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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

あきらめなければ、近いうちに次が見つかる


岡山県へ移住して農業をしたい人


岡山県の人で、農業後継者を探している人


岡山県に空き家があり、賃貸してもいい人



この三者を何とかうまくつなげれないか・・・



昨日は空き家の件でまた久米南町へ行ったが、すぐに住めるような状況ではなかった。



農業希望者が空き家の賃貸物件を探す時に、賃貸料3万円というのは「ぎりぎりの数字」のように思う。


仮に3万円とすると、年間の支払いは36万円になり、農業収入からの支出は簡単ではない。他に社会保険料等の支払いもあるから。


3万円以下の物件は少ないようだが、あきらめずに探し続けた方がいい。



農業後継者を探している人も、さほど多くないのかも知れない。農業仲間に「農業後継者を希望しないのか」と何人かに尋ねても、あまり乗り気でない。

ぼくより技術力も高いし、売上もかなり多いにもかかわらず。

本人が農業ができなくなったら、そのまま放置してしまうつもりだろうか。



ぼくはたいした技術もないのに、「30年の農業経験を無駄にしたくない」という気持ちだけで、農業後継者募集を62才の頃から始めた。もう4年ほどになる。



メールのやりとりや、1回の来訪で、相手の熱意が伝わって来る。


今回はじめて、本気で農業をしようと思っている2人の方と出会った。



しかし、いい空き家を提示できなかった。それでもその人は本気で行政や他の農業者にもあたっておられたので、30年余り前に都会から久米南町へ移住してきた農業仲間に声かけし、地区の区長さんにも相談にのってもらい、昨日その空き家を見に行った。


その地区は近年、何人もの都会からの移住者がおられるが、要は「タイミング」がポイントのようだった。


でも、あきらめなければ、必ず近いうちに次が見つかる。


空き家も、その地域の新たな農業者に出会うことも、農業をしようと「あきらめなければ」不思議と出会えるものである。


どこの地域に移住し、どういう農業者に出会っても、当人にとって結果的によかったか、よくなかったか・・・それはわからない。


結局、ご縁があった場所と人が「現実」というものかも知れない。





もう1人の方が来られることになり、車で10分弱の場所から田んぼに通ってもらう。


その借家はぼくではなく、来られる人がネットで探した物件である。


田んぼに行く道沿いに30アールほどの田んぼが借りれたので、そこでスタートして頂く。


ゆくゆくは当方の40アールほどの田んぼもしてもらおうと思う。





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今日のクイーン(再3)  30

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植草一秀の『知られざる真実』

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (3)


盲友


この病者は、生きているうちに二度死ぬっていうんです。一度はライになった時、二度目は失明した時です。
あたしが書いたもので残っているのは、ほとんど全部といっていいくらい、目を失ってからのものでしょ・・・(藤本トシ「地面の底が抜けたんです」より抜粋)
所要時間6~7分です。


 蜘蛛の糸の主人公カンダタのような悪人でも、生涯のうちには蜘蛛をふみ殺さずにおいてやったかすかな善事があるように、思い出は、たいてい湿っぽい陰をもつ私にも、たった一つ、かみしめればすがしい香のたつ過去がある。
 かつて私の友に、といっても年は九ツもうえなのだが、本川さんという盲女がいた。この友は手足もたいへん不自由だったので、お風呂いがいの外出は殆どしなかったのである。病みほうけて一見みるかげもないこの人に、私は初めて会ったときから心をひかれた。
 それは、
 「あれ新患や」
 と言われることが、私にはまだ侘しくてならなかった頃のこと、ぼんやり戸口にたたずんでいると唄が聞こえてきた。向かい寮からである。
  ゆうぐれに
  ながめ見あかぬすみだがわ
  つきに風情はまっちやま
  帆あげた舟がみゆるぞえ
  あれ とりが鳴くとりの名も
  みやこに名所があるわいな
 美声。しかも心にしみる唄いぶり。私は思わず声の方へ歩み寄った。これが本川さんだったのである。
 縁とはふしぎなもので、それからまもなく、私はこの人の手紙の代筆をするようになっていた。つづいて縫いはり洗濯にまで及んでいったのである。こうして十一年の日が流れた。(外島時代からの通算である。)
 昭和十九年の冬、本川さんは風邪をこじらせて部屋から病室へ移った。しかし、じきに戻れると思っていたのに、病状はおもいに反して、半月ほどのうちにめっきり衰弱してしまったのである。なにしろひどい食糧不足だったので、ろくに食べていなかったせいもあろう。
 ある朝、みまいにゆくと、当惑げな付添いの顔が待っていて、私を廊下へ手まねいた。
 「本川さんはなあ、熱いお湯がほしいと言うから飲ませてあげると、
 これぬるいわ・・・、と言うんよ。こっちがびくびくするほど煮えたったのをあげても、やっぱりぬるいって言うんよ」
 このささやきを聞いたとき、私は、はっとむねをつかれた。舌も咽喉も麻痺したのである。
 多くの病友の死をみつめてきた私の眼は、ほそい寝息のなかに、この友にもついにきた生のかぎりの翳をみた。その夜、先生からも付添いに注意があったそうである。
 翌日たずねると本川さんはいきなりこう言った。
 「私、死ぬんやろかー」
 「そうや・・・。極楽へゆけるのよ」
 ちゅうちょなく答える私の背を付添がこづいた。このようなばあい、心とくちと正反対に言うのが常識である。私もしばしばこれをやった。だが本川さんにはその必要はないと思ったのである。この人の心は決定けつじょう
していると、つねづね思っていたからである。なんにもお祀りしていない自分の押入れのまえに坐って、朝夕合掌しているだけだが、その姿にはしんけんさがあふれていた。
 「ありがとう。じゃ今日から準備するわ」
 と言った友の言葉は、低かったがはっきりしていた。
しかし・・・準備とはなに・・・。心のか、物質面のことか、私はそれをはかりかねた。そのまま日は二、三日流れたのである。
 三日目の夜、空襲警報が出ないうちにと病室へ走って行ったが、その戻りのこと、
 「本川さんな、こんどは今日からねまきを朝晩かえてくれって頼むんよ。そんなに汚さんのになあ」
 洗濯ものを私の手にわたしながら付添いがこう言ったのである。このときサッと謎がとけた。本川さんはたとえ洗いざらしでも、さっぱりした身なりで臨終を迎えようとしているのであった。
 つぎの日、私はびっくりしてしまった。本川さんが小唄を唄うと言うのである。あんたが何時もほめてくれたから今日は聞かせると言うのである。やがて唇がうごきはじめた。
  うめ に も は・・・・・る の
  い ろ そ え て 
  わか み・・・・・ず・・・・・
 聞きとれたのはここまでであった。だが声にはならずとも、唇は最後まで唄のづづきの動きを見せていたのである。風雲急となってからは一回も唄わなかったその唇が・・・。
 唄い終わったとき私は拍手を送った。付添いもいつかきていて手を打っていてくれた。その夜更け、友は従容として逝ったのである。
・・・・・・・・・
 じぶんも盲目となって今しみじみ思えば、しっとりと・・・そして爽やかにむねにしみた小唄、「ゆうぐれ」のあの余韻は、そのころは生地獄のようだった癩盲の苦を、超え得たものの凱歌のひびきであったのだ。
 「梅にも春」は、わが手で拓いたその道を、みごと歩みおおせた者が、いのち終わる日、我れと我が身に贈ったことほぎ唄であったのか。すべてのものに告げる別れも、そのこころの奥にひそめて・・・。
 ともかく、私の知るかぎりでは愚痴を言わなかった人。あの透明な笑いが、ときおり耳によみがえる。

1969年(昭和44年)


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サトイモの煮物


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乱切りしたサトイモを鍋に入れ、シイタケを入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、水をひたひたに入れ、削り節を入れ、煮立ったら極弱火にして20分煮て出来上がり。



ピーマンと魚ソーセージ炒め

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熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、魚ソーセージ、ピーマンの順に炒め、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



カブの甘酢漬け

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カブはイチョウ切りしてボールに入れ、塩をふってもみ、1時間以上置いて、カブがしんなりしたら、水気をしぼりながら瓶に入れる。

甘酢(出し汁180CC、酢120CCに砂糖50gを溶かす)を注ぎ、生姜1片をすりおろして出来上がり。一昼夜経過すれば食べれる。

出し汁作りは、200CCの水を沸騰させて火を消し、削り節を入れ、15分ほど置き、茶こしで出し殻を濾して出来上がり。



塩サバ

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ブロッコリー

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茎の太い部分は薄切りして、沸騰したら入れ、30秒後に花房の部分を入れ、1分半ほど茹で、湯切りして出来上がり。


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四畳半一間の孤独



 今日の朝日新聞のトップニュースは「都会の孤独死」だった。


20代の頃の、都会の四畳半一間暮らしは、その後の人生の血肉になるかも知れないが、60代以降になってからの都会の四畳半一間暮らしはさびしい。


田舎なら、土もあるし、田んぼや山や川や、自然の中の小動物を目にして、一人暮らしでも、都会ほどには孤独に陥ることは少ないだろう。


人がいっぱいいる中での孤独は、人があまりいない中での孤独より、こたえる。



多くの人の、目には見えない、支えがあって、今の自分をキープできている。


今現在が成り立っているのは、結局のところ、有形、無形の支えが他の人より多かったからで、自分の能力や努力など知れている。



誰でも、現在の境遇から脱出することは、本当に難しいが、逃げ場としての「田舎」との接点を、探すことはできないだろうか。


戦時中、「疎開」という現実もあった。


近未来、「食糧難」という現実も考えられる。


どこで生きるにしても現実は、苦しいことが多いが、目にすることが出来る山や池や川などの自然があれば、大地の少ない都会の4畳半一間(タワーマンション)の孤独とは違うだろう。



支えてくれる人の多い、少ない

何かのきっかけの有る無し

たまたまという状況

機会がめぐってきた時、うまく飛び乗れるかどうか、その時のタイミング、迷いや決断

運  不運

自分の性格

いろんなことが絡み合って、現在ができているが、

未来のことは、

誰かが背中を押してくれる・・・

ことは少なく、

自分で自分を鼓舞するしかない



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今日のクイーン(再3)  29

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在野のアナリスト

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邑久光明園 藤本トシさん 12の随筆 (2)


足あと


短い文章なのに、藤本さんの作品はなぜこんなに感動をよぶのだろう。


 「めくらさんにはね、とくべつに神様がついていてくださるのだよ。そして教えてくださるから独りでもなんでも上手にできるのさ」
 私は今でもこの言葉を忘れない。私は末子なので小学校へ入るころになると、母は年のせいかよく肩をこらした。そして按摩さんを頼みにゆくのは私の役になっていた。その按摩さんがである。今のように車のはんらんはなかったにもせよ、他のさまざまな乗物と、ひと通りの多い街をたった一人で二度も角を曲がって、まちがいなく私の家に来るのである。それがいかにも不思議であった。おさない脳裡には、めくら鬼にされた時たいていは困って泣く自分の姿が浮かんでいた。
 不思議はまだあった。ながい療治がすむと母はきまって茶菓を、時間によっては食事をだした。按摩さんはそれを実にきれいに食べるのである。骨っぽい小魚、貝、汁、豆などの難物さえ手ぎわよくさばいて少しもこぼさない。すむとお行儀よく一礼して座をはなれ、母から渡されたお金を指先で確かめると更に一礼して静かに帰って行くのである。
 先の言葉は唖然としてその姿を見おくる私に、笑顔で母がささやいたものである。その時には、めくらにはめくらの神様がついててくださるかどうか、わが身で確かめる時が来ようなぞとは夢にも思わなかったのである。
 さて、盲目となって、見るかげもない手足になって、私は神様から何を教えられたのであろう。わからない、が・・・おぼろげながら受けとめられたのは、涙の底を掘り下げろ、ということである。ともしびは我が手で獲得するものだ、ということである。
 ともあれ、私はこの掘り下げ作業を始めるようになってから、よく春木のお婆ちゃんを思い出す。というより知らず知らずお手本にしているのかもしれない。この人の両手はてのひらさえ殆どなかった。足も同様で、ひざでいざって、いつも用事を足していた。眼こそ見えたがまことに不自由な日常だったのである。
 お婆ちゃんは八畳五人の部屋にいた。私はそこの付添いだったのである(外島時代のこと)。ある時お婆ちゃんは私に、
 「重箱の上になあ、長い箸を一本横にのせて、その上と下とに団子を一つずつ置いたような字はなんと読むのや」と問うた。
 「そんな字どこに書いてあるの」と聞くと、けさ来た手紙の中にあるというのである。しかし手紙は見せてくれなかった。何かわけがあるらしい。私はじーっと考えていたが、そのうちに、はたと思いあたったのである。いつか本にあったのを教えてあげた文字である。私は言った。
 「それは、母という字よ」
 「ああそうか・・・、それでようわかったわ」とお婆ちゃんはにこにこした。
 その後お婆ちゃんは感ずるところがあってか、少年寮から不要になった二、三年生の読本を借りると、猛勉強をはじめたのである。先生は私であった。教師は頼りないが、お婆ちゃんの熱意の成果はすばらしいもので、一年も経つと便りはおろか、ふりがなつきとはいえ大衆雑誌もどうにか読めるようになったのである。それからのお婆ちゃんは、いつも盲人たちに囲まれていた。娯楽の乏しかった時代なので、お婆ちゃんの読書はその人たちにとって真実大きな慰めだったのである。
 こうして、あの第一室戸台風の高潮に呑み込まれる日まで、お婆ちゃんは盲人たちの心に、そして、自分のたましいに火を点じつづけていたのである。
 今私の周囲には、盲友たちの実に美事な足あとがたくさんある。その最たるものは十一園のライ盲者が万難を排して手をつないだことである。全盲連を結成したことである。そこから生まれでる幾多の活動、その成果のひとつひとつが、谷底の者をうるおす水滴となっているのだ。重症の私はその恩恵をうけるばかりの不甲斐なさなのである。だが、全力をしぼって自他の心を日おもてに向けさせた、このお婆ちゃんの心意気だけは、私のものにしたいのだ。


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目玉焼き


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おかずが残っていたので、少し作った。



ニンジンおろしとダイコンおろし

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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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