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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

笑ってお見逃しを


人生の問いに対して、誰もがそれを解決しようと悶える。


その問は人それぞれ違うので、自分の問が、他人にはおかしく見えたりする。


誰もが、人生に対して、ひとつ~ふたつの生涯のテーマをもち(それを宿命とか運命というのかも知れない)、それに悩み、生涯を通して考え続けるだろうから、どうしても同じようなテーマがブログでも続く。


同じテーマでも、時間を置いたり、その時の気分が違ったり、年齢がいったり、いろんな経験を重ねることによって、その生涯の問に対しても、視点が異なってくる。


だから、同じようなことを書いても、本人としては違った視点で書いているつもり・・・


作家は、当人の生涯のテーマ(宿命とか運命)に関して、登場人物をかえて追及する。


だから、凡人のぼくが同じようなことを書き続けても、笑ってお見逃しを。




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長島愛生園  加賀田一さん(39)

 
孤児Kさんの縁


「いつの日にか帰らん」P219~P223


 ちょっと小説のような話があります。

 東京の目黒に「慰廃園」というカトリックの方々が建てた私立のハンセン病救護所がありました。カトリックでは堕胎は大罪です。入所者の男女は厳格に分離します。夜はそれぞれの居住棟にシャッターを下ろしていたそうです。それでも男女が近くにいると、子供ができるようなことが起きます。しかし、そこでは生めません。

 二親は園から出て、都内で子供を生みました。その赤子がKさんで、これらの経緯もKさんから聞きました。それから両親はKさんを伴い愛生園に来たらしいのです。その愛生園もまだできたばかりで、健康な子供を世話する用意はありませんでした。そこでKさんは草津にあった聖バルナバ教会に預けられ、そこの救護所で育ちました。

 Kさんは何年か経って病気は出たけれど、少し症状があるだけで後遺症もなく回復しました。そして、多摩全生園にいた福島県出身の女性と結婚しました。この女性は一家十一人、病気の人も病気でない人も全員が全生園に入所しました。両親が病気だったために子供も全部連れての強制収容でした。そのなかの次女とKさんが知り合って結婚し、社会復帰したのです。それが終戦の年でした。

 二人は東京巣鴨近くの六畳一部屋のアパートに入居して、紙問屋に勤めていました。ところが都営住宅の建設のために立ち退くことになりましたが、住むところが見つかりません。そこで思い切って都営住宅の抽選に応募、くじを引いたところ、三百人を越す応募者の中で幸運にも当選しました。「これはただごとではない。両親が巣鴨近くで生んだと聞いたことがあるけれど、その両親が見守ってくれていたものに違いない」と信じて、以後、両親の行き先を探し始めたといいます。

 私たちは患者運動で東京に出ると、宿賃がないので多摩全生園に泊まります。全生園には池袋から清瀬まで電車に乗って、清瀬からバスに乗ります。私がたびたび東京へ出ているとき、全生園で奥さんのほうのご兄弟からKさんの話が出ました。「Kさんはどこで生まれたかわからない。両親もKさんを聖バルナバ教会に預けてどこへ行ったかもわからないけれど、設立間もない愛生園に夫婦で行ったらしい。その両親の名前はセツオとキミエというらしい。愛生園になにか手がかりが残っていないか調べてほしい」と、多摩全生園には愛生園からも多くの宿泊があるにもかかわらず、たまたま私が依頼されました。

 私は帰ると、すぐにセツオとキミエという名前の夫婦が長島愛生園にいたかどうかを調べました。そうするとお骨がありました。1933(昭和8)年にセツオさんが亡くなって、そのあと何年かたってキミエさんは再婚され、1942(昭和17)年に亡くなっていることがわかりました。

 再婚後のキミエさん夫婦の住んでおられたのが「遍路寮」でした。それは下村海南という朝日新聞の有名なジャーナリストがいて、戦前は貴族議員、戦中は情報局総裁もやったと思いますが、その海南さんが寄付した建物でした。海南さんが『遍路』という著書を出版し、その印税によって建てられたので「遍路寮」という名称が付けられました。

 キミエさんが昭和17年に亡くなった後、「遍路寮」のその空いた部屋に順番が回って入ったのが、私たち夫婦だったのです。調べてみたら、なんと私が住んでいる部屋が、Kさんのお母さんが住んでおられた部屋でした。

 このことをお知らせするとKさんは大変喜ばれました。私が「納骨堂にお骨がありますよ。分骨されるんだったら私が手続きをしますよ」と伝えると、何十年ぶりかに自分の親がわかったと、喜んでここへ来られました。Kさんにとっては生んだというだけのつながりであっても、それは何ものにも代えがたい縁でした。そしてお母さんの住んでおられた部屋に住んでいた私が調べたというのも縁に違いありません。さらに縁がつながりました。

 Kさんはここの納骨堂に初めてお参りに来ました。するとたまたま散歩に来た入園者が突然、「おい、えっちゃんじゃないか」と驚きの声を上げました。その人も聖バルナバ教会で育ち、そこの救護所を出て社会復帰し、再発して今度はここに入園した伊豆大島出身の人でした。その人とKさんが聖バルナバ教会の小学校時代の友達だったわけです。こういう小説みたいな不思議な巡り合わせが、こうして身分を隠して療養したりする人の中にはあります。

 以後、Kさんと私の交流が続き、亡き両親のいるところへ来させてくださいと、毎年というわけにはいかないけれど、何年かに一度お参りされて、会っていましたが、この間、亡くなられました。これは、カトリックの小さな十五人ほどの救護所で「禁断の恋」によってこの世に生を享けて、両親を知らずに育ち、そして両親を慕った一人の生命の話です。

 私が交際するだけでも、ハンセン病者となったがための、いろいろな一生があります。

 下村海南先生と私たち夫婦の縁についても一言つけ加えておきます。海南先生が長島に来られると、毎早朝、必ず園内を散歩されました。その折り遍路寮にいる私のところを訪ねて来られます。戦後になってからのことですが、東京に帰ってから私宛に色紙を託して下さいました。色紙には、「遍路寮もいたく古びたり 我と語る主の妻のういういしき哉」と歌が詠まれていました。古びた寮の姿に、戦に敗れた後の自分を託し、いまだ若くて病気も軽かった私の妻を対照させた感慨でしょうか。この色紙は愛生園歴史館に納めました。


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新タマネギを使った3品


夜は出かけるので、早めに更新しました。

ホワイトシチュー


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新タマネギの玉の部分をスライスする。ジャガイモ、ニンジンを乱切りする。シイタケはスライスする。豚肉100gは15秒湯通しする。

熱した無水鍋に油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、豚肉、タマネギの順に炒め、ジャガイモ、ニンジン、シイタケを入れ、全体に油がまわったら火を止めて大さじ3の薄力粉を入れて混ぜ、牛乳を入れて点火し、コンソメ2個を入れ、煮立ったら極弱火にして30分煮て出来上がり。



新タマネギの葉の酢味噌和え

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新タマネギの葉はざく切りして2~3分茹でて冷水にとり、水気をしぼる。山菜の山ウドは粗みじん切りにする。

ボールに酢、味噌、砂糖、レモン果汁を入れて混ぜ、新タマネギの葉と山ウドを入れ、混ぜて出来上がり。



新タマネギの葉の煮物  

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鍋に醤油、砂糖、酒、みりんと水を入れ、シイタケのスライスとダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして5分煮て、ざく切りしたタマネギの葉を入れ強火にして、タマネギの葉が少ししんなりしたら弱火にして3~4分煮て出来上がり。


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健康寿命と平均寿命


男の平均寿命は80歳でも、健康寿命は72歳。

平均寿命だけで自分の残り年数を考えていたが、健康寿命ならあと6年しかない。

今は別段、悪いところはなく、後6年とか想像もしていないが、

心筋梗塞や脳梗塞の危険年齢が・・・



健康寿命を保つためには、ブログを止めた方がいいのかも知れない。

時間がかかるし、夜更かしになるし。



すでに母の亡くなった年齢を超え、父の亡くなった年齢には10年を切った。

父母は大正生まれだし、父は戦争に召集された。大正生まれの人生は厳しかった。

逆に祖父母はどちらも90歳前後まで生きた。



健康寿命は後6年といっても、取り立てて今の生活習慣は変えれない。

田舎では近くにいい手本があるので、自分より10歳ほど年上の人が、元気に農作業をしているのを見ると、自分も同じように出来るかなあと思ったり、

自分より20歳年上の人が、今も稲作をして、コンバインや乗用トラクターを運転しているのを見て、目標にしている。

ただ当集落では、生きておられたら現在85~90歳の人が、立て続けに70歳を過ぎた頃に亡くなられて、その世代の人がごく少ない。



今は、前だけを見てブログを進めている

ある日突然、「中断」という終わり方になるのか

それとも余命を宣告されて、生きるのか


 


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長島愛生園  加賀田一さん(38)


高島重孝先生



 「いつの日にか帰らん」P207~P214抜粋


 二代目園長の高島さんは非常に人間的でした。出身は東京の渋谷と聞きましたが、そこの高島外科の次男坊です。慶応大学の医学部に在学中、草津にある栗生楽泉園に医療援助に行かれ、そこで会ったきれいな娘さんがどんどん症状を悪化させていく姿を見たそうです。そしてまた、「お医者さんがいないから是非来て下さい」とたくさんの患者さんに頼まれました。そんな体験があって、自分の家が病院なのにとうとうハンセン病のなかに入ってきたという方です。

 その後先生は、楽泉園から東北新生園の医務課長を経て、駿河療養所の所長になられました。そして光田先生の後任として愛生園の二代目園長に就くことになったのですが、そのとき長島に橋を架けることが約束だったことは、その後の頓挫の経緯とともに「架橋」のところで述べました。

 先生は就任の挨拶で「光田先生の後を私が継ぐのは木に竹を接ぐようなもの」とおっしゃいました。これは隔離政策と反対の「解放」政策をとるということでした。まず就任条件の架橋がそれでした。

 しかし職員には光田イズムが深く浸透していましたから、そしてまた高島先生は人がよく、強引さの全くない方でしたから、なかなか自分の考えどおりにはゆきませんでした。入園者との窓口(現在の福祉室)の職員には、開園のころには就職する人がなく定年になった警官上がりがほとんどだったこともあって、患者に対して「おい、こら」と、犯罪者か身分の下の者に接する態度でした。

 窓口に「帰省願い」を出すと、医師でもないのに「オマエは治療が足らん」とか「鏡をよく見てこい」などという暴言を吐く者もいて、これに抗議もできないのが予防法闘争前でした。こうした職員の気風はその後も残っており、折りを見て出てきました。これを改めさせるためにも、先生はずいぶん苦労されたと思います。

 私は自治会長としてお会いする機会も多く、個人的なエピソードはたくさんあります。最初に強く印象付けられたのは、「看護婦さんは菩薩だ」とおっしゃったことです。親や兄弟の反対を押し切ってハンセン病療養所を志し、人の嫌がる病人を胸に抱きかかえて治療している姿は菩薩ですとしみじみおっしゃいました。

 前にも書きましたが、あからさまな差別がひどかったのが職員用の連絡船であり、その船長でした。患者用の船は乗り遅れたら何時間も待たねばなりません。しかし職員船の船長は「乗ったら絶対あかん」と乗せませんでした。船長の理屈は「この船は職員家族や通学児童も利用するから患者と同船は伝染の危険がある」という光田イズムです。路線バスでは乗車拒否に遭ったり、そんないやな思いを身近なところでしょっちゅうしていました。

 高島園長は「そんな差別があっちゃいかん」という考え方ですから、港で「ああ、乗りなさい」と言う。ところが船長が「園長、困るじゃないですか」と言い張る。船ですから、園長よりも船長のほうが強いのでしょう。

 夜、虫明の桟橋で園長といっしょになったことがありました。もう患者用の最終便が出たあとで、虫明には旅館などありません。園長が「乗りなさい、乗りなさい」と勧めて、私が乗ると、船長が「デッキにおれ」というので、外に立っていた。すると園長は中から「そんなところに立っていると危ない。中に入りなさい」と強く招くので、私が中に入ると、「腰かけたらいい」と横に座らせて、「今日、これを貰ってきたからあげるよ」と言います。見ると泡盛でした。光田園長時代は酒、米は禁制品でしたから驚きました。

 自治会長としては1971(昭和46)年、光明園と愛生園の自治会が共同して架橋運動をすることになったことを園長に報告すると、「なんだ、14年前に話がついていたのに、そのときは反対しておいて」くらいのことは言われるかと覚悟していたのですが、先生はもっとずっと心の広い方でした。返ってきたのは「それはいいことだ。一生懸命やってくれよ。応援するし、できることはいっしょになってやろう」でした。

 政府の謝罪後、過去を調査する「検証会議」が開かれましたが、そこで大問題として取り上げられたのが堕胎であり、胎児のホルマリン漬でした。私たちは罪責として堕胎も大きく取り上げていましたが、ホルマリン漬についてはその一つの例でした。外からの「一般の眼」がこれを重大視することによって、私たちは私たちの「異常への馴れ」を気付かされたのです。

 というのも本館建替えの際、私たちは、「異常」の「証人」として機敏に対応することなく、あの大量の胎児標本を職員が処分するのに任せてしまったからです。それより以前に、内部の医者および統治責任者という当事者として、その異常さへの反省感覚をもっておられたのが高島先生でした。

 あるとき高島先生が私に、「加賀田くん、お地蔵さんを買ってきたんだが、山のなかに建ててきたよ」と言われました。「子供を堕ろして捨てて、あんな無慈悲なことをしたらいかんのじゃないかと思って、それで石屋によって既製品だったけど地蔵さんを買ってきた。ところが職員に『こんなもの建てちゃいかん』と言われてね。建てるところがないんだよ、きみィー」と嘆かれました。職員としては、自分たちがやったことの罪業を認めることになるということでしょう。

 高島さんは「したことは間違いです」という考え方ですし、なによりも心を痛めておられました。ここにいる以上「どうも気が安まらない。何か心の支えになるものがないと居づらい」と、ご自分のポケットマネーでわざわざ求めてこられたのです。これを聞いて私たちは自治会としてすぐに山の中へ探しに入りましたが、すぐには何処だかわかりませんでした。光明園へ行く旧道から上がって行ったところ、現在の道路からは下になりますが、林の中に見つけて、周囲の雑木やら草を刈って祀りました。

 それからはこっそりとお参りする人が出てきて、花やら線香が手向けられて、いつか自然に道もできました。外からくるお客さんもお参りするようになりました。現在は整備した万霊山に遷しました。親の入っている納骨堂の横手に水子地蔵として祀っています。先生はこういう優しさをもっておられました。

  個人的にもいろいろな話がありますが、文字通り「裸の付き合い」がありました。高野山の宿坊でのこと、風呂に入ると、高島さんが入ってきて、「背中を流そう」と、私の背中を流してくれました。あとで坊さんが「園長先生は患者さんと一緒に風呂に入る」と感心していました。

 園内部では特に職員からの非難に「高島園長は岡山の名士のところばかり行って、大風呂敷を広げている」というのがありました。光田園長は非社交的な学究肌でしたから、その違いが目に付いたのでしょう。しかしロータリークラブの会員になって広く交際したのも、先生としては愛生園を特殊な場所としてではなく、医療の場として認めさせ、地元との風通しをよくしようという意図からでした。このことをはっきりと知ったのは、先生が七十歳の定年を迎えられ、退官と同時に勲一等を授与された、そのお祝いの会の席上でした。

 私にも声がかかり、出席させていただきました。そのとき先生は冒頭のご挨拶で、「今日のような会に私は値するものじゃない。勲一等をもらうような者ではない。この席に患者代表が祝いに来てくれている。このことの方が意義がある」とおっしゃいました。この挨拶のあと、「患者はどこにいる」と、岡山大学の小坂学長や両備バスの松田社長、県の名士が私のところへやってきて、「よく来てくれた」と盃に酒を注がれました。

 これは私個人のことだけではありません。両備バスは長く患者を乗車拒否し、切符を手で受け取らず足で外へ蹴飛ばしたり、かぶった帽子の内を覗き込んでハンセン病者と分かると途中の山道で降ろしたり、入所者の恨みの籠った相手でした。岡山大学とは、歳とともに多くなる合併症治療のためにも医学部との人的交流が不可欠でした。その道が高島園長時代に拓かれたのです。高島園長の活動によって園並びにハンセン病が地元の人々に徐々に理解されて行ったこと、これは充分に成功であり、大きな功績でした。

 先生は晩年、神奈川県の二宮に家を建て、障害者となられた奥様の面倒を見ておられました。愛生園に出入りの業者と患者の大工を連れて行って建てた三十坪の小さな家でした。加倉井夫人と本多さんという方がその家を訪ねた後、私のところに電話がありました。それは「勲一等で表彰しておいて、あのような老後の住まいでいいのでしょうか。生涯をハンセン病に尽くされた方の老後としてはあんまりです」というものでした。このお話も先生が生涯をこの病気に捧げられたことを証明しているように思います。



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ダイズの煮豆


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ダイズ150gは一晩、水に浸す。

戻し水を少し捨てて、ダイズごと圧力鍋に入れ、ニンジン、ヤーコン、シイタケの角切りを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、ダシの素を入れ、強火で点火し、おもりが勢いよく回り出したら極弱火にして20分、火を消して圧が抜けるまでそのまま放置して出来上がり。





サツマイモの煮物

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熱した無水鍋にバターを入れ、乱切りしたサツマイモを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんと大さじ1のレモン果汁を入れ、煮立ったら極弱火にして20分、火を消して余熱5分で蓋を開け、混ぜて出来上がり。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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