妻の手
妻はこんきよく洗濯している
わたしのシャツ ズボン
知覚のない手に石鹸袋をくくりつけてもらい
洗濯する盲妻の姿 私にも見えない
あわの中からきこえる音だけ
軽症の頃の妻は
ふっくらとした柔かい手をしていた
包丁のさばき 針仕事も上手だった
いまでは十本の指がみんな曲がり
それでも妻は
ほがらかに愚痴をこぼさない
洗濯の音がさわやかにきこえる
私は田舎廻りの役者にすぎない
高原の野外劇場に抱えられてより二十有余年
真剣に舞台に取り組んで来た
ヘレンケラーの三重苦の稽古した
数々の芝居の美しさも稽古した
知覚のない両手に点字書を抱えて
舌端で読む稽古を続けながら
今はレプラの盲目の果てを
静かに稽古している
夏の夜も
秋の夜も
冬の白夜も
昨日も今日も
懸命になって台詞の稽古をしてゆく
洗濯の音がさわやかに聞える
岩の家
私に人間であって人間ではないという日が来た
仮面をかぶって鬼になった
深い谷底に岩の家
それは鬼の家 私の家です
大きな立札が掲げてある
人間ならどなたでも歓迎します
けれど誰も来ない
なぜだろう?
私は気配を殺している
私は人間に嫌われ恐れられている
私を見たら人間は石を投げるだろう
私は感情を押える
感情がこわれる
希望もなくなってしまう
岩屋の柱にぶつかり苦しみもだえ
私は人間になりたい
人の言葉でこの鬼の心を伝えたい
人間が来た
大きなずた袋
弾のない短銃
靴をはいて
私の住居を覘く はじめは好奇の眼で
やがて私をみつけふるえていた
人間はしゃにむに逃げて行った