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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

長島愛生園  加賀田一さん(48)


遺骨の帰還

「いつの日にか帰らん」P39~P42抜粋


 故郷と縁を切らざるを得なかった人たちは、亡くなっても田舎に帰ることができませんでした。そこで国も一応補助することになり、入園者も補償金の一部を出して園内に納骨堂を造り、遺骨をそこに納めることになりました。愛生園は3496柱(2009年11月10日現在)、保育児童13柱、光田園長以下職員87柱、全国では26000柱を越えています。

 片山知事が、「県は何をしたらいいですか」と言われたので、私は「歳をとって、古い年寄りみたいな話をしますけど」と断った上で、次のように話しました。

 ━━強制収容された後、里帰りという制度ができてからも一度も郷里に帰らず、しかし望郷の念にかられながらここで亡くなった方たちがたくさんいます。少し違うかもしれませんが、赤紙一枚で戦争に召集されて、「天皇陛下、万歳!」と言って死なれた兵士の遺骨は、家族も一般国民も「遺骨を探してあげてください」と言って慰霊がなされています。ハンセン病者は県民の保健衛生を理由に強制収容され、家族との絆も断たれ、病気が治っているにもかかわらず、遺骨の引取り手もいません。

 愛生園の納骨堂には鳥取県民で引き取られていない遺骨が135柱あります。裁判によって隔離政策が断罪されたのですから、偽名のまま、本名かどうかわからずに納骨堂に眠っている遺骨を、人間回復の証として、家族に引き取ってもらえるようにしてほしい。

 長島愛生園の納骨堂だけでなく、全国の療養所にある納骨堂の遺骨を引き取る運動を鳥取県が率先してやってください。県には強制収容した人の極秘名簿があります。小さな県ですから遺族の方へもすぐに連絡が取れます。長島愛生園の現状からも厚生労働省の統計でも、2035年くらいには入所者も亡くなり、ハンセン病を患った人は一人もいなくなります。そのときあの納骨堂はどうなるのか、これは人道問題です。遺骨になっても、郷里やら遺族の元に帰れないというような不条理があってはならないでしょう。この遺骨帰還をやってください━━

 このように頼むと、知事は「わかりました」と言ってくださいました。

 県で早速資料を調べたところ、県内からは205人くらい強制収容されていました。湯梨浜町議事堂に全39市町村長を招集、遺骨の帰還を発議して、県の健康対策課が担当することになり、その担当職員は早速家族に連絡しました。

 すると、遺族から「今さら何を言うか」と怒鳴られたといいます。職員が「ちょっとお話だけでも聞いてください。遺骨を引き取っていただく運動が始まっておりますので」と言っても、「また私らを苦しめるのか。今さらそんなもの、何になるんだ!」と叱られたようです。

 それから8年経ちましたが、いまだ引取り手は一人もいません。

 この未曽有の人権侵害については、政府もマスコミも隠してきました。特にマスコミは戦争中の大本営発表といっしょでした。隠蔽を図ろうとする政府の言うことをそのまま発表することで、風化に手を貸していたのです。戦後、日本政府のハンセン病対策は誤っていると国際的に批判されていましたが、この事実について国民は知らされませんでした。結局メディアは戦争中といっしょでした。

 そういう世間に囲まれて、遺族の人たちも気の毒な目に遭ってきたわけです。40年も50年も経って、「今さら何を言うか」というのも分からないことではありません。愛生園の福祉課に来て、極秘のうちに連れて帰った人が一人いるとかいないとかという話もありますが、公表できる形で確実に帰ったという記録は残っていません。帰還できない方のお骨は、無縁仏としてドームの中に隔離されたままとなるのでしょうか。


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長島愛生園  加賀田一さん(47)


加倉井駿一先生


「いつの日にか帰らん」P215~P218抜粋


 加倉井さんは非常によくもののわかった人でした。その時点で可能なことを勇気をもって実行される、そういう役人、官僚はなかなかいませんでした。

 加倉井さんは慶応大学医学部を卒業すると公務員として茨木県に奉職します。ここでハンセン病に出会いました。それは上司の命令によって患者をトラックで強制隔離する、その尻押しでした。そのときに「こんな酷いことをやって、患者さんに申し訳ないことをした。なにか機会があれば患者さんに償いたい」と思われたそうです。

 戦後、厚生省療養所課の時代に新予防法が制定されましたが、こんなことをすべきじゃないと思っていたそうです。反対闘争で座り込んだ患者を省内の食堂へ案内して、「コーヒーでも飲みなさい」と勧めた話は、代表で行った人から「親切な役人もいる」と聞いていましたが、それが加倉井さんでした。

 鳥取県の厚生部長に転出し、着任後すぐに愛生園に慰問に来ました。私はたまたま県人会の会長をしていましたから、「強制収容されて家族との絆も切れて、故郷へ帰ったことのない人を、県が代わってお墓参りをさせてあげてください」とお願いしました。すると加倉井さんは、「それはいいことです。菌の陰性者証明のある人を拒否するのは間違っています」と即座に返事をされました。

 加倉井さんが県に戻って衛生課長と担当官に話すと、彼らは「難しいですね。らい予防法に抵触しますし、そんな予算は組んでいません。宿泊するところもありません」と言う。「県の職員の出張費を使ったらいい。宿泊は県が経営する国民宿舎があるだろう。そこはそういうことのためにあるのだから、そこへ泊める」と加倉井さんが言っても、まだ渋るので、最後は「部長命令だ。きみたちは部長命令が聞けんか」と言ったそうです。これを聞いて加倉井さんは「水戸っぽ」だなと感じ入りました。鳥取県庁にはまずいないタイプです。

 私たちの方では、家族との再会やお墓参りを望みどおりに叶えて帰ってくる二泊三日の旅ということで、菌陰性で一度も帰ったことのない人を条件に、四人を選定しました。

 こうして話が進んでいるとき、加倉井さんが「里帰りは鳥取の駅まで列車で来るように」と言ってきました。不自由な人が四人だけで、しかも二十年近く外泊もしていないので、「迎えに来て欲しい」と頼むと、「それでは隔離から一歩も出んことになる。駅まで自分たちで来なさい」との厳命でした。

 こうなると四人は不安がいっぱいです。私に「いっしょに行ってくれ」と頼むのですが、私は二年近く前に墓参りに行っています。ここまで来て中止になったのでは話になりません。今後にも悪影響となります。やっと説得して、当日の朝は岡山駅で列車に乗り込み座席に座らせるところまで付き合いました。

 鳥取駅には迎えが来ていて、四人はそのまま県の車で県庁の厚生部長室に招かれました。そんな扱いを受けたことは絶えてないので、「出されたお茶もよう飲まなかった」とは、帰ってからの笑い話です。

 国民宿舎では共同の温泉風呂ではなく家族風呂で、食事は部屋に運んでくれました。そしてお墓参りや肉親の人にも会える人は会いました。普通の列車に一般乗客として乗ることが、生き方においてどんなに大きな勇気を与えることになったか、これも里帰りが生んだ大きな意義でした。以後、旅行を趣味とし、一人で旅に出かけるようになった人もいたようです。

 四人が部長室に招かれたとき、そこに加倉井さんをよく知る朝日新聞の記者がいて、この里帰りを特ダネとして全国に報じました。翌年から「里帰り事業」という名称のもとに各県が一斉に初めました。全国の自治体、県が故郷に帰ったことのない人を受け入れて、ホテルに泊めて、家族に代わって里帰りをさせるという「制度」ができたのです。

 実は加倉井さんは鳥取県の部長に出向する前の療養所課長補佐時代に、すでに医務局長に、「もう感染しないのだから、終生隔離の人に里帰りをさせたい」と根回しをしていたとのことです。私は加倉井さんがもっと上の地位になったときには、私たちが運動をしている予防法も改められるという気がしていました。しかし本省に戻って公衆衛生局長をされているとき、五十四歳の若さで亡くなりました。ご本人が一番残念だっただろうと思います。

 課長時代には、私もいろいろと話をすることができました。障害者、盲人に理解が深く、ラジオのテープ録音や点字を要求したときには、「そういうことなら予算がすぐに取れる。よしっ!」と言って、現在の「盲人教養文化費」を設定しました。これも予防法を前提とした改善策でしたが、官僚として隔離の壁に突破口を開こうとするのは難しかっただろうなと、加倉井さんの実行力に感嘆しながら思います。


 


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長島愛生園  加賀田一さん(46)


「ローマ会議」の国際決議と日本


「いつの日にか帰らん」P16~P20抜粋


 2001年の「らい予防法」違憲判決では、「らい予防法」の誤りは1960(昭和35)年には明確になっていたと認定しましたが、強制隔離が間違いであることは1956(昭和31)年のローマ会議がはっきりと宣言していました。ローマ会議というのは、正式には「らい患者の救済ならびに社会復帰に関する国際会議」と言います。51ヵ国から250名の専門家代表がローマに集まり、18日間の討議の後、「ハンセン病は伝染性の低い疾病であり、かつ治療し得るものであることを考慮」して、強制隔離ほかすべての差別法を廃止すること、入院治療は特殊に必要とされる場合とし、通院加療を原則とすること━━などを決議しています。

 私がここで強調したいのは、この会議に日本の代表として国立療養所長の林芳信(多摩全生園)、野島泰治(大島青松園)と藤楓協会理事の浜野規矩雄(後に理事長)の三先生が参加していることです。藤楓協会というのは前身を癩予防協会といい、ハンセン病患者の救済を目的として設立された組織で理事には厚生省の元官僚が就任しています(「藤楓」の名は救癩事業に恩賜を下された皇族に由来します)。

 この三先生はハンセン病研究治療の日本における権威というだけでなく、医療行政にも大きな力を持っている専門家です。その先生方が外で国際会議に加わり、国内においても三人三様ですが強制隔離に批判的でありながら、しかもなお「らい予防法」が存続し続けたのは、どうしてなのでしょうか。

 専門医師の集まりである「らい学会」、療養所の園長会は、組織としてローマ決議の内容を国民に知らせ啓発しようとはしませんでした。たいへん良心的な三先生の批判と実践も個人的行為でしかなかったのです。個人の裁量において「らい予防法」ならびに隔離政策を「空洞化」「形骸化」する方向で「弾力運用」していったということです。入所者の私がローマ会議を知ったのはローマ会議の三年後でした。

 1958(昭和33)年の国際らい学会議は日本が隔離政策を改めるよう促すために東京で開催されました。1960年にはWHO(世界保健機関)が日本に隔離政策を改めるよう勧告しています。国際的な批判に対して政府は「軽快退所基準」を作成しますが、それは「軽快」者として退所を認めるにあたっての統一基準であって、ハンセン病に対する強制隔離原則を改めたわけではありません。

 これでは「軽快退所」者も偏見、差別、排除から自由になることはできず、社会復帰もいわゆる「もぐり」となってしまいます。日本社会のなかでハンセン病回復者が結核回復者と同じように扱われるようにならない限り、その基礎である「らい予防法」の空洞化、有名無実化ということはあり得ません。

 「らい予防法が」が廃止されたのはそれから四十年後です。この間、私は患者自治会の役員をしていましたから、何度も厚生省(現・厚生労働省)に行きました。そこで隔離は間違っているんじゃないかということを言いますが、厚生省の人たちは黙っていて応えません。ドクター資格を持っている厚生官僚も多く、入所者の100%近くが治っていることも知っていたはずです。現状に合わせて、きちんと正式に法律を変えるよう訴えたのですが、これには応えてくれませんでした。

 ところが療養所内の生活問題、例えば「すきま風のために、ハンセン病は治っていても風邪を引いて肺炎になる」という話をすると、厚生省の役人は乗り出してくる。「目の見えない人が困ってる」というと、「そうですか」とすぐメモして善後策の検討に入ります。「福祉の増進」という名分がありますから、大蔵省(現・財務省)から予算を取りやすいのでしょう。つまり隔離を続けるための予算というわけです。

 ハンセン病の施策の間違いは、こういうお役人の姿勢にも表れていました。彼らはみな優秀ですから最新情報は把握しています。ハンセン病菌が弱いこと、感染しても発症が極めて稀であること、そして発症しても薬で治癒することをよく知っています。「らい予防法」が医学的にも、国際的にも、社会的にも間違っていることをよく知っています。しかしそのことは言いません。これまでの政策について批判することはありません。既定の法律に触れないことを前提に、予算で対応することに努めます。

 それはなぜなのかといえば、自分の地位名誉の保全のためです。先輩のやってきたことを間違っていたからと、それを翻そうとしたら頭を叩かれます。人事には先輩が関わっていますからエリートコースを外される。役人の担当部署はどんどん代わり、同じ部署にいるのは二年間です。その自分の在任中に患者さんの頭を撫でて、飴を舐めさせて大過なく過ごしていたい。無事であれば、とにかく出世してゆきます。天下りもできます。そういうことが日本の過ちをそのまま続けさせてきた元にあるということです。


実際にぼくもそう思う。行政の「民営化」のような大胆な改革を試みない限り、この国は蝕まれ続けるだろう。お隣の中国を批判する状況ではない。日本の内情はひどい。

 


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長島愛生園  加賀田一さん(45)


違憲判決と三権の分立


「いつの日にか帰らん」P23~P27抜粋

 わかっていながら、やろうとしなかった━━これが一番悪いことです。強制収容を政策として続けることによって、一人一人が自らつくってゆく人生を諦めさせた。それはそのまま家族との再会や故郷に迎えられることを断念させることでした。その断念と引換えのように所内における福祉や生活、医療について改善が図られてきました。

 これは人権の尊重という視点から見れば差別の増幅にほかなりません。「らい予防法」による強制収容は間違っていたときちんと謝罪すること、それは一人一人の社会復帰についてきちんと責任を持つということです。

 全国に国立のハンセン病療養所が十三ヶ所ありますが(最初に設立された公立療養所五カ所も、戦時中に国立に移管されました)、「らい予防法」が廃止された1996(平成8)年、その入所者の平均年齢はすでに七十三歳に達していました。しかし社会復帰のための支度金はわずかに百五十万円でした(その後、二百五十万円に変更)。

 また、入所者は国民健康保険の「適用除外」でした。所内や特定「委託病院」の治療は無料ですが、外部の大学病院やら一般病院での「保険外診療は差し支えない」、つまり有料なら診てもらえるというものでした。私たちは本人証明としてもっとも一般的に使われる「健康保険証」すら持てませんでした。結局「らい予防法」が廃止されてもなお、入所者がこのまま歳を取って「自然消滅」してゆくのを待つという基本姿勢に変化はなかったのです。

 「らい予防法」が廃止されて二年たった1998(平成10)年七月、鹿児島の星塚敬愛園の入所者ら十三名が「らい予防法違憲国家賠償」を求めて熊本地裁に提訴しました。国民として正当な権利である社会復帰を阻んだ強制隔離政策は憲法に反するから謝罪して責任をとるべきだという訴えです。国は強制隔離してきた歴史的事実を忘却のうちに流し去ることを狙っている、そういう国家の体質は改めるべきだというのが、この訴えの主旨でした。

 熊本地裁への訴えが始まると、続いて東京の多摩全生園、そして瀬戸内海の三園からも同じような動きが始まった。三つの原告団があるのですが、その人数が何人なのかを明らかにすることは、これがまた非常にデリケートな問題で、ハンセン病問題を象徴するものでした。「原告になっとることが家にわかったら困るから、わしが原告に入ってることは言うてくれるな」というわけです。ずっと身を隠して生きている。「今さら表立ったところへ出ていくと家族が困る。だからこの裁判に自分は出たいけれど出られない」、「名前は出してくれるな」という原告がいるので、確実な人数はつかめなかったのです。

 弁護団もこの「最大の人権蹂躙問題」に対して無知であったことを深く反省すると声明して、二百五十人の弁護士が集まりました。原告名の秘密を守って、弁護士が代理人を務めました。最後にはおおよその人数(2200人)は公表しましたが、個人名までは公表しませんでした。

 熊本地裁の判決は3年後の2001(平成13)年5月に出ました。それは1960(昭和35)年以降についての隔離政策は人権侵害であり憲法違反だというもので、原告側の主張を大筋で認めるものでした。

 判決は同時に、国会に対しても1953(昭和28)年には治癒することが確定されており、1965年には「らい予防法」を廃止すべきだったと、その怠慢を「立法不作為」として断罪しました。行政と立法を、司法がはっきりと断罪した画期的な判決です。下級審の裁判長が国政の誤りを正した判決に、私たちは万感の思いを込めて万雷の拍手を送りました。

 それからが小泉さんの出番です。当時の秘書官の回想記を見ますと、政府と自民党の中でいろいろとあったようですが、小泉純一郎総理は上級審への控訴断念を決定し、地裁判決は確定しました。当時、医師出身の坂口さんが厚生労働大臣でしたが、小泉さんには勇気があったと思います。翌月6月の内閣支持率は90%を越して、人気のあった小泉内閣を通じても最高記録を示しています。

 あの「控訴断念」のとき、私は日本でようやく三権分立が生きた、民主主義がようやくここに定着したという感想を持ちました。それは長い間の厚生省との交渉、また架橋運動を通じていつも煮え湯を飲まされるような思いばかりしてきた体験が感じさせたことです。同時に差別され続けてきた私たちの生存が、ここにきてようやく三権分立の立証に役立つことになったという感慨もありました。


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長島愛生園  加賀田一さん(44)


知事の謝罪
 


「いつの日にか帰らん」P36~P39抜粋


 2001(平成13)年の5月11日、「らい予防法」の違憲判決が下され、23日には国が控訴断念の発表をしました。1日おいた25日には、鳥取県の片山善博知事が長島愛生園を謝罪に訪れました。

 その前日の24日、県人会長だった私のところへ「明日、片山知事が謝罪に行きます」と連絡があったので同県人会に連絡するとみなさんたいへんな興奮で、「今さら、知事は何をしにくるんだ」「俺らをひどい目に遭わしゃーがって」とみんな、非常に怒っていました。当日になってもさらに、「昨夜は田舎のことなんか思い出させられて眠れなかった。お陰で同居の寮友も眠れなかった」と怒りはまだ治まっていないようでした。

 しかし知事が来られて、目の見えない人やら指がない人の手を握り「長い間、ご苦労をかけてすいませんでした」と謝ると、あれほど怒っていた人たちが涙をボロボロ流して泣き出しました。その涙は望郷の強い思い、家族と故郷への断ち切れぬ思いを断ち切って生きてこざるを得なかったことを表していました。受け入れてもらいたいという情が深いところで脈々と生きていたのです。

 片山知事は本気で、「これは謝っても、謝りきれん問題だ。国はなんてことをしたか。後を引き継いだ私の責任です」と頭を下げるわけですから、怒っていた人たちも返す言葉もなく、ただ涙を落とすばかりでした。このときの知事の謝罪は私の生涯の中で、決して忘れることのできない言葉となりました。

 片山知事は、「あなたたちが苦労された話を、小学校の高学年や中学生に話していただきたい。この年頃に聞いた話は生涯、死ぬ瞬間まで忘れない。十代前半のこの人たちにどんどん話をして、なにが正しいことかを教えてやってほしい」と言われました。

 それから私も学校へ行くことが多くなり、ハンセン病患者が受けてきた差別と偏見の歴史や人権問題について講演を続けました。

 実は鳥取県というのは、「無らい県運動」というのをもっとも積極的にやった県でした。県単位で「癩予防協会」を結成して募金を集め、愛生園内に鳥取寮(48人定員5棟と児童用1棟)を建設寄付しているのです。当時、愛生園はすでに定員を200人以上超過していたこともあり、新たに鳥取県から強制送致するための措置でした。寮は、立田清辰知事と桂誠警察部長の業績を称えて「立田寮」、「桂誠寮」、それに鳥取県の地名に因んだ「大山寮」、「三朝寮」、「白兎寮」と名づけられました。

 患者と判断されたら、県民の保健衛生のためだといって、制服警官がやってきて強制収容し、特別護送列車を編成して長島愛生園に送り出しました。当時は地域の保健衛生を管掌していたのは警察でした。彼らはその家やら周囲を消毒しまくって、地域に恐怖心を与えて、その家族というだけで健康な子供までが学校から登校拒否されるという状況をつくり出しました。鳥取県の予防協会は戦後も存続し活動していました。



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在67才、農業歴31年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp
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