あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

北條民雄さん 続癩院記録(1)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P560~P562を抜粋しました。


 癩院にはどこの療養所でも親子、或は兄弟が揃って入院しているのが少なくない。と言うよりも半数以上は親兄弟を持っており、これによっても如何に家族間の伝染が激しいかを思わせられる。一体癩菌が結核その他の慢性病に較べてずっと伝染力が弱いということは医学でも言われていることであるし、また患者数の激増等のない点から考えても頷けるが、やはり家族間では長い間の接触や、幼年期の最も伝染し易い時期に於ける病父母との接触等によって伝染がたやすく可能なのだろう。

 『(前略)お正月の五日頃、愛生園のお父さんから、年賀状が届きました。お母さんが封をお切りになると、陽子さん清彦さんと書いた手紙も入っていました。お母さんは、其の手紙を私に渡して下さったので、すぐその手紙を読みました。
 陽子ちゃん清ちゃんおめでとう。皆んな無事で楽しいお正月をしましたか。お父さんはお前たちと別れ別れのお正月で何となく淋しい心持のお正月でした。早く此の父も病気をなおして、家へ帰り、一家揃った楽しいお正月をしようね。今頃、そちらは雪が沢山積もって居ることでしょうね。けれどこちらは大変暖かく、梅の花が咲いています。(中略)
 それからは、お父さんのお手紙が待遠しくてなりませんでした。郵便屋さんが通ると、手紙が来ないかしらといつも表へ出て見たりして居ました。
 私は其の中に病気になってしまいました。病気になる前はどうしてか、私は眠くて仕方がありませんでした。学校の授業時間にもこくりこくりと居眠りばかりして居ました。
(中略)
 其の中にお父さんも帰って来ました。其の日、私はお母さんの後について、畠へ行って居ました。妹の悦ちゃんも、弟の清ちゃんも学校へ行って居りました。そうして、「お母さん姉さんただ今」と言って帰って来ましたが、ざしきにお父さんが居るのを見て、不思議そうにじっと見つめるのです。私たちが「だれか分る」って言うと「ううん知らない」と言って頭をふっていました。するとお父さんは「忘れたろう、もう長い事会わなかったからな」と言って笑って居ました。
 其の夜は一家そろって楽しい、嬉しい夕ごはんをいただきました。それからお父さんはおいしゃ様のように私たちの体を見ました。そうすると、私の外に、お母さんと弟が病気でした。そして「姉さんも兄さんも妹も病気と言う所はないようだが、体が弱かったから一度あちらで見てもらわなければいけないだろう」とお父さんは言われました。私はこちらへ来ると言う事をとなりの光ちゃんだけに知らせました。(後略)』━━第六巻第六号『愛生児童文芸』所載。尋六、陽子作━━
 
 これは一例であるが、これに類した事実は実に多いのである。
 私の病院には今百名あまりの児童がいるが、これらの子供たちも殆どが親か兄、或は姉などと一緒に入院しており、中にはまだ十歳に足らぬ幼児の姉弟などもいる。その姉弟は姉が十歳、弟は八歳で今年学園へ入学したが、それでも病気の点からいうと私などよりもずっと先輩で、入院してからでももう五六年にはなるのである。弟の方などは珍しいくらいの早期発病で、三つくらいのうちからはや病者となって入院していたのである。
 
 まだ寒い風の吹く三月初めの頃十二歳の少年が入院した。病気は軽く、眉毛は太く、くりくりとした大きな眼は田舎の児らしく野性的な激しさで輝いていた。が、右足を冒されていて関節がだめになっており、歩くと足を曳きずって跛をひいた。この子は叔父に連れられて来たのであるが、別れる時になると医局の柱にしがみついて大声で泣き、その夜も一晩泣き通した。実の父親とは八年前に生別したまま、叔父に育てられて来たのだそうである。
 
 ところが、この少年にとっては全然想像することも不可能になっていたのであろうその父親は、やはりこの病院に入院しており、病み重って重病室に呻吟していたのである。勿論間もなく少年も父のいることを教えられたが、しかし、これがお前のお父さんだ、と重症の父親を示された時、この少年の神経はどんなにふるえたであろう。父親は高度の浸潤にどす黒く脹れ上って、腎臓病者のように全身がぶよぶよになっており、あまつさえ喉頭癩にやられた咽喉には穴があき、カニューレでかろうじて呼吸をし、声は嗄れて一声出すたびに三四度もその穴で咳する有様である。━━実は私がこの親子を初めて知ったのは、この父親の入っている病室の付添を頼まれた時のことで、それ以前からその少年が入院したことは知っていたが、父親がいようとは夢にも思っていなかったのである。少年は毎夜父親の許へ来、何かと世話するのであった。当直をやっている夜など、ちょろちょろと廊下を伝って現れ、当直寝台の上で本など読んでいる私を見ると、ぺこんと一つ頭を下げてニコッと笑い、父親の枕許へ寄る。また私がT氏に教わりながらカニューレの掃除をしてやっているところへやって来たりすると、少年は恐怖と好奇心との入り乱れた表情で父親の咽喉にあいている直径二分くらいの穴と、その穴から抜き出したカニューレの管に細長く切ったガーゼを押し込んだり抜いたりしている私の手許とを見較べるのであった。


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北條民雄さん  癩院記録(6)

ハンセン病文学全集4「記録・随筆」P546~P549を抜粋しました。


 「ちゅうしゃだよう━━注射だよう。」
農園や印刷所や豚舎などで働いていると、遠くの方からそういう声が微かに聴こえて来る。「ああ、注射が始まったなあ。」と彼等は、鍬を捨て文選箱を投げて注射場へ集まって行く。大楓子油の注射である。

 注射は医局と、風呂場にくっついている外科の出張所と二ヵ所で行われる。遠くで働いている患者達に報せるためにメガホンでどなるのである。早く来た者から順にずらりと列を作って、自分の番の来るのを待っている。或る者は腕をまくり或る者は臀をまくっている。看護婦がぶすぶすと針を刺していく。五グラムの注射器であるから、針は太く、ここへ来たばかりの者はちょっとびっくりしてしまうが、患者達は平気である。自分の腕や股に、畳針よりちょっと細いくらいの針がぶすりと突きさされるのを平然と眺めている。顔をしかめ、息をつめて「ああ痛い。」と大げさな表情を作って見せると、看護婦は笑いながら、
「眼が醒めたでしょう。」
「ああ全く眼が醒めた、こら、こんなに汗をかいたぜ。」
が、その実は麻痺していてちっとも痛くなかったりする。そして帰りにはしみじみとした気持ちになって、
「一本注射をうつ度に一つずつ結節が無くなって行くといいんだがな。」
「大して効かんのが判ってるんだからなあ、気休めだ気休めだ。」
「しかし、大楓子は全然効かんのかなあ。」
「いや、確かに効目はあるそうだ。完全に治りきることは出来んが。」
「しかし雑誌に書いてあったよ、再発後は丸切り効かないって。」
「そんなことあるもんか、ようく見てみろ、大楓子をやらん奴はみな早く重って行くよ。やってる奴は重るのが確かに遅い。それから重くなっても、大楓子やってる者は膿があんまり臭くないそうだぜ。こりゃ効いている証拠だい。」

 大楓子が効くと力説することが自慰のようにはかない夢であるにしろ、やはり唯一のこの治療薬を全然無価値のものとは思いたくないのである。

 しかし中には全くあきらめている者もある。そして注射するのはただ永年の惰性であったり、また全然注射場へ現れないのもある。だが殆どが、大して効果のないものだということを知っており、まあやらんよりはましだろう、というくらいの気持ちである。

 これはこの病院にもう二十年余り暮している人から聴いた話であるが、なんでも昔は、患者達が注射というと奇妙に恐怖したり嫌悪したりして逃げ廻って注射されようとしない。そこで仕方なく医局から大楓子注射の懸賞が出されたという。つまり一ヵ年のうちの注射の数を記録して、最も多いものに賞品が与えられたのである。

 それから較べると今の患者はずっと向上しており、注射しない者は非常に少数である。一体に癩者は医学というものを信頼しない傾向がある。それは今まであまりに幾度も医学にだまされて来たせいであろう。時々新聞で誇大に取扱われる癩治療薬の発見なども、療養所内の患者はたいていが馬鹿にしていて喜ばない。「ふん治るもんか。」と彼等は呟く。しかも治療薬の出現を待っていないのではない。半ばあきらめながら、しかしひょっと意外な薬が、たとえば梅毒におけるサルバルサンのような薬が、発見されるかもしれないと夢のような希望をもっている。こういう希望が夢のようなものであることは意識しながら、やはり捨て切れないのだ。だから彼等は療養所で研究を続けている医者の言葉となると非常に信用する。それはその医者が永年の間癩ばかりを見、癩を専門に研究していることを知っていると同時に、他の医者のように誇大で断定的でないからである。

 たとえば、この前「金オルガノゾル」が発表された時も、患者は丸で相手にもしなかった。ところが一日院長が全患者を礼拝堂に集めて、この薬の内容を説明し、効目があると思われるから試験的にやってみたい、希望者は申し込んで欲しい、と述べると、忽ち信用して、申込みは文字通り医局へ殺到した。が、残念なことにこの薬は効果がなかった。
「結局、どんな薬をやったって効きやしない。」とみな苦々しく呟く。

 そういう訳で、彼等は学説よりも自分の体験を重んじ、先輩の言葉を信用する。大楓子油にしても、たとえ今もし医学が、これは全然癩に対して無効果であると発表したりしても、決して注射をするのをやめはしないであろう。たいした効目はないが、しかしやった方が良い、いくらかの効目はある、ということを経験の上で知っているからである。こういう常識的な経験に信を置く結果、意外な失敗をやることがあると共に、また癩者独特の治療法を発見することもある。

 そのひとつに「ぶち抜き」というのがある。誰がこれを考え出したのか私は知らない。しかし長い間のうちに何時とはなしに患者間で行われるようになったのだろう。

 それは両足に穴をぶち抜くのである。と言うと誰でも吃驚するに違いない。そこで説明を要するが、手っ取り早く言えば両足に一つずつ穴をあけて、そこから全身に溜まっている膿汁を排泄しようという仕掛なのである。足といっても、勿論どこへでもあけるのではない。やはり決まった場所がある。長い間の経験で自然とそこに定められるようになったのであろう。それは、内踝の上部三寸くらいのところで、比目魚筋の上に団子くらいの大きな灸をすえるのだ。間違っても脛骨の上にすえてはならないそうである。先日私の友人の一人がそれをやったから、一見しておくに限ると思って見に行ったが、何しろ団子ほどもあるもぐさ(決して誇張していない)がぶすぶすと燃え出すのだから物凄い。
「おい熱かないか。」
と言うと、
「麻痺しているからな。」
と彼は笑いながら、横から団扇で煽る。じりじりと燃えて行くと、皮膚がぶちぶちというような音を立てて焼ける。

 もぐさが全部燃えてしまうと、その焼痕は真っ黒の水膨れになってぶくぶくしている。その水疱を彼は無雑作に引き破ってしまうと、真赤にただれた肉が覗いている上に、消毒した新聞紙をべたりと貼りつけてぐるぐる繃帯を巻いて知らん顔しているのである。

 続いてもう一方の足を焼いたが、今度は少し焼け過ぎて、水疱をはがして見ると赤い水蜜桃に腐りが入ったように真中に芯が黒く出来て、更にその中に白いすじのようなものがべろべろと覗いていた。これにもまた同じく新聞紙を貼りつけるのであったが、誠に危険千万である。しかし彼は平気なものでそのまま翌日になると風呂へも入り、出て来ると新聞紙を新しいのと取りかえる。新聞には血膿がべっとりくっついている。

 こうして四五日過ぎると彼は、非常に足が軽くなった、夜もよくやすまれるようになったと言う。これは嘘ではないと思う。ぶち抜きをやるくらいの足はかなりひどく病勢の進んだ足で、勿論潰瘍や潰裂はないが(潰瘍や潰裂があればぶち抜く必要がない)完全に麻痺しており、また汗も膏も出ないで常に鈍重な感じがし、夏などは発汗がないから焼けた空気が足の中にいっぱいつまっているような感じで実際堪えられないのである。夜など床の中に入ると、足の置場に困り、どこへどう置いてみてもだるく重く、まるで百貫目の石が足の先にぶら下がっているような感じで、安眠が出来ないのである。だからぶち抜きは、なんと言うか、通風口のようなもので、効果は確かにあるそうだ。

 こうしてぶち抜くと、出来た疵が
治らぬヽヽヽヽように注意すると共に、またこれが動機で内部へ深く腐り込んで行き足を一本切断したりするようなことがないように気を付け乍ら、一ヶ月から二ヶ月くらい新聞紙を毎日取り換える。この貼紙は新聞紙よりも油紙の方が良く、傘に貼られた紙を破ってきて利用するのが普通であるが、新聞でも悪いということはない。無論消毒は十分に行われねばならない。そして一ヶ月なり二ヶ月なり経って、もう十分膿も出たし、足も軽くなったと思われると、今度はリバーノオルなり何なりをつけて疵を治してしまえばよいのである。医者はこういうことをあまり好まないので、やたらにぶち抜くことを許さないが、それは丹毒その他に対して甚だ危険だからであろう。癩者は皮膚その他の抵抗力が弱っているから丹毒などはすぐ伝染してしまうのである。


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夏野菜煮込み(ラタトゥユ)



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熱した鍋に油を入れ、ニンニク1片の薄切り、ベーコン1連の細切り、タマネギの順に炒め、残りの野菜(オクラ、ナンキン、ピーマン、パプリカ)を全て入れ、全体に油がまわったら、白ワイン、水、調理用トマトを入れ、煮立ったら弱火にしてコンソメ2個を入れ、20分ほど煮て、胡椒をふって出来上がり。



タジン鍋
  
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サケは15秒湯通しする。

タジン鍋の下敷きにタマネギのスライスを置き、ピーマン、パプリカ、オクラ、ミニトマトを置き、サケを置き、大さじ2のニンニク醤油で味付けし、胡椒をふり、煮立ったら極弱火にして15分、火を消して余熱5分で出来上がり。

 


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北條民雄さん 癩院記録(5)

ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP542~P544を抜粋しました。


 入院すると、子どもを除いて他は誰でも一週間及至二週間ぐらいを収容病室で暮らさなければならない。そこで病歴が調べられたり、余病の有無などを検査されたりした後、初めて普通の病舎に移り住むのであるが、この収容病室の日々が、入院後最も暗鬱な退屈な時であろう。舎へ移ってしまうと、いよいよこれから病院生活が始まるのだという意識に、ある落ち着きと覚悟とが自づと出來、心の置きどころも自然と定まって来るのであるが、病室にいる間は、まだ慣れない病院の異様な光景に心は落ち着きを失い、これからどのような生活が待っているのかという不安が、重苦しくのしかかって来る。それに仕事とても無く、気のまぎらしようもないまま寝台の上に横たわっていなければならないので、陰気な不安のままに退屈してしまうのである。

 舎へ移る前日になると付添夫がやって来て、舎へ移ってからのことを大体教えてくれ「売店で四五十銭何か買って行くように。」と注意される。その四五十銭がまあいわば入舎披露の費用となるのであって、たいていが菓子を買って行ってお茶を飲むのである。

 その日になると付添夫が三人くらいで手伝ってくれ、或る者は布団をかつぎ、或る者は茶碗や湯呑やその他の日用品を入れた目笊ををかかえてぞろぞろと歩いて行くのである。そうしていよいよ癩院生活が始まるのである。

 病舎は今のところ全部で四十六舎、枕木を並べたように建てられている。だいたい不自由舎と健康舎とに大別され、不自由舎には病勢が進行して盲目になったり義足になったり、十本の指が全部無くなったりすると入れられ、それまでは健康舎で生活する。ここで健康という言葉を使うと、ちょっと奇異に感ぜられるが、しかし院内は癩者ばかりの世界であるから癩そのものは病気のうちに入らない。ここへ来た初めの頃、「あんたはどこが悪いのですか。」という質問を幾度も受けたが、それはつまり外部へ表れた疾患部をさしているのであって、その時うっかり、「いや、癩でね、それで入院したんですよ。」とでも答えたら大笑いになるであろう。それは治療の方面についても言われることであって、癩そのものに対する加療といえば目下のところ大楓子油の注射だけで、あとはみな対症的で、毀れかかった自動車か何かを絶えず修繕しながら動かせているのに似ている。
 だから、不自由舎へ入らない程度の病状で、よし外科的病状や神経症状があっても、作業に出たり、女とふざけたり、野球をやったり出来るうちは、健康者で、健康舎の生活をするのである。

 不自由舎には一室一名づつの付添夫がついていて、配給所(これは院の中央にあって飯やおかずはここで配給される。食い終わった食器はここへ入れて置かれる。)へ飯を取りに行ったり、食事の世話をしたり、床をのべてやったりする。これは作業の一つで、作業賃は一日十銭から十二銭までが支給される。

 舎は各四室に区分されていて、一室十二畳半が原則的であると言えよう。他に三十二畳などというのもあるが、これはこの病院が開院当時に建てられたままのもので、今はただ一舎が残っている切りで、あとは六畳の舎が少しある。一室につきだいたい六人から八人くらいの共同生活が営まれ、この部屋が患者の寝室となり食堂となり書斎となり、また棋を遊ぶ娯楽室ともなるのである。

 男舎には、松栗檜柿などという樹木から取られた舎名がつけられ、女舎には、あやめ、ゆり、すみれという風に花の名が舎名としてつけらている。舎の前には一つずつ小さな築山が造られ、その下には池が掘られて金魚などが泳ぎ、また舎の裏手には葡萄棚などが拵えられて、患者達は少しでも自分達の住む世界を豊かにしようと骨を折る。ここを第二の故郷とし、死の場所と覚悟しているので、まだ小さな苗木のうちから植えつけて大きくしようとする。

 このあたりは土質が火山灰から出来ているせいであろう、常にぼこぼことしまりのない土地で、冬が来ると三寸四寸という氷柱が立ち、春になって激しい北西風が吹くと限界も定かならぬほど砂ぼこりが立って空間が柿色になってしまう。だから雨など降るとひどいぬかるみが出来て、足に巻いた繃帯はどろどろに汚れ、盲人は道路に立ったまま動きようもなく行きなやまなければならない。そこで院内の幹線道路には石が敷かれて歩行を助けるように出来ている。まあこれが病院のメインストリートで、病舎はこの石道に沿って建てられている。

 そしてこれらの石道は、病院の西側にある医局に向って集中し、医局の周囲には十個の重病室が立ち並んでいる。重病室からちょっと離れて収容病室があり、更に離れて丹毒、チブス、赤痢等の病人が入る隔離病室が三棟ぱらぱらと散らばっている。その向こうは広々とした農園と果樹園になっている。青々と繁った菜園の彼方に納骨堂の丸屋根が白く見え、近くには焼場の煙突が黄色い煙を吐いている。



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北條民雄さん 癩院記録(4)


ハンセン病文学全集4「記録・随筆」のP553~P554を抜粋しました。



 じめじめと湿ったむし暑い日が続いたり、急に寒くなったりして、気温の高低が激しく変転すると、定って腕や足がしくしくと痛み始める。癩性神経痛が始まったのである。
 気温の変転は病体を木片のように翻弄する。神経痛の来ないものには急性結節(熱瘤と患者間に呼ばれてい、顔面、手、足などに赤く高まったぐりぐりが出来る。押すとびいんと痛み、化膿するのもあるがたいていは化膿しない。大きさはまちまちであるが、最も大きいもので団子くらいもある。外部からはちょっと高まっている程度にしか見えないが、触って見ると飴玉を含んでいるように固くぐりぐりと動くのが内部にある。たとえてみれば頭だけをちょいと海面に覗かせている氷山みたいなものだ)が盛り上がって来て発熱する。四十度を越える高熱も珍しくない。
 腕も顔も繃帯で包み、手袋をはめて頭から蒲団を被って寝ていなければならない。
 神経痛は定って夜が激しい。凄いのにやられると痛む腕、足を切り飛ばしてしまいたくなる。義足だったらいいなあと思うのもこんな時である。痛みの堪えられるうちはアスピリンを服用して我慢する。ぽかぽかと体が温まって来ると痛みは大分鎮まり、時には睡眠することも出来るが、烈しくなって来れば鼻血の出るほど服用してもアスピリンなど効きはしない。
 そこで診察を受け、初めて重病室に入室して加療する。これは急性結節の場合も同じである。
 
 重病室には五人の付添夫がついていて、こうして入室した者の世話をする。神経痛、熱瘤に限らず、舎にいては世話の出来ない場合、治療に困難な場合等には重病室に這入るのである。だからここには結核、肋膜炎、関節炎、胃病、心臓、腎臓等々あらゆる病気が集まっている。一室につき十六七から二十くらいの寝台が二列に並んでい、その上に怪しく口の曲ったのや、坊主頭や、鼻のない盲人などが、一人づつ横たわっている。
 
 入室することが定まると、収容病室から舎へ移った時のように、同室の人達が、蒲団、食器その他を持って、入室者を中央に挟み、或はリヤカーに乗せて送って行く。
 
 もし誰か、この地上で地獄を見たいと欲する者があるならば、夜の一時か二時頃の重病室を見られるようすすめる。鬼と生命との格闘に散る火花が視覚をかすめるかも知れない。


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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在64才、農業歴28年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


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