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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

邑久光明園 藤本トシさん 地面の底がぬけたんです(11)


『地面の底がぬけたんです』一部抜粋

結婚


藤本さんの作品には癒される。・・・人はここまでできるだろうか。


 あたしがいた部屋は、十五畳に八人なんですけど、夜になると増えるんです。結婚しておられる方がいましょ、ですから。まえに言いましたような結婚生活ですからね。だけど、にぎやかって言えばにぎやかでしたよ。男の人同士で話をしたり、お茶のんだりして・・・。
 その頃、そうですねえ、独身者は、あたしの部屋では二、三人でしたか。あたしはもちろん、まだひとり身でした。
 あたしが結婚したのは、外島に来て一年余り経ってからでしたか、もうはっきり憶えてませんけど、昭和六、七年だったと思います。
 手足はだいぶいい人でしたけど、眼はもう駄目で、日蓮宗の導師をしていた人でした。あたしも、身延にいたせいで日蓮宗ですから。その人が二度三度お勤めに行くありさまを見ていてね・・・手足がいいといっても盲人ですから、不自由でしょ。それに当時は、男には男の付添いさんということになってましたから、やっかいでしょうと思いまして・・・。
 いやあ、恋愛ってほどのものじゃあありますまいねえ。もちろん、ぜんぜん嫌なら結婚しないでしょうけれど、とにかく、十八も齢はちがってたんですから・・・ただ、不自由だろうと思いましてね・・・。
 その人とは、二十九年間つれそいました。
山田法水といいましたけれど。
 外島では、結婚してる人の方がずっと多ござんしたよ。独身者は四分の一くらいでしたかねえ・・・それがねえ、みんな淋しいといおうか何といおうか、女の人が入ってきますとね、まあ、いろんな、仲人になろうとする人が来ましてね、この人はどうだあの人はどうだって、やたらにすすめに来るんです。ま、あたしは自分で選びましたけど。
 ところが、あたしと十八もちがうんですから、あれは金がめあてだ、金さえ取ってしまえばそれっきりだって、そんな陰口を叩かれましてね。あたしの耳には二、三年も経ってから入ってきたんですけど。
 だけど、二十九年間めんどうみましたよ。導師をしていた人だけに、亡くなる時はきれいでした。ちゃんと、こうやって、手を合わせて、おばあさん、ありがとうございましたって合掌しました。
 二十九年間といいますけど、その途中で、あたしが目を失いましたろ、目の悪い人の不自由を見てお世話するつもりになったんでしょ、そのあたしが目を失ってしまって・・・。
 そこからが、あたしの、本当の修行がはじまったんですね。それまでは、どんなことでもつらいとは思いませんでしたけれど・・・あれからが、あたしの、頂上の修行でした。
 ともかく、その人を送ることができまして・・・。
 この病気は、どこもかしこもみんなしびれてしまいますけど、舌だけは麻痺しない。あたしも目を失くしてからは、ほんとにそれで助かりました。特におじいさんが病んでからは、なんでも噛んで食べさせてあげるのですが、硬さも熱さも、みんな舌があってこそね、わかるのですから・・・。だけど、入歯を洗ってあげることができなくなったのはつらかったです。ですが、これも舌に助けられたんです。
 入歯を洗うのは、他人さまには頼みにくい。いえ、お願いして、やって下さらないことはないのですが、他人の入歯を洗うというのは、気持のいいもんじゃありませんです。あたしはこのとおり、今も入歯をしたことはありませんけど、おじいさんのを長年洗っていて、これはなかなか、他人さんにお願いできるようなことじゃないってわかってますから。あれはいけませんですよ。
 というのは、食べカスがついたりしてて、ヌラヌラしますでしょ。それをあたしは、目がいい時は、ブラシの硬いので何回も何回も洗いましたけど、目が見えなくなると、ブラシがあってもこすられんのです。すぐ落とすんです。手が麻痺してますから、持ってるものやらなにやらわからなくなるんです。目が見えなくなってわかるのは、それまで目でこすってたんですよ。目で持ってたんですよ。手でこすったり持ったりしてたんじゃないんですねえ。
 それで、しょうがないから、あたしは、自分の歯でみんなカスを取って、そして舌でさぐってみて、これでどこにも汚れはない、みんな取れてると確かめてから、おじいさんに入れてあげました。これは、あたしが目を失ってから九年間、やりとおしました。
 その九年間が・・・。
 だけど、臨終の時、ひと言、おじいさんがあたしを拝みましたのでね、もう・・・苦労は忘れました。この人(
橋本正樹氏)は、当時、隣の部屋にいたんです。この人はその時分から、あたしのしてきたことを、一部始終しっています。おじいさんが死んで一年経ってから、こんどは逆に、あたしのめんどうをみてやろうと思ってくれたんでしょうか、一緒になることになりまして・・・。
 なんだか、話がずいぶんこっちの方まできてしまいましたねえ。・・・外島の作業の話でしたね。



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邑久光明園 藤本トシさん 地面の底がぬけたんです(10)


藤本トシさんの『地面の底がぬけたんです』の中に、北條民雄さんのエピソードがある。藤本さんは大阪の外島保養院におられたが、昭和9年9月21日の第一室戸台風で外島保養院は壊滅し、出身地にある多摩全生園に委託患者として4年間預けられ、その時、北條さんに出会った。

藤本トシ 明治34年生まれ 1987年死去 享年87才

北條民雄 大正3年生まれ 1937年死去 享年23才


『地面の底が抜けたんです』の一部抜粋


 北條民雄さんて御存知でしょう。あの方と全生園で一緒の時期がありましてね、結核病棟におられましたけど、何度かお見舞いに行きました。というのは、あたしたちは委託患者ですから、時々全員が集まっていろんな話があるわけなんです、その委託患者の代表さんから。例えば、注意とか、しなければならないこととか。そうした折に、病室には必ず時々はお見舞いに行ってくれ、あたしたちはこうやってお世話になってるんだから、ということでしたから、何人かずつ病室を見舞うのです。
 北條民雄さんは、本病は軽いお方でしたよ。なんですか、声をかけても返事もしない人で・・・。ベッドのそばにまいりますと、上をむいて目をあけておられるから、いかがですかとかって伺うでしょ。すると、クルッと背中をむけて、むこうむいてしまいなさる。
 ある時、やはりお見舞いに行った時でしたが、ちょうどお医者さんが診察なさっていたことがありましててね、北條さんに小言を言ってなさってでしたよ。
 あんたは確かに文学者としては優れた人だ、文章も立派な腕をもっている、だけど人間としてはゼロだぞって。まあ、あたしにはどうこう言えませんけど、とにかく、とりつく島がない人でした。頭の中は文章のことでいっぱいで、他のことで口をきくのは、もうめんどうくさいってことだったのでしょうか。何か、いつも考えてられたんでしょうねえ。


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邑久光明園 藤本トシさん 地面の底が抜けたんです(9)


『地面の底が抜けたんです』
東京・多摩全生園の四年間



 大水で、そんなことになったもんですから、残った患者達は、それぞれの出身地別にわかれましてね、他の園へ委託患者としてあずけられることになったんです。
 そうなると、あたしは東京でしょう。もう二度と帰ってくることはないと思ってましたのに、多摩の全生園に行くってきまった時は、やっぱりうれしゅうございましたよ。
 だけど家の者は誰にも知らせませんで、信仰家だった叔父さんだけに知らせたんです。
 全生園でいっとう良かったのは、その八十すぎた叔父が面会に来てくれたことでした。大きな柳行李しょってね。なんだと思ったら、おまえが大水で流されて何もないって聞いたからって、古着屋で買ってきたって言うんです。派手なものやら地味なものやらいっぱいで、ほんとにおどろきました。
 それというのも、全生では着るものも悪いし食べものも悪かったんです。外島の時に較べたら・・・。いえ、あたしの方がぜいたくになっていたのかもしれません。外島が良すぎたってこともありましょうね。そうでしょうけど、大水で流されて身ひとつで来てるものですから、なんにもないんですよ。
 おんなじ公立の病院でも、あたしにはずいぶんちがってみえました。
 日々の暮らしは、さほどちがってることってのはありませんでしたけど。大阪では困った言葉でしたけれど、こんどはあたしが通訳になったりでしてね、大阪弁と東京弁の。重宝されましたよ、時には。
 まあ、あずかっていただいている身ですから、なるべくおとなしくしてました。ただ、ちょうど、園の中で文芸が盛んでして、あたしも、その頃からですかねえ、いくらか、文芸に精を出すようになりました。
 ほんとに文芸は盛んでした。いまは衰微してしまいましたけど。

「あの頃はほんとに盛んやった。俳句なんかとてもね。運座の招待状だすと、百四、五十人はすぐ寄って来ましたよ。そして懸賞額などきめて、受かった人にはあげたりね。ようやったもんです。
広い場所いうたら礼拝堂がいちばんやから、そこで運座をやるんやけど、もう夜どおし作るんです。夜明けになったら疲れてきて、そこの座ぶとんで眠ってしまってね。朝おまいりに来た盲人に、よう蹴とばされましたよ」

 朝早くにおまいりに来るのは、盲人さんが多かったですからね。というのは、盲人さんには付添いさんがおってでしょう。付添いさんが朝のしたくや掃除なんかをはじめますと、その間におまいりに行くんです。蹴とばしもしますよ、そりゃ。
(注)ここでいう付添いさんとは、患者であり、療園では、患者が患者の付添をすることが義務付けらていて、それは昭和20年代後半まで続いた。

 文芸で、雑誌に載せてもらったり、作業でも、比較的元気な人がやるガーゼのばしをがんばってやったりしてるんですけど、やはりなんと言いましょうか、どうしても居候意識がとれませんで・・・。早く戻りたくて、ずいぶん嘆願書を出したものです。早く帰してくれって。
 それでも、光明園ができて、帰るのが昭和13年の七月ですから、四年近くも全生園のやっかいになったんですね。長かったです。
 

 ま、そうこうしているうちに、やっと帰ることができるようになりましてね。往きもそうでしたけど、貸切列車なんですよ。それもふつうの汽車じゃなくって、貨物みたいな。ともかく特別仕立ての・・・。駅へ行くまではトラックでした。
 そのトラックがまたグルリ八方みなテントをかぶせてあって、あたしの方からも何も見えなければ、外からも見えやしないんです。そんなふうにしてありましてね。ところが、ちょうとあたしがいたところに、二寸くらいの継目といいましょうか、裂け目がありまして、そこからちょっと外が見えるんです。もう、それこそ二度と再び東京を見ることはないと思いますとね、一所懸命のぞいてねえ。穴のあくほど見てきました。
 ちょうどまた、帰りの鉄道が大雨かなんかで、たしか山陰の方を通って、東京から一週間近くかかって岡山に着いたんでしたか。
 だけど、遠まわりして、遅れてうれしかったです。もう一生、汽車なんかには乗れんのですから。子どもみたいなもんですよ。
 それと食べることが楽しかったんです。汽車の中で炊きだすこともどうすることもできませんでしょ。だから、駅弁をどんどん買って下さって。



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邑久光明園 藤本トシさん 地面の底が抜けたんです(8)


『地面の底がぬけたんです』一部抜粋

失明


(昨日の続きで5ページです)

 耳や鼻は、それは、とてもいいです。この上耳を悪くしますと、そりゃ難儀なんです。
舎の前を通っても、人の話し声がどれだけ役に立ちますやら。
 こう通って行きますでしょ。すると、あ、誰それさんの声がしているから、ここは何舎だってことがわかるのです。それは、人の話し声って役に立つもんです。
 盲導鈴でも、あなた方にはかすかにしか聞こえないかもわかりませんけど、あたしたちにはあれが頼りなんですから、距離だけじゃなしに、方向も、きちっとわかるもんですよ。盲人さんが歩きなさるのをごらんなさいまし、こう行ってこう曲ると思ったら、きっちりそこからスッと曲がられますよ。あたしは下手なんですけど。
 匂いにも助けられます。この病気は嗅覚のない人がずいぶんありますのに。
 食べものでも、あたしは匂いでね、わかります。ですから、何をいただくのか得心がいってから口に入れられるでしょ。匂いのない人は、それを口に入れて舌でたしかめるまでわからない。
 だけど読み書きはねえ、耳や鼻じゃできませんので、点字を読むったって、このとおり指がありませんので、これは苦労しました。ええ、舌で読むんです。ところが、舌ではなかなか文字になってこないのです。
 点字をうってある亜鉛板をね、こうして捧げ持って、舌で読む練習をするのですけど、あれは舌が痛くてねえ。すぐ舌の先が破れて、練習板が血でまっ赤になるんです。
 それでも、これで読めるようになると思うとうれしゅうございました。痛さも辛さも忘れて、一所懸命でやりました。
 点字本を読んでて、汚い話ですが、ほんとのことですから話しますが、舌を出しっぱなしでやってますと、よだれが出てしょうがないのです、初めの頃は。そのうち、点字のつぶつぶがよだれでふやけてしまって、そこを一所懸命で舌で押すものだから、へこんじゃうんです。ほんとに困りました。
 しかしあれも、熟練してきますとね、ちっともよだれは出ません。舌の先をチッと出しまして、スーと読めるようになるんです。ちっとも濡れません。我ながら感心するようになります。
 最初のうちは舌を長く出して、一所懸命になればなるほど長く出してね。自然とそうなるものなんですよ、おかしなもので。
 ずいぶん良く読めるようになったんですよ。ところが、この人があたしのめんどうを見てくれるようになってから、ちっとも読まなくなってしまって。ずるけましてね。
 疲れるんですもの、あれを舌で読むのは。
 だけど、あれもなかなかいい修行でした。今はもうあんな苦労されてる方はありません。みんなテープに入ってますから。耳だけ良けりゃいいんです。
 うつ方も、相当いいところまで行ったですけどね。なんてましょうか、点筆をちっとやそっと手首にくくりつけたんじゃ駄目なんです。力が足りなくて。
 点字をうつ、あの細い定規みたいなのご存知でしょう。あの小さな長方形の中に六点打つんですから、アなら一点、イなら二点、その二点でも横にうったり縦にうったり、いろいろありましょ、そういうふうにうつんですから。六点で足りない濁音とか半濁音とかってのは、また六点以外のところに点をうつんです。それを一所懸命、この手の甲のところにゴムでキューッとペンをくくりましてやってたんですけど、すぐしびれて手が利かなくなってしまうんです。
 それに手だけでは力が足らないもので、頬でうつんですよ。それが痛くて。
 いえ、机がこうあって、紙がしいてあって点字器があるでしょう。そこへこう頬をもっていって━━あたしは指がありませんので、ふつうの点筆ではうてないので、ペン軸を改造したものに点筆の先だけつけてもらって使ってたんですけど、ペン軸だから長いでしょ。その長いところに頬をこうあてまして、手を動かす時々に、頬で押すんです。アならこう、イならこうってね。それにはなかなか力が要るんですよ。それで、頬のここんところに大きな水ぶくれが出来ましてね、苦労しました。
 点筆というのは、どういうわけであんなに短いものなんですか。あれはこの病者には不向きなんです。あれが使える人というのは、この病者ではいく人もいやしません。みんな改造してるんです。
 あの小さなマスに六点うつのは、なかなかのことです。自分じゃまっすぐうってると思っていても、隣のマスに入れてみたり、二重になってしまったりで。
 頭で五十音を覚えるのはあたしが一番早かったんですけどね。どっちへどう向いたら何という字だってことは、すぐ覚えられたんですけど、実際にやりはじまったら、どんなにしてみてもみなさんに追いつかない。
 じゃ、ちょっと一服って休憩がありますでしょ。すると先生がすぐあたしの横にきて、こやって、一所懸命にほっぺたをさすって下さるんです。ほっぺたでうつのはあたしひとりだもんで。
 でも、落第でした。
 どうしてそんなにしてまで点字をやる気になったかと言いますとね、やっぱり文章が書きたかったんです。自分でうてたらば、他人さんに下書きをおねがいするにしても清書をしていただくにしても楽だと思いまして、それで習いに行ったんです。というのも、同音異義語が多ございましょ。あれが口で言って写しとっていただく時に難儀なんです。
 ところが落第でね。しかたないから、頭の中に文章を書きまして、ここはテン、ここはマル、ここはひとマス空けてとか、行を変えるとか、みんな完全に頭の中に納めまして、その上でしゃべるんです。
 よくそれだけ覚えたねえって言われましたけど、十枚くらいのものまではその頃できました。まだ六十くらいで若かったということもありましょうか。ですから、書き取ってもらいましてから、読みかえしてもらいますでしょ、すると、ああそこはその字じゃなしにこの字ですとか、テン、マルまで全部言えました。頭の中で、原稿用紙をめくりながら読んでるようなもので・・・。




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邑久光明園 藤本トシさん 地面の底がぬけたんです(7)


『地面の底がぬけたんです』一部抜粋

失明


23年の秋とは、藤本さんの49歳の頃で、藤本さんはその後87歳で亡くなるまで40年近い盲目の日々を過ごされました。


(5ページ半です)

 前の日の夜まで本を読んでまして、次の朝おきたら、ぼおっと霧がかかって、なんだかそんなところに入ったみたいで、今日はえらく霧が深いねって言いましたら、霧なんかかかっていないよって、そう言うんでしょ。あらっと思ったんです。それでもう駄目。
 一晩のことでした。二十三年の秋でしたか。少しも痛みもしないで
 体が弱り切ってたんでしょうね。
 戦争でだいぶん無理しましたのでねえ。旦那さんが元気なお方は、旦那さんがずいぶん助けになって下さったんでしょうけど、あたしは、目の悪いつれあいを持ってましたから、その人に何とかして食べさせてあげようと思って、ひとりで一生懸命でしたから。
 少しでもむこうによけいあげたいと思いますし・・・むこうも、どれだけっきりないんだから、これだけ食べては足りなくなるということもわかるんでしょうけど、あたしはそう言われるたんびに、なんとかかんとか言ってごまかしてあげてたわけです。いまから思えば、それだけよけいに栄養が足りなくなっていたんでしょうか。
 それに、畑をやっていても、手が悪いし、やったこともなかったしで、充分できないんです。すると、見かねて他人が手伝ってくれますでしょ。そうすると、そんな時代ですから、手伝ってもらってありがとうじゃすまないんです。それで、自分のごはんを食べてもらうでしょう。何かお茶うけを買ってさしあげるなんてこともできませんでね、何も売ってないんですから、ごはんをさしあげるよりしようがないのです。ですから、自分は断食みたいなもんだったのです。
 見えなくなった時には、手の指はもうだいぶなくしてました。今ほどじゃありませんけど。というのも、戦争中、畑をするのに鍬を持ったでしょう、あれからです。曲った指で無理やり持つもんだから、そのうちに、指のまん中のところが筋切れになりまして、そこから腐り込んでいったのです。
 足の指はもう少しあとですけど、あたしは、こう、きっちり座るのが好きで、正坐ばかりしてたもんですから、反り足になってしまって骨が曲ってね。反り足というのは、足の裏の方へ甲の骨が反ったようになってしまうんです。それで、親指の背の方から腐らせまして、これも、指のつけ根から二寸五分も下から、骨ごとそり落としたんです。両方とも。
 ほんとにおかしな病気です、これは。
 うちの、この人は、ね、手首の関節がまるっきり利かなくなってましょ、はずれたみたいにぶらぶらして。足首もああなるのです。垂足といって。
 ほんとにねえ、手も足も目も、考えてみれば、まったく戦争のおかげです。
 目を失うってことは、これは失ってみて心底わかるんですけど、全部なくすってことなんです。この病気は麻痺が深いから。
 近さや遠さを計るのはもちろん、ものにさわったりものを握ったりするのも、みんな目です。お炊事や洗濯だって、目で切り、目で洗い、目でしぼってたのですし、目で書いてたわけで、もう、しばらくは、ものを言う気力もなくて・・・。
 虚脱状態でした。朝から、押入れの前に座ったきりみじろぎもしない。泣く涙もない。ぼおっとして・・・。恥ずかしいことですけど、気狂いみたいでした。
 だけど、これはあたしばかりのことじゃありませんで、みなさんおんなじですよ。ただ、他人さんとちょっとちがったとすれば、つれあいが目の悪い、不自由な人でしたもんで・・・そこのところがちょっと。
 そのくせ、自分がそうなっても、できるだけの世話をしてあげたいと思いますし・・・。
 なかなか立ちあがれませんでした。
 その時のあたしにとって、ほんとにかけがえのないお人がいましてね。その人に支えられて、やっとのこと立ちなおることができたんですけど、それが、さっき豆を持ってきて下さった人がいましたでしょ、あの人です。あの人が、ほんとにしんからあたしのめんどうをみてくれたんです。
 それというのがね、こう言うと自分の自慢話のようですけど、あの人が大変目の悪い、その上体の悪い旦那さんをもっておられた時があったんです。その、入院しておられた旦那さんに、あの人はありとあらゆる草を採ってきて、ものがない時ですから、炊いて食べさせてあげたんです。ところがお鍋もなくて、そこで、そこらに落ちていた洗面器の古いのを拾ってこられて、針金でグルッと鉢巻きにして弦にして、それを、自分で土をこねて作った竃にかけて炊いたんです。
 ところが、年中そやって炊いてるもんで、顔から背中から手足から、もうススで真黒けになるのです。それが普段のことならまだよかったんでしょうが、お正月になりましてね、同じ部屋の人たちが━━あたしがその時寮長だったんですけど━━あたしを呼んで、どんな時代であったって、とにかくお正月だというわけです。だから、せめてお風呂くらい━━あの人はちっともお風呂に行かんのです。それは行ってるひまがないから行かんのですけどね。それだもんだから、手で剥いだら剥がれるほどに、真黒に油煙が顔や手足についていて、髪の毛なんかはいぶされて、もう櫛の歯が通らないほどになっているんです。着物だってなんだって、そりゃなんともいいようがないほど汚れてるんです。それを、みんなが、あんな格好してられたら部屋の恥だから、せめてお正月の二、三日だけでも小ざっぱりしてほしいから、あれじゃああんまりひどすぎるからって、寮長だからあたしに何とか言ってくれって言うんです。その時あたしは、そうですか、あなた方はりっちゃん━━あの人りつえさんっていうんです━━りっちゃんをそんなに汚いと思いますか。りっちゃんが汚くて部屋の恥だと思いますかって、あたし言いました。
 あたしはちがいます。あの人はほんとうに偉いと思います。あなた方は真黒けで汚いというけど、あたしはあの人に後光がさしているように思います。ほんとに、あの人ほどのおこないができる人が、何人います。あれは捨身行の姿です。あたしからはそんなことは言えませんって、そう言ったんです。
 それで、あたしが目を失ってから━━あたしからはあの人に何も言わんのですけど、影になり日向になりして、言わず語らず多少はかばいました━━それであの人が、どれだけ力になってくれたかわかりません。ほんとに、今でもあの時のことを思うと涙が出ます。
 それにりつえさんは、目の悪い旦那さんを長い間みてこられた人でしょ。目が悪い人の扱いをよく心得ておられましたし・・・ほんとに、どれだけ世話になりましたやら・・・。
 今だにこうして、豆をとどけてくれたりして、あたしには恩人です。

(つづく)

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


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