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あめんぼ通信(農家の夕飯)

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

軍人の後遺症


「 女の気持ち」 毎日新聞9月22日

軍人の後遺症

 今年5月、父は97歳を目前に永眠した。葬儀で91歳の母が病を押して喪主のあいさつに立った。更に小さくなった母だったが張りのある声で話し始めた。

 私の夫は生涯、軍人でありました。夜中に何度も満州(現中国東北部)の原野を駆け回って戦う夢を見ては、奇声を上げ苦しんでいました。戦がいかに非情で恐ろしいものだったか。けれど、戦後の平和な時代を生きることができ、柔らかい布団の上で娘2人に手を取られて旅立つことができました。平和ほどありがたいものはありません。

 最後に母は深くお辞儀した。

 戦後、父は製鉄マンとして平凡な日々を送ったが、母の言葉通り、2年半の戦地での記憶を引きずりながら生きた人生でもあった。食事に不平を言ったことはなく、ありふれた毎日をいとおしむかのように細かな文字で日記をつづり続けた。

 36年も前のこと、父は自分の還暦祝いが終わった夜、深酔いして庭に下り「同期60人のうち村に帰ったのはたったの10人。俺は戦死したお前たちのことをずっと忘れんぞ」と天を仰いで叫んでいた。以後、父は軍歌を歌わなくなった。

 しかし、80代で認知症が進行すると「自分は一選抜の上等兵、陸軍航空部隊、出口伍長だ」と名乗るようになった。軍人勅諭を朗々と唱え、銃剣術の技までやってみせた。

 戦地をくぐった軍人の後遺症は、74年の歳月を経ても消えることはなかった。家族として、その無念と平和を求めた父のことを伝え続けたい。
(北九州市 女性 68歳)



生きていたらぼくの父も101歳になる。戦争に行った世代である。


父から戦争の話は一言も聞いたことはない。外地へ行かず内地だったので死ななかった。近所では何人もの人が亡くなっている。


外地で、よく生き残られたと思う。


認知症になってから、軍人勅諭を朗々と唱え、銃剣術の技までやってみせた・・・というくだりが心に沁みた。


「青春の門」が「戦争の門」になった世代。


青春時代の記憶は一生引きずっていく。


そして青春時代の記憶は還暦という第2の青春到来の時、ありありとよみがえる。


青春の出来事をその後の人生でうまく乗り越えられなかった場合、還暦が過ぎた頃、もう一度その出来事をまな板の上にのせ、還暦後の人生を生きていく。



「青春の門」を「戦争の門」としてくぐった時、上官の命令で人を殺さなければならないこともあっただろう。そうしなければ自分が殺される・・・


もう無我夢中で・・・


理性を保持するなら狂人になってしまう・・・



そして、たまたま生き残り、終戦で日本に帰り、平和な時代を生きていく。


青春時代のことは心の闇に閉じ込めて。


人殺しに関わっていても、戦争だったから、仕方がない、仕方がない、仕方がなかった、仕方がなかったと、深い深い潜在意識に閉じ込めて、あえて自分の中で表面化しないようにする。


平和な時代になってそれが表面化したら、平常ではおれなかっただろう。


表面化を抑えられなかったら、精神を病んでしまう。



そして表面的には平和な時代の「青春の門」をくぐっても、一つや二つ、心に秘めて墓場まで持って行かざるを得ないことが戦後生まれの人にもあるだろう。


それが殺人であっても、無意識という殺人であっても、間接的な殺人と言えるとしても、誰でも、一つや二つ、墓場まで背負って行く。


戦争の門をくぐりぬけた人も、その当時のことを自分一人で背負い、誰にも知られず(知られないように)、墓場まで背負って行った。


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今日のクイーン(再2)  66

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新・定年オジサンのつぶやき

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邑久光明園  名草良作さん


けむり


煙突の煙がみだれる日は

私の心がかなしむ日


煙突のけむりがそのまま空に昇り

雲になる日は

私の心がよろこびを唄う日


煙突にけむりのない日は

私の心がうつろな日


煙がみだれないために

煙が消えないために

私は

ボイラーに石炭を投込む













智恵の精髄よりこぼれる

美のしたたり



婉然と はたまた艶麗に

叡知の中に

飛翔せり


さしのばした口ばしを

ささえる優雅な音

均整する軽やかな足


白雪暟々の高嶺を翔って

空に散る

伝統のしたたり

雨なく

霧なく

永劫の彼方に

芳醇する


鴻儒の編んだ

精神の象徴



争いなく

おごりなく

汚れなく

鶴は知識の結集

美学の産んだ 架空の夢










人魚の歌


そなたはいつも

哀しんでいるから 美しい

人の世の

哀しみが産んだ象徴

そなたの母親は哀愁と云う名の方なんです

そなたの母が

そなたに教えた泪が

未来永劫人の世を濡らす限り

そなたもまた

そなたの宿命の歌をうたわねばならない

そなたのいのちがある限り

人の世も また

限りなく美しい



名草良作さんの略歴
1920年2月28日岐阜県生まれ。1942年2月20日邑久光明園に入所。1956年11月3日栗生楽泉園に転園。1958年「傷痕」が「小説新潮賞」の最終選考七編および「第三回中央公論新人賞」の最終予選通過の十編に選ばれる。1960年「省令105号室」が「サンデー毎日小説賞」選外佳作。積極的に療養所の外に発表の場を求めた。1992年1月5日死去。


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サトイモの煮物


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乱切りしたサトイモを鍋に入れ、醤油、砂糖、酒、みりんで味付し、ひたひたに水を入れ、ダシの素と削り節を入れ、煮立ったら弱火にして20分煮て出来上がり。



ナスとピーマンの味噌煮

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鍋を熱してごま油を入れ、乱切りしたナスとピーマンを炒め、ひたひたに水を入れ、醤油と酒を少し入れ、ダシの素を入れ、煮立ったら弱火にして8分煮て、味噌をみりんで溶いて入れ、2分煮て出来上がり。



目玉焼き、パプリカ、オクラ

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JT 何が目的の広告?


 今日の朝日新聞と毎日新聞の両方に、JT(日本たばこ産業株式会社)の見開き半ページの大きな広告が載っていた。


2回読んでも、この広告が何の目的か、理解できなかった。


大きな見出しで「嫌いな人をほめてみよう」と書いてあった。


小見出しで「違うから、人は人を想う」と書いてあった。


しかしやっぱり、この広告の意味がわからない。


わからないことは、わからないままにしておく、あえてわかろうとはしない、というのが長年のぼくの生き方である。


そして「嫌いな人をほめてみよう」という言葉も、今の自分からかなり遠い位置にある。


そんな努力はする必要がないのではないか。


あるがままに、嫌いなものは嫌いなままでいいのではないか。


ずっと以前に読んだことのある、精神科医の森田博士の「森田療法」では、「あるがままに・・・」ということが書かれていた。


つまり、無理をしないということではないか。


だからこの広告を見て、自分と逆の発想だと思った。


ぼくの処世術は、嫌いな人(苦手な人)にはあまり近寄らない。距離をおいて付き合う。どうしても一緒の空間と時間を共有しなければならないなら、その時は自我を伏せる。


同じ企業に勤めていたらそれは難しいが、自分は企業という組織では勤まらなかった。


だから今日のJTの見開き半ページの広告は、見解の相違という「違和感」だけが残った。



精神医学の面からみても、ちょっと誤っているのではないか。


自分のあるがまま(思うがまま)でよい。


その存在を否定するのではなく、単に自分にとっては「縁がない人」と捉える。


人間関係に無理をしない。今、孤独の状態でも、故人と会話してもよい。



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今日のクイーン(再2)  65

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広島瀬戸内新聞ニュース

 2005年の金大中の「(日本は)自ら勝ち取った民主主義ではないため、民主主義の主体勢力がいない」


すばらしい金大中さんの動画だった。この中で、

「ウズベキスタンでも民主主義は結局ウズベキスタン人達自身で勝ち取らねばならないのです」

「ただ、そこには民主主義のために犠牲を捧げる覚悟が必要です」


「国民全体が参加して、世界が私達を支援してくれるようになるのです」



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邑久光明園  中山秋夫さん(14)






人工石の打ち砕かれる

最後の鉄槌音が

僕等の耳もと間近で終り

すべての取りはずされ 取り払われた

空しい景色の中を

やがて一つずつ運ばれていく

自からの骨の触れ合うきしりに

僕等が再び目覚めるだろうか


まるで軽くなって

あんなに重くまつわられ

貧しかった生の日の哀しみを

骨に残した痛みを

そのときも持つであろうか

そうして

全く違ってしまっている周囲は

やがてそこにはっきりよみがえらされた

僕等を包んで

不思議な明るさに満ちているであろうか


かつての日の過ぎ去り

そこで僕等の耐えていた時間

ときに 差しむけられるいくばくかの善意にひたむく己れのすべてをすがらせ

それゆえに よろめき

あるいは立ち尽さんとして

その目まいの中で

つぎつぎに僕等は失われ

ここにある僕等の骨に

僕等のたたかいの既に終っていることを

誰れが ささやき知らしてくれるであろう


今日また僕はここへ来て

現に足を歩ませながら

雑草と呼ばれる名を持つ

その生よりもかなしく

僕等と共に僕等の中で亡びていく

この一代限りの生との約束について

愚な想いをめぐらすことがある


この僕等より先に

ここに在って

なんと地下に根を張るものの如く

空へそびえている頑丈なその骨堂か




中山秋夫さんの紹介は以上です。

中山秋夫さんは、

昭和14年 邑久光明園入所       19歳

昭和20年 結婚              25歳

昭和21年 妻死去             26歳

昭和25年 再婚              30歳

昭和38年 完全失明           43歳

昭和53年 妻死去            58歳

昭和64年 個人句集・親子独楽     69歳

平成10年 個人句集・一代樹の四季   79歳

平成13年 岡山原告団長として熊本地裁判決勝利 82歳

平成19年 死去                88歳


43歳から亡くなる88歳まで45年の盲目人生だった。

昭和9年に外島保養院が室戸台風で壊滅し、昭和13年に邑久光明園として復興された。その翌年に中山秋夫さんは入所されているので、まさに邑久光明園の生き字引と言える。詩集「光の杖」に代表される邑久光明園のそうそうたるメンバーとコラボしながら、「詩話会」や「歌会」で切磋琢磨されたのだろう。

文学や仲間に、支え、支えられて、45年にわたる盲目人生を生き抜いた。


最後にもう一度、中山秋夫さんの略歴を紹介します。

中山秋夫さんの略歴
静岡県西郷村の農家に生れる。父は旅回りの石工。秋夫5歳の時、父親がハンセン病を発症。6歳の時父は草津の患者部落に。家族は離散、秋夫は名古屋の今池小学校、さらに叔父を頼って釧路へ転校。小学校を出て4、5年目で身体の一部に知覚がないのを知る。昭和10年大阪大学病院でハンセン病患者であることが判明。同年父宇平が楽泉園で死亡。その後病気を隠しながら溶接工として働くが昭和14年19歳で邑久光明園に入所。20年秋、結婚。翌年断種手術を受けるが、同年、急性肺炎で妻が逝去。25年再婚。38年完全失明したため自己表現の道を詩から川柳へ。53年1月妻他界。その後の10年間の作品を集成し個人句集『親子独楽』(平成元年)。他に句集『一代樹の四季』(平成10年)。


第一句集『親子独楽』のあきらめにも似た境地から第二句集『一代樹の四季』は理不尽への怒りに転じているのがわかる。『一代樹の四季』冒頭の自序には題名の由来について次の記述がある。
 「一代樹。これは私たちがこの療養所で、自分一代限りで終っていく、との意である。
 長い療養生活の中で入所者同士の結婚もあった。だが療養者が子を産むことは許されなかった。結婚の条件として、否応なく優生手術がなされ、子供を産めなくされた夫婦。らい予防法は患者を保護するものではなかった。一貫して行われたのは患者を施設に入れることによる隔離撲滅。国民からの排除。一代樹とは、そうしたものの代名詞として使ったのである。90年という長い歴史の中で、その一代樹が入れ代わり、死に絶え、そして今、残された一握りの高齢者の群れとなった」

 中山秋夫は岡山原告団長として2001年(平成13年)5月の熊本地裁判決の勝利から和解、補償法成立に至る経緯を見とどけ、2007年(平成19年)12月、この世を去った。
(ハンセン病文学全集9 俳句・川柳)から抜粋。



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ゴーヤを使った2品


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ゴーヤはスライスしてボールに入れ、塩をふってもみ、5分ほど置き、1分茹でて冷水にとり、水気をしぼる。この下処理でゴーヤの苦みはほとんど消える。

熱したフライパンに油を入れ、ニンニク1片の粗みじん切り、魚ソーセージ、ゴーヤの順に炒め、溶き卵を1個入れ、ニンニク醤油で味付けして出来上がり。



ゴーヤとツナ缶のサラダ

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タマネギはスライスして3分ほど水にさらし、水切りして水気をよくしぼりながらボールに入れ、上で使った残りのゴーヤを入れて混ぜる。ツナ缶の油をよく切り、ほぐしながらボールに入れて混ぜる。マヨネーズ、酢、レモン果汁、醤油、みりんで味付し、混ぜて出来上がり。



ニンニク醤油作りと、冷凍保存と

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ニンニクは10月10日頃に植えるが、その頃になると、中心部から青い芽が伸び始める。だからその頃までに、ニンニク醤油を2瓶作り、一部は冷凍にする。

ニンニク4球は鱗片に分解し、皮をむいて洗い、瓶に入れる。醤油を入れて出来上がり。1~2日常温に置き、その後は冷蔵庫で保存する。

冷凍保存する場合は、鱗片に分解し、皮をむかずに冷凍し、使う時に皮をむき、冷凍のまま刻んだり、すりおろしたりして使う。冷凍すれば1年ほど保存できる。



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プロフィール

Author:水田 祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在66才、農業歴30年目。農業形態はセット野菜の宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ20羽。子供の頃、家は葉タバコ農家であり、脱サラ後の3年間は父が健在だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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