の部長に出向する前の療養所課長補佐時代に、すでに医務局長に、「もう感染しないのだから、終生隔離の人に里帰りをさせたい」と根回しをしていたとのことです。私は加倉井さんがもっと上の地位になったときには、私たちが運動をしている予防法も改められるという気がしていました。しかし本省に戻って公衆衛生局長をされているとき、五十四歳の若さで亡くなりました。ご本人が一番残念だっただろうと思います。

 課長時代には、私もいろいろと話をすることができました。障害者、盲人に理解が深く、ラジオのテープ録音や点字を要求したときには、「そういうことなら予算がすぐに取れる。よしっ!」と言って、現在の「盲人教養文化費」を設定しました。これも予防法を前提とした改善策でしたが、官僚として隔離の壁に突破口を開こうとするのは難しかっただろうなと、加倉井さんの実行力に感嘆しながら思います。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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