あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

母のことばが私を支えた

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P53~P57抜粋


 ハンセン病と診断された後、国立の療養所へ入る前に、一度どうしても母親に会って話をしようとしたことを思い出します。田舎へ帰ったのは二年半ぶりくらいでした。夜は二人だけにしてほしいと頼みこみ、母も再婚した嫁ぎ先から来てくれました。会うと、母親は「帰ったか!元気でやっとるか」とただただ喜んでくれました。だから余計に打ち明けにくかったのをよく覚えています。

 夜も更けてやっと、私は大阪の日赤病院でらい病の宣告を受けたことを告げました。それを聞いた母は、「そんなこと、ご先祖様にも聞いたことがない」と頑強に否定します。遺伝だと思っていたわけです。
「そんなこと聞いたことがない。何かの間違いだ。おまえは夜間部で勉強をしたり働いたりしてるからそういうことになったんだ。疲れてるんだから帰ってこい。帰ってきて休んだら良くなる」と言いつのります。
「そんなことを言っても、大きな病院でたくさんの先生方が集まって診断したから間違いないんだ」と私は答えました。それっきりお互いものを言わずに、一晩中ため息ばかりついて一睡もできませんでした。外が明るくなってきて、結局母も諦めたのか、涙を流しながら言いました。
「必ず治って、笑っていっしょに話せるときがあるから、それまでわしはおまえのことを一切しゃべらない。おまえの病気が治るまでは口が裂けても言わん。手紙は書かんでもいい。住所がわかって困るから。手紙がこないことは元気でやっていることだと思うようにするから。これだけは頼むよ」と。そして「病気というものに、治らんものはない。治らんのは病気に負けとるんだよ。おまえは島に行って一生懸命治療したらよくなる」と力づけるように言ってくれました。私が自殺するのではないかというような気配を感じたのでしょう。「どんなことがあっても生き抜いてくれ。頼む。頼む」と、繰り返す母の声は今でも耳の底に残っています。

 このときの言葉が、今日まで、私が生きてきた一番の支えになっています。

 母は明治二十九年生れです。明治の人の気骨なのでしょうか、別れ際に「人間は生れてきた以上、人の役に立つようなことをしなさい。そのために人は生れてきてるんだから、おまえも絶対に生き抜いてくれ。社会に役立つような人になってくれ。元気になってくれ」と言いました。

 私が母を尊敬するのは、再婚後(再婚の事情やその状態については後述します)、「人間は真心があれば、言わなくても通じる」と言い続けていたということです。再婚後に生んだ、私にとっての異父妹の二人からそれを聞きました。妹二人と会うとしょっちゅう、「お母さんはこう言った」という話をしますが、「真心があれば必ず通じる、だから腹が立つことがあっても半分までにして、口から出したらあかん。必ず真心は通じるから」と言っていたといいます。

 母は再婚先で、私も聞くと涙が出るほどかわいそうだなと思うような苦労をしていました。その母が私に会うといつも同じことを言っていました。幼い私が父母もなく一人でたいへん苦労をしているだろうと、母にはとても不憫に思えたのでしょう。そういう母の言う「真心があれば必ず通じる」は孤児のような私への励ましだったのだと思います。その言葉には、幼心にも胸を衝かれるものがありました。

 療養所の中での七十三年間、私が諦めなかったのは、母の「おまえも絶対に生き抜いてくれ。社会に役立つような人になってくれ」という言葉があったからです。隔離されていた私は母と言葉は交わさなくても「真心」のうちでつながっていました。私は母の存在を通して「故郷」とつながっていました。

 私はハンセン病と診断されて愛生園に入るまでは風邪をひいたこともないほと健康で、小学校八年間、皆勤賞でした。そんな私でしたが、この九十二年間に死と背中合わせの体験を四度しています。最初は入所して三ヶ月が過ぎたとき、三十九度の高熱が続きベッドで三週間過ごしました。あとで結核性の肋膜炎(胸膜炎)とわかりました。

 二度目は戦後、ハンセン病が再発したとき、プロミン注射の副作用と重なって末期症状となり死と背中合わせの状態でした。後述しますが、この瀕死状態のとき、私は、母の自分自身を犠牲にしたような物心両面にわたる援助によって回復でき、それから十年後には、自身が亡くなった後の息子の行く末を心配している母の愛情を知りました。

 三度目が七十七歳のときです。胃ガンの手術を受け三分の二を摘出しました。八十九歳のとき、店頭して頭を打ち硬膜内出血を起こしたのが四度目です。ドリルで頭蓋骨に孔を開けて血を二百CCまで吸引したところまでは覚えていますが、脳に空洞ができたため平常にもどるのに約六ヶ月を要しました。完全に認知症になると覚悟しました。この四度の瀕死体験とは別に二度、失明状態になりましたが、奇跡的に弱視ながら視力を保つことができました。

 病んだときベッドにいて浮かんでくるのは常に「家のためとはいえ再婚して、四歳のおまえを一人にして済まなかった。許してくれ。どんなことがあっても生き抜いて、人のため社会のために役立つ人になってくれ」という母の言葉でした。幼いときから一緒に暮したことのない母ですが、この世にいなくなってもその母とは心の絆で結ばれています。

 家族と故郷から切断された人の孤独と苦しみには想像を絶するものがあるだろうと、私には常に母との心の絆があったからこそ思うのです。


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海鮮の味噌汁



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海鮮は15秒湯通しする。鍋にタマネギと水を入れ、ダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして海鮮とスナップエンドウと豆を入れ、5分ほど煮て、味噌を溶き入れ、2分ほど煮て出来上がり。



ハーブティ

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左からセイジ、アップルミント、タイムで、沸騰したら火を止めて入れ、3分蒸らし、ハーブを取り出して出来上がり。



レタスの酢味噌和え

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レタスは洗って手でちぎる。ボールに酢、味噌、蜂蜜、砂糖を入れ、レタスの水気をしぼりながら入れ、手ですこしもんで出来上がり。



ズッキーニと厚揚げ炒め
   
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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ズッキーニ、厚揚げの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



ダイコンおろし
   
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レプラの告知

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P64~P66抜粋


 私が異常に気付いたのは目の上に出た赤い斑紋と、左の足の三センチくらいの赤い斑紋でした。日赤病院に行くと、「午後に特別診察するから待ってくれ」と言われました。その午後、たくさんの医師が私を取り囲み、幹部を筆や針で触って私の反応を見ました。それが診察方法でした。ハンセン病の一つの特徴は神経の麻痺です。私は筆にも針にも刺激を感じませんでした。

 五、六人の医師に囲まれたなかで、「あなたはレプラです。分かりますか、この言葉?」と言われました。私は「レプラ」が「癩病」であることをなぜか知っていましたから、ガツンと木刀のようなもので殴られたような気がして頭の中が真っ白になりました。

 その後、覚えているのは交差点に停まっている電車にぶつかって、車掌に怒鳴られたことだけです。十九歳の私がまず思ったのは、レプラに罹ったら家族、親族に迷惑をかけることになるということでした。

 私は大阪に来てから、四天王寺の参道でハンセン病の人たちの姿を見ていました。保健衛生行政のいう「浮浪癩」がそこにはいっぱいいて、生きるために物乞いをしていました。「これはひどい人たちがおるな」と衝撃を受けました。見た目の印象というのは大きいものです。当時は不治の病でしたから、徐々に顔が変形し、悪臭が出て手指も欠落します。その上、義足でした。そしてそれらの症状が直接の死因になることはありません。

 それが立場が逆になったわけです。若いときにそういう人を見たときの感情、気持ちというのは覚えているので、差別の感情が分からないことはなかったわけです。

 私がその病気だと宣告されたのですから身体全部をこの世から消してしまいたいという不思議な感覚でした

 その午後をどこでどうしていたのかよく覚えていませんが、夜、港でしゃがんでいることころを、見回っていた警官が声をかけ交番へ連れて行ってくれました。自殺する気だったのかもしれませんが、とにかく命は助かった。もう夜中でしたから、タクシーで帰り、あくる日になって薬をもらわなかったことを思い出しました。

 レプラでも薬がないことはないと思い直し、もう一度日赤病院に行きました。受付けの人がすぐに「あっ、裏へ回ってください」と言って私を連れ出しました。連れて行かれながら「病院の裏は汚いところだなあ」と思った記憶がなぜか鮮明に残っています。

 そこで「あんたはここでは診療できません。岡山県の長島に専門の国立病院があるので、そこへ行ってください」と言われました。「療養所」ではなく、はっきり「病院」と言いました。私は「島」という言い方から「これは島流しかな」とも思いましたが、どっちにしろ一度行ってみて、それから身の振り方を考えようと決めました。そしてその前に一度、母にだけは言わなければならないと思い、鳥取に寄ったのです。このときのことは先述した通りです。


「レプラの告知」を読んでいたら、藤本トシさんの「謎」という随筆が頭に浮かび、オーバーラップした。加賀田一さんも藤本トシさんと同じく十九歳のとき発病。


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豚肉とタマネギ炒め


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豚肉100gは解凍して15秒湯通しする。ニンニク1片は薄切りする。

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク、豚肉、タマネギの順に炒め、生姜醤油で味付けして出来上がり。



ダイコンおろし
  
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冷凍うどんの画像がないが、冷凍うどんは4分茹でて冷水にとり、皿に入れる。ダイコンおろしと茹でたエンドウをのせ、メンツユで。


ズッキーニのおひたし

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ボールに蜂蜜と醤油を入れ、生姜1片をすりおろす。じっくり炒めたズッキーニを入れ、混ぜて出来上がり。


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大阪で勤労学生に

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P62~P63抜粋



 1932(昭和7)年、私は小学校の高等科を卒業しました。当時の義務教育は尋常小学校六年で、そのあと高等小学校二年を終えて働くのが普通でした。余裕のある子は尋常小学校を出てから五年生の中学校、女子は高等女学校へ行きました。

 卒業時に担任の先生は私に師範学校に行くよう、盛んに勧めました。師範学校というのは尋常小学校、高等小学校の師範すなわち教師養成用の学校です。五年制なのですが、授業料の補助があって貧しくても行ける学校でした。

 ところがこの昭和7年、師範学校の新入生受入れが中止になってしまいます。担任の先生が「一年間、補習してやるから」というので、家の農作業を手伝いなら勉強して待っていたのですが、次の年も募集がないということがわかって、大阪に出て商社へ入りました。1933(昭和8)年のことで、私は16歳になったばかりでした。

 私が子供のときのことを考えてみると、昭和6年が満州事変、軍国主義が盛んになり、いわゆる十五年戦争に突入していった時代です。富国強兵のため、小学校高等科にも軍事教育が導入され、師範学校の入学も中止になりました。

 大阪へ出ても学校へ行きたいという希望は持続していました。だから働きながらもまず学費を稼がなければということで、一年間働いて今度は夜間部に通いました。仕事は通学のために三十分早く切り上げ、そのかわり朝早く出勤しました。労働条件も厳しかったので、少々過労だったかもしれません。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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