あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

多摩全生園  大越道草さん



後より肩を叩きし看護婦のいづこへと聞く声のやさしさ




杖を手に道に迷へる此の姿母のみまさば如何に歎かん




足痛み歩行かなはぬ人あるに吾身を嘆かじと思ひ直すも



大越道草さんの略歴
全生病院。『曼珠沙華』(昭和9年・故人)


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多摩全生園  岩本孤児さん



乙女娘おとめごの入院あると聞く毎に妹もつ吾はおののき覚ゆ




草の穂より穂に移りては鳴きにけり頬白き鳥あいらしき鳥




病みやめば子等の如くによろこびぬたった一つの水蜜桃に




その昔の思ひ出もあり沁沁と運動競技のどよめきに立つ




(病床より)
ものなべて定かに見えぬ日の夕べ食塩注射施されたり




(病床より)
熱ひくにつれて庭木に群れ遊ぶ小鳥の声は聞え来りぬ




愁もつ瞳と瞳見合せつ病室の火鉢かこみゐるかも




癩性結節性紅斑に又もはれたる此頭わっても見たし刃物を持ちて




繃帯を替へて貰ひつ思ひけり手負ひとなりし穴のけものを





どうだいと呼びかけられし一言が無闇にうれしき日のありにけり



岩本孤児さんの略歴
全生病院。『東雲のまぶた』(昭和5年)『曼珠沙華』(昭和9年・故人)


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反省と誓いの碑

加賀田一さん「いつの日にか帰らん」P42~P45抜粋


 2008(平成20)年、鳥取県県民文化会館前に「反省と誓いの碑」が建立されましたが、きっかけは徳永進先生のアイデアでした。

 「加賀田さん、石碑を建てようじゃないか。県民のためにということで隔離されて一生を棒に振った。あんたといっしょだ。この人たちの遺骨は郷里に帰れない。帰りたくなかったというのなら別だけど、望郷の念にかられていながら、遺骨になっても帰れない。そんな不条理があってはならん。せめてそういう人たちがいたという碑を造って残そうじゃないか」という言葉が始まりでした。

 「是非やりましょう」と私が大賛成したのは言うまでもありません。

 私が早速片山知事に話したところ、「それはそうだ」と、二つ返事で資金の半額として百八十万円の予算を組んでくれました。そのあとすぐに設立委員会を結成し、ハンセン病の啓発という主旨を理解してもらって建設資金を募りました。募金事務は元担当官の福田敏さんが引き受けてくださいました。一口千円でたちまち五百二万円が集まり、県の百八十万円を加え建設に取りかかりました。

 碑の前面には「いつの日にか帰らん」という文句が刻まれました。文部省唱歌「故郷」の一節ですが、その作曲者・岡野貞一が鳥取市の出身だったこと、さらには「らい予防法」判決の日、熊本地裁に集まった原告、支援者が声を合わせて歌ったのが、「夢は今もめぐりて 忘れ難きふるさと」の歌だったことから選びました。碑の横には「ハンセン病強制隔離への反省と誓いの碑」と入れましたが、これを入れるについては実は一悶着あったのです。

 県はすでに「ハンセン病施策を考える委員会」を作っていたのですが、それでもやっぱり県の職員は官僚、お役人でした。「『反省』という文字を入れるのはやめてくれませんか」と言うのです。

 国が行ってきた隔離政策が間違っていたということは、県の職員も若い人はみな理解しています。二度とこのようなことがあってはならないという主旨のもとに集まった浄財であるにもかかわらず、そのお金で建てる碑には「反省」の文字を入れたくないというのです。

 「反省」と入れれば、先輩方のやったことを間違っていたと批判することになる。自分らは後輩として、先輩が間違ったとは言いにくい。もち間違ったと言えば自分の将来に影響する、つまり、出世のコースから外れるという気持ちがあるわけです。ただただ保身です。「反省」という言葉には厚労省の官僚も県の官僚も非常に抵抗しました。

 しかし私たちは「反省」の文字を削るわけにはいきませんでした。最近の例としてはエイズがありますが、これからどういう新しいウイルスが発生して人間を襲うかわかりません。今まで聞いたこともなかったエイズの出現は、偏見、差別による病者の排除というかたちで人々の間に広がりました。きちんとした知識の普及がなく、噂によって恐怖だけが広まるところでは偏見、差別、排除が起きるのは人情というものです。こういうことは厳しい検証と反省がなければ、また起こります。そこにこそ誓いの意味もあるわけです。こうした私たちの強い思いが通じ、「反省」の文言は残されることになりました。

 デザインは県民から募集し、委員会で厳選の結果、倉吉市在住の池田正晰さんの作品が採用になりました。上下二色のツートンカラーで、下半分の白色は真面目に生きる純粋さを、上半分の黒は病魔に襲われて苦しんでいるという、ふたつの心の葛藤を表現しています。荒いハツリ部分は日本海、白くこまやかなハツリは瀬戸内海のさざ波です。高さ三メートルの大きい石を地形や風景との調和も考慮して二メートル六十センチに削りました。

 ところがいよいよ建てることになって、まだまだ偏見や差別が強いことを知りました。建てる場所で少しもめたのです。徳永先生は「砂丘が見えるところや、大山の見える鳥取県らしいところに建てたら」と提案していましたが、県立博物館の庭や公園の一隅ではだめかといった意見も寄せられ、紆余曲折の末、ようやく県庁の芝生の中に落ち着きました。

 片山知事のもとで一期だけ副知事をやられた、総務省出身の若い平井伸治新知事が一言、「県庁のこんなところに建てたって誰も気がつかない。こんなバカなことはない。毎日イベントがある県民文化会館の玄関ドアの横に建てなさい」と指示して、鳥取市のメインストリートに建てることに決着したのです。

 「反省と誓いの碑」建立は私の人生の最後の締めくくりだと思っています。


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ナスの辛子漬け



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ナスは塩をふって1時間ほど置き、水気をしぼる。その後、酢を少しふって、同じくしぼり、大さじ1の蜂蜜を入れて混ぜる。

練りからし(チューブ)小さじ1を、大さじ1のみりんで溶き、大さじ1の酒と醤油と味噌を入れて混ぜ、ボールのナスに入れ、混ぜて出来上がり。昼に作れば夜には食べれる。「即席※ナスの辛子漬け」と「なすのからし漬け」の両方を参考にした。



タジン鍋

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先日作っておいしかったから、また同じように作った。

タジン鍋の下敷きにタマネギのスライスを入れ、ズッキーニとニンジンの輪切りを置き、ピーマンを置き、とろけるチーズ1枚とベーコン2枚を切って置き、ニンニク醤油のニンニク2片を薄切りして置き、ニンニク醤油で味付けし、胡椒を少しふり、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で出来上がり。

   


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多摩全生園  平鍋狂濤さん




もの云はぬ物に手荒くあたりたるその悔心身にくひ入るも




桜など咲かば癒えめと人も云ひ吾も思へり思ひつつ病む




一度には病のために悪しかりと二つの餅を一つ残せり




血に泣きて神を呼びにし胸ぬちにいつとは知らず溜息をおぼゆ




そこはかの金をにぎりておのづから心の底にあるゆとりかも




一族の呪ひとなりし吾が病いたはり来つつ年を経にけり




忘れ得ぬ人を忘れてこの秋も身一つに聞く風の音はも




吾が影の淡くなりしと友の云ふを笑ひては聞けど寂しさの湧く




紅のサルビヤの花と水薬と並べ置きあり吾が枕もとに


平鍋狂濤さんの略歴
全生病院。昭和初期の全生病院の短歌会の中心的人物。昭和4年の「山桜」「開院二十周年記念号」に短歌会の発祥の頃を「いそしむ道」として寄稿している。症状は重く、文筆以外の活動はしていなかった様子。「死にくじ」(「山桜」1928年5月号)。1935年刊の『野の家族』には故人とある。『東雲のまぶた』(昭和5年)『曼珠沙華』(昭和9年・故人)


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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